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性欲本能と人類共生

人類は生意気にも神になった。

そして自らの生物学的生態系まで「左脳域の論理」で壊してしまった。

戦後の私権教育に拠って、食べ物を分かち与える村落共生主義など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。

益してやその原点が、「夜這いに在る」などと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。

しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。

最初に言って置くが、「良いSEX」をして居る人間に「絶望」は無い。

これを言い代えれば、貴方が「良いSEX」をして居なければ、貴方には明るい未来が無い理屈である。

人生において、性は生に通じる大事な脳内シグナルであり、人間も生物で有る以上は法律や信仰だけではその影響を避けられない。

つまり性を制御するだけではその影響が避けられない以上、本来なら人間社会は素直に誰にでも「なるべく良いSEX」が出来る環境を、精神思想において慈愛の中で醸成すべきだった。

にも関わらず性本能が避けられないもので有るからこそ、言わば「禁欲」を信仰上のもったいを付ける為の手段として主に知恵の浅い宗教家の陰謀で、禁欲的な性に対する考え方が広がった。

性欲が人間にとって大問題だったから哲学や宗教の中で処理しようとするのだが、元々本能に起因する事を理論でねじ伏せようとするのは無理があり、制御できないから性欲を問答無用で「恥ずかしいもの」にしてしまった。

男女平等を誤解して男女の生物的特性まで否定する事は、他の動物同様に持ち合わせている人間の「生態系を壊す」と言う事に成る。

つまり人間は、生き物としての自らを否定するほど傲慢な存在なのである。

戦後も六十年を経て、そろそろ私権ばかりに偏った考え方を、「見直す必要が有る」と考えても良いのではないか?

女性が「産まない権利」を主張する事は「生態系上不自然な事」と言わざるを得ず、日本人は滅びの道を進む事になる。

どこぞの女性運動家が、女性の権利を声高に言い立てて大学教授や代議士に成っているが、子供も創らずそうした個人の選択の権利を主張して飯の種にして居られるのも、世間が「珍しい生き物」、つまり「少数のわがまま女」としか見ていないからである。

そのどこぞの女性運動家と同じ生き方の女性ばかりに日本中の女性が成った事を想像してみれば、直ぐにその運動家の主張が国家を崩壊させる身勝手な主張である事と直ぐに判る事である。

つまり「正論だから」と言って、建前や理想だけを上げ面って居られるのは「一部の人間だけ」と言う現実を知らないか知らないを振りしていては、政治家や評論家は本来勤まらないのではないか?


普段は自制していてタブー(触れたくないもの)とされる切ない話しだが、どうせ「全(まっと)うな人間」と自称する人々の中にも、スキャンダラス(恥さらしの・醜聞的)な潜在意識は、人間ならば確かに存在する。

基本的に、「ホモサピエンス(知性人)=人間」以外の動物には繁殖期(交尾期)があり、年中交尾できるのは人間だけである。

その上「人間」だけは、繁殖を目的としない擬似繁殖行為(性交)を愉しむ事も通常の事である。

シンプルに考えれば、性欲は「子孫を残す」と言う生物本能から始まっている。

従って、社会秩序の問題をクリアとすれば性欲そのものを「恥ずかしいもの」とするのは勘違いである。

脳が異常に発達して物事がシンプルに処理できなくなった為に、人間だけは生殖時期(発情期)に関係ない「擬似生殖行為(生殖なき性交)」を神様に認められている。

人間は発達した脳の為に「擬似生殖行為」と言う生殖目的以外の性交を必要とする様になる。

そしてその「擬似生殖行為」の為に、人間の脳は益々発達して他の動物に例を見ない高知能生物になった。

元々、アンソロポロジー(人類学)的な生物学的特性である「変態の素質」も、唯一「人間」だけに潜在する性癖で、他の生物には存在しない。

この大正ロマン時代を駆け抜けた「進歩派女性達」には、そうした「潜在的変態資質」が自由の名の下に開花したのであろう。

つまり「ホモサピエンス(知性人)=人間」は、潜在的に「変態」なのである。

「低次元の話し」と切って捨てるのは簡単だが、現実を論議から突き放して覆い隠す事が問題の追及に障壁に成るのであれば、実は、少なくとも「学問的ではない」と言える。


性欲を「恥ずかしいもの」とする事が知恵の浅い宗教家の「勘違い」だとすれば、情無き性交を問題視する事は愛情の問題ではなく、ただの既成概念に囚われたプライド(誇り)の拘(こだわ)りか独占欲の拘(こだわ)りの問題である。

尚、性がおおらかだった時代の日本と欧米キリスト文化が流入して後からの日本では、明らか「性の歪(ゆが)みが方」が違う。

これが時代の経過による今日的なものでは無い証拠に、この現象は明らかに欧米キリスト文化では昔から存在した「性の歪(ゆが)みが方」なのである。

言って見れば、「良くも悪くも欧米化した」と言う事で、鍵を掛ける習慣がないほどの安定安全社会だった全て身内気分の村落・・「村社会」を破壊したのが米国を含む西洋文明である。

日本の庶民社会が性に対しておおらかな「共生社会」だった事を米国を含む西洋文明が、性に対して自分達と考えが違うを持って「野蛮」と言うのであれば、この十八世紀から二十一世紀の今日までの米国を含む西洋文明が「野蛮な文明では無かった」と言うのか?

米国を含む西洋文明の歴史は、あれこれと理由を作り「戦争、侵略、暗殺、銃社会」と言う「犯った国(者)勝ち」の身勝手な発想を実行して来た「野蛮な文明」である。

それを真似した明治維新以後の日本政府は、「戦争、侵略」と言う強引な欧米化を推し進め、昭和前期の大戦に国民を巻き込んで甚大な人命被害と財産被害をもたらせた。

近頃苦悩している日本経済の再生は「過去の歴史から学ぶべきもの」で、「米国型経済化」と言う猿でもしない強引な猿真似で解決できる筈がないのである。

現に現在の日本にはびこっているのは、「利の為には手段を選ばない」と言う「米国型経済化」の浅ましい風潮である。

明治新政府の皇統の神格化が太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で代わり、国民主権の民主国家に変貌する。

敗戦後に影響を受けた米国型の個人主義偏重の自由思想は、人々を極端な個人主義に走らせ、遂には個人の主張が身内にまで向けられ、気に入らなければ親兄弟でも殺す人間が急増している。

実は儒教的「忠義」の価値観は氏族(武士)の一部にしか通用せず、庶民には無縁のものだった。

この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と戦後始まった欧米型の精神思想を、まるで「二千年来の歴史的な意識思想」のごとくする所に、大いに妖しさを感じるのである。

日本の性文化】続く。

参考文献
美しくなれる興奮の解説

詳しくは、小論【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

詳しくは・小論【ホモサピエンス(知性人)の「種の保存と遺伝子」】を参照下さい。

類人猿・ボノボ こそ、争いを回避する知恵の原点】

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2008-06-29 15:48 | Comments(0)  

熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)

