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日本の性文化

昔、「夜這い」と言う、ロマンチックな響きを持つ性風俗が日本の農漁村のほぼ全域にあった。

いや、その昔の上代の頃には貴族社会でさえ「夜這い」はあった。

夜這いこそ私の愛したおおらかな日本の性文化である。

「夜這い」や「寝宿(ねやど)制度」などに代表される当時の身内感覚(共同体意識)の「村落共同体的性規範」を、現在の倫理観で安易に評価して決め付けないで欲しい。

村落の者が「村落共同体的性規範(夜這いや寝宿制度)」を行っていても、妙見信仰から始まった信仰行事の一環から始まった事で、宗教的な戒めの考え方が無い常識の範疇であり、そう異常な事には思われなかったからである。

人類は基本的な本能として他の生物同様に「生存本能」を備えている。

この生存本能の発露が「食欲」であり「性欲(種の保存本能)」であり、二次的なものとして危険を避けたり危険に立ち向かう為の「恐怖心」や「闘争心」なども無視出来ない右脳的な生存本能である。

そうした右脳的な生存本能の一つとして、人類はその種としての生い立ちから、「恐怖心」や「闘争心」を共有する事で生存率を上げる為に「共に生きる(共生意識)」と言う強い「帰属本能(群れ意識)」を持ち合わせて生まれて来る。

つまり人類は、「帰属本能(群れ意識)」を満足させないと、精神的安定を得られない。

そしてその「帰属本能(群れ意識)」は価値判断や心(精神)の安定に影響を与え、良きに付け悪きに付け「人生」と言う固体の一生に影響する。

実は、「帰属本能(群れ意識)」を裏打ちして保障していたのが、同じく「生存本能」に関わる「性欲(種の保存本能)」の結果とも言うべき「性交」と言う行為だった。

「性交」と言う行為は、「恐怖心」や「闘争心」とは好対照に位置付けられる「癒し」や「信頼の」共有に繋がるからである。

つまり日本に於ける村社会の性規範は、「帰属本能(群れ意識)」に起因する共生主義の磨き上げられた珠玉の結晶だったのではないだろうか?

今回「夜這い」を取り上げたのは、現在の社会が「本当に豊かに成ったのか?を、問う鍵に成る」と考えたからである。

物質的には、なるほど目に見えて豊かになった。

その代わり、私権だけが飛びぬけて主張されるようになり、人と人の繋がりと言う「精神的な豊かさ」を、数多く失っては居まいか?

ばかげた事に、私権を中心に発想する事しか考えられなくなり、国、地域、近隣、と破壊が進み、家族と言う最小単位でさえ破壊の危機に直面しているのではないだろうか?

戦前の日本社会は子沢山が一般的で、親が余り一人の子に愛情を注げなかったが、それでも子供達は「まとも」に育った。

それに引き換え、戦後の日本社会は少子化で親はタップリ愛情を注げる筈なのに、子供達が「まとも」に育たない。

我輩に言わせれば、その「まとも」に育たない原因は、戦後日本が採用した米国型自由主義化に拠って「群れ社会」から「孤独社会」に悪変してしまったからに違いないのである。

昔は、私権を中心に発想していたのは「権力者階級」だけである。

庶民は物質的には貧しかったが、互いに信じ合え、皆助け合って、素朴でやさしい庶民生活が営まれていた。

村社会、それは共用権的な生活意識であり、根本的な共生主義で成り立っていて、その原点にあったのが、「夜這い」の精神である。

日本の性文化の原点は、「誓約(うけい)神話 」の伝承から始まる神事である。

「誓約(うけい)神話 」は、桓武天皇の御世に編纂された「古事記日本書紀」の根幹を為すもので、つまり性交は異部族を一つの群れに和合し、新たな命を生み出す神聖な行為と捉えられていて、けして憚(はばか)り秘するものではなかった。

