<   2008年 10月 ( 18 )   > この月の画像一覧

 

北条早雲(ほうじょうそううん/伊勢新九郎盛時)

正に戦国期、後北条の伊勢新九郎(北条早雲)が現れ、駿河の興国寺城をかわきりに、堀越公方(ほりこしくぼう)・足利茶々丸を討ち取り、伊豆の国(いずのくに)、相模国(さがみのくに)と所領を広げ、室町幕府のコントロールから外れて、勝手に戦国大名に伸し上がった頃で、力だけが頼りの時代である。

実はこの伊勢新九郎盛時、存命中に北条氏を名乗った事は無い。

伊勢氏はけして家格が低い家ではなく、京の都に於いてはそれなりの名家であった事から、新九郎盛時は生涯伊勢氏を名乗っている。

第二代当主・伊勢氏綱が父・新九郎の死後、・伊勢平氏の直方系流を自称して鎌倉時代執権家・北条氏を名乗り北条氏綱と名乗った為、初代・伊勢新九郎盛時の号が早雲庵宗瑞だった事から世に北条早雲と呼ばれるようになった。

戦国時代の幕開けに下克上で伸(の)し上がり相模国を本拠地に関東一円に勢力を伸ばした後北条家の始祖北条早雲は、若い頃に伊勢新九郎盛時と名乗り、早雲時代の後北条家は、基はと言えば桓武平氏流れ「伊勢家」である。

室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自であり、早雲(新九郎)の父・伊勢盛定は八代将軍・足利義政の申次衆として重要な位置にいた。

早雲(新九郎)の伊勢家は、家格は高いが備中国・荏原郷の半分を領する小領主で、早雲(新九郎)本人もこの「荏原郷で生まれた」とされている。

千四百六十七年(応仁元年)に応仁の乱が起こり、駿河守護職・今川義忠が上洛して東軍に加わった時、今川義忠はしばしば将軍・足利義政の下に参内してその申次を早雲(新九郎)の父・伊勢盛定が務めている。

恐らくはその縁で、早雲(新九郎)の姉(または妹)の北川殿が今川義忠と結婚し、早雲(新九郎)は今川家の縁者に成る。

所が、早雲(新九郎)の姉(または妹)の北川殿の夫今川義忠は、千四百七十六年(文明八年)遠江国の塩売坂の戦いで討ち死にし、為に残された義忠の嫡男・龍王丸に家督を継がせようと言う勢力と一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して家督を継がせようと言う勢力で家中が二分される家督争いとなった。

これに堀越公方と扇谷上杉氏が介入し、龍王丸派にとって情勢は不利であった為に、早雲(新九郎)は幕府政所執事・伊勢貞親と父・伊勢盛定に命じられて駿河国へ下り、調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とする条件でこの今川家家督騒動を決着させている。

その後早雲(新九郎)は、千四百八十七年(長享元年)に甥の龍王丸の家督継承を磐石なものにする為に兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。

龍王丸は今川・駿河館に入り、二年後に元服して今川氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

早雲(新九郎)は伊豆国との国境に近い興国寺城(現沼津市)と所領を与えられて今川氏の家臣となって駿河へ留まり、駿河守護代の地位を得ている。

興国寺城(現沼津市)を得た早雲(新九郎)は、その地を皮切りに中央「享徳の乱」の政治混乱の中で関東公方足利成氏が幕府に叛いて今川家が関東に出兵した事を機会として、堀越公方が領有していた伊豆国一国を手に入れる。

この伊豆国を足掛かりとして、早雲(新九郎)の跡目を継いだ伊勢氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。

以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、五代に渡って関東平野部のほぼ全域に覇を唱える大戦国大名・北条氏と成るのである。

既に室町幕府・足利家が弱体化し、戦国の世に成っていたのだ。

征服部族の遺伝子を持つ彼らは、本能的に「戦って勝ち取る」と言う事が、シンプルに染み付いていたのである。

将軍申次役・伊勢盛定(いせもりさだ)】に戻る。

関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-30 20:54 | Comments(0)  

辰砂(しんしゃ/丹・水銀)