七卿落ち(八月十八日の政変)でやむなく都を追われた公家三条(実美・さねとみ)卿ら七卿は、久坂玄瑞(くさかげんずい)の案内で長州に下向したのだが、真っ直ぐ萩(はぎ/長州藩藩都)には向わなかった。

向かったのは、長州藩二ヶ国の内、周防国・熊毛郡田布施の高松八幡宮だった。

七卿筆頭の三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿は、逃れた長州の地・田布施で松陰派(吉田松陰門下生)に「ある人物」と引き合わされて、そのまま滞在している。

伝えられる所に拠ると、落ち延びた一行を田布施で待ち受けてその「ある人物」を七卿に引き合わせたそれが、吉田松陰(よしだしょういん)門下の伊藤博文(いとうひろぶみ)井上聞多(いのうえたもん・井上馨/いのうえかおる)だった。


山口県(周防)南東部瀬戸内海沿いに田布施町はある。

田布施町は現在でも人口一万七千人ほどの小さな町だが、実は此処から日本の近代化は密かに始まった。

つまりこの田布施町の高松八幡宮が、七卿が逗留し松陰派の長州若手指導者達と皇政復古の産声を上げた所である。

そしてこの高松八幡宮の僅か北東に浄土宗の西円寺と言う寺があり、その傍(かたわ)らに南朝・後醍醐天皇の末裔を名乗るこの大室家はあった。

七卿が逗留した高松八幡宮と、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まいが至近距離にあった事実に、偶然はありえない。


七卿落ちの公家達が長州の地で滞在した高松八幡宮は、田布施町大字麻郷に在る。

そして三井賀茂神社(みいかもじんじゃ)は、田布施町に隣接する光市の三井(みい)に在る。

八咫烏(ヤタガラス)は太陽の表面に現れる神であるから、神武東遷記における「八咫烏神話(賀茂葛城)」に、神武大王(じんむおおきみ)の先導役として登場する八咫烏(ヤタガラス・賀茂・葛城)の伝承が、この三井(みい)賀茂神社にも存在する。

その事から、賀茂・葛城が太陽(神武大王)の東遷随行者として「大和朝廷成立に貢献した有力一族」と考えられる。


熊毛郡田布施町大字宿井に、天然記念物の「宿井はぜの木」の大木がある。

この「宿井(宿居)」の字名の意味する所は、皇子の仮の居場所(仮御所)の事ではないだろうか?

明治政府が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行なって、根強く信仰されていた全国の妙見系の神社を抹殺した事は、単に神仏習合策を改め、天皇神格化を狙ったものだろうか?

長州が妙見信仰の聖地であり、同時に、皇統の或る疑惑の地でもある事から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に絡め、何らかの証拠隠滅を図った疑いも浮上して来るのである。


明治天皇(第百二十二代天皇)は、孝明天皇の第二皇子である。

父・孝明天皇から親王宣下を受け立太子を宣明し、幕末の動乱期に皇太子・睦仁親王を名乗り、後に若くして皇位について居る。

所がこの明治帝(睦仁親王)については、明治維新の前後では「全くの別人だった」と言う証言が存在する。

この親王入れ替わりの疑惑に、現在の当局としては「相手にするに値しない」と言う判断なのか、徹底的に無視した状態で、否定も勿論肯定もしていない。

現在の位置付けでは、この疑惑は単に巷の噂に過ぎないが、睦仁親王(京都明治天皇)には無かった「あばた」が、明治天皇には「あばた」が有り、右利きだった睦仁親王(京都明治天皇)に対し、「即位した明治天皇(東京明治天皇)は左利きである」とその違いが指摘されている。

こうした話は、事実ではないかも知れないが、その噂話が存在する事は事実である。

また、このとんでもない噂が本当なら、七卿筆頭の三条実美(さんじょうさねとみ)と長州藩の描いた陰謀に、同じく過激派公家の岩倉具視(いわくらともみ)が参画、朝廷での「迎え入れ工作を担当した」ものと思える。

後に明治の元勲と言われる維新の立役者は、大方この事実を知っていた事になる。

そして、彼らにはそれが正義だった。

吉田松蔭に大室家の存在を教えたのは、田布施町出身の総理経験者・佐藤栄作氏の曾父・佐藤信寛(さとうのぶひろ)氏との接点が有望である。

岸、佐藤、両首相経験者の曾父・佐藤 信寛(さとう のぶひろ )は、山口県熊毛郡田布施町に長州藩士・佐藤源右衛門の嫡男として生まれている。

佐藤信寛(さとうのぶひろ )氏は、藩校・明倫館にて山県太華に学び、江戸に出て清水赤城に長沼流兵学を修め、吉田松陰に兵要禄を授けていて、学問的には松蔭の恩師筋にあたる。

信寛(のぶひろ )氏は、維新時の長州藩士であり、維新後は知事、県令の官職にも就いていた。

こうした権力の裏側を勘繰れば、維新政府の有力者に南朝・大室家の地元有力者が抜擢され、後に「何名もの首相や首相候補を輩出したのではないか」と、疑えるのである。

つまり南朝・大室家は、多くの野望をも集めて中央に担ぎ出され、「それに上手く乗って栄えた家が在った」と言う事に成るのだ。

勿論、むしろ「南朝の方が正統だ」と言う思いが強い我輩としては、北朝天皇から南朝天皇へ入れ替わったとしても正統な皇統であるから、今の皇統が偽者だと言う気は更々に無い。

この陰謀、吉田松蔭が画策して松陰刑死後は義弟の久坂玄瑞(くさかげんずい)が引継ぎ、玄瑞の討ち死に以後は伊藤博文と井上馨等が引き継いで事を進めた。

これは表ざたには出来ない世紀の大陰謀で、徳川家の新政府入りを画策した坂本竜馬は、この入れ替わりの秘密を守る為に倒幕派に暗殺された可能性を棄て切れない。

また、龍馬と一緒に襲撃された中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、一時田布施で三条実美(さんじょうさねとみ)一行の衛士を勤めていた。

同じく松平春嶽は、その事を知るが故に維新の功労者で有りながら維新後の表舞台から退いているのかも知れない。


これはあくまでも「とんでもない噂話」である。

しかし下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの小さな町々から、明治の元勲と称される伊藤博文(いとうひろぶみ)を始めとして三人もの総理大臣を輩出している。

不思議な事に、岩徳線と言うJR線は直線的近道を走っているのに対し、主幹線である山陽本線は遠回りに海岸沿いに大きく迂回、複線電化のメインルートになって人口の少ない田布施町を停車駅にしている。

この田布施町、文献によると、南朝の系図を有する「大室家」が、数百年に渡って、大内家とその後の毛利家から庇護され居住していた土地である。

公古文書には意図して事実を隠す為に書かれた物もある事から、別の古文書にポツリと浮き上がる「南朝系図」は史実を追う上で重要な考慮点と成る。

室町期に「乗っ取り足利義満朝」の噂あるものの、明治天皇(めいじてんのう)・睦仁(むつひと)は北朝系の天皇である。

それが維新で大権を握った途端に「南朝正統」を言い出し、南朝方忠臣・明治復権を為している。

つまり「南朝系図」の大室某と言う隠された事実が在りながら、「そんな突飛な事は考えられない。」と安易に否定してしまって良いものだろうか?