元を正せば、集団婚(群れ婚)だった縄文人(蝦夷/えみし)の原始信仰に、渡来して来たエロチックな教義の妙見信仰が習合した物である。

だが、それが平安時代に花開いて都市部では「妻問婚(つままこん) 」、「歌垣(うたがき)」や「暗闇祭り」の風習となり、村落部では、「夜這い(よばい)」や「寝宿(ねやど)制度」の風習となって、実質として村落部での日本の性文化は「おおらかな集団婚(群れ婚)状態」が永く続いたのである。

性欲本能と人類共生】に戻る。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

古事記日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝修験道師を使ってまで仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

詳しくは【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。
詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。
遺伝子関係の詳しくは【種の保存と遺伝子】を参照下さい。

関連・【里見八犬伝の謎】に飛ぶ。
関連・【琳聖(りんしょう)太子】に飛ぶ。

類人猿・ボノボ こそ、争いを回避する知恵の原点】

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-02-26 04:24 | Comments(0)  

大谷吉継(おおたによしつぐ/大谷刑部)の関が原

武将とは一族郎党の一群を率いる棟梁で、その決断能力に一族郎党の命運が掛かっている。

従って、参陣はしたものの関が原戦の当日までどちらに着くか迷う武将が在っても仕方がない。

哀しい事に、本当に石田方として獅子奮迅の働きをしたのは、石田三成の手勢・兵六千に加え、三成の盟友・手勢の兵四千の小西行長と大谷吉継(大谷刑部)の率いた平塚為広(ひらつかためひろ)との連合軍・僅か六千に足らぬ兵力の計一万六千だけだった。

近江国の武士・大谷盛冶と豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女で、東殿と言う母の間に幼名・慶松(よしまつ/大谷吉継)は生まれた。

大谷吉継は、母の伝で天正初め頃に秀吉に仕官して小姓となり、その律儀さで寵愛を受ける。

千五百八十三年(天正十一年)、明智光秀が起こした本能寺の変織田信長が落命すると、柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった時、吉継は長浜城主・柴田勝豊(勝家の甥/勝家の養子)を調略して内応させ、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てる。

賤ヶ岳の戦いから二年後、大谷吉継は従五位下・刑部少輔に叙任され、以後「大谷刑部」と呼ばれるようになる。

刑部少輔叙任の翌年の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられて功績を立て、その功績などで千五百八十九年(天正十七年)に秀吉から越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の三郡・五万石を与えられ、吉継は越前・敦賀城主となった。

大谷吉継は徳川家康とも親しく、淀君のプライドと秀頼可愛さも在って険悪化する豊臣(石田方)と徳川(家康方)との間に入って関係修復に動き奮闘するが、修復に失敗している。

関が原の合戦前には、三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられ、吉継は「勝機無く無謀」と説得するが、三成の固い決意を知り、敗戦を予測しながらも病(ハンセン病と伝えられる)をおして三成の下に馳せ参じ、諸大名を味方に取り込む事に腐心して西軍・豊臣(石田方)に与力している。

大谷吉継(大谷刑部)は、むしろ徳川家康の人柄、将たる者の器に心酔していた。

しかし人間には、例え九割、否九割五分心酔している相手にでも、己が信ずる譲れない五分がある。

それは馬鹿正直で不器用、純真を絵に描いたような石田三成の豊臣家を思う真情への共感だった。

病に冒されていた大谷吉継(大谷刑部)にしてみれば、滅び行く豊臣家に憐憫の情を抱いたのかも知れない。

ここに到って、豊家(豊臣家)拠りも徳川家が圧倒的な力を持っている事が、判らない大谷吉継(大谷刑部)では無い。

これは正に、大谷吉継(大谷刑部)と言う男の「生き様」の問題だった。

関が原に於ける戦闘では、吉継は関ヶ原の西南・山中村の藤川台に布陣、東軍・徳川(家康方)の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に決戦を挑んで奮戦の最中、小早川秀秋の裏切りに合い、一万五千の小早川勢と互角に戦って一進一退の所に、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の四隊・四千三百が東軍・徳川(家康方)に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けられて総崩れになり、「もはや挽回は不可能」と判断して自害している。

