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禁門の変(きんもんのへん)

蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれる禁門の変(きんもんのへん)は、幕末動乱期に孝明天皇をめぐる守護(陣営抱え込み)で対立した尊攘派の長州藩々兵と佐幕派の会津・桑名・薩摩各藩の禁裏(御所/皇居)守備隊が武力衝突した事を指して呼ぶ。

尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、前年の千八百六十三年(文久三年)に会津藩と薩摩藩が協力した「八月十八日の政変(七卿落ち)」で京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っていた。

巻き返しを図る長州尊攘派は京や大坂に潜伏し、密かに復権工作の行動を続けていた。

元治元年に入ると、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等に拠って孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられ、それに反対及び慎重派の桂小五郎(木戸孝允)高杉晋作などと対立、長州藩内も藩論が割れていた。

千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、池田屋事件新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされ、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等積極派が勢い付き、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努め、高杉晋作は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得するが容れられず脱藩して京都へ潜伏する。

脱藩した高杉晋作は、桂小五郎(木戸孝允)の説得で二月には帰郷するが脱藩の罪で野山獄に投獄され、六月には出所を赦されて謹慎処分となる。

一方薩摩藩の西郷吉之助は、千八百六十四年(元治元年)三月、村田新八を伴って鹿児島を出帆し、京都に到着して薩摩藩兵・軍賦役(軍司令官)に任命される。

京都に着いた西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。

そこで藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採る事で、この難局を乗り越え様とした。

この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。
攘夷派は攘夷と唱えながら、二枚舌で外夷と通商している事自体を怒ったのである。

その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が相次いで起きている。
千八百六十四年(元治元年)四月、藩政改革派の西郷吉之助は小納戸頭取・一代小番に任命された。

池田屋事件からまもない六月、強硬派の長州懐柔の為朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。

高杉晋作が投獄されている間も急進派の勢いは止まらず、積極派の三家老(福原越後・益田右衛門介・国司信濃)派は、討薩賊会奸(とう・さつぞく・あいかん/薩摩と会津)を掲げて挙兵してしまう。

家老・益田右衛門介や久坂玄瑞(くさかげんずい)等は山崎天王山宝山に、家老・国司信濃や来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、家老・福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めてそれぞれに陣営を構える。

しかし迎え撃つ会津藩と薩摩藩もこの事有るを想定し、京都守護職であった会津藩主・松平容保は薩摩藩・西郷隆盛等と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を既に整えていた。

この長州藩の行動に、朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(後の十五代将軍・徳川慶喜)は長州勢に退兵を呼びかけるが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突「禁門の変」が起こる。

これに対し、西郷吉之助も一時は「薩摩が長州ば相手に兵を出すんは、よろしくありもはん。」と、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、七月の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。

しかし、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、「天子様お守りのこっは、おいが引き受けもす。」と、西郷・伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した。

この時、西郷吉之助は銃弾を受けて軽傷を負っている。この事変で西郷らが取った中立の方針は、長州や幕府のいずれかが朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸(さつぞく・あいかん)」の思いが強くなった。

結果、尊皇攘夷を唱える長州勢は大敗を喫して壊滅、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎ら尊攘派の主力は戦死した。

この変事の由来となった「禁門」とは「禁裏(御所/皇居)の御門」の略した呼び方である。

蛤御門の変とも呼ばれるのは蛤御門付近が激戦区であった為で、蛤(はまぐり)御門の名前の由来は、「天明の大火」の際にそれまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤(はまぐり)に例えられた為である。

禁門の変(きんもんのへん)の戦闘後、京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われる。

落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち、会津勢も長州藩士の潜伏を理由に中立売御門付近の家屋を攻撃し、二ヵ所から上がった火が京都市街に広がって北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広範囲の街区や社寺が焼失している。

この禁門の変が、「御所へ向けて発砲した朝敵」として第一次長州征討を行う切欠になる。

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by mmcjiyodan | 2008-07-29 14:47 | Comments(0)  

源頼義(みなもとよりよし)と前九年の役(ぜんくねんのえき)

奥州藤原家は、源氏流とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。

清和源氏流河内源氏二代・源頼義(みなもとよりよし)は、河内源氏初代の父・源頼信に従って平忠常の「長元の乱」を鎮圧し、早くから坂東の武士に名声を得て相模守・常陸守などの坂東での要職を歴任して居る間に東国の掌握を進め、多くの東国武士を家人として武門の棟梁としての地位を固めた。

その源頼義(みなもとよりよし)が奥州に乗り込んで来る。

源頼朝の五代前に遡る村岡(平)五郎の孫・平忠常(上総介)に拠る「長元の乱」以後関東地区で勢力を広げ、あら方の関東武士を従えていた河内源氏・源頼義(みなもとよりよし)が、源氏の棟梁として奥州(東北)の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任したのだ。

