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大日本史編纂の謎

徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り水戸藩とし、御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

水戸藩は将軍の補佐を務める事を任とし、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)と言う特殊な存在であった。

「大日本史」は、徳川頼房(正三位権中納言)の三男、従三位中納言・徳川光圀(みつくに)によって編纂された歴史書である。

公表では、史書編纂を志した光圀は水戸藩世子時代の千六百五十七年(明暦三年)には、明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移った事を期にここで史局を開発し編纂事業を開始する。

千六百七十二年には、光圀は編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転して「彰考館」と改め、史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、表向き特に南朝関係の史料を広く収集している。

実は南朝関係の史料は全国に分布し、その資料編纂を目的とした調査が理由となると何処の藩も水戸藩々士の藩領入国を断れない。

尚、「大日本史」は光圀死後の千七百十五年(正徳五年)に第三代水戸藩主・徳川綱條(とくがわつなえだ/光圀養子)による命名で、光圀時代には「本朝史記」や「国史(倭史)」と呼ばれている。

水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、「大日本史編纂」に取り掛かる。

まず異母弟の重臣・鈴木重義(雑賀重義)を隠居所・西山荘に呼び、全面的協力を要請する。

光圀は藩内外に「大日本史編纂」を宣言すると、学問所(現在の研究所)「彰考館」を設置して藩内の優秀な人材を登用する。

そして、その人材の活動を裏面から支えたのが、雑賀衆の棟梁・鈴木重義だったのである。

通称水戸黄門(徳川光圀)として庶民に親しまれている諸国漫遊記の物語の「現実の方」には、幾つかの裏事情が隠されているのだ。

「大日本史」は、千六百五十七年に、徳川光圀が「尊王の目的」で編纂を始めた事に成っているが、水戸藩は御三家とは言え高々二十六万石の、中規模上位の構えである。

そこに藩の財政を逼迫(ひっぱく・非常に苦しく)させる程のこの大事業である。

それでも江戸幕府はその事業を容認し、水戸藩内でも目立った反対もなしに幕末まで継続されている。

いくら建前の奇麗事を言っても、政権の本音には「諜報機関と工作機関は欠かせない」と言う矛盾がある。

江戸幕府に於いても、朝廷公家、諸藩の動静を監視する事は、統治の生命線だった。

幕府の中核を成す立場の武家、水戸藩のする事である。

「大日本史」編纂が唯の文化事業ではなく、他に表ざたには出来ない目的があっても不思議ではない。

とっぴな話しと想うだろうが、もし大日本史編纂が只の学術的な物であれば、徳川家康がわざわざ雑賀鈴木家を水戸徳川家重役に送り込んだ理由の説明が着かない。

つまり水戸徳川家をCIAに仕立て上げる目論見があったからこそ、雑賀の棟梁・孫市に預けていた庶長子の「一蔵重康(いちぞうしげやす)」を水戸徳川家重役に送り込んだのであれば納得が行くのだ。

水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、藩領内からほとんど出る事の無かったのだが、漫遊記では水戸光圀公が全国を歩いて悪役人を懲らしめ、世直しをして居る事に成っている。

これは架空(フィクション)の物語で、幕末になって、「講談師(氏名は不明)が創作した」とされている。

この水戸黄門漫遊記に登場する「助さん格さんに忍者役のサポートの一団」のモデルが、驚く事に「全て雑賀衆だ」と言ったら、どうだろうか?

事実の方が、講談師の創作より意表をついている事になる。

「大日本史」の現地調査の名目は、情報活動(諜報)の表向きの隠れ蓑の一面がある。

この情報活動(諜報)、素人では中々出来ない代物で、案の定と言うか、実は雑賀(さいが)の鈴木家が二代将軍・秀忠の命を受け、この企みに主導的に噛んでいる。

幕藩体制が確立してからは、諸大名は幕府の情報活動(諜報)には特に神経を使った。

当然ながら、藩の失態が幕府に知れたら、取り潰しなどの存続の危機に陥る。

如何なる難癖を付けられないとも限らないから、密かに入国する公儀隠密(お庭番)との暗闘は続いていたのだ。

制度上私兵を保有する大名諸侯の動静監視は、徳川幕府の政権維持には欠かせない戦略である。

推測するに、この「大日本史」編纂名目、各藩諸侯(諸大名)には「良く考えられた」厄介な入国の口実である。

公儀隠密(お庭番)などが、身分詐称で入国したのであれば、露見次第で闇から闇に葬る事も可能だが、幕府副将軍(格)・水戸家から「大日本史」の現地調査として正式に堂々と乗り込んで来られては入国を拒めず、余程の事が証明出来ないと、行動の制約も出来ないのが狙い目である。

つまりそれは、編纂の為の現地調査を名目とし幕府にとって「諸国大名家監視体制」として非常に効果的な各藩諸侯(諸大名)の制御策だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)と雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

水戸家に於ける雑賀の立場は、並の家臣ではない。

雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として雑賀孫市の兄弟とも子ともいわれる鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、千六百六年になって徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕え、後に二代将軍・秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、幼名を鈴木一蔵と言い、重康の名をさずかった「松平元康(徳川家康)の庶長子ではないか?」と噂される人物である。

それが、三河鈴木家から依頼を受けた雑賀孫市に育てられ、雑賀党の棟梁に成っていたのである。

この噂が本当なら、「家康の庶長子と知っての水戸家入り」と言う事になる。

水戸藩士・鈴木家は重朝の子の重次の時に、神君・家康の落胤・鈴木孫三郎重朝(鈴木一蔵)の家系が四代目に女児ばかりだったのを契機に、後継ぎとして主君徳川頼房と側室寿光院(藤原氏)の子(光圀とは腹違いの兄弟)を養子に迎えて「鈴木重義」と名乗らせ、「大日本史」編纂作業の始まる頃には、完全に水戸藩親族系の家臣の家と成っている。

鈴木家は後に雑賀家を名乗り、水戸藩の重臣として幕末まで続いた。

つまり水戸藩鈴木家(雑賀)は、光圀の「大日本史」編纂事業の裏表に深く関わって不思議は無く、隠密系の武門の家である事から返ってこの符合が納得出来るひとつの方向を暗示していたのである。

