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河越重頼(かわごえしげより)の娘(仮名・玉御前/たまごぜん)

源義経の女」と言うと白拍子の「静御前」が国民のほとんどに知られて余りにも有名であるが、ここでは「静」の影に隠れたもう一人の「正妻」の方を取り上げたい。

正妻の方は、「河越氏の娘」とされ兄頼朝の命令で義経と結婚していて、郷姫・郷御前、京姫・京御前など色々言われていて名の方は判然としない。

当時は、よほどの事がないと女性の記述は「誰々の娘、誰々の妻」と言う書き方が主流で実名が判らない。
従って正妻の名は、仮に埼玉から摂って勝手に「玉御前」とするが、あくまでも「仮」であるので、この名を現実と信じない様に願う。

河越重頼(かわごえしげより)の娘に関しては「源平盛衰記」に「郷御前」とある為、現在の解説では「郷御前」と記述する物も多いが研究者の間では依然として河越重頼(かわごえしげより)の娘であり、「郷御前」は疑問視されている。

父親の方は、しっかりした記述があり、武蔵の国、比企(ひき)一族の「河越重頼(かわごえしげより)」で有る。

河越重頼は、秩父平氏の一族として最初は平家平清盛)方についていたが、源頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)が養母だった関係で、頼朝が伊豆流人中も援助をしていた比企氏(比企能員)や、同じ秩父平氏系・江戸氏(江戸重長)と共に頼朝方に寝返った。

河越氏も関東豪族の名家であり、今の埼玉県川越市は、そこから来ている。

河越重頼(かわごえしげより)は平氏流の平安末期から鎌倉初期の武将で、今の川越市の辺りを本拠地とする初期鎌倉幕府の有力御家人だった。

河越重頼の母は、比企尼(ひきのあま)と呼ばれ、源頼朝の乳母であった。

頼朝にすれば、血は繋がらないが、身内の気分の一族である。

河越(太郎)平重頼は、平安時代末期の桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族のひとつ、河越氏の棟梁であり、村岡五郎・平良文の孫に、秩父平氏の祖である秩父(平)政恒が居り、その秩父平氏の一党に河越氏がある。

つまり、源義経の正妻「玉御前(仮名)」の父は、坂東平氏流(秩父平氏)・河越氏で、河越(平)重頼を名乗り、家紋は九曜紋である。

この河越氏一族、頼朝の命令で娘(仮名・玉御前)を義経と結婚させたのだが、親や領主などに決められた政略結婚でも、ともに生活すれば愛情は育つ。

最初から「嫌だ嫌だ」と思い込んでいない限りは、「情」は結婚後の生活の中で充分に育つ。

それは愛の育たない結婚も有ったのだろうが、それは現代の自由恋愛でも同じ事で、きっかけがその先の人生を支配するものではないのである。

その後頼朝と義経が対立し頼朝が義経追討令を発した時、不幸な事にこの時頼朝の脳裏を掠めたのは自らの経験である。

妻方の北条(平)家の後押しで再起を果たした頼朝にとって、義経の妻(正妻)が河越重頼の女(むすめ)であるからには河越氏一族が義経方に寝返り、何時自分の寝首を欠かないとも限らない。

頼朝は重頼に娘の離婚を命じて河越一族の忠誠を試そうとするが、肝心の娘は鎌倉に戻らない。

正妻「玉御前(仮名・河越重頼の女・むすめ)」は、義経を「憎からず」と思ったらしく、後に義経が頼朝から終われる身に成っても父親の命に逆らい、親元には帰らなかった。

それで河越重頼(かわごえしげより)を始め河越一族が頼朝の勘気にふれ、一族は処刑されている。

猜疑心の塊(かたまり)のように育った頼朝にすれば、「禍根は断つべき」だったのである。

当時の娘は、一般的に生家の方(親の在所)を大事にする時代だから、河越重頼(かわごえしげより)の娘(仮名・玉御前/たまごぜん)は余程義経を愛したのであろう。

河越重頼(かわごえしげより)の娘(仮名・玉御前/たまごぜん)は、夫・源義経に従って奥州藤原家・藤原秀衛(ふじわらひでひら)の下に身を寄せるが、秀衛(ひでひら)が病没すると、頼朝の命令を守れば、「奥州藤原家を存続させてくれるだろう」と信じた息子の藤原泰衡(ふじわらやすひら)に命を狙われ平泉・高館(たかだち)/衣川館の襲撃で夫・源義経諸共自刃して果てている。

