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南総里見八犬伝の謎(その一)北辰信仰(妙見信仰)

ここに、その真言密教(東密修験)を題材とする象徴的な小説「南総里見八犬伝」がある。

その名作・「南総里見八犬伝」を紹介しよう。

この「南総里見八犬伝」が真言密教(東密修験)を題材に、弁天様(伏姫)と犬(八房)の畜生道(獣姦)が発端の物語である。

「南総里見八犬伝」の舞台となった安房の国(今の千葉県の一部)里見氏(さとみうじ)清和源氏新田家流の系図である。

詳細は不明だが新田(源)家基の子息、里見義実が安房国に移って土地の領主安西氏を追放し安房の領主となる。

慶長十九年(千六百十四年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉三万石に転封となったが、実態は配流と同じ扱いであった。

そして元和八年(千六百二十二年)、忠義が病死すると、「跡継ぎが居ない」として里見は改易された。

曲亭(滝沢)馬琴(本名:滝沢興邦)の「南総里見八犬伝」はこの里見氏の遺臣達が活躍する「架空の物語」である。

滝沢馬琴の筆に拠って八房(犬)と里見家の伏姫を主人公とし、伏姫(里見伏)は自ら八房の妻となる事で八房の怒りを鎮め、やがては菩提心へと導く物語である。

当初、八房と父の犬との戯れの約束、「敵将の安西の首を持ち帰れば伏姫をやる。」との約束に、八房が見事敵将・安西の首を持ち帰る。

所が、伏姫の父が「たかが犬との約束」とないがしろにし、約を破って八房の恨みを買い、里美家は次々に不幸に見舞われる。

伏せ姫が父の落ち度に心を痛め、約束を果たし、八房の怒りを静める為に「八房の妻」となる決意をする。

それで、安西との戦の功により、八房は伏姫と富山の祠(ほこら)で同棲するに至る。

実は、八房には伏せ姫のあずかり知らない過去の恨みによる陰謀が、怨念として付いていた。

それ故、伏せ姫を畜生道(獣姦)に導きて、この世からなる「煩悩の犬」となさんと、最初からの企みが背景にあった。

元々伏姫一人を畜生道(獣姦)に落とすのみならず、伏姫に「八房の子を孕ませよう。」と言う心づもりがあったのだ。

富山の祠(ほこら)で同棲した伏せ姫は、やがて懐妊し、八つの玉を産み落とす。

曲亭(滝沢)馬琴は情交なしの懐妊を書いているが、情欲によって伏姫を身ごもらせたなら、それはやはり畜生道(獣姦)の交わりなのではあるまいか。

「自らを犠牲に供する事によって男を救済する菩薩(弁才天)の慈悲」を、馬琴の筆により伏姫は、その物語に於いて体現している。

八房の情欲を転化させるアイテムとして、「法華経」の獣姦の過ちをも赦す「提婆達多品」が登場する事となる。

馬琴にも、流石に人間、それも清浄の姫君と獣の交わりを書くのは多いに抵抗があったのだろう。

曲亭(滝沢)馬琴(本名:滝沢興邦)のこの筆の舞台が、妙見信仰の地を選んだ事、中にダキニ天(稲荷様・稲成り)と思われる狐の化身や北辰信仰(妙見信仰、天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰)など、明らかに密教から題材をとっているのだ。

この物語、近世(江戸期・文化・文政時代)に入ってから書かれているが、その原点は陰陽修験道に関わる「昔話の伝承にあった」と見る。

馬琴が付けた「伏姫(ふせひめ)」の意味は、明らかに「山伏(修験者)の(所有する)姫」を意味している。

伏せ姫にあたる女性が何者かは思い至らなくても、八房はまさしく陰陽師勘解由小路党の「大神(おおかみ/狼)」であり、八つの玉(八人の子)は皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血統を持つ「優秀な存在」と位置就けられていたのである。

南総里見八犬伝の謎(その二)修験人身御供伝説】へ続く。
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by mmcjiyodan | 2009-03-29 03:54 | Comments(1)  

南総里見八犬伝の謎(その二)修験人身御供伝説

南総里見八犬伝の謎(その一)北辰・信仰(妙見信仰)】へ戻る

千葉県館山市上真倉に妙音院(安房高野山妙音院)がある。

天正年間に、安房の国の大名・里見義康公の発願により紀州高野山の直轄別院・里見家の祈願寺として開山された南房総唯一の古義(高野山)真言宗の寺である。

つまり、里見氏(さとみうじ)は真言宗との縁が強い。

妙音院も、紀州根来寺内の密教修験院の名を取った妙見信仰の証である。

その妙音院からちょうど北東(鬼門)の方角に意味深な地名がある。

南房総市の一角に旧安房郡富山町があり、その富山町の平群地区にある地名が、「犬掛」と言う、まるで八犬伝が実際にあったがごとき地名である。

【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。
我が国では、四足動物を人為的に交尾繁殖させる行為を【掛ける】と言う。

この【掛ける】の語源であるが、歌垣の語源は「歌掛け」であり、夜這いも「呼ばう(声掛け)」である。

こちらは滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の話であるが、「走る」の意味も「駆ける」であるが、当てる字が違う。

伏姫はフィクションで実在しないので、誰か女性が忌み祓いの為に犬を「掛けられた」と言う「昔話(伝承)が存在した」と解釈するのが妥当である。

そうなると、昔話の方は修験山伏の仕事と解釈するのが妥当である。

勿論「南総里見八犬伝」は滝沢馬琴の創作小説であるが、その題材の基に成った妙見信仰の伝承が在り、その伝承の地が安房の「犬掛」だったのでは無いだろうか?

