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京兆(けいちょう)細川氏・細川昭元(ほそかわあきもと)

細川信良(ほそかわのぶよし/後に細川昭元)が生を受けた細川氏は、元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流(足利将軍家の枝に当たる名門)であり、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。

しかしこの細川昭元(ほそかわあきもと)誕生の頃は、往年の細川氏の繁栄は今は昔の散々な没落振りで名ばかりの名門だった。

この細川信良(ほそかわのぶよし/後に昭元)は戦国時代の細川氏の本流である「京兆(けいちょう/右京大夫の官途を踏襲)細川氏」の末流で、管領・細川晴元の子である。

京兆(けいちょう)細川氏は名門ではあるが、戦国期の戦乱の中勢力が衰えた頃に細川信良は生まれ、千五百六十一年に父・細川晴元が元細川家の有力な重臣だった三好長慶(みよしながよし)との京都霊山の戦いで敗れ、和睦した際に細川信良は三好方に人質に出されている。

この時代、朝廷お膝元の畿内に、京兆細川氏の被官・三好長慶(みよしちょうけい / みよしながよし)の右筆(ゆうひつ/秘書役の文官)から身を起こした松永久秀(まつながひさひで)が現れる。

松永久秀(まつながひさひで)は、北条早雲斎藤道三と並ぶ下克上で出世を果たしたのである。

足利将軍家、京兆細川家や三好三人衆に、畠山氏六角氏がこの松永氏と同盟したり敵対したりで絡み合いながら、都を含む畿内は戦乱に明け暮れていた。

細川信良(ほそかわのぶよし/後に昭元)は、隠居、病没した父・晴元の跡を継ぐものの勢力は取り戻せずにいた。

そこへ将軍・足利義昭を伴なって織田信長が上洛、細川信良は臣従して織田信長の軍団に属し、このころ義昭より一字拝領を受けて「昭元」と名乗ってる。

織田信長にすると、細川信良は室町幕府対策として利用出来る存在で、細川昭元を名乗らせて右京大夫に任じ、京兆家を継がせると翌年には信長の妹・お犬の方を嫁がせている。

お犬の方は、夫の佐治信方が戦死すると兄・信長の命で管領細川・晴元の嫡男で山城国槙木島城主の細川信良(ほそかわのぶよし/後に昭元)に嫁ぐ事に成ったのだが、嫁ぎ先の細川昭元は武将としての才能には乏しかったらしく、千五百七十二年には摂津で本願寺の僧侶僧兵・下間頼龍(しもつまらいりゅう)・下間頼純らと交戦して大敗している。

お犬の方は、本能寺の変の千五百八十二年(天正十年)に、兄・信長と年を同じくして死去している。

本能寺の変後、お犬の方に先立たれた細川昭元は羽柴秀吉に属して豊臣政権に参加したが、然したる功績も上げられず細川氏の勢力挽回には到らなかった。

細川昭元との間には、お犬の方は嫡男・細川元勝(頼範/おきあき)・長女(秋田実季正室)・次女(前田利常の正室の珠姫の侍女)の一男二女をもうけた。

姉・お市の方と比べて地味な存在だったお犬の方の生涯は、二人の夫の地味な働きにあったのかも知れない。

三好三人衆(みよしさんにんしゅう)】に続く。
足利流・京兆細川家・細川勝元(ほそかわかつもと)】に戻る。
細川晴元(ほそかわはるもと)と三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)その(一)】へ戻る。
細川晴元(ほそかわはるもと)と三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)その(二)】へ戻る。

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by mmcjiyodan | 2008-12-24 16:00 | Comments(0)  

豊臣秀次(とよとみのひでつぐ)

豊臣秀次(とよとみのひでつぐ)は豊臣秀吉の姉・日秀の子で、当時実子に恵まれなかった秀吉の養子となる。

戦国大名・三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次(はしばひでつぐ)と改名する。

豊臣秀次が、最初、三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたのは、織田信長が開始した四国征伐において羽柴秀吉が四国に対する影響力を強める為に甥で養子の信吉(のぶよし/秀次)が送り込まれた事に拠るものである。

その秀次が養子入りした名門・三好氏(みよしし)は信濃源氏流れの氏族である。

鎌倉時代の阿波の守護職・小笠原氏の末裔で、室町時代は管領・細川氏に臣従しての阿波の守護代と成っていたが、管領・細川晴元の代に三好長慶(みよしながよし)が臣従したまま勢力を拡大、恐れを為した細川晴元を逃亡させてる下克上で畿内随一の勢力となり、さらに長慶は第十三代室町将軍・足利義輝と戦ってこれを近江に追い、戦国時代には阿波国をはじめ四国の一部と畿内一円に勢力を有する有力な戦国大名となった。

