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マシュー・ペリーの黒船来航

幕末の機運が高まった安政年間(江戸時代後期)、世情不安をもたらす「天変地異」が立て続けに起こる。

千八百五十四年(嘉永七年/安政元年)、東海道地区で安政東海地震(マグニチュード八・四の巨大地震)、その僅か三十二時間後には安政南海地震(これもマグニチュード八・四の巨大地震)と、立て続けに発生して居る。

その翌年の千八百五十五年、今度は江戸府内および関八州一帯に被害をもたらした安政の関東大地震(マグニチュード六・九)が起きている。

この大地震を安政三大地震と言い、関東地震(関東)、東海(静岡県)、東南海(中京~南紀)、南海(南紀~四国)と、巨大地震がしばしば連動する。

この巨大地震、「同時期または二~三年後に発生する」と言われ、「約百年~百五十年の周期で活動期に入る」とされている。

安政三大地震は、関東・東海の各地に甚大な被害をもたらせる。

まだまだ文明開化以前の事で、日本に「地殻変動」などと言う地勢学の概念などまだ無いから、「神様がお怒りに成っている」と、民心は素朴に不吉がって、騒然としていた。

地震を科学的に理解する時代ではない江戸末期、天変地異は民心を不安ならしめ、幕府の権威失墜に、大きな力に成って作用しても不思議ではない。

ちょうど、黒船でぺりーが来航した時期(千八百五十三年~四年の二回)と、この安政三大地震が重なるなど、幕府にとっては泣きっ面に蜂である。

そして詳しくは後述するが、「エエジャナイカ騒動」が起こって不安を煽り立てたのもこの時期だった。

ぺりー提督率いる米国インド艦隊に武力で威嚇された幕府は、当然ながら攘夷派と開国・通商派の間でその対応に紛糾する。

この幕府が混乱した時に、登場した幕府の大老が井伊直弼(いいなおすけ)で、彼は狂人的な開国論者だった。

マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至って、「幕末」の機運が盛り上がって行く。

ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)とは、千八百五十三年(嘉永六年)に米国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件である。

今から百五十二年前(千八百五十三年)、東京湾の奥深く、江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやって来る。

明治維新のきっかけとなった黒船来航についても、正しい見方が必要で、その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

ぺりー来航は、百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為であった。

通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商は、決済には倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出する事と成った。

これで当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされる事に成るのである。

実はこのマシュー・ペリー提督来航後、赴任して来た初代の米国総領事タウンゼント・ハリスと井伊直弼(いいなおすけ)との間で結ばれた「日米和親条約」は酷い不平等条約で、その後の日本の未来に大きく暗い影を落とすものだった。

この権威失墜に乗じて、反幕派による「尊皇攘夷運動」を引き起こし、千八百五十八年頃の「安政の大獄事件」にと、歴史の場面が移り行く事になる。

日本史では一般に、このペリーの黒船来航事件から明治維新の新政府成立までを「幕末」と呼んでいる。

井伊直弼(いいなおすけ)と安政の大獄】へ続く。
日米和親条約と不公平為替レート貿易(日米修好条約))】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2008-11-26 13:40 | Comments(0)  

井伊直弼(いいなおすけ)と安政の大獄

江戸幕府は、黒船でぺりーが来航した時期(千八百五十三年~四年の二回)と、千八百五十四年(嘉永七年/安政元年)の安政大地震(あんせいおおじしん)が重なるなど、幕府にとっては泣きっ面に蜂で疲弊していた。

マシュー・ペリーの来航に伴い幕府が孝明天皇の勅許無しで米国と日米修好通商条約を調印、安政の開国に踏み切る前後の江戸幕府は、幕府の内部でも開国派と攘夷派の間で暗闘が始まっていた。

嘉永から安政年間に渡る幕政は、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)によってリードされていて、マシュー・ペリーの来航時の阿部は幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永/春嶽ら)との連携方式に移行させ、徳川斉昭(なりあき/水戸藩・第九代藩主)を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。

所がこの徳川斉昭(とくがわなりあき)は度々攘夷を強く唱え、開国派の井伊直弼(いいなおすけ)と対立している。

井伊直弼(いいなおすけ)は、第十一代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡の彦根城(現在の滋賀県彦根市)で生まれ、幼名は鉄之介と名付けられたが、子沢山の藩主の庶子で養子の口も無く元服成人後も三百俵の捨扶持の部屋住みとして三十二歳まで過ごした。

所が、第十二代藩主・直亮(なおあき/直中三男)に実子が無かった為に世継ぎと決められていた直元(直中十一男)が死去した事により藩主・直亮(なおあき)より彦根藩の後継者に指名されて運命が変わった。

