人気ブログランキング | 話題のタグを見る

源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)

源頼朝落馬事故(???)で亡成ると、二代目征夷大将軍に、頼朝の嫡男「頼家」が跡を継ぐ、勿論、頼朝と政子の長男である。


北条政子(ほうじょうまさこ)北条時政(ほうじょうときまさ)北条義時(ほうじょうよしとき)など北条家の一族は、二代将軍・源頼家の権力を北条家が剥奪する体制鎌倉幕府十三人の合議制・・・を画策、成立に成功する。



頼家の代に成ると、北条時政はいよいよ政権内で力を持ち、鎌倉幕府十三人の合議制(宿老会議/有力御家人十三人の合議制)を設けて、政務の実験を握るようになる。

何しろ、将軍は自分の孫である。

頼家が将軍に成って二・三年の間に、有力御家人の梶原氏や城氏の反乱が有るが、時政が鎮圧している。

権謀術策で政敵を追い込んで行くのが、北条父娘の邪魔者排除の手口だった。

梶原景時ら梶原一族は、桓武平氏の血筋ながら石橋山で頼朝を助けて四ヶ月後、源頼朝に乗り換えて成功し、頼朝の信任厚く鎌倉幕府初代侍(さむらい)所の所司(ところつかさ)となった。

頼朝死後も鎌倉有力御家人、十三人のメンバーの一人に数えられていた。

しかし、世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、彼が動けば地方武士が集まる危険があった。

この北条に対抗できる梶原景時の勢力は、時政に取って見るからに危険だった。

「今のうちに、芽を摘んでしまおう」と、時政は思ったのだ。

それで、六十六人の御家人連判状で、景時を弾劾する。

窮地に落ちて京に逃げようとした梶原一族を、駿河の国(今の静岡県中部)で、まんまと地元武士に討たせている。

政権も軍事力も、現実的には「時政」が掌握していたのだ。

父・頼朝の落馬死(??)により千百九十九年(正治元年)に家督を継いだ鎌倉二代将軍・源頼家には正室は居なかった。

一般的に妾妻とされる将軍・頼家に寵愛された「若狭の局(わかさのつぼね)」は、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(ひきよしかず)の娘である。

比企氏が頼朝源氏との関わりが深かった為に権力の中枢に近づき、結果、北条氏と比企氏が鎌倉幕府の指導権を巡ってぶつかる事になる。

父の事故死(?)で家督を相続したニ代将軍・頼家が跡を継いだ時は若干十九歳、利発で若さに溢れていた。

ニ代将軍・頼家が、父・頼朝と同じ将軍独裁の体制を整えようとした矢先の千二百三年(建仁三年)、頼家二十二歳の時に突如として罹病、危篤に陥る。

この異変を、近親者の何者かが関与した可能性(暗殺陰謀)を否定出来ない所に、この時代の非常冷酷さが伺えるのだが、「母・政子が関与していた」と言う証拠は無い。

いずれにしても、この頼家の一時危篤を期に北条時政・北条政子の野望が噴出、世継ぎ(相続議)の会議を開く結果と成り、若狭の局が頼家との間に成した子・一幡の相続を主張、北条時政と母政子(時政の娘)が、頼家の実子・一幡(いちまん)と弟実朝(千幡)に分譲する案を出して対抗し、北条氏と比企氏との対立が鮮明に成って、頼家と若狭の局を劣勢に追い込む事となった。

幸い危篤だった将軍・頼家は一命を取り止め、病が癒えて復帰したものの、既に遅かった。

老臣会議制を敷かれて将軍独裁権限は奪われた後で、老臣会議制を主宰する北条時政の専横に、頼家は将軍とは名ばかりの立場に置かれ居たのだ。

将軍・頼家は、失意と共に北条氏への怨念と復讐の炎を燃やす。

源氏の実権の回復に努め、北条父娘の圧倒的勢力に対抗して、頼るは有力御家人の一人、妻(若狭)の自家・比企能員(ひきよしかず)と比企一族だった。

北条政子が我子である頼家に敵対した訳は、「若狭の局」を寵愛する頼家をめぐる嫁姑の確執に止まらず、北条氏と比企氏と言う氏族の論理が根底に有ったからである。

若狭の局が頼家との間に成した子・一幡が正式な後継ぎになると、比企氏の力が北条氏を上回りかねない。

危機感を募らせたのは北条時政・政子の親子で、政子はこの時に我が子・頼家を除く決意をした。

これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員(ひきよしかず)と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化して行った。

妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、武力行使も準備していたのだが、返えってそれを察知され、「頼朝の法事」と称して時政邸に招かれた能員(よしかず)は、一族の反対を押し切って疑いも持たず時政邸に行き、待ち構えていた時政の家人に首を刎ねられて討ち取られてしまった。

同時に比企一族も北条方の義時・泰時親子に攻撃を受け、小御所(一幡の館)に篭城し抗戦するが、頼家の実子・一幡(いちまん)は焼き討ちにされて殺され、結果比企氏は時政に滅ぼされ、頼家は退任させられて叔父・源範頼(みなもとのりより)同様に伊豆国・修禅寺に流され幽閉されてしまった。

伊豆の修善寺に流され、幽閉されていた二代将軍・源頼家は、翌年の千二百四年(元久元年)に北条時政の密計により、伊豆国修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯に於いて二十三歳と言う若さで刺客に暗殺された。

頼家の将軍在位は僅か四年であった。

源実朝(みなもとさねとも/鎌倉幕府三代将軍)と鶴岡八幡宮暗殺】に続く。

関連記事
比企能員(ひきよしかず)の変】に飛ぶ。
若狭の局】に飛ぶ。
源氏流諸系詳細(げんじりゅうしょけいしょうさい)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2008-08-23 18:40  

<< 源実朝(みなもとさねとも/鎌倉... 「沢田の大蛇退治 」伝説 >>