大谷吉継(大谷刑部)は、その関が原の奮戦振りと敗戦覚悟の石田三成への友情に殉じた生き様から、名声を博して今日に語り継がれている。

豊臣秀吉・恩顧大名リスト】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2009-02-23 03:59 | Comments(0)  

上杉景勝(うえすぎかげかつ)と直江兼続(なおえかねつぐ)

真偽の程は定かでないが、関が原合戦の端緒を開いたのは上杉家・執政・直江兼続の世に言う「直江状」だと言われている。

武将と言う生業(なりわい)は戦商売みたいなもので、命を的にするから知恵や経験が物を言う。

ある程度己に自信がある武将は、まだ出来上がっていない「これぞ」と思う少年に目をかけて己(自分)流の兵法を「一から仕込もう」と言う願望を持つ。

「己の全てを注(そそぎ)ぎ込む」となると、信頼関係が大事だから稚児小姓(衆道)として常に傍(かたわら)に置き、心身ともに愛情を注(そそぎ)ぎながら教え聡(さと)し有能な部下として育てる。

上杉家の天才武将官僚として今直語り草にされている直江兼続(なおえかねつぐ)は若かりし頃、「不敗名将・仁(じん)の人」と謳われた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾輝虎)稚児小姓(衆道)として育てられ、言わば上杉謙信(うえすぎけんしん)流武将学の継承者である。

直江兼続(なおえかねつぐ)の出自については諸説あり、資料的な確証はない。

千五百六十年(永禄三年)、兼続(かねつぐ)は上田長尾家重臣・樋口家の長男として生誕する。

父は上田長尾家々臣・樋口兼豊(ひぐちかねとよ)と伝えられる。

樋口兼続(ひぐちかねつぐ)は、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の稚児小姓(衆道)・近習として近侍する。

千五百八十一年(天正九年)、兼続(かねつぐ)二十一歳の時に、主君・景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。

兼続(かねつぐ)は主君・景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船(せん/おせんのかた)の婿養子(船には再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。

この婿養子の経緯で、兼続(かねつぐ)は直江兼続(なおえかねつぐ)を名乗る事に成った。

主君・景勝の信頼厚い直江兼続(なおえかねつぐ)は、上杉家の運営を執政として任されるまでに出世を果たした。


豊臣秀吉の要請で越後から合津に移った上杉氏(うえすぎうじ)・百二十万石は、上杉謙信から上杉景勝の代になっていた。

上杉景勝は秀吉政権下で五大老の一人として任じられ、その上杉家・執政・直江兼続と豊臣家直臣で五奉行の一人石田三成とは懇意な間柄だった。

この直江兼続と石田三成の二人が連絡を密にして徳川家康に上杉討伐の兵を挙げさせ、家康が東進している間に大阪で打倒家康の兵を三成が挙げ、「挟み撃ちにするる作戦ではなかったのか」と、世に兼続・三成の密約説がある。

直江兼続の祖は系図で言うと、遡れば平安末期の武将・中原兼光(なかはらのかねみつ/樋口 兼光)に辿り着く。

中原次郎兼光は木曽(源)義仲の家臣で、義仲の愛妾・巴御前の兄と言う方が判り易い。

木曽(源)義仲敗死後、中原兼光は源頼朝方に降伏するが斬首されるも、その遺児が残って樋口家末裔の樋口兼豊が上杉景勝の実父である上田長尾家・長尾政景(ながおまさかげ)に臣従、樋口家は上田長尾家執事或いは上田長尾家・家老とも言われ、樋口兼続は謙信の実姉(景勝の母)の推薦で景勝の小姓近習として五歳と言う幼い頃から近侍していた。

樋口(直江)兼続は、主君・上杉景勝の小姓近習時代に越後の虎と称された国主・上杉謙信の生涯敗れた事の無い戦ぶりと領国経営の生き様に感銘し、生涯その謙信を手本として上杉家を主導するに到っている。