しかしこの獣姦、現代の感覚で考えてはいけない。

山犬は大神(狼)であり、犬公方と言われた五代将軍・徳川綱吉により、「生類哀れみの令」が発布される時代だった。

つまり、神の子を宿す神聖な呪詛である。

しかも「八っ房」と「伏姫」との「犬掛け」はあくまでも伝承であり、現実には天狗伝説に在るように天の狗(てんのこう/てんのいぬ)=修験山伏の行者の仕業なのである。

下総国(千葉県)に在る地名「犬掛」は当主・里見義豊が叔父(父の弟実堯)の長男・里見義堯との家督相続の戦いに破れ、自刃した不吉な古戦場跡で、鬼門の方角に当る。

今以上に信心深い時代の事である。

鬼門封じの呪詛を、里見家が修験道に命じて、密かに執り行った可能性は棄てない切れ。

或いは滝沢馬琴が、その土地に密かに伝わる「人身御供伝説の噂」を参考に、作品に取り入れた可能性も棄て切れないのである。

つまり、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は、山犬(狼=大神)信仰と人身御供伝説を江戸時代の当世風にアレンジした小説である。

里見八犬伝のベースが陰陽修験道をモチーフにしているなら、主要登場人者・伏姫(ふせひめ)の名称にしても修験道師の別称・山伏(やまぶし)から取った山伏姫なのかも知れない。

提婆達多品(デーヴァダッタ、或いはダイバダッタ品)の観世音菩薩について、弁財天が「観世音菩薩の応変」と見なされる。

この両者(弁才天と観世音)は、「自らを犠牲に供する事によって男を救済する存在」と言う共通性を持っている。

真言宗の空海天台宗の円珍の行く所には多く弁才天の伝承が残っているそうだ。

言わば,修行を積んだ徳の或る僧も、人の子で、尊い高僧が説法の道すがら接した娘達は、生身の人間(女性)ではなく「神仏と接した」とする立場上の便宜性だったのか?

それとも、彼らは特別な秘法(呪詛)によって、村娘や町娘を浄化し、その土地の為に、新たに「生きた弁天菩薩」を作り出したのかも知れないが、真相は判らない。

弁財天はその原型であるインド土着の女神・サラスヴァティーの頃から、性の女神としての側面をもっていた様で、そのイメージは日本に入ってきてからも健在だった。

なかでも江の島弁財天は裸形弁財天で有名で、江の島の本宮とされる洞窟は弁財天信仰が持ち込まれる以前から、女性の性器や子宮に見たてられ「女陰信仰が盛んだった」と言う。

この辺りの下地が、「交わりによって相手を浄化する」と言うイメージを喚起したのかも知れない。

その根底にあったのが、「民族の血の同化」と言う国家プロジェクトと言う事になる。

サンスクリット語でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神 インドのもっとも古い聖典リグ・ベーダに於いて、始めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の神話である。

その神話で、八歳の娑竭羅龍(サラスヴァティー)王の娘が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多(デーヴァダッタ)品」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い事からして、竜は獣と言う扱いらしい。

獣も仏法諸天の仲間で有り、獣(竜)でも成仏できるのなら、畜生道(獣姦)に落ちても成仏できる理屈である。

滝沢馬琴の里見八犬伝の「八」は、日本古来の信仰から「八」を導いている。
八犬伝(八剣士)であり、犬の名は八房である。

日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。
また、犬に関わる人身御供伝説は、日本全国に数多く存在する。

南総里見八犬伝の謎(その一)北辰・信仰(妙見信仰)】へ戻る。
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詳しくは【天狗修験道と犬神・人身御供伝説】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2009-03-29 03:53 | Comments(0)  

弘文天皇(こうぶんてんのう/追認皇位)

弘文天皇(こうぶん/第三十九代天皇)は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の第一皇子・大友皇子(おおとものみこ)である。

大友皇子(おおとものみこ/弘文天皇)は、父・天智大王(てんちおおきみ)の下で六百七十一年(天智十年)に太政大臣となり、その政務を補佐するも、後に皇位を継いだかどうかが確かではない。

大友皇子(おおとものみこ)は、天智大王(たんちおおきみ)の崩御(ほうぎょ/亡く成る)後、天智後継者として統治した。

だが、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が、紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)系の地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、壬申の乱(じんしんのらん)を起こした。

この「呉族系豪族を味方にした」との日本書紀の記述や大海人(おおあま)の名から大海人皇子(おおあまのみこ)は百済系・呉族と解される。

だが、実は大海人皇子(おおあまのみこ)が新羅系・加羅族の出自では天智大王(てんちおおきみ)のあとは血統として継げないので、「呉族系を装った」と言う疑惑を感じる。

異説によると、皇統外の天武天皇(大海人皇子・おおあまのみこ)が「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて、天智天皇の弟に納まり、第四十代天皇を継いだと言う「疑惑」である。


