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ルイス・フロイス

織田信長を覇権に突き動かしていたのは、いったい何んだったのだろうか?

全ての既存勢力を破壊する勢いで、行動は一直線に迷いが見られない。

信長は、彼の理想とするまったく新しい国造りに執念を燃やしていたのである。

天下布武」に信長が確信を持ったのが、国外からの情報だった。

この当時、信長ほどキリスト教宣教師(ポルトガル)を通じてヨーロッパの王家変遷情報を聞いていた人間は少ない。

宣教師側には、新王朝の設立を促す事で、布教をし易くする打算があったのだろう。

神道を基本とする当時の皇統は、邪魔な存在だったのだ。

信長がヨーロッパ文明を知る為に目を掛けたのは、千五百六十三年(永禄六年)に、ポルトガル王の命で来日したポルトガル人宣教師イエズス会)のルイス・フロイスである。

千五百六十九年(永禄十二年)信長と対面してその保護を受け、以後信長の勢力範囲である畿内を中心に活発な布教活動を行った。

ルイス・フロイスは、リスボン生まれのポルトガル人宣教師である。

故郷リスボンにて十六歳でイエズス会に入会したルイス・フロイスは、当時のポルトガル領インド経営の中心地であったゴアへ宣教師見習いとして赴任し、そこで日本宣教の養成を受ける。

インド駐在中の二十九歳の折にゴアで司祭に叙階され同地において日本宣教の命を受け、日本での布教活動の為に三十一歳で日本の長崎に来日、当時の日本の首都「京」に向うが、足利幕府が弱体化して布教許可の相手として心持たない。

誰を相手にしたら「布教の力添えを得られるのか」と困って居た所に、織田信長が実質的な最高実力者として台頭して来た。

知識欲旺盛な信長に西欧文明を伝えて信長の信任を獲得したフロイスは畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得ている。

フロイスはその後半生三十五年のほとんどを日本で費やし、日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、戦国時代の様子を知る貴重な資料としてその貴重な記録「日本史(イエズス会)」を残す事になった。

こうした宣教師の任務は単なる布教活動に止まらず、植民地拡大をもくろむ母国の為に、表向きの宣教活動とは別にある種諜報活動を行っていた。

政治的に「評判を立てる。評判を煽(あお)る。」を組織的に工作するのも立派な諜報活動で、その広報活動を信仰を利用して行うのは、歴史的必然だった。

陰陽師が布教を伴う諜報員なら、当時の宣教師は布教を伴う諜報員兼現地工作員である。

そうした目的を内包していたからこそ、国王の庇護や支援が、宣教師に対してあった。

従って、ルイス・フロイスとヨーロッパ文明に対し、知識欲旺盛な織田信長は、互いの利益が一致して接近したが、所詮本音の部分では、騙し合いも多かった筈である。

宣教師に、母国に対するある種諜報活動の目的を有していた事から、ルイス・フロイスの執筆による「日本史」における制覇王・織田信長の描写は、「信長の人物像を良く表すもの」として知られている。

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by mmcjiyodan | 2008-08-28 23:35 | Comments(0)  

巨大地震(きょだいじしん)

【浜岡原発の放射能は偏西風に乗って首都圏を直撃する!】

静岡県内陸~紀伊半島沖~四国沖にかけて「フィリピン海プレート」が、毎年四cmの速さで日本列島の下へ沈み込んでいる為に・この東海・南海・東南海域で百年から百五十年ごとにプレート境界型の巨大地震が起っている。

現在、小生が安全性を疑っているのは、「企業の食品偽装など」と言う小さなものではなく(最もこれも大きな問題ではあるが・・)国家単位の偽装が疑われる静岡・浜岡原発の「安全偽装」である。

政府や電力企業は「巨大地震が起こっても安全だ」としているが、【左脳域的】な発想に偏った人が「為(な)している希望的な言い分」ではないだろうな?

平成十九年七月、柏崎刈羽(かしわざきかりわ)原発 が、新潟県中越沖地震の影響で多数の様々なトラブルを公表した。

国も東電も、柏崎刈羽原発 は「安全だ」と言い張っていて、この様(ざま)である。

そのトラブル原因が、「設計値を大幅に上回る地震だった」と言う話であるが、こうした事の基準は、少なくとも日本列島で過去に起こり得た最大値を入れるべきで、その地域に限定される過去の数値などで基本の数値を誤魔化して「想定外」と言えるものではない。

日本の政府・各省庁の官僚は、「先に目標ありき」でそれを為(な)す為に辻褄を合わせて都合の良い数値を置く。

つまり官僚の仕事は、「辻褄の数値に長けている」と言う事で、【左脳域】の論理や理性の範疇の仕事で、そこに【右脳域】の範疇の想像力が欠落しているのである。

「百年経っても大丈夫」の年金でも、基礎になった数値は実情に反する「希望的出生率」だった。

その辺りを突かれると、「国民に不安を与える」と言う何とも「隠蔽(いんぺい)体質剥(む)き出し」の国民を馬鹿にした論理を平然と言う。

この理屈は戦前の「大本営発表」と同じで、都合の悪い事は国民には報(しら)せる必要はないらしい。

統治者の論理で、人権を無視するのは民主憲法下では憲法違反であるが、歴代の自民党政権と官僚はこの統治者の論理を恥ずかし気もなく言い放ち、現在の自民党・福田政権に到っている。

原発の話に戻るが、いつ新潟県中越沖地震の数十倍規模の「巨大地震が有ってもおかしくない」と言われる、東海プレート上にある静岡県の浜岡原発も「設計値」が柏崎刈羽(かしわざきかりわ)原発とさして違いが無い恐れがある。

予測される「巨大地震(関東・東海・南海・東南海)連動型」は、「とてつもなく巨大な地震である」とその可能性を言われて居るので、「安全」と言い切る事に政治的な意図・偽(いつわ)りを感じる。

浜岡原発は東海巨大地震の想定震源域の真上に位置し、しかも浜岡海岸の海底部は遠浅で津波の高さを依り高くする構造にある。

つまり浜岡原発は、巨大地震と巨大津波の被害に拠って制御不能に陥るシュミレーションが成り立つのだ。
疑わしきは戦艦大和建造に代表される「決め事」に対する「己の保身の為」の頑なさで、一旦手を着けてしまったものは「見直さない」と言う融通の利か無さや担当責任の回避が、【戦艦大和症候群】である。

つまり、浜岡原発の安全性公表には【戦艦大和症候群型】の疑いがあるのだ。
戦艦大和の英霊に捧ぐ・そして靖国

本来百パーセントでなければ成らない安全判定で、「予測の範囲内の地震では」と注釈が付き、本音で言う安全度は、何パーセントで「安全」と言っているのかが、大いに妖しいのである。