この小さな田布施町から、戦後ふたりの総理大臣が輩出されている。

岸信介氏と佐藤栄作氏で、今に繋がる後裔が、言わずと知れた山口県の名門世襲代議士家の安倍家である。

首相経験者の橋本竜太郎氏も「二代遡ると大室家と縁がある」と言われている。

つまり、玉(ぎょく)を握っていた長州が、他の維新三藩を大きく引き離し、維新以後の政治に大きな勢力を持ち、政権担当者(総理大臣)を多数排出する事になる。

巷に流れる噂話が真実なら、南朝こそ正統な皇統であり、今の皇室も「密か」に正統と言える。

岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた毛利藩毛利(長州)藩士の名家で、その支配領域に田布施があり、佐藤家も、毛利(長州)藩士として、七卿落ちの滞在地・田布施に在地している。

その両家が、同じ田布施の大室家と、永い歳月の間に婚姻関係を含む「接点が無い」とは考えられず、隣接する光市(熊毛郡束荷村字野尻・現山口県光市束荷字野尻)出身の、総理大臣を四回も勤めた伊藤博文元首相を含め、少なくとも「縁戚関係の可能性がある」と考えられる。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に生まれ 、六歳まで過ごした生家は熊毛郡田布施町に残っている。

吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作井上馨(聞多)らと倒幕運動に加わり、維新成功後は初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた明治期の元勲である。

伊藤の生まれ育った山口県光市束荷字野尻は、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まい、山口県熊毛郡田布施町とは隣接地である。

この熊毛郡・田布施町に隣接する現在の光市の前身に古い地名として光井村や室積村が在ったのだが、これが良光(ながみつ)親王や大室家と関わりが在る地名の可能性がある。

また、田布施町を根元として瀬戸内海に突出した半島・熊毛(くまげ)半島は、古くは室津半島とも言う。
これらの地名、やはり偶然の一致と言うには出来過ぎの感が在るのだ。


大室家の出自に疑いを持ち「調べた結果百姓の出」など非難する者が居るが、それは余りにも歴史に未熟な証である。

そもそも論から言えば本姓の百姓は氏族であり、ましてや毛利家・長州藩に在って維新以前より立派に「大室と言う氏姓(しせい)を永く名乗って居る」と言う事は、長州藩が認める家系を大室家が有していた事になる。

この大室の意味だが、後醍醐帝の南朝を退けて足利尊氏が起こした「室町幕府拠りも大なりの意味」と穿(うが)って見たが、我輩のこじ付けだろうか?

伊藤が、四度(四回)も内閣総理大臣を勤めた他、新政府の要職に在り続けた理由の一つに、吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が「大室某を養育していた」と言う彼の経歴にあるのではないか?

これらの多くの縺(もつ)れた糸の全てが、熊毛郡・田布施町(たぶせちょう) で一つに繋がっていたのだ。


戦後政治に大きな足跡を残した元首相の岸信介氏は旧姓佐藤で、同じく元首相の佐藤栄作氏の兄である。

岸信介・佐藤栄作両元首相を輩出したのがこの山口県熊毛郡田布施町で、岸信介氏は父・佐藤秀助、母・茂世の次男として生まれた。

佐藤秀助の父親は、佐藤信寛(さとうのぶひろ)と言う長州藩士で、維新後は島根県令まで務めた新政府の官僚だった。

佐藤家は士族であり、維新後は酒造業を家業としていた名家だった。

曽祖父・信寛は長州藩士として長沼流軍学を修め、明治になると浜田県知事、島根県・県令等を務め、祖父・信彦は漢学者であった。

父・秀助は、元山口県庁官吏であり、岸家より佐藤家に婿養子として入り、その次の代に次男・信介を岸家に養子として戻した事になる。

佐藤家から岸信介氏が養子に行った岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた名家である 。

元首相の佐藤栄作氏は実弟、兄の佐藤市郎氏は海軍中将である。

長男の岸信和氏の妻・仲子は元山口県議会議長で山口県政界の大物・田辺護の次女で、まさに政界一家である。

岸信介氏娘婿の安倍晋太郎氏は岸氏と同じく自民党幹事長を務め、その息子で岸の外孫に当たる安倍晋三氏も、現在有力な首相候補である。(注・安倍晋三氏は、この小説脱稿後首相に就任している)

ちなみに安倍晋三氏の弟・岸信夫氏(参議院議員)は、岸信和の養子となって岸家の方を継いでいる。

明治天皇(めいじてんのう)・睦仁(むつひと)】へ続く。

詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】をお薦めします。是非参照下さい。

関連小説【松下村塾々生・維新顛末記】を参照下さい。

睦仁親王(明治天皇)即位の疑惑】に戻る。
明治維新(隠された明治維新)】に戻る。

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中岡慎太郎(なかおかしんたろう)】に飛ぶ。

隠された明治維新については第五巻の明治維新の項目の主要テーマです。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れませんので、詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第五巻をお読み下さい。

第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-06-29 05:06 | Comments(1)  

稲荷神社(いなりじんじゃ・おきつねさん)

稲荷神社(いなりじんじゃ・おきつねさん)は「稲なり神社」で、富と子孫繁栄の神様である。

稲荷神社は、財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭や繁華街の一郭に、商売繁盛(現世利益)の神様として祭られたりしていた。

この場合の大商家や上級武家、豪農では、跡継(血筋)確保も含めて艶福(性交相手に恵まれる)である事が、家名繁栄の条件であったのは言うまでも無い。

つまり、一夫一妻制は明治維新まで、多分に怪しかった。

日本の元神様は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、田の神様(稲作の神)である。

事代主神(ことしろぬしのかみ)には、呪詛巫女が神の御託宣を伝える様式が存在する。

そして五穀豊穣(実り)と子孫繁栄(子宝)は大事な祈りであり、性交(お祭り)は神に祈る儀式だった。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていた。

そもそも論で言えば、おかみさんは「お神さん」で、古い時代の呪詛巫女の慣習が変化しながら残っていた可能性が有る。

印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った「茶吉尼(だきに)天」と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい/天照大神の権現)の教え(導き)で、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社(おきつねさん)に成る。

出自(しゅつじ)が仏教なのに、神社に化ける所が凡そ日本的知恵ではあるが、後述する理由で「現世利益」の為に無理やり神社の様式に変えざるを得なかった。

この富と子孫繁栄の神様・稲荷(大明神)が、日本の江戸期に存在したおかみさん文化の原点になったのかも知れない。

稲荷神社が、油揚げ(豆腐)を好物としているのが、仏教の出自(しゅつじ)を物語っている。

仏教の教義では動物を食する事を嫌い、たんぱく質を摂取するに豆腐や胡麻を用いた。
油で上げた豆腐は、体力維持に欠かせない食べ物だったのだ。

此処で言う動物の大半が、実は仏教で言う所の「仏法諸天」であり、仏天である四足動物は、明治維新の文明開化(西洋文明を積極的に取り入れた。)に到るまで、庶民でさえ宗教上の理由で食する事を忌み嫌っていた。

