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皇統と鵺(ぬえ)の影人

本来、伝説上の「鵺(ぬえ)」は、土蜘蛛(つちぐも)や鬼(おに)と同様に大陸から先進文明を携えて渡来した部族で成立した大和政権が、ネイテブジャパニーズ(先住民)蝦夷族(えみしぞく)を、蛮人として扱った呼称である。

それ故、当初の「鵺(ぬえ)」は、皇統(大和朝廷)に仇(あだ)なす妖怪として伝承された存在だった。

しかし時代が下がると、蝦夷族(えみしぞく)の抵抗は少なく成り、それよりも皇統(大和朝廷)を利用して権力を得ようと言う者が渡来した部族の内より現れる。

最初は虎の威を借りる為だったかも知れないが、やがては皇統をも利用して権勢を振るう者が新しい「鵺(ぬえ)」として出現する。

その「鵺(ぬえ)」こそ、天皇を操(あやつ)り、又は蔑(ないがし)ろにして権力を欲しいままにする歴史の妖怪達である。

小説・皇統と鵺の影人」は、皇統を蔑(ないがし)ろにして権勢を振るう「鵺(ぬえ)」とそれと戦う皇統の「影人(かげひと)」との物語である。

ただ、「鵺(ぬえ)」に戦い勝った「影人(かげひと)」が、次の「鵺(ぬえ)」となる歴史を繰り返す永い永い物語が、「皇統と鵺の影人」である。

この「鵺(ぬえ)」の事は、各時代の太閤や将軍などの権力掌握者から、太平洋戦争の戦前・戦中の内閣、ヒヨットすると戦後の政治家にも当て嵌(は)まるのかも知れない。

お勧め関連小論
日本人の祖先は何処から来たのか?
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)
ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族


第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2017-06-02 12:11 | Comments(0)  

欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)

欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)は、応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)から分かれた皇統傍系出自の父・継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の子である。

継体大王(けいたいおおきみ)と仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)との子である。

欽明大王(きんめいおおきみ)は、母に仁賢大王(にんけんおおきみ)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を持つ血筋として父・継体大王の皇統の歪みを解消した。

大王(天皇)が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化大王、安閑大王でも、それぞれ手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れている。

さらに欽明自身も、宣化大王の皇女・石姫皇女(いしひめのひめみこ)を皇后に迎えており、何重にも皇統が維持されている。

仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。


この欽明大王(きんめいおおきみ)の御世、大伴金村(おおとものかなむら)物部尾輿(もののべのおこし)を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰(そがのいなめすくね)を大臣(おおおみ)とした。

大連(おおむらじ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏(兵力)と物部氏(兵器)が大連となった。

大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任し執政を行った。

しかし大伴金村は、大連(おおむらじ)就任直後の五百四十年(欽明天皇元年)に失脚し、物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。

その翌年、五百四十一年(欽明天皇二年)に、欽明大王は大連(おおむらじ)・蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)や小姉君(おあねのきみ)を妃とする。

この蘇我氏の娘達が生んだ三人の弟・妹(用明推古崇峻)が、計四十年間も大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれた。


詳しくは小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-05-17 16:27 | Comments(0)  

仁賢大王(にんけんおおきみ・天皇)

仁賢大王(にんけんおおきみ・第二十四代天皇)の即位には、流浪と復権と言うドラマチックな物語が伝えられている。

仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)は、古墳時代大王(天皇)で履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)の孫、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子・億計王(おけのおう)である。

父の市辺押磐皇子が、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一第天皇)に殺されると、弟の弘計王(こうけいのおう/後の顕宗大王/けんぞう・天皇)と共に逃亡して身を隠した。

まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。

縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇二年に、弟王・弘計が宴の席で王族の身分を明かした。

それを伝え聞いた清寧大王(せいねいおおきみ/第二十二代天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に二王を宮中に迎え入れ、四月に兄王・億計王(おけのおう)が皇太子となった。