地震は岩盤(プレート)の破壊現象で、岩盤内に蓄えるられたエネルギー(ひずみ)が破壊によって解放される事で地震が発生する。

通常はマグニチュード九・0あるいはそれ以上の規模のエネルギーが蓄えられる前に岩盤は破壊され地震がおこってしまう為、マグニチュード九、或いは「それ以上の規模の巨大地震」と言うのは、ほとんど発生する事は無く、マグニチュード九・0を想定して耐震設計をしていればほぼ完璧かも知れない。

従って二千四年十二月二十六日に発生したスマトラ沖の地震は地震の発生規模としては限界に近いもので、過去百年で四番目の「巨大地震だった」と言う事ができる。

しかし、「滅多にない事」と「ない事」は明らかに違う。

マグニチュード九・0以上の規模の地震は「滅多にない事」とは表現されても、確率は低いが「ある事」である。

アメリカ地質調査所国立地震情報センターによると、スマトラ沖の地震が発生したのは二千四年十二月二十六日午前九時五十八分四十九秒(日本時間)、震源の位置はスマトラ島の西方沖で、北緯3.244度、東経95.825度、震源の深さは約十キロメートル、マグニチュードは九・0であった。

つまり巨大地震は確実に存在し、過去百年に発生した地震で最大規模だったのは千九百六十年のチリ地震でマグニチュードは九・五であった。

この時は、日本の反対側で発生した津波が二十二時間をかけて日本の海岸に到達し、死者を含む大被害をもたらした。

二番目は千九百六十四年のアラスカ地震でマグニチュードは九・二、三番目は千九百五十七年のアリューシャン地震でマグニチュードは九・一、スマトラ沖の地震はそれに続く規模であった。

なお、千九百五十二年のカムチャツカ地震でもマグニチュード九・0が記録されている。

スマトラ島沖巨大地震(M9・0)による被害が甚大な為、ニュース等で大きく取り上げられる事はなかったが、実は「前兆」と言える巨大地震がその二日前にオーストラリアのタスマニア島の南方沖でマグニチュード八・0と言う大規模な地震が発生していた。

また、スマトラ沖地震が発生した場所は、インド・オーストラリア・プレートがユーラシア・プレートの下に沈み込む所で、地震の多発地帯のひとつであり、最近では二千年六月五日にマグニチュード八・0の地震が発生している。

つまりスマトラ島沖巨大地震は、東海・南海・東南海と同じ連動型地震で、同じプレート上で大地震が続発している。

関東・東海・南海・東南海連動型の巨大地震帯は、まさにスマトラ沖地震と同様の地震の多発地帯である。

近年、東海巨大地震発生の切迫性が伝えられている。

百五十年サイクルで起こる巨大地震の危険地域・東海沖が、既に百五十年を地震発生を見ず経過している。
本来は「来ない越した事が無い」と思う地震ではあるが、今後先に行くほどエネルギーの蓄積が強まり、最大級に成る恐れが大いに有る。

東海巨大地震は、東南海、南海地震と連動して発生する可能性が高く有史以来五回発生しているが、そのうち四回はその直後から二年以内に巨大地震の南海地震も発生する事実で、東海、東南海、南海の巨大地震の発生メカニズムを歴史的に証明した。

記録が残っている過去の巨大地震を振り返ると、まず千五百八十六年(天正十三年)に「東海東山道地震」、その十九年後の千六百五年(慶長九年)に「慶長地震」が発生している。

そして次は「慶長地震」から百年後で、千七百三年(元禄十六年)に「元禄地震」が発生、その四年後千七百七年(宝永四)に「宝永地震」が発生している。

「宝永地震」から約百五十年を経た千八百五十四年(安政元年)に「安政東海地震」が発生、その三十二時間後と言う極めて短時間で「安政南海地震」が発生している。

また「安政南海地震」から約百五十年ほど経った千九百四十四年(昭和十九年)に「東南海地震」が発生、その二年後の千九百四十六年に「昭和南海地震」が発生しているが、この時は太平洋戦争中及び戦後の混乱と前後していて、至近の巨大地震でありながら記録が少ない。

【巨大地震(関東・東海・南海・東南海)連動型】

千七百三年(元禄年間)に、突如、相模国から関八州(江戸府内/関東域)に掛けて巨大地震に襲われ、甚大な被害を出している。

この関東地方を襲った巨大地震は、「元禄大地震(げんろくおおじしん)」と呼ばれ、マグニチュードは八・一と推定推定される巨大地震だった。

元禄大地震(げんろくだいじしん)は、後の、千九百二十三年(大正十二年)に発生した「関東大震災(かんとうだいしんさい)とは同型である」と解明されている。

甚大な被害を出したこの巨大地震で、元禄の好景気に沸いていた江戸府内周辺は、陰りを見せ始める。

所が、一度の大地震でも大変な事なのに、徳川綱吉の不運は元禄大地震(げんろくだいじしん)だけでは終らなかった。

僅か三年後の千七百七年(宝永年間)、今度は東海道が我が国最大級の大地震「宝永大地震」に見舞われる。

宝永大地震は、現代に大警戒されている関東・東海・南海・東南海連動型巨大地震で、遠州灘・紀州灘でマグニチュード八・四の「史上最大」と言われる巨大地震だった。

そして、だめ押しするように宝永大地震から四十五日目、今度は活火山・富士山の「宝永の大噴火」が始まり、山腹に宝永山と火口が出現した。

実は「貞観(じょうがん)の富士山大噴火」から五年後に、奥州三陸地方で貞観大地震(じょうがんだいじしん)が発生していて、火山噴火と大地震は何らかの繋がりが在りそうである。

関東ローム層は、富士山の噴火による火山灰が偏西風で運ばれて関東一帯に降灰堆積したもので、浜岡原発が「静岡県だから」と言って首都圏地区が安全とは言えない。

「宝永の大噴火」は、噴火した灰が偏西風に乗って数日間江戸の街を薄暗く覆い、「市民の人心をも震撼せしめた」と伝えられている。

これが富士山の火山灰だからまだしも、もしもこの地区(浜岡原発付近)で巨大地震が発生、浜岡原子炉が破壊されれば、チェルノブイリ事故並に北関東や房総半島までも放射能汚染域になる。

つまり浜岡原発の死の灰ならば・・・静岡・山梨・神奈川・千葉・北関東から東北まで・・・・致命傷に成り得るのである。

けして静岡の浜岡原発は「首都圏から離れている」と安心してはならない。
つまり、この事態で最も危険なのは首都圏かも知れない。

そしてそこに住む者は勿論、死の灰の首都圏直撃が懸念されるだけに国家そのものが崩壊しかねない危険な位置関係に在るのが、巨大地震の発生を懸念される東海地区の真上に設置された「浜岡原発」なのである。