井伊家は、あの徳川家康が寵愛して大名にまで取り立てられた衆道稚児上がりの武将・井伊直政(いいなおまさ)を祖に持つ近江国・彦根藩三十五万石の大藩である。

兄・直亮(なおあき)の養子という形で従四位下侍従兼玄蕃頭に叙位・任官し、その後左近衛権少将に遷任され玄蕃頭を兼任している。

千八百五十年(嘉永三年)、兄で養父の第十二代藩主・井伊直亮(いいなおあき)の死去に伴い家督を継いで掃部頭(かもんのかみ)に遷任、第十三代藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)となる。

井伊直弼(いいなおすけ)が第十三代の井伊藩主として幕府に出仕して三年、千八百五十三年(嘉永六年)に米国ペリー艦隊が来航、直弼(なおすけ)は江戸湾防備にあたったが、老中首座の阿部正弘の諮問には「政治的方便で臨機応変に対応すべきで、この際開国して交易すべし」と開国論を主張したとされている。

千八百五十五年(安政二年)になると、攘夷を強く唱える徳川斉昭(とくがわなりあき)と井伊直弼(いいなおすけ)ら溜間詰(たまりのまづめ/江戸城で名門譜代大名が詰める席)諸侯の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。

同年、斉昭(なりあき)は開国・通商派の老中・松平乗全と老中・松平忠固の更迭を要求、老中首座の阿部正弘は止む無く両名を老中から退けたのだが、掃部頭(かもんのかみ)兼任のまま左近衛権中将に遷任して溜間筆頭(江戸城で名門譜代大名が詰める席の最上位)に居た直弼(なおすけ)は猛烈に抗議し、溜間の意向を酌(く)んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫る。

井伊直弼(いいなおすけ)と溜間詰(たまりのまづめ)諸侯の猛抗議に、阿部は止む無く溜間(たまりのま)の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立の収束を図る。

千八百五十七年(安政四年)、直弼(なおすけ)が従四位上に昇叙される頃阿部正弘が死去すると堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間(たまりのま)の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。

所が、徳川家定(第十三代将軍)の継嗣問題が起こり、堀田・松平の連立幕閣が紀伊藩主の徳川慶福を推挙すると一橋慶喜(十五代将軍徳川慶喜)を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めて行く。

国論が開国派と攘夷派に、幕府が将軍継嗣問題で徳川慶福(後の家茂)派と一橋慶喜派に割れる千八百五十八年(安政五年)、老中・松平忠固や紀州藩付家老職・水野忠央ら南紀派の政治工作により、井伊直弼(いいなおすけ)は江戸幕府の大老に就任した。

この直弼(なおすけ)の大老就任は、異常事態に人選に困った幕閣が、本来なら現在で言う派閥の領袖(りょうしゅう)クラスの老中ではなく、溜間詰(たまりのまづめ)と言う現在で言う派閥の番頭クラスからいきなり総理大臣になった様なもので、この事が既に江戸幕府の弱体を曝け出した結果である。

この大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)、権力を握ると独裁者に変身する。

井伊直弼(いいなおすけ)は、就任直後に米国総領事タウンゼント・ハリスとの間で米国との日米修好通商条約を孝明天皇の勅許を受ける事無く調印し、その無断調印の責任を自派の堀田正睦、松平忠固に着せて閣外に逐い、かわりに太田資始、間部詮勝、松平乗全を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようと独裁体制を築きあげる。

独裁体制を築いた井伊直弼(いいなおすけ)は将軍後継問題に着手、強引に徳川慶福を第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)とする。

そして、一橋慶喜を推薦していた水戸徳川家の徳川斉昭(一橋慶喜実父)や四賢候と称された宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、福井藩第十四藩主・松平慶永(よしなが/春嶽)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)らを蟄居させる。

さらに川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷し、その後も直弼(なおすけ)の方針に反目する老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にし、その独裁振りに内外の批判の矢面に立つ。

孝明天皇は、こうした井伊直弼(いいなおすけ)の独裁強権に憤って井伊の排斥を呼びかける「戊午の密勅」を水戸藩に発している。

武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかける前代未聞の朝廷の政治関与に対して直弼(なおすけ)は態度を硬化させ、直弼は水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、後に「安政の大獄」と呼ばれる多数の志士(吉田松陰などの活動家)や公卿(中川宮朝彦親王)らの粛清が開始される。

歴史的に観ると、安政の大獄で名を馳せた井伊直弼(いいなおすけ)にした所で、一言で悪人とは言い切れない。

勝てば官軍で倒幕運動は正義の戦いに評価が変わったが、その前段階に於いての常識では政権の転覆を図るのは大罪である。

つまり直弼(なおすけ)成りに、必死で滅び行く幕府を守ろうとしたのではないだろうか?