壬申の乱(じんしんのらん)に於いて、大友皇子(おおとものみこ)は叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。

先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、大友皇子(おおとものみこ/弘文天皇)は即位に関連する儀式を行う事は出来なかった。

その為弘文天皇(こうぶんてんのう)は、歴代天皇とみなされてはいなかった。

そして長い事、弘文天皇(こうぶん天皇)は天皇としては公文書から除外されて来たが、千八百七十年(明治三年)に諡号を贈られ、ようやく第三十九代天皇として追認皇位を認められた。

そうした経緯から、大友皇子(おおとものみこ)と表記される事も多い。


「日本書紀」には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記されている。

ただし漢詩集「懐風藻」や「万葉集」には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、これを支持する学説もある。

また、皇位には天智大王(てんちおおきみ)の皇后・倭姫王(やまとひめのおおきみ)を立て、自らは皇太子として称制していたとする説もある。


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by mmcjiyodan | 2009-03-26 12:59 | Comments(0)  

豊臣(羽柴)秀長(とよとみのはしばひでなが)

豊臣秀吉の名軍師として江戸期にでっち上げられた竹中半兵衛黒田勘兵衛と違い、この両名よりも、大納言豊臣秀長(羽柴 秀長・とよとみのひでなが・はしばひでなが)の方が実質の軍師らしく兄・豊臣羽柴秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せて天下統一に貢献した。

さて、本筋の秀吉の名軍師・豊臣羽柴秀長は幼名を小竹(こちく)、長じて小一郎と言い、秀吉の異父弟(一説には同父弟)とするのが一般的である。

秀長は、秀吉がおね(ねね/高台院)との婚礼後に足軽小頭に出世したのを機会に声を掛けられて臣下となった。

しかし秀長の父・竹阿弥(ちくあみ)は織田信長の父・織田信秀同朋衆(雑務や芸能にあたった御坊主衆)で、「武士の心得など無かった」と言われる秀長が、僅かな期間で秀吉の補佐をする武将になったのは稀な才能と言えるのではないか。

秀長は生来の知恵者に生まれたらしく、度重なる兄・秀吉の戦闘作戦には常に傍らに在って指揮を補佐し、「的確な助言に定評が在った」と言われている。

温厚な人柄で、兄を立て兄を助ける補佐役に徹し天下統一に貢献、後には名調整役として各大名からも頼りにされる人格者であった。

千五百八十三年(天正十一年)木下小一郎から羽柴長秀を名乗り、従五位下美濃守に叙任され、翌年には長秀から秀長に改める。

羽柴秀長は、秀吉の天下掌握後は大和国の郡山城に入り、百万石を超える大身となり、千五百八十六年(天正十四年)従三位に昇叙して権中納言、翌千五百八十七年(天正十五年)従二位に昇叙し、権大納言となり大和大納言と呼ばれる。

天下を掌握した秀吉は、その他にも乏しい親族を次々に取り立て、甥の秀次を近江国八幡四十三万石、秀勝を丹波国亀山城主にそれぞれ取り立て、身内で固めて淀の方(茶々)との間に出来た実子の鶴松を後継者と定めた。

この辺りから豊臣家に暗雲が漂い始める。

秀吉の両手とも知恵袋とも評された、豊臣秀吉の弟・大納言秀長の病である。

千五百九十年(天正十八年)に天下統一を果たした翌年から四年の間に、頼りになる弟の大納言秀長を始め、長子の鶴松、丹波国亀山城主の秀勝そして秀長を継いだ秀保が相次いで死んでしまった。

この一連の「秀吉の身内」の相次ぐ死、誰かの呪いが効いているのでなければ、明智(南光坊)雑賀孫市の仕掛けた陰謀、病死に見せかけた「暗殺ではない」と言う証拠はない。

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by mmcjiyodan | 2009-03-21 11:47 | Comments(0)  

魏書(魏志倭人伝)原文詳細

魏志倭人伝は、「三国志」と言う中国の正史中に存在する「魏書(全三十巻)」に書かれている「東夷伝中の倭人の条」の略称である。

日本に於いて一般に知られる通称が「魏志倭人伝」と呼んでいる訳である。

魏書(魏志倭人伝)の記述に拠ると、邪馬台国卑弥呼の記述は・・・、始めて一海を渡る千余里(始度一海千餘里)、対馬(つしま)国に至る(至對馬國)、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、離島の島で(所居絶㠀)、広さ四百里余りの島で(方可四百餘里)。土地平坦で無く森多く道は獣道で(土地山險、多深林、道路如禽鹿徑)。戸数は千戸余り(有千餘戸)。良い田無く海産物を採って生活している(無良田、食海物自活)、乗船南北市糴と、対馬(つしま)国の事から始まっている。

また南へ一海を渡る千余里(又南渡一海千餘里)、名曰瀚海、一支国に到る(至一大國)とされ。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。広さ三百里余り(方可三百里)。多竹木叢林。戸数は三千戸ほど有る(有三千許家)。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

この一支国を壱岐島(いきのしま)とする説があるが、対馬国が現在の対馬であれば、対馬国から南へ一海を渡る千余里の記述には「長里使用説(400〜500m)」また「短里使用説(75m〜90m)」のいずれでも一致しない。

