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中臣氏(なかとみうじ)と藤原氏(ふじわらうじ)

中臣氏(なかとみうじ・臣王)は天児屋命(アメノコヤネ)を祖とし、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点とする古代の日本に於いて忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で姓(かばね)は連(むらじ)である。

仏教伝播の折には物部氏と同様に神事・祭祀を司取る立場から、物部氏ともに仏教受容問題で蘇我氏と対立した。

乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)と言われる政変では、中臣氏の系流・中臣鎌足(なかとみのかまたり)中大兄皇子(天智天皇)を助けて活躍し、「大化の改新」と言う政治改革を行う中大兄皇子(天智天皇)にも中臣鎌足(なかとみのかまたり)が助力し、功績を上げている。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、六百六十九年の死に臨んで天智天皇より藤原姓を賜り、以後鎌足の子孫は藤原氏を名乗ったが、本系は依然として中臣(なかとみ)を称し、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲した。

中臣氏(なかとみうじ・臣王)から分かれた鎌足(かまたり)系流は蘇我御門家を滅ぼした事で、天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族となり、源・平・藤・橘の所謂(いわゆる)四姓の一つに数えられ、藤原氏はその筆頭名門氏族と成ってその後は朝廷の権力を一族に集める大豪族一門になり上がったのである。

その後本系・中臣氏を率いた右大臣・中臣金が「壬申の乱」で処刑された事もあって、乱とは無関係の藤原鎌足系流も連座され一時衰亡の危機を迎える。

やがて天武天皇の時代に八色の姓(やくさのかばね)が定められた折に同系流の中臣朝臣と藤原朝臣の範囲を整理して定めたが、その際鎌足系流の藤原不比等がまだ若かった事もあって鎌足の従兄弟で娘婿でもあった本系・中臣意美麻呂が藤原不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に氏上となったらしく、それ以外の本系成員にも不比等が成長するまで暫定的に藤原朝臣が与えられた。

その臨時処置の為、後に不比等が成長し頭角を現すと、藤原氏が太政官を中臣氏が神祇官を領掌する体制とする為に、鎌足嫡男の不比等以外は元の中臣姓に戻された。

不比等が成長して意美麻呂が中臣姓に復帰、後に中臣意美麻呂は藤原不比等の推薦で中納言となり、その七男の清麻呂は右大臣まで昇った為、以後はこの子孫が中臣氏の嫡流とされて特に「大中臣朝臣」と称されるようになった。

そう言う訳で、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)は、六世紀(飛鳥時代)に藤原家を興した人物である。

中臣(なかとみ)鎌子(中臣鎌足)を名乗っていた藤原鎌足(ふじわらのかまたり)は、中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇・先帝舒明天皇の子)が蘇我入鹿を宮中で暗殺した乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)に与力し、蘇我御門(そがみかど)家を滅ぼしてこれに取って代わる。

その後中臣(なかとみ)鎌子(中臣鎌足)は藤原姓を名乗り、藤原家は平安末期に後胤貴族で武門の平氏と源氏が台頭するまでは、列島中に一族の枝を派遣して統治を独占、並ぶ者無き有力貴族として君臨し藤原家は名門として栄えた。

平安時代には、鎌足系流藤原氏は本姓の藤原を称するが、その後の鎌倉時代以降なると姓の藤原ではなく家名(苗字に相当)である近衛、鷹司、九条、二条、一条などを名乗る公家と成り、公式文書以外では藤原姓は名乗らない形で家名をつなげて行くのである。

藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌子)】に続く。
藤原不比等(ふじわらのふひと)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-10-02 18:36  

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