源頼義は、野心から前九年の役(ぜんくねんのえき)を引き起こした奥州(東北)鎮守府将軍である。

息子に、源家を武門の棟梁としての名声を定着させ、源氏の長者が将軍職に任ずる慣例の基と成る八幡(はちまん)太郎・源義家がいる。

この鎮守府将軍・、かなり出世意欲が強く、奥州を平定して「自分の勢力下に置こう」と企んでいた。

それで、当時奥州で一定の勢力を持っていた豪族「安倍氏」にちょっかいを出す。

安倍氏については、蝦夷(エミシ)族長説や土着した下級役人が時間を掛けて豪族化した説など色々有るが、たとえ後者としても安倍氏は蝦夷との「混血が進んだ氏族」と考えられる。

蝦夷(エミシ)については、当時、「俘囚(ふしゅう)」などと言う差別制度があり、阿部氏は、「俘囚長であった」と記述する文献も存在する。

朝敵として仕立て上げ、討伐して手柄にするには格好の相手である。

そのタイミングは、源頼義が任務を終え帰任する直前に起こった。

安倍頼時の息子・安倍貞任(あべさだとう)が、部下を襲ったから「処刑するので差し出せ」と、源頼義が言い出したのだ。

明らかに言いがかりだった。

拒んだ安倍頼時に対し、それをきっかけに頼義は源氏の白旗を掲げた大軍を差し向けるが、安倍氏(頼時一門)も良く戦う。

当初、相手を甘く見ていた源頼義は、蝦夷馬(南部馬)を良く使う安倍頼時軍に、思わぬ苦戦を強いられる。

一時は安倍側が戦況有利に成って、源頼義は窮地に立った。

だが、頼義は安倍氏と似た様な出自(しゅつじ・出身)の豪族「清原氏」をくどき落して味方につける事に成功し連合して安倍氏を討ち、永い戦いの後に安倍一族を壊滅させる。

奥州・清原氏は、安倍氏と同じ蝦夷(エミシ)族長説がある俘囚長の家柄である。

しかし、当主・清原武則には奥州で強大な力を誇る安倍氏に取って変わる野心があった。

それで実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる東北の戦乱において源頼義方に付き、形勢不利だった戦局を一変させて頼義に勝利させている。

源義家(みなもとよしいえ)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-07-29 04:44 | Comments(0)  

地球を救うイデオロギー

今、日本のイデオロギーも地球上のイデオロギーも、劇的な変革を早急に必要とする時代に直面している。

千九百年代は資本自由主義と共産主義の争いの時代だった。

二千年代に入って共産主義は衰退し、資本自由主義も行く所まで行き着いて生き詰まりを見せている。

このまま資本自由主義の暴走を止めないでは、「投資マネー」と言う「バーチャル生産のマネーゲーム」の中に「リアルの生産」が翻弄(ほんろう)され埋没して、人類の糧(かて)となるべきリアル生産力が劣化消耗してしまう事だろう。

また、現在の地球環境の悪化(温暖化)は正しく「利の為に何でも有り」の資本自由主義の為せるものである。

実は過去の歴史が証明しているのだが、人間の浅はかな欲望が地球上を砂漠化して来た。

エジプト文明、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス)文明、インダス文明、黄河(中華中国)文明はいずれも緑と水の豊かな大河のほとりで発生して自然を食い尽(つく)し、砂漠化と共に衰退した歴史を持っている。
近世から現代にかけては、緑豊かな熱帯林を持つインドシナ半島やインドネシア、ブラジル・アマゾン流域を焼畑や森林伐採して開墾を進め、貴重な森林の砂漠化の道を歩んでいる。

今の資本自由主義と言うイデオロギーの枠では解決しないこれらは、地球規模で考えなければならない問題で、つまり「目先の個々の利、国家の利」を追えば、永いスタンスで見た地球は衰えて行く事になる。

にも関わらず、資本自由主義のイデオロギーの基本ベースを変えないまま地球環境の悪化(温暖化)対策を世界中が模索しているが、これでは各自・各国の「資本自由主義の利」が主張しあうだけで一向に埒(らち)が開かないであろう。

突沸現象(突然沸騰現象)は一種の爆発状態に成る。

現在の地球環境は危険域に向いつつあり、刻々と近付く沸点みたいなもので何時(いつ)突沸現象(突然沸騰現象)が起こり爆発状態的な気象被害が続発しないとも限らない。

その予兆は、既に顕著に地球上の各地で災害として起こりつつある。

確かに自分の代は地球も持ち堪えるのかも知れないが、孫の代はどうなる?

