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石田三成(いしだみつなり)

石田三成(いしだみつなり)は庶民の出自で、秀才ではあるが、根が戦国武将にはむかない善良者である。

その三成が、信義だけを信じて老獪な徳川家康相手に関が原の合戦を挑んだ。

なにしろ三成は、小田原平定の支城・忍城(おしじょう)篭城戦で、大将として五倍を越える兵を指揮しながら攻め落とせなかった凡将である。

善良な武将など戦に勝てる訳が無い。

善良な市民の悪い癖は、幾ら裏切られても、「お上を信じたがる」幻想を持ち続けている事で有る。

つまりそれは、永い事培われた征服部族の意識操作の影響である。

性善説に立ち、疑って掛かるのが「低俗な事」と、原則論に拘(こだわ)って真実に蓋をし奇麗事に終始する。

気持ちは判るが夢物語で、およそ権力者が奇麗事だけで勝ち上がって来る訳がない。

天皇家ならともかく、豊臣を奉じての大義名分だけでは他人(ひと)は動かない。

本来、ニ~三十万石程度の中規模大名である石田三成(いしだみつなり)がこの戦勝で伸し上がり、過日の秀吉のように主家である織田家を尻目に天下を取り、上に立たれて苦い思いをさせられるのは、自分達は御免である。

そうなると自他ともに実力を認める大々名の家康に付く方が、より現実的で納得が行くのである。

なまじ多少学問が出来たり上手く出世をすると、人間慢心が生まれる。

石田三成(いしだみつなり)もそうした手合いで、天下人豊臣秀吉に見込まれて出世を重ねるほど、独り善がりなその慢心が強くなっていた。

それが織田信長ほどの天才で、相手が実力を認めざるを得なければ別だが、三成はそこまでに至らない。

もつとも、厳密には統一で味方ばかりになった国内に、与える領地が無い事もあって朝鮮を狙ったのだから、攻め取れない以上、恩賞の出し仕様が無い。

大名を潰して再分配するほどの力も、豊臣政権の官僚(奉行職)と言うだけで所領が二十万石(十九万四千石)程度と中堅大名の三成には無かった。

本人が大して力を持たない癖に周りに指示を出すと「トラの衣を借りる狐」と揶揄(やゆ)される。

それを三成は、豊臣家の名で同格以上の者にまで強い態度で接した。

石田三成(いしだみつなり)は同僚の恨みを一身に買うが、秀才故に敢えて放置してしまう。

石田三成・関が原の敗因】へ続く。
石田三成暗殺未遂事件】に飛ぶ。

豊臣秀吉・恩顧大名リスト】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:47 | Comments(0)  

井伊直政(いいなおまさ)

徳川四天王の一人井伊直政(いいなおまさ)は、今川氏の家臣である井伊谷(いいのや)の国人領主・井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(いいのや/現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。

父の井伊直親は、直政の生まれた翌年、千五百六十二年(永禄五年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺され井伊氏は井伊谷(いいのや)の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる事情となる。

一時、生母の再婚相手松下清景の松下姓を名乗るが、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(児小姓)として男色(衆道)相手の間柄では最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝榊原康政と肩を並べるように成る。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

井伊直政(いいなおまさ)は、本多忠勝と同じく本能寺の変に於いて家康の伊賀越えにも従って居た側近中の側近の一人で、将に成っても軍の指揮を取るよりも戦闘に加わる激しい性格の為、戦の都度大きな戦功を立てている。

井伊軍団の軍装・井伊の赤備えは有名で、直政(なおまさ)本人も「井伊の赤鬼」と恐れられた。

関ヶ原の合戦に東軍(徳川方)が勝利した後、石田三成の旧領である近江国・佐和山(滋賀県彦根市)十八万石を与えられたが、その後彦根の地に本拠地を移して彦根藩とする。

この井伊直正の子孫に、江戸幕府幕末の悲劇の大老・井伊直弼(いいなおすけ/近江彦根藩の第十三代藩主)が居て、徹底した反幕府思想勢力の弾圧を行い尊王志士達から憎まれ、ご存知「桜田門外の変」で尊王志士のテロに合い、命を落としている。

江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り井伊家は明治維新まで存続している。


詳しくは、関連小論【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)】を参照下さい。

関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:41 | Comments(0)  

稲葉(林) 正成(いなば・はやし・まさなり)

さて、お福(後の春日局)のその後であるが、徳川家康関ヶ原の戦いに勝利し天下を掌握して征夷大将軍に任じられる頃に、暫(しば)らく家康の寵愛を得ていたお福にやがて転機が訪れ、家康の勧めで林 正成(はやしまさなり)と言う武将に嫁ぐ事に成った。

この婚儀で、お福の運命が大きく変わる事になるのだ。

相手は、林 正成(はやしまさなり)と言う武将で、実は浪人していたのだが、家康がある事で恩義を感じ、心に止めていた男だった。

そのある事とは、林 正成(はやしまさなり)が、関ヶ原の戦いの折に平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、小早川秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に貢献した男である。

その功労者・林 正成(はやしまさなり)が、小早川氏が幕府に処分され、家が断絶すると、浪人となって不遇を囲っていた。

義に厚い家康は、その林 正成の身の振り方を考えていたのだった。

家康の意向もあり、お福(後の春日局)は美濃国の稲葉重通の養女となる。

この稲葉家養女は林 正成(はやしまさなり)を引き立てる手の込んだ複線で、養女と成った。

福が正成(まさなり)を稲葉家の婿に迎える。

林 正成は稲葉正成を名乗り、家康の命により、旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ小とは言え大名に列した。

実は、お福の実家・斉藤利三(さいとうとしみつ)家と美濃・稲葉家は奇妙な縁が在る。

一時斉藤利三は稲葉家の家臣に成っていた事が在り、稲葉(一鉄)良通と父・斉藤利三の代で喧嘩別れしていたのだ。

明智光秀が従兄弟でお福の父親・斉藤利三(さいとうとしみつ)を明智家の家老職に迎えたのは漸く国持ち大名に成ったこの頃である。

斉藤利三(さいとうとしみつ)は斉藤道三の息子・斉藤義龍(土岐頼芸の子とも言われる)に臣従していたが、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家臣となったのだがその一鉄と喧嘩別れし、明智光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになった。