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by mmcjiyodan | 2009-04-30 14:01 | Comments(0)  

結城秀康(ゆうきひでやす)

越前・松平藩の藩祖(宗祖/そうそ)は、松平(結城)秀康である。

実は徳川家康(とくがわいえやす)二男とされる結城秀康(ゆうきひでやす)には、本人も知らない一つの疑惑がある。

幼名を於義伊(於義丸/義伊丸)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われて「満三歳になるまで対面を果たせなかった」と伝えられている。

家康がまだ意思表示も出来ない自分の幼子を嫌う理由は、いったい何だったのだろうか?

家康二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉(後に朝廷から豊臣姓を賜る)陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出され、秀吉の命で関東八家として鎌倉以来の名門・藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末流・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋で、易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。

家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き息子として武功をあげている。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。

江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠(本家)、義直(御三家・尾張家)、頼宣(御三家・紀伊家)、頼房(御三家・水戸家)の五人だけで、この中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけで、扱いが軽かった。

結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には豊臣家とは決別して東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして武功をあげて漸く家康・二男として越前に六十八万石の処遇を得ている。

加賀藩(百十九万石)薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。

当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。

だからそれなりの処遇は当然で、その後徳川家康が征夷大将軍として天下の実権を握ると、越前福井藩は「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。

しかし、徳川家康が幼少の於義伊(結城秀康)を顔も見ずに嫌い、越前福井藩主となっても松平と徳川の家名の使い分けが為された事に「謎」の読み方がある。

実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?

つまりこの辺りに家康双子説の煙が立ち、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に結城(松平)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。

長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎であるが、この謎解きは後ほどの家康出自「系図・双子竹千代」の章で解き明かす事にする。

この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた可能性が在る。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

あるいは、二代将軍・秀忠が明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?

この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光秀の従兄弟・明智光忠であれば判り易い。

後世になると、徳川本家と御三家御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。

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by mmcjiyodan | 2009-04-28 13:56 | Comments(0)  

仁海(じんかい)僧正

真言密教陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。

陰陽寮首座・安倍晴明より少し後の、平安中期の時代に活躍した仁海(じんかい)僧正は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。

仁海(じんかい)僧正は真言宗の密教(東密)の総本山・東寺の長者(東密根本道場の最高位)と成り、九十余歳の長寿を保った伝説的な僧侶である。

和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に登った仁海(じんかい)僧正は、そこで占星術を身につけ、学僧としても知られるように成り、僧籍に在りながら良く陰陽呪術を修めしばしば五行の考えに基づく易を使い、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされ、名声を博した仁海(じんかい)僧正は「雨僧正」と呼ばれる。

この事は当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていた事を示している。

正直、予め中華文明の気象学に通じていれば、「祈雨祈願の成功」など確立は高かったのかも知れないが、当時の日本列島では充分に「名僧の為したる事」と畏怖の念を持って認められたのかも知れない。

醍醐寺・隨心院 (ずいしんいん)は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海(じんかい)僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。

仁海(じんかい)僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で「女犯」などと評するからである。

そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので勢力争いもするし女性も抱く。

高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。

と言うよりも、密教僧に於いては「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、真面目に為されていたのである。

平安中期の当時としては、九十余歳の長寿を保った伝説的な僧侶・仁海(じんかい)僧正は、自らの真言密教と陰陽道の性交呪詛「歓喜行」を持って長生きを為したのかも知れない。

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by mmcjiyodan | 2009-04-26 04:10 | Comments(0)  

ニニギの命(みこと/アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)

記・紀神話(古事記日本書紀)の壮大な物語に拠ると、天界の神・天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である天孫・ニニギの命(みこと)が、葦原中国(アシハラナカツクニ・天界に対する地上の国)の平定を受けて、古事記に拠より葦原中国の統治の為に高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記される日本神話の説話である。