つまり貴方は、周辺環境が変わっても旧来のイデオロギーを後生大事に守って行くのか?

アナログ型は新型デジタルに対して従来型の為、転じて従来型思考の人間を「アナログ人間」と言う。

従来型のイデオロギーが地球環境悪化を救えないものなら、電波の利用域としてのアナログ全ての許容量が無くなってのデジタル化を、「地球の許容量」と置き換えて考えれば、地球の許容量に準じたまったく新しいイデオロギーの確立を急がねば成らない。

言わば旧来のイデオロギー規範を「正しい」と信じて疑わない事自体、貴方は「アナログ人間」かも知れない。

このまま資本自由主義の暴走が止まらなければ地球環境の悪化(温暖化)は更に進み、やがて人類の多くが住めないであろう地球に成る事は必至である。

つまり小手先の対策ではなく地球上のイデオロギーも劇的な変革を統一で行う時期に来ているのである。

恐らく皆さんは、現在の規範に照らしてこの提案を奇異に感じるかも知れない。

しかし考えて見て欲しい。

この数千年で培(つちか)われて来た「現代文明」と言う名の現在のイデオロギー規範が「本当に正しいものだったのか?」が、問題なのである。

つまり永い歴史は、信仰の争いと民族の争いで埋め尽くされていたではないか。

それでは、その劇的な変革を可能にするイデオロギーはいったい何だろうか?

その課題は、日本の歴史が解いてくれる。

日本列島の歴史は、大和合の国(大和国/やまとのくに)の成り立ち方から始まり、世界でも珍しい「特異な文化」を結実させた。

そのひとつは今は失われた【日本人の性文化(誓約/うけい)】であり今ひとつは【日本人の宗教観】である。

地球を救うイデオロギーのヒントは、この二つを基本として組み合わせた日本の特異な文化【共生社会(村社会)】のイデオロギーの中にこそ隠されているのである。

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by mmcjiyodan | 2008-07-22 22:53 | Comments(0)  

日本人の宗教観

日本人は、一般論的に他国人と違う宗教観の側面も持ち合わせている。

一般的に日本人の宗教に対する姿勢は、良く言えば「寛容」、悪く言えば「好い加減」である。

何故なら他国から見れば信じられない事だが、日本人は異宗教の神社とお寺を同時に信仰し、キリスト教徒の祭りであるクリスマスを楽しみ、最近ではラテン・カーニバルの模倣も町単位で始めてしまった。

判り易く言えば、クリスマスを楽しみ初詣に神社に行き寺もお参りもして一人の人間が異なった宗教の祭りを同時に違和感無く楽しむ。

それ故外国人に言わせると、日本人の宗教観は「えらく好い加減な信仰だ」と言われている。

これは、古(いにしえ)より長い歴史に培われた多神教社会の民族的間性で、一神教の国々では理解し難い事である。

こんな信仰の混在生活は他国では赦されない行為で、一神教のキリスト教国、イスラム教国、ユダヤ教国のみならず、同じ多神教の隣国・中国でもそれぞれの信仰はそれを信じる人は一筋で、国や地域で混在していても一人の人間の中での混在生活は在り得ない。

つまり日本人は信仰に対する「貞操観念が希薄」と映るらしい。

しかし、この日本人的寛容の感性、悪い意味で「好い加減」とばかりは言い切れない。

長い間多神教社会であったからこその「受け入れの良さ」もある。

それが証拠に、ユダヤ教徒だろうが、イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒、仏教徒に対峙しても、日本人は原則敵意を抱かない。

互いの宗教感を曖昧ながらも容認して一緒に楽しむ感性は、正に言葉通り「好い加減」な社会性かも知れない。

この事は「日本」と言う国家の成り立ちにその特異な宗教観の源が在る。

日本列島の歴史は、大和合の国(大和国/やまとのくに)の成り立ち方から始まり、世界でも珍しい「特異な文化」を結実させた。

黎明期の日本列島は、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)の土地へ多くの渡来部族(征服部族)が進入して各々が土地を占拠、都市国家もどきの小国家群「倭の国々」を造り、やがてその「倭の国々」が大和合して大和朝廷を成立させるのだが、その過程で和合の為に宗教観に拠る紛争を排除する知恵を働かせた。

元々の先住蝦夷族(せんじゅうえみしぞく/縄文人)は自然神崇拝で万物が神だった。

そこに宗教が異なる各渡来部族(征服部族)が各々の神を持ち込んだのだが、大和朝廷は統合当地の為にそれらを争う事無く全て容認する八百万(やおよろず)の神の国を成立させ、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)と渡来部族(征服部族)各部族が誓約(うけい)の混血を進めて弥生人を生み出したのである。

確かに一つの宗教に一筋の信心深い人にして見れば、日本人の宗教観は「貞操観念が希薄」と批判されるかも知れないが、一つの宗教に一筋の信心深い人達がその宗教観で相手を否定し紛争や戦争まで起こすと成ると、日本人の「えらく好い加減」な宗教観は、世界平和な良い物ではないだろうか?