その評価で考えれば、歴史上では善悪は余り関係はなく、その時点で企てが成功したか敗れたかが問題かも知れない。

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)】へ続く。

安政の開国】へ戻る。

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by mmcjiyodan | 2008-11-26 13:39 | Comments(0)  

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)

幕末ま近の安政年間、江戸幕府の大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、朝廷の勅許が得られないまま独断で安政の五ヶ国条約に調印し、一橋派・南紀派の将軍継嗣問題を強行に裁決し、「安政の大獄」に拠る強権政治で尊攘派の怨嗟をうける。

特に藩主の父・徳川斉昭への謹慎処分などで特に反発の多かった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の有村次左衛門などと連絡し、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもってのクーデター計画を企てていた。

しかし薩摩藩内の情勢が変わり、止む無く薩摩から有村次左衛門のみが加わって水戸の激派が独自に大老襲撃を断行する。

この大老襲撃計画の警告は井伊家に届いていたが、直弼(なおすけ)は大老職に在る者として臆病のそしり(批判)を恐れ、あえて護衛を強化しなかった。

千八百六十年(安政七年)、直弼(なおすけ)が幕府大老に就任して二年が経っていた。

そこで世に言う「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」が起こる。

「桜田門外の変」は、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて尊攘派の水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件である。

大老襲撃隊は東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠で決行前の宴を催し一晩過ごし、当日朝品川宿を出発して東海道を進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂、神明坂、中之橋を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで外桜田門へ向かい、大名駕籠見物を装って登城する直弼(なおすけ)の行列を待つ。

三月三日の当日朝は生憎の気象で江戸市中は季節外れの雪で視界は悪く、井伊藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から登城する直弼(なおすけ)の護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていた。

その登城途中の直弼(なおすけ)を、大老襲撃隊の水戸藩過激派浪士は江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃する。

その襲撃の端緒から直弼(なおすけ)は不運だった。

駕籠にめがけて発射した襲撃隊の合図のピストルの弾丸によって直弼(なおすけ)は腰部から太腿にかけて銃創を負い、雪の上に放置された駕籠の中で動けなくな成っていた。

供周りも不運である。

大老の体裁を整えた雪中の行列の為、襲撃を受けた彦根藩士は柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった為、鞘で抵抗したり素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢で、抗しきれず斬り伏せられ、護る者のいなくなった直弼(なおすけ)の駕籠に次々に刀が突き立てられ、有村次左衛門に駕籠から引きずり出されて首を撥ねられて止めを刺され、直弼(なおすけ)は絶命した。

この独裁者として評判が悪かった井伊直弼(いいなおすけ)であるが、米国のペリーが来航して「開国・通商を迫る」と言う予想外の事態(特殊な事情)がきっかけで台頭しなければチャンスが無かった。

そして周囲の実力者に担ぎ上げられて権力を掌握すると独裁者に変身し、自分を推し大老就任に味方した者まで切って棄てる冷酷な所は、誰とは言わないが、たまたま派閥の番頭で金集めは派閥の領袖がしていた為に、金銭的に身綺麗だっただけで、派閥の部屋住みの身から総理の座を手に入れて独裁者に変身した近頃の総理大臣に酷似している。

但し井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺の頃から尊攘派の知識人が外国の圧倒的な先進国力を学んで攘夷を棄て、尊王開国派に転進して倒幕に向かったのは実に皮肉な結果で、直弼(なおすけ)の開国の決断は結果的に歴史が肯定する結果と成っている。

ただ井伊直弼(いいなおすけ)は、既に命運尽きる落日の江戸幕府に在って、強引な政策をして最後の炎を一瞬たぎらせた事は確かである。

勝海舟西郷隆盛の会談に拠り江戸城が開城され、征討大将軍・仁和寺宮彰仁親王(にんなじのみやあきひとしんのう)、東征大都督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が率いる官軍が入城したのは、桜田門外の変から僅か八年後の事で在った。

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by mmcjiyodan | 2008-11-26 13:38 | Comments(0)  

井上馨(いのうえかおる/井上聞多)

井上馨(いのうえかおる/井上聞多)は、理想主義が先行していた尊王攘夷派の若者達の中に在って、根は現実主義者である。

生家の井上家は清和源氏系の河内源氏の流れを汲む土着の安芸国人として毛利氏家臣であった。

勿論この井上家も、清和源氏系の河内源氏流となれば立派な影人の家系である。

井上聞多(馨)は、毛利長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・百石)の次男、幼名・勇吉として、周防国湯田村に生まれる。