紀伊半島・奈良一帯が日本史に重要な土地とされた訳は辰砂(しんしゃ)の存在に負う所が大きい。

辰砂(しんしゃ)の名の由来であるが、中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出した事から、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれるようになった。

日本では魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述され、弥生時代から産出が知られていて奈良県以外でも徳島県、大分県、熊本県などで産する鉱石鉱物である。

辰砂(しんしゃ)は硫化水銀類からなる鉱物で、別名に赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。

水銀は毒性が高いと言われているが、それは有機水銀や水に易溶な水銀化合物の事で、辰砂(しんしゃ)のような水に難溶な化合物は「毒性が低い」と中国医学では考えられ「朱砂」や「丹砂」等と呼び、鎮静、催眠を目的として、現在でも使用されている。

古来日本では「丹(に)」と呼ばれ、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されている水銀系の重要な鉱石鉱物だった。

辰砂(しんしゃ)は透明感のある深紅色の菱面体結晶、或いは不透明な赤褐色の塊状として産出し、錬丹術などでの水銀に精製された。

奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。

八咫烏(ヤタガラス)は、紀伊半島を勢力圏としていた豪族・丹生氏が、神武天皇に味方した事を指していると、言われている。

賀茂氏の方はその八咫烏(ヤタガラス)神魂命(かみむすびのみこと)の祭祀を司る賀茂神社を奉る祠官である。

紀伊半島では、丹(辰砂・水銀)が採れた。

その丹を司(つかさど)るのが、丹生(たんじょう)氏である。

この辰砂(水銀)に目を付けて高野山を真言宗の本山としたのが、弘法大師(空海)であった。

当時、水銀は大変利用価値のある産物で、まず薬として使われ、ついで朱(赤色)が得られるため塗り物に使われ、次に金の精製に使われるなど貴重なものであった。

日本の古くからの薬剤品名「**丸」の対抗として存在する「**丹」は、この水銀が薬として使われた名残である。

従って、当時「辰砂」の産地を押さえる事は、大きな力を得た事であった。

つまり、弘法大師には「辰砂(水銀)」を背景にした資金力があった。

それで、真言宗は信徒の懐を当てにする事なく全国に寺を展開して、急速な布教が出来たのだ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-30 20:45 | Comments(0)  

常盤御前(ときわごぜん)

源義経は、歴史に現れる源氏の棟梁・源義朝の息子としては一番下(第九男)の息子である。

源頼朝の腹違いの弟にあたり、若い頃は「牛若丸」と言った。

兄二人と同様に、幼かったので父の敗戦にも関わらず、死罪を免れた。

鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、僧にさせられかけたのは有名な話である。

運命の子、牛若丸(源義経)が生まれて来た時は、一連の大乱、「保元の乱」の只中だった。

本来なら、九男坊の牛若は気楽な人生が待っていたのかも知れない。

しかし父・義朝は、牛若丸(義経)がまだ歩けないうちに平清盛(たいらのきよもり)に破れ、非業の最期を迎えている。

義経の母・常盤御前は出生不明の謎多き女性で、平治物語によれば、近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ)の採用にあたり、都の美女千人を集め、十名を選んだ中で一番の美女が「常盤であった」と言われて居る。

その絶世の美女が、見初められて源氏の棟梁「源義朝」の妾(側室)に上がり、二人の間に、今若丸、乙若丸、牛若丸の三男一女を成した。

所が、「平治(へいじ)の乱」でその義朝が平清盛に討たれてしまう。

この時代の武家の習いでは、一族皆殺しが普通で、特に敵の男子は子供であっても禍根を残さぬ為に命を絶つ。そうした意味で、この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

我が子を守りたい常盤は、策に窮して敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、妾として身体を張って三人の助命に成功している。

平清盛にすれば、常盤御前は命を取り合った敵将の、愛妾だった絶世の美女で、同じ女性(おなご)を抱くにしても征服感や興奮の度合いが違うから、邪(よこしま)に楽しめる。

それで、常盤の子達(今若丸、乙若丸、牛若丸)の助命を聞き入れ常盤御前に触手を伸ばしてしまった。

その煩悩とも言える欲心が、結果的に平家滅亡の火種を作った事になる。

その後、清盛の子供を身ごもった常盤の生き方を、「壮絶」と言うか「したたか」と言うか、意見は分かれようが、牛若丸(遮那王・義経)にして見れば、父の仇(かたき)の上に戦利品として母を抱いた男が平清盛だったのである。