実はこの宗教に対する日本人の「貞操観念が希薄」と同じように、今は失われた【日本人の性文化(誓約/うけい)】に於いても同様に大和合の国(大和国/やまとのくに)の成立の為に誓約(うけい)の混血を進める知恵を働かせ、性に於いても「貞操観念が希薄」な「特異な性文化」を結実させた。

その「特異な性文化」は、明治維新の文明開化まで村社会の中で「夜這(よば)い」や「寝屋子宿(ねやこやど)・寝宿(ねやど)」、「暗闇祭り」として生き続け、欧米の個人競争資本主義とはまったく違うイデオロギーの「共生社会」を成立させていた。

考えて見れば、世界的なミュージシャンであるジョンレノンとその妻ヨーコレノンは、ベットインパホーマンスで、世界平和をアピールしていた。

考えるに、或いはこの二つの「貞操観念の希薄」が世界平和と人類共生に通じ、地球危機を救うヒントになるかも知れない。

私の愛した日本の性文化

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2008-07-22 22:10 | Comments(0)  

大和合の国(大和国/やまとのくに)

この国(日本列島)は、永い歴史において帝(みかど)が治める「大和合の国」、つまり大和(やまと)の国だった。

この大和(やまと)の名称であるが、通常の読みでは大和は「ダイワ」と読み「ヤマト」は読み難い。

それを「ヤマト」と読ませるのは充て読みで、大和大国(やまとのおおくに)の大和(やまと)は大和合(だいわごう)で、大和合の大国(おおくに)と実に判り易い。

判り易いのに国家神話の天孫降(光)臨伝説には符合しないから、「大和合大国(だいわごうのおおくに)では都合が悪い」と言う矛盾を抱えた名前が大和大国(やまとのおおくに)の名称である。

黎明期の日本列島は、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)の土地へ多くの渡来部族(征服部族)が進入して各々が土地を占拠、都市国家もどきの小国家群「倭の国々」を造り、やがて誓約(うけい)によりその「倭の国々」が大和合して大和朝廷を成立させる。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

つまり小国家群「倭の国々」が大和合(連立して統一国家を形成)して統一中央政府「大和朝廷」を成立し、大国家の大和大国(やまとのおおくに)が成立して大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)を選出する道を辿るのである。

ちなみに、大和合(だいわごう)の大和(だいわ)を、邪馬台国(やまたいこく)の邪馬台(やまたい/ヤマタイの文字も音表記の充て字)に充ててヤマトと読ませ、「大和=やまと」ならシンプルで良いのだが・・・・


日本の調理方法には「和(あ)える」と言う言葉がある。

「和(あ)える」は「ごま和(あ)え」などと使う食品の調理方法で、調和或いは和合であり、言わば食材のベストミックスの事を言う。

調理方法の「和(あ)える」は調和の事だが、このベストミックスの精神こそ三千年から二千年に到る時期の、人種の坩堝(るつぼ)だった日本が大和合した事と「同じ意味を持ち合わせている」と想われる。

また、気持ちなどがやわらぐの意味で使う「和(なご)む」についても、争(あらそ)うとは対極の意味合いがある言葉である。

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by mmcjiyodan | 2008-07-22 20:41 | Comments(0)  

文明開化(欧米文化の導入)

現代日本の道徳観念には、儒教・儒学(朱子学)の精神思想が色濃く影響している。

しかし勘違いしてはこまる。

言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。

氏族(渡来征服者)ではない庶民(賤民/せんみん)奴婢/ぬひ))には縄文人(被征服者)としての独自文化・「集団婚(群れ婚)」の名残が残っていた。

つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側(氏族)の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」や「夜這(よば)い制度」・「寝屋子親・寝宿(ねやど)親 制度」の意味が理解出来ないのである。

庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が「禁令」を出して終焉を迎えている。

明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰陰陽修験犬神信仰真言大覚寺派の教えも明治維新までは根強く残っていたのは確かである。

実は、村社会・地域社会の絆とも言える身内感覚(共同体意識)を支えた「おおらかだった庶民の性意識思想」を代えたのは明治維新に拠る新政府が、近代化を図る為に「文明開化(欧米文化の導入)」を行い、キリスト教の教えを基にした欧米型の精神思想を啓蒙、また国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、広く庶民に啓蒙した事に拠るもので、この事が、徐々に庶民の村社会・地域社会の身内感覚(共同体意識)を失わせた。

宗教上(信仰上)の本来不変である筈の正しい教えが、権力者の都合や宗教指導者の都合、歴史の変遷の中で変化して行く所に、宗教(信仰)の妖しさを感じるのは我輩だけだろうか?