関東・東海・南海・東南海連動型巨大地震は、今でこそ百年~百五十年周期で連動発生する事で知られている。

元禄・宝永大地震から約百五十年後、幕末の機運が高まった安政年間(江戸時代後期)、世情不安をもたらす「天変地異」が立て続けに起こる。

千八百五十四年(嘉永七年/安政元年)、東海道地区で「安政東海地震(マグニチュード八・四の巨大地震)」、その僅か三十二時間後には「安政南海地震(これもマグニチュード八・四の巨大地震)」と、立て続けに発生して居る。

その翌年の千八百五十五年、今度は江戸府内および関八州一帯に被害をもたらした「安政の関東大地震(マグニチュード六・九)」が起きている。

この巨大地震を安政三大地震と言い、関東地震(関東)、東海(静岡県)、東南海(中京~南紀)、南海(南紀~四国)と、しばしば連動する(同時期または二~三年後に発生する)と言われ、「約百年~百五十年の周期で活動期に入る」とされている。

安政三大地震は、関東・東海の各地に甚大な被害をもたらせる。

まだ地震を科学的に理解する時代ではない江戸末期、天変地異は民心を不安ならしめ、幕府の権威失墜には大きな力になっても不思議ではない。ちょうど、黒船でぺりーが来航した時期(千八百五十三年~四年の二回)と、この安政三大地震が重なるなど、幕府にとっては泣きっ面に蜂である。

この権威失墜に乗じて、反幕派による「尊皇攘夷運動」を引き起こし、千八百五十八年頃の「安政の大獄事件」にと、歴史の場面が移る事になる。

この関東・東海・南海・東南海連動型巨大地震に関しては、六百八十四年の飛鳥時代(あすかじだい)の記録以来、過去十数回の記録が残されている言わば地震の老舗(しにせ)みたいなものである。

どうも、この関東・東海・南海・東南海連動型巨大地震に関して、東南海から関東に掛けてマグニチュード八超級の巨大地震が、その一つでも発生すれば、過去に事例があり連動する可能性が極めて高いにも関わらず、政府は「別々の地震」としてしか国民に予備知識を与えていない。

そうした危惧があるにも関わらず、静岡県知事は静岡空港の開港を強引に押し進めているが、その金があるなら浜岡原発を含む地震対策に費やすべきである。

特に高齢者世帯や独居老人など弱者は、やりたくても住まいに耐震処置をするなどの経済的余裕はない。

今回の「中越沖地震」でも、そうした高齢者世帯や独居老人など世帯が被害が大きく、倒壊して亡くなった方も高齢者が圧倒的である。

好い加減に、政府や官僚も「隠蔽体質」を止め、保身に走らないで国民に正しい情報を伝えるべきである。

予想される関東・東海・南海・東南海連動型巨大地震がマグニチュード八・0以上のものであれば、エネルギーは、阪神大震災(兵庫県南部地震)の「十五倍程度が想定される」と言う説もある。

この原発安全偽装疑惑がもし存在し、予測以上の連動型巨大地震が発生した時には、日本の人口が半減しかねない大惨事になるであろう。

関東・東海・南海・東南海連動型巨大地震は天災でも、その真上に設置された浜岡原発で起こり得る二次災害は間違い無く「人災」である。

それでも「安心安全」と応え続けるのであろうか?

何しろ、「年金は百年経っても大丈夫」と作為的強調をした前歴がある自民党政府を、貴方は信じるか?

「今度は大丈夫だ」と言った年金不明データーの照合作業の公約を、「あの時は選挙だった」と恥ずかしげも無く言い放っ政府を貴方は信じるか?

つまり偽りの本家本元として嘘偽りを重ねる政府が「浜岡原発は安全だ」と言っても、貴方に信じられるだろうか?

利の優先の為に、安全性を無視した過ちは過去に数が多い。

経済活動において、「巨大地震時の原発を安全だ」と信じる指導者は本物で、「巨大地震時の原発の安全を信じられない」と思う指導者が、それでも指導者であり続ける事はそれ自体が詐欺師である。

しかしながら、「原発を安全だ」と信じる指導者は、己の心をも詐欺しているに違いない。

一般庶民が、巨大地震時の我が家の倒壊を信じたくない心境だけで、「安全だ」と思いたがっているに等しい「根拠の無い心境」と同様だからである。

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地震関連
富士山・貞観大噴火(じょうがんだいふんか)】に飛ぶ。
奥州・貞観大地震津波(じょうがんだいじしんつなみ)】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-08-27 13:35 | Comments(2)  

比売大神(ひめおおみかみ)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・卑弥呼(ひみこ)同一人物説

伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟・宇佐神宮(宇佐八幡宮)は大分県宇佐市(豊後国)に在る。

宇佐神宮は、八幡神の応神(おうじん)天皇を祭る神で、全国の八幡神社、四万社の総元の神様であり、「天照大神を祭る伊勢神宮に次ぐ」と言う相当格式の高い神社である。

応神天皇の母后、神功皇后もここに祭られている。

一説には、神功皇后は架空の人物で、「卑弥呼との兼ね合いで後から創られた」とする話もある。

しかし、主神である筈の応神大王(おおきみ・天皇・第十五代)は、宇佐神宮の本殿の中央には鎮座してはいない。

中央におわすのは、余り一般には知られては居ない謎の祭神、「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」である。

その左右に、応神、神功、の両神は鎮座ましましている。

比売大神については、その道の研究家でも良く解明されてはいないが、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)を横に据えるからには、かなりの大物(尊い)の神様に違いない。

この並び順を、単なる造営順番に起因する「イレギラーだ」とする学者も居るが、少し考えれば「在り得ない事」と判る。

何故なら日本で一・二を争う最高の神社で、それでは安易過ぎはしないか?

当然ながら、信仰から神を扱う以上、その並び順には神経を使い、然るべき所に御鎮座願うのが当り前である。

比売大神(ひめのおおみかみ)の正体が判らないから社殿の造営順などとばかな結論を出す。

この謎解きは簡単である。

宇佐神宮の主神が八幡神であり、八幡神は武神(戦神)である。

そして八幡神は菩薩(女性神仏)であり、しかも大が付く大菩薩となると、相当の格を持つ神である。

武神(戦神)比売大神(ひめのおおみかみ)が八幡大菩薩と同一と考えると、考えられるのはそれこそ比売大神(ひめのおおみかみ)が「天照大神(あまてらすおおみかみ)の戦闘モード」と符合して来るのである。

この比売(ひめ)大神(おおみかみ)が卑弥呼と同一人物の可能性がある。
魏志倭人伝に見える倭国内の国々の一つである邪馬台国の女王は、「卑弥呼」と記されている。

この卑弥呼は日本の歴史上謎の人物だが、卑弥呼は大陸・魏帝国側が列島側の音(オン)を漢字(中国語の音)に充てた表記ではないだろうか?

