<   2009年 01月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 

神武東遷(じんむとうせん)物語

神武東遷(じんむとうせん)物語によると、当初「奴(な)国」であった人々が、邪馬台国に追われて南に逃れ、狗奴国(くなくに)を創った。

奴(な)国は当初「筑紫の国(筑前・福岡県)から広域に北九州に在った」と思われる。

神武大王(おおきみ・初代天皇)が、筑紫の国(筑前・福岡県)から山陽道を瀬戸内海沿いに東に進み、「途中戦いながら畿内に達する」この神武東遷(じんむとうせん)物語では、神武大王(おおきみ・天皇)は、狗奴国(くなくに)の人物の様に記述されている。

南に逃れた奴国(なこく)の人々が、狗奴国(くなくに)を興し、やがて勢力を取り戻して邪馬台国を凌(しの)ぎ、「是に変わって大和朝廷をなす。」とある。

その、狗奴国(くなくに)と、邪馬台国の勢力の境界が、九州においては日向の国(宮崎県南部から肥後(ひご)の国(熊本県)、豊後の国(大分県)にかけて在った様だ。

その東の境界線が、県の庄(延岡市)の五ヶ瀬川の中州に在る「無鹿(むしか)」と言う奇妙な名の土地である。

狗奴国(くなくに)はやがて力を着け、近隣を従えて行った。

多分に怪しい記述ではあるが、日本列島の東半分を最初に統一した大王(おおきみ)は神武大王(じんむおおきみ)と言う事に成っている。

従って、狗奴国(くなくに)の王こそが、当初の「大和朝廷の起源」と考えられる。

邪馬台国は女王・卑弥呼(ひみこ)、狗奴国(くなくに)の王は男なのだから、この狗奴国(くなくに)の王が、須佐王(スサノウ)または大国主宇佐岐氏?)と考えられる神武朝の男王である。

物語の中の記述には、「狗奴国(くなくに)は海人族(あまびとぞく)と結んだ」とある。

この辺りの話は、真実と虚構が入り混じって、神話の中に隠れ潜んでいるらしい。

海人族(あまびとぞく)が隼人族(はやとぞく)であれば、奴(な)国が天(あめ)の国(天照の国)とも考えられるが、それであれば本来論争の激しい女王の国「邪馬台国」は何処に在ったか、簡単に見つかる筈だ。

それが発見出来ないと言う事は、神話と現実が、「二重帳簿の様に判り難く成る」、それなりの必要性が有ったに違いない。

他に考えられるのが、狗奴国(くなくに)と東海地区に居た海人族(あまびとぞく)が元々同族で手を結んだと成ると、この海人族(あまびとぞく・隼人族/はやとぞく)こそが「葛城氏」と言う事になる。

この神武東遷(じんむとうせん)物語を、「元々大和に朝廷が在った」とする学者が、東遷そのものが不自然な内容で「後の創作である」と断じているが、畿内に在ったのは狗奴国(くなくに)の「飛び地支配の地域、または葛城氏の支配地(伊都国)だった」と考えたい。

何故なら、卑弥呼(ひみこ)率いる邪馬台国(やまたいこく)は、相応の力を持って、狗奴国(くなくに)と、覇権を争っていた。

神武大王(おおきみ・天皇)が、「畿内の遷都(きないのせんと)に向けて移動する」と言う事は、既に二つの国は基本的に統一され、残存勢力の「掃討作戦」程度の行軍ではなかったのか。

討伐を重ねながら、辿り着いた所にいきなり遷都は考え難い。

しかしながら、この皇統初代とする神武大王(じんむおおきみ・天皇)は、本当に存在したのかどうかも、学者間で意見が分かれている。

何としたならば、古事記日本書紀は、余りにも後世に皇統の正当性を目的として天孫降(光)臨伝説を始めとする各種の神話伝承混じりに編纂された物だからである。

我輩はこの神武朝の正体を宇佐岐氏ではないかと推測し、それをバックアップしたのが葛城氏と考えれば、大国主の命と稲葉の白兎の伝承と符合し、神武朝三代の大王(おおきみ)の后妃に葛城氏の娘が嫁して居る事の必然性も頷(うな)ずけるのである。


詳しくは、小論【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。

詳しくは、小論【古代国家・邪馬台国卑弥呼】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

関連記事
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-18 21:36 | Comments(0)  

大王(おおきみ/天皇)の神格化

日本列島の本来の先住民は蝦夷(えみし/縄文人)だった。

蝦夷(えみし)は、倭族(加羅族や呉族)と呼ばれる侵略部族側が縄文人(先住民族)を呼んだ呼び方で、自らが名乗った訳ではない。

つまり、時代の誤差はあるが、日本列島の隅々まで、「蝦夷(えみし)族/縄文人(先住民族)」の領域だった。

その蝦夷(えみし/縄文人)の領域を、朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族(加羅族呉族)や琉球列島を北上してきた倭族(隼人族・呉族系)に、列島の西側から次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り、支配者になった。

