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伊勢神宮(いせじんぐう)

言うまでもなく、伊勢の国には「伊勢神宮」がある。

三重県伊勢市にある神社「伊勢の神宮」は、神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は「伊勢」の地名が付かない「神宮(じんぐう)」であるが、他の神宮と区別する場合には「伊勢の神宮」と呼ぶ事もある。

最高位の神社だから「伊勢」の地名が付かない「神宮(じんぐう)」と呼ぶ形式は、皇室に氏姓・苗字が無い事と同様の意味が在るのではないだろうか?

伊勢神宮は、我が国最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る最高位の神社で、今も昔も大和民族の信仰を集めて居る。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は太陽神であり、この地に最高神を祀った理由は、この地が機内の王城の地(飛鳥・奈良・京都)に近く尚且つ東から日が昇る土地だったからで、伊勢の国(三重県)と日向の国(宮崎県)は「東から日が昇る」と言う地理的な共通性である。

天孫降(光)臨伝説と神の威光で統治する我が国(大和朝廷)にとって、東から日が昇る地が太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る相応しい土地なのだ。

伊勢神宮は、天武大王(おおきみ/第四十代天皇)とその妻・持統大王(おおきみ/第四十一代天皇)が造営した日本最大の神宮(本宮)である。

その天照大神(あまてらすおおみかみ)を主神とする伊勢神宮には二十年に一度の式年遷宮と言う儀典がある。

それは神宮の若さを保つ為に持統天皇が発案した「本宮を二十年ごとに隣の敷地に建て替える」と言う千三百年間受け継がれた儀典である。


伊勢神宮には大和民族の最高神、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が鎮座している。

推測するに、天の一族の発祥の地もまた「日向の大地」だったのではあるまいか。

真東の海の向こうから太陽の上る地「日向」、この地理的条件を満たす所で、畿内の大和朝廷に近い所が、紀伊半島伊勢の国である。

伊勢神宮には、地元の神々を祀る外宮(げぐう)と天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮(ないぐう)がある。

伊勢神宮・外宮(げぐう)には大和の神・天照大神(あまてらすおおみかみ)と伊勢の地元の神々を融合する役割がある。

その外宮(げぐう)と内宮(ないぐう)を総称して伊勢神宮と呼ぶ。

この辺りに、大和の勢力が伊勢を飲み込んで勢力範囲を拡充して行く上での施政術の一端が垣間見える。

渡会家行(わたらいいえゆき)と渡会氏(わたらいし)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:29 | Comments(0)  

乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)

六世紀(飛鳥時代)の中ごろ、「大化の改新」の序章と成った「乙巳の変(いっしのへん)」が起こっている。

乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)は飛鳥時代中大兄皇子中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした政変である。

この頃、蘇我馬子(そがのうまこ)の子、蘇我蝦夷(そがのえみし)、孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が、代々大臣(おお・おみ)として、大和朝廷にあったが、その実、「蘇我御門(そがみかど・天皇)として新朝廷を創った。」或いは、「蘇我大王」とする学者も多い。

これはひとえに物部氏の弱体化により、蘇我氏が抜きん出て強力に成った為だ。

バランスが壊れて、天皇家がコントロールして蘇我氏を押さえる事が出来る「もう片方の有力豪族」を失っていたからである。

飛鳥時代、蘇我御門(そがみかど)家が天皇家を凌ぐ権勢を誇っていた例を挙げる。

五百九十二年、渡来人、東漢氏の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を殺害し、蘇我氏に対抗する豪族達を次々に暗殺してその勢力基盤を拡大した。

まさにやりたい放題だが、押さえる勢力が無い。

この月に、馬子の娘である河上娘(かわかみのいらつめ・崇峻天皇の嬪)と東漢直駒との密通(強姦とも言われる)が露見し、東漢直駒は馬子によって処刑された。

使い捨てにされたのかも知れない。

歴代天皇の皇后は、全て蘇我氏の女性が当てられ、蘇我家の子供は、親王(皇子)と同じ扱いを受け、蘇我の当主は天皇と同列の扱いに成って行ったのだ。

そこで、中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇・先帝舒明天皇の子)、中臣(なかとみ)鎌子(後の藤原鎌足・ふじわらのかまたり)らが、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。

「乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)」には、切羽詰った事情が有った。

中大兄皇子の母、皇極(こうぎょく)天皇(第三十五代・女帝・第三十七代・斉明天皇とも名乗る)の存在である。

皇極天皇が、蘇我入鹿(そがのいるか)の愛人で有ったからだ。

女帝だって女性である。

愛人の男の一人くらい居ても良い。

しかし相手が悪い。

皇極天皇と蘇我入鹿の間に皇子が出来ると、中大兄皇子の天皇即位の目が消え、天皇の皇統が、そちらに流れる危険があった。

そうなれば、正しく蘇我帝国である。

中大兄皇子は、舒明大王(じょめいおおきみ/第三十四代天皇)と、後の女帝・皇極天皇との間に出来た子で、本来なら争う相手のいない世継ぎだった。

しかし、舒明大王(じょめいおおきみ)が急逝した時の勢力バランスから、適当な後継者が居なかったので母(宝女王・たからのひめみこ)が父(舒明)の代の「次の天皇・皇極」として即位し、時の権力者、蘇我入鹿と愛人関係が出来てしまっていた。

それで、宮中しかも母帝・皇極天皇の目の前で、愛人(入鹿)を皇極の息子(中大兄)が切り殺す場面と成ったのだ。

従って、ドラマの様に大衆受けする「格好の良い」ものではない。

本来は、只の権力争いである。

女帝を「愛人にする」とは、現代の感覚でゆけば恐れ多いが、当時の感覚では権力掌握の有力手段であった。

学者によっては蘇我家が最高権力者で、「天皇家の後援者(パトロン)だった」とも言われている。

いずれにしても、天皇家は大和の国の象徴に成っていたから、後の世同様に、」外すのではなく取り込む形を取った。

たとえは悪いが天皇家は、或る種絶対のブランドとして、周りを納得させる為の存在だった。

中大兄皇子は、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らと、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)を起こし宮中で蘇我入鹿を暗殺する。

このクーデター、後に孝徳大王(こうとくおおきみ/第三十六代天皇)に収まる皇極天皇の弟皇子「軽皇子」が裏で糸を引いて、中大兄皇子達に「やらせた」とする説もあるが、まだ、確たる証拠はない。

天智天皇(中大兄皇子・なかのおおえのおうじ/葛城皇子)】に続く。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:26 | Comments(0)  

石橋山合戦(いしばしやまのかっせん)

千百八十年(治承四年)八月、二十二日、源頼朝のその後の人生観を変える石橋山合戦が箱根山中を舞台に起っている。

山の天候は変わり易い。

この時期の箱根山中は暫(しば)し大雨や濃霧に見舞われる為、薄暗く見通し悪い日々が続く。

伊豆の国(いずのくに)で山木判官(平)兼隆を討ち、平氏打倒の旗を挙げた源頼朝は、同月、関東進出をめざし三百余騎を率いて東国に向かって行軍を開始した。

一方、源頼朝蜂起の報に接した大庭景親は、武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、追討軍三千余騎を率いて西に向かった。

三百余騎の源頼朝軍は、平家方・大庭景親の軍勢が討伐に来たのを迎え撃つ為に相模の国・小田原の西方箱根の山塊が相模湾になだれ落ちる断崖のある石橋山に布陣する。

平家方は、大庭景親とその弟・俣野景久ら三千余騎で対峙し、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣する。

また、源頼朝軍の後方には平家方・伊東祐親(いとうすけちか)の軍が挟み撃ちで布陣しする。

しかしこの対峙した勢力、平家方は三千余騎、源頼朝の軍勢は僅(わずか)三百騎で圧倒的に平家方が有利だった。

翌二十三日、大雨と濃霧の中で本格的戦闘が始まり、石橋山で敵味方が入り混じって勇壮に良く戦ったが多勢に無勢で平家軍に包囲されて敗れ、散り散りに湯河原方面に敗走するが、追撃する大庭軍と現在の湯河原町鍛冶屋の堀口あたりで戦い、頼朝軍は或る者は討たれ或る者は自害し壊滅した。