聞多は長州藩主毛利敬親から拝受した通称で、一旦は同じ長州藩士・志道家(大組・二百五十石)の養嗣子となり志道姓を名乗るも、後に井上家に復籍して小姓役などを勤めた。

藩校明倫館に入学した後、江戸で岩屋玄蔵や江川太郎左衛門に師事して蘭学を学び、当時蘭学を学ぶ者たちの間で次第に勃興した尊皇攘夷運動に共鳴、江戸遊学中の千八百六十二年(文久二年)には高杉晋作久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。

井上馨(いのうえかおる)は伊藤博文(いとうひろぶみ)の友人で、松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾生と良く行動を伴にするも、松下村塾には入門していない。

只、正式に入門しては居ないが、吉田松陰にも師事して助言も受けている。

翌文久三年には、井上聞多(馨)は長州藩執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、受け入れられて伊藤俊輔(博文)・山尾庸三・井上勝らとともに長州五傑の一人としてイギリスへ密航する。

井上聞多(馨)は、そのイギリス留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じていたが、その最中に長州藩の下関に於ける外国船砲撃事件を聞き伊藤博文とともに急遽帰国して事態収拾の和平交渉に尽力した。

第一次長州征討では武備恭順を主張した為に、井上聞多(馨)は「袖解橋の変」と呼ばれる襲撃事件で俗論党に襲われ瀕死の重傷を負うが、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受け一命を取り留めている。

その後井上聞多(馨)は、藩論を開国攘夷に統一する為に高杉晋作らと協調して長府功山寺で決起、藩論統一に成功する。

千八百六十五年(慶応元年)、幕府の第二次長州征討機運が高まる中、坂本龍馬の仲介で西郷隆盛らと会談、薩摩藩との同盟(薩長同盟)にこぎつけ、幕府軍に勝利する。

この「薩長同盟」が倒幕の引き金となり、徳川慶喜大政奉還へと到るのである。

伊藤博文とは盟友で、維新後の太政官制時代に外務卿、参議、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣では内務大臣など数々の要職を歴任した元老だが、現実主義者であった為に事業欲もおおせいで、財閥との癒着や汚職の醜聞も多く聞かれた人物だった。

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by mmcjiyodan | 2008-11-22 16:17 | Comments(0)  

松下村塾(しょうかそんじゅく)

倒幕運動の最前線でリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)から排出された若者達である。

そして幸運と言うべきか歴史の必然だったのか、長州藩内に在って倒幕運動の指導的役割を果たした松下村塾出身者は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用されて藩政に参画している。

後半こそ薩摩藩士から西郷隆盛大久保利通などが多数が加わったが、最初は長州藩士達の働きに負う所が大きかった。

その松下村塾(しょうかそんじゅく)は、元々は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したもので、若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。

頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

しかし吉田松蔭は、折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。

松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山の師事をして蘭学を学んだ。

吉田松蔭は、米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれ、翌千八百五十四年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。

この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見もあったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。

翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。

その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。

つまり吉田松陰 (よしだしょういん)が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは千八百五十七年(安政四年)である。

松陰 (しょういん)が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、千九百五十九年(安政六年)の十月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か三年の間だけである。

だが、松陰 (しょういん)の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、「門弟同士も互いに議論を交わしながら育った」と言える。

吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿入江九一(いりえくいち)伊藤俊輔(博文)井上馨(いのうえかおる/井上聞多)品川弥二郎(しながわやじろう))山縣有朋(やまがたありとも)乃木希典(のぎまれすけ)前原一誠など維新の指導者となる人材を教え、桂太郎(かつらたろう)にも影響を与えている。

詳しくは【吉田松陰(よしだしょういん)】へ飛ぶ。

詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

幕末の長州(毛利)藩主【そうせい侯・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-11-20 02:53 | Comments(0)  

越前・朝倉攻め

軍勢を持たない「将軍足利義昭」は、誰の目にも織田信長の傀儡(かいらい)と映る。

信長の戦力と言う「後ろ盾」有ってこその将軍で、本人は抵抗しても言わば信長の操り人形である。

ここで各地の大名達が、足利義昭の招請に応じ将軍就任の挨拶に参内(さんだい)すれば、事実上信長の風下に立つも同然だった。

これに反発したのが、越前朝倉家の義景である。

戦国の動乱期、越前の国主は朝倉義景(あさくらよしかげ)だった。

朝倉家も、織田家同様に元は斯波(しば)氏の家臣(守護代)であったのだが、他家と同じような経過を辿り、守護代だった朝倉家も比較的早くから主家の斯波(しば)氏を排除して独立、戦国大名として力を持っていた。