それが邪馬台(やまたい)国や伊都(いと)国、狗奴(くな)国などの「倭の国々」だったのである。

それらの倭の国々が「神話の世界?」で誓約(うけい)の儀を繰り返しながら、徐々に合併して版図を広げて行く。

大和合の国(大和の国)は、多数の渡来部族が列島各地を武力で切り取り倭の国々が乱立していた前身から、具体的な統一を必要としていた。

多数の民族を統一して単一民族に融合するには、誓約(うけい)に拠る人種的混合と意思疎通の為に「共通語」が必要だった。

誓約(うけい)の儀から始まる古事記日本書紀の壮大な物語は、大和朝廷が侵略部族として先住民族・蝦夷(えみし)から武力で土地を取り上げた歴史を、都合良く「天孫降臨伝説」として創造した飛(と)んでも無いフィクションである。

日本列島の西日本に在った倭の国々は、神武大王(じんむおおきみ/天皇初代)の下に漸く統一を見る。

ただしこの統一大王(おおきみ)、倭国の国々の日本列島側が大和合して大和朝廷を成立した有力部族国家の連合体で、大王(おおきみ)は各部族王の認証による最高位に過ぎなかった。

同時に、中華皇帝と対等な存在に成る為に多くの国々を支配する天皇(大王/おおきみ)の統一国家としてとして倭の国々時代からの習慣としての国主(くにぬし/臣王・おみおう)を置く国名を表記して呼び続け、国の中心に大国主(おおくにぬし/天皇)を置く帝国の体裁を整えたのである。

一つの支配形態に於けるエンペラー(皇帝)は、標準的な君主号である「キング(王)」よりも上位のものとして観念される。

東洋に於けるモデルとして、中華帝国の場合はキング(王/ワン)の集合体の長がエンペラー(皇帝/ホワンディ)であり、日本の大和朝廷(ヤマト王権)に於いてはキング(国主・国造/くにのみやっこ)の集合体の長がエンペラー(大国主大王/おおきみ・天皇・帝/みかど)と言う事に成る。

そもそも大和朝廷によって、日本列島の西日本統一が実現された時、征服(侵略)部族の王達が神格化された。

王達が神格化された事もあって、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」から、武力を統治の裏付けとする事は建前上矛盾する。

矛盾を解消する為に、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用された。

この建前の「特異な制度」、「神の威光で統治する」が採用されたのは、当時有力部族国家の連合体でバラバラだった部族を平和的に一つにまとめるには、「精神的な支柱(神の導き)」が必要だったからである。

追々「お判りいただける」と思うが、日本の歴史は全てこの「神の威光で統治する」から始まって血統は統治の為の拠り所と成り、思想や宗教は統治の為、或いは統治を覆(くつがえ)す為の道具に成った。

つまり大王(おおきみ/天皇)は神格化され、武力を持たない事で倭の国々の国主(くにぬし)達=御門達から承認された大国主(おおくにぬし)として国家統一の象徴に据えられたのである。

この建前の「特異な制度」、「神の威光で統治する」では、結果的に地方における警察力欠如の環境が成立してしまう。

しかし先住民(えみし/縄文人)の山岳ゲリラは続いていた。
進入部族の神など、彼ら先住民には知った事ではないのだ。
それに、征服部族同士の対立も散発的に起こっていた。

その事が、地方(所謂、地域としての国)ごとの統治者の「私兵制度」が成立・維持される要件になったのである。

詳しくは、詳論【古代国家・邪馬台国卑弥呼】に飛ぶ。

天皇(てんのう/すめらみこと)の称号】に戻る。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

関連記事
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。
単一日本民族の成立過程大略】に飛ぶ。
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
飛鳥京(あすかきょう)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-17 17:31 | Comments(0)  

加賀・前田藩

前田利家を藩祖とする加賀・前田藩(前田百十九万石)は、江戸期を通じて外様随一の大藩だった。

これには、ひとえに藩祖夫婦の功績に拠る所が大である。

藩祖・前田利家は、若き織田信長に近習(小姓)として仕え、織田信長の男色(衆道)寵愛を受けて信長側近から腹心の一人として出世し、加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った男である。

前田利家は尾張国海東郡荒子村(愛知県名古屋市中川区)の土豪・荒子前田家の当主である前田利昌(利春とも)の四男として生まれ、幼名を犬千代と言った。

千五百五十一年(天文二十年)に十四歳で織田信長に近習(小姓)として仕え、元服して前田又左衞門利家と名乗った。

この二年前に織田信長が十六歳で濃姫(帰蝶)を娶っているから、利家が織田家に出仕した頃の信長は利家より四歳年上の血気盛んな十八歳になる。

この頃前田利家は、信長とは衆道(同性愛)の関係にあり、「武功の宴会で信長自らにその関係を披露された」と加賀藩の資料「亜相公御夜話」に逸話として残されている。

血統第一だった当時、血統に弱い者が「能力以上の成果を上げたい」と思えば、「縁」に頼るしかない。

女性(にょしょう)には妻に成るなり妾にあがる成りの誓約(うけい)の「縁」があるが、男性には身内の女性を介しての「間接的な縁」でしかないのでは誓約(うけい)としての「縁」が弱過ぎる。

誓約(うけい)の概念に置いて、絶対服従の具体的な証明は身を任す事である。

そこで室町期から戦国期に掛けて君臣間の誓約(うけい)、衆道(同性愛)が盛んになった。

そう言う意味において、「稚児小姓」として権力者の寵愛を受ける事は、むしろ武士として「潔(いさぎよ)い行為」なのかも知れない。

信長に「男色(衆道)の寵愛を受けて居たから」と言って利家は軟弱者では無く、槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれ、信長近習として萱津の戦いに十五歳で初陣、織田家の権力闘争である稲生の戦いでも功績を上げ、加増を受けて信長・親衛隊「赤母衣衆」となる。