稲葉(一鉄)良通は、始め美濃国主・土岐氏に仕え、それを乗っ取って継承した斉藤道三の斉藤氏三代に仕えて、三人衆として最も有力な家臣団だった為、一鉄が信長の美濃攻略で斉藤龍興を見限って信長に寝返った事は、道三の斉藤氏の滅亡を決定的にし、その功績で稲葉一族は織田家に仕えた。

そんな訳でお福の斉藤利三(さいとうとしみつ)家と美濃・稲葉家は奇妙な縁があり、本来なら喧嘩別れしていたのだが、その後美濃・稲葉家は、織田家、豊臣家、徳川家に仕えて激動の時代を生き抜き、息子・稲葉貞通の代に徳川家康の依頼で斉藤利三の娘・福(春日局)の養父となり、林正成(はやしまさなり)を養子に迎えて、福(春日局)を大名婦人として三代将軍・徳川家光の乳母に送り出している。

稲葉(一鉄)良通の嫡男にして稲葉家の当主・稲葉貞通は、家康の依頼を受け入れて林正成(はやしまさなり)の大名家を稲葉姓で起こす手助けをした事になる。

この稲葉家とお福のその後の数奇な運命は、後ほどたっぷり披露する事になる。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:37 | Comments(0)  

岩倉具視(いわくらともみ)

岩倉具視(いわくらともみ)は、江戸末期の倒幕派の公家(くげ)で、維新以後の新政府の要人である。

また岩倉具視(いわくらともみ)は、「維新の十傑」に数えられる人物でもある。

岩倉具視(いわくらともみ)は堀河康親の次男として幕末期の京都に公卿として生まれて居る。

千八百三十八年(天保九年)に岩倉具康の養子となる。

注目に値するのはこの岩倉家、鎌倉初期に活躍した土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の後裔、村上源氏の支流であり、武系の流れも有する公家だった事である。

岩倉具視(いわくらともみ)には旺盛な野心があった。

岩倉家の養子と成った事で、岩倉具視(いわくらともみ)は関白であった鷹司政通の門流となり、朝廷での発言力を得て朝廷改革の意見書を提出した。

岩倉具視(いわくらともみ)は、千八百五十四年(安政元年)に孝明天皇の侍従となり、以後活発に活動を始める。

千八百五十八年(安政五年)に幕府老中の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得る為に上京した時に、岩倉具視は反対派の公卿を集めて阻止行動を起こし、尊皇攘夷運動を支持して王政復古の中心的な役割をした。

王政復古が成ると岩倉具視(いわくらともみ)は、公家としては七卿落ち三条実美(さんじょうさねとみ)と共に維新政府の首脳として要職にあった。

岩倉は外務卿(外務省の長官)に就任、さらに太政大臣が新設されて三条実美(さんじょうさねとみ)が就任したので岩倉が右大臣を兼務した。

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詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:33 | Comments(0)  

伊藤博文(いとうひろぶみ)

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、千八百四十一年(天保十二年)農家・林十蔵の長男として周防国・熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に生まれている。

つまり元は農家の家で士分では無く家は貧乏だったのだが、父・十蔵が長州・萩藩の中間・水井武兵衛の養子と成った事がきっかけで、父・十蔵の道が開ける。

父・十蔵は余程運が良かったのか、養子と成った養父の中間・水井武兵衛がさらに周防国佐波郡相畑の武士・伊藤氏の養子となって伊藤直右衛門と名乗った。

その幸運で、父・十蔵も幼き頃の利助(伊藤博文)も士分・伊藤氏を名乗り長州・萩藩下級武士に列する道が開けたのである。

その後利助(伊藤博文)は伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)を名乗り、十六歳で吉田松陰 (よしだしょういん)松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。

俊輔(しゅんすけ)は、年齢も入塾も吉田稔麿(よしだとしまろ)と同学年だった。

高杉晋作井上馨(いのうえかおる/井上聞多)らと尊王攘夷の倒幕運動に加わるようになる。

伊藤達長州藩倒幕派は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用され、長州藩の藩政に参画して指導的役割を果たした。

伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は、仲間と共に公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策したり、塙次郎・加藤甲次郎を暗殺し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍した。

伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は千八百六十三年(文久三年)、武器商人・トーマス・ブレーク・グラバーの仲介で、上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。ところが、留学中に余りにも圧倒的なイギリスとの差を目の当たりにして開国論に転じている。

この藩の資金援助で俸給を得ながら藩士を育てる藩費教育制度は明治維新直後から官費教育制度として形を変え、多くの渡航留学生を派遣して専門知識を習得させ、多くの指導者を輩出させた。

つまり特権身分に多くの学習機会を与える官費教育制度は、実は官僚の特権として形を変え、現代にまで続いている。

そのイギリス留学中に四国連合艦隊による長州藩攻撃の機運を知り、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は急遽井上聞多と帰国し四国連合艦隊との戦争回避に奔走するも藩論をまとめ切れず下関戦争(馬関戦争)が勃発する。

朝廷をめぐる主導権争いから長州藩と幕府の間は不穏な状態となり、幕府軍に拠る第一次長州征討(幕長戦争)が始まり、長州藩の藩論が幕府に恭順の姿勢を見せると、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は高杉晋作らに従い力士隊を率いて挙兵する。

力士隊は勢いを得て奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、高杉や伊藤達の正義派(革新派)が藩政を握った。

維新後、この伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として明治政府参与、岩倉使節団参加西南戦争における西郷隆盛(さいごうたかもり)の敗死、大久保利通(おおくぼとしみち)が暗殺された後の内務卿、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定、初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣を歴任している明治期の元勲である。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、拡大主義を取る政府内に在って数少ない国際協調重視派で、日露戦争では日露協商論・満韓交換論を主張してロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対している。