水戸藩鈴木家は後に名字を雑賀と改め、代々の当主は「孫市を通称とした」と言う。

徳川家一門の並々ならぬ支援を受け、あの影人の大名跡、「雑賀孫市」を、晴れて復活させてのである。

水戸雑賀(鈴木)家は、表向き水戸藩砲術指南役として天下に名声を博し、けして闇の存在ではないが、実は江戸幕府二百五十年の体制維持に大きく貢献した。

つまり水戸雑賀(鈴木)家は、言わば「幕府系隠密」と言う別の顔を密かに持っていたのである。

この水戸徳川家と雑賀鈴木家の重い経緯に加え、御三家とは言え、水戸三十五万石(実質二十五万石とも言われる)の一藩が手掛けるには余りにも大事業の「大日本史」の編纂を、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)と言う特殊な大名家が携わるとくれば、その目的に表向き以外の幕府公認の「何かが隠されている」と考えざるを得ない。

尚、徳川光圀(水戸光圀)が創設した藩校・彰考館に拠る「大日本史」の編纂から水戸学や国学で「皇国史観」を取り上げたには、当時の現天皇家が北朝流であり水戸・徳川家が足利尊氏を逆臣として南朝流正統説を唱えるのは「天皇家をけん制する事に目的の一つが在ったのではないか?」と言う見方もある。

関連記述
水戸藩重臣・雑賀(鈴木)家の謎】に飛ぶ。
鈴木氏(すずきうじ)】に飛ぶ。

詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-05-31 17:47 | Comments(0)  

小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い

小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、千五百八十四年(天正十二年)に、信長二男・織田信雄徳川家康(とくがわいえやす)陣営と羽柴秀吉陣営との間で行われた戦役である。

賤ヶ岳の戦い時に勝利した羽柴秀吉は、その年(天正十一年)の暮れに新築した大坂城に織田信雄を含む諸将に参城を命じた。

秀吉は織田信長(おだのぶなが)の次男・信雄を「主家」として擁立し、賤ヶ岳の戦いに諸将を集める名目としたにも関わらず、賤ヶ岳の戦いに勝利して後には態度を一変させ、天下人然と織田信雄に秀吉に対し臣下の礼をとる事を求めたのである。

秀吉の「主家」を自認する織田信雄はこれを拒否し、大坂参城の命に従わなかった。

そこで秀吉は一計を案じ、織田信雄の家老職・津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の三人が「秀吉に通じた」と言うデマを流しす。

これに疑心暗鬼となった信雄は三人を処刑、秀吉に信雄をする討伐する口実を与えてしまう。
秀吉が兵を挙げると、織田信雄が頼る有力武将は一人しか居ない。
信雄が懇願して徳川家康に援軍を求め、家康が渋々出陣した事から、秀吉と家康との戦いとなる。

当然と言えば当然だが、雑賀孫市(さいがまごいち)を始め雑賀衆根来衆は秀吉とは敵対関係にあり、昔から徳川家康(とくがわいえやす)明智光秀(あけちみつひで)との繋がりが有った事から家康勢に味方して立ち上がる。

秀吉から圧迫を受けていた四国の長宗我部元親、賤ヶ岳の戦いで柴田側に居ながら上杉軍への備えのため越中を動けず結果的に生き残っていた北陸の佐々成政らも織田信雄・徳川家康陣営に加担し連携を取って羽柴秀吉陣営の包囲を形成する。

雑賀衆・根来衆が海陸から北上して秀吉側へ攻勢をかけたので、秀吉が織田信雄の本拠地・尾張への出陣はかなり遅れた。

秀吉の尾張出陣後も、雑賀衆根来衆は大坂周辺を攻撃して後方から秀吉方の動揺を誘う。

この事が秀吉の手を焼かせて、秀吉は家康と雌雄を決する事無く講和に追い込まれた要因に成っている。

織田信雄の援軍の為に清洲城に徳川家康が援軍を引き手到着したその日に、織田信雄の家臣から裏切りが出る。

織田家譜代の家臣で信雄側に与すると見られていた池田恒興(美濃大垣城主池田輝政(いけだてるまさ)の父)が突如、秀吉側に寝返り犬山城を占拠して小牧山周辺での戦いが始まった。

家康は寝返った池田恒興に対抗するため、すぐさま翌々日には小牧山城に駆けつけ占拠入城しようとした所、秀吉側の森長可(もりながよし)(恒興の女婿)も小牧山城を狙っていて、小牧山城を間近に望む羽黒(犬山市)に着陣する。

情報戦ならこの戦、初手から家康方のものである。

織田家・信長の諜報を一手に引き受けていた明智光秀のネットワークが、雑賀孫市を始め徳川家康陣営に加担している。

この動きは直ぐに家康側も察知し、これを討つべく同日夜半に酒井忠次榊原康政らの兵五千が羽黒へ向けて密かに出陣する。

翌日、早朝、忠次率いる部隊は森長可勢を一気に奇襲した為、森長可勢は応戦したものの忠次らの猛攻に耐えかね潰走した。

この緒戦は、羽黒の八幡林という所で戦われたので、羽黒の戦い(八幡林の戦い)という。
敵襲の心配がなくなった家康は小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ秀吉の着陣に備えた。

秀吉本隊は、羽黒の戦い(八幡林の戦い)が決着した頃に大坂城を出発、一週間ほどを費やして犬山城、また一週間ほど掛けて漸く楽田(犬山市)に着陣する。

家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの二週間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全く動かずの膠着状態に陥っていた。

楽田(犬山市)に着陣した秀吉は、この膠着状況を打開する為に家康側の布陣地帯を迂回して三河方面に出る迂回作戦を策定し、先鋒・池田恒興(兵六千)、次鋒・森長可(兵三千)、第三陣兼目付として堀秀政(兵三千)、総大将に三好秀次(秀吉の養子で後の豊臣秀次)本隊・兵八千余が三河に向けて出撃した。

ここでも家康方の諜報ネットワークが瞬時に機能する。

この秀吉勢の動きを家康は、三好(豊臣)秀次勢が篠木(春日井市)辺りに宿営したあたりから近隣の農民や伊賀・雑賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知し、小幡城(名古屋市守山区)に移動、その夜半陣立てを決めて翌日未明から地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら四千五百を先鋒として三好秀次勢の追撃を開始させ、家康・信雄の本隊も後を追うように出陣した。

