坂本龍馬(さかもとりょうま)明智氏末裔説

坂本龍馬(さかもとりょうま)は、江戸時代末期の土佐藩士である。

龍馬は通称で、本名は坂本直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)他に才谷梅太郎などの変名がある。

その出自であるが、坂本家が主君に差し出した「先祖書指出控」には、「先祖、坂本太郎五郎、生国は山城国、郡村未だ詳らかならず、「仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住致す」とある。

この仕声弓戦之難が、千五百八十五年(天正十三)の豊臣秀吉に拠る紀州(根来衆・雑賀衆)征伐であり、長岡郡才谷村(高知県南国市才谷)が、雑賀伊賀根来、の落人達が住み着いた所である。

勿論、山崎の合戦に敗れた明智光秀一族の一部が共通の敵を持つ根来衆・雑賀衆と同じ才谷村(高知県南国市才谷)に隠れ住み着いても不思議は無い。

しかし、土佐才谷村での坂本家は、千五百八十八年(天正十六年)才谷村の検地では「坂本」の名は見えず、村の三番目の百姓として登録されているに過ぎない。

二代目彦三郎、三代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。

従って三代目太郎左衛門までは、公認の名字をもたぬ有姓階層の百姓身分と考えられる。

有姓階層としての百姓家が、坂本龍馬の先祖・才谷家である。

四代目守之、五代目正禎は才谷村の字(あざ・地名)の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。

千六百六十六年(寛文六年)三代目太郎左衛門の次男・才谷八兵衛は高知城下に出て、屋号を「才谷屋」と言う質屋を開業して次第に力を着け、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。

その後才谷(大浜)家は、千七百三十(享保十五年)頃に本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるに到った。

龍馬の五代前、商家・才谷屋(才谷六代目・大浜姓)直益は、千七百七十年(明和七年)に郷士の株を買い長男の大浜直海に坂本姓を名乗らせている。

明智氏傍流を名乗り、「明智氏所縁の坂本を姓とした」と言う。

これで漸く、土佐才谷郷にたどり着いた百姓家が、名字帯刀、即ち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分に成ったのである。

その後の、坂本直海の孫の代に白札郷士・山本覚右衛門の次男を坂本家の養子に迎え、坂本直足(さかもとなおたり)とした。

坂本直足(なおたり・八平)の次男が坂本直陰(なおかげ・龍馬)である。

なお、坂本直足は土佐屈指の豪商の側面も持ち合わせている。

坂本家は桔梗紋を家紋として用いており、明智氏の一族で「明智秀満(明智光秀の重臣・三宅秀朝の子で光秀の次女と婚姻、義理の息子にあたる)」の末裔であると坂本家(才谷家)には伝えられているが真贋の程は不明である。

唯一明智氏の居城が坂本城である事から、この坂本家の伝に僅かな関わりを感じるだけである。

しかしながら坂本家の精神として、坂本龍馬に明智氏の思いを抱かせていた事は否定出来ない。

父は土佐藩郷士・坂本八平(直足/なおたり)で龍馬は次男、母は幸。兄は権平、姉は千鶴、栄、坂本乙女(おとめ)が居る。

妻はおりょう(本名は楢崎龍子)、故郷の土佐(高知県)には「婚約者の千葉さな子も居た」とされる。

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by mmcjiyodan | 2008-08-26 02:32 | Comments(0)  

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