一般の民にとっては、「戦乱の世」と言っても氏族達の世界の出来事で、ただ迷惑な事ではあった。

その戦乱の世の武門も、絶えず戦っていた訳ではない。

領国・領地を運営し、次ぎの戦の為の武器、兵量(ひょうりょう)その他の準備をして、言わば「生活の合間に戦(いくさ)をしていた」と言うのが、歳月の割合とすれば、正確な武門に生きる者の、生活の正しい表現だった。

この有史以来に何度も数えられる戦乱の時代の、武門同士の戦は一度で決着が着くのは稀で、大概の所は何度も槍を交え何年もかかる事が多かった。

だから女性達は、その日々の暮らしの中で、愛し合い、憎み合って生きていた。

その男達の凄まじい運命の狭間で、控え目に、しかし、しぶとく力強く生きたのが、実は日本の女性達だった。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-26 21:46 | Comments(0)  

源義朝(みなもとよしとも)

源義朝(みなもとよしとも)は、河内国に本拠地を持つ河内源氏の棟梁・源為義(みなもとためよし)の嫡流子で、鎌倉幕府成立の原動力となった源頼朝源範頼(みなもとのりより)、腹違いの九男源義経達の父親である。

平安の都(京)に生まれた義朝は幼少期を都で過ごすが、少年期に東国(関東地方)に下向した事から父・源為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持って上洛し、下野守に任じられた。

源義朝が東国に下ったのは、父・源為義から廃嫡同然に「勘当された為ではないか」とされ、親子不仲説は存在する。

千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

しかしその戦勝後、囚われとなった父・為義、弟・為朝らの助命を義朝が嘆願したにも関わらず、後白河院は二人の殺害を命じた。 

乱後、源義朝(みなもとよしとも)は「保元の乱」の戦功に拠り武門にとっては重要な官位である左馬頭に任じられるが、論功行賞で清盛より低い官位に甘んじた事から「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、源義朝は藤原信頼と組んで源頼政、源光保らと共に「平治の乱を起こした」と言われている。

ただこの話し、本質の所では権力者同士の権力争いに結論の帰結を見るのが妥当で、大儀名分の理由など後から付け足したものに違いない。

実際には、平治の乱の原因は後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派の中に院近臣・藤原信西(しんぜい)に反感を抱くグループがともに居た事が抗争の原因で、それらの反目を「後白河がまとめきれなかった事にある」との見方が、現在では有力視されている。

平安末期の千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りのため、京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び、謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治(へいじ)の乱」が始まった。

しかし源義朝立つの急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

破れた義朝は鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中の尾張国で長男・義平と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、源頼朝だった。

池の禅尼の嘆願で頼朝は助命され伊豆の蛭が小島へ流され、また、幼かった義経も母・常盤御前(ときわごぜん)の体を張った助命嘆願に助けられ義経は京の鞍馬寺へ預けられた。

源義朝(みなもとよしとも)の【御厨(みくりや)濫行(らんぎょう)】に続く。

源頼朝(みなもとよりとも)】に続く。
源範頼(みなもとのりより)】に続く。
源義経(みなもとよしつね)】に続く。

関連記事
清和源氏(せいわげんじ)と初代・源経基(みなもとのつねもと)】に飛ぶ。
源氏流諸系詳細(げんじりゅうしょけいしょうさい)】に飛ぶ。
後白河天皇(ごしらかわてんのう/後に上皇・法皇)】に飛ぶ。
藤原(通憲)信西(ふじわらのみちのり/しんぜい)】に飛ぶ。
平清盛(たいらのきよもり)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-26 21:38 | Comments(0)  

建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の千三百三十三年(元弘三年/正慶二年)に後醍醐天皇が「親政(天皇がみずから行う政治)」を開始した事により成立した政権及びその新政策「建武の新政(親政/けんむのしんせい)」で、名称は、翌千三百三十四年に定められた「建武」の元号に由来する。