兼続も偉いが、その才能を見込んで任せた主君・上杉景勝の度量の良さも、或いは国主たる者の持つべき才能かも知れない。

上杉景勝は上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれ、兄の死去で一旦は長尾家を継ぐが、生母が上杉謙信(長尾輝虎)の実姉・仙桃院だった為に、子供の居ない上杉謙信(輝虎)の養子と成っていた。

千五百七十八(天正六年)、一代の風雲児・上杉謙信が急死する。

その後、家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と相模の北条氏から養子に入った上杉景虎との間で御館の乱が起こり、景虎の自害に拠り兼続の主君・景勝が上杉家を相続し越後国主と成る。

その上杉家内乱の三年後に景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起き、跡取りの無い直江家を継ぐ事を主君・上杉景勝に命じられた樋口兼続は、その命により直江景綱の娘で直江信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)に入って直江家を継いで直江兼続を名乗り、越後与板城主となる。

直江家を継いで直江兼続と成った兼続は、主君・上杉景勝の信任厚く上杉家を取り仕切る事を任されて、合津国替えの時点では陪臣ながら出羽米沢に六万石の所領が与えられ、景勝より配下に預けられた寄騎の軍勢を加えると、上杉百二十万石の四分の一に相当する凡そ三十万石に相当する軍勢を与えられていた。

越後上杉家・上杉景勝(うえすぎかげかつ)と直江兼続(なおえかねつぐ)主従の会津及び米沢移封は、戦に強い上杉家を「なるべく都から遠避けたい」と同時に、北の竜・伊達政宗と関東に据えた徳川家康の間に楔(くさび)を打ち両者の動きを牽制させる事に在った。

新たに移封された上杉家の本領は伊達家が苦労して攻め取った旧領が大半で、特に直江兼続の移封先である出羽国・米沢城は伊達政宗の出生の地で、上杉家に本拠地を取り上げられた形となる伊達家としては上杉家とのわだかまりは強く、秀吉の思惑通りに両家の仲は最悪だった。

その後、関が原合戦の後処理(仕置き)で上杉家が米沢三十万石に減封されると、兼続は自らを五千石の知行に減らして家臣を説得、抱えた家臣を手放す事無く領国経営に力を入れて産品を増やし、石高以上の国力を生み出して後の世まで称えられている。

上杉家は減封を繰り返して十五万石時代、藩主実父・吉良上野介が元禄・赤穂事件(俗称・忠臣蔵)で討ち取られるなどしたが、なんとか江戸幕府体勢の中で生き残って行く。

上杉謙信(長尾輝虎)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2009-02-17 21:34 | Comments(0)  

ダキニ天(荼枳尼天)

我が国では、密教の権現・としてダキニ天(荼枳尼天)を仏教でも神道でも祀る。

ダキニ天(荼枳尼天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属(けんぞく/属神)とされる。

このヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられ、ダキニ天(荼枳尼天)は仏教の神となる。

元々は農業神であったが、インドの後期密教においては、タントラやシャクティ信仰の影響で、ダキニ天(荼枳尼天)は裸体で髑髏(どくろ)などを抱えもつ女神の姿で描かれるようになって、後に性や愛欲を司る神とされ、さらには人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。

ダキニ天(荼枳尼天)は、自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べると言われたが、そのダキニ天(荼枳尼天)が、大日如来(神道では天照大神)が化身した大黒天によって調伏されて、仏教神となって「死者の心臓であれば食べる事を許(ゆる)された」とされる。

日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、ダキニ天(荼枳尼天)は、性愛を司る神と解釈された為、その男女の和合で「法力を得る」とする、真言密教立川流と言う密教の一派が形成され、ダキニ天(荼枳尼天)を祀り、髑髏(どくろ)を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされる流派が興隆を極めた。

真言密教では、胎蔵界の外金剛院・南方に配せられ、形像は小天狗の白狐にまたがる形をしている為に「辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)」とも呼ばれ、天皇の即位灌頂儀礼において「ダキニ天を祀っていた」と言う記録も存在し、平清盛後醍醐天皇などがダキニ天の修法を行っていた事でも知られている。

