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政治家(為政者)は嘘つきの始まり

歴史を遡(さかのぼ)ると、「民衆を欺(あざむ)き、事実と違う情報操作する事が政治である。」と考え、国民に対して情報操作実行する政治家(為政者)が多過ぎる。

そしてかれらは、「開き直って言い張れば、情報操作は国民を操る事実として通用する。」と考えている。

例えば選挙公約であるが、出来もしない公約を無責任に言い立て、選挙が終われば当選してもコロリと公約を忘れるのが政治家の特技である。


古事記・日本書紀」の歴史捏造(れきしねつぞう)が、「政治家(為政者)は嘘つき」の原点である。

古事記・日本書紀は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された。

明快に言ってしまえば、記紀神話(古事記・日本書紀)の伝説は「渡来氏族に依る日本列島経営の為の陰謀」なのである。


戦時中の、「国民の士気を落とさない為の嘘」と正当性を言い張る「大本営発表」なども国民を操る情報操作の代表である。

そしてそれに近い嘘は、近現代の政権にも「政府発表」として日常のごとく存在する。

余談だが、この嘘つきの原点である「古事記・日本書紀」の捏造(ねつぞう)記事を正しい歴史とし、それを根拠にコメントする不勉強なコメンテーターに解説する資格はない。

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# by mmcjiyodan | 2017-02-15 17:57 | Comments(0)  

大本営発表(だいほんえいはっぴょう)

本来の大本営(だいほんえい)は、軍部の連合大演習及び特別大演習に於いて、天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した。

但しここで言う大本営(だいほんえい)は、日清戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関を指す名称である。

大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて、大日本帝国の大本営が行った戦況などに関する公式発表を言う。

当初は、おおよそ現実に即していた発表を行っていた。

所が、ミッドウェー海戦の頃から海軍による損害矮小化・戦果過大化の発表が目立ちはじめ、勝敗が正反対の発表すら恒常的に行った。

「民衆を欺(あざむ)き、事実と違う情報操作する事が政治である。」と考え、国民に対して情報操作実行する政治家(為政者)が多過ぎる。

そうした事から、現在では「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞になっている。


第六巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2017-02-15 15:02 | Comments(0)  

今川氏真(いまがわうじざね)

今川氏真(いまがわうじざね)の父は今川氏の最大所領を領する繁栄を築いた今川義元で、母は甲斐国主・武田信虎の娘 定恵院である。

氏真(うじざね)は、桶狭間の戦い織田信長によって討たれた父・義元の駿河・遠江・三河の三ヶ国を受け継いだ戦国大名であり 、第十一代の今川家当主である。

但しこの代数には諸説あり初めて駿河守護となった今川範国から数えた代数では第十代、家祖・今川国氏から数えると氏真(うじざね)は第十二代目になる。

千五百三十八年(天文七年)、父・義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれ、幼名は龍王丸(りゅうおうまる)で ある。

千五百五十四年(天文二十三年)氏真(うじざね)十六歳の時、相模の国主・北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。

千五百五十八年(永禄元年)、氏真(うじざね)は父・義元から家督を譲られ駿河や遠江国に文書を発給し始めている。

但しこの時期、三河国への文書発給は義元の名で行われている。

つまり義元は、安定した駿河国と遠江国を二十歳に成った氏真(うじざね)に任せ、三河国の安定及び尾張国・美濃国の領有に専念を画したと見解されている。

ところが、義元は千五百六十年(永禄三年)五月に尾張に侵攻した義元が、桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまう。

桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。

三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなった。

西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康(千五百六十三年に家康に改名)の勢力下に入った。

松平元康は今川家と断交し、信長と結ぶ事を選ぶ。

東三河でも、国人領主らは氏真(うじざね)が新たな人質を要求した事により不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間で「三州錯乱」と呼ばれる抗争が広がる。

千五百六十二年(永禄五年)旧領三河・岡崎城に入った松平元康は、尾張国主・織田信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。

氏真(うじざね)は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。

遠江国に於いても家臣団・国人の混乱が広がり、井伊谷城主の井伊直親、曳馬城主・飯尾連竜、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰らによる離反の動きが広がって行く。

謀反が疑われた井伊谷城主・井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。

ついで千五百六十四年(永禄七年)には曳馬城主・飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。

氏真(うじざね)は、重臣・側近・三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させる事ができず、逆に正俊が戦死してしまう。