また一海を渡る事千余里(又渡一海千餘里)、末廬(まつら)国に至る(至末廬國)。四千余戸あり(有四千餘戸)、山海に浜(そ)うて居る(濱山海居)。草木茂盛し、行くに前人を見ず(草木茂盛、行不見前人)。

末廬(まつら)国の所在は、海岸に沿うている陸地続きの国と比定される。

伊都国の記述ついては「東南へ陸行すること五百里にして伊都国に到る(東南陸行五百里 至伊都國)。官は爾支(にし)と曰(い)う(官曰爾支)。副は泄謨觚(せつもこ)と柄渠觚(ひょうごこ)と曰(い)う(副曰泄謨觚・柄渠觚)。千余戸有り(有千余戸)、世々王有るも(丗有王)、皆女王国が統属す(皆統属女王國)。郡使が往来する時、常に駐(とどまる)所なり(郡使往来常所駐)。

これが、魏志倭人伝に記された伊都国の位置であるが、「東南へ陸行」の基点が末廬国かも定かではなく、その決め手が記述の順番とするなら別の記述箇所でまた矛盾が発生してしまう。

伊都国については「九州・糸島半島説が有力だ」と言うが、糸島半島は九州博多湾の入り口に位置し、地勢学的にはむしろ上陸地点の方が良く似合う。

所が、水行ではなく陸行で東南へ五百里とあり、上陸地点は不明で起点が判らないがこの事には大きな謎が有り、「短里使用説(75m〜90m)」ならば何故陸行なのかの説明が着かず、「長里使用説(400〜500m)」ならば陸路をかなり行く事には違いない。

しかも末廬国は、一旦糸島半島を通り過ぎた所(福岡県或いは佐賀県)にその所在地を比定されていて、既に記述順と矛盾している。

いずれにしても糸島半島が伊都国と比定し得るのなら、他の国々の比定は容易な筈で、何故か魏書に合わせる為に行程が行ったり来たりして辻褄を合わせる感が強い。

更に魏書(魏志倭人伝)では、東南百里、奴国に至る(東南至奴國百里)。官曰兜馬觚、副曰卑奴母離。戸数は二萬餘戸有り(有二萬餘戸)。

東行百里、不弥国(ふみ/不彌國)に至る(東行至不彌國百里)。官曰多模、副曰卑奴母離。その戸数千家余り(有千餘家)と百里程度の距離が続き、末廬国(まつらくに)も、伊都国も九州北部の国と比定するのであれば、「短里使用説(75m〜90m)」を採れば九州北部数キロ~数十キロの範囲に都市国家がひしめき合って居て不自然である。

当時既に征服部族の国々は、少なくとも日本列島の西半分くらいまで版図を広げていた筈で、魏書で紹介される国々が九州北部に小締まりとまとまっている事にも疑問を感じる。

そして魏書(魏志倭人伝)の行程はここ(不弥国)から大移動が始まり、南へ水行二十曰で大国の投馬国に至り、(南至投馬國、水行二十曰。)官曰彌彌、副曰彌彌那利。その戸数は五万餘戸(可五萬餘戸)に上り、この投馬国の戸数五万戸は、当時としては相当に人口が大きい。

更に南へ水行十曰、陸行一月(水行十曰、陸行一月)で、邪馬台国(邪馬臺國)に至る(南至邪馬臺國)、女王の都する所(女王之所都)。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳〓。可七萬餘戸(七萬餘戸)。

この邪馬台国所在地を九州北部と比定する説があるが、それでは「南へ水行十曰、陸行一月」をどう解釈すれば良いのだろうか?

水行十曰、陸行一月は大旅行で、とても邪馬台国の所在地を九州北部の地と比定する事は出来ない。

つまり糸島半島を伊都国と比定すると、明らかに前後の国々の記述とが符合しない。

つまり伊都国糸島説を採ると、末廬(まつら)国や不弥(ふみ)国など他の国との位置関係が怪しくなり苦肉の策で九州北部を行ったり来たりの行程にさせなければ成らなくなる。

遺跡その他の物証も少なく、魏書(魏志倭人伝)の記述頼りにも関わらず魏書全体の国々の記述が一致しないのであれば糸島半島伊都国説の確証とは言えず、確信は得られない。

そこで邪馬台国畿内説や、吉備・出雲説などが出て来るのだが、そうなると伊都国や末廬(まつら)国、不弥(ふみ)国の所在地が九州北部とする事も決定的な事には成り得ない。

もっとも我輩は元々魏書には懐疑的で、魏書(魏志倭人伝)の記述にどこまで信憑性があるかさえ不明であり、この「魏書」の記述が正しく正確で在れば邪馬台国と卑弥呼はとっくの昔に特定されていた日本史の筈である。

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by mmcjiyodan | 2009-03-21 00:56 | Comments(0)  

天孫降(光)臨伝説

天孫降(光)臨伝説は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された「記紀神話(古事記日本書紀)」から始まっている。