敗れた頼朝・北条時政ら主従は、周囲に岡崎義実、土肥実平など七騎が残るのみとなって絶対絶命の危機に陥る。湯河原の郷士・土肥次郎実平の案内で今の城山から箱根湯河原の山中を霧を味方に逃げ回り、石橋山の背後にある山中のに逃げ込み、桜郷の谷奥に在る洞窟に隠れて大庭軍をやり過そうとする。

その時、平家方・大庭軍に属する武将・梶原景時(かじわらかげとき/後に頼朝の御家人となる)に洞窟に身を隠している所を発見され、絶体絶命のピンチを迎えるが、どうした事か梶原は見て見ぬふりをしてその場を離れ、頼朝を見逃し助けてしまう。

常に討ち死にの恐怖に晒されながら九死に一生を得た頼朝主従は、山を下る途中の小道の峠でまたも大庭軍に出くわし、小道地蔵堂の純海上人にかくまわれ危機を脱している。

危機を脱し一命を得た頼朝主従は、八月二十六日土肥実平と共に相模の国・真鶴岬(まなずるみさき)から脱出、小船で海路安房の国(千葉県)に向かい、八月二十九日安房の国・猟島(かがりじま)に上陸しする。

その後安房の豪族、上総広常(かずさひろつね)千葉常胤(ちばつねたね)の支援を得て再起を図り、再び反平家の旗を挙げ精鋭三百騎を従え上総から鎌倉に向い、途中関東の有力な豪族を味方につけて頼朝は大軍を率いている。

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伊東祐親(いとうすけちか)と八重姫の悲話】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:20 | Comments(0)  

伊勢義盛(いせよしもり)

源義経の有力家臣・伊勢三郎義盛の出自が明らかでないのは、ひとえにその出自を秘す陰陽修験諜報組織に伊勢義盛が関わって居たからである。

いずれにしても謎の多い人物で「義経記」では、義盛は伊勢国二見郷(浦)の人で「伊勢の度会義連(わたらいよしつら)」と言う「伊勢神宮の神主の子である」とされ、また三重郡司川島二郎俊盛の子として「三重郡福村(現菰野町福村)で生まれた」とも伝えられて居る。

三重郡司(みえ・こおりつかさ)の川島家と言い、伊勢神宮の神主・度会家(わたらいけ)と言い、実は借り物の系図と言う事も伊勢三郎義盛の場合は大いに有る。

伊勢(三郎)義盛は源義経が鞍馬山で剣の修行をしていた牛若丸・遮那王の頃から武蔵坊弁慶と共に義経に臣従し、最初から最後まで行動を共にしている。

伝えられる伊勢(三郎)義盛の出自は、「伊勢神宮と関わりのある豪族の家柄だ」と言われる伊勢大神宮の神主だった。

伊勢大神宮は皇統を守る御神域で、祭神は天照大神、代々皇統に繋がる者が神主を勤めている。

伊勢(三郎)義盛は、幼少時に伊賀の中井・某の下で養育されていた。

その後、若い頃に度会郡二見郷に流落し、江村に在住して伊勢江三郎を名乗り、武芸全般の修行をしている。

しかし、何しろ修験の草(影人)の事で、履歴も複数在り、どれを採るか難しい所である。

修行時代の若い頃から、居所も名前もその都度身元を気取られないように転々と変え、鈴鹿山に潜伏して一時、焼下小六を称していた。

その後上野国荒蒔郷に潜居して居たが、父の依頼(命令)で源義経の鞍馬から奥州下向に際し家人として加わり、伊勢(三郎)義盛を名乗っている。

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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:16 | Comments(0)  

出雲阿国(いずものおくに)