その後、和議に応じて降った飯尾連竜を氏真(うじざね)は千五百六十五年(永禄八年)十二月に謀殺した。


今川氏と同盟を結ぶ甲斐国の武田信玄は、千五百六十一年(永禄四年)の川中島の戦いを契機に北信地域における越後上杉氏との抗争を収束させると外交方針を転換した。

桶狭間の後に氏真は駿河に隣接する甲斐河内領主の穴山信友を介して甲駿同盟の確認を行なっている。

同千五百六十五年十一月に、嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においての婚姻が解消された。

同時期に武田家では、世子・諏訪勝頼の正室に信長養女・龍勝院を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。

これにより甲駿関係は緊迫し、氏真(うじざね)は越後国の上杉謙信と和睦し、相模国の北条氏康と共に甲斐への塩止めを行った。

武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗した為、これは決定的なものにはならなかった。

千五百六十八年(永禄十一年)末に甲駿同盟は手切に至り、十二月六日に甲斐国国主・武田信玄は甲府を発して駿河国への侵攻を開始する。

十二月十二日、薩埵(さった)峠で武田軍を迎撃するため氏真(うじざね)も、駿河国・興津の清見寺に出陣した。

だが、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人二十一人が信玄に通じた為、十二月十三日に今川軍は潰走し、駿府も占領された。

氏真(うじざね)は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。

北条氏康の娘・早川殿(氏真正室)の為の乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失すると言う逃亡で在った。

しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた三河国主・徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。

十二月二十七日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、朝比奈泰朝を初めとした今川家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった。

早川殿の父・北条氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣する。

戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。

徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、甲斐国主・武田信玄が約定を破って遠江への圧迫を強めた為、徳川家康は氏真(うじざね)との和睦を模索する。

千五百六十九年(永禄十二年)五月十七日、氏真(うじざね)は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。

この時に今川氏真(うじざね)・徳川家康・北条氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真(うじざね)を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。

しかし、この盟約は結果的に履行される事はなく、氏真(うじざね)及びその子孫が領主の座に戻らなかった。

この朝比奈泰朝の掛川城の開城を以て、後世に戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。

掛川城の開城後、氏真(うじざね)は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った。

後、氏真(うじざね)は小田原に移り、早川に屋敷を与えられる。

千五百六十九年(永禄十二年)五月二十三日、氏真(うじざね)は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲る事を約した。

また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ。

駿河では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真(うじざね)を後援する北条氏による出兵も行われた。

抗争中の駿河に対して氏真(うじざね)は、多くの安堵状や感状を発給している。

これには、氏真(うじざね)が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。

その後、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、千五百七十一年(元亀二年)頃には大勢が決した。

氏真(うじざね)は駿河の終(つい)に支配を回復する事はできなかった。

同千五百七十一年(元亀二年)十月に北条氏康が没すると、後を継いだ北条氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した。

同年十二月に氏真(うじざね)は相模を離れ、家康の庇護下に入った。

掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。

千五百九十一年(天正十九年)九月、山科言経の日記「言経卿記」に氏真(うじざね)は姿を現す。

この頃までに氏真(うじざね)は、京都に移り住んだと推測される。

仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真(うじざね)は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来していた。

冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていた事が記されている。

京都在住時代の氏真(うじざね)は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている。

「言経卿記」の氏真(うじざね)記事は、千六百十二年(慶長十七年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。

やがて天下を取った徳川家康に召し出されて、氏真(うじざね)は五百石の旗本に抱えられる。

その後氏真(うじざね)は、五百石を加増されて都合千石の高家旗本(こうけはたもと)に処遇されて家名は残った。

氏真(うじざね)はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、千六百十三年(慶長十八年)に長年連れ添った早川殿と死別した。

千六百十五年(慶長十九年)十二月二八日、今川氏真(いまがわうじざね)は七十七歳の高齢を持って、江戸で死去した。

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第三巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2017-01-31 00:45 | Comments(0)  

生贄(いけにえ)