つまり皇統の祖は「天から舞い降りた神の子孫」と言うのである。

天孫・ニニギの命(みこと)の妻は木花開耶姫(このはなさくやひめ)で、子に海幸彦・山幸彦(うみさちひこ・やまさちひこ)がいる。


高千穂(たかちほ)から見て日の昇る東の方向に北川町があり、天孫降臨伝説可愛岳(えのだけ)がそびえている。

この神話の山・可愛岳(えのだけ)なのだが、まず不思議な事に、高い岩山ならともかく、この高さの土に覆われた山では、けして説明が付かない多くの巨石がこの山にはある。

山頂の鉾岩や三本岩などは、考古学者によると弥生時代に建造された人工的立石で、他にも石組と考えられる多くの巨石が点在している。

人間の手が、加わっているとしか考えられないのだ。


可愛岳(えのだけ)は神秘的で、謎の多い山である。

そして記・紀(古事記や日本書紀)の記述に符合しそうな、伝説がある。

古事記によると、神武大王(じんむおおきみ/天皇)に始まる皇統の五代前に、高天原から光臨したニニギノ命(みこと)が、「日向の高千穂のくしふる峰に降りた」と記されている。

これをもって、高千穂の天孫降臨とする解釈も多い。

すると、それ以前は神ばかりいて、人はこの世に居なかった事になる。

我輩は、この地に降(光)臨したのが天照大神なら、「判り易い」と思っている。

神話の国・日向国(宮崎県)の北東部にある北川町(東臼杵郡)の地に可愛岳(えのだけ)はある。

征服(侵略)部族の王達が天孫降臨伝説で神格化された象徴的な記述が、古事記・日本書紀に残った山がこの可愛岳(えのだけ)である。

標高七百二十八メートルの可愛岳(えのだけ)にはニニギノミコト(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)御陵墓伝説があり、また日本書紀には、初代・神武大王(おおきみ/天皇)の五代前の先祖天孫・ニニギの命(みこと)が亡くなられた時、「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。

学術的証明(確証)までは至らないとの事だが、ニニギノ命の御陵墓伝説は、地元で数百年も続く「御陵墓祭り」と伴に受け継がれて居て、これは「重みの有る伝承」と言える。

しかし、この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。

つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、広域倭の国時代に朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。

天孫降臨伝説が終焉を迎えたのも実はこの伝説の地・可愛岳(えのだけ)だったが、その話はこの物語を最後まで読んでいただければ判る。

それにしても、この真東から日が昇るこの日向(宮崎県)の国地で天孫降臨伝説が起こり、遥か悠久の時を経て天孫降臨伝説が同じその地で幕を閉じるとは、不思議なめぐり合わせである。

尚、三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神、月読命、スサノウ(須佐王)は、「記紀(古事記日本書紀)神話」に於ける「)」の伝承的存在である事を心して分けて扱うべきである。

いずれにしても、「古事記・日本書紀編纂」の目的は皇統の神格化であるから、その目的の為に実史にアレンジを加えて成立させた物語である。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2009-04-23 20:53 | Comments(0)  

本地垂迹(ほんちすいじゃく/神仏習合)

五世紀も終わりに近づくと、物部氏蘇我氏が、伝来した仏教の扱いで対立する。

仏教が伝来した時、有力臣王(御門)達の集合体・大和合の国・大和朝廷は大混乱に陥ったのである。

当時の最有力臣王・物部氏は古くからの歴史ある名門で、青銅鋳造術を神格化する銅鐸祭祀(物部神道)を擁する物部一族は当然ながら神道擁護排仏派だった。

反対に新興有力臣王・蘇我氏は言わば少し遅れて来た新興勢力で、宗教的基盤のない蘇我氏は仏教を大和朝廷に導入、統治に利用する事を考える。

つまり当初の蘇我氏による仏教支持はその教義に傾倒した訳ではなく、有り勝ちな事だがあくまでも勢力争いの具である。

その争いの時点で、大連(おおむらじ)・物部尾興(もののべおこし・臣王)と大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ・臣王)の力は拮抗していたが、欽明大王(きんめいおおきみ・天皇・第二十九代)が仏教に傾倒し、蘇我氏の勢力が強く成って行く。

この両者の争いは子供の代まで引き継がれ、本格的に飛鳥時代を迎える頃には誓約(うけい)と大和合の国・大和朝廷らしい知恵を働かせる。

即ち、神仏は「呼び名が違うだけで同一」と発想し、習合すれば共存が可能なのである。

本格的に神仏習合が為されたのは七世紀後半の天武大王(おおきみ/天皇)の御世において、大王(大王/大国主)を中心とする国造りが整備されるに伴い、神武朝の氏神であった天照大神を頂点として、それら国造りに重用された神々が民族神へと高められ、その神々に対して仏教側からも敬意を表して格付けを上げるようになった事に神仏習合は始まる。