出雲阿国(いずものおくに)は、阿国歌舞伎で一世を風靡した当時の女性大スターである。

阿国は、「出雲大社の巫女だった」と言う言い伝えがあるが、実は出雲大社に大社と阿国を結び付ける文献は一切残っていない。

只、江戸時代に成って鍛冶師・中村の娘(こ)と言う話が定説化して行く。

阿国は、当時流行(とうじはよ)った奇抜な装束・傾(かぶ)き衣装=歌舞伎衣装に関しては、自らが着用する事は無かった。

傾(かぶ)き衣装は、野郎歌舞伎以後に江戸の舞台で発達したのである。

出雲阿国は、出雲大社所属の鍛冶方「中村三右衛門の娘」と言われている。

この鍛冶方が曲者で、元々鍛冶師・踏鞴(たたら)師は、山岳信仰の傍(かたわ)ら鉱物探査を受け持つ修験山伏の出身であり、雑賀根来とは深い関わりがある。

正式な鍛冶方は渡来占有金属技術を持つ百姓身分の氏族であるから勿論中村姓を名乗っていて、その娘・阿国の名乗りは「中村国ではないか」と思われる。

また、こうした渡来系金属技術者の別の顔は、陰陽修験の一郭を占める鉱物山師であると同時に諜報活動者である場合が多かった。

遊女の元々のルーツ(起源)は、「官人(高級貴族役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠る」とされる事から、歌舞音曲の遊芸もそうした環境の中で育ち、次第に様式化されて源義経の愛妾・静御前で有名な平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。

それと言うのも、元々俘囚身分の蝦夷族社会には自然信仰と群れ婚(集団婚)の習俗が残っていて共生村社会を営んでいた経緯が在ったから、それが容易だったのである。

そうした経緯を踏まえて考えれば判る事だが、出雲阿国は最初出雲神社の巫女だったが神社修復の勧進(寄付集め)の為に旅回りの巫女踊りを始め、「そこから大衆演劇・歌舞伎踊りに到った」とされる。

そして阿国が評判を得たのがツンツルテンの衣装を着た「幼子(ややこ)踊り(子供踊り)」と言う子供の踊りであった。

腰巻の上に重ねて着ける裾除(すそよ)けの蹴出(けだ)しは勿論、腰巻の普及さえ江戸期に入ってから武家や裕福な町人の間で始まった物で、時代考証としてこの時代に衣の重ね着は在っても下着は無い。

それで白拍子静御前が激しい男舞いを舞ったり、歌舞伎踊りで出雲阿国が丈の短い幼子(ややこ)の衣装で踊れば着物の裾が乱れる結果は明らかで、つまり「見せて何ぼ」の娯楽だった。

娯楽の踊りに色気は付き物で、白拍子の「男舞い」にしても阿国歌舞伎の「幼子(ややこ)踊り」にしても、要は乱れた着物の裾から踊り手の太腿(ふともも)が拝める事で人気を呼んだのだ。

そうとするなら、現在の映画やテレビドラマのような優雅な踊りではなく、下着を身に着ける習慣がないノーパンティ時代に丈が足りない衣装で腿も露(あらわ)に踊った事に成る。

もっともこれを史実通りに映画化すれば、今の時代では十八禁指定を採らなければ成らないだろう。

勿論、雑賀者の女諜報員・出雲阿国には本来の出自とは違う創作の公式プロフィールが用意される。

一説には、出雲阿国は出雲大社の巫女をしていたが、出雲大社修繕の為に諸国を勧進し、浄財(寄付)を集める手段として巫女姿で神楽舞や念仏踊りを舞い踊る様になり、やがて男装で踊る様になって、「歌舞伎踊りと呼ばれた」とされる。

また一説には「阿国は、河原者であった」とも言われるが定かな事は明らかではなく、今日までその「いずれかが事実」と信じられまさか雑賀の女諜報員とは見抜く者も居ない。

勿論、笛太鼓の音曲に拠る歌と舞踊りの「歌舞の女性」を歌舞伎(かぶぎ)と言うが、かぶきは「傾ぶく」で、常識外れを意味する。

阿国のかぶきは、実を言うとかぶいては居ない。

原点にあったのは、「かぐら(神座・かみくら)踊り」であり、勘解由小路党の「白拍子」衣装の進化形だった。

公家武家社会には馴染みの「白拍子の男装姿」が、後の阿国の時代の「特に庶民」には異様に見え、相当傾ぶいて受け取られたのである。

旅芸人に身をやつした出雲阿国(いずものおくに)は「ツンツルテンと表現する丈の足りない子供の浴衣の様な衣装」で妙齢の美女が腿も露(あらわ)に「ややこ(こども)踊り」と言う子供の踊りを踊って爆発的人気を得る。

同朋衆(どうぼうしゅう)の芸である猿楽能の観阿弥・世阿弥など上流社会の歌舞音曲から見世物小屋の軽業に至るまで、実は修験道武術ルーツであり、その当初の主なる目的は密偵だった。