第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)に拠って大韓帝国が日本の保護国となり、日本が実質的な朝鮮の支配権を掌握すると、伊藤博文(いとうひろぶみ)は設置され韓国統監府の初代統監に就任する。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた。

韓国統監府統監を辞任し、枢密院議長に復帰した千九百九年(明治四十二年)、伊藤博文(いとうひろぶみ)はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合う為訪れたハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根(あんじゅんこん)によって狙撃され死亡し、日比谷公園で国葬が営まれた。

この暗殺事件がきっかけとなり、また日韓合邦推進派の口実とされ、伊藤博文(いとうひろぶみ)が意図しなかった日本による韓国併合は急速に進んだのである。

伊藤の生まれ育った山口県光市束荷字野尻は、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まい、山口県熊毛郡田布施町とは隣接地である。

伊藤が、四度(四回)も内閣総理大臣を勤めた他、新政府の要職に在り続けた理由の一つに、吉田松陰の命を受けた桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)と伊藤博文が「大室某を養育していた」と言う彼の経歴にあるのではないか?
そう考えれば、合点が行く事が在るのだ。

伊藤博文は国家の重鎮として四度も内閣総理大臣を勤めた。

ただ、宮中側近の元田永孚や佐々木高行等は保守的で、それを信任した天皇に立憲君主制に対する理解を深め、日本の政治体制の近代化を進めて貰うに伊藤は苦慮した。

そうした環境下に在って、伊藤が政党(立憲政友会)を結成出来たのは、明治天皇と伊藤博文の強い信頼関係に特別なものが在ったのではないだろうか?

つまり他の者にあらず、明治天皇と伊藤博文の強く特別な信頼関係無くして日本の政党政治は幕をあげる事はできなかった。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:29 | Comments(0)  

氏神(うじがみ・氏上)=鎮守神(ちんじゅしん)

貴方の街や村の鎮守(神)様、最初の成り立ちを考えた事があるだろうか?

総論的に解説すれば、渡来氏族と縄文人(蝦夷族)日本列島で同居し、支配階級の氏族と被支配階級の縄文人(蝦夷族)が構成された。

その渡来氏族と縄文人(蝦夷族)が同化の過程を経て弥生時代と呼ばれる時代が成立するのだが、その同化過程の中で渡来部族の先進文明は縄文人(蝦夷族)の文化を駆逐して行くのだ。

氏神は地域の守り神で、鎮守様とも言う。

成立したばかりの大和朝廷(ヤマト王権)は地方を掌握する為に細かく鎮守を派遣し、赴任して来た氏一族がその地を管理した。

つまり鎮守神も氏神の別称だが、中央の大和朝廷(ヤマト王権)からその地の鎮守を委任されて赴任して来た氏一族が、紛争の仲裁などして地方を掌握して行く。

赴任して来た氏族が、そうした地方運営に成功してあがめ祀(まつ)られて鎮守様・氏神様と神格化した。

それが鎮守様・氏神様の起源である。

皇族も神社も「宮」である。

当初村の鎮守の神様は、占領軍の入植地に設けた氏族の氏神(征服者の祖先を祭る)であり、被征服者は氏子ではない。

鎮守様は入植者氏族の氏長(氏上)自身の役職名「鎮守」であり、鎮守神社は、被征服者(蝦夷族)に征服者氏族を畏怖させ、ひれ伏させる為の政治的布教活動の拠点であり、鎮守社は砦でもあった。

この古代征服者が祀る神・征服者が祀られる神を総称して、「地祇系(ちぎけい)神」と学問的に提起されている。

古代豪族の地祇系神に関しては、出雲系を指す神を地祇系神とする説があるが、天孫降臨伝説の天神系も渡来古代豪族であるから、地祇系(ちぎけい)神の定義は渡来部族入植地の鎮守神・氏長(氏上)=氏神が相応しいのではないだろうか?

氏神は氏上であり神主(かみぬし=かんぬし)なのだ。神(かみ)は日本語で「しん」とも発音するが、中国語で姓(日本語で、せい・かばね)は、正しく「しん」と発音する。

例えば「絵馬」は、最初は氏長(氏上=氏神)に「馬」を献上して治世の願い事をした習慣が、時を経て氏神が神社と成って「馬」の奉納が形式化して馬の絵に成り、やがて現在の木製の板に絵を描いたものに成り、そこに願い事を書き入れて奉納する信仰習慣に成った。

こうした経緯一つ取っても氏神の正体は氏上(氏族の長)であり、尊敬はされていたかも知れないが生臭い神だった筈である。

日本の神社の成り立ちを「氏神(氏上)」に見る上でヒントになるのが明神(みょうじん)権現(ごんげん)で、実は明神も権現も言わばこの世に現れた神様の事である。

代表的な氏上(神様)が、剣明神社(つるぎみょうじん/織田神社)東照権現(とうしょうごんげん/日光徳川神社)と言う事になる。

土地の氏神が民を守る事と土地の氏上(うじがみ)が土地と民を守る事は、その到達の意味合いが重なっている。

氏族が先祖を神に祭り上げる事は、子孫である自分達の権力の正統化に繋がる事であるから奇跡現象などの労はいとわなかった筈で、純朴な民がそれを信じても仕方が無い。

そして神社境内は「氏神(氏上)の神域」に成り、その神域の結界を示すものが、「しめ縄(しめくり縄)」である。
つまりその接点は、日本列島他民族乱立時代の部族融合の為の誓約(うけい)人身御供伝説の神話の世界が形成されるのである。

