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大伴氏(おおともうじ)

飛鳥時代を代表する大豪族(臣王)に大伴氏・大伴朝臣(おおともあそみ/大伴御門)が在る。

大伴(おおとも)氏は、ニニギ命天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(アヤメノオシヒノミコト)の子孫とされ、古代日本の有力氏のひとつである。

大伴の意味は、「多くの氏族を束ねて居る」と言う「大きな伴造(ともつくり)」と思われ、所謂氏族連合の長(御門・臣王)である。

この時代、兵を持たず神の威光で統治する大王(おおきみ・天皇)は、時々の大豪族達に支えられて君臨して居て、その最有力豪族が大伴氏で、大王(おおきみ・天皇)の親衛隊的な役目を任じていた。

雄略大王(おおきみ・天皇)の時代の五世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈大王(おおきみ・天皇)の代に室屋(むろや)の孫の大伴金村(かなむら)が武烈大王(おおきみ・天皇)を推して即位させ、大連(おおむらじ)になった時が全盛期であった。

大伴金村(かなむら)は、欽明天皇の時代に百済へ任那(みまな)の四県を割譲した事の責任を問われ失脚するが、その後も大伴氏は物部氏蘇我氏が台頭する中、勢力を狭めて生き残り、飛鳥時代の大化の改新の後、六四九年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっている。

また、六七二年の壬申の乱の時は長徳(ながとこ)の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てており、以後、奈良時代までの政界で大納言・中納言・参議等が輩出している。

大伴氏は、その後も幾多の政争に翻弄されながらも生き残り、平安時代初期の桓武朝においても、大伴弟麻呂(おとまろ)は東征将軍として副将の坂上田村麻呂(後に初代征夷大将軍)と共に東北蝦夷族の国・日高見の阿弖流為(アテルイ)等を討ちに出兵している。

大伴金村(おおとものかなむら)】へ続く

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名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-09-29 13:31 | Comments(0)  

物部尾輿(もののべおこし)

物部朝臣(もののべあそみ/物部御門)の物部氏の歴代棟梁は、屈指の大豪族(御門/みかど)の一人だったが、六世紀半ばの安閑・欽明両大王(おおきみ/天皇)の頃の棟梁・物部尾輿(もののべおこし)は、大連(おおむらじ)の官位を授かって大和朝廷で力を発揮していた。

欽明(きんめい)大王(おおきみ・天皇第二十九代)の御世になると、物部朝臣(もののべあそみ/物部御門)の棟梁・物部尾輿(もののべおこし)が欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)と組み、それまで最大の勢力を誇っていた大伴朝臣(おおともあそみ/大伴御門)・大伴氏大伴金村(おおとものかなむら)の何十年も前の「任那四県(みまな四あがた)割譲」を咎め、大連(おおむらじ)・大伴金村を朝廷から失脚させている。

大伴(おおとも)氏失脚に伴い、百済系物部氏・臣王と共に力をつけて来たのが、高句麗系の蘇我(そが)氏・臣王である。
当初は物部氏の勢力が圧倒的に強く、大和の対半島政策は、百済(くだら)支援から新羅(しらぎ)支援へと、対応を変えて行くのだ。

所が、欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)十三年の頃百済の聖明王から仏像や経典などが献上され(仏教公伝)た時、物部神道の継承者である物部尾輿(もののべおこし)は、中臣朝臣(なかとみのあそみ)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)と組んで廃仏を主張し、崇仏派の新興勢力・蘇我稲目(そがのいなめ)と対立した。

ちなみに大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍した藤原(中臣)鎌足(ふじわらのかまたり)も若い頃は中臣鎌子(なかとみのかまこ)を名乗っているが、物部尾輿(もののべおこし)と組んだ中臣鎌子(なかとみのかまこ)とは別人である。

物部氏】に戻る。

関連記事
ニギハヤヒ命(にぎはやひのみこと)】に飛ぶ。
物部氏(もののべうじ)・賀茂氏(かもうじ)同根説】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-09-26 14:18 | Comments(0)  

まぼろしの地・任那(みまな)