戦国時代初期の一時は、三好長慶(みよしながよし)が都にあって天下に号令した為、実質天下人の役割を担ったが、抵抗勢力が強くて政権の体を確立し得ない内に三好長慶(みよしながよし)が死去、長慶が勢力拡大に力として来た弟達や嫡男・義興を失っていた為に家老であった松永久秀三好三人衆が三好家内で内乱の勢力争いとなって三好宗家は衰退する。

三好一族は、織田信長が足利義昭を奉じて入京して来た時に抵抗を試みるが敗れて四散し、足利義昭の十五代将軍宣下を許して畿内の勢力を失い、将軍・義昭と信長が対立し、将軍・義昭によって信長包囲網が敷かれると、三好宗家の義継や三好三人衆は義昭方について信長と対立するも呆気無く破れて以後は織田信長に臣従して家名を永らえる者が多かった。

そうした経緯の中、三好一族の三好康長だけがまだ四国・阿波の国で勢力を保っていた為の秀吉の政略だった。

三好秀次は三好氏家督のまま羽柴姓を賜り名として羽柴秀次と改名し、秀吉の武将として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参戦、武功を挙げたり失態もあったが、紀伊・雑賀攻めと四国征伐で軍功を挙げ近江八幡に四十三万石を与えられ、小田原征伐にも参加してその戦後処理で尾張国と伊勢北部五郡など都合百万石の大領を与えられている。

明智光秀柴田勝家を立て続けに破った羽柴秀吉が、千五百九十年(天正十八年)に天下統一を果たした翌年から四年の間に、一連の「秀吉の身内」の相次ぐ死が始まる。

頼りになる弟の大納言・羽柴秀長を始め、長子の鶴松、丹波国亀山城主の秀勝そして秀長を継いだ秀保が相次いで死んでしまった。

相次ぐ身内の死で残ったのは、小早川に養子に出した秀秋(妻方)と秀吉方甥の秀次だけだったので、関白・秀吉は千五百九十一年(天正十九年)に秀次を後継者と定め関白職を譲るが、全権を譲らず太閤と呼ばれて実質天下人の地位にあった為、二重権力化しかけた所に、千五百九十三年(文禄二年)、淀の方(茶々)との間に再び実子拾丸(ひろいまる/秀頼・秀吉次男)が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。

千五百九十五年(文禄四年)、ついに秀吉は秀次を高野山に追放し切腹させ、妻子もことごとく処刑する事になる。

この秀次の死で、豊臣本家(秀頼)を補佐する秀吉の肉親は全滅したに等しかったのである。

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by mmcjiyodan | 2008-12-24 15:48 | Comments(0)  

タウンゼント・ハリスと唐人お吉(斉藤きち)

タウンゼント・ハリスは初代の米国総領事として日本に来航、日米修好通商条約を結んだ人物である。

マシュー・ペリー提督の黒船来航で攘夷か開国かの窮地に立たされた江戸幕府は、とりあえず初代の米国総領事としてタウンゼント・ハリスを受け入れて伊豆の国(いずのくに)・下田(玉泉寺)に領事館を許し常駐させる。

ハリスは江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、幕府としてはこのハリスには江戸やその近くに来ては欲しくなかった為江戸出府は留保された。

結局開国派の大老・井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、幕府は条約を締結するのだが、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせる為、総領事のタウンゼント・ハリスと通弁官(通訳)のヘンリー・ヒュースケンに対して夜伽侍女の手配を行う。

斉藤きちは、数え十七歳の時に下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に口説かれてハリスに献上される。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していて、氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗で、日本側にすれば他国の高級役人に夜伽女性を献上するのは当然の行為だった。

所が、敬虔(けいけん)なクリスチャンで米国帰国後も生涯独身であったハリスはその事に驚き、直ぐにお吉は解雇されている。

こんな生涯独身と言う宗教価値観の男などは、その出現を多数許しては人類が滅亡してしまうので堪ったものではない。

この時のタウンゼント・ハリスが請けたカルチャーショックの衝撃が、民衆の生活を見聞し日本の性規範の大らかさに驚き「軽蔑した」と言う日本の性文化批判の根幹を成す出来事だった。

言わせてもらえば、このハリスの日本文化批判は個人の思考に拠る極めて独善的なものである。

ヨーロッパで起こった大帝国が、様々なローマ神を奉る万神殿・パンテオンに代表される多神教のローマ帝国で、それが快楽と堕落に溺れて滅亡した反省から生み出されたのがキリスト教であるから、キリストの教義が禁欲的で在っても仕方が無い。

しかしローマ帝国が世界的な大帝国で在り得たのも、様々な人種と信仰を受け入れた多神教国家だったからであるし、後に東アジアから起こった世界的な大帝国・モンゴル帝国も、あらゆる人種を政治や軍の高官に登用し、様々な信仰を受け入れた多神教国家だった。

つまり、人種的帰属意識や単一神信仰を前面に出せば、それは「世界規模の共存」とは相反する行為であり、その事が日本の黎明期に起こった誓約神話に拠る異民族(異部族)融合に通じるものがあるのだ。