家康が小幡城に入った頃に、秀次勢は篠木の宿営から行軍を開始していた。

その先鋒・池田恒興(兵六千)勢が丹羽氏重(丹羽氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城を開始する。

岩崎城の丹羽氏重らはよく応戦したが、約三時間で落城し玉砕した。

この岩崎城と池田勢の戦闘の間、池田勢の後続部隊・森長可、堀秀政、三好秀次の各部隊は休息し、呑気に先鋒・池田勢の進軍を待った。

しかしその三好の大半が休息していた時は、既に家康方の先鋒勢四千五百が背後に迫っていた。

休息していた秀吉方三好秀次勢本隊に、家康方の先鋒勢四千五百が、後方から水野・丹羽・大須賀勢、側面から榊原ら先鋒勢で一斉攻撃を掛ける。

この奇襲によって秀吉方秀次勢は成す術が無くほぼ潰滅し、秀次自身も乗馬を失い、供回りの馬を与えられ辛くも逃げ遂せたが、秀次が落ち伸びる為に目付け役の木下祐久ら木下一族から討ち死にを出している。

秀次勢より前方にいた堀秀政は秀次勢の敗報を聞いて直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を手勢に組み込んで迫り来る家康方先鋒勢を待ち構えた。

秀次勢を撃破して勢いに乗った家康方先鋒勢は、ほどなく檜ヶ根(桧ケ根、長久手町)辺りで秀政勢に襲い掛かったが、戦上手な事から「名人久太郎」と尊称された堀秀政の前に敗退した。

家康方先鋒勢を破った堀秀政だったが、家康本隊が迫り来るのを眺望し、「戦況不利」と判断し兵を引いて退却した。

前を進軍していた先鋒・池田恒興、次鋒・森長可に「家康本体が後方に出現」の報が伝わったのはこの頃で両将は驚愕し大慌てで引き返し始める。

家康方先鋒勢の戦況を見ながら進軍していた家康は、先鋒隊・榊原康政勢らの敗残兵を組み込み「御旗山」と呼ばれる辺りに陣を構えた。

家康方は右翼に家康自身三千三百余、左翼には井伊直政三千余、これに織田信雄勢三千を足して九千以上である。

一方、引き返して対峙した秀吉方池田恒興・森長可勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)・次男・池田輝政四千余、左翼に長可勢、後方に恒興が陣取りこちらも九千余と兵力は互角で、「両軍対峙は二時間ほど続いた」と言われている。

昼少し前になって対峙していた両軍がついに激突し、両軍入り乱れての死闘は二時間余り続いた。

戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受け討死した辺りから一気に家康勢有利となった。

森長可を死に至らしめた銃撃が家康旗本か直政勢が繰り出したものかは判然としないが、森長可の首級は「本多重次が挙げた」とされる。

池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、家康勢・永井直勝の槍を受けて討死にし、恒興嫡男・元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に「父・兄は既に戦場を離脱した」と説得され戦場を離脱した。

やがて恒興・長可勢は四散し遭えなく潰滅、長久手の合戦は家康の大勝利に終わり、徳川家康はただちに小幡城に引き返した。

その後も各地で別働隊同士の戦闘が続き戦況は信雄・家康側に有利に移行したが、秀吉側の蒲生氏郷ら別働隊が信雄領である伊賀・伊勢に侵攻し、その殆どを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開させ信雄に精神的に圧力を加えた。

秀吉は合戦から半年以上経った頃に織田信雄に使者を送り、伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ信雄はこれを受諾する。

織田信雄が単独で講和を受諾して戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった徳川家康はついに兵を引く。

小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いは終わったが、秀吉と家康の勝敗は着いた訳ではなく、両勢力は互いに休戦状態のまま別働隊の小競り合いや戦が続いていた。

羽柴秀吉は「いかに徳川家康を抑えようか」と思案していた。
力ずくで雌雄を決するには侮れない相手である。

「そうだ、以前お館様(織田信長)がわしに薦めていた家康の次男・於義丸(結城秀康)を養子に迎えて縁を深める策がある。」

羽柴秀吉は早速、滝川雄利を使者として浜松城に送り講和を取り付けようと試み、家康に「両家の縁を深める為に於義丸(結城秀康)殿を養子に申し受けたい」と和議を提案する。

家康としても、膠着状態のにらみ合いを続ける訳には行かず、また後に明かすが次男・於義丸(結城秀康)についてはいささかの事情も有ったので、講和の返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にする為に大坂に送り、小牧の役は幕を閉じた。

残されたのは、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らで、信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまった為に孤立し、それぞれ秀吉の紀州攻め・四国攻めにより制圧される事になる。

秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐】へ続く

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by mmcjiyodan | 2008-05-29 19:57 | Comments(0)  

佐久間盛政(さくまもりまさ)と賤ヶ岳の合戦

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変に拠って明智光秀に主君・織田信長を討たれた織田家臣団では、跡目争いが起こっていた。

家臣筆頭の柴田勝家と明智光秀を討ち主君・織田信長の敵を取った羽柴秀吉がそれぞれ信長の遺児・織田信孝と亡き信忠の嫡男、三法師君を押して対立したのである。

この対立、徳川家康は対立の圏外に居てその行方を見守っている。

正直、双方とも実力者で家康に取って厄介な存在であるから、どちらか片一方が始末されるに越した事は無い。

柴田勝家は清洲会議以後羽柴秀吉との対立を深め、千五百八十三年(天正十一年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。

この余呉湖畔の対陣がそのまま後に世に言う「賤ヶ岳の合戦」に成るのだが、この戦いでも柴田、羽柴両者の性格や戦振りがハッキリと現れている。

実は羽柴秀吉の「再び中国大返し型」の得意戦法と柴田勝家の正攻法判断が、この賤ヶ岳の合戦の行方を決めていた。

柴田勝家の属将に、勝家の甥にあたり「鬼玄蕃」と言う異名を持つ佐久間盛政(さくまもりまさ)と言う勇猛な武将が居た。

属将と言っても柴田勝家に従って加賀国一向一揆を鎮圧、信長から加賀国一国を与えられた大名である。

この時点では、前田利家も兵五千を率いて勝家の陣営に布陣している。

両軍対陣したものの、当初は両者持久戦の構えで、中々戦端を開けずにらみ合いが続いた。

最初に動いたのは、佐久間盛政(さくまもりまさ)である。

盛政(もりまさ)の陣へ、密かに勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が駆け込み、総大将の秀吉が主力の軍勢を引き連れて大垣に出かけていて留守である事を内通した。