任那(みまな)は「朝鮮半島に存在した」と言われる倭の国々の一つで、まぼろしの地である。

半島に於いては、百済(くだら・ペクチェ)と新羅(しらぎ・シルラ)も任那(みまな・狗奴国の親の国)とは、「王族の婚姻関係を含む」付き合いが有った。

従って、任那の子の狗奴国(くなくに)も親しく交流が有った。

そうした歴史の流れの中で、朝鮮半島では、満州族系の高句麗(こうくり・コグリョ)が朝鮮半島の北方で起こり、次第に南下、朝鮮半島は三国史時代に突入して行った。

この「三国史」、朝鮮側の文献での呼び名であるが、何故か、任那(みまな・加那、加羅とも言う)の存在は、欠落している。

多分、後世の半島側の人々は、感情的に任那の存在を認めたくなかった。

日本側も、「大和民族の団結」と言う国家政策上、抹殺が必要だった。

それで公式文章から消えて無く成った。

或る時期から、どちらの国にとっても、在っては成らない国に、任那は成ったのだ。

倭(わこく)国の内の朝鮮半島における百済、新羅、そして抹殺された様に歴史からはじかれた任那(加那・加羅)などの国々も、古代の日本列島と同様に、大陸系「農耕民族」と黒潮に乗ってきた「海洋民族」の「両民族が同化した民族」の国である。

故に、日本の神話?(もしかしたら倭国全体の神話)の様に、加羅(から・大陸)系と加那(呉/ご・海洋)系が存在した。

この二つの部族的血の系列は、倭国内のそれぞれの国の歴史の中で顔を出す。

従って、任那(みまな)の地にも加羅(から)系、加那(呉/ご)系は並立存在し、日本列島にも両系が渡来している。

従って、皇位に就いた任那からの謎の部族王は加那(呉/ご)だったが、後の天皇はその行動から「加羅族系に変わった」とするのが有力で有る。

そしてその政変の背後に居たのが、初期の加羅族系大部族・和邇(御門)氏族ではなかったのか?

この加羅系の部族・和邇(御門)氏族が、何らかの出来事で加那(呉/ご)系・狗奴国(くなくに)の神武王朝から皇位(王権)を簒奪し、それを更に加那(呉/ご)系の部族・伊豆(いと・伊都)の国を打ち立てたもう一方の有力氏族葛城(御門)氏族が奪回した。
この辺りが、或いは「因幡の白兎伝説」の出所なのではないだろうか?

とにかく葛城氏族が、一度は和邇(御門)氏族簒奪された神武王朝の皇位(王権)を奪回し、少なくとも継体朝(第二十六代)に皇位を譲るまで永く「葛城朝の時代が続いた」と考えないと、有力氏族・和邇(御門)氏族の滅亡要因も含めこの物語は成立しない。

大国主命(おおくにぬし)の国譲りの神話、大国主は葦原中国(あしはらなかくに・出雲の国・島根県)を治めていたが、「天照大神(あまてらすおおみかみ)に譲った」とある。

これは、「同族同士の合併で、抵抗が無かった」から、と思われる。

つまり、「大国主(おおくにぬし)は、呉(ご)系の豪族の王だった」と思われる。

そうした間にも、朝鮮半島からの部族ごとの渡来は続いていた。

その中からも、有力な者(部族)は大和朝廷に参加を許されて行った。

ちょうど、二百年余り前のアメリカ新大陸の様に列島にはまだまだ土地に余裕があり、広範囲に国を治める人材も兵隊も不足していたのだ。

続々と、移民が続いていた。

その過程で、どうやら皇位が須佐王の呉族系から任那(みまな)系・加那(呉/ご)族に移り、大和朝廷の「母国」は任那(みまな)とされたようだ。

この経緯は不明だが、当時加那族系大伴氏(臣王)が権勢を持っていた事と何らかの関わりがありそうである。

一方朝鮮半島においても、統一国家への覇権争いは続いていた。

呉族系・大和朝廷の「母国・任那(みまな)」は、「西暦六百年頃(日本の飛鳥時代)に滅亡した」と言われている。

つまり、同じ様な事が朝鮮半島の任那(みまな・加那・加羅・から)の地でも起こっている。

新羅(しらぎ)に併合された任那(みまな・加那・加羅)の部分は、戦に破れ投降しての合併である。

しかし、百済(くだら)の部分は扱いが違う。

五百年代、継体(けいたい)大王(おおきみ・天皇第二十六代)の御世に、朝廷の大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)に寄って、任那(みまな・加那・加羅・)の一部を割譲、「百済(くだら)に賜(たま)う」として、任那の四箇所の県(あがた)は百済に合併しているのだ。

この割譲こそが、継体帝と大伴大連の出自を物語っているのではないだろうか?