参考【山鯨(やまくじら)とコラーゲン)】に飛ぶ。

いささか蛇足であるが、三蔵法師の旅を守った西遊記の孫悟空、猪八戒、沙悟浄、は人間ではないが「仏法諸天」であるから法力が使えるのであって、妖怪ではない。

i稲荷神社の祖神【ダキニ天(荼枳尼天)】に戻る。

夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-06-23 17:54 | Comments(0)  

おかみさん(御上さん)文化

江戸期、日本の町屋社会(商家社会)には「おかみさん文化」と言うものが在った。

御上(おかみ)さんと書いて、人妻や主人筋の妻や女主人などを指す言葉だが、日本史的に上(かみ)は神(かみ)に通じる言葉である

そもそも論で言えば、おかみさんは「お神さん」で、古い時代の呪詛巫女の慣習が変化しながら残っていた可能性が有る。

現在の社会合意では、誓約(うけい)の性交など「理解出来ないとんでもない事」である。

しかし時代背景を考えれば、部族混血に拠る「部族間の争いに対する平和の獲得」の神事は必然とも言え、当然考えられる知恵である。

つまり、祭り(祀り)事は政(マツリゴト・政治)であると同時に政治は性事で、誓約(うけい)の性交は神聖な神事(マツリゴト・政治)である。

こうした日本古来の性交呪詛思想の原点が、賀茂葛城の性交呪詛巫女とアイヌの呪詛巫女・「オイナカムイ」の習合信仰であれば、もしかしたら商家の繁盛を支えた「おかみさん」は、アイヌの呪詛巫女・「オイナカムイ」の思想が変化して江戸期にまで文化として伝わったのかも知れない。

稲荷神社(いなりじんじゃ・おきつねさん)は「稲なり神社」で、富と子孫繁栄の神様である。

稲荷神社は、財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭や繁華街の一郭に、商売繁盛(現世利益)の神様として祭られたりしていた。

この場合の大商家や上級武家、豪農では、跡継(血筋)確保も含めて艶福(性交相手に恵まれる)である事が、家名繁栄の条件であったのは言うまでも無い。

つまり商家の妻女は、そうした稲荷信仰の環境の中に在って子孫繁栄は至上命題だった訳で、一夫一妻制は明治維新まで、多分に怪しかった。

日本の元神様は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、田の神様(稲作の神)である。

事代主神(ことしろぬしのかみ)には、呪詛巫女が神の御託宣を伝える様式が存在する。

そして五穀豊穣(実り)と子孫繁栄(子宝)は大事な祈りであり、性交(お祭り)は神に祈る儀式だった。

印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼(だきに)天と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい/天照大神の権現)の教え(導き)で、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社(おきつねさん)に成る。

江戸期に入る前は、商工氏族は武士兼業だった。
日本列島に渡来した氏族は、夫々の得意分野で農業工業(鋳造業)、商業、神主(宮司)、僧侶などを兼業していた。

代表的な例は平安末期の武門貴族・平清盛(たいらのきよもり)の宗貿易で、つまり清盛は大貿易商人でもあり、ついでに彼は僧侶にも成った。

その流れで渡来氏族の一部が武士に成ると、江戸期に商人が純粋に業種として独り立ちする前は、商人の大半は武士と兼業か武士が副業で商いをやっていた。

天皇の京都御所を守る「北面の武士」を出自とする松波峯丸(斉藤道三/さいとうどうさん)が山崎屋庄五郎として油屋を営んで居たのは有名な話である。

そして、もう少し時代が下がる室町時代戦国時代には武士兼業の豪商が力を持ち、財力を使って大名と協力関係を結んだり、一部の豪商は茶人として名声をはくす者も出た。

「おかみさん文化」は、武士兼業の商工氏族、つまり有姓百姓が多かった上方(関西地区)で始まったものだが、「商家特有の文化」として江戸期には日本全国に広まった。

昔から、「江戸っ子は女房を貸し借りする」と言う諺(ことわざ)が在る。

つまり江戸時代当時のキリスト教の影響無き庶民社会では、そぅ厳格に女房の貞操観念にこだわっては居なかった。

また、「江戸っ子は女房を質に入れても初カツオを食う」と言う。

庶民に貞操観念自体が薄い時代で不倫は当たり前、初カツオの代金が女房の貞操代金に化けたとは、江戸庶民の粋な話かも知れない。


農村ではお祭りの際に若い男女の乱行的な性交渉を認める地方が多くあり、結果、子供ができれば神事に授かった子供として大切に育てられた。

また、江戸時代当時の旅人(旅行者)は、村長、庄屋と言ったその土地の有力者の家に招かれ逗留した。

その逗留に、「夜伽(よとぎ)歓待」の習慣のある地方では、旅人(旅行者)に妻女や娘にその相手をさせた風習も在った。

これには経験学的な生殖学の経験が存在した。

つまり狭い範囲の村落での生殖行為は、「血が濃くなる一方」と言うリスクが在り、村に訪れる旅人を「マレビト」として大歓迎し、新たなる子種を得る目的が存在した。

勿論、この「マレビト」が、そのまま村に滞在する事が、村としては「夜伽(よとぎ)歓待」の最大の成果と言える。

つまり一つの価値判断が、「全てに渡っては正解では無い」と言う事例の一つである。


昔の商家には一生を独身で済ませ、お店(たな)大事を貫く番頭の存在が落語や講談、読み本などで紹介されているがあれには裏がある。

実はその番頭は、おかみさんの肉体で満足していた。

けして不義密通ではない。

それが商家に嫁いだおかみさんの現実的な役目だった。

大店(おおだな)を内側から守るのがおかみさんの役目で、それには信用できる使用人の育成は欠かせない。

肉体的繋がりほど強いものは無いので、丁稚(でっち)はともかく、目端が利きそうな手代(てだい)辺りから、おかみさんが性欲の面倒を見て手懐ける習慣が、町屋社会(商家社会)では公然の秘密だった。

この関係、小使いは少なくても我慢させ、忠誠を尽くすだけでなく、悪い遊びを覚えてお店(たな)の金に手を付けたり、悪い病気を拾って来るのを防ぐ役割もあって、当然お店(たな)の旦那公認の「面倒見の行為」だった。

旦那公認で、使用人の性欲の面倒見の行為が、平然と行われていた。

すると不義密通話は何なのか?