総大将不在を聞いた佐久間盛政は、「ここで優勢に戦を進めよう」と敵将・中川清秀(なかがわきよひで)の砦を急襲する作戦を叔父の勝家に提案した。

当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協して「中川の砦を落としたらすぐに勝家の本陣に戻る事」と言う条件つきで承諾した。

賤ヶ岳の戦いの緒戦、中川清秀の砦の急襲作戦は見事に成功し、佐久間盛政は清秀を討ち取り砦は陥落した。

本来なら叔父・勝家に命じられた通り帰陣すべき所だが、敵の総大将・羽柴秀吉は軍勢を引き連れて「遠方の大垣に出かけ留守」と言うまたと無い勝利の機会だった。

佐久間盛政は欲を出し、この勝利を足掛かりにして「戦の勝敗を決してしまおう」と羽柴秀長の陣を討つべく準備に取り掛かっていた。

所が、この敵総大将・羽柴秀吉不在は大掛かりな罠だった。

例のごとく羽柴秀吉の軍勢は、柴田勢の常識が通じない特殊な能力を持つ軍勢である。

この機をかねてから準備して待っていた秀吉が、予定通りの強行軍で戦場に戻って来て、佐久間盛政はまんまと敵中に孤立してしまった。

ここで盛政勢の支援に回るのが前田利家の軍勢五千の筈だが、何故か前田勢は動かず合戦のたけなわで突然撤退を開始し、盛政勢と勝家の本陣の連絡が断たれ盛政勢は壊滅し結果勝家軍は秀吉軍に大敗を喫してしまう。

佐久間盛政は再起を図って加賀に落ち延びようとするが、途上、佐久間盛政は中村の郷民に捕らえられ羽柴秀吉に引き渡され処刑されている。

一方の総大将・柴田勝家は敗北して北ノ庄城へ逃れる途中、突然兵を引いて越前・府中城(武生市)に籠っていた前田利家の元に立ち寄り、これまでの利家の長年の与力の労に感謝を述べ、湯漬けを所望して「利家と別れをした」と「賤岳合戦記」に伝えられている。

その後、府中城(武生市)に籠っていた前田利家は、秀吉の使者堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城(福井市)に籠もった柴田勝家攻めの先鋒となった。

前田利家は、戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀の内より二郡を加増され、尾山城(のちの金沢城)に移った。

律儀者の勝家は、「織田家大事」の一念だけで立ったが、戦となれば、秀吉は天才信長仕込みの発想で戦う無類の戦上手である。

そして何よりも「勝つ事」が全てで、武士としての面子に拘らず、その方法手段に迷いが無い処が秀吉の出自を伺わせるものである。

しかし、柴田(権六)勝家は古風な男で、戦の仕方も正攻法だった。

そして諸将の大半は、計算高かった。

賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)】に飛ぶ。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-05-28 05:29 | Comments(0)  

柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

第五代将軍・徳川綱吉の代に側用人から老中格側用人大老格(左近衛権少将)側用人として権勢を振るった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれている。

当初、館林藩主をつとめていた綱吉に小姓として仕え寵愛を受け、藩主・徳川綱吉が第五代将軍となるに随(したが)って当時柳沢保明(やなぎさわやすあき)を名乗っていた吉保(よしやす)も幕臣となり小納戸役に任ぜられる。

この綱吉の柳沢保明(やなぎさわやすあき)の寵愛振りから、当時の慣習に拠る近習(稚児小姓)の男色(衆道)関係も疑える。

将軍・綱吉の寵愛により柳沢保明(やなぎさわやすあき)は、頻繁に加増され千六百八十八年、大老に拠る合議制から将軍親政をもくろむ綱吉に引き立てられて、新設された側用人に就任し禄高も一万二千石と加増されて大名に昇る。

二年後に二万石加増して三万二千石、その四年後には四万石加増されて七万二千石・老中格の武蔵国・川越藩主(埼玉県川越市)となる。

その後柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、綱吉の諱の一字を与えられ、それまで名乗っていた柳沢保明(やすあき)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)と名乗っている。

俗説によれば、側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり綱吉から吉保にお下げ渡しされた「拝領妻である」とも、懐妊した側室・染子を護る為に、柳沢吉保が表向き自らの妻子として「母子の身柄を預かった」とも言われている。

事の真相は定かではないが、柳沢家が異例の松平の姓を綱吉から許され、柳沢家を「連枝(将軍家血筋)の待遇」とした。

その為に、柳沢家の家督を譲った長男の柳沢吉里(やなぎさわよしさと)は「綱吉の隠し子である」とも言われ、染子が吉保の側室になってからも息子・柳沢吉里(やなぎさわよしさと)の顔を見に柳沢私邸を訪れる将軍・綱吉は、側室・染子を「綱吉の寝所に召される事が多かった」とされている。

綱吉と吉保(よしやす)が男色(衆道)関係であれば、一人の女性(にょしょう)を共有しても然したる抵抗は無いかも知れない。

その側室・染子の閨房(けいぼう/性行為)での睦言が、将軍・綱吉を側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が「操っていた」とされ、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を二名、「御添い寝」として将軍の寝所に泊まらせて寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかを「尽く報告させる事とした」と伝えられている。

この「御添い寝」は明治維新で「江戸幕府が滅亡するまで続けられた」と言う。

尚、元禄赤穂事件の裁定を主導したのが、この柳沢吉保だった。

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第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-05-27 18:56 | Comments(0)  

前田利家(まえだとしいえ)

若き織田信長に近習(小姓)として仕え、腹心の一人として出世し、加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った前田利家(まえだとしいえ)も、織田信長の男色(衆道)寵愛を受け信長側近から出世した男である。

稚児小姓衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

血統第一だった当時、血統に弱い者が「能力以上の成果を上げたい」と思えば、「縁」に頼るしかない。

女性(にょしょう)には妻に成るなり妾にあがる成りの誓約(うけい)の「縁」があるが、男性には身内の女性を介しての「間接的な縁」でしかないのでは誓約(うけい)としての「縁」が弱過ぎる。