比売(ひめ)大神(おおみかみ)は比売(ひめ)命(ヒメノミコト)とも呼ばれ、或いは比売皇女(ひめみこ/ヒメミコ)も限りなく音が近い。

邪馬台国の国家の運営は、卑弥呼の御託宣(シャーマニズム)を背景に行なわれていた。

そのシャーマニズムの根幹、御託宣を為す存在が火(アピ/火の意)だったのである。

アピ(火/原ポリネシア語)は、先住蝦夷(エミシ)の族長一派が名乗り、縄文期の列島の首領(火を操る指導者)の尊称である。

その娘はアピの娘(アピミコ=火皇女)であり、日女皇子(ヒメコ/火女皇子)とも言う。

つまり邪馬台国の女王「卑弥呼」は尊称で、卑弥呼には別な固有名があった筈である。

女(おんな)は中文(ツンウぇン・中国語)で「ニュョイ」であるが、アイヌ語では巫術女(みじゅつめ/巫女・みこ)の事をオイナ・カムイ(oyna ・kamuy)と言い、このオイナ(oyna)が「女(おんな)の語源ではないか」と考えている。

原ポリネシア語の「アピ(火の意)」とアイヌ語の「アピェ(ape・火の意)」は共通していて、インドネシア語系の「アピ(火)」も同じ音である。占術、呪術に於いて火(炎)は重要なアイテムで、日本語の火(ひ)は、韓語(ハングル)では火(プル)、中語(ツゥンウェン・中文)では火(フォ)であるから、火を「ヒ」と発音する事も「アピ」が訛って「ピ」に成った可能性が高い。

魏志倭人伝(中国語)が意味よりも音(オン)を優先すれば「卑弥呼(火皇女=ヒミコ/ピミコ)」と充てる事は充分考えられる。

比売(ヒメ)は神代の神格化した女性に対する尊称で、後世の代の姫に通じる。

そこで九州・宇佐神宮(宇佐八幡宮)に鎮座まします「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」が、邪馬台国の女王「卑弥呼」で有っても不思議は無い。

いずれにしても皇室の扱いを見ると、伊勢神宮と、宇佐神宮は、本来、天一族(あめのいちぞく)の最高神達である。

この宇佐神宮には、古代史から続く日本の歴史を舞台に、謎が幾つもある。

恐らくは、統一王朝の成立に至る幾多の出来事に、それ以後の政権運営に、宇佐神宮が「深く関わっていた」からではないだろうか。

たとえば、七百二十年頃の九州隼人(薩摩隼人)の乱がある。

これは、南九州の部族「隼人族(はやとぞく)」の反乱である。

南九州の部族は、隼人族であるが、別名を熊襲(くまそ)と言う。

今の大隈、薩摩の両半島の辺りで幾度となく起こった反乱であるが、中央政権側の討伐軍(朝廷軍)の大将が、大友旅人(おおとものたびと)である。

朝廷はこの戦にあたり、宇佐神宮に勅使を送り戦勝祈願をしている。

これを「勅使(ちょくし)参拝」と言う。

平安初期、八百年代に起きた称徳大王(しょうとくおおきみ・天皇)弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に天皇位を譲ろうとした事件でも、和気清麻呂(わけのきよまろ)は近くの伊勢神宮ではなく、わざわざ宇佐神宮の御神託を仰ぎに遠方の九州まで出向いている。

朝廷の一大事に、アドバイス(助言)したのが、他でも無い宇佐神宮なのだ。

宇佐神宮御神託事件」である。

この「御神託事件」だが、物部(もののべ)氏の一族である弓削氏の一族の一人と云われている弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、若年の頃、法相宗の高僧義淵(ぎえん)の弟子となり、良弁(ろうべん)から梵語(サンスクリット語)を学ぶ。

また大和国(奈良県)の葛城山に篭り「密教の宿曜秘法を習得した」とも言われる。

道鏡は、七百六十五年に太政大臣禅師、翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。

豊前国(大分県)の宇佐神宮より「天皇の位を道鏡に譲れ」との神託が下る。

しかし、和気清麻呂が勅使として参向し、以前の神託を否定して即位計画は破綻した。

つまり朝廷にとって、「比売(ひめ)大神」は、特別な存在らしいのだ。

しかしどの記述でも、その存在や由来は明かされる事はない。

そこに厳然と鎮座ましますだけである。

そして、宇佐神宮、(八幡神社)は、戦いの神であった。

そして八幡神は武の神様で有り、清和源氏の戦の守護神である。

つまり源氏は皇統の影人である。

それで思い付いたのが、「変身説」である。

或いは、平和の象徴である天照大神の、戦いの時の「変身したお姿」が、比売(ひめ)大神ではなかろうかと、我輩なりに大胆に推理して見た。

天照大神は太陽信仰の神であり、大地の豊穣を願う農耕民族(天一族/天孫族)の女神である。

この平和の象徴が、乱暴な須佐王(スサノオ)が高天原にやって来た時、天照大神が男装に着替えて武装して威嚇した。

その御姿こそ、宇佐神宮におわす「比売大神」ではないだろうか。

平和の神・天照大神と争いの神・比売大神が、都合により顔を出す仕掛けだ。

民に平和と幸せを提供するのが、朝廷の役目である。

それで、朝廷としては建前上大っぴらに公表出来ない。

だから存在意義を説明できない。

それでなければ、比売大神(ひめのおおみかみ)は永久に謎の存在で終わってしまう。

皮肉な話しであるが、現代の日本でも「平和憲法の建前」から、軍隊を軍隊と呼べず「自衛隊」と称して居る様に、平和の神に戦闘モードは似合わないからである。

この説の裏付けとして、もう一つエピソードがある。

初代神武大王(おおきみ・天皇)が東征に先立ち、宇佐神宮に寄ったと、「紀記(古事記日本書紀)」に記されている点からも、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)が主神では、時代が前後してしまうのだ。

神武大王(じんむおおきみ・天皇)が神とあがめるのは、天照大神を置いて他にない。

それ故、比売大神(ひめのおおみかみ)イコール天照大神(あまてらすおおみかみ)と思えるのだ。

三女神(ミハシラのメガミ)説もあるが、時に応じて、大和朝廷側に平和の神、天照大神と同格の最高の軍神が存在する必要が有ったはずだ。

神話の合理性を思うと、日本の変身の第一に最高神が在っても良いではないか。

尚、三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神、月読命、スサノウ(須佐王)は、「記紀(古事記日本書紀)神話」に於ける「)」の伝承的存在である事を心して分けて扱うべきである