加増により家臣を召抱えるまでに成った前田利家は、二十一歳の時に身近から嫁(正室)を娶る。

前田利家の正室は篠原一計の娘・「まつ」である。

母が利家の母の姉である為、利家とは母方の従兄妹関係にあたり、母が尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚すると「まつ」は母の縁で利家の父・前田利昌に養育される事になる。

千五百五十八年(永禄元年)、「まつ」は養育先で同居していた荒子前田家・利昌の四男・利家に数えの十二歳で嫁ぐ。

この二十一歳の頃に十二歳のまつを娶った前田利家だったが、その翌年に同朋衆の拾阿弥と争いを起こしてこれを斬殺、罪を問われて出仕停止処分を受け、二十四歳までの二年間浪人暮らしをする。

その間に出任停止されていたにも関わらず「桶狭間の戦い(永禄三年)」で信長に断りもなく合戦に参戦して功績を上げたが、信長は帰参を許さず「利家の忠誠心を試した」と言われている。

衆道(男色)関係は戦国期の忠実な主従関係の信頼性を担保する誓約(うけい)の習俗で、支配・被支配の思慕感情を育成する事から、若い頃の前田利家(まえだとしいえ)が罪に問われ城を追われ二年間浪人暮らしをしても、主(あるじ)・信長への思慕交じりの忠誠心は揺らがなかった。

漸く帰参を許された前田利家は、永禄十二年(千五百六十九年)に信長の命により前田氏・長男である兄・利久が継いでいた家督を継ぐ事になる。

前田利家は織田信長の「天下布武」に従い、姉川の戦い長島一向一揆長篠の戦いなどに母呂衆や馬廻り役の本陣親衛隊として参戦しているが、攻め手の役ではなく大きな武功も立てる機会が無かった。

その後の利家は、もっぱら柴田勝家の属将として主に北陸方面を担当し、一向一揆の平定や上杉謙信の上杉勢と戦っている。

そうした経緯から柴田勝家と親しく、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれ、清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立した時、柴田勝家に与力して従った前田利家だった。

所が、前田利家の正室・まつ(芳春院)は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の正室・おね(ねね/北政所/高台院)とは懇意の間柄であった事は有名である。

利家の方が秀吉より二歳ほど年下だったが、元々前田家の本拠地・尾張国荒子と秀吉の生家・尾張国中村は近接地で地縁者も多く、互いに出世した安土城々下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣同士に秀吉・おね(「ねね」とも言われる)夫妻が住んでおり、秀吉婦人・おねと利家婦人・まつは毎日のように「どちらかの屋敷で話し込んでいた」と言う間柄だった。

当然亭主同士も懇意になり、柴田勝家方として出陣はしても、旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。

この事が後の賤ヶ岳の戦いで兵五千を布陣していた前田利家の突然撤退、柴田方総崩れの羽柴軍勝利を決定づける下地になっていた。

佐久間盛政(さくまもりまさ)と賤ヶ岳の合戦】に飛ぶ。

この利家の突然撤退の決断が、後の加賀百万石を産んだ事になる。

賤ヶ岳の合戦に勝利した羽柴秀吉は天下をほぼ手中にすると、前田利家に佐久間盛政の旧領・加賀の内から二郡を与え、二年後には嫡子・前田利長に越中が与えられ加賀、能登、越中の三ヵ国の大半を領地とした加賀・前田藩百三万石の大藩が成立、利家は豊臣政権の五大老の一人となる。

豊臣秀吉が病没して後、実力者・徳川家康の天下取りの野望の抑えに注力した前田利家も病で秀吉の後を追うと、前田家討伐の好機とばかりに家康による加賀征伐が検討される。

この時戦国の賢婦人と名高いまつは、夫・前田利家の没後芳春院を名乗って息子・利長を守り立て加賀藩を影に主導している。

前田家二代当主・前田利長は最初は家康と交戦する積りで城を増強したりなどしていたが、母の芳春院が人質になる事を条件に家康を説得、加賀征伐撤回させる事に成功して、前田家当主・前田利長は家康に恭順して生き残った。

当時前田家は大藩で、家康としても事を構えれば同調者も現れる可能性まで読めば例え勝利しても厄介だった為、芳春院(まつ)の提案を受け入れたのだろう。

豊臣家五奉行の一人石田三成と五大老の一人徳川家康が対立して関ヶ原の戦いが起こる。

関ヶ原の戦いに際して前田家は、長男・前田利長が東軍、次男・前田利政が西軍に分かれて生き残りを図り、東軍の勝利で前田利長が百万石を越える所領を得、分家所領を入れると約百二十万石の大藩・前田家を形成し、江戸期に唯一外様の百万石越えの藩を永らえた。

前田利家】に戻る。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

関連記事
三百諸侯(さんびゃくしょこう)・江戸時代の大名家】に飛ぶ。

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-17 17:29 | Comments(0)  