後醍醐天皇は、大塔宮・護良親王(もりながしんのう)などの自軍が官軍で在る事を世間に知らしめる為に、承久の乱(じょうきゅうのらん)・後鳥羽上皇の故事に倣(なら)って錦旗(きんき)北畠顕家足利尊氏新田義貞楠木正成赤松則村(円心)名和長年(なわながとし)らに下賜し、その使用を許している。

余談だが、この建武の新政(けんむのしんせい)は、第二次世界大戦前は明治維新政府以後の天皇神格化政策で、「建武の中興」と表現され、天皇親政の歴史を謳っていた。

後醍醐天皇は味方を集めて鎌倉幕府を倒し、自ら天皇親政によって建武の世に朝廷の政治を復権しようとしたが護良親王に近侍していた赤松則祐(そくゆう)とその父・赤松則村(円心)が護良親王の鎌倉幽閉を切欠に後醍醐天皇と対立する。

また後醍醐天皇が周りの側近や公家達を厚く処遇して武士層を中心とする不満を招き、千三百三十六年(建武三年)に鎌倉倒幕の有力貢献者であった河内源氏の足利尊氏が離反し、赤松則村(円心)と連携した事により後醍醐天皇の「建武の親政」は足元から崩れ始めた。

足利尊氏の挙兵にあたり、後醍醐天皇方北畠顕家(きたばたけあきいえ)新田義貞楠木正成(くすのきまさしげ)などの奮闘もあり、一時は後醍醐天皇方が優勢となり足利尊氏を九州方面まで敗走させたが、赤松円心が「白旗城」に篭って抵抗している間に九州で建て直しに成功した足利尊氏が反転、京に攻め上って来て後醍醐天皇方が劣勢と成って京の都を追い落とされ、建武の親政・政権は崩壊した。

後醍醐天皇が吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させ、先に光明天皇(北朝)に渡した三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)は偽器であり「自分が正統な天皇である」と宣言するが、とりもなおさずこの事が建武の新政(けんむのしんせい)の終焉をした事を意味し、ここに、吉野朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝並立時代が到来する。

南北朝並立時代は、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の南北朝合一まで約六十年間に渡って南北朝の抗争が続いた。

実は六十年間続いた南北朝の抗争が、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」後も北朝方の両統迭立(りょうとうこうりつ)の約束が約束不履行から混乱は続き、南朝勢力の一部(後南朝)はまた吉野へ立て篭もって千四百三十七年頃まで約四十五年間も頑強に戦っていた。

千四百四十一年(嘉吉元年)の「嘉吉の乱(かきつのらん)」は、南朝の残党が赤松氏に攻められ、最後の抗戦をあきらめて僅か四年、応仁の乱(おうにんのらん)が始まったのが千四百六十七年(応仁元年)であるから、南北朝並立時代の武力混乱の社会風潮が「依然続いていた」と見て良いだろう。

尚、この建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立の間に起こったのが、の遺児・北条時行(ほうじょうときゆき)に拠る中先代の乱(なかせんだいのらん)であり、南北朝並立と同時進行した足利兄弟に拠る観応の擾乱(かんのうのじょうらん)だった。

南北朝合一(なんぼくちょうごういつ/明徳の和約)】に続く。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。

関連記事
天皇(てんのう/すめらみこと)の称号】に飛ぶ。
大覚寺統(だいかくじとう)】に飛ぶ。
持明院統(じみょういんとう)】に飛ぶ。
元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡】に飛ぶ。
中先代の乱(なかせんだいのらん)と北条時行(ほうじょうときゆき)】に飛ぶ。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と足利直義(あしかがただよし)】に飛ぶ。
高階氏(たかしなうじ)と高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟】に飛ぶ。
金峰山寺(きんぷせんじ)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-22 03:05 | Comments(0)  

応仁の乱(おうにんのらん)

応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の足利八代将軍・義政の時に、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発し幕府管領職の細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん)と言う有力守護大名が二つに分かれて争った為に起こった全国規模の内乱である。

細川勝元が任じていた「管領(かんれい)」職とは、室町幕府の最高の職で将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏畠山氏・細川氏の三家が任じ、侍所頭人の山名宗全が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官で、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏一色氏京極氏、山名氏の四家、イレギラーで美濃守護の土岐氏も任じていた。