インドに於いてはジャッカルが荼枳尼天(ダキニ天)の使い神の象徴とされていたが、中国や日本に伝わった時、インドに居たジャッカルが居ない為に狐が代用されて使い神とされた為に日本では神道の権現・稲荷(大明神)と習合する。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2009-02-13 04:40 | Comments(0)  

日米和親条約と不公平為替レート貿易(日米修好条約)

日米和親条約と日米修好条約は、米国海軍の黒船来航(くろふねらいこう)に拠る威嚇から始まった言わば外圧拠る嫌々締結だった。

ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)とは、千八百五十三年(嘉永六年)に米国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件である。

今から百五十二年前(千八百五十三年)、東京湾の奥深く、江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやって来る。

ペリー艦隊に武力で威嚇された幕府は、当然ながら攘夷派と開国・通商派の間でその対応に紛糾する。

この幕府が混乱した時に、登場した幕府の大老が井伊直弼(いいなおすけ)で、彼は狂人的な開国論者だった。

どうだろうか、この狂人的な開国論者・井伊直弼(いいなおすけ)が、熱狂的な親米論者の小泉純一郎氏と「良く似ている」と思うのは我輩だけだろうか?

マシュー・ペリーの来航に伴い幕府が孝明天皇の勅許無しで米国と日米修好通商条約を調印、開国に踏み切る前後の江戸幕府は、幕府の内部でも開国派と攘夷派の間で暗闘が始まっていた。

マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至って、「幕末」の機運が盛り上がって行く。

つまりこのぺりーが来航が、国内で起因した大問題ではない米国のサブ・プライムバブル崩壊と同じ外的要因の困難だったのである。

ぺりー来航は、百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為であった。

そして「エエジャナイカ騒動」が起こって不安を煽り立てたのもこの時期だった。

実はこのマシュー・ペリー提督との「日米和親条約」は酷い不平等条約で、その後の日本の未来に大きく暗い影を落とすものだった。

明治維新のきっかけとなった黒船来航については正しい見方が必要で、その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

つまりヨーロッパで食い詰めた人々が、開拓と称して他人(ネイテェブアメリカン)の土地にズカズカと乗り込んで米国を建国した経緯そのままの、武力で威嚇して富を収奪するのが米国流スタンダードの外交である。

通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商は、決済には倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出する事と成った。

これで米国の当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされる事に成るのである。

この権威失墜に乗じて、反幕派による「尊皇攘夷運動」を引き起こし、千八百五十八年頃の「安政の大獄事件」にと、歴史の場面が移り行く事になる。


千八百五十九年(安政六年)の冬、「日米修好通商条約」の批准交換の為に使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米する事となり、その護衛として随行船・咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣する。

この遣米使節の正使及び副使に、共に外国奉行及び神奈川奉行を兼帯していた新見正興(しんみまさおき)と村垣範正(むらがきのりまさ)が任命された。

外国奉行としては村垣が先任で在ったが、村垣は知行五百石、対して新見は知行二千石の格上大身で在った為、新見が正使に村垣が副使となった。

目付(監察官)には、秀才の誉れ高い小栗忠順(おぐりただまさ)が選ばれた。

小栗忠順(おぐりただまさ)は、密かに「日米修好条約」の不公平為替レート貿易を「日米和親条約締結」の場で是正させる目的を持ってタフな交渉をしているが、是正は成らなかった。

また、この遣米使節の随行船・咸臨丸には、後に江戸城無血開城に尽力した勝安房守(号は海舟)小栗忠順(おぐりただまさ)福沢諭吉(ふくざわゆきち)等が乗船していた。


日本史では一般に、このペリーの黒船来航事件から明治維新の新政府成立までを「幕末」と呼んでいる。

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by mmcjiyodan | 2009-02-09 20:51 | Comments(0)  