まぁ、キリスト教はローマ帝国の腐敗や堕落の反省から生まれた信仰だから禁欲的教えでも仕方が無いが、キリスト教徒の中にはフーリングが合えば「神の思(おぼ)し召し」で浮気不倫をする者も居る。

そしてそれが間違いなら、「懺悔(ざんげ)」をすれば赦される仕組みになっている。

キリスト教徒と言えども人間だから、時には悪魔に惑わされる事も有る訳である。

浮気不倫は存在し、勿論、合法非合法の別は国に拠って様々だが、現実に「売春・買春」もキリスト社会に存在する。

何だ「性に対する柔軟性は一緒じゃないか」と思うだろうが、実は大きな違いがある。

ここでキリスト教徒が日本の性規範(性意識)を批判したかった決定的な違いは、キリスト教徒の場合は「フーリングが合えば」と言う「個の感性」が基本と言う点である。

その「個の感性」を基本とする欧米個人主義に比べ、一方日本の明治維新当時のおおらかな性習俗は、「寝宿制度」、「夜這い制度」、「暗闇祭り」と、言わば群れ社会の性規範、「集団婚(群れ婚)」の名残である集団的性規範を、「民族性の違い」にも関わらず自分達の感覚と比べ「信じられない」と批判したのである。

しかしこの話し、ハリスばかりを責められない。

日本人が、近隣諸国の人々と考えが違う事で馬鹿にしたり、同じ理由で近隣諸国の人々が日本人を馬鹿にしたりと互いに愚かな判断をしている。

斉藤きち(唐人お吉)が仕えた期間はほんの僅かで、ハリスの敬虔(けいけん)な信仰から夜伽行為は実行されず、きち(唐人お吉)の身は綺麗なままだったが、周囲は異人に身を汚された女性として「唐人」とののしられ、下田に居られなくなって横浜に流れ、後に戻って来て小料理屋「安直楼」を開くが、周囲の心無い仕打ちに酒に溺れて店を倒産させ、豪雨の夜に川へ身を投げて遂に自らの命を絶ってしまう。

夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-12-20 19:36 | Comments(0)  

工藤祐経(くどうすけつね)と曽我兄弟のあだ討ち

源頼朝の実弟・源範頼北条正子が追い落とすきっかけは、ある「大事件」が引金と成った。

それは、頼朝が征夷大将軍に就任して、一年たった頃の事だ。

当時の鎌倉幕府の重臣を集めたレクレーションを兼ねた戦闘訓練「富士の巻き狩り」で勃発した仇討ち事件、曽我兄弟による日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)襲撃事件である。

父の工藤祐継(くどうすけつぐ)が死に祐経が(すけつね)所領を継ぐと、叔父の伊東祐親(いとうすけちか)が後見人となり工藤祐経は祐親の娘・万劫御前を妻とし、祐経は都に上洛して平重盛に仕えるようになる。

だが、祐経(すけつぐ)が在京している間に伊東祐親(いとうすけちか)は祐経(すけつね)の所領・伊東荘を横領してしまい、妻の万劫御前(まごうごぜん)まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。

叔父・伊東祐親(いとうすけちか)の酷い仕打ちに深く怨んだ工藤祐経(くどうすけつね)は、郎党に祐親の狩の帰りを狙い討ち取ろうとする。

郎党の放った矢は祐親(すけちか)の嫡男・河津祐泰(かわづすけやす)に当たり、祐泰は死に祐泰の妻・満江御前(土肥実平の娘)とその子・一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)が残された。

後家になった満江御前は、舅の伊東祐親に勧められて祐親の甥にあたる曽我祐信と三度目の再婚をし、二人の遺児は曽我を名乗る事に成った。

工藤氏は、「藤原南家為憲流工藤氏」を祖とする伊豆の国(いずのくに)辺りの小領主だった。

伊豆半島中央を流れる狩野川の由来と成った狩野氏も、同じ一族である。

工藤氏は、伊豆の国三島神社(大社)で、妻方の北條氏の支援を受け挙兵した源氏の棟梁、源頼朝(みなもとよりとも)に従い、鎌倉幕府成立に助力した。

その功績により頼朝の信任を得、日向の国の地頭職など二十四ヵ所に所領を得た。

つまり、工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)は、鎌倉幕府の重臣(有力御家人)の一人である。

この「静御前」の八幡宮白拍子舞の折、鼓(つづみ)を担当したのが、「楽曲に巧みな工藤祐経(くどうすけつね)だった」と言うエピソードがある。

工藤祐経は、若い頃に都で平重盛に仕え歌舞音曲に通じて鼓(つずみ)を打ち、白拍子舞の今様を歌う名手である。

その工藤祐経(くどうすけつね)絶頂期に、所領紛争の恨みで同じ祖をいただく、伊豆の国の伊東氏(伊東祐親/いとうすけちか・嫡男・河津祐泰/かわづすけやす)の息子二人(曽我兄弟母親の再婚で姓が曽我に変わっている)に討たれてしまった。

