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妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)

明智光秀の妻明智煕子(ひろこ)の実家は美濃国・妻木郷・・・妻木氏(土岐氏庶流・妻木氏)当主は妻木勘解由左右衛門範熙、(つまき・かでの・そうえもんのりひろ)、勘解由(かでの)小路党の棟梁家である。

光秀と煕子(ひろこ)の二人が夫婦になったのは、明智光秀二十二歳、妻木(勘解由/かでの)熙子(ひろこ)は十六歳、時は千五百四十九年(天文十八年)の秋だった。

現代の世間では余り気付かれて居ないが、勘解由(かでの)・妻木氏には謎が多い。

妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、美濃の国妻木郷に妻木城を構えた郷士武将の家である。

天下の秀才・明智光秀が、所謂(いわゆる)閨閥(けいばつ)造りの相手に選ぶには一見地味過ぎる小郷士の相手に見える。

だが妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、その外見からは想像出来ない隠れた力を保持していたのである。

この妻木家、実は源氏土岐氏庶流・明智家の枝とされているが、本姓を名門の勘解由(かでの)と名乗り、朝臣(あそみ)は三河松平家(徳川家)と同じ賀茂朝臣(かもあそみ)である事を見逃している研究者が多い。

すなわち妻木家が土岐氏庶流であれば本姓は源(みなもと)と名乗り、朝臣(あそみ)も源朝臣(みなもとあそみ)の筈であるが、妻木(苗字/名字)勘解由(かでの・氏/ウジ)賀茂朝臣(姓/カバネ)由左右衛門範熙(そうえもんのりひろ・名/名前)が正解で、源姓は名乗っては居ない。

明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木氏は、賀茂朝臣(かもあそみ)勘解由(かでの)で、三河松平家とは「同じ賀茂朝臣(かもあそみ)」と言う事になる。

どうやら妻木家が、土岐・明智の強い土地柄に在って血縁も深かった為に「源氏土岐氏庶流・明智家の枝」とされたようである。

ここが肝心のところで、賀茂朝臣(かもあそみ)・勘解由(かでの)を、以前よりまともに理解しているかこの物語を最初から読んでいなければ、江戸期以後の徳川幕府体制の為に創作された文書(もんじょ)に踊らされて、妻木氏出自について大きな間違いを起こす事になる。

明智光秀は、妻・煕子(ひろこ)ともに、勘解由(かでの)・妻木氏の持つ勘解由(かでの)小路党の諜報能力を手に入れたのである。

その妻木家は、明智光秀が南光坊として作戦参加した関が原で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残り、明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。

光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄に所領を有する妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。

光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)の実家・妻木家や親戚の遠山家も同様だが、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれていた。

この妻木(勘解由)家や遠山家が、徳川家の本当の旗本ではない外様の小領主(所領の禄高が一万石以上の大名ではない)にも関わらず、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合」格として旗本格内に置かれ、江戸期を通じて格式と体面を守られた事は、何か特別な理由が無ければ説明が着き難い。

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by mmcjiyodan | 2008-07-07 02:31 | Comments(0)  

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