応神大王(おうじんおおきみ/天皇)と仁徳大王(にんとくおおきみ/天皇)の疑惑

第十五代天皇とされる応神大王(おうじんおおきみ)は実在性が濃厚な最古の大王(おおきみ/天皇)とも言われる。

だが、応神大王(おうじんおおきみ)には仁徳大王(にんとくおおきみ/天皇)と同一人説がある。

また、当時の王統の有力者を集合成した虚像説、初期三王朝交代(神武/和邇/葛城)説における征服王朝の神武創始系統者説、河内王朝の始祖説など諸説が入り乱れて完璧な検証には到っていない。

応神大王(おうじんおおきみ・第十五代)・仁徳大王(にんとくおおきみ・第十六代)同一説に付いては事績の一部が父の応神天皇と重複・類似する事から、元来は一人の天皇の事績を二人に分けて記述した」とする見方が学者間に存在するからである。

仁徳大王(にんとくおおきみ)の称号の根拠となっている「竈(かまど)から炊煙の善政」逸話は、大王(おおきみ)に「直接徴税権が無かった」と言う大きな矛盾がある。

仁政として知られる仁徳大王(にんとくおおきみ/天皇)は、「人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていない事に気づいて租税を免除し、その間は倹約の為に宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」と言う記紀の逸話を持つ大王(おおきみ/天皇)だが、こうした善政の逸話は多分にその人物の神格化の為に記紀(古事記日本書紀)に於いて架空創作された内容である疑いが濃い。

応神大王(おうじんおおきみ/天皇)の崩御の後、後の仁徳大王(にんとくおおきみ/天皇)である仁徳大雀命(おほさざきのみこと)は最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合い、空位が三年間続いたが、「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子の死により即位した」と言う。

日本書紀には仁徳大雀命(おほさざきのみこと・仁徳大王)に皇位を譲る為に「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が自殺した」と伝えられるが、これとて斜に構えて可能性を探れば「皇位の奪い合い」の真実が、「皇位の譲り合い」として大王(おおきみ/天皇)の「徳」と綺麗に記述しただけなのかも知れない。

応神大王(おうじんおおきみ/天皇)は、宇佐神宮の八幡神として祀られている戦神で、全国の八幡神の主神であり八幡太郎源義家以来の源氏の戦神でもある。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

関連記事
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-15 01:01 | Comments(0)  

秦氏(はたし/はたうじ)

秦氏(はたうじ)は古代の渡来系有力氏族で、土木や養蚕・機織(ぬのおり)・製鉄精錬などの技術を発揮して「栄えた」と言う。

この「渡来系」と言う表現になると本来氏族は皆渡来系になってしまうが、秦氏(はたうじ)の来朝が「第十五代・応神大王(おおきみ/天皇)の御世の頃と伝えられる所から、どうやら曲がりなりにも日本列島の西半分の国主(くにぬし/御門)達が大和合して大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)が誕生して以後の後期渡来部族を「渡来系」と称するらしい。

秦の始皇帝を始祖と自称する秦氏は、六世紀頃に日本列島へ渡来した渡来人部族集団と言われる。

ハタオリは秦織(たおり)で、服部(はとりべ/機織り部)と言う職掌がその「氏名(うじな)の語源と成っている」と伝わる服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、能楽の継承者は「伊賀・服部氏の血筋」と言う訳である。

そして伝承では、秦河勝は猿楽の祖とも伝えられ能楽の観阿弥・世阿弥親子も「秦河勝の子孫を称した」とする所から、秦氏と服部氏とはまったく同系の部族と考えられるのである。

また、賀茂・葛城も秦氏とは同系の部族で在りながらこちらは占術と神職と言う職掌違い、物部氏も武器の製造管理言う職掌違いで氏名乗(うじなの)りは違うが、秦氏が信仰から機織り技術・金属技術まで持ち込んだ渡来人集団であれば、各得意分野ごとに分かれて氏名乗(うじなの)りをしても不思議は無い。

その秦氏・同系の部族説を検証すると、秦氏系・服部氏と物部氏系・鈴木氏には賀茂・葛城と重複する神職や修験道、そしてそれらから派生した武道である忍術、神事から派生した芸能などのルーツが遡って秦氏に辿り着くのである。

つまり秦氏系渡来部族こそが、日本列島各地に当時の最先端大陸文化を持ち込んだ有力部族集団ではないだろうか。

秦氏(はたうじ)の本拠地は鬼退治伝説の吉備国(岡山県)とも言われているが、関東以西のかなり広範囲に秦を名乗る者が居住していた痕跡が散見されている。

周知のごとく、織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持って日本列島に渡り来ていたのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。

秦氏(はたうじ)は中華帝国・秦の始皇帝の末裔を称するが、その根拠は明確でない。

この秦氏の渡来前の出自について朝鮮半島の百済説や新羅説があるが、名乗っているのが秦始皇帝の末裔ならば朝鮮半島は経由地に過ぎない事に成り、古代の織布・倭文(しずおり)の発祥が「朝鮮半島側の倭国」と言う伝承に符合する。

稲作技術と事代主神(ことしろぬしかみ)の託宣術を操る葛城氏賀茂氏)同様に、徐福伝説の徐福(じょふく/すぃーふぅ)が日本列島へ住み着いた征服部族の内、機織と土木を得意とした職掌一族こそ「秦(はた)氏」の先祖ではないだろうか?