天上の最高神は「唯一一体」でなければならない。

しかし、日本の大和朝廷が古事記日本書紀で創出した天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同等な神、陀羅尼神(だらにしん)が、渡来した仏教の中に居た。

本来なら、この世の最高神は一体でなければ成らないからこれは困った。

しかし、そこは誓約(うけい)の知恵で倭の国々(征服部族国家)を統一した大和朝廷とその民ならではの柔軟な知恵が浮かぶ。

世の最高神が一体ならば天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と陀羅尼神(だらにしん)は「呼び方が違うだけで同じ神様である。」と、日本列島の支配者と民はそれを否定する事無く同一の神として受け入れた。
実際には、仏の説いた法を味わって仏法を守護する「護法善神の仲間である」と言う解釈により、「神も仏も呼び名が違うだけで同一」と言う解釈により奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に仏教の菩薩号(ぼさつごう)を付すまでに至った。

これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)と言い、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)である」としたのである。

それで 天照大神は仏教では大日如来となり、民族神の代表格である八幡神(応神神/天皇)が八幡大菩薩(はちまんだいごさつ)などはその典型的な例である。

この本地垂迹(ほんちすいじゃく/神仏習合)の考え方こそが、誓約(うけい)の精神で多くの渡来部族が大和合した大和民族(日本人)の平和共存、共生イデオロギーの原点とも言うべき知恵だった。

妥協と言えばそれまでだが、天武大王(おおきみ/天皇)の民族神重用に仏教側が生き残りの知恵を絞った訳である。

神仏習合】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2009-04-21 20:12 | Comments(0)  

江戸氏と江戸の地名の云われ

徳川家康が幕府を開いた土地、「江戸」と言う地名の由来であるが、江戸氏と言う氏(うじ)名から来ている。

この江戸氏、桓武平氏の平良文(村岡五郎良文)の「ひ孫」にあたる平重継(江戸重継)が始祖である。

江戸と言う地名の発祥は、村岡五郎良文(平良文)の孫・平将常が武蔵守となり秩父に住んで秩父氏を称して居たが、その孫・平重継が分家をして江戸(入り江の入り口(戸)と言う意味)の荒川河口の高台・日比谷入り江の小高い丘・江戸に館を構え「江戸氏を称した事に拠る」と伝えられ、広域に通用する江戸の地名が出来た。

つまり、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つ桓武平氏流・秩父氏から出た江戸氏の本拠地は、「武蔵国豊島郡江戸郷之内前島村」と言う土地である。

江戸の呼称については江戸城を築いた室町期の武将・武蔵国守護代・太田(源)道灌(関東管領上杉氏系流)が、一般的には祖としては余りにも有名だが、江戸氏を名乗り江戸館を築いた江戸重継、重長、親子こそ江戸の祖とも言うべきで、平(江戸)氏の 江戸館の跡に大田道灌が江戸城を造り、その跡に家康が江戸城を築いて幕府の本拠地と為し、その二百六十年後の遷都(せんと)に拠り帝の宮城になったのである。

この平(江戸)重継の継子・平重長は、当時絶大な権力を持っていた平家平清盛に臣従していたが、石橋山合戦の後に源頼朝の味方に加わり、後に鎌倉幕府の御家人となっている。

江戸重継の嫡男・江戸重長は、源頼朝が伊豆で旗揚げした時点で、平家(清盛平氏)に信頼された関東の最有力武将だった。

石橋山の合戦に破れた源頼朝は、海路、房総半島に逃れ、その安房の地で豪族、上総(かずさ)広常や千葉常胤などの助力を得、再び勢力を盛り返して武蔵国へ入ろうとするが、それを江戸重長が関東武士を招集して一旦は頼朝の進軍を阻止する。

しかし秩父氏一党は、元々頼朝の父源義朝の勢力下に在って恩を受けた過去がある為、その後、江戸重長をはじめ畠山重忠・河越重頼ら秩父平氏一族は、長井渡まで出掛けて源頼朝に一時平家(清盛平氏)に加担した事を詫び、服従を誓って源頼朝勢に加わって平家(清盛平氏)打倒に貢献すると、後に鎌倉幕府の御家人と成った。