清寧天皇五年に清寧大王(天皇)が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政した。

結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗大王(けんぞうおおきみ/天皇として即位する。

引き続き億計王(おけのおう)が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。

その後、即位した弟王・弘計の顕宗大王(けんぞうおおきみ)が、わずか在位三年で崩御した為、億計王が仁賢天皇元年一月に大王(おおきみ/天皇)に即位した。

仁賢大王(にんけんおおきみ)は、父を殺した雄略大王(おおきみ/天皇)の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を皇后に迎え入れる。

理由として、仁賢大王(にんけんおおきみ)自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。


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by mmcjiyodan | 2017-05-17 16:24 | Comments(0)  

非人穢多(ひにんえた)・部落差別

日本には、山窩(サンカ・サンガ)と源流を同じくする非人穢多(ひにんえた)と言う被差別階級が永い間存在した。

被差別階級・非人穢多(ひにんえた)の長である穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許されたていた。

江戸期の非人穢多(ひにんえた)差別制度は、明治維新後の部落民差別として残って行く。


狩猟の民である先住民(蝦夷族/エミシ族)山窩(サンカ・サンガ)は、仏教の教えである「殺生の禁止」を生業としていた。

しかし大和朝廷では、仏教を国家統一の為に採用して啓蒙していたので、「殺生の禁止」を生業としていた山窩(サンカ・サンガ)は、永く非主流の狩猟遊民として定住もままならない存在だった。

この歴史現象を公平に判断すると、この仏教の教えである「殺生」を禁じた教えを渡来民族政府だった大和朝廷が採った事は、日本列島運営の政治的な計算も在った筈である。

正直大和朝廷政府は、原住民族である先住民(蝦夷族/エミシ族)の抵抗には平安末期まで苦労していた。

それでも時を費やしながら、先住民(蝦夷族/エミシ族)の末裔である賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)を含む平民にも、仏教の教えは徐々に定着して行った。

現にこの「仏教化政策」は成功し、四足動物の建前上での食肉禁止は明治維新までほぼ国民の多数合意されていた。

その食肉禁止の文化も、明治維新の文明開化で薄れて行った。

基を正すと歴史経過の中で取り残されたに過ぎない一部の部族文化を、「自分達と価値観が違うから」と差別するは、最初から間違っていたのだ。

但し一部の賤民(せんみん)部落に残った四足動物処理技術文化への差別は、一部の心無い人々の意識の中に現在でも残っているのは残念である。


蝦夷(エミシ)関連小論・【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】を参照下さい。
蝦夷(エミシ)関連小論・【ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族】を参照下さい。

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第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2017-04-23 19:45 | Comments(0)  

光明皇后(こうみょうこうごう)

光明皇后(こうみょうこうごう)は、奈良時代聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の皇后として、他に類を見ない程の大きな足跡を残している。

藤原不比等県犬養橘三千代(あがたいぬかいのみちよ)の女子で、光明皇后(こうみょうこうごう/光明子)は聖武天皇(しょうむてんのう)の母である文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人の藤原宮子とは異母妹である。

つまり聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の母親の妹である光明子(光明皇后)が、異母姉の子と結婚した事に成る。

諱は安宿媛(あすかべひめ)とされた。

通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)である。

光明皇后(こうみょうこうごう)は、皇族以外から立后する先例を開いた后妃である。


光明皇后(こうみょうこうごう)は、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代/首皇子/おびとのみこ)の皇太子時代に結婚し、七百十八年(養老二年)、阿倍内親王(後の女帝孝謙天皇・称徳天皇)を出産する。

七百二十四年(神亀元年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。

七百二十七年(神亀四年)、皇子・基王(もといおう)を生んだ。


七百二十八年(神亀五年)、皇太子に立てられた基王(もといおう)又は基皇子(もといのみこ)が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。

長屋王の変後、七百二十九年(天平元年)に皇后にするとの詔(みことのり)が発せられた。

この詔(みことのり)は、王族以外から立后された初例で、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。