神(かみ)は日本語で「しん・シン」とも発音するが、中国語で姓(日本語で、せい・かばね)は、正しく「しん・シン」と発音する。

中国語で神を「しん・シン」と発音し、これを列島で「かみ・カミ」と発音するのは「アイヌ語のカムイから来ている」と思われる。

ちなみに中国語で下は「シャァ」と発音し、上は「スァン・シャン」と発音し「かみ・カミ」ではない。

この国(日本列島)は、永い歴史において帝(みかど)が治める「大和合の国」、つまり大和(やまと)の国だった。

帝(みかど・日本読み、中国読みはディ・テェィ)の語源であるが、元は御門(みかど)である。

これが、初期の神社の成り立ちと大きい関わりがある。

御門(みかど)」と言う呼称であるが、門(もん/かど)に特別な意味があるのは、定住した部族が城砦集落(じょうさいしゅうらく)を築き外敵から部族を一括して守った事から、その出入り口に在る門(もん/かど)を「その部族の象徴」としたものを部族のリーダーに結び付け、そのリーダーを「御門(みかど)」と呼んだのではないだろうか。

そしてその城砦集落(じょうさいしゅうらく)の中心にシャーマニズムを統治に活用する部族のリーダー・御門(みかど)の住居としての屋敷が設けられ、時を経てその地が聖域として神格化されて「神社に成った」と推測するのである。

つまり、門構えがある砦状の屋敷を持つ有力者(征服部族長)の象徴が、御門(みかど)と言う「尊称だった」と考えられる。

逆説的に推測するに、「門を持つ屋敷」は、有力者にしか持つ事は許されなかったのでは無いだろうか?

また、そうした部族長の一部が支配域を広げて国主(くにぬし・王/臣王)に成長し、国主=御門(みかど)と成り、多くの国主(くにぬし)=王(おう)が集まって大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ・後の帝/みかど)を選出した。

御門(みかど)が有力者(征服部族長)の尊称であるから、その屋敷の門が独特の権威を持つ。

そして、その有力者(征服部族長)は、被支配者統治の為に神格化して行く。

つまり御門(みかど)は、当初一人ではなく地域地域で大勢居た。

有力者(征服部族長)の砦状の屋敷も神域化されて、鎮守氏上が鎮守氏神に成って初期の神社の様式が出来上がった。

当初、「社(やしろ)」は神の降臨する為の場所だった。
つまり、神の声(御託宣)を頂く為の祭場だったのである。

所が、何時の頃からか「社(やしろ)」とは建て物であり、神はそこに「常在するもの」と言う解釈に変化して行った。

この辺りに氏神(氏上)様のカラクリがある。

氏神(氏上)様の屋敷が社(やしろ)に成り敷地が御神域に成って、精神的にも冒(おか)す事出来ない権力と成った。

わが国独特の建造物として、鳥居(とりい)がある。

つまり、御門(みかど)として独特の権威を持つ鎮守氏上の屋敷の門が、神格・神域化して殊更権威ある物としての特別な門「鳥居(とりい)」の様式が、時間を掛けて完成されて行った。

まぁ、判りやすく言えば、氏神(うじがみ・氏上)の屋敷兼砦の門が、権威を得て「鳥居に成った」と言う事である。

神域と俗界(人間が住む)を分ける「結界」の象徴が、特徴ある形式で建造された一種の「門」が鳥居(とりい)で、一般的には神社の神域への入り口を表している。

鳥居(とりい)】に続く。
氏族(うじぞく)】に戻る。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:26 | Comments(0)  

誓約(うけい)

大抵の解説で、誓約(うけい)を安易に「占いの結論や神に対する祈りの誓(ちか)いの事だ」としているが、実は本質を知っていてその結論を表記する事を避けている向きが多い。

神話や伝説の類を良く読んで見ると、誓約(うけい)は忠誠を示す為のもので、誓約(うけい)の結果として新たなる神や子供が誕生する事が多い。

つまり、性交を伴う現実的な忠誠の証が誓約(うけい)なのである。


アフリカ・コンゴに生息するサル目(霊長目)ヒト科チンパンジー属に分類される類人猿・ボノボ、遺伝子が人類に九十九%も一致するほど最も人類に近い事が判っている。

類人猿・ボノボは言葉を理解し、生殖以外の目的の性行動を行うなど、チンパンジーよりもずっと人間に近いとも言われている。

その類人猿・ボノボは、雄(オス)どうしが個体間の争いをすると、仲裁に入った雌(メス)との交尾(性交)でその場の興奮を一瞬で鎮め解決する。

勿論、ボノボ社会が「群れ婚」だと言う事で、争い即・「手近(てじか)な雌(メス)」との交尾(性交)が成立している。

類人猿・ボノボが、争いの解決手段に交尾(性交)や疑似交尾(疑似性交)の快感を有効活用するなど、或る意味見事に合理的な方法を採っている。

或いは、日本神話に於ける「誓約(うけい)」の原点は、そうした発想に近いのかも知れない。


記紀神話(古事記日本書紀)に於いては、最初に誓約(うけい)を実践したのは猿田彦神天宇受売命である。

列島の民(日本人)は、「先住民(縄文人蝦夷族)と渡来系部族の混血だ」と言われていて、天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった。

神話においては、猿田彦が天孫降臨を感知して雲に上って上天し、「途中まで出迎えた(渡来を歓迎?)」とされ、その時天孫(渡来人・進入部族)は猿田彦に対し天宇受売命を「使者として交渉させた(誓約・性交による群れの一体化の儀)」と言う。

つまりこの夫婦(めおと)二神の役割もまた、「新旧民族の融和(誓約)の象徴」と言う訳である。

天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)の二神が、夫婦(めおと)に成り、後世に伝承される各地の祭りの神楽舞の面(おもて)として残った。

天狗(てんぐ)は「天の犬(狗・こう)」の意味で、描かれている衣装は、天狗、からす天狗の別を問わず、修験山伏の衣装姿で、修験と犬神が一体である事を物語っている。

当時、誓約(うけい)の古事は民族和合の誇るべき神事だった。

だから誓約(うけい)の精神に従って、「戦いを止めてベット・インをしよう」の誇るべき古事の為、神楽舞の面(おもて)、古くは天狗の鼻が男性器を表し、オカメの口は女性器を表していて、神楽舞台上で合体の為にサイズが合わされているのが本式である。