従って現代歌舞伎に於ける見顕(みあらわ)し、仏倒(ほとけだお)れ、引き抜き、早替り、トンボ(を切る)、戸板倒し、宙乗(ちゅうの)り、荒事(あらごと)などの大技もその修験武術の流れを汲む忍び術の名残と言える。

阿国=中村国であるなら現代歌舞伎の中村屋一門の祖が鍛冶方・中村三右衛門で、出雲阿国流の末裔かも知れない。

歌舞伎(かぶき)】に続く。
陰間(かげま)と野郎歌舞伎】に続く。
同朋衆(どうぼうしゅう)】に戻る。

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戦国期(せんごくき/室町末期)】に飛ぶ。
ツンツルテン】に飛ぶ。
ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:12 | Comments(0)  

今川義元(いまがわよしもと)

千五百六十年(永禄三年)、桶狭間の決戦が起きている。

今川義元の今川家は、足利家の庶子・吉良氏を祖とする源氏の名流である。

今川義元は、今川氏親(龍王丸)の五男にあたり駿河今川家九代当主であるが、兄の第八代当主・氏輝の急死により相続争いに勝利の末に家督を継いでいた。

今川義元は桶狭間の合戦であっけなく討ち取られた為に凡将と思われ勝ちだが、三河松平家を属下に置くなどして東三河・遠近江・駿河などを領国とするなど、駿河今川家を最大の戦国大名にしたのも義元の代だった。

上洛途中のついでとばかりに、信長を侮って攻め込んで来た駿河、遠江、三河三ヵ国の太守、守護大名の今川義元の大軍を、千五百六十年(永禄三年)五月十九日、桶狭間の奇襲戦で、織田信長(おだのぶなが)が見事破ったのである。兵力差じつに十倍強の相手であった。

千五百六十年(永禄三年)、今川義元は駿府を立ち、二万五千の大軍を率いて三河、尾張を目指して東海道を西進、織田方の丸根砦、鷲津砦を重臣の朝比奈泰朝と松平元康(のちの徳川家康(とくがわいえやす))が率いる三河衆に落とさせ、義元自身は本隊を率いて信長の居城清洲城を目指した。

丸根砦、鷲津砦を二つ落とされても、織田信長は出張って来るどころか援軍も寄越さない。

信長の奴、「今頃は清州の城の中で震えて居るか、良くて篭城の準備でもしている」と今川義元は踏んでいた。

何しろ兵力差が大きくて、常識的には篭城くらいしか戦い様が無い。

いずれにしても今川義元は大軍を擁していた事で篭城と決めて掛かり、まさか織田信長が反撃に出る事に「考えが至らない」と言う驕(おご)りが有ったのではないのか?

所が不幸な事に相手の織田信長の自由な発想は、今川義元のような平凡な発想を覆(くつがえ)す事にその真髄があった。

近頃の研究で、今川義元が都の公家文化に傾倒して軟弱だったのではなく「立派な武将だった」と言う説が主流を占めているが、武将の才能にも二通りあり、源頼朝源義経兄弟、徳川家康(とくがわいえやす)徳川秀忠(とくがわひでただ)親子のごとく歴然と違いが有っても不思議は無い。


公式には、徳川家康は「人質時代に今川義元から多くの政治学を学んだ」と言う説が歴史学者に在る。

確かに義元は、斬新な発想をする名将・大名として所領経営の評価は高い。

しかし徳川家康には、「徳川家康二人説」が在る。

この説を採れば、もう一人の家康が学んだのは織田信長と言う事に成る。

もっとも家康はおせじにも戦上手とは言えないが・・・・今川義元の領国経営は際立って良かった点では、源頼朝や徳川秀忠タイプの武将として有能だったのではないだろうか?