光明皇后は、仏教を篤く信じ、貧しい人に施しをするための施設・悲田院と 医療施設である施薬院を設け、慈善を行った。

聖武天皇の遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。

さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わり、東大寺大仏、国分寺、国分尼寺の造立に深いつながりをもつ。


娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。

七百五十六年(天平勝宝八年)、夫の聖武太上天皇が崩御する。

その二年後に、光明皇后は皇太后号が贈られた。


聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、その娘・孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)が仏教に熱心に帰依して仏教を国家統治の中心に置いていた。

七百六十年(天平宝字四年)に光明皇太后は崩御し、佐保山東陵に葬られた。


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第一巻の二話】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2017-04-03 03:11 | Comments(0)  

藤原宮子(ふじわらのみやこ)

藤原宮子(ふじわらのみやこ)は、文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人である。

宮子(みやこ)は、藤原不比等の長女として藤原を名乗るも異説が在る。

文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)が紀州御坊へ療養の旅をしていた時、美しい海女を見初め、手元に置くことを欲したが、身分の問題が在る。

その対処として権力者・藤原不比等の養女に一旦し、藤原の貴種として嫁入りさせたと言う説が存在する。

その異説を黙殺し不比等の実娘とすれば、母は賀茂比売(かものひめ)である。

異母妹で聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の皇后・光明皇后とは義理の親子関係にも当たる。


六百九十七年(文武天皇元年)八月、持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の譲位により即位直後の文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人となる。

なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘二人も嬪(ひん/寝所に侍する女官)となっている。

宮子(みやこ)が文武帝夫人となった背景には、阿閉皇女(あへのひめみこ/女帝・元明天皇)付き女官の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の存在が在った。

県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)は、持統帝の末頃に藤原不比等と婚姻関係になったと考えられ、その後押しで宮子(みやこ)が内裏に入ったと推測されている。

それまで少壮官僚であった藤原不比等は、草壁皇子の第一皇子で母は元明天皇の文武帝が即位するに伴い中央政界に台頭している。

ただし、夫人や嬪(ひん/寝所に侍する女官)の制度化は大宝令であったとする説では、宮子(みやこ)の夫人号は後世の脚色だったとされる説が存在する。

つまり藤原氏(宮子)・紀氏・石川氏は当初は「妃」で令制導入に基づいて嬪(ひん/寝所に侍する女官)とされ、後に皇子を生んだ宮子(みやこ)が夫人とされたと解する見方もある。


七百一年(大宝元年)、宮子(みやこ)は首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。

文武帝や父・藤原不比等等肉親の死を経て、七百二十三年に従二位に叙される。

首皇子(おびとのみこ)が即位した翌年(七百二十四年)に宮子(みやこ)は正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、七百三十七年にやっと平癒する。

なお、宮子(みやこ)の病気回復の時に関わった僧侶が玄昉であり、橘諸兄のもとで玄昉(げんぼう)が権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。


宮子(みやこ)は、息子・文武帝と三十六年ぶりに対面した。

そして、孫・阿倍内親王(孝謙天皇)が即位した七百四十九年には、宮子(みやこ)は太皇太后の称号を受け、七百五十四年に推定七十歳前後で崩御した。

宮子(みやこ)は、長期の病気にかかりながらも跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした。

しかし跡継ぎの聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)には、第二皇子安積親王(あさかしんのう)薨去後はついに男子の跡継ぎに恵まれなかった。

一族である藤原氏と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、宮子(みやこ)崩御後二十年も経たないうちに天武皇統は事実上断絶してしまう事となった。


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by mmcjiyodan | 2017-04-03 03:07 | Comments(0)  

文武大王(もんむおおきみ/天皇)

文武大王(もんむおおきみ/第四十代天皇)は、皇太子のまま亡くなった草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男である。

文武(もんむ)の母は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の皇女にして持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の異母妹で、後に元明大王(めいげんおおきみ/第四十三代天皇)となる阿陪皇女である。

文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の幼少期は、父・草壁が皇太子のまま亡くなり即位していない為、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられる筈だった。