この事件の経緯と事情は、あくまでも私闘である。
しかしこの「あだ討ち」は、将軍の仮陣屋で起こっている。

場合によっては、警備の不手際、或いは易々と地頭職が討たれた事で、幕府の権威を失墜し兼ねない大事件であった。

この襲撃事件が、遠い鎌倉に伝えられた時情報が錯綜した。

兄曽我十朗祐成(そがのじゅうろうすけなり)は仁田忠常(にったただつね)にその場ですぐに討たれた。

しかし、弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)が頼朝にあだ討ちの趣旨を訴えるべく、抜刀のまま頼朝の元(幕営)に向かった事が、「頼朝が討たれた」と言う誤報となり、鎌倉の北条政子と源範頼に伝わった。

ここで範頼が、兄嫁・政子を「万が一の事が有ってもこの範頼が付いています」と慰めた事を逆手に取って、「範頼逆心の疑いを掛けた」と言う。

酷い「難癖」である。

範頼は、弁明したが聞き入れられず、伊豆修善寺に流された後、頼朝の命で北条家の刺客団に襲われ自害している。

最初から殺す気でいたのだから、弁明など聞く訳がない。
この一件、その後の北条家の動きから考えて、別の見方もある。

曾我兄弟が親の敵祐経を討ち取った後、さらに頼朝の仮陣屋めがけて討ち入った理由は大きな疑問である。

ずばり「頼朝も討ち取る事にあった」と言う北条家の陰謀の可能性は棄て切れない。

失敗して未遂に終わったが、実は北条時政が曾我兄弟を仕向け、「頼朝暗殺を仕組んだ張本人」と言う疑いで有る。

宿舎の設営が、駿河の守護であった北条時政の手によって行われていた事から、「警備の厳しい屋形を急襲出来た事に、何か有る」と推測されるからで有る。

頼朝は打ち漏らしたが、結果的に弟・範頼の方に失脚の難癖をつける結果になったのだ。

実は、この陸奥国鞭指庄(むさししょう)など二十四ヵ所に所領を得た日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)と播磨・備前・美作・備中・備後五ヶ国の守護と成った侍所(さむらいどころ)別当(長官)の梶原景時(かじわらかげとき)は、当時の新興勢力の中では北条家(北条時政)を凌ぐ可能性を秘める北条家に取っては危険な存在の有力御家人だった事である。

その辺りから透けて見えるのが、この「曽我兄弟あだ討ち事件」と、これからご案内する「梶原景時の変」の仕掛け人の本当の意図である。

梶原景時(かじわらかげとき)の変】へ続く

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by mmcjiyodan | 2008-12-16 16:56 | Comments(0)  

梶原景時(かじわらかげとき)の変

梶原景時(かじわらかげとき)源頼朝に信頼され、播磨・備前・美作・備中・備後五ヶ国の守護と成った鎌倉幕府成立時の侍所初代(さむらいどころ)別当(長官)だった。

鎌倉幕府御家人・梶原景時が鎌倉殿(鎌倉征夷大将軍)・源頼朝に信頼される訳は、「石橋山合戦」の折に追討軍の大庭景親(平景親)を裏切り、洞窟に逃げ隠れていた源頼朝を見逃した事に拠る命の恩人だからである。

千百九十九年(正治元年)独裁専制政治を行っていた鎌倉殿(源頼朝)は急逝する。

頼朝嫡子・源頼家が家督を継ぎ将軍職に就任するのだが、将軍独裁体制に対する御家人達の鬱積した不満が噴出、源家の忠臣・梶原景時もこれに加わって頼家は僅か三ヶ月で訴訟の採決権を奪われてしまう。

代わって幕府宿老による十三人の合議制がしかれ、頼家の将軍独裁は押さえられた。

鎌倉幕府に在っても梶原景時(かじわらかげとき)は源家の忠臣に徹して、鎌倉殿専制政治をとる頼朝の鎌倉幕府侍所別当として御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まりにあたる目付役であった為、御家人達からは恨みを買い易い立場に居たのは事実だあった。

その恨みを利用した最初の権力闘争が鎌倉幕府内部で起こったのである。

梶原景時は、源頼朝の落馬事故の後も鎌倉有力御家人、十三人のメンバーの一人に数えられて居た。

政権も軍事力も、現実的には「北条時政」が掌握していたのだが、それでも世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、景時が動けば地方武士が集まる危険があった。

今の内に危険な芽を摘んでしまおうと北条時政は思い、将軍御所詰め所での結城朝光らの戯言「忠臣二君に仕えず」を「梶原景時が讒言する」と女官・阿波局に言わしめる。

驚いた結城朝光は三浦義村、和田義盛ら他の御家人達に呼びかけて、景時を糾弾する連判状の六十六名の署名を一夜の内にかき集めて将軍側近官僚の政所別当(長官)・大江広元に提出した。