誓約(うけい)の概念に置いて、絶対服従の具体的な証明は身を任す事である。

そこで室町期から戦国期に掛けて君臣間の誓約(うけい)、衆道(同性愛)が盛んになった。

そう言う意味において、「稚児小姓」として権力者の寵愛を受ける事は、むしろ武士として「潔(いさぎよ)い行為」なのかも知れない。

前田利家は尾張国海東郡荒子村(愛知県名古屋市中川区)の土豪・荒子前田家の当主である前田利昌(利春とも)の四男として生まれ、幼名を犬千代と言った。

千五百五十一年(天文二十年)に十四歳で織田信長に近習(小姓)として仕え、元服して前田又左衞門利家と名乗った。

この二年前に織田信長が十六歳で濃姫(帰蝶)を娶っているから、利家が織田家に出仕した頃の信長は利家より四歳年上の血気盛んな十八歳になる。

この頃前田利家は、信長とは衆道(同性愛)の関係にあり、「武功の宴会で信長自らにその関係を披露された」と加賀藩の資料「亜相公御夜話」に逸話として残されている。

つまり、信長の濃姫(帰蝶)との新婚生活と近習(小姓)・前田利家との衆道(同性愛)関係は同時進行していた事になる。

「傾(かぶ)く」は、言わば現代の若者にも通じる奔放主義の事である。

若き日の主(あるじ)織田信長が「虚(うつ)け者」として傾(かぶ)いて居た頃で、従う近習・前田利家も「相当に傾(かぶ)いて居た」と言われている。

槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれた前田利家は信長近習として萱津の戦いに十五歳で初陣、信長が弟・織田信行(おだのぶゆき/信勝)と家督相続で争そった織田家の権力闘争「稲生の戦い」でも功績を上げ、加増を受けて信長・親衛隊「赤母衣衆」となる。

加増により家臣を召抱えるまでに成った前田利家は、二十一歳の時に身近から嫁(正室)を娶る。

前田利家の正室は篠原一計の娘・まつである。

母が利家の母の姉である為、利家とは母方の従兄妹関係にあたり、母が尾張守護斯波氏の家臣高畠直吉と再婚すると、まつは母の縁で利家の父前田利昌に養育される事になる。

千五百五十八年(永禄元年)、まつは養育先の荒子前田家・利昌の四男・利家に数えの十二歳で嫁ぐ。

この二十一歳の頃に十二歳のまつを娶った前田利家だったが、その翌年に同朋衆の拾阿弥と争いを起こしてこれを斬殺、罪を問われて出仕停止処分を受け、二十四歳までの二年間浪人暮らしをする。

その間に出任停止されていたにも関わらず「桶狭間の戦い(永禄三年)」で信長に断りもなく合戦に参戦して功績を上げたが、信長は帰参を許さず「利家の忠誠心を試した」と言われている。

衆道(男色)関係は戦国期の忠実な主従関係の信頼性を担保する誓約(うけい)の習俗で、支配・被支配の思慕感情を育成する事から、若い頃の前田利家(まえだとしいえ)が罪に問われ城を追われ二年間浪人暮らしをしても、主(あるじ)・信長への思慕交じりの忠誠心は揺らがなかった。

漸く帰参を許された前田利家は、永禄十二年(千五百六十九年)に信長の命により前田氏・長男である兄・利久が継いでいた家督を継ぐ事になる。

前田利家は織田信長の「天下布武」に従い、姉川の戦い長島一向一揆長篠の戦いなどに母呂衆や馬廻り役の本陣親衛隊として参戦しているが、攻め手の役ではなく大きな武功も立てる機会が無かった。

前田利家の正室まつは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の正室おね(ねね/北政所/高台院)とは懇意の間柄であった事は有名である。

利家の方が秀吉より二歳ほど年下だったが、元々前田家の本拠地・尾張国荒子と秀吉の生家・尾張国中村は近接地で地縁者も多く、互いに出世した安土城々下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣同士に秀吉・おね(「ねね」とも言われる)夫妻が住んでおり、秀吉婦人・おねと利家婦人・まつは毎日のように「どちらかの屋敷で話し込んでいた」と言う間柄だった。

当然亭主同士も懇意になり、この事が後の賤ヶ岳の戦いで兵五千を布陣していた前田利家の突然撤退、羽柴軍勝利を決定づける下地になっていた。

佐久間盛政(さくまもりまさ)と賤ヶ岳の合戦】に飛ぶ。

本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれ、清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立した時、柴田勝家に与力して従った前田利家だったが、旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ利家の決断が、後の加賀百万石を産んだ事になる。

夫・前田利家の没後、まつは芳春院を名乗っている。

関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】を参照下さい。

芳春院・篠原まつ(ほうしゅんいん/前田利家の正室)】に続く。
前田利長(まえだとしなが)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-05-27 01:28 | Comments(0)  

田原坂(たばるざか)の激戦

千八百七十七年(明治十年)鹿児島を発した薩軍(西郷軍)は北上し熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)が守る熊本城を包囲して攻めたのだが、平民主体の軍と侮った薩軍(西郷軍)は、加藤清正の築城した名城の攻略に思わぬ苦戦を強いられる。

熊本城を包囲して攻めていた所に官軍小倉連隊の援軍がやって来た為、これを阻止せんと植木町・田原坂に陣を張り迎え撃つ事にした。

田原坂(たばるざか)は標高差六十mのゆるやかな坂で、一の坂、二の坂、三の坂と頂まで長さ一キロ半の曲がりくねった道が続く。

この道だけが唯一大砲を曳いて通れる二間(三~四m)ほどの道路幅であり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は薩軍(西郷軍)に包囲された熊本城まで進めなかった。

明治十年三月四日、薩軍(西郷軍)に取っては進軍の、官軍にとっては熊本城篭城軍の生死を制する道であり、ともに戦略上の重要地でこの在ったが為に南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍(西郷軍)がこの平凡な坂道を激戦の舞台とした。