任那(みまな・加那・加羅・)については【天孫降(光)臨伝説】と
加羅族(からぞく/山岳民族)】を参照して下さい。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

関連記述
日本人の祖先は何処から来たのか?】に飛ぶ。
広域倭の国論】に飛ぶ。
狗奴国(くなくに)】に飛ぶ。
天孫降(光)臨伝説】に飛ぶ。
竹取物語(かぐや姫伝説)】に飛ぶ。
国造(くにのみやっこ・こくぞう)】に飛ぶ。
好太王顕彰碑(広開土王顕彰碑)】に飛ぶ。
継体(けいたい)天皇】に飛ぶ。
継体(けいたい)大王(おおきみ・天皇)と大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-09-25 15:29 | Comments(1)  

水戸藩重臣・雑賀(さいが/鈴木)家の謎

大日本史編纂には隠された真実があった。

水戸光圀の大日本史編纂には、「影の目的があった」のだが、この疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?
それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り水戸藩とし、御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

水戸藩は将軍の補佐(副将軍と言う官職は無い)を務める事を任とし、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)であった。

しかし実務は老中・大老などが仕切るので水戸徳川家の「将軍補佐」と言うその権限や役割は、何をするものか明確ではない。

「大日本史」は、徳川頼房(正三位権中納言)の三男、従三位中納言・徳川光圀(みつくに) によって編纂された歴史書である。

神武天皇より後小松天皇まで紀伝体によって述べ、本紀・列伝・志・表からなっている。

歴代皇位から神功(じんぐう)皇后を除き、弘文天皇を加えた他、南朝を正統とした点が「大日本史」の特色で、この編纂作業は、実に明治の中頃まで続いて居る。

水戸家に於ける雑賀の立場は、並の家臣ではない。

雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として雑賀孫市の兄弟とも子ともいわれる鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、千六百六年になって徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕え、後に二代将軍・秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、幼名を鈴木一蔵と言い、重康の名をさずかった「松平元康(徳川家康)の庶長子ではないか?」と噂される人物である。

それが、三河鈴木家から依頼を受けた安土桃山期・雑賀孫市に育てられ、雑賀党の棟梁に成っていたのである。

この噂が本当なら、「家康の庶長子と知っての水戸家入り」と言う事になる。

水戸藩士・鈴木家は重朝の子の重次の時に、神君・家康の落胤・鈴木孫三郎重朝(鈴木一蔵)の家系が四代目に女児ばかりだったのを契機に、後継ぎとして主君徳川頼房と側室寿光院(藤原氏)の子(光圀とは腹違いの兄弟)を養子に迎えて「鈴木重義」と名乗らせ、「大日本史」編纂作業の始まる頃には、完全に正式な水戸藩親族系家臣の家と成っている。

鈴木家は後に雑賀家を名乗り、水戸藩の重臣として幕末まで続いた。

つまり水戸藩鈴木家(雑賀)は、光圀の「大日本史」編纂事業の裏表に深く関わって不思議は無く、隠密系の武門の家である事から返ってこの符合が納得出来るひとつの方向を暗示していたのである。

水戸藩鈴木家は後に名字を雑賀と改め、代々の当主は「孫市を通称とした」と言う。

徳川家一門の並々ならぬ支援を受け、あの影人の大名跡、「雑賀孫市」を、晴れて復活させてのである。

水戸雑賀(鈴木)家は、表向き水戸藩砲術指南役として天下に名声を博し、けして闇の存在ではないが、実は江戸幕府二百五十年の体制維持に大きく貢献した。

つまり水戸雑賀(鈴木)家は、言わば「幕府系隠密」と言う別の顔を密かに持っていたのである。

この水戸徳川家と雑賀鈴木家の重い経緯に加え、御三家とは言え、水戸三十五万石(実質二十五万石とも言われる)の一藩が手掛けるには余りにも大事業の「大日本史」の編纂とくれば、その目的に表向き以外の幕府公認の「何かが隠されている」と考えざるを得ない。