あれは、情が通って駆け落ちなどをする場合いで、唯の性欲の面倒を見て使用人を手懐けるのとは訳が違うのである。

正に肉体的繋がりの信頼関係を、昔の町屋社会(商家社会)のおかみさんが勤めていた事になる。

「情が通わない肉体のみの性行為と言う点では昔の方が現実的な考え方で、今の上辺だけの考え方を「さも真実だ」とする主張の方が空虚なのである。

勿論、使用人に所帯を持たせて「のれん分け」をする事も有るが、考えて見れば商売敵の同業者を増やす事になるのだから、理想はお店(たな)に縛り付けるに越した事は無いのである。

それにしても、大店(おおだな)の「おかみさん」も、「それを覚悟の嫁入り」と言う事になる。

当たり前ながら当時はそれが常識で、今の物差しで見るから読み間違う。何しろ、大店(おおだな)の旦那には妾の二~三人は居て、その妾にもおかみさんの方が「旦那が世話になる」と盆暮れに付け届けの挨拶をする文化だった。

その時代を気高く生きるには、その時代の女性の生き方がある。

自分も手代(てだい)や番頭の性欲の面倒を見てから、それで互いのバランスを取って居た訳である。

つまり、繁盛している商家程使用人の数が多く、おかみさんの身体は、信用が置ける使用人の育成に忙しかった事になる。

そんなので旦那とおかみさんは、「上手く行っていたのか?」と言うのは当時の事情を知らず、現代の倫理観に当て嵌めようとするからである。

その辺はお店(たな)の旦那は商いの為と割り切っていたし、おかみさんもそう言うものだと割り切っていた。

商家の奥座敷は奥が深かったらしいが、それにしてもそう言う事であれば、内々において公然の秘密でなければ、おかみさんもとてもそんな事は秘密に出来ないであろうから皆それと承知していた事になる。

情が通わない性的な奉仕は、「単なる手段」と割り切った所が、現在の世の中の常識より余程現実的な事は私にも理解できる。

つまりは、わが国成立初期の昔から存在した「お家大事主義」の、肉体を使うお役目、閨閥構成社会(誓約・うけい)の正当性を、完全に認めるような話である。

まぁ、このおかみさんの内助の功(ないじょのこう)が、商家としてのお家隆盛に貢献していたのだ。


この「おかみさん文化」の習慣は実に良く出来ている。

元々上方(当時の皇居所在地である京都近在の関西地区)で発生した商家の形態は、武家の感性を踏襲して「お店(たな)大事」が何よりも優先していた。

氏姓制度の名残を残す豪商の発想が、手本だったのである。

商売は商(あきない)と言うくらい永く続くのが信条で、後継ぎは絶やせない。

都合の良い事に、「使用人の性欲の面倒を見る」と言う、このおかみさん文化の習慣は、旦那が「種無し(子種が無く)」でも使用人が密かにカバーする。

嫁が「生まず女」なら妾がカバーする。

言わば商家存続の安全弁の役割も担っていて、「実は若旦那の実父は独身の大番頭だった。」などと言う人情話に、当時を伝えているのである。

まぁこの「若旦那の実父は独身の大番頭」を現代風の解釈で個人的な「おかみさんと番頭や手代の色恋沙汰」と解釈するか、その時代の「町屋商家の習俗」と捉えるかで随分当時のおかみさん文化の理解が違うものになる。

この物語ではもう毎度の事に成ってしまったが、この「おかみさん文化」を現代の倫理観や価値観の意識そのままに当て嵌(は)めては、到底信じられない事かも知れない。

現代風に考えれば、それこそ性に対する倫理観も女性個人の尊厳もあった物ではない。

良識派を自認する学者達には「無かった事にしたい過去」だろう。

しかしこの時代は、武家も豪商も、通常「お家の繁栄」が全てに優先する価値観であり、一般的に男も女もその「お家の為」にする犠牲行為は、不謹慎なものではなく「美徳」だった。

人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

つまり、現代の物差しとは違う価値観が昔存在した理由は、当時の女性は「お家大事を基本にした考え方が正しい」と考えていた意識の違いである。

従って、現在の意識を基にした「一貫性行動理論」の物差しを現代に当て嵌めて、「そんな事は有り得ない」と過去を判断するのは危険な判断方法である。

詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。

詳しくは、【日本の性文化】をご参照ください。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2008-06-23 17:46 | Comments(0)  

巴御前(ともえごぜん)

巴御前(ともえごぜん)は、最初に平家を都から追い落として朝日将軍と呼ばれた木曾(源)義仲の愛妾である。
木曾(源)義仲は、幼名を駒王丸と言い、乳母の嫁ぎ先である木曽の中原兼遠(かねとう)の処で、平家討伐の旗揚げまで育った。

兼遠の三人の男の子と、一人の娘とは兄弟のように育っている。

娘の「巴(ともえ)」とは成長して恋仲になり、子供(長男義高)も設けるが、巴の父「中原兼遠」は大変な律儀者で、娘「巴」の義仲正妻の座を遠慮、あくまでも娘を義仲の妾(側室)とし、義仲の正妻には源氏の血を引く娘を据えている。

勘違いして貰っては困るが、例え正式に木曽(源)義仲の婦人と成っても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから巴御前(ともえごぜん)の名乗りは中原巴(なかはらともえ)である。

中原兼遠とその娘・巴御前(ともえごぜん)は、野望みなぎる北条政子やその父、北条時政とは対照的な人物かも知れない。

妾の立場ではあったが、義仲を慕う「巴」は、女性の身で武具に身を包み、父や男兄弟と伴に義仲の旗揚げに参戦した。

巴の参戦はけして形式的なものではなく、戦闘で「立派に戦果を上げる働きをした」と言われている。

但しこの巴御前(ともえごぜん)の女武者としての働きは「後の創作だ」と言う意見が強く、精々武者姿で義仲に同行したくらいの事ではないか。

山育ちでがさつだったが、義仲への愛は本物で有る。

純粋に愛に生きた女武者「巴御前」は、今も世の語り草になっている。

宇治川の合戦で、義経軍に敗れた義仲は、北陸方面に敗走するが、嫌がるのを説得して「巴」を逃がし、琵琶湖畔の粟津で哀れ討ち死にする。

現在と比べて選択肢は狭いが、男女の事は当事者の問題で、例え妾であろうとも、「巴御前」の「夢見る白馬の騎士」は、正しく幼馴染の木曽次郎・源義仲だったのである。

「巴御前」は命を永らえ、義仲の菩提を弔う生涯を送った。

義仲挙兵から、わずか一年後の事だった。

木曽義仲については、後の後白河上皇の名誉や鎌倉幕府の情報操作で、「上洛後、京で乱暴狼藉を働いた」等と、意図的に悪い噂を流し、討たれて当然のように天下に流布された。

しかし純粋な好青年が、本当の義仲の実像で有る。

その後も芝居などの台本で、興行的に、悲劇の名将「源義経」を美化する為に悪役に仕立てられ、真実が歪められて来た。

それらを、素直にそのまま、「こうだった」と、義仲像を記述する文章も数多い。

時の権力者の都合で、情報操作はいつの時代にも存在する。

情報戦略は、勘解由小路吉次が率いる、「影」の最も得意とする処である。

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by mmcjiyodan | 2008-06-21 04:12 | Comments(0)  

交代寄合(大名待遇格)格・旗本扱い

江戸幕府、例外の格式「交代寄合格」には謎が有る。

稲葉家の事もそうだが、細かく調べて行くと「明智光秀、そして光春が天海僧正ではないか」と言う前提がないと、説明し難い事例はまだ有る。

この章で記述した光秀所縁の豪族に対する徳川家の処置も不可思議である。
唯でさえ強固な幕藩体制を固めたい時である。

家康に従って天下取りに貢献した直参旗本でさえ数千石の知行がやっとなのに、徳川家・直臣でもない、直ぐにひねり潰せそうな地方郷士の妻木家遠山家が、何故か大名格領主として生き残った。

光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄に所領を有する妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。

光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)の実家・妻木家や親戚の遠山家も同様だが、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれていた。

妻木家は明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。

この妻木(勘解由)家や遠山家が、徳川家の本当の旗本ではない外様の小領主(所領の禄高が一万石以上の大名ではない)にも関わらず、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合」格として旗本格内に置かれ、江戸期を通じて格式と体面を守られた事は、何か特別な理由が無ければ説明が着き難い。

「交代寄合」格・旗本扱いの優遇を得た背景理由が、秀忠(光忠)・天海・春日局トリオの身内ならではの計らいに拠るもので、光秀・天海説の密かな符合なのではないだろうか?