将軍・頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、自分に突き付けられたのは六十六人の御家人連判状で言い訳の仕様など無い。

景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向し謹慎する。

一部の御家人は、景時の権威と勢力さえ抑えれば良かったので謹慎によって景時を支持、景時は一端鎌倉へ戻ったが将軍・頼家は景時を庇う事が出来ずに鎌倉追放を申し渡してしまう。

景時への仕置きは進み、鎌倉の邸は取り壊され播磨国守護に朝光の兄・小山朝政が代わり、美作国守護は和田義盛に与えられる。

ここに到って鎌倉に居れなくなった梶原景時は、京での反乱を目論んで再起を図るべく一族を引き連れて京への上洛を目指す。

所が、それを察知した北条時政が手を回し、京に逃げようとした梶原一族を討つべく道中に討伐のふれを出していた為に駿河(今の静岡)清見関で、藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)・吉川氏(吉川友兼)ら地元武士に発見され狐ヶ崎(静岡市清水区)において合戦となり、一族次々に討ち取られて景時と嫡子・景季、次男景高らは山へ引いて戦った後に自害し滅ぼされている。

梶原景時(かじわらかげとき)は鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、「梶原景時の変」と呼ばれる政変で一族とともに滅ぼされた。

平家討伐の軍事行動時代以来源義経と対立し、頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられているが、これは判官贔屓の心情を持つ民衆向けの脚色と、時の権力者北条家の思惑が一致した結果ではないだろうか?

この「梶原景時の変」は、忠臣であった景時を邪魔に思う北条時政・北条正子親子の陰謀で、その後の二代将軍・源頼家の将軍職を追放の序章と成ったのである。

この梶原景時一族の滅亡を評して、京都では「将軍・頼家の大失策である」とした結果は直ぐに現れる。

景時追放の三年後、将軍とは名ばかりの頼家は、妻の実家「比企家」を頼り、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、比企能員(ひきよしかず)は時政に滅ぼされ、頼家は北条氏によって将軍職を退任させられた後暗殺され北条氏が幕府の実権を握る事になる。 

頼家の将軍在位は僅かに四年であった。

梶原景時(かじわらかげとき)】へ戻る。

関連記述
源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)へ飛ぶ。
工藤祐経(くどうすけつね)と曽我兄弟のあだ討ちへ飛ぶ。
吉川氏(きっかわうじ)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-12-16 16:35 | Comments(0)  

越前・松平藩(福井藩)

江戸幕府幕末前後の松平春嶽/慶永(まつだいらしゅんがく/よしなが)は、御三卿・田安家から養子に入った越前・松平藩の第十六代藩主である。

その越前・松平藩の幕末までの道程には数奇な歴史が繰り返されている。

徳川家康の次男・秀康が豊臣秀吉の養子となり、その後結城家に養子に入って結城秀康(ゆうきひでやす)を名乗る。

この結城秀康が千六百一年(慶長六年)に関ヶ原の戦いの功により父・家康から越前一国六十八万石を与えられ、国持ち大名と成る。

所が、秀康の嫡男・松平忠直は大坂の陣で戦功を立てながらも二代将軍・徳川秀忠に認められなかった事から次第に幕府に反抗的態度を取るようになった。

千六百二十三年(元和九年)越前国々主・松平忠直は乱行を理由に廃されて豊後大分に配流される。
この二代将軍・秀忠の松平忠直に対する仕置きには、徳川本家と越前・松平藩とに関わる或る疑惑が付きまとっている。

この疑惑は、明智光秀=天海僧正説や三代将軍・家光の乳母・春日局(お福)が明智光秀の従姉妹だっ事と関連がある。

二代将軍・徳川秀忠の、実は明智光秀の従兄弟・明智光忠だった説である。

本来、結城(ゆうき)秀康は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・松平信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。

その結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯には、織田信長(おだのぶなが)の隠された構想に拠る意志が働いていた。

本章・第三話の本能寺の記述で揚げた様に、「地味温厚で、父・家康に忠実律儀なだった」と言う徳川秀忠評の裏に隠された家康への思いは、織田信長の「織田家以外の血筋を途切らせる」と言う奇想天外な織田帝国構想の陰謀に端を発していたのである。

良く考えて欲しい、天下人なのだから後からでも宣言だけすれば改名は出来る筈なのに、歴代将軍の中で二代将軍・秀忠だけが「家や康」の字を名前に付けていない事のその訳を。

代が後になると「綱」も使うが、この頃は「康か家の文字」の筈である。

秀忠の秀は、一般的には「秀吉の秀をもらった」と言われている。

確かに幼名(それまでは長松、竹千代、長丸、長麿)を名乗っていた秀忠が元服して名を「徳川秀忠」と改めたのは豊臣秀吉の存命中であるが、元服時に名乗る名が秀忠に無いのは何故だろう?