幕末の日本を訪れた全ての外国人が日本人を見て驚いた事は、日本人がおしなべて「愉快そうに暮らして居た事だ」と言う。

づまり外国人が驚いたのは、屈託無い笑顔がこぼれる日本人の暮らし方だった。

この外国人が驚いた「愉快そうに暮らす日本人」の根底に在ったものは、町場の町役人を頂点とする運命共同体的近所付き合いの町人生活と村落部の夜這い村落共同体村人生活が、結構生活し易いものだったからに他ならない。

そして、その愉快そうに暮らしていた日本人から笑顔を取り上げ表情を暗くして行ったのが、皮肉にも西欧文化を取り入れた文明開化だったのである。

鍵を掛ける習慣がないほどの安定安全社会だった全て身内気分の村落・・「村社会」を破壊したのが米国を含む西洋文明である。

日本の庶民社会が「性に対しておおらか」だった事を米国を含む西洋文明が、性に対して自分達と考えが違うを持って「野蛮」と言うのであれば、この十八世紀から二十一世紀の今日までの米国を含む植民地主義の西洋文明が「野蛮な文明では無かった」と言うのか?

米国を含む西洋文明の歴史は、あれこれと理由を作り「戦争、侵略、暗殺、銃社会」と言う「犯った国(者)勝ち」の身勝手な発想を実行して来た「野蛮な文明」である。

それを真似した明治維新以後の日本政府は、「戦争、侵略」と言う強引な欧米化を推し進め、昭和前期の大戦に国民を巻き込んで甚大な人命被害と財産被害をもたらせた。

近頃苦悩している日本経済の再生は「過去の歴史から学ぶべきもの」である。

明治新政府の皇統の神格化が太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で代わり、国民主権の民主国家に変貌する。

敗戦後に影響を受けた米国型の個人主義偏重の自由思想は、人々を極端な個人主義に走らせ、遂には個人の主張が身内にまで向けられ、気に入らなければ親兄弟でも殺す人間が急増している。

この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と欧米型の精神思想を、まるで「二千年来の歴史的な意識思想」のごとくする所に、大いに妖しさを感じるのである。

民族性・・「個の性規範」と「集団の性規範」の違い
私の愛した日本の性文化

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by mmcjiyodan | 2008-07-18 14:37 | Comments(0)  

真言宗当山派(東密)・天台宗本山派(台密)

五世紀から六世紀頃、陰陽五行説が朝鮮半島を経由して仏教や儒教とともに日本に伝わった時、陰陽五行説(古代中国思想)と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易と言った自然の観察に関わる学問、占術と合わさって自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として当時の日本列島社会に受け入れられた。

この様な技術は、当初は主に漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から征服部族の子孫が行う事となり、七世紀後半(奈良時代末期)頃から役小角(えんのおずぬ)が初期の陰陽組織を成立させて、帝の影の使い「陰陽師」が現われ始め、陰陽修験は大王(おおきみ/帝)諜報工作機関として成立した。

役小角(えんのおずぬ)が初期の陰陽組織を成立させてから百三十年余り後、ここで陰陽修験道は新たな時代を迎える。

八世紀(平安初期)の始め、ちょうど弘法大師(空海)伝教大師(最澄)が仏教修行に行っていた唐(中国)から帰って来た頃、時を同じくして「陰陽寮」が設置される。

七世紀後半から八世紀始めに律令制が布かれると、国家体制の確立を目的として、陰陽の技術は中務省の下に設置された「陰陽寮」へと組織化される。

すなわち初期の陰陽組織を公然化して「恐れ」の国家体制を再構築し、民意を誘導して再び大和朝廷の下(国家管理)に置く目論見があったのである。

平たく言うと、天子降(光)臨伝説(征服部族が空から舞い降りた神)の「デマを流布する」目的である。

元来、為政者の情報操作が、民意誘導の基本的テクニックで有る事は、「原始村落社会の成立」と言う小社会の昔から普遍的なものである。

現在では映像がその主役になっているが、当初は占術託宣、呪術的なものであり、原始宗教であった。

その利用目的を、より為政者有利に誘導する為の組織として「陰陽寮」は中務省の下に設置され、更に諜報機関としての裏面も備えていたので有る。

この事は、偶然だろうか?