架空(フィクション)の物語「水戸黄門漫遊記」であるが、忍びの術者が暗躍した部分は、案外本当かも知れないのである。

それにしてもこの「大日本史」の尊王思想が、遥か二百数十年後、明治維新の尊王派(勤皇の志士)に少なからぬ影響を与える所が、歴史の面白い所である。

江戸幕府において水戸藩主は御三家の内、唯一江戸定府(常駐)の将軍補佐役(注、副将軍と言う役職は正式には無い)と言う特殊な立場である。

そして幕府・幕閣に於いては老中職(特設・大老職有り)などの協議を将軍が裁可するので、水戸藩主・江戸定府(常駐)の職務上の真の役割が判らない。

しかも「近代兵器である鉄砲・大砲の扱いと諜報能力に優れていた」とする雑賀党を召抱えの上、更に藩主の異母弟を婿に入れて雑賀党の統領に据えている。

ヒヨットすると公には出来ないが、水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。

関連記事
鈴木氏(すずきうじ)】に飛ぶ。
大日本史編纂の謎】へ続く。

詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-09-25 01:47 | Comments(0)  

屯倉(みやけ)

日本書紀」によれば、五百三十八年(安閑二年)屯倉(みやけ)の大量設置をうけて同時期に犬養部(いぬかひべ)は国々に設置された。

屯倉(みやけ)と言う呼称は、古墳時代に設けられた朝廷の建造物を指し、元々は「御宅(みやけ)」の意味だったが、やがて大和朝廷の朝廷直轄地(朝廷領)を意味する土地や人民の支配制度の意味と成った。

屯倉(みやけ)は、朝廷の地方支配の為の建造物と耕作地、そして兵の駐屯地を指し、当時は朝廷とは間接支配になる有力御門や有力豪族の支配領地も存在したから、そうした有力者の間接支配領地をけん制する形で地方に屯倉(みやけ)を配置していたのではないかと考えられ、我輩は「屯は駐屯を現し、倉は徴税を表す」と解釈する。

この屯倉(みやけ)は、継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)に拠る中央集権化の行政組織改革の一環として、地方からの確実な税収確保と環視を兼ねた出先機関であるが、それにしても継体大王はこの屯倉(みやけ)制度のアイデアをどう思い付いたのか、それとも何処からか制度を持ち込んだのだろうか?

この継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)の謎は後ほどこの物語で御紹介する積りである。

「大和政権が直接支配する」と言う事は、中央の出先駐屯機関である。

初期に入植した征服部族(有力御門や有力豪族)の入植地の「間接支配もその役わり」と考えられる。

現存する「ミヤケ」という地名と「イヌカイ」という二つの地名の近接例の多さから、犬養部と屯倉との間になんらかの密接な関係があった事が想定され、現在では、犬養部(いぬかひべ)は犬を用いて「屯倉(みやけ)の守衛をしていた」と言う説が有力になっている。

屯倉(みやけ)と鎮守(ちんじゅ)の関わりは不明だが、鎮守社(神社)を宮(みや)と呼ぶ事と関わりはあるのだろうか?

古文書の記述には、安閑天皇の前後から屯倉(みやけ)の設置記事が多く見られるようになるのだが、屯倉(みやけ)の発展に犬養部(いぬかひべ)の設置が大きく寄与していた事が考えられる。

屯倉(みやけ)が、初期大和朝廷の支配域の全国各地に設けられていた事から、土産(みやげ物)の語源は、この「屯倉(みやけ)からの品物」と言う意味説が有力で、我輩は「屯倉(みやけ)物」だと思っている。

なお、屯倉の広域展開が、後の「国・郡・里制の基礎と成って行った」との指摘もある。

継体大王】に続く。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-09-24 21:45 | Comments(0)  

石田三成・関が原の敗因

天下人・豊臣秀吉が亡くなると意味を失った朝鮮征伐は中止され、派遣部隊は続々と帰還するが何の恩賞も出ない。

多くの部将(大名)が、戦わされ損の目に遇った。

その時、秀吉の傍近くで権力を握っていたのが、石田三成である。

当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手である。

豊臣秀吉の小姓から凡(およそ)そ二十万石の大名に立身した石田三成も、秀吉と出会ったのは寺(観音寺)で稚児小姓をしながら手習いをしていた十五~十八歳の頃の事で、秀吉が休息に立ち寄って三成を見出した事に成っている。

