熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)

七卿落ち(八月十八日の政変)でやむなく都を追われた公家三条(実美・さねとみ)卿ら七卿は、久坂玄瑞(くさかげんずい)の案内で長州に下向したのだが、真っ直ぐ萩(はぎ/長州藩藩都)には向わなかった。

向かったのは、長州藩二ヶ国の内、周防国・熊毛郡田布施の高松八幡宮だった。

七卿筆頭の三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿は、逃れた長州の地・田布施で松陰派(吉田松陰門下生)に「ある人物」と引き合わされて、そのまま滞在している。

伝えられる所に拠ると、落ち延びた一行を田布施で待ち受けてその「ある人物」を七卿に引き合わせたそれが、吉田松陰(よしだしょういん)門下の伊藤博文(いとうひろぶみ)井上聞多(いのうえたもん・井上馨/いのうえかおる)だった。


山口県(周防)南東部瀬戸内海沿いに田布施町はある。

田布施町は現在でも人口一万七千人ほどの小さな町だが、実は此処から日本の近代化は密かに始まった。

つまりこの田布施町の高松八幡宮が、七卿が逗留し松陰派の長州若手指導者達と皇政復古の産声を上げた所である。

そしてこの高松八幡宮の僅か北東に浄土宗の西円寺と言う寺があり、その傍(かたわ)らに南朝・後醍醐天皇の末裔を名乗るこの大室家はあった。

七卿が逗留した高松八幡宮と、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まいが至近距離にあった事実に、偶然はありえない。


七卿落ちの公家達が長州の地で滞在した高松八幡宮は、田布施町大字麻郷に在る。

そして三井賀茂神社(みいかもじんじゃ)は、田布施町に隣接する光市の三井(みい)に在る。

八咫烏(ヤタガラス)は太陽の表面に現れる神であるから、神武東遷記における「八咫烏神話(賀茂葛城)」に、神武大王(じんむおおきみ)の先導役として登場する八咫烏(ヤタガラス・賀茂・葛城)の伝承が、この三井(みい)賀茂神社にも存在する。

その事から、賀茂・葛城が太陽(神武大王)の東遷随行者として「大和朝廷成立に貢献した有力一族」と考えられる。


熊毛郡田布施町大字宿井に、天然記念物の「宿井はぜの木」の大木がある。

この「宿井(宿居)」の字名の意味する所は、皇子の仮の居場所(仮御所)の事ではないだろうか?

明治政府が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行なって、根強く信仰されていた全国の妙見系の神社を抹殺した事は、単に神仏習合策を改め、天皇神格化を狙ったものだろうか?

長州が妙見信仰の聖地であり、同時に、皇統の或る疑惑の地でもある事から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に絡め、何らかの証拠隠滅を図った疑いも浮上して来るのである。


明治天皇(第百二十二代天皇)は、孝明天皇の第二皇子である。

父・孝明天皇から親王宣下を受け立太子を宣明し、幕末の動乱期に皇太子・睦仁親王を名乗り、後に若くして皇位について居る。

所がこの明治帝(睦仁親王)については、明治維新の前後では「全くの別人だった」と言う証言が存在する。

この親王入れ替わりの疑惑に、現在の当局としては「相手にするに値しない」と言う判断なのか、徹底的に無視した状態で、否定も勿論肯定もしていない。

現在の位置付けでは、この疑惑は単に巷の噂に過ぎないが、睦仁親王(京都明治天皇)には無かった「あばた」が、明治天皇には「あばた」が有り、右利きだった睦仁親王(京都明治天皇)に対し、「即位した明治天皇(東京明治天皇)は左利きである」とその違いが指摘されている。

こうした話は、事実ではないかも知れないが、その噂話が存在する事は事実である。

また、このとんでもない噂が本当なら、七卿筆頭の三条実美(さんじょうさねとみ)と長州藩の描いた陰謀に、同じく過激派公家の岩倉具視(いわくらともみ)が参画、朝廷での「迎え入れ工作を担当した」ものと思える。