この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをしていた。

応仁の乱(おうにんのらん)の一方の旗頭・細川勝元(ほそかわかつもと)は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである足利氏族・細川家嫡流・京兆家の当主であり、もう一方の旗頭・山名宗全(やまなそうぜん)は、室町時代の守護大名で、室町幕府の四職のひとつ新田氏族・山名家の出身である。

足利六代将軍・義教の時、義教が「三管四職」を無視して専制政治をした為に不満を抱いた四職・赤松家の赤松満祐(あかまつみつすけ)に誘殺され「嘉吉の乱(かきつのらん)」と呼ばれたのだが、細川勝元が「嘉吉の乱(かきつのらん)」の鎮圧に功労のあった山名宗全の勢力削減を図って、「嘉吉の乱主謀者一族」の赤松氏にも関わらず失脚して都を追われた自分の娘婿である赤松政則を加賀国守護職に取立てた事から、細川勝元と山名宗全の両者は激しく対立するようになる。

その細川勝元と山名宗全が、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていた為に対立は激しさを増し、八代将軍・義政の実子・足利義尚を次期将軍に押す山名宗全と将軍継嗣・足利義視の後見人である細川勝元との対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、全国規模の大乱となった。

千四百六十八年(応仁元年)五月には世に言う「応仁の乱」が本格化し、山名宗全(やまなそうぜん)は出石・此隅山城に各国から集結した西軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。

当初西軍(山名)は、室町亭の将軍らを確保した細川勝元(ほそかわかつもと)率いる東軍に対して劣勢であったが、八月には周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。

大内政弘は、周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有する有力守護大名で、東西の軍事勢力は完全に拮抗した。

為に戦乱は勝敗が着かないまま五年間も続き、千四百七十二年(文明四年)には和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗、宗全(そうぜん)は同年五月に自害を試みている。

結局、戦乱は都合十一年にも渡って戦闘が長引き、応仁の乱の長期化は室町幕府の形骸化を引き起こし、無政府状態になった京都の市街地は盗賊に何度も放火され焼け野原と化して荒廃した。

やがて幕府権力そのものも著しく失墜し、勝元派と宗全派に二分して戦乱に加わって上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、守護大名の留守に領国を脅かす勢力が台頭して諸大名は京都での戦いに専念できなくなって行った。

千四百七十三年(文明五年)になって当事者の山名宗全と細川勝元が相次いで死去、漸く双方の息子が和睦して応仁の乱(おうにんのらん)は一応の終息を見ているが、守護大名の領国では新興勢力が台頭して手が付けられない守護職が続出した。

下克上(げこくじょう)に明け暮れ、国主が武力で入れ替わる「戦国期」に入って居たのだ。

関連記事
足利義教(あしかがよしのり)】に飛ぶ。
足利義政(あしかがよしまさ)】に飛ぶ。
足利流・畠山氏(はたけやまうじ)】に飛ぶ。
新田流・山名氏と明徳の乱・山名宗全(やまなそうぜん)と応仁の乱】に続く。
足利流・京兆細川家・細川勝元(ほそかわかつもと)と応仁の乱】に続く。
細川晴元(ほそかわはるもと)と三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)その(一)】に続く。
北条早雲(伊勢新九郎盛時)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-21 21:14 | Comments(0)  

松平氏(まつだいらし)

三河・松平氏(まつだいらし)は初代・徳川家康が創設した徳川氏の旧姓で、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族である。

この加茂郡と言う地名と言い、賀茂神社に繋がる「三つ葉青いの紋」と言い、松平氏(まつだいらし)は賀茂氏の出自と見る方が妥当である。

賀茂氏は室町時代には勘解由小路家(かでのこうじけ)を称したが、「戦国時代に断絶した」とされる。

しかし支流は草となって全国に散り、その有力な一つが美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)と三河国加茂郡松平郷・松平家(まつだいらけ)である。

承久の乱の後に三河守護に任命された足利義氏(鎌倉幕府)が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に「守護所を設置した」と推定されている。