祭事として「神懸かって舞う」下りは、新旧民族の融和(誓約)の象徴を精神的に祝う神への奉納の舞である。

奈良県明日香村・飛鳥坐神社には天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる「おんだ祭り」があるが、これも明治維新の文明開化前は、「日本全国で祭礼をしていた」と言われる。

この誓約(うけい)の精神は、時代が下って行くと、争う敵将を味方につける為の「政略結婚」に変化して行くのである。

大和朝廷成立前後の古(いにしえ)の日本列島は、民族(部族)の坩堝(るつぼ)だった。

古い時代に住み着いた在来部族と、後期に渡来した進入(流入)部族の生きる為の争い。

その手打ち式が天の岩戸の宴席、岩戸神楽だった。

日向の地で決戦に破れ、高千穂の天岩戸で手打ちを行い、誓約(うけい)を持って、心身ともに和合する事で「両者統一に向かった」とするなら、ドラマチックではないか。

異民族の王同士の結婚、これは民族の和解を意味し、双方が滅びないで済む。
究極の和解であり、民族同化の象徴である。

この誓約(うけい)の概念が、実はその後の二千年の永きに渡り、日本の民の形成に大きな影響を与えて行くのだが、それはこの物語で追々記述する事になる。

性行為は自分が楽しむものであり相手を楽しませるもので、人間誰しも、楽しみを与えてくれる相手には優しく成れ、信じられる。

つまり和解の性交は争いから信頼に変える手段で、それがこの国に古くから伝わる誓約(うけい)の根本精神である。

東アジアの遊牧民は、長旅をする遠来の客を「大事にもてなす習慣」が在った。
驚いた事に、客人に愛妻を「一晩差し出す習慣まで合った」と言う。
「そんな馬鹿な」とは言って欲しくない。

広大な台地を行き来して生活する彼らにとって、出会いに対する選択は二つしかない。つまり、争うか歓迎するかのどちらかなのである。

それは、いつどんな相手に遭遇しないとも限らない条件下に在って、互いに平和を維持する為の究極の知恵である。

この「遠来の客を大事にもてなす習慣」の和合精神、時代の経過と伴に大分変則的に変化しているが、遊牧民の末裔トルコ民族のベリーダンス(回教国なのに、女性ダンサーの露出度が高い)や、中国(漢民族を含む)人の来客もてなし時の「面子(めんつ/恥をかかない接待)」にも、その影響として残っている。

チンギスハーンと孫のフビライ・・・・、大モンゴル帝国(元帝国)の発展は、優秀なら人種や出身国を問わずに登用した事により、「広域な大帝国を築き上げた」と言う。

この「優秀なら人種や出身国を問わずに」の精神には、東アジアの遊牧民の精神「遠来の客を大事にもてなす習慣」が生きていたからに思えて成らない。

大モンゴルは、自分の出身民族に拘っていたら、成されなかったで在ろう偉業なのだ。
この事は、古代日本列島に発生した「誓約(うけい)」と言う民族融合の知恵と、ある種共通する所がある。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。


実はこれらの神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

古事記日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝修験道師を使ってまで仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、異部族を混血化して単一民族に仕立てる事であり、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。
詳しくは、小論【美しくなれる興奮の解説】をご参照ください。
詳しくは【夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった私の愛した日本の性文化】へ飛ぶ。

類人猿・ボノボ こそ、争いを回避する知恵の原点】

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 23:23 | Comments(0)  

歌垣(うたがき)

そもそも儒教が入る前の列島の国・大和(日本)は、元々、「歌垣(うたがき)」の風習に代表されるように性に対して開放的な習風俗の国だった。

歌垣(うたがき)は男女が集会し相互に自作の掛合歌を読み詠う事によって求愛し、或いは恋愛遊戯をする歌掛けの習俗の事で、中国の南東部に住む少数民族「苗(ミャオ)族」の間では、「遊方(ユゥファン)」と言われているこの歌の掛け合いの儀礼は、既婚に拘らない自由な性的交わり、「目合(まぐわ)い」の許される南方渡来の習俗の場である。

「目合(まぐわ)い」とは古事記日本書紀にも記される言葉で、男女の性行為(せいこうい)の事であり、男女が性的欲求に従いお互いの身体、特に性器(生殖器官)や性感帯などを手・指、唇や舌先にて愛撫刺激し、男性器(陰茎)を女性器(膣)に挿入し射精するなどの行為と、それを含む多様な行為がまぐあい(性交)である。

そもそも儒教が入る前の列島の国・大和(日本)は、元々、歌垣(うたがき)の風習に代表されるように性に対して開放的な習風俗の国だった。

平安時代万葉集(巻九)の高橋虫麻呂が詠んだ歌に「率ひておとめおのこの行きつどひかがふ[%歌」に 「他妻に吾も交はらむ 吾が妻に他も言問へ・・」と詠まれている。

歌の解釈は、「男女を率いて集い行き、自らが人妻と交わり、わが妻も他が言い寄っている」と歌垣(うたがき)の開放感を詠んでいる。

事、同意の上の性行為に関しては、どこまでがノーマル(正常)でどこからがアブノーマル(異常)なのかの線引きなど、当時は無い。

現代で言えば、歌垣(うたがき)はさしずめ乱交パーティだが、参加者合意のルールであるから人目も憚(はばか)らない大胆な性交相手の獲得遊びで、決まればその場で事に及ぶオープンなものだった。

こうした歌を、半ば公の歌集で堂々と発表出来るほど、当時の貴族間の性は開放的だった。

この歌垣(うたがき)、春の予祝(実り・豊穣/生産祈願)及び、秋の実り(豊穣/生産)の感謝行事としての性格を持って始まり、春秋の特定の日時に若い男女が集まり相互に求愛の歌謡を掛け合い性愛の相手を選ぶ風習俗である。