そして記紀神話(古事記・日本書紀)の伝説は、明快に言ってしまえば「渡来氏族に依る日本列島経営の為の陰謀」である。


天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である天孫・ニニギの命(みこと)が、葦原中国(アシハラナカツクニ・天界に対する地上の国)の平定を受けて、古事記に拠より葦原中国の統治の為に高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記される日本神話の説話である。

しかし、この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。

つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。


天孫降(光)臨伝説の「記紀神話(古事記・日本書紀」は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・天孫ニニギノミコトと九州南部に勢力を持っていた隼人族(先住弥生人)の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が、誓約(うけい)に拠って結ばれた事に始まる。

九州南部に勢力を持っていた隼人族(ポリネシア系縄文人)のオオヤマツミを父に持つ木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、ニニギの子・ホデリ(もしくはホアカリ)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産む。

この三柱の内、ホオリの孫が初代大王(天皇)の神武大王(じんむおおきみ・天皇/ヤマト・イワレヒコ)である。

つまり皇統の祖は「天から舞い降りた神の子孫」と言うのである。

また日本書紀には、初代・神武大王(おおきみ/天皇)の五代前の先祖天孫・ニニギの命(みこと)が亡くなられた時、「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。

ここで言う加耶(かや)は、日本で呼ぶ任那(みまな)=伽耶諸国(かやしょこく/加耶)の任那加羅の勢力範囲の事で、伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、三世紀から六世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部に於いて、百済(ペクチェ/くだら)と新羅(シルラ/しらぎ)に挟まれた洛東江(ナクトンガン/らくとうこう)流域を中心として散在していた小国家群を指し、新羅においては伽耶・加耶と言う表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記されていた。

どうやら日本列島に渡り来た征服部族の多くが、この伽耶諸国(かやしょこく)=任那加羅(みまなから・加耶)出身だった為に、後世の日本人が一時史実に反して「任那日本府(みまなにほんふ)」なる幻の日本領を古代史に於いて勝手に創り上げた疑いが強い。

数千年前の群れの長(おさ)から続いている事だが、統治者にしても宗教家にしても、本来の人間の能力には超常現象的に他人をひれ伏させるほどの大した差が在る訳ではない。

そこで、恐がらせたり尊敬させたりにはそれなりの作為や演出、つまり誇大な表現や奇跡創作に依る大衆に認めさせる為のカリスマ(超人)性の、「でっちあげ」の臭いは否めない。

しかし敢えて言えば、側坐核(そくざかく/脳部位)を満足させ心の安定を求める為に、そのカリスマ(超人)性に依頼心を抱く大衆も数が多いのである。

国家を形成する重要要件の一つが帰属意識(きぞくいしき)である。

人間には帰属意識(きぞくいしき)があり、その帰属意識(きぞくいしき)は人種(民族意識)だったり国(国民意識)だったり、同一宗教や勤務先企業だったりするのだが、その根底に在るのは「人間が群れ社会の生き物である」と言う極原始的な本能にある。

また、その帰属意識(きぞくいしき)の形成過程に影響を与えるのが、この「群れ社会の生き物」と言う原始的な帰属本能と「集団同調性(多数派同調)バイアス」と言う心理効果の利用である。

この集団同調性(多数派同調)バイアスに関してだが、多くの場合は宗教指導者や為政者、またはその両者が協力して「信仰心や民話の刷り込み」が応用され帰属意識(きぞくいしき)を醸成して行く事になる。

天武帝桓武帝が進めた古事記日本書紀の編纂とその天孫降臨伝説を広める陰陽修験道師の活動は、正に帝の下に国家を統一させる為の国策だった訳である。

この「記紀神話(古事記・日本書紀)」の天孫降(光)臨伝説を列島の隅々まで遍(あまね)く喧伝した組織が、天武(てんむ)天皇(第四十代)の命を受けて役小角(えんのおずぬ)が組織した陰陽修験組織を、桓武(かんむ)天皇(第五十代)が陰陽寮として正式に朝廷組織に組み入れて天孫降(光)臨伝説の喧伝に活用したのである。

古事記日本書紀に於ける日本の天孫降臨神話は、天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)の「尻久米(しりくめ)縄」から始まっている。

古事記・日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝修験道師を使ってまで仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

尚、三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神、月読命、スサノウ(須佐王)は、「記紀(古事記日本書紀)神話」に於ける「)」の伝承的存在である事を心して分けて扱うべきである。

まぼろしの地/・任那(みまな)】に戻る。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

詳しくは「天孫降(光)臨伝説と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」を参照下さい。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

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by mmcjiyodan | 2009-03-19 20:05 | Comments(1)  

比企能員(ひきよしかず)の変

鎌倉初代将軍・源頼朝の落馬死(??)により千百九十九年(正治元年)に家督を継いだ鎌倉二代将軍・源頼家には正室は居なかった。

一般的に妾妻とされる将軍・頼家に寵愛された「若狭の局(わかさのつぼね)」は、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(ひきよしかず)の娘である。