松平氏が土着居住した三河国は室町幕府時代末期は細川氏が守護職だったが、守護大名・細川成之(ほそかわしげゆき)は阿波国・三河国・讃岐国の守護を任じていた。

千四百七十八年(文明十年)以後、文献に拠る明確な三河守護は不明となるが、記録によると、応仁の乱頃には三河・松平氏の第三代当主・松平信光は賀茂朝臣を称していた三河国の土豪かつ被官で、室町幕府の政所執事を務める「伊勢氏の伊勢貞親に仕えた」と言われ、額田郡の国人一揆が起きた際は伊勢貞親の被官として松平信光の名が見え、伊勢貞親は松平信光とその縁戚にあたる戸田宗光(全久)に国人一揆を鎮圧させている。

この松平氏、三河国加茂郡松平郷に土着した賀茂氏系の土豪だが、松平氏は徐々に勢力を広げ、家康の祖父・松平清康の頃にほぼ三河国を平定して戦国々主武将に成り上がっていた。

とは言え当主・松平広忠は、東隣は駿河国(するがくに)、遠江国(とおとうみのくに)を擁する大国・今川家・今川義元、西は尾張国(おわりのくに)の織田家・織田信秀に挟まれて国主の座を維持するに腐心していた。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-20 22:25 | Comments(0)  

台湾原住民族(高砂族/平埔族)

ここに、日本列島の歴史と比較するに好対照の歴史が存在するので紹介する。

三千年前まで日本列島と同じ経緯を歩みながら、列島が明治期に入る頃までおおむね中華文明から置き忘れた大きな島・台湾島の存在である。

台湾島は、十八世紀から十九世紀頃に到って漢民族が移住して来るまで日本列島と同く黒潮に乗って移り住んだ原ポリネシア系の原住民の暮らす島だった。

中華文明から置き忘れた理由は、朝鮮半島から遠く離れ倭の国々に属さなかったからで、文明的進歩は二千年以上止まったままだった。

この中華文明から忘れ去られた台湾島は、日本列島の歴史のように「誓約(うけい)の概念による混血」と言う平和的な民族合流の手段を持たなかった為に、頑(かたく)なに自分達の文化・習俗・信仰を守って他を排斥して三千年間からの対立の歴史を繰り返し、統一される事無く小民族乱立の中、言語の通じない人間の首を狩る出草(しゅっそう)と言う風習が根付いていた。

つまり、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族がそれぞれ全く交流する事無く、首狩りそのものが「一人前の成人男子の通過儀礼」とされ、信仰的な意味合いも在って狩った首の数は同族社会集団内で誇示される風習が存在した為、異なる部族への警戒感が強かったのである。

台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、台湾に十七世紀頃に漢民族が移民して来る以前から居住していた先住民族の呼称である。

日本が植民地支配を始めた明治期の頃の台湾には、平地に住み台湾原住民族と漢民族が混血同化した平埔族(へいほぞく)と高地(山岳地帯)に住み独自の言語・文化・習俗を守って暮らしている高砂族(たかさごぞく)が存在した。

多くの民族集団に分かれて並存し、十四民族(部族)を数える台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)の内二民族が平埔族(へいほぞく)、十二民族が高砂族(たかさごぞく)とされたが、台湾原住民の中で一番多い人口規模(総人口の37.5%)を持つ平地民族集団・アミ族と台湾原住民のなかで唯一台湾本島の南西沖の孤島・蘭嶼に居住する民族集団・タオ族を除くと、大半が好戦的民族だった。

そんな台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)の中に在って、アミ族の家長は女性で優先順位は女性側にあり、家業・財産は長女が受け継ぎまた姓も母方の姓が引き継がれる母系社会である。

母系社会のアミ族は、アミ語で「シカワサイ」と呼ばれる女シャーマンが主催する二ヶ月に及ぶ秋祭りがおこなわれ、童女が集められて盛んに踊り、激しい踊りの中でトランス状態に陥った童女が次代のシャーマンに任命される。

台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)十四民族(部族)に在って「強い母系社会はアミ族だけ」と言って良いアミ族は祭り好きで、豊年祭、播種祭、捕魚祭、海祭などがあり、毎年夏の七月から八月のいずれかに二週間ほど催される豊年祭は最も重要な祭祀儀式である。

歌や踊りを好み、平和で陽気な平地民族集団・アミ族が台湾原住民の中で一番多い人口規模を有し、後発で移民して来た漢民族とも平和に共存している事は偶然だろうか?