尚、天照大神(天照大御神)は「大日霊/おおひるめのむち」とも言う神名(異称)を持ち、天照大日霊女尊(あまてらすおおひるめのみこと)と言う言い方もある。

その「大日霊/おおひるめのむち」の「おお」は尊称であり「ひるめ/日霊女」は「ひみこ」の事とされ「卑弥呼を指す」と言う解釈がある。

詳しくは、詳論【古代国家・邪馬台国卑弥呼】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

関連記事
崇神大王(すじんおおきみ/天皇)と欠史八代(けっしはちだい)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-08-26 05:49 | Comments(1)  

坂本龍馬(さかもとりょうま)明智氏末裔説

坂本龍馬(さかもとりょうま)は、江戸時代末期の土佐藩士である。

龍馬は通称で、本名は坂本直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)他に才谷梅太郎などの変名がある。

その出自であるが、坂本家が主君に差し出した「先祖書指出控」には、「先祖、坂本太郎五郎、生国は山城国、郡村未だ詳らかならず、「仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住致す」とある。

この仕声弓戦之難が、千五百八十五年(天正十三)の豊臣秀吉に拠る紀州(根来衆・雑賀衆)征伐であり、長岡郡才谷村(高知県南国市才谷)が、雑賀伊賀根来、の落人達が住み着いた所である。

勿論、山崎の合戦に敗れた明智光秀一族の一部が共通の敵を持つ根来衆・雑賀衆と同じ才谷村(高知県南国市才谷)に隠れ住み着いても不思議は無い。

しかし、土佐才谷村での坂本家は、千五百八十八年(天正十六年)才谷村の検地では「坂本」の名は見えず、村の三番目の百姓として登録されているに過ぎない。

二代目彦三郎、三代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。

従って三代目太郎左衛門までは、公認の名字をもたぬ有姓階層の百姓身分と考えられる。

有姓階層としての百姓家が、坂本龍馬の先祖・才谷家である。

四代目守之、五代目正禎は才谷村の字(あざ・地名)の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。

千六百六十六年(寛文六年)三代目太郎左衛門の次男・才谷八兵衛は高知城下に出て、屋号を「才谷屋」と言う質屋を開業して次第に力を着け、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。

その後才谷(大浜)家は、千七百三十(享保十五年)頃に本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるに到った。

龍馬の五代前、商家・才谷屋(才谷六代目・大浜姓)直益は、千七百七十年(明和七年)に郷士の株を買い長男の大浜直海に坂本姓を名乗らせている。

明智氏傍流を名乗り、「明智氏所縁の坂本を姓とした」と言う。

これで漸く、土佐才谷郷にたどり着いた百姓家が、名字帯刀、即ち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分に成ったのである。

その後の、坂本直海の孫の代に白札郷士・山本覚右衛門の次男を坂本家の養子に迎え、坂本直足(さかもとなおたり)とした。

坂本直足(なおたり・八平)の次男が坂本直陰(なおかげ・龍馬)である。

なお、坂本直足は土佐屈指の豪商の側面も持ち合わせている。

坂本家は桔梗紋を家紋として用いており、明智氏の一族で「明智秀満(明智光秀の重臣・三宅秀朝の子で光秀の次女と婚姻、義理の息子にあたる)」の末裔であると坂本家(才谷家)には伝えられているが真贋の程は不明である。

唯一明智氏の居城が坂本城である事から、この坂本家の伝に僅かな関わりを感じるだけである。

しかしながら坂本家の精神として、坂本龍馬に明智氏の思いを抱かせていた事は否定出来ない。

父は土佐藩郷士・坂本八平(直足/なおたり)で龍馬は次男、母は幸。兄は権平、姉は千鶴、栄、坂本乙女(おとめ)が居る。

妻はおりょう(本名は楢崎龍子)、故郷の土佐(高知県)には「婚約者の千葉さな子も居た」とされる。

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by mmcjiyodan | 2008-08-26 02:32 | Comments(0)  

源実朝(みなもとさねとも/鎌倉幕府三代将軍)と鶴岡八幡宮暗殺

三代征夷大将軍には、二代将軍・頼家の弟・実朝(さねとも・頼朝次男)が就任する。

しかし北条時政は、娘の政子も驚愕する計画を進めていた。

実朝を退け、もう一人の娘婿「平賀朝雅(ひらがともまさ)」を将軍に就けようとしたのである。

平賀朝雅(ひらがともまさ)は、北条時政の後妻・牧の方の娘婿に当るが、この時政の娘は北条政子・北条義時姉弟とは腹違いになり、後妻・牧の方の色香に迷った時政の、そそのかされての企てである。

それを許しては権力が平賀家と後妻・牧の方に移り、政子の政治生命は終わってしまう。

平賀朝雅の将軍擁立計画を事前に知った政子・義時姉弟がとても承服出来ずに猛反対して対立、時政は娘・政子と息子・義時の姉弟に伊豆へ隠居させられて、完全に失脚してしまう。

平賀朝雅の件で時政は失脚し、実権は政子と義時の姉弟に移っていた。

この一件で、時政は出家して、明盛(法名)と称した。

牧の方と伴に伊豆に幽閉された時政の失脚は、源頼朝挙兵から二十五年目の事である。

時政はそれから十年後に、寂しく伊豆で没している。

三代将軍に就任した頼朝の次男、実朝(さねとも)は、兄・頼家の最後や北条執権家の時政(祖父)と政子(母)・義時(叔父)兄弟との非情な内紛を見せられて、身の処し方を学んだ。