比企氏が頼朝源氏との関わりが深かった為に権力の中枢に近づき、結果、北条氏と比企氏が鎌倉幕府の指導権を巡ってぶつかる事になる。

比企尼(ひきのあま)は伊豆流罪と成っていた流人時代の源頼朝を「支援していた」と言う。

その関係から比企氏は、頼朝旗揚げの早い時期から頼朝を支えた御家人として活躍している。
流罪中も乳母・比企尼(ひきのあま)支援を受けていた源頼朝は、比企尼(ひきのあま)の猶子(ゆうし/養子)・比企能員(ひきよしかず)を側近として重用、比企氏の一族は、比企尼長女・丹後内侍(たんごのないし/安達盛長室)の娘が源範頼に嫁ぎ、河越重頼に嫁いでいた比企尼次女・河越尼は二代将軍・源頼家(頼朝・嫡男)の乳母と成って娘(本書では仮名・玉御前)が源義経に嫁いでいる。

尼御台・北条政子が、我子である頼家に敵対した訳は、「若狭の局(わかさのつぼね)」を寵愛する頼家をめぐる嫁姑の確執に止まらず、北条氏と比企氏と言う氏族の論理が根底に有ったからである。

鎌倉二代将軍・源頼家が家督を継いで間もなく、北条時政北条政子の野望が噴出、北条氏など元老の干渉も多く老臣会議制を敷かれて将軍独裁を封じられた。

更に千二百三年(建仁三年)に頼家が罹病した時、相続の事が議せられて、北条時政と母政子(時政の娘)が、頼家の実子・一幡と弟実朝(千幡)に分譲する案を出した。

若狭の局が頼家との間に成した子・一幡が正式な後継ぎになると、比企氏の力が北条氏を上回りかねない危機感を募らせたのは北条時政・政子の親子だった。

これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父・比企能員(ひきよしかず)と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化して行った。

二代将軍に任じた頼朝の嫡男・頼家は、将軍とは名ばかりの立場に置かれたが源氏の実権の回復に努め、北条父娘の圧倒的勢力に対抗して、妻の実家「比企家」を頼り、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、返えって北条方の攻撃を受け、小御所(一幡の館)に篭城し抗戦するが、比企能員と頼家の実子・一幡は焼き討ちにされて殺され、比企氏は時政に滅ぼされ、頼家は退任させられ、伊豆国・修禅寺に幽閉されてしまった。

伊豆の修善寺に流され、幽閉されていた二代将軍・源頼家は、翌年の千二百四年(元久元年)に北条時政の密計により、伊豆国修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯において、二十三歳と言う若さで刺客に暗殺された。
頼家の将軍在位は、僅か四年であった。

「若狭の局」は、「北条政子に殺された」と言える。

夫の頼家との息子「一幡」までも焼き討ちにされ、悲しみのあまり悲劇の入水自殺(自殺と成っているが暗殺説もある。)をして居る。

なお、この事変、世に言う比企能員(ひきよしかず)の変であるが、かなり胡散臭いのである。

北条氏征伐を企てたとされる比企能員(ひきよしかず)が、敵である筈の北条時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、歴史学者からは「比企氏の変」自体が北条氏の「でっちあげであろう」との見方が為されている。

比企能員(ひきよしかず)】に戻る。

関連記述
源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)】に飛ぶ。
源実朝(みなもとさねとも/鎌倉幕府三代将軍)と鶴岡八幡宮暗殺】に飛ぶ。
若狭の局(わかさのつぼね)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-03-16 13:06 | Comments(0)  

壇ノ浦の戦いと松浦(まつら)水軍

瀬戸内海を西に下りながら戦った源平最後の決戦は、壇ノ浦の戦いだった。

この戦いに参戦した西国方(平家方)水軍の中に、北部九州の水軍、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 「松浦(まつら)党」が居た。

その松浦(まつら)党の中に、平清盛側近の松浦高俊(まつらたかとし)が居た事の縁で、松浦(まつら)水軍一族こぞって西国方(平家方)に着いていた。

つまり松浦(まつら)党は、瀬戸内海に於ける「一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)」、「屋島の戦い(やしまのたたかい)」、「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」と言う一連の源平合戦に西国方(平家方)として参戦していた。


この壇ノ浦の戦い、勝敗の帰趨(きすう)を決めたのが実は松浦(まつら)水軍主力の寝返りだった。

平家に反旗を翻した水軍・松浦(まつら)党は、伊予水軍・河野氏と連携して平氏討伐の功を挙げる。


松浦(まつら)水軍のルーツは、嵯峨源氏の渡辺綱を始祖とする渡辺氏流の分派とされ、摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した。

渡辺綱(源綱)の子・奈古屋授(渡辺授、源授)の子が松浦(まつら)党の祖・松浦久(渡辺久、源久)で、肥前国松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり、松浦郡に所領を持って松浦の苗字を名のる。

本流の摂津の渡辺党は摂津源氏の源頼政一族の配下にあったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、治承・寿永の乱(源平合戦)においては当初は平家方の水軍であった。

この経緯だが、松浦水軍は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦(まつら)氏系のものが大半だが、一部に前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で兄・安倍貞任(さだとう)と共に戦って破れ、奥州安倍氏の生き残り安倍宗任の三男に安倍季任(あべのすえとう)がいた。

安倍季任(あべのすえとう)は肥前国の松浦に行き、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 松浦 (まつら)水軍大名の松浦氏・松浦党に婿入りして娘婿となり松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)と名乗り、その子孫は北部九州の水軍「松浦(まつら)党を構成する一族になった」とも言われ北部九州で勢力を拡大して行く。

その松浦実任(安倍季任/あべのすえとう)の子孫・松浦高俊は、平清盛の側近に取り立てられ西国方(平家方)の水軍として活躍し、瀬戸内海を転戦している。

何故九州の地方豪族・松浦高俊(まつらたかとし)が、平清盛の側近足り得るのか?