秦氏の正体だが、秦本宗家の畿内・大和朝廷での本拠地が賀茂氏と並び大和国(奈良県)や山背国(京都府/山城国)を本拠地とし同じ域内に勢力を持つ点で、或いは同系族ながら渡来時期と職掌に拠って葛城氏と秦氏に分かれたのかも知れない。

聖徳太子の伝承に深く関わる存在として秦氏(はたうじ)が在る。

古代豪族・秦氏(はたうじ)には、ヘブライ(ユダヤ人)の景教徒(ユダヤ的キリスト教徒)説がある。

京都の西に太秦(うずまさ)と言う地名の所があり、その太秦には伊佐良井(イサライ)と言う地名がある。

渡来人系の豪族・秦氏(はたうじ)の氏寺は広隆寺(こうりゅうじ/京都市右京区太秦)であり、建立は秦河勝(はたのかわかつ)である。

広隆寺だが、別名を太秦寺(うずまさでら)と言うのだが、これが中国に伝来したネストリウス派キリスト教=景教(ユダヤ的キリスト教)の寺院の一般名称・大秦寺(だいしんじ/大秦塔)である。

そして太秦(うずまさ)は、古代ヘブライ語の意味では、「ウズ」(光)、「マサ」(賜物)で、「光の賜物を指す」と言う解釈があるそうだ。

徐福(じょふく/すぃーふぅ)と秦(はた)氏】に続く。
渡来人(とらいじん)】に続く。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

参考・関連小論【山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)伝説】はお薦めです。

参考・関連小論【古代ヘブライ(ユダヤ)伝説・秋田美人とナニャドヤラ】はお薦めです。

繊維関連記事
倭文(しずおり)】に飛ぶ。
服部半蔵(はっとりはんぞう)】に飛ぶ。
呉服とノーパンティ文化(和服のルーツ)】に飛ぶ。

関連記事
神農(しんのう)道】に飛ぶ。
秦河勝(はたのかわかつ)】に飛ぶ。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)】に飛ぶ。
忍術と聖徳太子(しょうとくたいし)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-15 00:57 | Comments(0)  

蘇我氏と蘇我稲目(そがのいなめ)

蘇我稲目(そがのいなめ)は、蘇我氏を最有力豪族に押し上げた人物である。

蘇我(宗賀、宗我)氏(そがのうじ)は、古墳時代から飛鳥時代(六世紀 から七世紀前半)に勢力を持っていた朝鮮半島・高句麗系の氏族である。

蘇我一族の氏名である「蘇(so)」はチーズの一種であり、蘇我一族の母国とされる朝鮮半島の付け根に栄えた高句麗国は、大陸の蒙古・満州の牧畜地帯から半島に来た部族と伝えられている。

蘇我氏の姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた古代の有力豪族である。

百済国の高官・木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が「同一人物である」と言う説があり蘇我氏百済説も在るが、蘇我稲目(そがのいなめ)の父が蘇我高麗(そがのこま)を名乗る点と、蘇我氏と高句麗の交流やその後蘇我氏が最有力氏族になった時点での高句麗系の隆盛から、我輩は蘇我氏・高句麗系説を採っている。

蘇我氏は言わば少し遅れて来た高句麗系の新興勢力で、物部氏の神道の様に宗教的基盤のない蘇我氏の棟梁・蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教を大和朝廷に導入、統治に利用する事を考える。

つまり当初の蘇我氏による仏教支持はその教義に傾倒した訳ではなく、有り勝ちな事だがあくまでも勢力争いの具である。

蘇我高麗(そがのこま)の子、蘇我稲目(そがのいなめ)は飛鳥時代の大臣で、物部氏物部尾輿(もののべおこし)と仏教の扱いで対立するが、当時は物部氏の力が強く中々決着が着かない。

しかし、五百三十六年(宣化元年)に宣化大王(おおきみ・天皇)の大臣(おおおみ)と成り、大王(おおきみ)の命を受けて尾張国の屯倉の籾を都に運び、凶作に備えた。

五百四十年(欽明元年)には大王(おおきみ・天皇)が欽明に代わり即位する。

蘇我稲目(そがのいなめ)は引き続き大臣(おおおみ)に止まり、欽明大王(おおきみ・天皇)の寵愛を得て娘の堅塩媛都(きたしひめ)小姉君(おあねのきみ)他、娘三人を全てを欽明大王(おおきみ・天皇)の妃として外祖父となり、最有力氏族と成る。

稲目の妻は葛城氏の出自と推測され、この宮廷内の閨閥にはその力も影響しているかも知れない。

欽明大王(おおきみ・天皇)に嫁した堅塩媛(きたしひめ)は七男六女を産み、その内・大兄皇子(おおえのみこ・用明天皇)と炊屋姫(かしきやひめ・推古天皇)が即位している。

小姉君(おあねのきみ)は四男一女を産み、そのうち泊瀬部皇子(はつせべのひめみこ・崇峻天皇)が即位している。

この六世紀・飛鳥時代には、蘇我氏の存在で大和と高句麗の関係も改善され、人的交流を含む文化交流も盛んに成って新たに高句麗系の豪族も誕生している。

狛江(こまえ)市や巨麻(こま)群などの地名は、高句麗系の豪族と縁が深い。

つまり地方を領する有力豪族(部族王・御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いは、その出身である彼らの祖国と日本列島・大和朝廷の関係に大きな影響がある時代だったのである。