この田原坂の攻防が、三月四日~二十日までの十七昼夜に及び、一進一退の攻防を繰り返し両軍合わせて一万人余の戦死者を出した西南の役最大の激戦地と成った。

三月二十日に到って官軍は総攻撃をかけ薩軍の防衛陣はついに陥落、薩軍は田原坂の激戦に敗れて熊本城の包囲を解き、矢部(熊本県)に退き、人吉・宮崎・都農(つの)を経て五ヶ月、八月二日、薩軍(西郷軍)は宮崎県延岡に転戦する。

西南戦争最後の激戦は延岡・無鹿近くの「和田越の決戦」で、その和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置き、西郷は解軍の令を出す。

その後薩軍(西郷軍)は官軍包囲を可愛岳(えのだけ)越えで突破、九州山地を敗走して山岳逃避行は故郷・鹿児島城山まで半月近く続く。

いずれにしても西郷隆盛は、最初からこの「西南の役」で薩軍が勝てるなど思ってはいなかった。

つい先程まで、「西洋の列強国に負けじ」と、日本の軍に最新式の装備を急いでいたその張本人が他ならぬ西郷隆盛その人で有る。

つまり、帝国軍全軍の総指揮を執るべき立場にあったのが、只一人の軍最高位、陸軍大将・西郷隆盛である。

薩摩軍の装備の大幅な見劣りなどは、先刻承知の事であった。

政府軍と薩摩軍では、使用した銃一丁取っても格段の差があった。

政府軍で使用したのは最新鋭のスナイドル銃で元込め式である。

対する薩摩軍は、旧式の先込め銃のエンペール銃で、発射後、筒先に玉を込めなければならず、次の発射準備の手間にロスが大きい。

大砲なども政府軍とは数や性能に大差が有った。

この戦、戦場では薩軍が決定的に不利で有ったのだ。

田原坂と言う歌の「雨は降る~降る~人馬は濡れる」の一節「人馬」は実は間違いで、「陣場」が正解であり、「先込め銃が濡れて役に立たない薩摩軍の悲哀を歌っている。」と言う説が有る。

この「西南の役」薩摩軍の敗北を境に不平士族は武力抗争をあきらめ、言論による民権運動の方向に不平を転換して行ったのだ。

可愛岳(えのだけ)】に続く。
西南戦争】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2008-05-25 03:41 | Comments(0)  

北条時宗(ほうじょうときむね)と元寇

北条時宗(ほうじょうときむね)は鎌倉幕府の第八代執権で、先祖は源頼朝の血筋を根こそぎ絶って天下を我が物とした桓武平氏流・北条時政正子親子の血を継ぐ得宗家嫡流に生まれた者である。

北条時宗(ほうじょうときむね)が育った時代は、宗尊(むねたか)親王(後嵯峨天皇の第一皇子)が鎌倉方の要請で征夷大将軍を務めていた。

河内源氏(八幡源氏)嫡流家である鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の血筋が途絶えた後、北条執権は形式的に傀儡将軍を置いていてその就任を親王に頼っていた。

その宗尊(むねたか)親王から時宗を賜り千二百六十四年(文永元年)に、六代執権・北条長時が出家、北条政村が七代執権と成ったに伴い時宗は十四歳で連署(執権の補佐を務める)に就任する。

事の真贋は定かではないが、宗尊親王が「幕府転覆を計画していた」とされ、幕府連署・北条時宗は千二百六十六年(文永三年)に執権・北条政村や一族の重鎮北条実時と協力して、宗尊親王の征夷大将軍廃位と京都送還、宗尊親王の嫡男・惟康(これやす)親王の征夷大将軍擁立などを行った。

その政変の二年後、千二百六十八年(文永五年)高麗(コリョ)国の使節がモンゴル帝国・フビライ・ハーンの国書を持って大宰府を来訪、モンゴル帝国(蒙古)への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。

モンゴル帝国の日本に対する圧力が高まるその国家存亡の国難時期に、北条時宗(ほうじょうときむね)は七代執権・北条政村から執権職を継承し、第八代鎌倉幕府執権と成る。

時に北条時宗・十九歳の春三月(旧暦)だった。

執権と成った北条時宗は、降り掛かる国難「モンゴルの国書」に対する返牒など対外問題を補佐されている前執権の北条政村や北条実時、安達泰盛、平頼綱らと協議、これを跳ね返す方向で異国警固体制の強化や、降伏の祈祷など行わせている。

千二百七十一年(文永八年)再びモンゴルの使節が来日し武力侵攻を警告すると、時宗は得宗権力の強化を図る一方、九州の名家・少弐(しょうに/武藤)氏をはじめとする西国有力御家人に防衛戦の準備を整えさせている。

裏を返すとこの国難は、北条時宗に取っては自分の権力を磐石なものとする絶好の機会だった。

外圧を利用すれば国内の不満を鎮圧するにはもってこいの理由で、弟・時宗が執権になった事に不満を持って朝廷に接近していた六波羅探題南方の異腹の兄・時輔や、一族の評定衆北条時章・教時兄弟を「二月騒動」で誅殺している。

千二百七十四年(文永十一年)元(げん)・高麗国(コリョグオ)の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸(じょうりく)した。

元軍は集団戦法で個人武術戦法の日本軍を苦しめ火薬を使い有利に戦ったが、日本の武士も良く防戦する内に元軍の船団が暴風に拠って大打撃を受け、後方支援(食料や武器の補給活動)を失って退却する。

千二百八十一年(弘安四年)に新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮半島と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。

これを「弘安(こうあん)の役(えき)」と呼ぶのだが、寄せ手がモンゴル・中国・高麗(コリョ/朝鮮)の兵士からなる元軍は混成軍の為に指揮系統にまとまりが無く、引き換え日本軍は海岸荷を石垣を築いて上陸を阻み、元(げん)の船に乗り込む奇襲で戦うなど水際戦は有利に戦っている。

この文永・弘安の二つの役を総称して元寇(げんこう)と呼ぶ。

厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の江南海軍だが、これが到着した時には海峡の海はもう荒れ狂っていた。

日本に幸運な事に、この時も元軍(げんぐん)は暴風に会い、南宋の船団は多くの船が沈ずむ被害を出して戦う事なく撤退している。

暴風と言う幸運も二度重なり、北条時宗は「モンゴル軍の襲来」と言う国難を回避した。

しかし、その戦後に今度は従軍貢献した御家人などに対する恩賞問題などが発生したり、以後の元軍襲来に備えて改めて国防を強化せねばならないなど、北条時に宗は難題がいくつも積み重なっていた。