徳川幕府成立後の処置として普通に考えれば、両家共に名門ではあるが幕閣にあって潰すに惜しいほどの役に立つ家ではない。

その程度の小領主が、破格の扱いを受けている。

大身の外様旗本並待遇それ自体が特例である。その特例の上に、大名の格式を与えている。

この例外の「交代寄合(大名格)」、他にもあるが全国で僅(わずか)二十家に満たず、二~三千石程度が多数である。

この光秀所縁の両家に対する徳川家の配慮の裏に「何かある」と考えるのは疑い過ぎだろうか?

家康が天下人と成って徳川将軍家を起こし、全ての武門が徳川家の臣下に列すると、万石取り以上の大名と万石に欠ける旗本に分けられて三河以来の家臣でなくても、万石以下の独立知行地持ち(千石~九千石)の小領主も将軍家旗本に組入れられる。

この旗本家、二ヵ村から五十ヵ村を支配する凡そ千石以上九千石の大身は約三百騎前後程度で、後の知行数百石取りは御旗本と言うより貧乏御家人(江戸期)と呼ぶ方が相応しい。

幕末時点で、その旗本の中に交代寄合格・二十家、高家格・七家、寄合格・二百七十三家が在った。

この大名格旗本の「交代寄合格」以外に江戸幕府から朝廷や公家との交際指南役として公家に近い扱いを受けたのが、室町幕府で高級官僚を務めた経緯を持つ没落名家などから引き立てた家が高家旗本である。

尚、交代寄合格には、駿府城代支配の職である久能山東照宮総門番として代々久能の地を領した・榊原清正(徳川四天王の一人・榊原康政の兄)の榊原家宗家がある。

また、竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)の子・竹中図書助(たけなかずしょのすけ)が知行五千石・竹中家(美濃)交代寄合格。

同じく豊臣秀吉の正室であった高台院の兄(弟とする説もある)で後に木下氏と改称し、後の豊臣秀吉に木下姓を与えた人物の杉原家定(いえさだ)三男・延俊が息子の一人延由に立石五ヵ村と向野三ヵ村の合計五千石が分知され、交代寄合格・豊後立石木下領が成立している。

その他、室町期に守護大名として山陰地方に大勢力を張った新田流・山名氏応仁の乱を境に没落したが、因幡国・山名氏の豊国(祐豊の甥で娘婿)は、豊臣対徳川の圧力高まる早くから徳川家康に従った為、千六百一年(慶長六年)に家康から但馬国・村岡に知行六千七百石の所領を与えられ、江戸期を交代寄合格(こうたいよりあいかく/大名待遇)の旗本として存続したなど約二十家がある。

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by mmcjiyodan | 2008-06-19 03:54 | Comments(0)  

土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)

天下布武」と言う織田信長の偉業の原動力が、「母の愛に飢えた息子のあがきだ」と言ったら貴方は信じるか?

織田信長の生母・土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)は織田信秀の継室(最初の正室・織田達勝息女が離縁の為正室を継いだ)で、「土田下総守政久」の息女とされているが異説もあり実名は不詳とされ、信長以外に信秀の継室として信行(信勝)、秀孝、信包お市の方らの生母とされている。

この織田家と土田家の縁は深く土田御前の叔母も織田信定(信秀の父・信長の祖父)に嫁いでいる為、土田御前は従兄弟(叔母の子)の所に嫁いで来た事に成る。

また、信長の側室にして信長嫡男・信忠など三人の子を産んだ生駒吉乃の生家、生駒氏と土田氏は縁戚関係にあり生駒家広の娘が土田秀久と婚姻し生まれたのが土田政久、その娘が土田御前で生駒吉乃の父・生駒 親正(いこまちかまさ)は土田家から生駒家に養子に入った為に姓が違うが土田御前の従弟にあたる。

いずれにしても織田信長は、この生母・土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)に愛されなかった男である。

織田信秀は、平手政秀傅役(ふやく/お守り役)に就け、武門の仕来(しきた)りに沿って正室長男(嫡男)の信長を幼少の頃より他の子達(嫡男以外はやがて家臣に成る)と離して那古屋城で育てている。

土田御前は、夫・信秀に拠って離されて那古屋城で育った「虚(うつ)け」と評判の長男・三郎信長よりも、永く共に末森城に住んでいた品行方正と評判の次男・勘十郎信行(信勝)を可愛がり、信行(信勝)に家督争いをけしかけている。

武力を持って「家督争いをけしかけさせる」と言う事は、信長にしてみれば「実母が弟に自分(信長)を殺せ」と言っているようなもので、これほど悲しい事はない。

信長と信勝が家督争い「稲生の戦い(いのうのたたかい)」をして信勝が敗れると、土田御前は信長に信行(信勝)の赦免を願い出て一度は赦させた。

しかし土田御前は後にまた信行(信勝)に信長謀殺をけしかけて、終(つい)に信行(信勝)は信長に誅殺される事になる。

それでも信長は、確執は色々伝えられているが決して母・土田御前を憎んでいた訳ではない。

その証拠に、本能寺の変の時点では信長が自らの居城・安土城もしくは城下の屋敷に土田御前を住まわせて面倒を見ていた。

本能寺の変の後は孫の信雄の庇護のもとにあり、「大方殿(土田御前)」と尊称され、「六百四十貫文を化粧料として与えられていた」とされている。

織田信雄が伊勢から改易されると、「大方殿(土田御前)」は織田信包の元(安濃津城)へ移り、文禄三年にこの「安濃津の地で亡くなった」と伝えられている。

息子が引き起こした事が例え「大それた事」であっても、その切欠は案外身近にある悲しみかも知れない。

我輩は、その生母・土田御前に愛されなかった事が、実は信長自身が「虚(うつ)けで無い」と土田御前に認めさせたくて「天下布武に信長を走らせたのではないか」と思えて成らない。

信長の、母に愛されなかった不幸】に続く。
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by mmcjiyodan | 2008-06-18 13:36 | Comments(0)  

生類憐みの令と犬公方(いぬくぼう)

徳川綱吉(五代将軍)は、三代将軍・徳川家光の四男として生まれたが、分家して上野国館林藩主(所領は二十五万石)として松平姓を名乗っていた。

兄・家綱(五代将軍)に世嗣の子供が無かったので、家綱が四十歳で死去すると、綱吉は将軍宣下を受け五代将軍となる。

綱吉が、吉宗十四歳の時に越前国(福井県)丹生三万石の藩主に据えた理由は、自らのスペアーとしての将軍への経緯経験が有ったからではないだろうか?