貴族の間で流行(はや)った習風俗・松茸(まったけ)狩りの余興・「掛唄」は、歌垣(うたがき)同様に妻をスワップ(交換)する野外セックス行事だった。

つまり松茸(まったけ)の収穫・秋の実り(豊穣/生産)の感謝を祝いながら「歌」を読むのだが、これ自体が無礼講の口説(くど)き歌で、妻がその気に成ればその場で事に及ぶ事を夫が許すオープンセックスだった。

「物見遊山」と言う熟語の本来の意味は、神社・仏閣・景勝地の「物見」と歌垣(うたがき)・松茸(まったけ)狩りの「遊山」=スワップ(交換)遊びである。

歌垣(うたがき)の遊山(ゆさん)は、背徳の不貞・不倫では無く夫婦合意の乱交プレィだった。

つまりマンネリ(新鮮みを失う)防止の為に、性交相手を互いにシェア(共有)する合意が仲間内で為(な)されていた。


どうやら歌垣(うたがき)の源は南方文化らしく、同様の風習は中国南部からインドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる所から、所謂原ポリネシア系縄文人か海人族(呉族)系氏族(征服部族)が持ち込んだ「南方文化」と考えられるのである。

古代日本における歌垣(うたがき)は山頂、海浜、川、そして市などの境界性を帯びた地が場所に選ばれ、特定の日時と場所に老若男女が集会し共同飲食しながら歌を掛け合う行事であり「性の解放を伴っていた」とされ、歌垣(うたがき)の風習が民衆の間で広く行われていた事が歌集「万葉集」などに拠り伺う事が出来る。

つまり古代日本において、万葉集の時代に歌垣(うたがき)の性風習が存在した訳であるが、この歌集・万葉集の時代とは仏教が伝来し蘇我氏物部氏がその取り扱いを巡って争った五百二十年代から平城京遷都後十年ほど経た七百二十年の二百年間を言い、儒教が入る前の列島の国・大和(日本)に広く永く存在した性風習で有った事は間違いない。

万葉の時代は同父母の兄妹は流石(さすが)に性愛対象外だったが、今と違って身内も性愛対象で、父母のどちらかが違えば性愛の対象としても余り問題視されなかった。

万葉の当時は「通い婚」の時代で、当時の社会では女性が家を持ち男性が通う婚姻形態から、その男女の間で産まれた子は母親の元で育つ事に成る。

育った家が身内感の中心に成る関係から、父親が同じでも母親が違えば別の家の子であり、兄弟姉妹の感覚はなかった為に「血の繋がりが特に問題にならなかった」と言う事であろう。

そうした環境下の当時の男女の性愛の倫理観から、「万葉集」の中には現代ではタブーとされる異母兄妹の関係での夫婦や恋人、そして同時に夫婦と恋人の乱倫関係にあるなど比較的自由な性愛関係がさして秘する事でもないとされて伸び伸びと詠まれている。

今でこそ「劣勢遺伝」の問題があるので考え難いが、現代では「タブー」とされる異母の間で生まれた兄妹や三親等間の性愛が、皇室や貴族も含めて当時は珍しい事ではなかった。

三親等とは父方と母方のおじ(伯父・叔父)やおば(伯母・叔母)、甥(おい)や姪(めい)、息子の嫁の祖父や兄弟などが該当するのだが、その三親等間の性愛や結婚、一夫多妻や所謂(いわゆる)スワッピング(夫婦交換)など、生殖行為として限定されていない自由で解放された多様で豊かな性や愛のありようを詠んだ歌が万葉集の中に多数散見されるのである。


歌垣(うたがき)の記述は、「万葉集」の他に「古事記」・「常陸国風土記」・「肥前国風土記」などにも見え、その習風俗は日本列島の広い範囲に分布していた痕跡があり、現代でも沖縄の毛遊び(もうあしび)に歌垣(うたがき)の要素が強く認められるほか、福島県会津地方のウタゲイや秋田県仙北地方の掛唄にも歌垣(うたがき)の遺風が見られる。

長く続いた歌垣(うたがき)の風習俗も、次第に流入する新しい大陸文化の影響で平安時代から鎌倉時代を経て消滅の過程を辿り、近世になって、儒教道徳が氏族社会(貴族・武士)の生活意識を支配し始める事になる。

室町(足利)時代に成ると南北朝並立の経緯から北朝方と足利氏が勢力を増し、仏教に儒教が習合されて「氏族(貴族・武士)社会」は禁欲的な方向に傾倒して行くが、庶民社会(民の社会)は性に対して開放的な感覚を維持し続けて明治維新を迎える。

儒教精神を基とした「固定した身分制度・封建社会」に抗していた民衆の武器が、思想や道徳に囚われない人間の恋愛感情や男女の交情であったから、民衆の風俗思想は性に対しては寛大であったのである。

【右脳・左脳とベータ・エンドロフィン美しくなれる興奮の解説】に飛ぶ。
夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。
そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 22:19 | Comments(0)  

宇佐神宮(うさじんぐう)・(一)

伊勢神宮に次ぐ皇室第二の宗廟・宇佐神宮(在・大分県宇佐市)の社格は、延喜式神名帳に記載される「式内社」で旧官幣大社である。

八幡神の応神(おうじん)天皇を祭る神で、全国の八幡神社、四万社の総元の神様であり、「天照大神を祭る伊勢神宮に次ぐ」と言う相当格式の高い神社である。

応神天皇の母后、神功皇后もここに祭られている。

一説には、神功皇后は架空の人物で、「卑弥呼との兼ね合いで後から創られた」とする話もある。

しかし、主神である筈の応神大王(おおきみ・天皇・第十五代)は、宇佐神宮の本殿の中央には鎮座してはいない。

中央におわすのは、余り一般には知られては居ない、「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」である。

その左右に、応神、神功、の両神は鎮座ましましている。

比売大神(ひめおおみかみ)については、その道の研究家でも良く解明されてはいないが、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)を横に据えるからには、かなりの大物(尊い)の神様に違いない。

この並び順を、単なる造営順番に起因する「イレギラーだ」とする学者も居るが、少し考えれば「在り得ない事」と判る。

何故なら日本で一・二を争う最高の神社で、それでは安易過ぎはしないか?