贄(にえ)と言う文字は、「神に対する捧げ物」と言う意味が在る。

そして熟語に、生贄(いけにえ)と言う言葉がある。

つまり生贄(いけにえ)とは、「生きたままの、神に対する捧げ物」と言う意味である。

そして一方では、渡来部族が現住民族の蝦夷(えみし)を制圧して、統治の為に壮大な天孫降臨伝説をでっち上げて、支配階級(渡来部族)は「氏神(氏上)」と成った。

今までの日本史は、集団または特定の個人の利益の為に人身を犠牲にする事で、神の支援を願う概念で生きたままの贄(にえ)を捧げ、その命を絶つ事で捧げの完結と解釈されていた。

しかし氏神が地方行政官やその末裔の権力者・氏上であれば、生贄(いけにえ)の意味はセクシャルなものに変わって来る。

これを「人身供犠(じんしんくぎ)」または「人身御供(ひとみごくう)」と称して人間を神(氏上人)への生贄(いけにえ)とする礼式を言う。


古代、大和国の吉野川上流の山地に在ったと言う村落とその住民を、国栖(くず/国巣/国樔/Kunisuの音変化)と呼ぶ。

その人々を国栖人(くずびと)と呼び、宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌(ふぞくうた/地方伝承歌)を奏した。

つまり歌舞音曲と贄(にえ)と礼式(神式)は中央の宮廷や貴族社会に発祥して、地方行政官やその末裔が自らの支配地域の神社に、「神楽舞」や「人身御供(ひとみごくう)様式」として伝播実践された。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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第五巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2017-01-15 18:05 | Comments(0)  

興福寺(こうふくじ)

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。

六百六十九年(天智天皇八年)、藤原鎌足夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・鎌足の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国(やましろのくに)山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が興福寺(こうふくじ)の起源である。

壬申の乱(じんしんのらん)が在った六百七十二年(天武天皇元年)、山階寺(やましなでら)は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

七百十年(和銅三年)の平城遷都に際し、鎌足の子・藤原不比等は厩坂寺(うまやさかでら)を平城京左京の現在地に移転し「興福寺(こうふくじ)」と名付け実質的な興福寺の創建となった。

つまり興福寺(こうふくじ)は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。

中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られその後も、大王(おおきみ/天皇)や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。

不比等が没した七百二十年(養老四年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。


興福寺(こうふくじ)は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かった為に手厚く保護された。

平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。

その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。

寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも八百七十年(天禄元年)に真言宗の僧・定昭(じょうしょう)の創立した一乗院と千八十七年(寛治元年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。


鎌倉時代室町時代の武士の時代になっても大和武士(大和四家と言う武士集団)と僧兵等を擁し強大な力を持っていた為、幕府は守護を置くことができなかった。

よって大和国は実質的に興福寺(こうふくじ)の支配下にあり続けた。

安土桃山時代に至って織田・豊臣政権に屈し、千五百九十四年(文禄四年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として二万千余石とされた。


興福寺(こうふくじ)は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。

中でも千百八十年(治承四年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平清盛の五男・平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。

この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走、朝廷や藤原氏との交渉をする。

結果、平氏流(へいしりゅう) が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺(こうふくじ)側へ返却される。

消失建物の再建には、朝廷・氏長者(藤原氏)・興福寺の三者で費用を分担して復興事業が実施される事となった。

現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。

なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失した為、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。

興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

千七百十七年(享保二年)江戸時代の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。


千八百六十八年(慶応四年)に明治政府から出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺(こうふくじ)は大きな打撃をこうむった。

江戸時代は二万千石の朱印を与えられ保護された興福寺(こうふくじ)が、この廃仏毀釈で消滅の危機に立たされのだ。

子院はすべて廃止、寺領は千八百七十一年(明治四年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。

興福寺(こうふくじ)境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。

一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。

興福寺(こうふくじ)は、一時廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。

五重塔は値段には諸説あるが、二百五十円で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったと伝えられる。

ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。


興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗って華族に列し「奈良華族」と呼ばれた。

行き過ぎた廃仏政策が反省され出した千八百八十一年(明治十四年)、ようやく興福寺の再興が許可された。

千八百九十七年(明治三十年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。


興福寺(こうふくじ)は、南都七大寺の一つに数えられ、南円堂は西国三十三所第九番札所である。

現在は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。


参考小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に飛ぶ。

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大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
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藤原京(ふじわらきょう)=新益京(あらましのみやこ)】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2016-12-30 09:23 | Comments(0)