寛政の改革と天保の改革

田沼政治」が、行き過ぎた市場原理政策を採って数々の格差現象が生じ、幕府官僚の腐敗に非難が集中した反省から、千七百八十七年~九十三年の老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)による「寛政の改革」では、「質素倹約」と朱子学以外は禁止の思想統一である「寛政異学の禁止」を押し進めた大変厳しい改革をした。

所が、この政策で消費経済が落ち込んで大不況を招き、庶民は朱子学の思想だけでは食べて行けず庶民の生活が困窮して大失敗する。

これは長期政策ビジョンが無く、もぐら叩き的な安易な目先政策の感が強く、大いに稚拙さを感じる。

千七百四十一年~四十四年の老中・水野忠邦(みずのただくに)の「天保の改革」では、田沼時代の負の遺産を改善し、行き過ぎた市場原理主義の修正為に「株仲間の解散」や都会に片寄った労働力の強制的な帰農政策(強引な過疎対策)である「人返し令」を行うが、都会に定着した人々には既に帰農すべき故郷の地盤を失っていて不評を買い失敗している。

そして、一旦動き出した市場原理主義を沈静化させる為の「株仲間の解散」についても、危なげな投機ブームは有ったものの、バブル経済時代の大蔵省銀行局長 から通達された「土地関連融資の抑制について」による「総量規制」と同様に、人為的な急ブレーキが本来自然に起きるはずの景気後退を不適切に加速させ、ついには日本の経済の根幹を支えてきた長期信用全体を崩壊させてしまった事と酷似している。

つまり唯一成功した八代将軍・吉宗による「享保の改革」以外の、いずれも庶民に一方的な負担を掛ける改革は結果的に失敗している。

政権維持が唯一の目的だったから、「徴税を強化する策に終始」し、結果的に庶民の力を削いでしまったのだ。

こうした民意を反映させず、政権維持が唯一の目的の醜態を晒しながら政権にしがみ付く様(さま)は、何やら近頃の麻生自民党政権の断末魔の状態のようではないか?

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by mmcjiyodan | 2009-02-08 17:46 | Comments(0)  

越前・松平藩と結城秀康(ゆうきひでやす)

越前・松平藩の藩祖は、松平(結城)秀康である。

徳川家康(とくがわいえやす)二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉(豊臣秀吉)陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出され、関東八家として鎌倉以来の名門・藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末流・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。

長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎であるが、この謎解きは後ほどの家康出自「系図・双子竹千代」の章で解き明かす事にする。

ちなみに、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。

この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光忠であれば判り易い松平と徳川の家名の使い分けの読み方がある。

家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に行った。

それが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き、その後、徳川家康が征夷大将軍として天下の実験を握ると、加賀藩(百十九万石)薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。

当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。
だから、それなりの処遇は当然で、「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。

所が、秀康の嫡男で二代藩主・松平忠直の代になると、大阪夏の陣では一番の殊勲を挙げながら恩賞は茶入れだけで忠直は不満を募らせる。

家康・二男の大名家、将軍・秀忠の兄を祖とする親藩が余り大きくなるのは幕府にとっては不安要因で好ましくない。

しかし、そうした幕府の事情など、忠直は知った事ではなかった。

やがて忠直は乱行問題行動を起こし、千六百二十三年(元和九)年、豊後(大分県)に配流になって、越前福井藩(越前松平藩)の知行も五十万石に減らされ、秀康の子で忠直の弟「忠昌」が越後高田から転封して越前福井藩主(越前松平藩)を名乗る。

以後減らされ続けて一時は二十五万石と三分の一近くまで減り、結局最後は三十二万石と盛時の半分以下のままで終わった。

厳密に言うと、松平春嶽はこの「秀康の子で忠直の弟・忠昌」の末裔にあたる越前福井藩主(越前松平藩)である。

加賀藩(前田百十九万石)薩摩藩(島津七十五万石)、仙台藩(伊達六十二万石)や、後に誕生する御三家・御三卿が江戸期を通して安泰なのに比べると、不思議に奇妙な扱いである。

江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠、義直(尾張家)、頼宣(紀伊家)、頼房(水戸家)の五人だけで、この中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけだった。

実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?