後の創作ではあるが、この出会いを題材に世に有名な「三献茶」の秀才・三成らしい「気働き」の挿話が残っている。

しかし、石田三成が「稚児小姓」として秀吉に気に入られ、観音寺の僧侶から譲り受けられたのであれば、休息に立ち寄った寺(観音寺)で秀吉に献じたのは三杯の茶では無い事になる。

苦労して外国の戦から帰って見ると、同僚の石田三成が、すっかり幅を利かせて、何時の間にか大きい顔をしている。

豊臣家の大番頭(大官僚)然として、豊臣家を差配していたのだ。

「何じゃ、自分は、太閤殿下の傍で悠々としくさって。」
「そうだ、そうだ、苦労して戦った我々の身にもなってみろ。」

三成は論理的秀才ではあるが、人心掌握は下手である。
不満が出ても、涼しい顔をしている。

「負け戦に、恩賞などあろうか。」

冷やかに判断して、相手の感情や能力を推し量ろうとはしない。自分の価値観で、押し通す。

なまじ多少学問が出来たり、上手く出世をすると、人間慢心が生まれる。

世の中で人と人がぶつかる切欠の多くは、主体性と客観性の「思考バランスの悪さ」からである。

主体性ばかりで思考すると、凡そ不満ばかりの人生になり多くの敵を造る事になる。

石田三成もそうした手合いで、秀吉に見込まれて出世を重ねるほど独り善がりなその慢心が強くなり、周りが見えなく成っていた。

それが信長ほどの天才で、相手が認めざるを得ない力量があれば別だが、三成は根が官僚肌でそこまでに至らない。

もつとも、厳密には、統一で味方ばかりになった国内に、与える領地が無い事もあって朝鮮を狙ったのだから、攻め取れない以上は恩賞の出し様が無い。

正直石田三成の生き方には庶民に共感を呼ぶ所はあるが、当時の南光坊(明智光秀)や徳川家康に取っては採るに足らない相手だった。

本人が大して力を持たない癖に周りに指示を出すと「トラの衣を借りる狐」と揶揄(やゆ)される。

もっともこの時代の求心力はあくまでも恩賞としての所領の獲得で、大名を潰してまで再分配するほどの力も、例え関が原で勝利しても豊臣政権の官僚(奉行職)と言うだけで所領が二十万石(十九万四千石)程度と中堅大名の三成には、恩賞を取り仕切れる絶対的な信用は武将達に無かった。

それを三成は、豊臣家の名で同格以上の者にまで強い態度で接し差配した。

人間は、困った事に「信じて居たのに裏切られた」と言う被害者意識を持つが、良く考えて欲しい。

「信じて居た」は、相手に対する一方的な思い込みで、それを持って「裏切られた」と恨むのは「甘えた筋違い」と言うもので、ここで考えて欲しいのは「主体の置き方」である。