いや、明らかに大和朝廷はこれを「統治に利用しよう」と考えたのである。

或いは、当時渡来信仰として無秩序に広がっていた「妙見信仰」を、空海や最澄を大師として遇する事で朝廷の影響下に置く計画だったのかも知れない。

そこで大和朝廷は、異例の速さで弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)を高僧として扱い処遇した。

弘法大師(空海)が唐から伝えた経典の一部に、密教がある。

同時期に帰国した天台宗の最澄も空海の密教理念を自派の教えに取り入れる。

弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、大和国(日本)にもたらした密教の、強力な「現世利益の秘法」は、「深遠な秘密の教え」の意味である。

この真言宗の教えの中の密教と陰陽修験(日本古来の山岳信仰・神道)などが結びついて、山岳修行僧と言う新しい信仰形式が生まれ、役小角(えんのおづぬ)を祖とし、天台宗の本山派(天台山伏・台密)、真言宗の当山派(真言山伏・東密)の山岳修行僧などが、結び付いて新しい形式の陰陽修験として発展している。

この修験道の「密教・山岳信仰」のルーツこそ、中華帝国を経由し仏教と習合して伝わった遥かヒマラヤ山脈の「夜這いの国々のヒンズー教起源」である事は間違いない。

元々弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典を現代の先入観に当て嵌めて真言密教を理解しようとする所に無理がある。

弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典には、ヒンドゥー教の経典も多数含まれていた事から、真言密教が生まれた。

だからこそヒマラヤ原産の桜木も日本に伝わり、吉野に代表する山岳信仰と桜木は日本でも一体のものと成った。

それが弘法大師(空海)の密教と結びついて真言宗の当山派(真言山伏・東密)修験、伝教大師(最澄)の密教と結びついて天台宗の本山派(天台山伏・台密)修験が生まれそれぞれが布教の為の工作もするようになった。

密かに、列島中の鉱物資源探査を実地していた陰陽修験組織が発見した温泉を、弘法大師(空海)が「岩に独鈷杵(とっこしょ)を振り下ろして発見した」と言う「信仰上の奇跡伝承」として流布した温泉発見のケースは、弘法大師(空海)に限らず高僧の徳として日本全国に在る。

陰陽師起源の詳しくは、小論【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-07-18 02:52 | Comments(0)  

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾輝虎)

越後国守護代・長尾氏の家督を、兄・晴景の養子となって継いだ長尾輝虎(ながおかげとら)は、主君・上杉定実(うえすぎさだざね)の正妻の甥にあたる。

その後、関東管領・上杉憲政から足利宗家の外戚・上杉氏(うえすぎうじ)の家督を譲られ、上杉政虎(うえすぎまさとら)と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領(関東十ヶ国管轄)職に任命される。

その上杉政虎(うえすぎまさとら)が、最終的には上杉(輝虎)謙信と名乗っているが、謙信は法号である。

長尾氏は元々桓武平氏流であるが、藤原北家・勧修寺流・上杉氏の家督を継いだからには上杉(輝虎)謙信は藤原北家の系流と言う事に成る。


越後守護代あがりの戦国大名ではあるが、家督を譲られて越後上杉家を起こした所が、下克上の織田信長浅井長政朝倉義景などとは少し違う。
この物語では織田信長に対抗する強敵として少しだけの登場だが、一番の謎は、桃山期以後(戦国期の終焉)の上杉家の運命である。

天下を取った豊臣秀吉は、むしろ上杉懐柔策に出て上杉景勝に羽柴姓を許して越後中納言とし、出羽国米沢に百二十万石で移封こそすれ上杉家は潰さず、上杉謙信の養子・上杉景勝を豊臣政権の五大老の一人として重く処遇している。

徳川家康も、関が原合戦直前の上杉家蜂起にも関わらず減封こそしたが上杉家は潰さなかった。

「毘沙門天の生まれ変わり」と称する上杉謙信(長尾輝虎)の祟(たた)りでも恐れたのか?

早い話が上杉家は、言って見れば織田信長と戦って一度も負けた事がない。

上杉謙信と対峙した織田軍団の猛将・柴田勝家とその与力・前田利家佐々成政、不破光治らは上杉謙信迎撃を試みるが、「手取川の戦い」で謙信に大敗を喫している。

その後も柴田勝家とその与力軍団は、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死するも、勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向う事が出来ず羽柴秀吉に遅れを取っている。

そして上杉軍団は、あの武田信玄とも互角の戦いを繰り広げて来た。

関連記事・【川中島合戦(かわなかじまかっせん)】に飛ぶ。

言わば「窮鼠猫を噛む」まで追い詰めれば、倒せるまでも味方が多大な損害をこうむる恐れが大で、とてもではないが「触らぬ神に祟(たた)りなし」と言う扱いだったのではないだろうか?