その後鎌倉幕府の滅亡、南北朝の戦乱、戦国期を経て江戸氏は勢力を衰退させ、江戸期を迎える頃には後北条に属して喜多見に五百石を領する小土豪と成る。

徳川(江戸)幕府が成立すると、江戸氏は所領の喜多見氏に改姓し、徳川氏の旗本となる。

五代将軍徳川綱吉の側小姓と成った喜多見重政は側用人となり、千六百八十五年(貞享二年)に出された「生類憐みの令」の積極的な推進者となり、出世して二万石の大名となる。

出世した喜多見(江戸)重政は御犬様総支配に任じられ、世田谷にも「お犬様御用屋敷」が立てられて江戸氏も一応の再起を見るが、その後身内の不倫沙汰から発生した刃傷事件により改易に遭い、江戸氏の末裔は没落している。

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by mmcjiyodan | 2009-04-19 11:29 | Comments(0)  

源頼朝(みなもとよりとも)落馬死の謎

源頼朝は坂東(関東)武士をまとめて鎌倉に屋敷を構え、富士川以東を完全に勢力下に置くと、富士川の戦い平家の頼朝追討軍を打ち破って都に追い返す。

従兄弟の木曽義仲が挙兵し、平家一門を都から追い落として京の都制圧に成功すると、源頼朝は後白河法皇と連携し、弟の源範頼源義経を派遣して木曽義仲を追討させる。

京の制圧に成功すると、ただちに源範頼・源義経の軍勢を西国に派遣して木曽義仲に都から追い出されて都落ちしていた平家一門の軍勢を、西国方面一の谷、屋島、壇ノ浦と戦勝しで討伐に成功した源頼朝は、源義経を利用しようとした後白河法皇との駆け引きにも勝ち源義経の討伐を策したが、義経は奥州(東北)藤原家を頼って藤原秀衛(ふじわらひでひら)の下に逃げ込んでしまう。

源頼朝は藤原秀衛(ふじわらひでひら)の死後息子の藤原泰衡を脅して平泉・高館(たかだち)/衣川館に義経を打たせた後、奥州(東北)藤原家を責め滅ぼして天下を手中にする。

武力で対抗する者が居なくなって鎌倉の源頼朝に権力が集中し、朝廷の力は弱まり、政治権力は鎌倉幕府が確実に掌握しつつあった。

しかし頼朝は、征夷大将軍就任後僅か七年で落馬が元で亡成っている。

この落馬も、その後の源頼朝の正妻・北条政子の「子殺し(源頼家源実朝)」を見ると、本当に事故か疑ってしまう。

肉親の愛に飢えていた源義経に比べ身内をも信じなかった頼朝が、「身内に裏切られたのではないか」と推測するのは、自然な事では無いだろうか?

いずれにしても、落馬事故とは「天下を掌握した男」にしてはあっけない頼朝の死に方である。

「フト」、頼朝は腹の底から笑う事を忘れたまま死んで行ったような気が、我輩はした。

鎌倉幕府の編纂した正史・吾妻鏡には、何故か空白がある。

不自然極まりない事に、「吾妻鏡」には初代将軍・鎌倉殿・源頼朝の死の前後三年間が欠落していて、それが「源頼朝落馬死の謎」である。

通説では、千百九十八年(建久八年)の十二月に相模川の橋供養に臨席した源頼朝が帰路に落馬し、それが原因で「十七日後の翌年一月半ばに死去した」と伝えられているが、不審な事が多い。

鎌倉殿・源頼朝が「落馬が原因で死んだ」と「吾妻鏡」に書かれたのは死後十三年も経った後の事で、当初は死因も死亡時期も明確な記載が無く、「本当に事故死だったのか?」と言う疑問が湧くのは当然である。

また都合の悪い事を排除し、この謎をその権力で創造し得るのは尼将軍と謳われた北条正子以外には考えられず、我が子(源頼家と源実朝)を含め異常なまでに源氏の血を排除し、北条執権家(得宗家)を確立した事を考えれば、「北条政子下手人説」が浮上して来るのは当然の結果である。

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by mmcjiyodan | 2009-04-17 04:11 | Comments(0)  

仁科大助(戸隠大助)と戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術

源義経・家臣団に関して、帝(後白河天皇)の手に拠る・勘解由小路党修験黒幕説に付いては多くの状況証拠が存在するが、源義経同様に同じ源氏流の木曽(源)義仲にも、勿論そうした情況証拠が存在する。