つまり、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に松平(結城)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。

あるいは、二代将軍・秀忠が明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?

後世になると、徳川本家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

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by mmcjiyodan | 2009-02-07 05:40 | Comments(0)  

田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治

千七百六十七年~八十六年の第九代将軍・徳川家重政権下の「田沼意次の政治」では商業の発展に力を入れたが、賄賂をさかんにさせる結果になった。

事実を端的に言ってしまえば、「田沼意次の改革」は大商人を肥えさせただけだった。

何やらこの江戸幕府・田沼時代、現代のどこぞの政権の「IT企業だの、何とかファンド、偽装に条例違犯、儲けさえすれば手段は構わない」と言う風潮を増長させた「規制緩和」と言う名の「平成の失政によく似ている」と思うが、いかがか?

そして今、残念ながら「田沼意次の改革」と同様の大企業(大商人)を肥えさせるだけの政治家が、「なんとかミクス」と国民を騙しながら「財政出動」とかで赤字国債の残高を増やし続け、株価維持の為に年金積立金を株式市場に注ぎ込んでいる。

その彼は、田沼意次同様に歴史に悪政の名声を残す可能性が強いと思われる。


田沼意次(たぬまおきつぐ)はその父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)と親子に第二に渡っての成り上がりで、最後は老中職まで上り詰めた男である。

父・田沼意行は紀州藩の足軽だったが、第八代将軍の徳川吉宗に登用され六百石の小身旗本となる。

その継子・田沼意次は、父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)が小身旗本だった為に徳川家重の西丸小姓として抜擢され、その主君・家重の第九代将軍就任に伴って本丸に仕え、余程寵愛されたのか千四百石を加増されて計二千石、その後三千石を加増されて計五千石の大身旗本に出世、更に美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)の裁定に関わって、御側御用取次から一万石の大名に取り立てられる。

主君・徳川家重は千七百六十一年に死去するが、世子の徳川家治が第九代将軍を継いだ後も田沼意次への信任は厚く、昇進を重ねて五千石の加増を賜って一万五千石、更に御用人から側用人へと出世し従四位下に進み二万石の相良城主、千七百六十九年には老中格の侍従に昇進する。

力を着けた意次は、老中首座である松平武元などと連携して所謂「田沼時代」と言われる幕政改革を推し進め、田沼時代と呼ばれる権勢を握るに到る。

意次はその三年後の千七百七十二年には、相良藩五万七千石の大名に取り立てられ将軍侍従と老中を兼任している。

この「田沼時代」の施策が、商工業を活発にさせて「景気浮揚をさせよう」と言う、言わば日本にとって「初期資本主義」とも言うべきもので、幕府の財政は改善に向かい、景気も良くなるのだが、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄して都市部へ流れ込んだ為に農村の荒廃が生じてバランスが崩れ、現代日本で「大問題」とされている地域格差や限界集落的な様相を呈し、なお世の中が金銭中心主義になって贈収賄が横行する結果と成って田沼政治への批判が高まって「一揆・打ちこわしの激化」と成って行ったのである。

田沼意次の施策評価も立場が違えば評価は分かれる所で、ハーバード大学のジョン・ホイットニー・ホールが、その著書「tanuma Okitsugu」に於いて「田沼意次は近代日本の先駆者」と高評価しているが、これを逆説的に読むと、田沼意次が「市場原理主義」の「米国型勝った者勝ち」の近代経済手法の「さきがけ」と言えるのかも知れない。

つまり田沼意次の施策評価は、米国の「市場原理主義」の評価と重なって来るのだが、その米国型市場原理主義を「優」と評するか「不可」と評するかの結果は、そう遠くない時期に出そうである。