しかし祖母である持統天皇の後見もあってか、文武(もんむ)は、立太子以前から皇子の扱いを受けていた。

父・草壁が六百八十五年五月七日(持統天皇三年年四月十三日)に亡くなり、六百九十六年(持統天皇十年七月十日)には伯父にあたる高市皇子も薨じた。


ために、六百九十七年三月十三日(持統天皇十一年三月十三日)に、文武(もんむ)は立太子する。

立太子から五カ月余り、六百九十七年八月一日(文武天皇元年八月一日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、六百九十七年九月七日(九月十七日)即位の詔(みことのり)を宣した。

文武帝は、当時十五歳という先例のない若さだった為、先帝・持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。

文武帝がこの若さで即位した理由を説明するには皇太子になった経緯がある。

現存日本最古の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」によれば、持統天皇が皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。

その際に弘文天皇(大友皇子)の第一皇子・葛野王(かどののおう)が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をした。

ここで天武天皇の第九皇子・弓削皇子(ゆげのみこ)が何か発言をしようとしたが、葛野王(かどののおう)が叱り付けた為、そのまま口をつぐんでしまったとされる。

持統天皇は、この葛野王(かどののおう)の一言が国を決めたと大変喜んだとされる。


これには、持統天皇が軽皇子を皇太子にしようとしていた際に、王公諸臣の意見がまとまらなかった事があるとされる。

このような論争が起こった事には、天武・持統両天皇がもともと自分たちの後継者を草壁皇子と定め、皇太子に立てた。

その軽皇子(文武帝)の成長を待つ間は、時間を稼ぐ為に持統帝が自ら皇位についた。


ただ、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)には、草壁皇子以外にも母親の違う皇子が他に居た。

彼らは、草壁皇子の死後皇位につく事を期待したものの、持統天皇の即位によって阻まれたが、持統天皇の次の天皇位は新たなチャンスとなった。

この事から考えると、天武天皇の皇子である弓削皇子(ゆげのみこ)は、皇位継承権を主張しようとしたと考えられる。

これは、皇位継承が兄から弟へと行われるべきという考え方と、親から子・孫へと行われるべきという考え方の二通りがある為とされる。


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by mmcjiyodan | 2017-04-03 03:01 | Comments(0)  

草壁皇子(くさかべのみこ)

草壁皇子(くさかべのみこ)は飛鳥時代の皇族で、天武天皇(てんむてんのう/第四十代)と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇/第四十一代女帝)の皇子である。


草壁皇子の妃は天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の皇女で、持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の異母妹である阿陪皇女(後の第四十三代女帝/元明天皇)である。

草壁皇子は、元正天皇(げんしょうてんのう/第四十四代女帝)・吉備内親王・文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の父である。


草壁は、六百六十二年(天智天皇元年)に誕生、六百七十二年(天武天皇元年)、壬申の乱が勃発すると大津皇子ら他の兄弟達と共に両親に同伴する。

六百七十三年(天武天皇二年)二月二十七日に飛鳥浄御原宮で天武天皇(てんむてんのう/第四十代)が即位する。

六百七十九年(天武天皇八年)には、草壁皇子は吉野の盟約で事実上の後継者となり、六百八十一年(天武天皇十年)二月に立太子する。

おそらく、母の鸕野讃良(うののさららのひめみこ)皇后の身分の高さと、既に彼女の姉の大田皇女が死去している事から、大田皇女の息子である大津皇子を押さえ皇太子になったものと推測される。


六百八十六年(朱鳥元年)七月には重態に陥った天武天皇(てんむてんのう/第四十代)から母と共に大権を委任され、九月には天武帝が崩御する。

翌月には謀反の罪で大津皇子が処刑される。

だが、鸕野讃良皇后(うののさららのひめみこ)は草壁皇子を直ちに即位させる事はしなかった。

草壁皇子の若さと大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。


なお、少数説であるが、草壁皇子の立太子そのものを文武天皇(もんむてんのう/第四十二代・軽皇子)の即位を正当化する為に後世作為されたものとする説在り。

鸕野讃良(うののさららのひめみこ)皇后が、草壁皇子に天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に明らかにしたとする説もある。