日本列島の歴史と重ね合わせる時、母系社会のアミ族は比較的「性におおらか」で、最も日本の先住民族・蝦夷族(えみしぞく)に近い平和的な村社会文化・習俗を持っていたような気がする。

この台湾島の原住民・高砂十二民族の中にも、遠来の客に女性を宛がうマレビト(客人)への夜伽歓待の習慣が在る。

つまり、頑(かたく)なに自分達の文化・習俗・信仰を守って好戦的では外部民族との交流も生まれず、人口も増えずに文明的進歩も止まってしまうのである。

ただ、台湾島に於ける最大勢力のアミ族が非好戦的な平和主義だった事と、日本列島のように中華文明の先進的な武器を携えた侵略部族(うじぞく/氏族)の襲来が無かった事が、台湾島に統一国家化が為されなかった事に繋がったのも事実である。


第五巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-18 18:04 | Comments(0)  

輜重(しちょう){秀吉中国大返しの奇跡(三)}

戦は、「兵だけ動かせば良い」と言うものではない。

実際に数万の軍勢を動かすには、食料や矢などの消耗武具から軍馬の餌(飼葉)、経路で消耗する軍資金に到るまで、膨大な「荷役運輸(兵站活動)」が伴なう。

流石に織田信長が、その実力を認めただけの事はある。

羽柴秀吉の「荷役運輸(兵站活動)」の実力が、明智光秀の想像を遥かに上廻っていた。

輜重(しちょう)とは、兵站(戦闘力を維持・増進し、作戦を支援する機能・活動)を主に担当する軍の兵科目の一種である。

日本人は、基が氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想だから、戦争(戦/いくさ)をするにあたり、往々にして直接戦わない「後方支援」の輜重(しちょう)と言うものに無関心である。

羽柴秀吉は氏族ではなかったからこそ、直接戦わない後方支援の輜重(しちょう)の重要性を承知していた。

信長だけがその秀吉軍の輜重(しちょう)能力を認識していて、いざ自らの新帝宣下(織田帝国)の際は、「真っ先に軍を畿内に返す指示を与えていた」と言う事である。

つまり氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の明智光秀は、羽柴秀吉の「輸送力(輜重組織)に敗れた」と言って良い。

「筑前(羽柴秀吉)、こ度の毛利攻めには予に考えが有る。予からの報(しら)せ有らばいつでも京にとって返す備えを道々怠り無くせよ。この事、他言無用ぞ。」

「御意、怠り無く致しもうす。」

光秀も、羽柴秀吉の「輸送力(輜重組織)」に着いて多少の事は想像出来て居ただろうが、まさか「お館様(織田信長)から事前の指示が出ていた」と言う所までは読めなかったのである。

秀吉の「中国大返しの奇跡」に、光秀は、狐につままれたような想いだったであろう。

余談だが、ここで挙げた氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想の悪癖(あくへき)、実は先の第二次大戦時まで続いて、「後方支援」の輜重(しちょう)に重きを置くよりも「精神論で戦う」と言う馬鹿げた作戦を遂行させている。

秀吉による「中国大返し」の本質を正しく評価せず、只ひたすらに強行軍で返って来たかのごとく解釈する建前発想の悪癖(あくへき)が、「秀吉大返し」の教訓を捨ててしまったのである。

日本人が共通で持つ「日本人的な意識」を前提に、それを強情に「正しい」とする前に、それを見直し「確認しないといけない事」は幾らでもあるのだ。

だが、自らの否定に繋がる事は初めから切り捨てて、中々認める方向で認識する思考には成ろうとしない。

奇跡にはそれなりの種がある。ここでその種明かしをして置く。

明智光秀も読み違えた秀吉の「中国大返しの奇跡」、実は秀吉ならではの人脈の賜物だった。

前述の通り、生駒家(いこまけ)は藤原北家の末裔で、武を用いる氏族の出自であるが、兼業で馬を利用して荷物を運搬する輸送業者「馬借(ばしゃく)」を収入源にしていた。

その事から、河川上の運搬輸送業者である木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)とは業務に連携が有って当たり前で、秀吉軍は兵糧部隊も含め、生駒家の協力で、中国街道筋の「馬借(ばしゃく)」が、大軍の大移動を全面支援したのである。