まぁ、他の失敗改革と唯一成功した八代将軍・吉宗の「享保の改革」との根本的な違いは、庶民を安心させる事に心を砕いた施策で在ったかどうかで、役人や政治家は上から目線で庶民から絞り取ろうとするのは「持っての外」で、痛みを伴うのが役人や政治家からでは無いから失敗するのである。

関連記述
三百諸侯(さんびゃくしょこう)・江戸時代の大名家】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-02-03 04:15 | Comments(0)  

新井白石(あらいはくせき)と正徳の治

江戸期に於ける政治改革は、徳川幕府の政権維持の為に、何度もリセット改革をしているので列挙しておくが、政権内部からの改革は、「常に失敗が多い」と言う事実がある事も判る。

最初は徳川綱吉(五代将軍)の治世の後に六代将軍・家宣(いえのぶ)、七代将軍・家継の二代に渡って行われた改革、新井白石の千七百九年~十六年の「正徳の治」である。

新井白石/新井君美(あらいはくせき/あらいきんみ)は、江戸時代中期の知行千石の旗本で、朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学を修めた学者である。

白石の幕閤内での身分は「本丸寄合の無役」で、その進言は一々側用人の間部詮房(まなべあきふさ)が取り次いでいた。

朱子学を重んじる「文治主義」が役職者の乱発で失敗し、幕府財政が極端に逼迫(ひっぱく)する。

「文治主義政策」とは官僚に拠る統治運営策で、官僚の権限が増すと同時にその人数が膨大に成る為、「官僚人件費の負担が増大する」と言うまるで近頃どこかで聞いた「天下りシステム」のような状況だった。

これは、学者の新井白石が自分と肌の合う官僚的な思考者を重用して幕政を改革しようとした事が裏目に出たのだ。

何故なら、一度浪費癖の着いた官僚達にその既得権を手放す気が無いのだから、幕府の財政が困窮しても自分達の「利」だけは必死に守る。

まるで現代日本の官僚政治と批判される政治構造と酷似しているではないか?

新井白石がその治世の拠り所とした「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、それは言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動する」からで、儒学者としての「学者のべき論」など通用しないのである。

日本人の理念では、政治を司る事を「祭り事(政り事)」と呼び、治世は神に代わって行う神事だった。

世間ではその時代の治世を評して「**治政の光と影」と評するが、日本人の心を映す坪庭の文化では、植栽木々や石組に「間(ま)」を設けて「影を創らない事」が絶妙の匠(たくみ)の技である。

「間(ま)」とは空(くう)を意味し、一見無駄な様だが「間(ま)」が在ってこそ調和が生まれて全体が生きて来る。

元々日本人の優秀な所は、細部まで神経を行き届かせる心配りの「物創りの才能」で、つまり名人の仕事はそうした影を創らず「調和を為す事」でなければならない。

ましてや祭り事(政り事)は尚の事、全体の調和を重んじ影を創っては成らないものである。

所が、片寄った思考の学者や権力者(政治家)が偏重した「祭り事(政り事)」をすれば、その政策仕事は調和に欠け、乱暴に「影ばかり」を創った駄作となる。

こうした「間(ま)」を持たない治世は僅(わず)かな勝ち組には光をあてるが、多くの人々から光を奪った悪政で、言うなれば「間抜けの不始末」と言うのが実態なのである。

勿論、世の中には学問の真髄を追及する学者は大いに必要で、そこから進歩は生まれる。

しかしながら的(まと)を絞って学問を狭義で深く追及して行く学者が、全体のバランスや世間の実態に目もくれず、己の学説だけで政治を行う愚を犯しては政治改革など成功する訳が無いのである。

まぁ、他の失敗改革と唯一成功した八代将軍・吉宗の「享保の改革」との根本的な違いは、庶民を安心させる事に心を砕いた施策で在ったかどうかで、役人や政治家は上から目線で庶民から絞り取ろうとするのは「持っての外」で、痛みを伴うのが役人や政治家からでは無いから失敗するのである。

関連記事
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by mmcjiyodan | 2009-02-02 15:58 | Comments(0)