母・政子と叔父・義時の権力への燃え盛る執念は並大抵ではなく、そこに触れれば将軍と言えども火傷は必死だった。

実朝(さねとも)は政治には関心を持たず、文化文芸にいそしみ、政治は母政子と、叔父の北条義時に任せていた。

それでないと、兄頼家の「二の舞」である。

それ故三代将軍・実朝は、皮肉にも文化人としてそれ成りの足跡を残している。

処が、それでもなお実朝を確実に取り除きたい勢力が存在した。

北条時政・北条政子にとって、野望を脅かす頼朝の血統(源氏の血)の存在そのものを赦せなかった。

使ったのは、先の将軍「頼家」の次男・公暁(くぎょう)である。

これは、或る事を目論む一族の血筋にとっては、最高に都合の良い方法であった。

つまり源家の根絶やしが、目的で無ければ、こんな事は考えられない。

公暁(くぎょう)に父の仇は「実朝」と吹き込んで、鶴岡八幡宮で暗殺させ、その直後後、公暁も犯人として討ち取っているのだ。

これは、たくらんだ側の「源氏の血筋殲滅プロジェクト計画」において、「一挙両得作戦」と言う事である。

最近の文献では、実は「実朝」は政権運営に意欲を示したので、「陰謀の標的にされた」とする見解が、優勢に成っている。

頼家には、一幡(いちまん)、公暁(くぎょう)以外にも二人の男児が居たが、三男千寿(せんじゅ)、四男禅暁(ぜんぎょう)はそれぞれ自害、殺害で命を落としている。

公暁に殺された三代将軍実朝には、子がいなかったので、「完全」に源頼朝家の血筋は途絶えてしまう。

一人の母親として、女として、政子が「涙を流さなかった」とは思いたくないが、それにも勝る目的が、彼女には有ったのだ。

鎌倉幕府の実権が、完全に政子のものに成ると、弟・義時を使って政子は尼将軍と言われ、幕府の采配をする。

将軍には、幼い九条(藤原)頼経(よりつね)を京から向かえ第四代征夷大将軍とし、自らが後見人と成った。

源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2008-08-23 18:41 | Comments(0)  

源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)

源頼朝落馬事故(???)で亡成ると、二代目征夷大将軍に、頼朝の嫡男「頼家」が跡を継ぐ、勿論、頼朝と政子の長男である。

頼家の代に成ると、北条時政はいよいよ政権内で力を持ち、宿老会議(有力御家人十三人の合議制)を設けて、政務の実験を握るようになる。

何しろ、将軍は自分の孫である。

頼家が将軍に成って二・三年の間に、有力御家人の梶原氏や城氏の反乱が有るが、時政が鎮圧している。

権謀術策で政敵を追い込んで行くのが、北条父娘の邪魔者排除の手口だった。

梶原景時ら梶原一族は、桓武平氏の血筋ながら石橋山で頼朝を助けて四ヶ月後、源頼朝に乗り換えて成功し、頼朝の信任厚く鎌倉幕府初代侍(さむらい)所の所司(ところつかさ)となった。

頼朝死後も鎌倉有力御家人、十三人のメンバーの一人に数えられていた。

しかし、世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、彼が動けば地方武士が集まる危険があった。

この北条に対抗できる梶原景時の勢力は、時政に取って見るからに危険だった。

「今のうちに、芽を摘んでしまおう」と、時政は思ったのだ。

それで、六十六人の御家人連判状で、景時を弾劾する。

窮地に落ちて京に逃げようとした梶原一族を、駿河の国(今の静岡県中部)で、まんまと地元武士に討たせている。

政権も軍事力も、現実的には「時政」が掌握していたのだ。

父・頼朝の落馬死(??)により千百九十九年(正治元年)に家督を継いだ鎌倉二代将軍・源頼家には正室は居なかった。

一般的に妾妻とされる将軍・頼家に寵愛された「若狭の局(わかさのつぼね)」は、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(ひきよしかず)の娘である。

比企氏が頼朝源氏との関わりが深かった為に権力の中枢に近づき、結果、北条氏と比企氏が鎌倉幕府の指導権を巡ってぶつかる事になる。

父の事故死(?)で家督を相続したニ代将軍・頼家が跡を継いだ時は若干十九歳、利発で若さに溢れていた。

ニ代将軍・頼家が、父・頼朝と同じ将軍独裁の体制を整えようとした矢先の千二百三年(建仁三年)、頼家二十二歳の時に突如として罹病、危篤に陥る。

この異変を、近親者の何者かが関与した可能性(暗殺陰謀)を否定出来ない所に、この時代の非常冷酷さが伺えるのだが、「母・政子が関与していた」と言う証拠は無い。

いずれにしても、この頼家の一時危篤を期に北条時政・北条政子の野望が噴出、世継ぎ(相続議)の会議を開く結果と成り、若狭の局が頼家との間に成した子・一幡の相続を主張、北条時政と母政子(時政の娘)が、頼家の実子・一幡(いちまん)と弟実朝(千幡)に分譲する案を出して対抗し、北条氏と比企氏との対立が鮮明に成って、頼家と若狭の局を劣勢に追い込む事となった。

幸い危篤だった将軍・頼家は一命を取り止め、病が癒えて復帰したものの、既に遅かった。

老臣会議制を敷かれて将軍独裁権限は奪われた後で、老臣会議制を主宰する北条時政の専横に、頼家は将軍とは名ばかりの立場に置かれ居たのだ。

将軍・頼家は、失意と共に北条氏への怨念と復讐の炎を燃やす。

源氏の実権の回復に努め、北条父娘の圧倒的勢力に対抗して、頼るは有力御家人の一人、妻(若狭)の自家・比企能員(ひきよしかず)と比企一族だった。

北条政子が我子である頼家に敵対した訳は、「若狭の局」を寵愛する頼家をめぐる嫁姑の確執に止まらず、北条氏と比企氏と言う氏族の論理が根底に有ったからである。

若狭の局が頼家との間に成した子・一幡が正式な後継ぎになると、比企氏の力が北条氏を上回りかねない。

危機感を募らせたのは北条時政・政子の親子で、政子はこの時に我が子・頼家を除く決意をした。

これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員(ひきよしかず)と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化して行った。

妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、武力行使も準備していたのだが、返えってそれを察知され、「頼朝の法事」と称して時政邸に招かれた能員(よしかず)は、一族の反対を押し切って疑いも持たず時政邸に行き、待ち構えていた時政の家人に首を刎ねられて討ち取られてしまった。

同時に比企一族も北条方の義時・泰時親子に攻撃を受け、小御所(一幡の館)に篭城し抗戦するが、頼家の実子・一幡(いちまん)は焼き討ちにされて殺され、結果比企氏は時政に滅ぼされ、頼家は退任させられて叔父・源範頼(みなもとのりより)同様に伊豆国・修禅寺に流され幽閉されてしまった。

伊豆の修善寺に流され、幽閉されていた二代将軍・源頼家は、翌年の千二百四年(元久元年)に北条時政の密計により、伊豆国修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯に於いて二十三歳と言う若さで刺客に暗殺された。
頼家の将軍在位は僅か四年であった。

源実朝(みなもとさねとも/鎌倉幕府三代将軍)と鶴岡八幡宮暗殺】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-08-23 18:40 | Comments(0)  

