源義朝(みなもとよしとも)

源義朝(みなもとよしとも)は、河内国に本拠地を持つ河内源氏の棟梁・源為義(みなもとためよし)の嫡流子で、鎌倉幕府成立の原動力となった源頼朝源範頼(みなもとのりより)、腹違いの九男源義経達の父親である。

平安の都(京)に生まれた義朝は幼少期を都で過ごすが、少年期に東国(関東地方)に下向した事から父・源為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持って上洛し、下野守に任じられた。

源義朝が東国に下ったのは、父・源為義から廃嫡同然に「勘当された為ではないか」とされ、親子不仲説は存在する。

千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

しかしその戦勝後、囚われとなった父・為義、弟・為朝らの助命を義朝が嘆願したにも関わらず、後白河院は二人の殺害を命じた。 

乱後、源義朝(みなもとよしとも)は「保元の乱」の戦功に拠り武門にとっては重要な官位である左馬頭に任じられるが、論功行賞で清盛より低い官位に甘んじた事から「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、源義朝は藤原信頼と組んで源頼政、源光保らと共に「平治の乱を起こした」と言われている。

ただこの話し、本質の所では権力者同士の権力争いに結論の帰結を見るのが妥当で、大儀名分の理由など後から付け足したものに違いない。

実際には、平治の乱の原因は後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派の中に院近臣・藤原信西(しんぜい)に反感を抱くグループがともに居た事が抗争の原因で、それらの反目を「後白河がまとめきれなかった事にある」との見方が、現在では有力視されている。

平安末期の千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りのため、京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び、謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治(へいじ)の乱」が始まった。

しかし源義朝立つの急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

破れた義朝は鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中の尾張国で長男・義平と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、源頼朝だった。

池の禅尼の嘆願で頼朝は助命され伊豆の蛭が小島へ流され、また、幼かった義経も母・常盤御前(ときわごぜん)の体を張った助命嘆願に助けられ義経は京の鞍馬寺へ預けられた。

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源義経(みなもとよしつね)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-10-26 21:38 | Comments(0)  

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