今川氏(いまがわうじ)】に戻る。

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源氏流諸系詳細(げんじりゅうしょけいしょうさい)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:09 | Comments(0)  

生駒吉乃(いこまきつの)

天下布武(てんかふぶ)の為に鵺(ぬえ)になった織田信長ではあるが、彼が人間らしい一面を覗かせたエピソードを紹介しておく。

織田信長(おだのぶなが)に愛され織田信忠織田信雄を生んだ「生駒吉乃」は、側室であるが、正室並に扱われ信長に愛されていた。

念を押して於くが、織田信長婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、生駒吉乃(いこまきつの)の名乗りは妾でなくとも生駒吉乃(いこまきつの)である。

この生駒吉乃(いこまきつの)に、「信長は母の面影を見ていたのではないか?」と睨(にら)んでいる。

母の愛に恵まれなかった信長の愛した生駒吉乃の父親は、生駒親正(いこまちかまさ)と言い、親正の父・生駒親重(ちかしげ)は、信長の母・土田御前の兄で、土田家から生駒家に養子に入った為に姓が違うが、つまりは母方の従弟の娘が「生駒吉乃」である。

信長はこの「生駒吉乃」を頻繁に寝所に召し、特に「激しく抱いた」と言う。

織田信長(吉法師)は、その突出した才知故に母(土田御前)に愛されなかった人物である。

信長は心を開かない母に生涯心痛めながらも、母を慕っていた。

しかし、思いは通じない。

その母の愛に飢えた思いが、天下布武にまい進させ、また、母方の姪(生駒吉乃)を妾(正室並の側室)にし、情を注ぐ事に成ったのである。

唯、人間は必ず何かを背負って生きる者で、何事にも代償は必要である。

何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。

生駒家(いこまけ){秀吉中国大返しの奇跡(二)}】を参照

★クリックリスト・・武将名をクリック願います。
信長の子息武将
信長嫡男・【織田信忠(おだのぶただ)
信長次男・【織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ)
信長三男・【織田信孝(おだのぶたか)


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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:05 | Comments(0)  

犬の方(お犬のかた)

実は、余り目立たないがお市の方以外にもう一人、織田信長の妹が居た。

そのもう一人の目立たない妹は「お犬の方(おいぬのかた)」と言うのだが、お市の方の姉または妹と言う両説がありどちらかは確定していない。

このお犬の方(おいぬのかた)が、血筋が織りなす彩(あや)の中で微妙な光を放って、戦国期の歴史に存在を残している。

お犬の方は、兄・信長の命で尾張国大野城主・佐治為興(後に信方)の妻として嫁ぎ、大野殿・大野姫とも呼ばれ佐治家の嫡男・佐治一成を産んだ。

信長が妹・お犬の方(おいぬのかた)を尾張国大野城主・佐治為興(後に信方)の妻として嫁がせるには相応の理由が有る。

織田家は、父・信秀の代から海に近い勝幡城(源・愛知県中島郡平和町)に居た。

その地は尾張と伊勢を結ぶ要衝にあり、織田家は近くの商業都市「津島湊」を支配し、港の管理に拠る海運の利権を握って力を蓄え、武将としての実力の資金源としていた。

その時分から絶えず気になる存在が、大野城主・佐治為興(後に信方)だった。

佐治氏は代々知多半島の大半を領した大豪族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた為に、「津島湊」の支配を資金源にしていた織田家にとって、佐治水軍が敵になるか味方になるかで非常に重要視されていた。

織田信長が父・信秀の死によって家督を継いだ頃は、佐治家はまだ織田家とほぼ対等な大豪族勢力と言えた。

その佐治家が、桶狭間の戦いに織田信長が大勝利した事を期に、佐治為興(後に信方)は信長の才能に心服し臣従する。

織田信長は、桓武平氏の系図を望んでいた所から、知多半島を領し佐治水軍を率いる尾張桓武平氏系豪族・佐治氏の臣従は戦略的にも血統的にも大歓迎である。

佐治為興(後に信方)は妹・お犬の方を妻に与えられ信長の字を拝領されて「信方」と改名するなど、義弟として待遇は織田一門衆並みであった。

尾張一国に加え、斉藤竜興を滅ぼし美濃一国を手に入れた織田家の順風な隆盛に伴い佐治家も順風で、嫡男・一成、次男・秀休にも恵まれたお犬の方は幸せだった。

所が、人生そう上手くは事が運ばないもので、お犬の方は戦国武将の妻の悲哀を味わう事に成る。

一向宗一揆・伊勢長島攻めの折、夫の佐治信方は信長の嫡男・信忠に与力して伊勢長島攻めに加わるが、ここで討ち死にしてしまう。

この時、佐治信方は僅か二十二歳の若さであった。

お犬の方は、夫の佐治信方が戦死すると兄・信長の命で管領細川晴元の嫡男で山城国槙木島城主の細川信良(ほそかわ のぶよし/後に昭元)に嫁ぐ事に成った。

細川氏は元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流であり、足利将軍家の枝に当たる名門で、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。