「沢田の大蛇退治 」伝説

丹波国・篠山の池尻神社(いけじりじんじゃ)の伝承を挙げる。

それが、数ある伝承の中身を良く考えると、全てに共通する「まるでお決まりにパターン化された物」のように、これらの伝承は良く似ている。

昔、大山の或る里に年老いた両親と美しい娘が住んでいた。

その村では、秋祭りには、毎年十五歳になる前の少女を人身御供(ひとみごくう)に出さ無ければならなかった。

そのくじ引きにある美しい娘が当って、その両親はたいそう悲しみ、そろって氏神(うじがみ)様・池尻神社(いけじりじんじゃ)にお願いに行った。

娘は不幸を嘆(なげ)き、父母の気持ちを思って途方にくれ、深く神に祈りを捧げた。

或る日、池尻神社(いけじりじんじゃ)では、神主(かんぬし)が浮かぬ気持ちで秋祭りに備え、境内(けいだい)を掃き清めていた。

「今年も人身御供に娘を供する」と思うと、祭りとは言え痛ましい話で、神主の心は浮かなかった。

ちょうどそこへ、都から来た若い武士が参拝に立ち寄った。

実はこの武士、国の氏神のお告げで、西国の「桜の木の下に住む」と言う娘と、結婚する為の「相手探し旅」の途中だった。

武士は、「池尻神社の神様にも、お告げの相手を聞いてみよう」と思って、一心に神様にお祈りをした。

そのうち若い武士は、疲れてウトウトと夢を見た。夢の中では人身御供に代わって桜の木が現れ、神の声が聞こえた。

夢うつつの中で驚く若い武士に、神の声は続ける。

「邪心(じゃしん)を祓(はら)い、人身御供の娘と夫婦になり、神の恵みを伝えよ。智仁(ちじん)備えし勇者に宝剣(ほうけん)一振りを与える。」

その声とともに宝剣が桜の木の上に降りて来た。

ハッとして若い武士が目覚めると、何と夢の筈が桜の木の下には現実に宝剣が在った。

「目の前に御神刀(宝剣)がある」と言う事は、この夢が神のご託宣に違いない。

都から来た若い武士は、その娘が「探していたわが嫁である」と確信した。

神が夢枕に告げるからには、嫁探しの旅の目的地はこの池尻神社(いけじりじんじゃ)だったのである。

確信をもった若い武士は、「これこそ神の恵み。」と言ってその宝剣をおし戴(いただ)いた。

若い武士は、嫁となる娘を怪しい物への人身御供から守る為に神に導かれたのである。

お祭の当日になって、若い武士は目を光らし、辺りを警戒していた。

人身御供の祭事も済んで娘を奉納し、村人も帰った後に成り不思議にも草木がザワザワと動揺し、星一つない真っ暗な夜に成ってしまった。

夜中になって雨も降り出した頃、目をギラギラさせ、炎を降らせながらこちらに近づいて来る異様なものがあった。

武士は、「池尻大明神(いけじりだいみょうじん)」と心に念じて剣を抜いて待っていた。

雨がさらに激しくなったその時、怪しい物が急に武士に襲いかかった。

武士が居る事に気付いていたのだ。

飛び違い、かいくぐって武士が斬(き)り付けると、流石に宝剣で、「ズン」と手ごたえがあり、怪しい物が「ギャー。」と悲鳴をあげた。

妖怪は傷つき、宝剣を恐れて岩に登って逃げとしたので、引き下ろし、「エィ。」と剣を刺し貫くと、怪しい物はのたうって暴れ、やがて大人しくなった。

若い武士は、その怪しい物を苦闘の末に漸く退治したのだ。

その瞬間、空は急に明るくなって、そこに十メートル余りの大蛇(だいじゃ)が死んでいた。

武士は、老夫婦の一人娘と結婚し、村に住みついて、「子孫が栄え、村もたいそう繁栄した」と伝えられている。

「沢田の大蛇退治 」と伝えられる、丹波国・篠山の伝承である。

詳しくは【天狗修験道と犬神・人身御供伝説】に飛ぶ。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

伝説シリーズ
天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)】に飛ぶ。
因幡(いなば)の白兎(うさぎ)伝説】に飛ぶ。
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。
霊犬伝説シリーズ】に飛ぶ。
八岐大蛇(やまたのおろち)伝説】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-08-20 17:02 | Comments(0)  

尼将軍・北条政子と北条執権家

ここからは、尼将軍北条政子北条執権家について記述する。

北条政子が新婚初夜の夫・伊豆目代・山木(平)判官兼隆の殺害から始め、源頼朝の従弟、頼朝の実母兄弟一人、異母兄弟二人のうち一人とその子、頼朝との実の子二人とその子三人(つまり孫)と源氏の血筋を皆殺しにし、北条執権家を確立する。

頼朝の妻・北条政子の父・北条時政は、紛れ無き桓武(かんむ)平氏の血筋である。

伊豆・北条家は、桓武天皇から五代後の平直方(たいらのなおかた)が祖(基)である。

平直方は伊勢平氏・平貞盛平将門を討った)の孫に当たるが、村岡五郎良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」の鎮圧に失敗、役を解かれて止む無く伊豆の国に在住する。

時政の父は平時方(たいらのときかた)と言った。

ただし文献的には確定ではなく、平時家が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在する。


北条家は平家の血筋(系図)ではあるが、いずれにしても当時権勢を誇っていた清盛の親戚としては枝の枝で、よほどの事がなければたいした出世は望めない。


時方は伊豆の国北条に住む土豪で、妻は伊豆権守(ごんのかみ)為房の娘をもらった。

その二人の嫡男として時政は生まれ、地名を取って北条時政と名乗った。

つまり、北条・氏(ほうじょう・うじ)平朝臣・姓(たいらあそん・かばね)時政である。

地方の小豪族だったが、自分の支配地に源氏の棟梁の血筋を引く源頼朝が流されてきて、その監視役を勤めた事で様相が変わる。

娘政子が、強引に頼朝と出来てしまったのだ。

娘の政子に引きずられる様に頼朝の挙兵を助けた時政だが、その後の時政の「甲斐源氏・武田氏」を味方につける諜略工作など、存外に上手く行って坂東武士団の参加が続き、娘婿・頼朝が天下を取ってしまった。

天下人の義父であるから、思いもしなかった政権中枢に座る事になる。

鎌倉幕府が成立し、守護地頭制を設ける「勅許(ちょっきよ)」を授かると、時政は初代京都守護に着任する。

幕府を遠い「鎌倉」の地に開くからには、朝廷が相手となる重要地区の京都守護職は、まさに幕府の代理であり将軍・頼朝の代理である。

その後、時政は七ヵ国の地頭を一度に務める惣追捕使(そうついほし)に補されるが、ちなみにこの職責は、奥州藤原家の最盛時をしのぐ規模の権限である。

しかし時政は是を長く勤めず自から鎌倉幕府中央に戻り、政権中枢の政務を担当するように成る。

その後二代将軍・源頼家(みなもとよりいえ)とその子・一幡(いちまん)を殺害、頼家・次男・公暁(くぎょう)をそそのかして三代・源実朝(みなもとさねとも)を殺害させて頼朝源氏の血を根絶やしにして北条執権家を確立したのである。