即ち一方的に相手を信じて満足するのではなく、「相手に信じて貰える努力をして来たか」と言う事である。

これは夫婦間から仕事仲間までで通じる事だが、例え表面に出さなくても心の内で相手をバカにした時から「裏切られる危険性」は格段に増す。

貴方が嫌いな相手は相手も嫌いが相場である。

以心伝心は「対人関係の基本」で、本人は上手くやって居る積りでもその本心は態度の端々で相手に伝わるものである。

石田三成の悪い所は、学問は学んで利口になったがそれを絶対視して学問が新しい発想の原点に過ぎない事を忘れていた点である。

なにしろ三成は、小田原平定の支城・忍城(おしじょう)篭城戦で、大将として五倍を越える兵を指揮しながら攻め落とせなかった凡将である。

つまり理屈は合って居ても、世の中に通用し無い事は多々ある。

それでも困った事に、自らを利口と自覚する石田三成は、「何があろうとも相手が悪い」と言う傲慢な人間になっていた事である。

反面、良く考えて見れば石田三成に人気が無くて当然である。
彼は、豊臣諸大名に高クオリティを要求した。

その手法はワザワザ敵を作るようなもので、当然無骨一辺倒の大多数の現状派は、それを実現する自信の無さも有って反発する。

それを、「彼には人気が無い」と、一言でかたずけてはいささか不憫ではある。

唯、己の才に慢心した石田三成は、同僚の粗(あら)ばかり観ていた。

他人を批判的な目でばかり見ている者は、人間関係を壊し、良い人生は築けない。

当然ながら、そうした悪しき考え方は、言わずとも態度で相手に伝わり、味方を失う。

特に「指導的な立場に立とう」と志す者は、相手の良い所も合わせて評価する度量の心掛けが必要で、その配慮に欠け、批判ばかりして居る者は指導的立場で失敗する。

石田三成は同僚の恨みを一身に買うが、秀才故に敢えて放置してしまう。

これは、家康や天海(光秀)には勿怪(もっけ)の幸いである。

家康と天海(光秀)は、三成や豊臣(淀君)方がじれる様な仕打ちを繰り返し、米沢の上杉と光成に家康討伐の「のろし」を上げさせる事に成功する。

関ヶ原の合戦(一)】へ戻る。

関連記事
石田三成暗殺未遂事件】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-09-13 13:42 | Comments(0)  

ええじゃないか騒動

「サリトテ恐ロシキ年ウチワスレテ、神ノオカゲデ踊リ、エエジャナイカ、日本ノヨナオリハ、エエジャナイカ、豊年踊リハオメデタイ、日本国ヘハ神ガ降ル、唐人ヤシキニャ石ガ降ル、エエジャナイカ、エエジャナイカ」

阿波踊りの原型は、「ええじゃないか騒動にある。」と言われている。
この騒動は、或る目的を持った者達の、神仏を利用した典型的な「大衆誘導」と言える。

ええじゃないか騒動は、日本の江戸時代の後期の千八百六十七年七月から翌年四月にかけて江戸より西の東海、近畿、四国に広がった「打ち壊し(うちこわし)」を含む大衆狂乱現象である。

仮装して囃子言葉の「ええじゃないか」を連呼しながら町々を巡った「ええじゃないか」騒動は都市に生活をしはじめている民衆に動揺が大きく波紋を描き、外国貿易の物価の高騰、 米価高騰など様々な生活不安から、「世直しへの期待とともに広がったのではないか」と思われる。

この騒ぎの発端を見ると、江戸幕府が滅亡した千八百六十七年(慶応三年)の夏、東海道三河国吉田宿(現在の豊橋市)で 伊勢神宮の神符が降った。

これが発端で、諸国に次々と神符降臨が巻き起こった。

降下物は寺社のお札に限らず、仏像、貨幣 など多様で、折からの政情不安も重なって「生首、手、足も降った」と噂され、「ええじゃないか」の熱狂が始まった「一種の終末思想」と考えられる。

また、最初の札の降下は、千八百六十七年八月四日(七月十四日説あり)東海道の三河国「御油宿」に秋葉神社の「火防の札が 降下したのが始まりだ」とも言われている。

神符の降下は人為的なものであり、その影には「討幕派が居たのではないか」と言われるが証拠がない。

ただ、徳川家発祥の地、三河国からこの騒動が始まった事実は、否定できない。

そこに倒幕目的の「陽動作戦」と言う作為を感じるのは当然の事ではある。

お札は伊勢だけでなく、八幡、天神、住吉、稲荷、淡島、水天宮、春日、秋葉大権現、牛頭天王、大黒天などの様々な神仏のお札が舞った。

そのお札に「懐疑的態度をとった人の家族が急死する」と村人は非常に恐れ、お札を三河国牟呂八幡宮(豊橋市)に奉納、この事件は近隣の村々にも波及した。

この熱狂は三河から東西に広がり、関東、中国、四国地方に達した。特に東海地方では ペリー来航の黒船騒ぎ以来、大地震、津波、大雨が相次いで起き、唯念行者の除災儀礼が各地で 行われ安政五年にはコレラが流行し、人々は恐慌状態に陥っていた。