北条時宗は第二次襲来の「弘安の役」の三年後の千二百八十四年(弘安七年)には「既に病床にあった」とされ、三十四歳で病死した。

元寇(げんこう)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-05-23 03:54 | Comments(0)  

元寇(げんこう)=モンゴル襲来

元寇(げんこう)は、広域倭の国内の国々との武力紛争を除くと大和朝廷成立後初めてにして最大の他国からの侵略防衛戦だった。

この「元寇(げんこう)」 と言う名称については旧用語の判り難さがあり、「モンゴル襲来」と表現すべきとする意見が採用されつつある。


平家を倒して鎌倉幕府を成立させた源頼朝が没して二十二年後、尼将軍と呼ばれて鎌倉幕府を率いる北条政子の横暴を理由に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げ、後鳥羽上皇が敗れている。

千二百二十一年(承久三年)の承久の乱を勝利で収めた事で、権力を確たるものにした北条得宗家(執権家)の治世で最大の出来事は、鎌倉幕府成立後七十五年目の元軍の襲来だった。

鎌倉後期、執権・北条時宗(ほうじょうときむね/第八代)の時代に、大陸の大帝国・元(げん/モンゴル)の大軍(たいぐん)が襲来する。

元(げん/モンゴル)帝国を支配(しはい)した蒙古人(モンゴル人)のフビライ・ハーンは、モンゴル帝国を興したチンギス・ハーンの孫(チンギスの四男トルイの子)にあたる。

フビライ・ハーンは、朝鮮半島の国・高麗(コリョ)を征服(せいふく)し属国とした後、日本をも属国に従えようとして蒙古への服属を求める内容の国書を携えた使者を送った。

しかし、時の鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを拒否(きょひ)し、九州の防備(ぼうび)をかためた結果、日本は国難回避で結束した。

千二百七十四年(文永十一年)元(げん)・高麗国(コリョグオ)の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸(じょうりく)した。

元軍は集団戦法で個人武術戦法の日本軍を苦しめ火薬を使い有利に戦ったが、日本の武士も良く防戦する内に元軍の船団がシケ(暴風)に拠って大打撃を受け、後方支援(食料や武器の補給活動)を失って退却する。

九州西北部に広がる玄界灘(到る東シナ海)は、南風が吹くシケ(暴風)と成って海面が大荒れに荒れる。

蒙古の襲来と南風のシケ(暴風)が重なって、長崎県の松浦市鷹島の入り江には蒙古の船が沈んでいる。

上陸後の陸戦の為、鎖合わせに繋いで停泊していた四千四百隻の蒙古の大船団は、荒れる海で繋ぎ合わされた舟が互いに引き合って転覆した。

この第一回目の元寇(げんこう)を「文永(ぶんえい)の役(えき)」と呼ぶのだが、内陸の国「元(モンゴル)」には本来海軍はない。

実は「元寇」として日本に襲来した兵の大半は、「元」に命じられた半島(当時・高麗国)の民だった。

最初の襲来に失敗した元軍(げんぐん)は、七年後の千二百八十一年(弘安四年)に新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮半島と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。

これを「弘安(こうあん)の役(えき)」と呼ぶのだが、寄せ手がモンゴル・中国・高麗(コリョ/朝鮮)の兵士からなる元軍は混成軍の為に指揮系統にまとまりが無く、引き換え日本軍は海岸荷を石垣を築いて上陸を阻み、元(げん)の船に乗り込む奇襲で戦うなど水際戦は有利に戦っている。


モンゴル帝国の第五代大ハーン(皇帝)・フビライが二度目の元寇時に日本に襲来に使った軍船は、南宋船である。

二度目に日本を攻める計画を起こした時、フビライは必要な船を揃えるに南宗を拠点にしていたイースラム商人の貿易船に目を着けた。

フビライはイースラム商人を提督に採用して軍船を作らせ、足りない分は貿易船を徴用して軍船団を揃えた。

厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の海軍とイースラム商人の貿易船だが、これが到着した時には海峡の海はもう荒れ狂っていた。

日本に幸運な事に、この時も元軍(げんぐん)はシケ(暴風)に会い、南宋の船団は多くの船が沈ずむ被害を出して戦う事なく撤退している。

二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風」が吹き、海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島の海軍)は大打撃を受けて撤退した。

日本の海の神・スサノウが、怒り暴れたのだろうか?

陸上戦に強い元軍だったが、日本攻略に失敗したのは本国のフビライ・ハーンが日本の気象状況と海上戦に疎(うと)かったにも関わらず侵略戦を強行させた慢心がもっとも主な原因と考えられる。

但し日蓮宗の一部では、この神風を「日蓮上人の法力に依るもの」と言う信仰上の言い伝えも存在する。

しかし日蓮上人が、蒙古襲来(元寇)を言い当てたのだって、なにも上人の法力の為せる技では無い。

当時の東アジア情勢と鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)が、蒙古への服属を求める内容のフビライ・ハーンの国書を拒否(きょひ)していたのだから、憶測は着く。

そして勿論、蒙古襲来(元寇)時に蒙古軍がシケ(暴風)に拠って大打撃を受けた神風(かみかぜ)だって自然現象で、日蓮上人の法力ではない。

この文永・弘安の二つの役を総称して元寇(げんこう)と呼ぶ。

国益(こくえき)と神風伝説(かみかぜでんせつ)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-05-22 04:54 | Comments(0)  

高千穂(たかちほ)