蘇我馬子】に続く。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

関連記事
名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-10 21:06 | Comments(0)  

月読命(つくよみのみこと)

ちなみに、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」と「須佐之男(スサノオ)の命」の間には「月読(ツキヨミ・ツクヨミ)の命」と言う夜(闇)を支配する神がいる。

その三神の総称を三貴神(ウズノミコ)と呼ぶ。

月読命(ツクヨミ)は悪神ではないが夜の神で、暗い夜は昔の人々には恐ろしいので人々から敬遠されていた。

須佐之男(スサノオ)は、三番目の神なのだ。

つまり三貴神(ウズノミコ)で割りの良い役回りは、天照大神(アマテラスオオミカミ)だけである。

月読(ツクヨミ)命は、太陽の神・天照大神(アマテラスオオミカミ)に対して夜を支配する「月の神」とされている。

しかし文字をそのまま読むと「月を読む」、つまり太陰暦を使っていた当時の暦に於いては、当初は時間や歳月(年月日)を司る神かも知れない。

神話にある、三貴神(うずのみこ)の生まれ方であるが、イザナギの神がみそぎをして、その左目より「天照大神」右目より「月読命(ツクヨミ)」、鼻より「須佐之男命」の順と言う事に成っている。

「日本書紀・古事記」には、余り月読(ツクヨミ)命の活躍が無いので性別を決定づけるような描写はなく、男性説もあるが、比売(ひめ・女性)神の方がロマンチックではないだろうか?

我輩の推測では、壱与比売(イヨヒメ)の正体は月読の命(ツクヨミ・つきよみのみこと)である。

同一人物だが、その運命「始めに与えた」により、「壱与比売(いよひめ)」と呼ばれた。

壱与比売(いよひめ)については、所謂天孫三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神、月読命、スサノウ(須佐王)の三兄妹の一人・月読命であれば、天照大神とスサノウ(須佐王)も誓約(うけい)の姉弟であるから、月読命(つくよみのみこと)が他人ながら神話上に於いて姉妹の契りを結んでも不思議は無い。

一族の祖は大陸より来たりて朝鮮半島の任那(みまな)を経て壱岐島に渡り、日向に国を興す。

我が国最初の月読神社は壱岐島に有る。

卑弥呼以後、邪馬台国が安定した理由は、狗奴国(くなくに)の王(スサノウ/須佐王)と壱与比売(いよひめ)が誓約(うけい)を結んだからである。

壱与比売(いよひめ)の「政治の手腕」や「生涯」が無いのは、壱与比売(いよひめ)が邪馬台国の女王を引き継いだ時は、既に狗奴国(くなくに)に敗戦していて壱与比売(いよひめ)の名のごとく「初めて与えた(壱与比売)」の誓約(うけい)の結果である。

つまり邪馬台国・壱与の治世時は、既に狗奴国(くなくに)の属国として後の神武朝に吸収されて居たのである。

当時の月を基本とした暦(こよみ)、太陰暦と関わりを持ち十二支の一に数えられる兎(ウサギ)と、月の神・月読命(つくよみのみこと)や宇佐岐氏などの存在に影響されてか、「因幡の白兎伝説」は生まれた。

その「因幡の白兎伝説」をベースにした信仰が広がり、狛犬(こまいぬ)像代わりに兎(ウサギ)像を社殿前に設置するなど兎(ウサギ)を神の使いとする神社は日本中にかなりの数に登る。

尚、三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神、月読命、スサノウ(須佐王)は、「記紀(古事記日本書紀)神話」に於ける「)」の伝承的存在である事を心して分けて扱うべきである。

壱与比売(いよひめ)】に続く。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

関連記事
竹取物語(かぐや姫伝説)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-10 14:15 | Comments(0)  

織田信長の大結界と明智光秀

織田信長明智光秀に寄せる信頼関係は、抜群である。

光秀こそ自分を理解できる「唯一の存在」と信じていた。

残念な事に、独立させて大名に据えた三人の我が子さえ、その才は無かった。

才と人脈に於いて、一に明智、二に明智である。

まぁ、三、四が無くて五に羽柴秀吉程度だった。

本能寺の変」当時の信長軍団の、全体の動向を見ると、それが良く判る。

傍に居たのは、兵力一万三千の光秀指揮下の明智軍だけである。

信長自身は、「数百騎」と言う僅かな供回りしか連れていない。

明智軍こそは「信長旗本軍」であり、親衛隊代わりに信長が位置付けていたのだ。

「裏切られる」などとは、露の先も考えては居ない。

東国方面には同盟軍の徳川家康、(ただし本人は京にあって不在)対北条と戦闘中。

北国方面には柴田勝家が対上杉と戦闘中で、この柴田勝家の属将として、かっての「稚児小姓前田利家も一軍を率いて与力していた。

前田利家は越前・一向一揆の鎮圧(越前一向一揆征伐)に与力、平定後に佐々成政、不破光治とともに府中十万石を三人相知で与えられ「府中三人衆」と呼ばれるようになる。

その後も前田利家は、信長の直参ながら主に柴田勝家の属将として与力を続け、上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事して「本能寺の変」の頃には能登二十三万石を領有する大名と成っていた。