この五代将軍・徳川綱吉の治世に徳川幕府としては最大の好景気時代・元禄を迎えている。

しかし未曾有の好景気は、後の時代の浪費や不正を育てる温床でもある。

その浪費や不正は、綱吉以後の幕府財政悪化に成って現れ、新井白石の「正徳の治」失敗を招いている。

これは、学者の新井白石が自分と肌の合う官僚的な思考者を重用して幕政を改革しようとした事が裏目に出たのだ。

何故なら、一度浪費癖の着いた官僚達にその既得権を手放す気が無いのだから、幕府の財政が困窮しても自分達の「利」だけは必死に守る。

まるで現代日本の官僚政治と批判される政治構造と酷似しているではないか?

新井白石がその治世の拠り所とした「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、それは言わば建前で、本音を別に持った人間は、利害を突き詰めると「本音で行動するから」である。

第五代将軍徳川綱吉(とくがわ つなよし)の治世の前半は、基本的には善政として「天和の治」と称えられている。

しかし治世の後半は、悪名高い「生類憐みの令」など、迷信深い悪政を次々と敷き、「犬公方(いぬくぼう)」綱吉に対する後世の評判は悪い。

実は、第五代将軍徳川綱吉は、天変地異に見舞われた不運の将軍で、「生類憐みの令」を発布して犬公方(いぬくぼう)と歴史に残る事は、同情すべき事情も有ったのである。

千七百三年(元禄年間)に、突如、相模国から関八州(江戸府内/関東域)に掛けて大地震に襲われ、甚大な被害を出している。

この関東地方を襲った大地震は、「元禄大地震」と呼ばれ、マグニチュードは八・一と推定推定される大地震だった。

元禄大地震(げんろくだいじしん)は、後の、千九百二十三年(大正十二年)に発生した「関東大震災とは同型である」と解明されている。

甚大な被害を出したこの大地震で、元禄の好景気に沸いていた江戸府内周辺は陰りを見せ始める。

所が、一度の大地震でも大変な事なのに、徳川綱吉の不運は元禄大地震(げんろくだいじしん)だけでは終らなかった。

僅か三年後の千七百七年(宝永年間)、縁起を担いで年号まで宝永に変えたのに、今度は東海道が我が国最大級の大地震「宝永大地震」に見舞われる。

宝永大地震は、現代に大警戒されている関東・東海・南海・東南海連動型地震で、遠州灘・紀州灘でマグニチュード八・四の「史上最大」と言われる巨大地震だった。

そして、だめ押しするように宝永大地震から四十五日目、今度は活火山・富士山の「宝永の大噴火」が始まり、山腹に宝永山と火口が出現した。

「宝永の大噴火」は、偏西風に乗って数日間江戸の街を薄暗く覆い、「市民の人心をも震撼せしめた」と伝えられている。

「関東ローム層」と言われる関東一円の火山灰層は、富士山の度重なる噴火に拠るものだそうだが、予測される東海巨大地震の真上にある「浜岡原子力発電所」は大丈夫だろうか?

万が一の事が有ると、静岡以東関東一円が放射能汚染の危険も見えて来る。

いずれにしても第五代将軍徳川綱吉の時代はまだまだ科学知識が少なく、「犬は神の使い(狼=大神)」であり、確かに「生類憐みの令」は悪法だが、将軍在位中に次々と天変地異に見舞われれば、「何かの因果か?」と、徳川綱吉が迷信深くなるのも頷ける話しでは在る。

勿論、この時代の日本に「地殻変動」などと言う地勢学の概念などないから、「神がお怒りに成っている」と、綱吉が不吉がっても無理は無い。

関東・東海・南海・東南海連動型地震は、今でこそ百年~百五十年周期で連動発生する事で知られているが、元禄・宝永の江戸期に生きた第五代将軍・綱吉には「何かに祟(たた)られている」としか考えられなかったのである。

綱吉は、ちょうど徳川光圀とほぼ同時代を生きた将軍で、治世中に有名な忠臣蔵(元禄・吉良赤穂事件)が発生し、「片手落ちの裁可を下した」と批判された。

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by mmcjiyodan | 2008-06-17 04:23 | Comments(0)  

清洲同盟の謎と竹千代双子説

清洲同盟は、織田信長徳川家康が結んだ同盟である。

この清洲同盟の立会人を務めたのが、当時はまだ織田家の重臣として行政官の能力を発揮していた林秀貞(はやしひでさだ)である。

その同盟が、戦国時代に珍しく永く裏切られなかったばかりでなく、酷く固い絆に結ばれていた。

その発端は、松平元康(竹千代)が人質として織田家にやって来た事から始まった。

やがて松平元康(竹千代)は、織田信広との人質交換によって今川家の人質になるのだが、実は同時進行で織田家の手元で育った別の松平元康(影・竹千代)が存在した。

そんな話、「とんでもない奇想天外な説だ」と思うかも知れないが、固定観念に囚われないで感性を働かせて欲しい。

有りそうな謀(はかりごと)では誰でも直ぐに見当が着き、謀(はかりごと)とは言えない。

謀(はかりごと)は、「まさか?」と言うもので無ければ成功しないのである。

織田と今川に挟まれた弱小大名の松平家にとって、「竹千代が二人居た事」は、幸いだったのかも知れない。

この元康別人説が本当なら、築山殿との不仲別居、信長との同盟関係維持の為に長男・松平信康を殺害など「口に出しては言えない」身内の葛藤があっても不思議は無い。

幾ら一卵性双生児とは言え、我輩の推論通りに松平竹千代双子説であれば正室の築山殿を「寝屋」で騙す事は出来ない相談である。

この松平元康と築山殿の不仲別居の理由が、夫が今川から寝返った事ではなく、夫が別人に成っていたのなら幾ら戦国の妻でも、そのまま夫婦を続けるには余りにも許容の範囲を超えて居たのだ。

入れ替わった元康に本当の子供が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考えると、側室・於万の方の胎になる結城秀康の次の三男・秀忠からであれば、信長の命による殺害説よりも、近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?