日向国(宮崎県)・高千穂町は、天孫降臨伝説の地である。

天孫の血筋は、天の一族(あめのいちぞく)である。

神話の世界では、天っ神(あまっかみ)とも言う。

そこには、「高千穂峡」と言う見事な峡谷があり、観光地としても全国に知られている。

この地に天空から「天照大神(あまてらすおおみかみ)が、この世に使わされた」と言われている。

山間の町には、古くから高千穂神社が祭られている。

御神体は、この世の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)である。

天岩戸(あまのいわと)伝説も、この高千穂の地にあり、岩戸とされる三つの重なり合う巨石を御神体とする天岩戸神社が、祭られている。

高天原(たかまがはら)や、黄泉(よみ)の国も、この高千穂の地に縁の深い伝承と言える。

日向(宮崎県)の国には、高天原(たかまがはら)神社もある。

そこに祭られている薬師寺の分院が、金龍山白蛇殿(こんりゅうさん・はくじゃでん)と言う。

白蛇が本尊で、情念(つまり色恋)や財産に「御利益が有る」と言われている。

高天原神社は神社でありながら、薬師寺の分院、つまり寺の拝殿も併せ持つ神仏習合(しんぶつ・ならいあわす)の、民衆信仰に根付いた信仰の場である。

この世の最高神「天照大神」は、太陽神であり、宮崎県は昔、日向(ひゅうが)の国(つまり、太陽の地)と言った。

水平線上の真東から日が昇る、絶好のロケーションに位置するからである。

そして高千穂(たかちほ)から見て日の昇る東の方向に北川町があり、天孫降臨伝説の可愛岳(えのだけ)がそびえている。

神話の国・日向国(宮崎県)の北東部にある北川町(東臼杵郡)の地に可愛岳(えのだけ)はある。

征服(侵略)部族の王達が天孫降臨伝説で神格化された象徴的な記述が、古事記日本書紀に残った山がこの可愛岳(えのだけ)である。

標高七百二十八メートルの可愛岳(えのだけ)にはニニギノミコト(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)御陵墓伝説がある。

古事記に拠ると初代神武天皇の五代前の先祖・天孫ニニギノミコトは高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられたとき「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。

天孫降臨伝説が終焉を迎えたのも実はこの伝説の地だったが、その話はこの物語を最後まで読んでいただければ判る。

つまり可愛岳(えのだけ)は、氏族(征服部族)に拠る日本列島統治の始まりの象徴みたいな山だが、驚(おどろ)く事に氏族(征服部族)終焉の地もこの可愛岳(えのだけ)だったのである。

それにしても、この真東から日が昇るこの日向(宮崎県)の国地で天孫降臨伝説が起こり、遥か悠久の時を経て天孫降臨伝説が同じその地で幕を閉じるとは、不思議なめぐり合わせである。

高千穂神社(たかちほじんじゃ)】へ続く。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-05-20 15:30 | Comments(0)  

可愛岳(えのだけ)

そして高千穂(たかちほ)から見て日の昇る東の方向に北川町があり、天孫降臨伝説の可愛岳(えのだけ)がそびえている。

神話の国・日向国(宮崎県)の北東部にある北川町(東臼杵郡)の地に可愛岳(えのだけ)はある。

征服(侵略)部族の王達が天孫降臨伝説で神格化された象徴的な記述が、古事記日本書紀に残った山がこの可愛岳(えのだけ)である。

標高七百二十八メートルの可愛岳(えのだけ)にはニニギノミコト(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)御陵墓伝説があり、古事記に拠ると初代神武天皇の五代前の先祖・天孫ニニギノミコトは高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられたとき「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。

天孫降臨伝説が終焉を迎えたのも実はこの伝説の地だったが、その話はこの物語を最後まで読んでいただければ判る。

つまり可愛岳(えのだけ)は、氏族(征服部族)に拠る日本列島統治の始まりの象徴みたいな山だが、驚(おどろ)く事に氏族(征服部族)終焉の地もこの可愛岳(えのだけ)だったのである。

氏族の終焉は、西郷隆盛率いる明治新政府への最後の氏族の抵抗・「西南戦争」の敗戦である。

その西郷軍が、北川から薩摩に向けて落ち延びたルートが、古代史に名高い、可愛岳(えのだけ)越えの獣道だった。

この可愛岳(えのだけ)だが、神代の時代からの伝説の山である。宮崎県東臼杵郡北川町もまた、北浦町と同じ、高千穂町、北浦町のスサノオの通り道のライン上、つまり高千穂の真東に在る。

北浦町より直線で真西に一里(四キロメートル)ほど高千穂町に近い所に、北川町がある。

実際には山塊が北浦、北川両町の間にあるので、人間達にはそう近くは感じないが、神々にとってはこの山塊は行き来の障害には成らない。

その北川町に、標高七百二十七メートルの可愛岳(えのだけ)がある。

この山が、神話の山なのだ。

まず不思議な事に、高い岩山ならともかく、この高さの土に覆われた山では、けして説明が付かない多くの巨石がこの山にはある。

山頂の鉾岩や三本岩などは、考古学者によると弥生時代に建造された人工的立石で、他にも石組と考えられる多くの巨石が点在している。人間の手が、加わっているとしか考えられないのだ。

可愛岳(えのだけ)は神秘的で、謎の多い山である。

そして記・紀(古事記や日本書紀)の記述に符合しそうな、伝説がある。

古事記によると、神武(じんむ)天皇に始まる皇室の五代前に、高天原から光臨したニニギノ命(みこと)が、「日向の高千穂のくしふる峰に降りた」と記されている。

これをもって、高千穂の天孫降臨とする解釈も多い。

すると、それ以前は神ばかりいて、人はこの世に居なかった事になる。

我輩は、この地に降(光)臨したのが天照大神なら、「判り易い」と思っている。

しかしこの「高千穂のくしふる峰」の記述が、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。

つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。

こうした伝聞借用の疑惑に関しての事例は、古事記・日本書紀には沢山ある。


日本書紀によると、ニニギの命が亡くなられた時、「日向の可愛(えの)の山陵に葬り祭る」と記されている。

学術的証明(確証)までは至らないとの事だが、ニニギノ命の御陵墓伝説は、地元で数百年も続く「御陵墓祭り」と伴に受け継がれて居て、これは「重みの有る伝承」と言える。

そして因果な事に、この天孫族所縁の愛岳(えのだけ)を、最後の氏族軍「西郷敗残軍」が越えた時、「氏と民の時代」が終わった。

同時に、中華皇帝と対等な存在に成る為に多くの国々を支配する天皇(大王/おおきみ)の統一国家としてとして倭の国々時代からの習慣として表記、呼び続けられた地方の国名が県の表記呼称に変わったのである。

西郷隆盛(さいごうたかもり)・城山の最期】に続く。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-05-20 15:27 | Comments(0)