衆道(しゅうどう/男色)

衆道(男色)は男性が男性を性行為の相手とする生殖には関わり無い行為で、言わば邪道である。

明治維新後にタブーに成った部分だが、ハッキリ言え女性の肉体には男根を受け入れる穴が三つあり、男性の肉体にも穴が二つある。

つまり衆道(男色)・稚児小姓は、その二つを使って主(あるじ)と性的な行為をする事である。

現代の思想信条や社会合意を基準にすると、確かに稚児との男色(衆道)の交わりは異常(いじょう)な行為である。

ただし現代のように男性同士に偏った個人的な性癖ではなく男女両刀使いが一般的で、そして明治維新前の主従関係では、それは上流社会の嗜(たしな)みとして公然と認められていた。

従って日本に於いては平安末期から明治維新までの永い間、肛門性交を否定する環境に無かった訳で、今は口に出すのはタブーだが行為は廃(すた)れずに残っている。

この事でも判る通り性的な倫理観など時代時代で変化する物だから、当時の性的な倫理観を現在に当て嵌めて批判するのは知的で無い。

平安期の貴族や武士の間で広まった衆道(男色)には、現代の所謂ゲイのホモセクシャルとはまったく違う意味合いが在った。

男色(衆道)の交わりは神道や仏教界の「信仰要素」として始まって、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まり、さらに公家などの貴族や武士の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まって行き、特別に寵愛を得た美少年の小姓は、誓約(うけい)臣従の証として閨(けい/ねや)で夜伽(よとぎ/性的奉仕)の相手(男色/衆道)もする「稚児小姓(ちごこしょう・・/氏族社会の)」と成った。

院政期の院(法皇・上皇)の近臣達は稚児上がりの者も多く、「院と深い関係を持って居た」と言われ、藤原頼長の「台記」には当時の皇室・朝廷関係者のその奔放な男色関係の多くが描かれている。

この衆道(男色)が、権力抗争に明け暮れる氏族社会の風土に溶け込んで、その目的は忠誠心と信頼関係の証明手段に成り、つまり衆道(男色)は権力構築と深く関わった誓約(うけい)の進化形だった。

それ故当時の衆道(男色寵愛/稚児小姓/ちごこしょう・・/氏族社会の)を時代背景的に捉え、現在の倫理観で邪道と簡単に決め付けないで欲しい。

元々日本の衆道(男色寵愛/稚児小姓)は、所謂ゲイのホモセクシャルではなくバイ・セクシャル(両刀使い)であり、平安期に「僧籍の者の間から始まった」と言われるくらいで、宗教的な戒めの考え方は無いから身分の高い者が行っていても常識の範疇であって、そう異常には思われなかった。

そしてそうした衆道(男色)稚児小姓をもうける事は、日本史の永い間、権力者のステータスだった。

この衆道(男色)関係は支配・被支配の感情を育成する事から、戦国期の忠実な主従関係の信頼性を担保する誓約(うけい)の習俗として、稚児小姓との衆道(男色)は、在って当たり前だったから、織田信長と若い頃の前田利家徳川家康における井伊直政との間柄も有名な衆道(男色)関係である。

また、豊臣秀吉が信頼し一際(ひときわ)寵愛した石田三成との衆道(男色)関係や、織田信長と徳川家康の間でも清洲同盟の謎の結束の固さから衆道(男色)は疑われている。

綺麗事の英雄伝ばかり見せられている時代劇好きの諸氏にとっては、英雄の別の顔を見せられるのは夢を壊す事に成るかも知れないが、現代とはまったく違う当時の倫理観の中で実在した抹殺出来ない事実なので、これからの物語でも追々記述して行く事になる。

詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。

関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】を参照下さい。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2008-10-03 14:35 | Comments(0)  

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