禁門の変(きんもんのへん)

蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれる禁門の変(きんもんのへん)は、幕末動乱期に孝明天皇をめぐる守護(陣営抱え込み)で対立した尊攘派の長州藩々兵と佐幕派の会津・桑名・薩摩各藩の禁裏(御所/皇居)守備隊が武力衝突した事を指して呼ぶ。

尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、前年の千八百六十三年(文久三年)に会津藩と薩摩藩が協力した「八月十八日の政変(七卿落ち)」で京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っていた。

巻き返しを図る長州尊攘派は京や大坂に潜伏し、密かに復権工作の行動を続けていた。

元治元年に入ると、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等に拠って孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられ、それに反対及び慎重派の桂小五郎(木戸孝允)高杉晋作などと対立、長州藩内も藩論が割れていた。

千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、池田屋事件新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされ、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等積極派が勢い付き、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努め、高杉晋作は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得するが容れられず脱藩して京都へ潜伏する。

脱藩した高杉晋作は、桂小五郎(木戸孝允)の説得で二月には帰郷するが脱藩の罪で野山獄に投獄され、六月には出所を赦されて謹慎処分となる。

一方薩摩藩の西郷吉之助は、千八百六十四年(元治元年)三月、村田新八を伴って鹿児島を出帆し、京都に到着して薩摩藩兵・軍賦役(軍司令官)に任命される。

京都に着いた西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。

そこで藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採る事で、この難局を乗り越え様とした。

この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。
攘夷派は攘夷と唱えながら、二枚舌で外夷と通商している事自体を怒ったのである。

その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が相次いで起きている。
千八百六十四年(元治元年)四月、藩政改革派の西郷吉之助は小納戸頭取・一代小番に任命された。

池田屋事件からまもない六月、強硬派の長州懐柔の為朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。

高杉晋作が投獄されている間も急進派の勢いは止まらず、積極派の三家老(福原越後・益田右衛門介・国司信濃)派は、討薩賊会奸(とう・さつぞく・あいかん/薩摩と会津)を掲げて挙兵してしまう。

家老・益田右衛門介や久坂玄瑞(くさかげんずい)等は山崎天王山宝山に、家老・国司信濃や来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、家老・福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めてそれぞれに陣営を構える。

しかし迎え撃つ会津藩と薩摩藩もこの事有るを想定し、京都守護職であった会津藩主・松平容保は薩摩藩・西郷隆盛等と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を既に整えていた。

この長州藩の行動に、朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(後の十五代将軍・徳川慶喜)は長州勢に退兵を呼びかけるが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突「禁門の変」が起こる。

これに対し、西郷吉之助も一時は「薩摩が長州ば相手に兵を出すんは、よろしくありもはん。」と、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、七月の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。

しかし、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、「天子様お守りのこっは、おいが引き受けもす。」と、西郷・伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した。

この時、西郷吉之助は銃弾を受けて軽傷を負っている。この事変で西郷らが取った中立の方針は、長州や幕府のいずれかが朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸(さつぞく・あいかん)」の思いが強くなった。

結果、尊皇攘夷を唱える長州勢は大敗を喫して壊滅、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎ら尊攘派の主力は戦死した。

この変事の由来となった「禁門」とは「禁裏(御所/皇居)の御門」の略した呼び方である。

蛤御門の変とも呼ばれるのは蛤御門付近が激戦区であった為で、蛤(はまぐり)御門の名前の由来は、「天明の大火」の際にそれまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤(はまぐり)に例えられた為である。

禁門の変(きんもんのへん)の戦闘後、京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われる。

落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち、会津勢も長州藩士の潜伏を理由に中立売御門付近の家屋を攻撃し、二ヵ所から上がった火が京都市街に広がって北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広範囲の街区や社寺が焼失している。

この禁門の変が、「御所へ向けて発砲した朝敵」として第一次長州征討を行う切欠になる。

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by mmcjiyodan | 2008-07-29 14:47 | Comments(0)  

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