清洲同盟の謎と竹千代双子説

清洲同盟は、織田信長徳川家康が結んだ同盟である。

この清洲同盟の立会人を務めたのが、当時はまだ織田家の重臣として行政官の能力を発揮していた林秀貞(はやしひでさだ)である。

その同盟が、戦国時代に珍しく永く裏切られなかったばかりでなく、酷く固い絆に結ばれていた。

その発端は、松平元康(竹千代)が人質として織田家にやって来た事から始まった。

やがて松平元康(竹千代)は、織田信広との人質交換によって今川家の人質になるのだが、実は同時進行で織田家の手元で育った別の松平元康(影・竹千代)が存在した。

そんな話、「とんでもない奇想天外な説だ」と思うかも知れないが、固定観念に囚われないで感性を働かせて欲しい。

有りそうな謀(はかりごと)では誰でも直ぐに見当が着き、謀(はかりごと)とは言えない。

謀(はかりごと)は、「まさか?」と言うもので無ければ成功しないのである。

織田と今川に挟まれた弱小大名の松平家にとって、「竹千代が二人居た事」は、幸いだったのかも知れない。

この元康別人説が本当なら、築山殿との不仲別居、信長との同盟関係維持の為に長男・松平信康を殺害など「口に出しては言えない」身内の葛藤があっても不思議は無い。

幾ら一卵性双生児とは言え、我輩の推論通りに松平竹千代双子説であれば正室の築山殿を「寝屋」で騙す事は出来ない相談である。

この松平元康と築山殿の不仲別居の理由が、夫が今川から寝返った事ではなく、夫が別人に成っていたのなら幾ら戦国の妻でも、そのまま夫婦を続けるには余りにも許容の範囲を超えて居たのだ。

入れ替わった元康に本当の子供が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考えると、側室・於万の方の胎になる結城秀康の次の三男・秀忠からであれば、信長の命による殺害説よりも、近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?

世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた事になりそうである。

そして元康(家康)が、歴史の場面場面で遭遇した数々の誘惑にも負けず、一貫して信長との臣下に近い同盟関係を堅持した理由が、この双子元康(家康)入れ替わり説に拠る織田信長への「恩義」なら大いに説得力があるのだ。

さらにもうひとつ、家康には清洲同盟を堅固なものにした信長を慕う幼い頃からの思いがある。

織田信長と松平元康(徳川家康)は、「肉体的に情交を結んだ。」と言う特殊な関係に於いて信頼関係を構築していた。

信長と元康(徳川家康)の間には、「固い誓約(うけい)」の絆(きずな)が、この同盟関係の根底に存在した。

つまり影・竹千代が織田家の庇護のもと成長して信長の思惑通りに松平家を継ぎ、頼れる同盟関係を成立させたのである。

朝廷から三河国主と認められ三河守・徳川家康を名乗って二年、千五百六十八年(永禄十一年)には今川領の遠近江国(静岡県西部)を狙って、今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結び今川家滅亡を目指す。

同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。

遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れて来た今川氏真を匿う掛川城を包囲して攻め立てる。

籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った徳川家康は、三河・遠江二ヵ国の国主となって千五百七十年(元亀元年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬城に移し、その地に改めて浜松城を築いた。

同じ年(永禄十一年)盟友の織田信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府十三代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。

この信長上洛に際して、家康は上洛軍に援軍を派遣するとともに、三河・遠江に在って後方の抑えを任じ、周囲の反信長勢力を浅井長政とともにけん制している。

さて下克上、天下取りの乱世で、本来なら二ヵ国の太守に成った徳川家康が、この辺りから次の一段高い欲を出しても不思議がない。

現に足利義昭は、天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成し、家康にも副将軍への就任要請を餌にして協力を求めて来る。

ところが、家康はこうした誘惑を黙殺し、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦して信長を助けている。

徳川家康が「清洲同盟」に心情的思いを抱いてこれだけ織田信長を信頼し慕っていた理由はいったい何んだったのだろうか?

織田信長の才能に心服していた事もあろうが、今ひとつ両者の間に心情的な深い繋がりがあったのではないだろうか?

そう考えると、在る事が浮かんで来る。

井伊直正は、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝榊原康政と肩を並べるように成る。

この徳川家康の男色(衆道)は、何時(いつ)どこで覚えたのだろうか?

或いはこの事が、徳川家康が同盟相手として最後まで織田信長について行った理由のひとつかも知れない。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

氏族の支配者の心得として、男色(衆道)は一般的だった。

織田信長が濃姫(帰蝶)と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。

信長は十六歳、濃姫は十五歳で、当時人質として尾張織田家に居た竹千代(後の家康)は八歳だった。

前田利家森欄丸と相手がいた織田信長にとって、人質としてやって来た八歳年下になる松平竹千代を「深く可愛がっている」となれば、ただの年下の弟分で「済まされた」とは思えない。

稚児小姓のお召しは数えの十歳前後だから、幼少期の竹千代(徳川家康)が織田信長から衆道の手解(てほどき)をされていても不思議は無い。

元々武門に於ける稚児小姓相手の男色には、主人への特別な忠誠心を育成する意味合いが在り、満更、唯の性的嗜好ばかりと言う訳ではない。

どうやらこの徳川家康の信長への忠誠心を推し量るに、平手氏源氏流新田氏系・世良田流「得川(徳川)家」を継いだ松平竹千代の影の方は、今川氏の人質と成った松平竹千代の正の方とは双子の別人で、そのまま平手氏の養子として信長の「衆道相手を務めていたのでないか」と疑えるのである。

家康別人説については、この双子説以外に影武者説なども在るが、血統が繋がらないまったくの他人であれば一度は父・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁された家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏を家康が重用する筈が無い。

つまり影武者入れ替わり説では、水野氏重用の説明が着かないのだ。

水野氏については、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれると徳川家康・生母の実家として嫡男・水野信元(於大の方の兄弟)は家康の今川家からの独立を支援し、信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介するなど身内らしい動きをして居る。

豊臣秀吉の死後家督を継いだ水野信元の嫡男・水野勝成と四男・水野忠清は共に家康に仕え、勝成は備後福山藩・下総結城藩水野家の祖となり、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となり、徳川政権の幕閣に要職を得ている。

また水野忠政四男・水野忠守(水野信元の兄弟)は出羽山形藩水野家の祖であり、さらに水野忠政八男・水野忠分の子・水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家と紀伊新宮藩水野家の祖である。

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by mmcjiyodan | 2008-06-14 23:04 | Comments(0)  

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