しかしながら、この信長の思考は異端であり、明智光秀(あけちみつひで)や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

松平忠直配流の翌千六百二十四年(寛永元年)、忠直嫡男・松平光長は越後高田藩二十六万石弱に移され、入れ替わりに英勝院の縁によって越後高田藩で別家二十六万石弱を与えられていた忠直弟(秀康の次男)の松平忠昌が五十万石で後釜に移封され、福井藩の主な家臣、藩領を継承する。

しかし親藩・御家門(ごかもん)の家格ながら越前・松平藩(福井藩)への幕府の監視が続き、その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、千六百八十六年(貞享三年)第六代藩主・綱昌は発狂を理由に領地没収され、前藩主(第五代)昌親が領地半減(二十五万石)の上で再襲した。

その後の越前・松平藩(福井藩)は、支藩松岡藩の再併合により三十万石、千八百十九年(文政二年)の加増に拠り二万石を増やして三十二万石、家格は親藩・御家門(ごかもん)の越前・松平藩(福井藩)が落ち着いた。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

越前・松平藩(福井藩)関連記述
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by mmcjiyodan | 2008-12-15 19:28 | Comments(0)  

長州・毛利藩(もうりはん/萩藩)

長州・毛利藩(ちょうしゅうもうりはん)は、江戸時代に周防国と長門国の二ヵ国を領国とした有力外様大名・毛利氏を藩主とする藩で、居城を萩に構えた事から萩藩・萩侯毛利氏とも呼ばれ、幕藩体制での家格は国主・大広間詰である。

藩主・毛利氏は、鎌倉幕府の初期に源頼朝の側近実務官僚として活躍した政所初代別当(長官)・大江広元の四男・大江季光を祖とする一族で、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけては越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)に在ったが、その後安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移って国人小領主として毛利氏を名乗り戦国時代を迎える。

名字の「毛利」は、大江季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現/神奈川県厚木市周辺)に由来し、「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。

その後、毛利元就が出て、琳聖(りんしょう)太子の末裔を名乗る守護大名大内氏の所領を下克上で横領した陶(すえ)氏を破り大内氏の所領の大部分を領して戦国大名に脱皮、尼子氏を破って尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十ヵ国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。

毛利元就の継子・毛利輝元織田信長の標的にされて配下の羽柴秀吉に攻められ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後、秀吉が光秀を破って天下を取ると、毛利輝元は争いを避けて豊臣秀吉に臣従した。

豊臣政権下では安藝・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の百二十万石強(実高は二百万石を超える)を安堵され、秀吉の晩年には五大老に推されてこれを任じている。

豊臣秀吉没後の関ヶ原の合戦では、輝元は西軍・豊臣方の名目上の総大将として石田三成に担ぎ出され大坂城西の丸に入った。

だが、主家を裏切り東軍に内通していた一族の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がない事を確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。

それが、関ヶ原戦後家康は輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収した事を根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分の仕置きとして輝元は隠居となし、継子・秀就に周防・長門国の二ヵ国を与える事として江戸期の長州・毛利藩(萩藩)となった。

この時の家康の仕置きが長州・毛利藩(萩藩)の怨念となって、江戸幕府末期に到って倒幕派有力大名として幕末を主導する要因とも言われている。

ただ、家康側にして見れば、天下を治めるにあたり毛利家を豊臣政権下そのままの所領安泰とするには余りにも大藩だった事は事実で、止む負えない仕儀だったのであろう。

江戸期を通じての長州・毛利藩(萩藩)の公認表高は三十七万石弱だが、関ヶ原戦直後の慶長年代でも実高は五十万石を越える検地の記録があり、幕末期にはその藩力から「実高(裏高)百万石を超えていた」と考えられている。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

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by mmcjiyodan | 2008-12-15 02:10 | Comments(0)  

薩摩・島津藩(しまづはん)・・・島津忠久(しまづただひさ)

薩摩・島津家には囁かれる初代・薩摩領守護職・島津忠久の出生の秘密がある。

薩摩島津家の祖・島津忠久の「源頼朝公落胤説」である。

秦氏の子孫・惟宗(これむね)氏の流れを汲む惟宗基言(これむねもとこと)の子で平安末期の官僚兼武士・惟宗広言(これむねひろこと)が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下り、その子の惟宗(島津)忠久(これむね・しまづただひさ)が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝から同地の地頭に任じられ島津氏を称したのが「島津家の始まり」とされる。

しかし、源頼朝による抜擢の背景がはっきりせず、惟宗(これむね・島津)忠久が惟宗広言(これむねひろこと)の子であるかどうかも疑問で、摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局が源頼朝の側室で、「忠久は頼朝の落胤」とする説が「島津国史」や「島津氏正統系図」などに記されている。

これは伝承であるが、妻・北条政子の激しい気性を恐れた源頼朝が落胤・忠久の将来を案じて藤原摂関家筆頭の近衛家に依頼、「惟宗(これむね)氏の系図に紛れ込ませた。」と言うものである。