いずれにしても、「毘沙門天」と言う信仰を背負った上杉家は、不敗神話に彩取られて恐れられていたのである。

実子が居なかった上杉謙信(長尾輝虎)については諸説有り、女性だった説や半陰陽説などの逸話も残っている。

しかし上杉家や長尾家は名流の血統である。

血統至上主義の当時に在って、一族の棟梁(武家)が継子を得るのは命題であるから側室・妾は当然の時代で、それでも実子を為せない上杉謙信や豊臣秀吉は「男性精子に欠陥が在った」としか考えられない。

また、殿上人(高級公家)を中心とする血統至上主義社会では、特に虚弱精子劣性遺伝が進んで逆に養子を貰うのが普通の状態に成っていた。

上杉景勝(うえすぎかげかつ)と直江兼続(なおえかねつぐ)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-07-18 01:04 | Comments(0)  

妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)

明智光秀の妻明智煕子(ひろこ)の実家は美濃国・妻木郷・・・妻木氏(土岐氏庶流・妻木氏)当主は妻木勘解由左右衛門範熙、(つまき・かでの・そうえもんのりひろ)、勘解由(かでの)小路党の棟梁家である。

光秀と煕子(ひろこ)の二人が夫婦になったのは、明智光秀二十二歳、妻木(勘解由/かでの)熙子(ひろこ)は十六歳、時は千五百四十九年(天文十八年)の秋だった。

現代の世間では余り気付かれて居ないが、勘解由(かでの)・妻木氏には謎が多い。

妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、美濃の国妻木郷に妻木城を構えた郷士武将の家である。

天下の秀才・明智光秀が、所謂(いわゆる)閨閥(けいばつ)造りの相手に選ぶには一見地味過ぎる小郷士の相手に見える。

だが妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、その外見からは想像出来ない隠れた力を保持していたのである。

この妻木家、実は源氏土岐氏庶流・明智家の枝とされているが、本姓を名門の勘解由(かでの)と名乗り、朝臣(あそみ)は三河松平家(徳川家)と同じ賀茂朝臣(かもあそみ)である事を見逃している研究者が多い。

すなわち妻木家が土岐氏庶流であれば本姓は源(みなもと)と名乗り、朝臣(あそみ)も源朝臣(みなもとあそみ)の筈であるが、妻木(苗字/名字)勘解由(かでの・氏/ウジ)賀茂朝臣(姓/カバネ)由左右衛門範熙(そうえもんのりひろ・名/名前)が正解で、源姓は名乗っては居ない。

明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木氏は、賀茂朝臣(かもあそみ)勘解由(かでの)で、三河松平家とは「同じ賀茂朝臣(かもあそみ)」と言う事になる。

どうやら妻木家が、土岐・明智の強い土地柄に在って血縁も深かった為に「源氏土岐氏庶流・明智家の枝」とされたようである。

ここが肝心のところで、賀茂朝臣(かもあそみ)・勘解由(かでの)を、以前よりまともに理解しているかこの物語を最初から読んでいなければ、江戸期以後の徳川幕府体制の為に創作された文書(もんじょ)に踊らされて、妻木氏出自について大きな間違いを起こす事になる。

明智光秀は、妻・煕子(ひろこ)ともに、勘解由(かでの)・妻木氏の持つ勘解由(かでの)小路党の諜報能力を手に入れたのである。

その妻木家は、明智光秀が南光坊として作戦参加した関が原で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残り、明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。

光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄に所領を有する妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。

光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)の実家・妻木家や親戚の遠山家も同様だが、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれていた。

この妻木(勘解由)家や遠山家が、徳川家の本当の旗本ではない外様の小領主(所領の禄高が一万石以上の大名ではない)にも関わらず、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合」格として旗本格内に置かれ、江戸期を通じて格式と体面を守られた事は、何か特別な理由が無ければ説明が着き難い。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2008-07-07 02:31 | Comments(0)  

集団婚(群れ婚)

人類は非力な生き物であるから、その非力を補う為に群れで行動した。

群れに帰属する事が生きて行く手段であるから、その帰属意識(きぞくいしき)は本能として刷り込まれ集団で生活する事で脳が安心感まで得るように成った。

元々性交は「自然行為(繁殖行為)」であるから、性交のルールやカップリングの条件は後から付いて来た。

その点では他の動物と余り変わりは無い。

例として挙げ易いので「おしどり」と言う鳥を揚げてみると、「つがい」の仲が非常に良いので、仲の良い夫婦を「おしどり夫婦」と形容するが、実際は大半の「つがい」は一繁殖シーズンだけの仲で、次のシーズンは別のペア(つがい)になるそうだ。