田信長四天王(柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益)の一人・滝川一益は、「本能寺の変」当時は上州上野国群馬郡・厩橋城(前橋城)に在って関東に一大勢力を築いていた北条氏と対峙していた。

中国方面には羽柴秀吉、対毛利兵力三万と戦闘中。

四国方面には我が子、神戸(織田)信孝、対長宗我部との戦闘に、副将として家老の丹羽長秀を付けて送り出している。

つまり四方同時に攻めているのだ。

常識的に見て、只相手を倒すのが目的なら、これだけ強引に戦線拡大しなくても兵力を集中して攻め、一つ一つ倒した方が結果効率が良い筈だ。

そうしない所に、信長の真の目的が見え隠れして居るのである。

四方同時に攻めさしているには、信長流の読みがある。

あえて信長のミスを言うなら、この時「息子可愛さ」に、本来畿内地区の押さえ担当である丹羽(にわ)長秀を、信孝の四国攻めに付けて、近くを明智軍だけにした事か。

この一事を見る限り、信長にも肉親への愛と言う平凡さはある。

それにこの無警戒は光秀への信頼の現れであり、巷で言われる様な信長の「光秀いじめ」があったなら、それほど無警戒に身近を光秀軍だけには出来ない筈だ。

これを追っていた我輩は「在り得ない」と確信する。

何故なら「本能寺の変」の原因を手っ取り早くする為、芝居の脚本書きが「手早い仕事をした」と考えるからである。

信長には、長年思い描いた深い意図があった。

この全方位の戦線は、裏を返せば「有力大名が、誰も京都に近付けない」と言う事で、四方への攻撃が、そのまま京都に手が出せない防衛ライン(結界)を引いた事になる。

敵も見方も、「光秀軍を除いては」の事である。

光秀謀反について、信長が光秀を「虐めた」とか「見限った」とかの怨恨説や恐怖説の類を採る作者は、この畿内周辺の信長軍の配置の全貌を見て、「どう説明しよう」と言うのだ。

恐らくは江戸期に書かれた芝居の脚本や草紙本を、後の者達が「鵜呑みにしたのではないか」と思われる。

そうした推察から、やはり光秀に、「全幅の信頼を置いていた」と考えるのが普通で有る。

例えばであるが、万一にも光秀を「亡き者にしょう」と言うなら、光秀に家康の供応役をやらせている間に光秀の軍主力に先発命令を出し、先に毛利攻めの援軍に向かわせる方が光秀は軍事的に丸裸で余程合理的である。

ここは信長に、「織田新王朝の旗本親衛隊に明智軍が偽せられていた」と見る方が信憑性が高いのである。

もう一つ、忘れられているのか説明が付かなくて触れていないのか、本能寺急襲において不可解な問題がある。

あれだけの軍事力、斬新な思考の持ち主である織田信長が、何故易々と光秀に本能寺急襲を赦したのか?

本来、信長が光秀を警戒していたなら、一万三千の大軍が三草(みくさ)峠で進路を都方面に変更した時に、放っていただろう間諜から第一報がもたらされなければならない筈である。

それがなかった。

では何故か、我輩の主張のごとく「光秀が織田軍団の諜報機関を完全に掌握していた」としか考えられない。

もしそうであれば、信長が全幅の信頼を置いていた証拠である。

妻を通しての、姑・妻木(勘解由)範煕(のりひろ)との縁は、光秀に影人達の絶大な信用を与えた。

雑賀は勿論、甲賀、伊賀根来、柳生、全て元を正せば勘解由(かでの)党の草が郷士化したものである。

その光秀は、土岐源氏・明智(源)の棟梁で、盟主に担ぐには申し分ない。

信長は、その光秀の影の力を、彼の能力と共に充分に知って、彼を右腕に使っていた。


信長の陰謀は佳境に入っていた。

光秀は、それに気が付いて戦慄した。

「今なら、お館様が都(京都)で何をなさっても誰も止められない。」

明智光秀が織田信長を討つ決断をしたのは、この信長の結界のためである。

ここで謎の一つだが、織田信長は何故本能寺に僅かな供廻りだけで宿泊したのだろうか?

実はこの事実さえも、明智光秀のあせりを誘ったのである。

畿内を制圧し「四方に軍を派遣した結界の中」とは言え余りにも無防備な信長の振る舞いだっが、けして増長しての事ではない。

それを敢えてした所に、信長の強い意志が有ったのだ。

この物語を最初から読んでいる方には理解され易いが、信長は既に「神」に成ろうとしていた。

安土城の天守に己の「神」を祀(まつ)った信長である。

この国の習慣では、諸国を「神の威光で統治する」には、帝は直接の武力を持たない。

周囲の武力を持った国主が帝を守るのである。

それを察した光秀は、終に信長討伐を決意する。

そうとは知らぬ信長は、四方に軍団を侵攻させる事で、事実上強固な「結界」を張り巡らして、絶対の自信の中に居た。

嫡男の信忠達を呼び寄せたのは、世継として「新皇帝宣言」に立ち合わせる為だった。

家康も武田平定の祝宴を理由に、僅かな手勢だけで京に呼び寄せてある。

家康が本国へ指示を出す前に事を終わらせて、新帝国を既成事実にする為だ。

光秀軍には、中国攻めの秀吉に合力(手助け)する名目で、カモフラージュさせての武装軍団の編成指示が出ていたのだ。

武田信玄亡き後、庶子で四男・武田勝頼(たけだかつより)が率いた甲斐・信濃を織田信長は平定し、千五百八十二年(天正十年)終(つい)に覇権を握る為の工作が最終段階に入っていた。

