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小早川秀秋(こばやかわひであき)

小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる。

おね(ねね)の実家である杉原(木下)家の継子・家定(おねの兄とも弟とも言われる)の五男にあたり、元服時の初名は木下秀俊(きのしたひでとし)と名乗る。

当時、正室・高台院「おね(ねね)・北政所」との間に子が無かった秀吉は数人の養子を迎えるが、その内の一人が妻方の甥に当たる木下秀俊(きのしたひでとし)で、羽柴秀俊(はしばひでとし)と名乗らせて手元に置いていたが、五年後に同じく養子にして大名にした秀吉の姉「智(とも)・日秀(にっしゅう)」の次男・豊臣秀勝が病死した為に、その旧領・丹波亀山十万石を与えられる。

その後、養父・秀吉の命にて毛利両川(もうりりょうせん)体制の一家・大老小早川隆景毛利元就の三男)の養子として小早川家に入り秀秋と改名、小早川秀秋を名乗る。

養父と成った小早川隆景は筑前、筑後・肥前の一部三十万七千石を領する筑前名島城主であったが、秀秋は秀吉の側近大名として勤め、丹波十万石の亀山城主を任じていた所、兄・豊臣秀次事件が発生、それに連座して丹波亀山を没収される。

丹波亀山を没収された小早川秀秋は、同年に養父・隆景が隠居した為にその領地筑前、筑後・肥前の一部三十万七千石を継承して筑前名島城主に収まった。

関ヶ原の合戦時の小早川秀秋の優柔不断な行動から軟弱に描かれる場合が多いが、秀吉が朝鮮半島に出兵した「慶長の役」では全軍を指揮する元帥を務め、蔚山城の戦いでは明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かって初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど勇猛に活躍して居る。

しかし、元帥たる秀秋が守備すべき釜山城を出兵して蔚山倭城の救援に向かった事が「軽率な行動」と批判され、後に筑前名島に復領するが半島出兵中の一時期に領地を召し上げられて越前北庄十五万石へ国替え処分をされている。

秀吉の朝鮮征伐が中止され、半島から帰兵して二年余り、関ヶ原合戦の折に大軍を擁していた小早川秀秋の決断が天下の行方を決したのである。

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by mmcjiyodan | 2008-10-10 16:33  

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