当然ながら、信仰から神を扱う以上、その並び順には神経を使い、然るべき所に御鎮座願うのが当り前である。

宇佐神宮(うさじんぐう)・(二)】に続く。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 22:18 | Comments(0)  

右脳と左脳

過って村落共同体に於ける「夜這い」や「寝宿制度」の知恵は、基本的に経験学的な合理性を持って永く存続していた。

性本能は「理性で押さえ込めば良い」と言う安易な考え方は、そもそも「偏向傾向」の【建前】に傾倒した【左脳】的な考え方で、複雑に発達した脳を持つ人間の人間性を否定するものである。

人間の脳は、大別すると左右二つに分かれていて【右脳】は本能的無意識能力系統を司る役割で「無意識脳」と言われ、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの活動の機能をしている。

そうした意味で【右脳系】の職業人は、性に対しては開放的で奔放な心理の持ち主が多数であっても不思議は無いのである。

基本的に、恋も愛も情も「無意識脳」的な【右脳系】の感性で、【左脳系】の理性や計算が入るのは本当の意味で恋や愛情ではない。

ちなみに、脳内で生産される脳内麻薬のベーターエンドルフィン(快感ホルモン)は、【右脳】の活動が活性化する事で生成されるのである。

それに対し【左脳】は理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしているのだが、【左脳系】はその理性的意識から絶えずストレスに晒されているにも関わらず性に対しては禁欲的で、返って暴発の危険を抱えて生きている。

人間を含む生物の機能は便利に発達していて、脳に拠る状況感知により必要な時にはその状態に対応したホルモン物質を生成して送り出し、自らをコントロールする。

そこら辺りを熟知して、利口に応用するか無知のまま何もしないかで、長い人生々活に結構な差が付くかも知れない。

これはその脳の能力とホルモン物質の話である。

また、人間の発想は、理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)どちらかが基で、「無意識脳」と言われる「右脳域の観念」か、理性的意識能力系統を司るとされる「意識脳」の「左脳域の計算」のどちらかが働いて答えを出す。

つまり恋愛は、「理性の左脳域」でするものか「感性の右脳域」でするものなのかさえも定説は無く、とどの詰まりはケースバイケースであり、同様に日本史に混在する「文化としての歴史の虚」と「現実の歴史の実」は、そうした人間の「左脳域と右脳域」の働きとリンクしている。

人類は他の動物と著しく違う発達した脳を持つ事で進化を続け、文明を築いて来た。

その発達した脳とは、右脳と左脳が役割を分担して相乗的に進化したものである。

二足歩行を始めた発達初期の頃の人類に於いては、右脳域の感性は「危険察知の為の想像力に始まった」と考えられ、事前に想像する事で「少しでも危険を回避出来れば」と右脳は徐々に発達して行った。

そうした過程の中で、右脳域の感性は五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を発達させ、それらを組み合わせた信仰・空想・絵画・音楽・映像・文学などの感性を社会生活の中に構築した。

つまり歴史的に文化と呼ばれるものは、「右脳域の感性が働いた結果具現化された」と考えれば良い。

同時に、右脳域の感性とはまったく正反対の左脳域の理性と計算が、その空想的想像力の危な気な部分を現実的に処理する為の補完機能として右脳を発達させた。

誤解して貰っては困るが、脳の思考が右脳域の感性と左脳域の理性に役割が分担されていても、現実問題として人間はその両方を一度に働かせて居て、つまり世に言う右脳人間・左脳人間などと言う極端な者は存在しない。

つまり右脳派人間や左脳派人間の括(くく)りは、結論の主体をどちらに置いて主張行動するかの性格的な問題で、脳その物が偏って働いている訳ではない。

解説すると、通常人間の思考は常に右脳域の感性と左脳域の理性のどちらかの思考を主体にするかの選択をして居て、芸術関係の右脳域の感性を主体にした思考の中にも左脳域の理性が混在しているのが通常の事である。

右脳域の感性と左脳域理性は思考の中で混在する物だが、肝心な事は、視点を何処に置いて思考をするかで論点は変わり、人間の主張や行動が実は右脳域の思考で初めてか左脳域の思考で初めてかでまったく違う結論を得るからである。

つまり人間の思考結果は単純に右か左かではないのだが、但し一瞬の行動の中には右脳域の感性のみが働く瞬間が在り、それこそが後先を考えない右脳域の感情の発露と言う事に成る。

結論から言うと、右脳と左脳が相乗的に発達して現在の人類が在るのだが、複雑に成り過ぎた部分も在り、一つの物事を右脳で感じ採るか左脳で計算するかで結論が変わって来る。

しかも、もっと困った事に、基点を右脳域の感性に置いて始めた思考に左脳域の計算が加わったり、基点を左脳域の計算に置いて始めた思考に右脳域の感性が加わったりと一筋縄では行かないのが人類の思考回路である。

その複雑な思考回路の人類と言う存在を前提とせず、その時々に都合の良い発想を選択して解決しようとする事が、様々な矛盾を成立させているのである。

そして困った事に、何事にも簡単に決着したい人々が「私は左脳人間、私は右脳人間」と決めたがるが、実はそんなに簡単なものでは無く、普段「左脳・右脳」のどちらかの傾向が強い方でも、弱い方の脳域で思考した事を都合良く判断に使う複雑さを持ち合わせているのが人間である。

人間が進化の過程で、手で物を作るように成って左右どちらかが利き腕に成ったのだが、人類の九割が右腕が利き腕に成って行った過程が左脳の発達をうながし、左脳域の理性と計算が人類の武器となった。