そうした中で民衆は、敏感に世の変革の兆しを感じ、重く延しかかり社会不安に耐え切れず、新しい世への世直しに熱狂した。

農村にあった御蔭参り(伊勢皇大神宮の神恩即ち御蔭を感謝する参宮)を基盤として、「ええじゃないか」のはやしをもった唄を高唱しながら集団で乱舞した。いわゆる大衆的終末思想の狂乱である。

以後、東海道や畿内を主力に、三河、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、尾張、美濃、信濃、伊勢、近江、大和、山城、丹後、但馬、因幡、摂津、河内、和泉、紀伊、播磨、備中、備後、美作、安芸、淡路、阿波、土佐、讃岐、伊予の 三十ヵ国での事例があり、大衆の終末思想への影響は大きかった。

勿論ええじゃないか騒動で幕府の威信が低下し、騒動が幕藩体制を弱体化するのに大きく寄与している所から、この「ええじゃないか騒動」は討幕派が国内を混乱させる為に引き起こした「陽動作戦だったのではないだろうか?」と疑われて不思議は無い。

しかし元々が豊年踊りであるから、地方に伝播されて独特の歌詞が作られ、「御かげで良いじゃないか、何んでも良いじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又張れ、良いじゃないか」と言った卑猥な歌詞などもあって、狂乱の伝播の中で「抑圧された民衆の不満が同調して暴発した」と受け取るべきだろう。

この騒ぎの終焉は、翌年千八百六十八年四月二十二日「丹後国加佐郡野村、寺村を最後になくなった」と言われる。

この年の十一月九日に徳川慶喜(十五代将軍)の大政奉還、これにより、江戸幕府事実上滅亡、翌年千八百六十八年一月三日王政復古の大号令と、なだれ的に明治維新に繋がって行くのである。

言わば大衆の信仰心を「革命に利用した事例」と言えないだろうか?

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

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by mmcjiyodan | 2008-09-11 14:53 | Comments(0)  

明治維新政府がひねり出した「財源」

明治新政権が樹立すると、西郷隆盛の周りの同志が急速に変化を始める。

彼らは政権を手中にして欲も出、各々の考え方に微妙な変化が生じて新たな合意が形成されつつあった。

おりしもアジアにおいては欧米の植民地化が凄い勢いで進んでおり、早急に中央政権化を図って欧米列強に伍せる国家体勢を整えねばならない。

そして国家を支える「財源」が必要だった。

近代化を進める明治政府は千八百七十六年(明治九年)三月に廃刀令、同年八月に金禄公債証書発行条例を発布した。

この発布された二つは「帯刀・禄の支給(知行地)召し上げ」と言う旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

簡単に言えば、各藩諸侯の独立地域支配に拠る「収石に拠る藩運営」及び武士としての「禄・知行」を中央が取り上げて「財源」とする事である。

「帯刀と禄の支給(知行地)召し上げ」は、永い事幕藩体制の既得権益の中でノウノウとしていた士族は、一気に無職・無収入の身分に落とされ、特権階級としての誇りも傷付けられる言になる。

その事に憤慨した熊本県士族の神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱、山口県氏族の萩の乱が立て続けに起こっている。

その士族不満の帰結先が西郷軍(鹿児島士族)に拠る反乱「西南戦争」と言う訳だが、この制度改革には「財源の捻出」と言う切羽詰った維新政府の事情があるから、流血を伴っても断行した。

ずっと先になるが、第二次大戦後の新生民主国家・日本国の財源は「農地解放と新円切り替」からひねり出した。

すなわち、既成概念に囚われていては「財源の捻出など出来ない」と相場は決まっているが、革命であれば今までの制度を代えて、「財源」はひねり出せるものである。

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by mmcjiyodan | 2008-09-11 14:43 | Comments(0)  

物部氏(もののべし)

物部氏(もののべし)は古代の大豪族である。

武士を「もののふ」と呼ぶ語源が、もののぶ=物部(もののべ)で、物部(もののべ)の「物」は武器を指し示すものである。

つまり物部氏(もののべし)は、大和朝廷(ヤマト王権)に於いて武器を扱い管理する部民だった。

武器を扱う氏族として物部氏が、大和朝廷でその地位を固めた理由であるが、物部氏は当時最先端の青銅鋳造技術をもつ鍛冶氏族であった事からである。

ニギハヤヒミコト(饒速日命/邇藝速日命)を祖先と伝えられる氏族で、元々は兵器の管理を主に行なっていたが自然と大伴氏とならぶ武器を扱う「軍事氏族へと成長して行った」とされている。