その朝倉義景(あさくらよしかげ)が、織田信長の「天下布武」の前に立ちはだかる。

「予は尾張の田舎者に頭など下げん。放って置け。」
朝倉家は早い時期に下克上に成功し、どっぷりと名門意識に浸かっていた。

鼻息は荒かったが、朝倉家の当主朝倉義景は武将と言うよりは文化人で、今で言う「ボンボン」の典型である。

義景は「売り家と、唐様で書く三代目」ならぬ、朝倉五代目だった。

この上洛を果たした頃の織田信長の勢力は、尾張、美濃、三河、畿内五州、伊勢、等十二ヵ国二百四十余万石、兵力六万強と恐ろしく膨張していた。

それに同盟国が遠江、駿河、等六十四万石の徳川家康と近江半国の江北三十九万石の浅井長政(あざいながまさ)を加えると、石高三百四十三万石、兵力約十万の大勢力になる。

つまり、逆らった越前八十七万石朝倉義景は、ただの感情論による無謀な判断をした事になる。

朝倉義景は、下克上で伸し上がった武家でありながら公家貴族生活に憧れ京風文化に憧れた文化人で、おごり極まりない生活を送っていた。

プライドだけが高く、世の変遷(世の中の変わりよう)に鈍感だった。

朝倉義景(あさくらよしかげ)が凡将だった事は、折角臣従した明智光秀の並外れた才能を見出せなかった事で証明できる。

この保守的文化人が、最も嫌うのは、信長タイプの革新的発想の具現者である。

正に朝倉義景は、この時最悪の領主(経営者)と言えた。
このタイプで、成功した大名(経営者)は居ない。

彼らは守りに入って、結果的に革新的発想の前に滅びている。

余談ながら、豊臣秀吉(とよとみひでよし)も晩年この誘惑にとらわれ、豪華絢爛を好み「侘(わ)び寂(さ)びの茶」、千利休と確執を起こしている。

朝倉家は、将軍家(裏に信長)からの再三の上洛参内命令を無視する朝倉義景に堪り兼ねた信長は、朝倉攻めを決意する。

しかし大きな問題があった。
同盟軍、浅井長政の存在である。

浅井家には祖父の代からの、朝倉家との長年の協力関係の歴史がある。

信長は、これを充分承知していた。「朝倉攻めはしない」が、織田・朝井同盟時の盟約であったのだ。

しかし、この期に及んで朝倉を放っては置けない。
選択した手段は、浅井家を関わらせない事で、対面を保つ方法だった。

具体的には、浅井家に何も知らせないで信長は朝倉攻めを始めたのだ。
信長にすれば、「長政なら判ってくれる」と信じたかったのだ。

浅井長政・朝倉に与力す】へ続く

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-11-17 03:13 | Comments(0)  

