山城・稲葉藩(淀藩)

林政秀の子、林 正成(はやしまさなり)は、戦国時代江戸時代の武将で、はじめ豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の命を受けて小早川氏に養子として入った小早川秀秋の家臣となり、秀秋を補佐した。

千六百年の関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に貢献した。

しかし、千六百二年、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると、林 正成(はやしまさなり)は浪人となって不遇を囲っていた。

関が原で大勝し徳川の天下が固まると、斎藤利三の娘お福徳川家康の勧めで嫁に行く事になる。

家康が選んだ相手は、林 正成(はやしまさなり)だった。
お福は美濃の稲葉重通の養女となって、正成を稲葉家の婿に迎える。

美濃国の稲葉氏と林氏は元々同族で、伊予国(愛媛県)の河野水軍の一族である。

河野水軍は源平合戦においては河内源氏の流れを汲む源頼朝の挙兵に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。

鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退した。

その後、南北朝時代には九州の南朝勢力であった懐良親王(かねなが)に従い南朝に属したが、室町幕府に帰服している。

林 正成(はやしまさなり)は稲葉姓を名乗り、後に家康に召し出され、以後は徳川氏の家臣として仕えた。

稲葉 正成(いなば まさなり)は、千六百七年に家康の命により、旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ大名に列した。

お福の方は、一万石の小領主の妻の立場で推されて三代将軍家光の乳母となり、「春日の局」と呼ばれて大奥はおろか、幕政にも影響を与え得る立場に昇格する。

余りにも出来過ぎた話で、これは間違い無く家康に引かれたレールの上を乗って行った結果としか考えられず、正成とお福に対する家康流の処遇だった。

この一連の動きは、当然のごとく二代将軍・秀忠天海僧正の言わば明智閥(あけちばつ)形成への画策の要素も多分にあった。

お福(春日局)には稲葉正成との間に正勝、正利の二男があったが、彼女が正成と離婚した形を取り、三代将軍家光の乳母となった時に正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、千六百三十三年に加増を得て小田原八万五千石を所領し、小田原城主となっている。

この時の小田原藩領は相模の足柄上、足柄下、淘綾(ゆるぎ)、大住、三浦郡で、約五万石、駿河の駿東郡一万三千石、伊豆の賀茂郡三千石、下野芳賀郡に二万一千石、常陸新治郡五千石、武蔵豊島郡、新座郡に二千石、などであった。

しかし、翌年に三十八歳で死去した時嫡子の正則はわずか十一歳だったが、春日局の計らいで、特例の斎藤利宗(春日局の兄)を後見人として相続が許された。

相続した正則は四歳で生母に死別した為にお福(春日局)に育てられたので、孫と言うよりは実子も同然で、家光にも可愛がられ四代将軍家綱には老中として仕え、千六百八十年には十一万石の増石を見、都合十九万五千石まで膨れ上がった。

三代将軍家光の乳母、大奥総取り締まり「春日局」の子であるから、子供の稲葉正勝が家光の小姓に登用され、三代将軍家光の代に老中に登用されても不思議ではない。

しかし、一時期家康の寵愛を受けたお福(春日局)である。

穿(うが)った考えだが、林(稲葉)正成と婚儀を結びし時、既に「お福(春日局)の胎が膨らんでいた」と言う事なら、稲葉正勝は徳川家康のご落胤である。

親藩として八万五千石を所領し、その次の代には十一万石へ加増されてもそれこそ違和感が無い。

三代続いた稲葉小田原藩は、稲葉正通(まさみち・正往)の代も京都所司代の幕職を務めた。

正通(まさみち)は、その後政争に敗れて越後高田領に移されが、後に復活して下総佐倉を領し父の正則同様に老中職を勤めている。

この末裔が淀藩稲葉家で、幕府内では代々京都所司代や老中職と言った要職を歴任している。

幕末時の藩主稲葉正邦(いなばまさくに)は、山城国に移封された淀藩稲葉家十二代目当主であり、最後の藩主であるが、稲葉正誼の元へ養子入りした。

正邦(まさくに)は、二本松藩主丹羽長富の次男で、幕府内では京都所司代・老中職も務めたが、譜代の城代家老田辺家などの藩重役首脳部とはうまく行かず、京都朝廷と譜代重臣達との「賀茂の錫杖密約」の成立により勝手に朝廷に恭順されてしまう。

この時、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた稲葉正邦は、自らの藩が「自らの決定無くして幕府に反旗を翻す」と言う事態に遭遇、結局淀へ退去する事となる。

稲葉家はその後も新政府に対する恭順の姿勢を貫き、正邦は子爵に叙任され、千八百八十五年には神道本局(神道大教・しんとうたいきょう)初代管長となっている。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

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by mmcjiyodan | 2008-10-02 01:54 | Comments(0)  

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