つまり左脳域の理性と計算は、右手が利き腕として左脳でコントロールする事から知能的刺激として発達し、その段階から人間の脳は「理性と計算の左脳」と「感性の右脳」に役割が分かれて行ったのである。

その左脳と右脳の感じ方の問題にしても、実は左脳だけでも深い浅いが在り、当然右脳にも深い浅いが在る。

例えば左脳域の理性と計算の捉え方に於いても、目先の単純な損得もあれば、「こうしたらどう言う計算になる」と先の先の結果を深読みした損得も在り、同じ損得でも採用する手段の答えは正反対になる場合もある。

右脳の感性に於いても、目先単純な感情の発露もあれば右脳の感性に左脳域の理性と計算を付加した重層的なアプローチも存在するので、「左脳と右脳」と言っても答えは幾つもあるのに一つの答えを絶対視するから、進歩しない人間は一生進歩しない。

絶えず思考して脳に刺激を与える事は、それ自体が人生に於いて有意義なもので、何かの事象に対して「自分には関わりが無い問題だ」と思考から切り捨てた時から、その分野の脳細胞の接続を失って行き無知が進行する。

つまり「左脳域」と「右脳域」のどちらかで出した答えに「絶対性」は無く、どちらも正解と言えたりどちらも不正解と言える場合もある。

人間の発想は、理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)のどちらかが基で、「無意識脳」と言われる「右脳域の観念」か、理性的意識能力系統を司るとされる「意識脳」の「左脳域の計算」のどちらかが働いて答えを出す。

つまり恋愛は、「理性の左脳域」でするものか「感性の右脳域」でするものなのかさえも定説は無く、とどの詰まりはケースバイケースであり、同様に日本史に混在する「文化としての歴史の虚」と「現実の歴史の実」は、そうした人間の「左脳域と右脳域」の働きとリンクしている。

そして困った事に、何事にも簡単に決着したい人々が「私は左脳人間、私は右脳人間」と決めたがるが、実はそんなに簡単なものでは無く、普段「左脳・右脳」のどちらかの傾向が強い方でも、弱い方の脳域で思考した事を都合良く判断に使う複雑さを持ち合わせているのが人間である。

つまり「左脳域」と「右脳域」のどちらかで出した答えに「絶対性」は無く、どちらも正解と言えたりどちらも不正解と言える場合もある。

固体としての人間に取っては、この【左右の脳】の活動バランスが問題である。

つまり、一方に傾倒したままの人生を送る事は余り得策とは言えない。

いずれにしても、【右脳系】【左脳系】に関わらず、「俺は・私は」こちらが得意だから、或いはこちらで成功しているのだから「そっちの方は知った事ではない。」と安易に考えていると、思わぬ落とし穴に遭う。

つまりバランスが悪い「偏向傾向人間」に成ると、その本人にとってはそれが弱点になる。

例を簡単に取り上げると、【右脳派人間】である芸能関係や芸術関係に「薬物常習者」が多いのは、【左脳】の理性的意識能力を発揮すべき問題に直面した時にその能力が不足している為に、より【右脳】に逃げ込もうとする所に有る。

反対に、オーム教団事件に見られるように教団幹部に科学者や医師が幹部として多数含まれていた謎は、【左脳派人間】は理性的意識能力が得意だけに、【右脳】の本能的無意識能力系統に対して劣等感的弱点があり、「何故あれほどの知識人が?」と言う結果を招いた。

【左脳】が悲鳴をあげるほど理性的意識に抑圧されるストレス職業に役人(官僚・公務員)、教職関係者、司法関係者(警察官を含む)、宗教指導者、科学者、医学関係者などがあり、本来最も理性的であるべき立場の者が痴漢行為や淫行などの事件を起こす。

つまり職業柄【左脳域】ばかりを使っているストレス職業に携わる人間ほどバランスの癒しを求めて【右脳域】に暴走する。

これは理性だけでは人間が生きて行けない事を意味している。

所が、この【左脳域】ばかりを使うストレス職業に対する世間の理解は不足していて、彼らに【右脳域】のケアをしようと言う風潮は周囲はもとより本人にさえない。

一般的には【右脳派人間】も【左脳派人間】も、宗教のペテンに信者として引っ掛かってしまうと、そこから先は都合良く【右脳】ばかりを刺激・コントロールされて「盲信」に陥る事になる。

勿論、本能的無意識能力系統ばかりに傾倒した極端な【右脳派人間】も、社会性の部分では大いに問題が有るが、結論を言えば人間は適当に本能的であり適当に理性的でなければならない。

つまり【右脳】はリラックス本能的、【左脳】はストレス本能的に活動するものであるから、【左脳】のストレスと活動バランスを上手に取る為に【右脳】の信仰(宗教)や他の動物に無い「擬似生殖本能(性行為のみの欲求)」は生まれた。

言わば「畏怖の念」や「未知への恐怖」などの【右脳域の感性】の裏返しに「占い」や「信仰(宗教)」は存在する。

占いも信仰(宗教)も性行為も【右脳域での思考】で、本能的無意識能力系統を司(つかさど)る役割で「無意識脳」と言われ、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの感性が、人間としての固体に影響を与えている。

従って、理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしている【左脳域での思考】とは相反する「論理的ではないもの」が、「占い」や「信仰(宗教)」そして「性行為」などの範疇である。

人類は群れて生きる動物で、人間が群れ社会を形成し集団で仲間として生きる為に発達した脳の部位が、脳の左右に鎮座する「側坐核(そくざかく)」である。

その「側坐核(そくざかく)」は感性を司どり、人間の資質に存在する報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性に重要な役割を果たす脳部位である。

逆説的に言えば、群れ社会を形成する為には「側坐核(そくざかく)」の働きに拠る報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性が、「人間の群れ社会の根底にある」と言う訳である。

理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)】に続く。

詳しくは【美しくなれる興奮の解説】を参照。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 22:04 | Comments(0)