浅井長政・朝倉に与力す

冬から春先にかけて美濃国・尾張国の濃尾平野には「伊吹颪(いぶきおろし)」と言う強風が吹く。

濃尾平野の西方向にそびえる伊吹山の頂上空から、伊勢湾に向かって吹き抜ける寒気を伴った強風は濃尾平野を厳しく舐めて行く。

若狭湾から琵琶湖を経て伊吹山の麓の関ヶ原に至る回廊状の地形が存在し、日本海側の冬の季節風がこの回廊を通って吹き込んで来るのである。

正にこの回廊状の季節風の通り道が、尾張から越前への朝倉攻めの道筋である。

織田信長は兵を起こし、越前・朝倉攻めに向かった。

この知らせを聞いて、浅井家中や浅井長政は苦悩する。

浅井家にとっては同盟国同士が戦をするのであり、事が起こった以上戦国大名が傍観者ではいられない。

ましてや、浅井家にとって両者伴に同盟相手同士の争いである。

旗色を鮮明にしないと、武門の名折れになる時代だった。

浅井家中の意見も、揺れ動いた。

隠居の父・久政は、永年の朝倉家との同盟の恩義を主張した。

朝倉家の永年の御を忘れては、浅井家の武門の義は立たぬ。

父・久政は、強行に「朝倉方にお味方せよ。」と迫った。

長政も最後は「義」をとって、朝倉方の加勢を決断する。

「父上のおっしゃる事、御もっともである。各なる上は、朝倉殿にお味方仕りましょうぞ。」

せめて、「傍観者でいてくれ。」の信長のメッセージは、浅井長政には遂に届かなかった。

姉川の合戦当時、織田信長は三十七歳、徳川家康二十九歳、浅井長政二十六歳と言う。

若い長政は、情勢判断より人情を優先した父の意向に逆らえずに、みすみす落城の憂き目に会う事になる。

長政もまた、古い常識的発想に囚われていたのだ。

この長政の決断は、朝倉攻めをしていた信長を窮地に立たせる。

前後を敵に囲まれる最悪の事態で、退路もなくなる。

この、浅井家の動きを信長が察知したのは、「お市方から贈られた小豆(あずき)袋の、両端を縛った袋のとじ方」と言われているが、これは出来過ぎた話だ。

両結びの小豆(あずき)の袋の逸話は、お市の方が織田家に出戻り易くする為の「創作」と考える方が自然である。

当然万一に備えた「物見の報告」と思う方が、自然なのだ。

この頃信長は、光秀を通して伊賀・甲賀などの傭兵を活用していたから、情報も迅速だったので有る。

形勢不利と判断した信長は、軍勢に大きな犠牲を払いながら、美濃の本拠地岐阜城に逃げ帰る事になる。

この時、しんがり(見方を逃す為の捨て駒)を買って出て、成功したのが「羽柴(豊臣)秀吉」と言われている。

姉川の合戦】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2008-11-17 03:05 | Comments(0)  

姉川合戦(あねがわのかっせん)

ここで織田信長を討ち洩らし本国に帰らせては浅井長政に打つ手はない。

しかし討ち洩らした。

岐阜に逃げ帰った信長は、浅井、朝倉を討つべく軍団を編成する。

兵力二万八千、援軍(徳川軍)六千、合計三万四千の大軍である。

「挟み撃ちにする」と言う千載一遇の好機に、織田信長を討ち漏らした事が浅井長政の命運を決定付ける。

同盟して迎え撃つにも織田・徳川同盟と浅井、朝倉同盟とはその国力に大きな差があり、正面切っての戦での力関係は明白に不利だった。

雑賀孫市明智光秀に懇請され、鉄砲千丁を揃えて雇われこの戦に参戦している。

「信長来る。」の報を聞き、朝倉も兵を出して浅井・朝倉連合軍を結成するが、朝倉義景は此処でも「ボンボンぶり」を発揮して代理を大将に送り、自分は出陣をしない。

危機意識がまるで無いのだが、強敵相手に領主が出陣しないで味方の勢いが上がる訳が無い。

この時の主戦場が、姉川だった。

世に言う「姉川合戦(あねがわのかっせん)」である。

元々、雑兵や家臣の方の戦の目的は、手柄を立てて立身出世をする事である。

それ故、直接盟主に戦働きを見てもらえる方が遥かに気合が入る。

その盟主が出張って来ないでは、士気が上がる訳が無い。

都の文化に凝って、貴族化した朝倉義景にはそうした家臣の心理すら思い至らない。

「尾張の無骨者など相手に、予が出張る程の事もないわ。」と、貴族化した自分の方が「高級」と思い込んで代理を大将にして居た。

これは現代の企業や政治にも言える事で、現場任せの経営者はいずれ思わぬ失態に巻き込まれ得るし、言い分ばかり言って庶民の現実に直接耳を傾けない政治家が、良い政治をする訳が無い。

現場を見、現場の言い分を聞いて判断するのが良い企業経営者であり、庶民の言い分を聞いて判断するのが良い政治家である。

現代の官僚、政治家、企業経営者は、自らを「高級」と思い込ん貴族化してはいないだろうか?

この「姉川の合戦」は、織田、徳川連合軍の大勝利と言う事になっているが、多分に怪しい。

一度の戦に負けはしたが、その後も浅井、朝倉は一定の勢力が健在で、京の信長残留守備隊を攻め、これを討ち破って一時京を制圧している。

信長は、姉川の合戦から浅井長政の小谷城陥落まで、三年を要している。

この間に宗門、一向宗雑賀衆の反抗にも信長は手を焼いている。

この浅井、朝倉、一向宗の混乱は、「将軍足利義昭の陰謀が招いた」とする説が有力である。

室町幕府最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)は、織田信長の助力により漸く流浪の身から脱して京に上り上洛を果たす。

朝廷・時の正親町天皇(おおぎまちてんのう)から将軍宣下を受けて第十五代将軍に就任、烏丸中御門第(からすまるみかどだい)を整備し室町幕府の再興を果たした。

しかし、直ぐに本当の実力者の織田信長と対立、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げ、一時は信長を窮地に立たせる事もあった。