後に明治の元勲と言われる維新の立役者は、大方この事実を知っていた事になる。

そして、彼らにはそれが正義だった。

吉田松蔭に大室家の存在を教えたのは、田布施町出身の総理経験者・佐藤栄作氏の曾父・佐藤信寛(さとうのぶひろ)氏との接点が有望である。

岸、佐藤、両首相経験者の曾父・佐藤 信寛(さとう のぶひろ )は、山口県熊毛郡田布施町に長州藩士・佐藤源右衛門の嫡男として生まれている。

佐藤信寛(さとうのぶひろ )氏は、藩校・明倫館にて山県太華に学び、江戸に出て清水赤城に長沼流兵学を修め、吉田松陰に兵要禄を授けていて、学問的には松蔭の恩師筋にあたる。

信寛(のぶひろ )氏は、維新時の長州藩士であり、維新後は知事、県令の官職にも就いていた。

こうした権力の裏側を勘繰れば、維新政府の有力者に南朝・大室家の地元有力者が抜擢され、後に「何名もの首相や首相候補を輩出したのではないか」と、疑えるのである。

つまり南朝・大室家は、多くの野望をも集めて中央に担ぎ出され、「それに上手く乗って栄えた家が在った」と言う事に成るのだ。

勿論、むしろ「南朝の方が正統だ」と言う思いが強い我輩としては、北朝天皇から南朝天皇へ入れ替わったとしても正統な皇統であるから、今の皇統が偽者だと言う気は更々に無い。

この陰謀、吉田松蔭が画策して松陰刑死後は義弟の久坂玄瑞(くさかげんずい)が引継ぎ、玄瑞の討ち死に以後は伊藤博文と井上馨等が引き継いで事を進めた。

これは表ざたには出来ない世紀の大陰謀で、徳川家の新政府入りを画策した坂本竜馬は、この入れ替わりの秘密を守る為に倒幕派に暗殺された可能性を棄て切れない。

また、龍馬と一緒に襲撃された中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、一時田布施で三条実美(さんじょうさねとみ)一行の衛士を勤めていた。

同じく松平春嶽は、その事を知るが故に維新の功労者で有りながら維新後の表舞台から退いているのかも知れない。


これはあくまでも「とんでもない噂話」である。

しかし下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの小さな町々から、明治の元勲と称される伊藤博文(いとうひろぶみ)を始めとして三人もの総理大臣を輩出している。

不思議な事に、岩徳線と言うJR線は直線的近道を走っているのに対し、主幹線である山陽本線は遠回りに海岸沿いに大きく迂回、複線電化のメインルートになって人口の少ない田布施町を停車駅にしている。

この田布施町、文献によると、南朝の系図を有する「大室家」が、数百年に渡って、大内家とその後の毛利家から庇護され居住していた土地である。

公古文書には意図して事実を隠す為に書かれた物もある事から、別の古文書にポツリと浮き上がる「南朝系図」は史実を追う上で重要な考慮点と成る。

室町期に「乗っ取り足利義満朝」の噂あるものの、明治天皇(めいじてんのう)・睦仁(むつひと)は北朝系の天皇である。

それが維新で大権を握った途端に「南朝正統」を言い出し、南朝方忠臣・明治復権を為している。

つまり「南朝系図」の大室某と言う隠された事実が在りながら、「そんな突飛な事は考えられない。」と安易に否定してしまって良いものだろうか?

この小さな田布施町から、戦後ふたりの総理大臣が輩出されている。

岸信介氏と佐藤栄作氏で、今に繋がる後裔が、言わずと知れた山口県の名門世襲代議士家の安倍家である。

首相経験者の橋本竜太郎氏も「二代遡ると大室家と縁がある」と言われている。

つまり、玉(ぎょく)を握っていた長州が、他の維新三藩を大きく引き離し、維新以後の政治に大きな勢力を持ち、政権担当者(総理大臣)を多数排出する事になる。

巷に流れる噂話が真実なら、南朝こそ正統な皇統であり、今の皇室も「密か」に正統と言える。

岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた毛利藩毛利(長州)藩士の名家で、その支配領域に田布施があり、佐藤家も、毛利(長州)藩士として、七卿落ちの滞在地・田布施に在地している。

その両家が、同じ田布施の大室家と、永い歳月の間に婚姻関係を含む「接点が無い」とは考えられず、隣接する光市(熊毛郡束荷村字野尻・現山口県光市束荷字野尻)出身の、総理大臣を四回も勤めた伊藤博文元首相を含め、少なくとも「縁戚関係の可能性がある」と考えられる。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に生まれ 、六歳まで過ごした生家は熊毛郡田布施町に残っている。

吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作井上馨(聞多)らと倒幕運動に加わり、維新成功後は初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた明治期の元勲である。

伊藤の生まれ育った山口県光市束荷字野尻は、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まい、山口県熊毛郡田布施町とは隣接地である。

この熊毛郡・田布施町に隣接する現在の光市の前身に古い地名として光井村や室積村が在ったのだが、これが良光(ながみつ)親王や大室家と関わりが在る地名の可能性がある。

また、田布施町を根元として瀬戸内海に突出した半島・熊毛(くまげ)半島は、古くは室津半島とも言う。
これらの地名、やはり偶然の一致と言うには出来過ぎの感が在るのだ。


大室家の出自に疑いを持ち「調べた結果百姓の出」など非難する者が居るが、それは余りにも歴史に未熟な証である。

そもそも論から言えば本姓の百姓は氏族であり、ましてや毛利家・長州藩に在って維新以前より立派に「大室と言う氏姓(しせい)を永く名乗って居る」と言う事は、長州藩が認める家系を大室家が有していた事になる。

この大室の意味だが、後醍醐帝の南朝を退けて足利尊氏が起こした「室町幕府拠りも大なりの意味」と穿(うが)って見たが、我輩のこじ付けだろうか?

伊藤が、四度(四回)も内閣総理大臣を勤めた他、新政府の要職に在り続けた理由の一つに、吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が「大室某を養育していた」と言う彼の経歴にあるのではないか?

これらの多くの縺(もつ)れた糸の全てが、熊毛郡・田布施町(たぶせちょう) で一つに繋がっていたのだ。


戦後政治に大きな足跡を残した元首相の岸信介氏は旧姓佐藤で、同じく元首相の佐藤栄作氏の兄である。

岸信介・佐藤栄作両元首相を輩出したのがこの山口県熊毛郡田布施町で、岸信介氏は父・佐藤秀助、母・茂世の次男として生まれた。

佐藤秀助の父親は、佐藤信寛(さとうのぶひろ)と言う長州藩士で、維新後は島根県令まで務めた新政府の官僚だった。

佐藤家は士族であり、維新後は酒造業を家業としていた名家だった。

曽祖父・信寛は長州藩士として長沼流軍学を修め、明治になると浜田県知事、島根県・県令等を務め、祖父・信彦は漢学者であった。

父・秀助は、元山口県庁官吏であり、岸家より佐藤家に婿養子として入り、その次の代に次男・信介を岸家に養子として戻した事になる。

佐藤家から岸信介氏が養子に行った岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた名家である 。

元首相の佐藤栄作氏は実弟、兄の佐藤市郎氏は海軍中将である。

長男の岸信和氏の妻・仲子は元山口県議会議長で山口県政界の大物・田辺護の次女で、まさに政界一家である。

岸信介氏娘婿の安倍晋太郎氏は岸氏と同じく自民党幹事長を務め、その息子で岸の外孫に当たる安倍晋三氏も、現在有力な首相候補である。(注・安倍晋三氏は、この小説脱稿後首相に就任している)

ちなみに安倍晋三氏の弟・岸信夫氏(参議院議員)は、岸信和の養子となって岸家の方を継いでいる。

明治天皇(めいじてんのう)・睦仁(むつひと)】へ続く。

詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】をお薦めします。是非参照下さい。

関連小説【松下村塾々生・維新顛末記】を参照下さい。

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明治維新(隠された明治維新)】に戻る。

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隠された明治維新については第五巻の明治維新の項目の主要テーマです。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れませんので、詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第五巻をお読み下さい。

第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-06-29 05:06 | Comments(1)  

Commented by mic at 2012-08-25 23:39 x
googlemaps と yahoo maps で この田布施町の麻郷の付近を調べてやろーとしたが、不可能!!

Yahoo では 地図、航空写真共に 拡大する事は出来ず、地図を拡大しても、麻郷のあたりだけは "no maps" と ブランクになってしまう。 

Googleでは写真は現れるけど、地図の方は建物無しの道だけになってしまう。 つまり、あの辺の詳しい地図は存在しないと言う事だ。 

地図に載せられない場所ッちゅうのは、一体何を意味しているのだろうか!! うーむ、これは、怪しい . . . .

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