島津氏の「頼朝ご胤説」は、偽源氏説として否定する意見の方が圧倒的に強いが、現在も島津氏の忠久以前の系譜については定説が無い。

同じく九州の守護に任じられた大友能直と島津忠久に共通している事は、共に後の九州を代表する武門一族の祖でありながら、「彼らの出自がはっきりしない」と言われ、いずれも「母親が頼朝の妾であった事から、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されている事である。

実は伊豆国から相模国にかけての氏族の古い姓には、何故か九州の氏族と同じものが多い。

島津氏が使っている丸に十文字の旗印も、伊豆国から相模国にかけての氏族に十文字を使ったものが多く、それが九州の在地の豪族にも同じように多かった。

薩摩・島津家の旧姓・惟宗(これむね)は日向国・南の名族だったから、東に日が昇る日向と伊豆国・東~相模国にかけての土地柄が似ているので、九州の氏族が移り住んで定住したのではないだろうか?

と成れば、惟宗(これむね)氏が島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)に赴任し、鎌倉殿(将軍・源頼朝)に地頭職を任じられても氏族の血統としては故郷に帰るだけの事である。

いずれにしても、島津氏も大友氏も平家方だった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして九州に下っている。

その意味では、頼朝が信頼するに足りる「何か」が在ったのではないだろうか?

確実なのは、島津忠久の出とされる惟宗氏も、大友能直の出とされる近藤氏も元々九州の名族ながら、当時の彼らの勢力ではさしたる評価の一族ではない。

頼朝による抜擢がなければ、戦国大名として歴史に登場する事無く埋もれていた筈である。

その島津家は、鎌倉期、南北朝期、室町期を通じての薩摩守護を勤め、戦国期には一時期は九州全土を席巻する勢いの勢力を誇った。

豊臣家の天下を迎える安土桃山期と関が原合戦の難局を生き抜いて、江戸期には外様大名の薩摩・島津藩として薩摩・大隅の二ヶ国、日向国諸県(もろあがた)郡、南西諸島(大東諸島及び尖閣諸島を除く)を領有し、石高九十万石を数えた江戸期有数の大藩のまま倒幕勢力の鍵を握る立場で明治維新を迎えるのである。

安土桃山期と関が原合戦の難局は【島津義弘(しまづよしひろ)】へ飛ぶ。
幕末の難局は【島津久光(ひさみつ)】へ飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-12-13 14:58 | Comments(0)  

江戸(東京)遷都(えどせんと)

慶応三年に徳川慶喜より大政奉還された時、新しく下士の身分から中央政治の実権を握った維新の志士達の間で都(新しい政治の中心地)を「そのまま京都に置くのかどうか」が論議になり、大久保利通の浪速(大阪)、前島密の江戸(東京)、江藤新平の京都(西京)江戸(東京)東西二京論などが在ったが、彼等の一致する所は京都以外に遷都(せんと)案である。

京都から遷都する事の意味は、古い政治体質を引きずる公卿達の「新政治に対する妨害を嫌った為」だと言われているが、本当にそれだけだろうか?

明治帝が睦仁親王で在ったなら京都は千有余年の帝城であり生まれ育った土地で、果たしてその明治帝(睦仁親王)が如何に「周囲から口説かれた」と言え、京都から江戸(東京)への遷都に易々と同意するだろうか?

憶測の域を出ない話だが、もし明治帝が京都帝城に何の未練も無い人物だったら、この謎解きは簡単である。

三条実美七公卿落ちのメンバーや岩倉具視はともかく、明治帝を早期に京都の公家衆から引き離すのっぴきならない事情が隠されていた可能性もあるのだ。

千八百六十八年(慶応四年/明治元年)、維新中心人物達の奏上(そうじょう)により江戸(東京)遷都の意志を示す天皇の詔書がなされる。

「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。東西同視スル所以ナリ」。

千八百六十八年(明治元年)の八月、明治帝は政治的混乱で遅れていた即位の礼を執り行ない、尊王派維新中心公卿の岩倉具視、議定職の中山忠能、外国官知事を任じていた伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の四藩の兵隊など総数三千数百を持って同年九月に京都を出発して江戸(東京)に初めての行幸(東幸)をする。

一行が旧東海道を東に進むと、黄瀬川沿(ぞ)いに旧東海道の宿場、木瀬川宿(キの字が違うが、間違いではない)が有り、その宿を通り過ぎて川を渡れば長沢の地である。

駿河国の東の国境を流れる黄瀬川を越え長沢の地に入ると伊豆国に入った事に成る。

その国境を守る社が、大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王所縁の智方(地方)神社である。

その智方(地方)神社の傍らに広がっていたのが、窪地(くぼち)になって在った窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田だった。

窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田の先には、源頼朝が腹違いの弟・九郎(源)義経と「初めて対面した」とされる八幡神社がある。