言わば物部(もののべ)氏は武門を売り物にする古代の有力豪族(部族王・臣王・国主)で、連(むらじ)の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓(あそみ/あそんせい)を賜っている。

実は物部氏には、「武器を取り扱う軍事氏族の顔」とは別に信仰の顔がある。

それを物部神道(もののべしんとう)と呼び、後の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄にあたる神道系氏族・白藤鈴木氏へと発展して行く。

物部氏は、青銅鋳造術を持って銅鐸祭祀(物部神道)をする「新羅系の渡来人であった」とされ、仏教とは相容れない立場にあった事が、後に伝来した仏教を取り入れて勢力を伸ばそうとする蘇我氏(そがし)との軋轢を生んだのではないか」と言われている。

鈴木氏の前身・穂積氏(ほずみし)は、神武大王(じんむおおきみ/天皇)が紀伊半島上陸の際に、稲穂で前を払いながら畿内侵攻を助けた古事に依り「穂積(ほずみ)の姓を名乗った」とされる。

古事記日本書紀に拠ると、物部(もののべ)氏は河内国の哮峰(タケルガミネもしくはイカルガミネ/現・大阪府交野市)に、天皇家よりも前に天孫降臨したとされる。

物部尾輿(もののべおこし)】へ続く。
「もののふ=武士」の語源と鈴木氏】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2008-09-06 18:46 | Comments(0)  

ミラーニューロン

在って当たり前の実在する事を「そんな事は常識」で片づけると、その先の学問的な進展は無い。

歴史的な現象もこれからの未来も、「人は何に影響を受けるのか?」の違う視点で見る事で違う答えも見出せるものである。

そこで、人間の意識に心理的影響を与えるミラーニューロンの暗示効果も併記して置く。

実はこのミラーニューロンの暗示効果で、信仰(宗教儀式)のトリップ状態はその場の信者全員に波及するのである。

貴方は観劇やテレビドラマ、映画などを見て、その作品の中に主人公的な自己の思い入れを持てる訳をご存知(ぞんじ)だろうか?

それは視覚を処理する情報伝達の神経細胞(ニューロン)の一種「ミラーニューロン」の働きに拠るものである。

「ミラーニューロン」の働きには一種の学習効果が伴い、その後の行動にも影響を与える。

やくざ映画を見た観客が、劇場から出てくる時に一様に肩を怒らせて出て来る光景を思い出してもらいたい。

脳活動の一種である「ミラーニューロン」と言う脳科学的な神経細胞(ニューロン)情報伝達現象説に拠ると、他者の運動を理解する為に相手の行動をあたかも「自分が行っている」かのように脳の中で鏡のように受け取る事である。

大脳皮質の前頭葉で見つかった神経細胞(ニューロン)の一種が、視覚情報を処理する「ミラーニューロン」で、電気信号を使って情報を伝え、相手の行動をあたかも「自分が行っている」かのように脳の中で鏡のように受け取るのである。

このミラーニューロン現象は、当初は自他のコミニュケーションを容易にする為に人類(霊長類を含む)の脳に機能として発達したのだが、その後宗教儀式や観劇、やがて種々の映像芸術の「仮想主人公」として脳内で「自己意識化出来る能力」となっている。

信仰上の教えである宗教画の紙芝居効果から、最近のテレビショッピングの購買意欲まで、「ミラーニューロンの暗示効果が作用している」と考えられる。

映画に関しては、戦時中の日本の国策映画が戦意を高揚させたり、国を挙げて支援した米国のハリウッド映画が、世界に米国型自由主義を映像であこがれさせる「効果が見込めたからだ」と言うのである。

その根底に在ったのが、ミラーニューロンに拠る脳内での「自己意識化」と言う啓蒙効果ではなかったのか?

だとするなら、ミラーニューロンを知らなくても経験学的に視覚効果が啓蒙に役立つ事は、古くから知られて利用されていたに違いない。

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by mmcjiyodan | 2008-09-01 11:36 | Comments(0)