小早川密約(こばやかわみつやく){秀吉中国大返しの奇跡(四)}】に続く。
秀吉中国大返しの奇跡(一)】に戻る。
生駒家(いこまけ){秀吉中国大返しの奇跡(二)}】に戻る。

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-17 13:35 | Comments(0)  

生駒家(いこまけ){秀吉中国大返しの奇跡(二)}

この織田信長の愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)が、日吉丸(豊臣秀吉)を信長に結び付けた張本人だった。

明智光秀の織田家仕官の伝手(つて)が正妻の濃姫(帰蝶)なら、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の織田家仕官の伝手(つて)は、この愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)である。

秀吉が織田信長に召抱えられた経緯(いきさつ)は、芝居の脚本の影響もあり、「秀吉の知恵」と面白く描かれる事が多いが、事実はもっと現実的な「縁故就職」だったのである。

生駒吉乃(いこまきつの)の生家・生駒家は、尾張国中村に在って数ヵ国と交易し、代々富裕であり諸国流浪の浪人武士を数十人も寄宿させ、養うほどの有力な豪族である。

生駒家は、平安時代初期の公卿・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ/史上初の摂政・藤原北家流)の二男・藤原良房(ふじわらのよしふさ)が大和国・生駒の地に移り住み本拠としていたのだが、室町時代に応仁の乱が起こりその戦禍から逃れて尾張国小折の地に移住する。

生駒藤原家は、この大和国・生駒の地名から生駒姓を名乗るように成ったのだが、生駒在住時代に名乗り始めたのか、尾張に移り住んでから名乗ったのかは定かでない。

その生駒家は、秀吉と苦楽を共にし、秀吉を支え尽くしてきた木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)やその主筋にあたる謎の棟梁(秀吉の父親)と親交が有り、蜂須賀小六は生駒家と姻戚で在った。

生駒家は藤原北家の末裔で、武を用いる氏族であるが、兼業で馬を利用し、荷物を運搬する輸送業者「馬借(ばしゃく)」を収入源にしていて「生駒」を名乗っているくらいだから、河川上の運搬輸送業者である木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)とは業務に連携が有って当たり前である。

蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)は、姻戚である生駒八右衛門や前野長康と親交を結び、木曾川を舞台に河川土木や河川運航に活躍した船方衆数千人の棟梁として、美濃・尾張の戦国大名勢力の双方から半ば独立した勢力を築いていた。

その小六の主筋にあたる「謎の棟梁」の嫡男が、「日吉」と名づけられた豊臣秀吉の若き頃の姿だった。

どうやら、蜂須賀小六が川筋七流の荒くれ者を一同に集め「蜂須賀党二千名」の棟梁として活躍した後ろ盾が、川並衆の「謎の棟梁」と、生駒家だったようである。

母・土田御前の面影を追う信長の生駒吉乃への思い入れは強く、その愛は吉乃付きの小者(日吉)にまで及んだ。

蜂須賀小六が生駒家と姻戚関係で有った事から、吉乃の小者として仕えるようになった「日吉」は、信長の下に側室として上がった生駒吉乃について織田家に召抱えられる道筋が開けたのである。

その「日吉(木下藤吉郎)」に従い、長じた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた蜂須賀小六と豊臣秀吉の関係は四十年余り及び、蜂須賀家も生駒家(但し分家/本家は旗本扱い)も、四国の大名にまで上り詰めている。

織田信長(吉法師)は、その突出した才知故に母(土田御前)に愛されなかった人物である。

信長は心を開かない母に生涯心痛めながらも、母を慕っていた。しかし、思いは通じない。

その母の愛に飢えた思いが、天下布武にまい進させ、また、母方の姪(生駒吉乃)を妾(正室並の側室)にし、情を注ぐ事に成ったのである。

唯、人間は必ず何かを背負って生きる者で、何事にも代償は必要である。何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。

輜重(しちょう){秀吉中国大返しの奇跡(三)}】に続く。
秀吉中国大返しの奇跡(一)】に戻る

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2008-10-17 13:28 | Comments(0)