本能寺の変】に続く。

大結界については、【本能寺の変、なぜ起こったかを仮説する。】を御一読下さい。

関連記事
織田信長の虚け者(うつけもの)】に飛ぶ。
一所懸命(いっしょけんめい)と織田信長】に飛ぶ。
織田信長(おだのぶなが)と鉄砲】に飛ぶ。
天下布武(てんかふぶ)】に飛ぶ。
信長が明智光秀と羽柴秀吉を重用した訳】に飛ぶ。
信長の鉄甲船(てっこうせん)】に飛ぶ。
旗指物(はたさしもの)と戦(いくさ)】に飛ぶ。
松平元康(徳川家康)・三河支配権の回復の謎】に飛ぶ。
織田信長(おだのぶなが)の奇策・徳川秀忠】に飛ぶ。
安土城天守閣の謎】に飛ぶ。
三官推任(さんかんすいにん)】に飛ぶ。
本能寺の変(ほんのうじのへん)】に飛ぶ。

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-10 03:18 | Comments(0)  

冠位十二階

六百三年(推古十一年)、飛鳥時代の推古天皇(第三十三代大王/おおきみ・女帝)の御世に位階制度である冠位十二階は制定された。

日本で初めてつくられた冠位制度である冠位十二階は、第一回遣隋使派遣の成果だった。

推古天皇は甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として「万機を摂行させた」とされ、冠位十二階(六百三年)・十七条憲法(六百四年・朝廷貴族規範)を次々に制定して、「法令・組織の整備を行わせた」とされている。

ただしこの改革、当時の最有力者である大連(おおむらじ)・蘇我馬子(そがのうまこ)の支援なくして成立は考えられない所から、ある疑惑も浮かんで来る。

冠位十二階とは、大和朝廷に勤める人の上下関係をはっきりさせる制度で、氏や家柄だけにとらわれずに、能力や功績に応じて徳・仁・礼・信・義・智の六つの冠をそれぞれ大小に分け、十二階とし、冠の色を使い分け、可視的な身分秩序の冠位を与える事を制定した薬猟の当日は、諸臣は冠位十二階の位に従い、服の色は皆それぞれの冠の色と同じで、冠にかんざしを挿して正装して参加した。

ちなみに、一番位の高い大徳(だいとく)は、冠の色は濃紫、服も濃紫、かんざしは金を挿(さ)していた。

次が小徳(しょうとく/薄紫)で順次 ・大仁(だいにん/濃青)・ 小仁(しょうにん/薄青)・ 大礼(だいらい/濃赤)・ 小礼(しょうらい/薄赤)・ 大信(だいしん/濃黄)・ 小信(しょうしん/薄黄)・ 大義(だいぎ/濃白)・ 小義(しょうぎ/薄白)・ 大智(だいち/濃黒)・ 小智 (しょうち/薄黒)と制定されていた。

この冠位十二階の制度は、十七条憲法(朝廷貴族規範)と合わせて飛鳥期大和朝廷内の規律と統制の強化を狙ったものである。

冠位十二階と十七条の憲法制定の謎】に続く。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-09 16:55 | Comments(0)  

ツンツルテン

ツンツルテンとは、現代ではおおむね丈が足りない衣装の事、また、丈が足りない事が高じて剥げ痛んだ衣装を指す。

一五九八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の年に、潜行して闇に行脚する雑賀孫市(さいがまごいち)と旅芸人に身をやつした出雲阿国(いずものおくに)は「ツンツルテンと表現する丈の足りない子供の浴衣の様な衣装」で妙齢の美女が腿も露(あらわ)に「ややこ(こども)踊り」と言う子供の踊りを踊って爆発的人気を得る。

ツンツルテンはこの時のお囃子(はやし)の音を、阿国のミニ丈(こども)の格好と合わせたものが伝わって「後世に使われた」と言う説が在る。

一説に拠ると、この「幼子(ややこ)踊り(子供踊り)」の際に阿国が衣装の裾を子供らしく釣り上げて帯で押さえた所から「寸釣天(つんつるてん)」とも言われている。

俗説では坊主頭の事をツンツルテン」と表現するが、或いは客席からかいま見えた阿国の秘所に、あるべき黒いものが無かったのかも知れない。

それであれば、観客が大いに沸いても納得する。

客寄せ目当ての「元祖ミニ丈のファッション」と言う事である。

いや、腰を巻く布以外、下着を身に着ける習慣が無い時代だから、元祖ノーパン風俗芸能かも知れない。

いずれにしても、元祖にして最も有名なアイドル歌手兼踊り子で有るから、デビュー前のアイドル歌手や新人女優は、「見せてなんぼ、見られてなんぼの見世物になる」と言う事の覚悟にあやかって、人気が取れる様にお参りして置いた方が良いかも知れない。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

関連記事
ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)】に飛ぶ。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2009-01-09 06:01 | Comments(0)