だが義昭は、やがて信長によって京都から追放され、朝倉家も武田家も織田・徳川連合軍に敗れて滅亡、足利義昭は毛利家を頼って亡命し事実上室町幕府は滅亡した。

浅井長政・市(おいちの方)の三姉妹(茶々、初、於江与)】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2008-11-17 02:51 | Comments(0)  

浅井三姉妹(茶々、初、於江与)

夫・浅井長政の近江・小谷城落城と長政の自害を前に、助け出されて次兄・織田信包(おだのぶかね)に茶々、初、於江与の三姉妹と伴に保護されたお市の方(おいちのかた/織田秀子)は、兄・織田信長の命により近江・小谷城(現在の滋賀県)の浅井長政と結婚している。

織田家と浅井家はお市の方(おいちのかた)を要(かなめ)として同盟関係にあったが、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めた為に浅井家が朝倉方に付いて浅井家と織田家の友好関係は断絶する。

その後姉川の合戦で勝利した織田勢が攻勢に出て長政の小谷城は落城、長男の万福丸は捕われ殺害、次男の万寿丸は出家させられ、浅井家は幼い長政忘れ形見の茶々江(於江与)の三姉妹を残して滅亡する。

近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・市との間に出来た三姉妹の長女が、通称淀君(よどぎみ)と呼ばれる女性である。

この通称・淀君(よどぎみ)の本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)、朝廷よりの賜名は浅井菊子(あざいきくこ)、官位は従五位下とされ、淀君(よどぎみ)または淀殿(よどどの)は後の江戸期に便宜上呼ばれる様になった名である。

であるから、大坂城落城以前の時点で浅井茶々(あざいちゃちゃ)を「茶々(ちゃちゃ)様或いは殿」と呼ぶのならともかく、「淀殿(よどどの)」は在り得ない。

賜名(たまわりな)の菊子(きくこ)は公文書の署名のみで、普段は生涯茶々(ちゃちゃ)で通している。

つまり茶々(ちゃちゃ)本人は、淀君(よどぎみ)の名を使った事も呼ばれた事も無い。

浅井長政の小谷城落城から程なく、一乗谷城に在った朝倉義景も家臣の裏切りにあって自害し、朝倉家も滅亡する。

家臣は、余りのボンボンぶりに、義景を見限ったのだ。

結果的に、浅井家との婚姻は政略結婚の形になったが、我輩は信長が浅井長政を、「本気で弟にしたかった」と信じたい。

それが、信長だからである。

小谷城 落城、自刃の時、浅井長政はお市と三人の娘を、信長に託している。

織田家に保護されたお市の方(おいちのかた)と三姉妹は、織田信包(おだのぶかね)の下、厚遇されて九年余りを尾張国で平穏に過ごしている。

織田信長の兄弟で、気性激しく個性的な信長と上手く行っていた弟は織田信包(おだのぶかね・信秀の五男)只一人である。

母は兄・信長と同腹の土田御前で、お市の方(織田秀子)も同腹と伺える。

織田家臣団の中では信長も認める有能な武将で、唯一織田一族の重鎮として各地を転戦し厚遇されている。

信包(のぶかね)は兄・信長に対して一定の発言力もあり、浅井長政の近江・小谷城を包囲、浅井長政の自害により妹・お市の方(おいちのかた)と長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を引き取り手元に保護している。

長政とお市との三人の娘は、母お市の方伴に、この後「数奇な運命を辿る」事になるが、話が逸(そ)れるので此処ではその後の詳細を割愛し、信長周辺の戦国女性としての一端を紹介する。

安土桃山時代で最も有名な女性の一人は、織田信秀の娘つまり織田信長の妹の「お市の方」である。

越前浅井家の長政に嫁ぎ、嫁家を兄・信長に攻め落とされ、三人の娘を連れて柴田勝家と再婚し、二度目の落城に遭遇する悲劇の女性である。

お市の方(おいちのかた/秀子)は、本能寺の変で兄・信長が明智光秀に討たれた後、織田家の権力をソックリ乗っ取ろうと言う秀吉に対し織田信孝(信長の三男)を立てて織田家存続を唱える織田家重臣の柴田勝家と、三姉妹を連れ子に再婚する。

しかし羽柴秀吉と柴田勝家の緊張関係が長くは持たず、夫・柴田勝家が羽柴秀吉と武力対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に居城・越前・北ノ庄城に篭城したが持ち堪えられずに、茶々、初、於江与の三姉妹を逃がして後、勝家とお市の方(おいちのかた)は城内で自害した。

この数奇な運命のお市の方忘れ形見三姉妹はその後も波乱含みの人生を送り、長姉の「浅井茶々」は豊臣秀吉側室に納まり、その後の歴史を左右する豊臣秀頼生母・淀の方(秀吉の妾妻)となって息子・豊臣秀頼を押し立てて徳川家康と対立、大阪城で三度目の落城に合い息子・秀頼と伴に自害している。

