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越前・朝倉攻め

軍勢を持たない「将軍足利義昭」は、誰の目にも織田信長の傀儡(かいらい)と映る。

信長の戦力と言う「後ろ盾」有ってこその将軍で、本人は抵抗しても言わば信長の操り人形である。

ここで各地の大名達が、足利義昭の招請に応じ将軍就任の挨拶に参内(さんだい)すれば、事実上信長の風下に立つも同然だった。

これに反発したのが、越前朝倉家の義景である。

戦国の動乱期、越前の国主は朝倉義景(あさくらよしかげ)だった。

朝倉家も、織田家同様に元は斯波(しば)氏の家臣(守護代)であったのだが、他家と同じような経過を辿り、守護代だった朝倉家も比較的早くから主家の斯波(しば)氏を排除して独立、戦国大名として力を持っていた。

その朝倉義景(あさくらよしかげ)が、織田信長の「天下布武」の前に立ちはだかる。

「予は尾張の田舎者に頭など下げん。放って置け。」
朝倉家は早い時期に下克上に成功し、どっぷりと名門意識に浸かっていた。

鼻息は荒かったが、朝倉家の当主朝倉義景は武将と言うよりは文化人で、今で言う「ボンボン」の典型である。

義景は「売り家と、唐様で書く三代目」ならぬ、朝倉五代目だった。

この上洛を果たした頃の織田信長の勢力は、尾張、美濃、三河、畿内五州、伊勢、等十二ヵ国二百四十余万石、兵力六万強と恐ろしく膨張していた。

それに同盟国が遠江、駿河、等六十四万石の徳川家康と近江半国の江北三十九万石の浅井長政(あざいながまさ)を加えると、石高三百四十三万石、兵力約十万の大勢力になる。

つまり、逆らった越前八十七万石朝倉義景は、ただの感情論による無謀な判断をした事になる。

朝倉義景は、下克上で伸し上がった武家でありながら公家貴族生活に憧れ京風文化に憧れた文化人で、おごり極まりない生活を送っていた。

プライドだけが高く、世の変遷(世の中の変わりよう)に鈍感だった。

朝倉義景(あさくらよしかげ)が凡将だった事は、折角臣従した明智光秀の並外れた才能を見出せなかった事で証明できる。

この保守的文化人が、最も嫌うのは、信長タイプの革新的発想の具現者である。

正に朝倉義景は、この時最悪の領主(経営者)と言えた。
このタイプで、成功した大名(経営者)は居ない。

彼らは守りに入って、結果的に革新的発想の前に滅びている。

余談ながら、豊臣秀吉(とよとみひでよし)も晩年この誘惑にとらわれ、豪華絢爛を好み「侘(わ)び寂(さ)びの茶」、千利休と確執を起こしている。

朝倉家は、将軍家(裏に信長)からの再三の上洛参内命令を無視する朝倉義景に堪り兼ねた信長は、朝倉攻めを決意する。

しかし大きな問題があった。
同盟軍、浅井長政の存在である。

浅井家には祖父の代からの、朝倉家との長年の協力関係の歴史がある。

信長は、これを充分承知していた。「朝倉攻めはしない」が、織田・朝井同盟時の盟約であったのだ。

しかし、この期に及んで朝倉を放っては置けない。
選択した手段は、浅井家を関わらせない事で、対面を保つ方法だった。

具体的には、浅井家に何も知らせないで信長は朝倉攻めを始めたのだ。
信長にすれば、「長政なら判ってくれる」と信じたかったのだ。

浅井長政・朝倉に与力す】へ続く

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-11-17 03:13  

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