つまりは、敵の敵は見方で、「前九年の役」での勢力構図の縁(えにし)である。

その縁(えにし)で、松浦水軍は何時の頃からか平家の家人を任じていた。

これぞ、藤原摂関家、清和源氏(河内流)、解由小路家(葛城・賀茂氏流)、奥州藤原家(清原家)対、桓武平氏(伊勢流平家)土御門(安倍氏流)の二大勢力の暗闘が、糸を引いてそっくり平家の登用に影響されていた事になる。

奥州藤原家(清原家)の遮那王(しゃなおう・源義経)庇護も、そうした勢力構図が背景に在ったのである。

さて松浦水軍主力の寝返りだが、松浦水軍は中心となる氏の強い統制によるものではなく一族の結合体と言う形態の同盟的なもので、一族は夫々(それぞれ)の拠点地の地名を苗字としその中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となっていた。

その緩い結合の為、当初は高俊に合して平家方の水軍であった松浦党の主流は、平家方不利と見て松浦高俊一族を除いて源氏方に寝返りを謀り、壇ノ浦の戦いに於いて源家方に付いて源家方の勝利に大きく貢献した。

海戦だった壇ノ浦の戦いに、松浦水軍主力の寝返りに合った平家方は圧倒的不利に総崩れとなり、御座船を包囲されて退路を絶たれ「もはやこれまで。」と平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、哀れ二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

敗れた平家方の総大将の平宗盛・清宗父子は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。

源義経主従の活躍ばかりが喧伝されて有名だが、壇ノ浦の戦いの勝敗はあくまでも松浦(まつら)水軍主力の寝返りだったのである。

鎌倉幕府が成立して守護・地頭制が敷かれ、松浦党はその壇ノ浦の戦いの功を認められて鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられたのだが、鎌倉初代将軍・源頼朝が東国から九州に送り込んだ少弐氏、島津氏、大友氏などの「下り衆」と呼ばれる東国御家人の下に置かれ、その「両者の確執は絶えなかった」と言う。

一方の松浦水軍・松浦高俊は、治承・寿永の乱(一般的には源平合戦と呼ばれる内乱)により平家方が源範頼・ 源義経軍に敗れたが、高俊(たかとし)は生き残り、現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった後に高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害を恐れて先祖・安倍宗任以来の旧姓・安倍姓に戻して名乗り、以後長門国油谷(山口県)に安倍家は存続する事になる。

この長州・安倍家(松浦高俊・娘)の子孫が土地の名家として八百年以上続いて現在に至り、後の現代の世に政治家一族として名を馳せる事になるが、賢明なる読者の貴方はもう誰の事か見当が着いている筈である。

萩から西へ四十キロ行った周防国日置郷・旧・油谷町(ゆやちょう/現・長門市油谷)が長州・安倍家の本拠地である。

江戸時代、日置郷の大庄屋を務めた名家・長州安倍家の当主を名乗る安倍晋三の父・安倍晋太郎(元外務大臣)の墓所は、この長門市油谷(ゆや)に在る。

安倍晋太郎(元外務大臣)は、岸信介(元総理経験者)の女婿(長女・洋子と結婚)として外務大臣秘書官となって岸に仕える。

岸内閣では内閣総理大臣秘書官に就任、中央政界への地歩を固め、第二十八回衆議院議員総選挙に打って出て当選を果たす。

松浦(まつら)党は、大名に匹敵する勢力を有する水軍(海軍・海賊)として有名で、鎌倉期の元寇戦でも活躍している。

壇ノ浦の戦い、元寇、倭寇活動おける松浦地方の松浦(まつら)党(佐志氏や山代氏)などの海上勢力は、つとに知られている所である。

松浦水軍は、豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)でも水軍として駆り出され、転戦した記録があり、その松浦党の最後の大仕事が、千五百九十八年(慶長三年)の「慶長の役」だった。

日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の援軍との間で朝鮮半島を戦場にして行われた戦闘での遠征軍撤退戦を最後に水軍としての松浦党の出番は終了し、僅かに松浦氏傍流の平戸松浦氏が戦国大名として成長し、関ヶ原の戦い以降に旧領を安堵されて平戸藩六万三千石の外様大名として存続した。

一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」】に戻る。
屋島の戦い(やしまのたたかい)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2009-03-15 18:22 | Comments(0)  

前頭極(ぜんとうきょく/脳部位)

人間の本能行動には、実は「左脳域」だけではなく「前頭極」に拠る極限行動も存在する。

脳の「前頭極」と言う部分は、極限状態に遭遇した時には理性を瞬時に抑える働きがある。

理由は、生き物には持って生まれた情況対応本能を兼ね備えていて、考える暇(いとま)の無い瞬時の危機に遭遇した時に、理性で論理的に思考して行動を起こしては間に合わないから、身を守る為に論理的な思考回路を遮断して咄嗟に本能的判断して行動するのである。