そもそも、日本民族の基本的精神は「農耕の文化」から成り立ち、自然に優しく自然と共生する知恵も持っていた。

在るものを見つけ出す事が「自然との共生」であるから、性欲を頭から否定する風潮や信仰はこの国には無かった。

全村身内気分の精神の根底に在るのが、長く続いた日本民族の「性におおらかな感性」である。

古代日本列島では縄文人が住んでいて、男女の関わりが現在のような一夫一婦制ではなく「集団婚(群れ婚)」だった。

また日本民族は、全村(共通生活地域)身内気分の精神で、隣人と力を合わせて生活する「村落共生社会(村社会)」と言う形式の「群れ社会」だった。

或いは、被征服先住の日本列島の民、蝦夷族(エミシ族・縄文人)に、この習慣があったのかも知れない。

つまり歴史的経緯からすると村落社会における夜這いは、言わば「集団婚の一形態である」と考えられるのである。

「集団婚(群れ婚)」という婚姻形態は、一言で言えば「複数の男と女がグループ」で婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて採取狩猟時代から人類の間で歴史的に長く行われていた。

共生の為の「群れ社会」と言う特別の信用信頼関係を構築するには、特別の間柄が継続して実践証明し続けなくてはイケナイのだが、そうなると一夫一婦制の既成概念は取り払わなくてはいけない。

言ってしまえば、群れ内は「フリーセックス」と言う事に成る。

そして個別の二つの群れ同士の争いに解決方法は二つ、武器を持って争うか仲間として合流するかである。

個別の二つの群れが平和的に合流するとなれば、誓約(うけい)の概念に拠る「集団婚(群れ婚)」が、双方を「特別の間柄」と継続して実践証明する「群れ内フリーセックス」が現実的だった。

「群れ社会」での誓約(うけい)の性交は人間の警戒心を解き、安心して人間を繋ぐ触媒の役目を果たすのである。

それで「夜這(よば)い制度」や「寝屋子宿(ねやこやど)・寝宿(ねやど)制度」など、独特な村落集団婚(擬似群れ婚)で全村(共通生活地域)身内気分の精神に拠る共生社会を実現して、老人も子供も全村の責任で面倒を見るシステムを作り上げていた。

最近、不妊夫婦の家庭が増える傾向にある。

これも日本社会が欧米化されて増加した「少子化」の一因なのだが、現代社会では人類が未来に命を繋げる為の男性精子が世界的に虚弱化していて、専門家の間では問題視されている。

つまり「群れ婚」や「真言密教立川流」を、安易に現在の性規範だけで判断する事は出来ないほろ苦い現実も存在している。

実はこの男性精子「虚弱精子劣性遺伝」に拠る不妊家庭の増加は、専門家の間では「一夫一婦制が招いた」とする意見が主流である。

この場合の「一夫一婦制」は家族単位の堅持の為だが、ルール(決め事)が正しいのは或る一面を解決する為の物で万能ではない。

そもそも、現代社会のルール(決め事)は人間が都合で勝手に決めた物で、ルール(決め事)には必ず良い事(都合)がある分だけどこかに悪い事(不都合)も在って、だからこそバランスが成り立つ。

そして人間の良い事(都合)とは、往々にして自然を無視するものである。

何の事は無い、神(聖職者の見解)やお上(統治者の都合)が定めた戒律が「虚弱精子劣性遺伝」を引き起こし、人類の繁殖能力を削いで滅亡へのカウントダウンをさせている事になる。

いずれにしても、自然科学の分野では「一夫一婦制が人類滅亡の危機を招くかも知れない」と、警告されているのである。

この時代に在って、先祖の「真似をしろ」は出来ない相談だが、欧米型の「極端な私権主義」とはまったく対極の考え方で、自然に優しく、自然と共生しつつ地域社会を安全・安定して営めるシステムを作り上げ、実践していた知恵に学ぶものは無いだろうか?

男女平等を誤解して男女の生物的特性まで否定する事は、他の動物同様に持ち合わせている人間の「生態系を壊す」と言う事に成る。

つまり現在の人間(我々日本人を含む)は、生き物としての自らを否定するほど傲慢な存在なのである。

詳しくは・小論【日本の性文化】に飛ぶ。
詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。
詳しくは・小論【ホモサピエンス(知性人)の「種の保存と遺伝子」】を参照下さい。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2008-07-06 21:44 | Comments(0)