源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)】に続く。
源実朝(みなもとさねとも/鎌倉幕府三代将軍)と鶴岡八幡宮暗殺】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-08-17 23:55 | Comments(0)  

源義経・一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」

源義経は「戦闘」の天才であった。

それは直感的なもので、あまり理論的ではない。

しかし、戦場の「待ったなし」の状況の中で、瞬時に相手の思い拠らない正解を導き出すその能力は、後にも先にも彼一人である。

この戦略、勘解由小路・吉次の手の者、武蔵坊弁慶比叡山延暦寺の修験者(山伏)が参謀として的確な助言をしたもので、若い義経一人の独創ではないが、それを取り入れて、自らも先頭に立ち、戦闘を為し得たのは義経の才である。

つまり、状況判断と決断である。

どこの部分が弱いか、いつが攻め時か、どんな攻め方が有効か、これを瞬時に判断する。

どちらかと言うと「即応自在型」で、戦略ではなく戦闘の天才だった。

だが、現代の目で分析して見ると、平家の方が「世間知らず過ぎた」様である。

一ノ谷(城戸の戦い)の決戦を例に取ると、平家方には大胆な奇襲である。

しかしこの奇襲、源義経と平家方には温度差がある。

つまり都人(みやこびと)の生活に慣れた平氏の常識では、裏山の急な斜面は要害であった。

しかし、その考え方は公家化した人間の常識で「思い込んでいた」だけの勘違いである。

考えてみると、普通人間でも急斜面では四足になる。

四足は急斜面では二足歩行の人間より遥かに安定している。

義経は若い頃奥州平泉の藤原家で育った。
奥州は蝦夷馬(南部馬)の産地である。

関西の馬に比べ、蝦夷馬(えみしうま)は体格も良く、力も強かったから、前九年の役当時の源頼義以来源家(氏)の武将はもっぱらこの馬を使っている。

この馬は奥州の特産で有ったから、到る所に牧(まき)があり、放牧されていた。

奥州藤原家に身を寄せていた若き義経も、それを見る機会には恵まれていたはずで、急斜面をものともせずに上り下りする蝦夷馬を目撃していたはずである。

元来四足歩行動物は、人間が考える以上に斜面には強い。

従って、今日の日本人が思うほど、義経の決断はそれ程大したものではない。

大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩し無いのである。

同時に人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

つまり何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う判断をするのである。

つまり一ノ谷(城戸の戦い)における平家軍の背後の断崖の判断は、「思い込み」と言う事になる。

それらを考慮しても、源氏による平家追討は義経の天才的戦闘能力に頼る所が多かったのは、誰しもが認める所である。

屋島の戦い(やしまのたたかい)】に続く。
壇ノ浦の戦いと松浦(まつら)水軍】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-08-17 23:53 | Comments(0)  

霊犬伝説「鎮平犬」

大神=狼=犬神信仰は、「陰陽修験の基本だ」と我輩は考えている。

まるで同一の組織が、違う土地で同じパターンを使用したように似ていて、そこに、陰陽修験の影が見え隠れしているのだ。

福知山線篠山口駅から西へ一キロメートル余り行った所に、犬飼村の大歳神社がある。

この神社にも、人身御供の伝説が残っている。

主役はこれまた「鎮平犬」と呼ばれる霊犬の話で、能登国(石川県)七尾の霊犬伝説「霊犬伝説「しゅけん」」や遠江国(静岡県)見附宿の霊犬伝説「霊犬伝説「しっぺい太郎(悉平太郎)」」と良く似た所がある。

こうした伝説はパターンが似ている事から、この辺りの経緯(いきさつ)に修験山伏の影がチラつくのだ。

昔、或る年に、北近畿(丹波・丹後・但馬)地方の或る村で神隠し事件が起こった。

氏子の中に五人、七人と次々に行方不明者が出てきて村中総出で捜しても、行方不明者の消息は判らない。

消息の掴めない神隠しであるから、「これは神のお怒りの禍(わざわい)である」との結論になり、神の怒りを静める為に氏子の連中が相談して人身御供を供える事に決め、くじを引いて祭りの夜に供える事にした。

その村では、毎年祭りの夜に人身御供を供える神事は続いていた。

村の取り決めであるから否とは言えず、村人は例年泣く泣く人身御供を供えていた。

所が、或る年のくじを引きで犠牲者に当たった家では大変悲しみ、何とかこの災難を逃れようとただ一心に神にすがり、三七日の祈祷をした。

ここまで育てて来て、漸(ようや)く花も盛りの年頃を迎えたばかりの愛しい娘である。

娘は、親でさえ惚れ惚れするほど麗しく育っていて、とても人身御供などには出せる物ではない。

一生分を使い果たしたと思うくらい散々に泣いたが、勿論娘への思いは断ち切れない。

するとその祈祷の満願の明け方に一人の童子が現れ、「氏子の悲嘆を聞くに忍びず故、霊験を持って汝らに教えよう。」と、神の声をその村人に伝えた。

童子の話に拠ると、江州犬上郡にある江州多賀明神は伊裝冉尊を祀るが、この宮も元は人身御供の禍(わざわい)があった。

しかし多賀明神宮の禍(わざわい)は、「鎮平犬と言う犬が化け物を退治し、この厄を逃れた。」と言い、「今もこの犬が犬上郡にいる。借りて来て、例祭の時この犬を器に入れておけ。神は不思議な力をこの犬に与えるであろう。」と伝えた。

これを聞いた村人は「これで村の禍(わざわい)は無く成る。」と大いに喜び、神のお告げの通り江州犬上郡から犬(鎮平犬)を借りて来た。

借りた犬をお告げ通りに箱に納めてしめ飾りを神前に供え、村人が木の陰に隠れ刀を構えて待っていた。

夜半になって、天地を揺るがす大音とともに恐ろしい怪物が現れて拝殿に躍り上がり、供え物の箱に手をかけるやいなや中に居た鎮平犬が凄い声を出しながら怪物に噛み付き、ともに縁から庭に落ちて行った。

上になり下になり、鎮平犬と激しく争う怪物を見た村人が、「これは大変」と怪物の隙を伺い、助太刀に入って怪物に数太刀切りつけて見事怪物を退治する事が出来、以来人身御供の神事は取り止めに成った。

この怪物は、「三眼の大狸だった」と言われ、丹波・丹後・但馬地方は、元々「化け狸伝説」の多い地方ではある。

その後、鎮平犬は大切に村で飼われ、村名もこの事から「犬飼村と改めえられた」と言う。

詳しくは【天狗修験道と犬神・人身御供伝説】に飛ぶ。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

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by mmcjiyodan | 2008-08-15 18:05 | Comments(0)