次姉の「浅井初」は名門・京極家の京極高次正室になる。

そして三女「お江(おごう)もしくは浅井於江与」は、織田信長の甥(おい)に当たる佐治一成と従兄妹同士の結婚の後に、離婚させられて三代将軍徳川家光の生母・於江与の方(二代徳川秀忠正室/継室)と派手な立場の生涯を送っている。

於江与の方を「継室(後妻の正室)」と書いたが、徳川秀忠は再婚で、秀忠の最初の正室は織田信長の次男・織田信雄の娘・小姫である。

小姫は豊臣秀吉の養女を経て、実父・信雄と養父・秀吉の戦に家康が信雄に加勢した「小牧・長久手(秀吉対家康の直接戦)の戦い」の終結後、上洛した徳川秀忠と結婚した。

この結婚、豊臣と徳川の友好関係を再構築する目的で、一説には、この時の二人は「秀忠十三歳、小姫はまだ年端も行かない六歳であった」と言う。

この小姫は、翌年初夏に僅か七歳で死去している。

織田信包(おだのぶかね)】に続く。

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浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-11-16 21:16 | Comments(1)  

北条得宗家

北条得宗家は、鎌倉幕府成立の際に北条正子源頼朝の正妻であった事から北条時政・正子親子が源頼朝に与力、源の血筋が絶えた後の鎌倉幕府の執権を代々世襲した北条氏惣領家の家柄の事である。

北条家の祖は、承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱を一括)で平将門を討ち取った平貞盛の子孫・平直方である。

検非違使・平直方は伊勢平氏・平貞盛の孫に当たるが、関東で発生した鎮守府将軍・村岡五郎(平)良文の孫・平忠常(上総介)に拠る「長元の乱」の鎮圧に追討使として失敗、役を解かれて伊豆の国に在住する。

その平直方の流れが平時方(たいらのときかた)と言い伊豆の国北条に住む土豪で、妻は伊豆権守(ごんのかみ)為房の娘をもらった。

その二人の嫡男として時政は生まれ、地名を取って北条時政と名乗った。

つまり、北条・氏(ほうじょう・うじ)平朝臣・姓(たいらあそん・かばね)時政である。

北条家は平家系(伊勢平氏)の血筋(系図)ではあるが、いずれにしても当時権勢を誇っていた平清盛の親戚としては枝の枝で、よほどの事がなければたいした出世は望めない。

そこに源氏の嫡流・源頼朝が流されて来て、北条(平)時政の娘・正子が頼朝と男女の仲に成ってしまった事をきっかけに、平清盛の平家討伐側に回って頼朝方として鎌倉幕府成立に成功する。

鎌倉幕府成立と同時に、北条(平)時政は有力御家人の筆頭格として各地に所領を獲得する。

幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、二代執権・義時(正子の弟)からその嫡系で、最後の高時で九代に渡り、この「得宗(とくそう)」の名の由来は、二代執権・義時の法名に由来して「三代執権・泰時が名付けた」とされている。

得宗家は専属の被官である御内人(執権北条氏に仕えた武士)、家政機関(公文所)と所領を持ち、諸国の守護職や、六波羅探題をはじめ幕府の要職の過半を占める北条一門の最上位に位置づけられた。

鎌倉幕府成立当初は有力御家人の合議制で幕府の運営は為される決め事だったが、長生きして政権に関与し続けた北条政子(ほうじょうまさこ)の執念とも言える権力への執着が幾多の闘争を勝ち抜いて行く。

尼将軍・北条正子が北条得宗家を確立するまでの頼朝没後二十六年間の道のりは過酷な権力闘争の繰り返しだった。

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尼将軍・北条政子は頼朝没後二十六年間を、権力維持の為に生き抜き、弟・義時の嫡男・泰時の執権就任を見届けると、北条政子は病に倒れ、「帰らぬ人」となった。

頼朝旗揚げ後、四十五年間が過ぎていた。

鎌倉期後半になると北条得宗家は他の有力御家人達の追随を許さない勢力を持つに到る。

北条一門を含む他の有力御家人を圧倒するように成り、得宗邸で行われる北条一門や御内人(執権北条氏に仕えた武士)の私的会合である寄合が評定衆による幕府の公式の合議体(評定)に代わって実質上の幕政最高機関となり、幕政に影響力を発揮する専制体制を築き後醍醐天皇に拠る倒幕まで続く。

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by mmcjiyodan | 2008-11-16 04:02 | Comments(0)