この智方(地方)神社と八幡神社の正面に面して旧東海道が設けられているのだが、明治帝の一行が江戸(東京)遷都の為に東幸したのがこの道だった。

明治帝の一行は、黄瀬川を越え駿河国境を越え伊豆国に入った所で休息を取る予定を決め、先触れが当地の世話役達に届いていた。

先触れを受けた当地の世話役は、ちょうど智方(地方)神社と八幡神社の中間地点にあたる広々とした窪田(くぼんだ)の水田に板囲いの仮御所を急遽造営して明治帝の一行を迎え御休息頂いた。

行程二十日間を余す帝の行幸では道中も帝の威信を高めながらの大変大仰な旅で、その仮御所は恐れ多い物だから直ぐに取り壊され、元の水田の戻されて今は遊技場の建物が建っている。

この東幸は旧幕勢力に対するけん制のデモンストレーションの意味合いが強く、また東京と京都(西京)の両京の間で天皇御座(都名乗り)の綱引きもあり、一旦先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を理由に、同年十二月には再び京都へ還幸を実地している。

その三ヵ月後の千八百六十九年三月、明治帝は三条実美らを従えて再び東幸を慣行、行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称する事とし、「天皇の東京滞在中」とした上で太政官が東京に移され、京都には留守官が設置された。

この江戸(東京)遷都の背景に、帝を京都御所から引き離したい「何か特殊な事情が在った」とは考えられないだろうか?

当初の発表では、あくまでも京都と東京は二元首都だった。

そして睦仁親王(明治帝)のご尊顔を拝していた女官の大多数は、京都御所に置き去りに成っている。

ついで同年十月には皇后や大臣諸卿も東京に呼び寄せ、着々と既成事実を積み上げる形で完全に天皇御座が東京に移って、これ以降明治帝は東京を拠点に活動する事になり、遷都が完成するのである。

凡そ千年に及び天皇の住まいし都だった平安京(へいあんきょう)は、明治維新を経て江戸の地に遷都され、江戸は東京と名を変えて日本の首都となる。

この江戸(東京)遷都(えどせんと)に依り、千年の怨念から解き放たれた京都は戦時中の空襲から守られ、新たな都に成った東京は首都の怨念を背負って大戦中に灰塵と化している。

つまり都とは、多くの矛盾(むじゅん)に満ちた亡者達が陰謀と怨念を生み出す為にうごめく、生々しく呪われた場所かも知れない。

江戸氏と江戸の地名の云われ】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2008-12-12 17:19 | Comments(0)  

北条義時(ほうじょうよしとき)

北条義時(ほうじょうよしとき)は鎌倉幕府二代執権である。

初代・執権は鎌倉幕府を開いた源頼朝の義父で、尼将軍・北条正子の父・北条時政で、鎌倉幕府成立の際に北条正子が源頼朝の正妻であった事から北条時政・正子親子が源頼朝に与力、源の血筋が絶えた後の鎌倉幕府の執権を代々世襲し、二代執権の北条義時は北条正子の弟にあたる。

北条義時が鎌倉・二代執権に着く切欠は、北条時政と北条正子・義時の親子の内紛からである。

三代将軍には、二代将軍・源頼家の弟・実朝(さねとも・頼朝次男)が就任するのだが、初代執権・北条時政は娘の政子も驚愕する計画を進めていた。

実朝を退け、もう一人の娘婿「平賀朝雅(ひらがあさまさ)」を将軍に就けようとしたのである。

平賀朝雅の将軍擁立計画を事前に知った政子・義時姉弟がとても承服出来ずに猛反対して対立、時政は娘・政子と息子・義時の姉弟に伊豆へ隠居させられて完全に失脚、姉・正子の後押しで義時が二代執権に成る。

父・時政の平賀朝雅の将軍擁立計画を阻止した政子・義時姉弟は、頼朝次男の実朝(さねとも)を三代将軍に据え、鎌倉幕府の実権を掌握し続けるのだが、尼将軍・北条正子の力は義時のそれを上回っていた。

千二百十九年(承久元年)に三代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺され、源家の血が途絶えた事で、北条執権家が勢力を維持する為の名目将軍(お飾り将軍)が必要になり、これを朝廷の権威を利用する為に新将軍に「雅成親王を迎えたい」と申し入れるが、朝廷側との条件交渉が上手く行かずに決裂した事である。

この将軍継嗣問題が、朝廷(後鳥羽上皇)側にも、幕府執権(北条義時)側にもしこりが残る結果と成った。

幕府執権(北条義時)は、止む負えず皇族将軍を諦めて摂関家から将軍を迎える事とし、その年(千二百十九年/承久元年)に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉四代将軍として迎えて名目将軍(お飾り将軍)とし、目論見通りに北条執権家が中心となって政務を執る北条執権体制を確立して行く。

しかし朝廷(後鳥羽上皇)側に幕府執権(北条義時)の専横に対する不満が募って行き、朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり遂には後鳥羽上皇が倒幕を決意、北条義時追討の挙兵をするに到り、承久の乱に発展した。

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by mmcjiyodan | 2008-12-11 20:22 | Comments(0)