世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた事になりそうである。

そして元康(家康)が、歴史の場面場面で遭遇した数々の誘惑にも負けず、一貫して信長との臣下に近い同盟関係を堅持した理由が、この双子元康(家康)入れ替わり説に拠る織田信長への「恩義」なら大いに説得力があるのだ。

さらにもうひとつ、家康には清洲同盟を堅固なものにした信長を慕う幼い頃からの思いがある。

織田信長と松平元康(徳川家康)は、「肉体的に情交を結んだ。」と言う特殊な関係に於いて信頼関係を構築していた。

信長と元康(徳川家康)の間には、「固い誓約(うけい)」の絆(きずな)が、この同盟関係の根底に存在した。

つまり影・竹千代が織田家の庇護のもと成長して信長の思惑通りに松平家を継ぎ、頼れる同盟関係を成立させたのである。

朝廷から三河国主と認められ三河守・徳川家康を名乗って二年、千五百六十八年(永禄十一年)には今川領の遠近江国(静岡県西部)を狙って、今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結び今川家滅亡を目指す。

同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。

遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れて来た今川氏真を匿う掛川城を包囲して攻め立てる。

籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った徳川家康は、三河・遠江二ヵ国の国主となって千五百七十年(元亀元年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬城に移し、その地に改めて浜松城を築いた。

同じ年(永禄十一年)盟友の織田信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府十三代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。

この信長上洛に際して、家康は上洛軍に援軍を派遣するとともに、三河・遠江に在って後方の抑えを任じ、周囲の反信長勢力を浅井長政とともにけん制している。

さて下克上、天下取りの乱世で、本来なら二ヵ国の太守に成った徳川家康が、この辺りから次の一段高い欲を出しても不思議がない。

現に足利義昭は、天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成し、家康にも副将軍への就任要請を餌にして協力を求めて来る。

ところが、家康はこうした誘惑を黙殺し、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦して信長を助けている。

徳川家康が「清洲同盟」に心情的思いを抱いてこれだけ織田信長を信頼し慕っていた理由はいったい何んだったのだろうか?

織田信長の才能に心服していた事もあろうが、今ひとつ両者の間に心情的な深い繋がりがあったのではないだろうか?

そう考えると、在る事が浮かんで来る。

井伊直正は、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝榊原康政と肩を並べるように成る。

この徳川家康の男色(衆道)は、何時(いつ)どこで覚えたのだろうか?

或いはこの事が、徳川家康が同盟相手として最後まで織田信長について行った理由のひとつかも知れない。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

氏族の支配者の心得として、男色(衆道)は一般的だった。

織田信長が濃姫(帰蝶)と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。

信長は十六歳、濃姫は十五歳で、当時人質として尾張織田家に居た竹千代(後の家康)は八歳だった。

前田利家森欄丸と相手がいた織田信長にとって、人質としてやって来た八歳年下になる松平竹千代を「深く可愛がっている」となれば、ただの年下の弟分で「済まされた」とは思えない。

稚児小姓のお召しは数えの十歳前後だから、幼少期の竹千代(徳川家康)が織田信長から衆道の手解(てほどき)をされていても不思議は無い。

元々武門に於ける稚児小姓相手の男色には、主人への特別な忠誠心を育成する意味合いが在り、満更、唯の性的嗜好ばかりと言う訳ではない。

どうやらこの徳川家康の信長への忠誠心を推し量るに、平手氏源氏流新田氏系・世良田流「得川(徳川)家」を継いだ松平竹千代の影の方は、今川氏の人質と成った松平竹千代の正の方とは双子の別人で、そのまま平手氏の養子として信長の「衆道相手を務めていたのでないか」と疑えるのである。

家康別人説については、この双子説以外に影武者説なども在るが、血統が繋がらないまったくの他人であれば一度は父・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁された家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏を家康が重用する筈が無い。

つまり影武者入れ替わり説では、水野氏重用の説明が着かないのだ。

水野氏については、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれると徳川家康・生母の実家として嫡男・水野信元(於大の方の兄弟)は家康の今川家からの独立を支援し、信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介するなど身内らしい動きをして居る。

豊臣秀吉の死後家督を継いだ水野信元の嫡男・水野勝成と四男・水野忠清は共に家康に仕え、勝成は備後福山藩・下総結城藩水野家の祖となり、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となり、徳川政権の幕閣に要職を得ている。

また水野忠政四男・水野忠守(水野信元の兄弟)は出羽山形藩水野家の祖であり、さらに水野忠政八男・水野忠分の子・水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家と紀伊新宮藩水野家の祖である。

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by mmcjiyodan | 2008-06-14 23:04 | Comments(0)  

源平合戦の真実

源平が敵味方に分かれて合戦をした発端は、千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛源義朝(頼朝の父)が武力衝突した「平治の乱」の勃発だった。

「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位した所が二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突したのである。

源義朝は、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。
しかし平清盛に破れ敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で部下に殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、源頼朝だった。

頼朝は、平家の厳しい監視の下、三十三歳で旗揚げするまで、流人として不遇な十九年を伊豆の国・韮山の地で過ごしている。

この流人の監視役が、伊豆の国韮山一帯を支配する平氏の枝の豪族・北条家で、当主は北条時政と言った。

北条政子は、時政の娘である。

弟の「源義経」の人気に比べ、鎌倉幕府を成立させて、曲がりなりにも日本の歴史の一定期間に日本全土を抑えて安定政権を樹立したのに、兄の「源頼朝」は、評判が悪い。

傍から見ると、妻の北条政子の尻に敷かれ、言いなりに身内を殺して行った気の弱い男のイメージが強い。

義経の方は、活躍の割に後が不運だった事もあり、人気は上々である。

これは、判官贔屓(はんがんびいき・義経の官職「検非違使」から取った)の語源にも成っている。

源九郎判官(みなもと・くろう、ほうがん)義経と言う。

名だたる英雄であるべき源頼朝が、何故にこれほど大衆の評判が悪いのか?

見えて来たのは、理想に燃えた「崇高な思想」ではなく、阿修羅のごとく、醜く権力欲に取り付かれた、唯の男と女の姿だった。

頼朝の元へ人が集ったのは、「清和源氏の頭領」と言うブランドが有ったからであるが、中央政権の平家一族の「専横」がもう一つの大きな要因であった。

「源平の合戦」などと言ってはいるが、頭(かしら)は確かに源氏と平氏だが、中身はごちゃごちゃで、平氏一門でも「都合」で頼朝側に付いた者も数多い。

真っ先に上げられるのが、北条一族である。

そして、緒戦「石橋山合戦」の敗北の折、頼朝の逃亡を助けた平家方の平氏、梶原景時も、その後寝返って頼朝方に付いた。

千葉氏上総氏などの、安房の豪族平氏達も「しかり」である。

頼朝挙兵から遡る事二百二十年前、関東で、「平将門の乱」が起こっている。

この関東系の平氏については、中央の役人と昔から一線を画していた事も事実だった。

つまり、平氏の本拠地が中央の都に遠く、発想が朝廷政府に囚われない「自由なもの」だったのだ。

彼らは平氏ではあったが、清盛平家ではない関東平氏が地方豪族として関東で力を蓄えていたのである。

将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛(平家)に系図が続いて行く。

この時将門側に付き、敗れた後、郷士として関東に土着した平氏の武士達は、源氏の関東進出や東北進出で源氏の歴代棟梁と結んだ。

彼ら関東平氏は、前述した奥州での前九年の役後三年の役で、源氏の棟梁・源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。

従って、平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓(平家)より関東の源氏の方が、絆が強かったのだ。

関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける「歴史的要素が有った」と言える。

その、関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半をしめていた。

一方で、中央に地歩築いた伊勢平氏は中央権力を握り、無理強引が押し通る治世を続け突出して一族(平家)の栄華を極め地方の反感を買っていた。

つまり、源平と言うよりも、「関西対関東、中央対地方」の戦いが、真相である。

従って、時代と地の利を得たのが源頼朝であったのだ。

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by mmcjiyodan | 2008-06-13 19:10 | Comments(0)