この「前頭極」の働きは、理性拠りは本能で対応しないと間に合わない非常時の場合の緊急的な保身の脳作用であるのだが、極度の不安(恐怖)状態の場合もこの「前頭極」は作用して思考回路を咄嗟に遮断し頭の中を真っ白にする。

これが厄介な事に、本来必要としない時でも本人の思い込みで極限状態に遭遇した時、頭の中を真っ白にした人間は理性のコントロールを失っているから本能で思わぬ行動をする。

「考える前に行動しろ」と言う信号が脳から肉体(からだ)に配信される事で、所謂「火事場の馬鹿力」や「無我無中」と表現される行動で、思考回路を遮断して理性を失っての行動であるから本人に行動そのものにまったく自覚が無い場合も有る。

自分では「大丈夫」と思っていた「振り込め詐欺」に警戒しながらも引っ掛かる事なども、この身を守る為に論理的な思考回路を遮断する「前頭極」の活性状態に電話口で相手の「脅迫観念」を利用した話術で誘導されてしまうからである。

信仰上でも、極度の不安(恐怖)状態に拠る「脅迫観念」から「前頭極」の活性に至って本人にまったく自覚が無い行動現象が起こり、周囲の者からすれば憑依(ひょうい)現象に見えるなどの奇跡の正体でもある。

つまり信仰上でも「振り込め詐欺紛(まが)い」の極限状態の演出に拠り、信心深いほど本人の思い込みで「前頭極の活性現象」は起こり得るもので、それを目の当たりにした周囲の者が、いっそうその信仰を深めるのである。

詳しくは、小論・【オレオレ詐欺と占術霊感商法】に飛ぶ。
詳しくは、小論・【美しくなれる興奮の解説】に飛ぶ。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2009-03-15 17:06 | Comments(0)  

奥州平泉・中尊寺(ちゅそんじ)

奥州平泉(岩手県)は、奥州藤原家四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)の本拠地である。

奥州藤原家は、三代に渡って東北地方一帯を支配し、さながら独立国家の様に栄華を極めた。

その名残が、平泉の中尊寺にある。

藤原泰衡は、その四代目に成る筈だった。

それが老獪な頼朝夫婦に上手く騙され、罠に嵌められて滅ぼされてしまった。

その平泉に在る奥州藤原氏三代ゆかりの菩提寺・中尊寺は天台宗東北大本山で、台密修験の奥州(東北)の本拠地としての側面も存在した。

中尊寺は八百五十年(嘉承三年)に慈覚大師によって開かれし後、「藤原氏初代・清衡が再興させた」と伝えられている天台宗の寺で、本堂には開祖・伝教大師(最澄)が比叡山で点火した「不滅の法灯」を分け移した火が燃え続けている。

源頼朝は藤原泰衡を脅して腹違いの弟・源義経討たせ、その後大軍を送って奥州藤原氏を滅ぼした。

藤原泰衡を攻め滅ぼすと、奥州藤原氏の栄華を極めた平泉の金ぴか中尊寺(金色堂)の噂を聞いていた頼朝は、早速奥州藤原氏の隠し金山を探させるが幾ら探しても見つからない。

奥州には、「さぞかし立派な金鉱が在る」と思っていた頼朝は空振りを喰ってガッカリした。

奥州に藤原氏の隠し金山は無く、奥州藤原氏は金を買っていたのだ。

正確に言うと、平泉の太平洋側に在る北上山地には砂金が採れる北上川の支流が相当に在った。

だが、その砂金は独自にアジア当面と交易して高価な木材紫檀や象牙を輸入したりで、中尊寺金色堂などを造営している。

また、金売吉次と言う都の金商人に売り渡したりで藤原清衡、藤原基衛、藤原秀衛の三代に採りつくしていた。

砂金を採り尽した後の藤原家は、アジア当面と交易して手にした高価な木材紫檀や象牙を売り捌(さば)いて、金売り吉次と取引していた。

げんに平安期から現代に到るまで、奥州からはめぼしい金山の存在は確認されては居ず、金の出所は北上支流の砂金だけだった。

中尊寺は天台宗、つまり台密修験の奥州(東北)の本拠地でもある。

そもそも、金鉱であろうが銀・銅・鉄であろうが、元々鉱山の探索や開発従事は修験道の守備範囲で、修験道の流れは賀茂・勘解由小路が帝の手足となる裏・陰陽寮の守備範囲とくれば、源義経を奥州藤原家に逃れさせた「金売り吉次」が、陰陽修験と関わりがあっても不思議ではない。

推測するに、「金売り吉次」こと勘解由小路・吉次の売っていた金の出所は、伊豆の「帝の隠し金山」に違いない。

つまり、帝の軍資金調達に「帝の隠し金山」の産金を預かって奥州藤原氏に売っていたのが勘解由小路・吉次だったのである。


源義経が青年期を藤原秀衡の庇護の下に育ち、長じて兄・源頼朝の追っ手から逃れて奥州平泉に逃げ込んだ経緯の裏に在ったのが、勘解由小路・吉次の奥州藤原氏との縁(えにし)無くしては「辻褄が合わない話し」なのである。

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by mmcjiyodan | 2009-03-11 02:35 | Comments(0)