しかしこの頃は、往年の細川氏の繁栄は今は昔の没落振りだった。

この細川信良(ほそかわ のぶよし/後に昭元)は戦国時代の細川氏の本流である「京兆(けいちょう/右京大夫の官途を踏襲)細川氏」の末流で、管領・細川晴元の子である。

京兆(けいちょう)細川氏は名門ではあるが、戦国期の戦乱の中勢力が衰えた頃に細川信良は生まれ、千五百六十一年に父・細川晴元が有力な重臣だった三好長慶(みよしながよし)との京都霊山の戦いで敗れ、和睦した際に細川信良は三好方に人質に出されている。

細川信良(ほそかわのぶよし/後に昭元)は、隠居、病没した父・晴元の跡を継ぐものの勢力は取り戻せずにいた。

そこへ将軍・足利義昭を伴なって織田信長が上洛、細川信良は臣従して織田信長の軍団に属し、このころ義昭より一字拝領を受けて「昭元」と名乗ってる。

織田信長にすると、細川信良は室町幕府対策として利用存在で、細川昭元を名乗らせて右京大夫に任じ、京兆家を継がせると翌年には信長の妹・お犬の方を嫁がせている。

細川昭元は、武将としての才能には乏しかったらしく、千五百七十二年には摂津で本願寺の僧侶僧兵)下間頼龍(しもつまらいりゅう)・下間頼純らと交戦して大敗している。

お犬の方は、本能寺の変の千五百八十二年(天正十年)に、兄・信長と年を同じくして死去している。

本能寺の変後、お犬の方に先立たれた細川昭元は羽柴秀吉に属して豊臣政権に参加したが、然したる功績も上げられず細川氏の勢力挽回には到らなかった。

細川昭元との間には、お犬の方は嫡男・細川元勝(頼範/おきあき)・長女(秋田実季正室)・次女(前田利常の正室の珠姫の侍女)の一男二女をもうけた。

お市の方と比べて地味な存在だったお犬の方の生涯は、二人の夫の地味な働きにあったのかも知れない。

佐治信方とお犬の方の佐治家嫡男・佐治一成は、織田信長の甥(おい)に当たるのだが姪の於江与(お市と長政の三女・従兄妹同士に当たる)と結婚し、本能寺の変後天下を手中にした豊臣秀吉には従わず徳川家康に与した為、「小牧・長久手の合戦」後、秀吉によって佐治氏は改易となり、その後離婚させられた於江与(お市と長政の三女)は二代将軍・徳川秀忠の正室(継室)と成っている。

細川昭元とお犬の方の細川家嫡男・細川元勝(頼範/おきあき)は、父・昭元の代から豊臣氏に属して豊臣秀頼に仕え、大阪の役で戦い敗れている。

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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:02 | Comments(0)  

一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗(じょうどしんしゅう)

一向宗(いっこうしゅう)とは、他者が浄土真宗(じょうどしんしゅう)の本願寺教団を呼ぶ呼び方である。

平安時代末期から鎌倉時代初期に起こった、浄土宗(じょうどしゆう)の開祖は、浄土真宗七高僧の一人、法然(ほうねん)と言う。

法然(ほうねん)は房号で、諱(いみな)を源空(げんくう)と言う。

その法然(ほうねん)の念仏(ねんぶつ=南無阿弥陀仏/なむあみだぶつ)を唱えれば、死後平等に極楽浄土に往生できるという専修念仏の教えが、親鸞(しんらん)によって、師と仰ぐ 法然の教えを一歩進め、煩悩の深い人間=悪人こそが「阿弥陀仏の救おうとする相手である」と言う悪人正機(あくにんしょうき)の教えを説き、浄土真宗(じょうどしんしゅう)に分かれていた。