草壁皇子は、皇位に就くことなく六百八十九年(持統天皇三年)四月十三日薨去する。

七百五十八年(天平宝字二年)、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)即位後のに草壁皇子は、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)の称号が贈られた。


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by mmcjiyodan | 2017-04-03 02:57 | Comments(0)  

中川清秀(なかがわきよひで)

中川清秀(なかがわきよひで)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、千五百四十二年(天文十一年)摂津国福井村中河原(現・大阪府茨木市)に生まれた。

本姓は源氏を名乗り、清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田行綱の子の明綱(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と家系を称した。

清秀(きよひで)の幼名は虎之助、通称は瀬兵衛(せびょうえ)、父は中川重清、母は中川清村(重利)の娘である。

はじめ摂津国人であった池田勝正に仕え、織田信長が上洛してくると清秀(きよひで)はそれに従った。

だが、後に主家の池田氏で内紛がおこり、勝正が追放され池田知正が当主となると、清秀(きよひで)は一時信長と敵対する。

千五百七十二年(元亀三年)、同じく知正に仕えていた荒木村重と共同して織田方の和田惟政を白井河原の戦いにて討ち取る。

戦後、清秀(きよひで)は、この戦いで滅んだ茨木氏の居城であった茨木城の城主となった。

摂津で有力であった和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が相次いで衰退・没落すると、清秀(きよひで)は荒木村重や高山右近と共に摂津にて独立勢力となる。

後に信長が村重を摂津の国主に据えると清秀もそれにしたがうが、千五百七十八年(天正六年)村重が信長に対して反旗を翻すと(有岡城の戦い)、共に信長に敵対する。

しかし、織田軍が大挙して攻めてくると右近と共に降参して家臣となり、逆に村重を攻める側に回った。

その後清秀(きよひで)は、丹羽長秀池田恒興旗下で転戦する。


千五百八十二年(天正十年)、本能寺の変で信長が横死した後は右近と行動を共にして羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。

千五百八十三年(天正十一年)、清秀(きよひで)は賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦した。

その賤ヶ岳の戦いに於いて清秀(きよひで)は、大岩山砦を右近、三好信吉らと守っている時、柴田勝家軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したものの四十二歳にて戦死した。


子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫、妹は古田重然(織部)室である。また、キリシタン大名である高山右近は従兄弟にあたる。

家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した。


★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-03-20 15:12 | Comments(0)  

石長比売(イワナガヒメ/磐長姫)

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、天照大神(アマテラス)の孫である天孫・ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)の妻とされる。

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)には、石長比売(イワナガヒメ/磐長姫)と言う醜い姉がいた。

そして長寿の神々と比べ、天孫ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)とその子孫の天皇の寿命が神々ほどは長くない理由をこう伝えている。

九州南部に勢力を持っていた隼人族(ポリネシア系縄文人)のオオヤマツミを父に持つ木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、日向国に降臨した天照大神の孫・天孫ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)と、笠沙の岬(鹿児島県川辺郡笠沙町にある野間岬)で出逢い求婚される。

この出会い伝説は、宮崎県、鹿児島県内にも伝説地が存在する。

咲耶(さくや)の父・オオヤマツミはニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)の求婚を喜んで、姉のイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)と共に差し出した。

処が、ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)は醜いイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を送り返し、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚する。

オオヤマツミはこれを怒り、

「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約(うけい)を立てたからで、コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」

と告げたとされる。

このイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を送り返し、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚するエピソードこそ、天から降臨した天孫(神)と人間である皇統に存在する寿命との矛盾を隠す為の伝説である。

つまり「記紀神話(天孫降臨)」では、天皇の寿命が人間に近い矛盾(むじゅん)の言い訳を「天孫であるニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)がイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を娶らなかったから」と理由付けているのだ。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-03-19 16:04 | Comments(0)