この一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)は身分の上下に関わらない現世利益を謳い、庶民には理解され易かった。

しかし一向宗は、言わば庶民の宗教だったので、権力者はこれを認め難かったのだ。

すなわち、一向宗の教えが、「仏の前では皆平等」であったので、布教が広まれば「為政者の権力を否定され、政権の安定は難しい」と考えたからに違いない。

反対に、雑賀衆のような主君を持たない独立武装勢力には、支持されて当然だった。

この一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)が戦国時代には大きな信仰勢力と成り、武装僧兵を抱え、信者の土豪武士屋民衆をも味方に付けて各地で一揆を起こし、戦国大名と対峙して一定の宗教自治区を勢力下に置いていた。

中でも千四百八十八年に加賀国(現・石川県)に起こった加賀一向一揆では、加賀国の守護職・富樫政親(とがしまさちか)を滅ぼして広大な宗門自治区を擁していた。

一方、天下布武を掲げる織田信長に取っては、為政者の権力を否定される一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)の存在は邪魔なものでしかない。

それで織田信長や徳川家康も鎮圧平定に掛かるのだが、三河国一向一揆では当時の松平家臣団が門徒方と家康方に分かれるなど徳川家康は一時危機的な情況に立たされている。

織田信長もこの一向一揆(伊勢長島一揆や石山合戦)には、その一揆鎮圧に相当てこずっている。

雑賀衆も一向門徒として信長の軍勢と戦った石山合戦で、織田信長の軍勢に敗れた一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)門徒は散り散りになり、以後組織的な武装一揆は影を潜めるが、各地に僧侶と門徒は残った。

その教義の為、一向宗(浄土真宗)門徒は江戸時代でも各藩に弾圧され、特に九州や北陸などで弾圧が非度かったが、それも為政者の権力維持の為の勝手な都合である。

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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:01 | Comments(0)  

市の方(お市の方)

夫・浅井長政(あざいながまさ)の近江・小谷城落城と長政の自害後、助け出されて次兄・織田信包(おだのぶかね)茶々、初、於江与の三姉妹と伴に保護されたお市の方(おいちのかた/織田秀子)は、兄・織田信長(おだのぶなが)の命により近江・小谷城(現在の滋賀県)の浅井長政と結婚している。

お市の方(おいちのかた/織田秀子)の正式な名乗りは嫁いだ後も織田秀子(おだひでこ)である。

勘違いして貰っては困るが、浅井長政婦人と言っても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗る習慣である。

織田家と浅井家はお市の方(おいちのかた)を要(かなめ)として同盟関係にあったが、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めた為に浅井家が朝倉方に付いて浅井家と織田家の友好関係は断絶する。

その後姉川の戦いで勝利した織田勢が攻勢に出て長政の小谷城は落城、長男の万福丸は捕われ殺害次男の万寿丸は出家させられ、浅井家は幼い長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を残して滅亡する。

織田家に保護されたお市の方(おいちのかた)と三姉妹は、厚遇されて九年余りを平穏に過ごしている。

お市の方(おいちのかた/織田秀子)は、本能寺の変で兄・信長が明智光秀に討たれた後、織田家の権力をソックリ乗っ取ろうと言う豊臣秀吉(とよとみひでよし)に対し織田信孝(信長の三男)を立てて織田家存続を唱える織田家重臣の柴田勝家と、三姉妹を連れ子に再婚する。

しかし羽柴秀吉と柴田勝家の緊張関係が長くは持たず、夫・柴田勝家が羽柴秀吉と武力対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に居城・越前・北ノ庄城に篭城したが持ち堪えられずに、茶々、初、於江与の三姉妹を逃がして後、勝家とお市の方(おいちのかた)は城内で自害した。

この数奇な運命の三姉妹、その後も波乱含みの人生を送り、豊臣秀吉側室・淀殿(淀君/浅井茶々)・京極高次正室常高院(浅井初)徳川秀忠正室・崇源院(浅井お江与)に納まったが、豊臣秀吉の側室・淀殿(淀君/浅井茶々)に到っては息子・豊臣秀頼を押し立てて徳川家康(とくがわいえやす)と対立して大阪城で三度目の落城に合い、息子・秀頼と伴に自害している。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:58 | Comments(0)