源頼朝の命で源範頼・源義経らが京に攻め上るまでにいち早く行動を起こし、平家を都から追い落として都を制圧した木曽(源)義仲にも、実は後白河天皇の手が伸びて、勘解由小路党の仁科大助(戸隠大助)と言う信州(長野県)の戸隠修験武者が軍師として付いていた。

木曽義仲に仕えた仁科大助、通称戸隠大助は修験武術の達人で、平安時代末期に信州(長野県)戸隠山で修験道を学び後に戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術と呼ばれるの修験武術の始祖(異説もある)と伝えられる人物である。

戸隠は、「天岩戸が空を飛び、信州のこの地に落ちた」と言う御多聞に漏れない伝説から付けられた名で、修験信仰は盛んだった。

つまり信州(長野県)は戸隠修験道の本拠地である。

真贋は定かでないが、その仁科大助(戸隠大助)が主(あるじ)とした木曽義仲が源義経に討たれた後は伊賀に逃れ、「伊賀流忍術をも取り入れて完成させた」とされる戸隠修験武術が、「戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術」と呼ばれる「修験武術の流派のひとつに成った」と伝承されているのである。

この事からして、世間で使われている「忍術」なる名称は、修験者が編み出し磨きを掛けた「修験武術の事である」と判る。

木曽義仲の旗揚げの直接的切欠は、皇子・以仁王(もちひとおう)の令旨が届いたからであるが、こう言う木曽義仲と戸隠大助との経緯を辿ると、義仲の成育時点から勘解由小路党を介して帝(後白河天皇)の手が廻って居た事は容易に想像が着く。

挙兵した以仁王(もちひとおう)が平家に討たれ、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護した義仲が、木曽で旗揚げする。

木曽義仲が旗揚げすると、平家は、平清盛の息子・平維盛(たいらのこれもり)と甥の平通盛(たいらのみちもり)を大将に、追討軍十万の大軍勢を編成、越前で両軍は激突する。

しかし、山間部の戦いに慣れた義仲軍に、贅沢な都生活で軟弱公家化していた平氏軍は全く歯が立たず、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで敗退する。

この山岳戦、後白河上皇の命を受けた勘解由小路吉次の手の者が支援していれば、彼らは山になれた修験山伏で、結果は最初から見えていた。

その勢いで義仲軍は平氏の大軍を破って押し進み二ヵ月後には京に到達、上洛する。

義仲もまた、義経張りの戦上手(いくさじょうず)で、平家は持ち堪える事が出来ず京の都を明け渡してしまう。
この時平家は、都落ちに際して安徳天皇は勿論、後白河上皇など、朝廷諸共を奉じてあくまでも「正規の政権の体裁を整えよう」と謀った。

しかし、勘解由小路党の手の者により、この「平氏の都落ち」から身を隠して逃れた後白河上皇は、「平氏を賊軍」と宣言してしまう。

馴染みの、天皇側と上皇側の二手に分かれての争いの構図が、建前上またも出来上がったのだ。

この後白河上皇(法王)が、平家の都落ちから逃れられたのには、皇統直属の影の組織・勘解由小路党が活躍した。

彼ら勘解由小路党は、平家を嫌っていた。

平家の後白河上皇(法王)に対する考え方が赦せなかったのだ。

千百八十三年(寿永二年)夏、平家が木曾義仲に都を追われ安徳天皇を連れて西国に落ちた時に、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)比叡山に避難した後白河法皇に同行し、平家との訣別を表明した。

その後土御門(源)通親は、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母であった藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室(正室説あるも、疑わしい)であった藤原伊子(ふじわらのいし)を側室に迎え、伊子(いし)は通親の子・曹洞宗開祖・道元を生んでいる。

木曽義仲(きそよしなか)】に戻る。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

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by mmcjiyodan | 2009-04-14 18:26 | Comments(0)  

築山御前(つきやまごぜん)・松平信康親子の処断

徳川家康天下取りの長い道程に於いて「唯一の汚点」と言って良いのが、家康が決断した正室・築山御前の殺害と嫡男・松平信康の幽閉・切腹の事件である。

松平元康(徳川家康)の正妻・築山御前(つきやまごぜん)の本姓名は関口瀬名(せきぐちせな)である。

瀬名(せな)の母は今川義元の妹で、つまり瀬名(せな)は義元の姪にあたるので、夫・元康(家康)を今川に味方させたい心情が在って当然と言える。

家康は日本史上長い事、織田信長の命で正室・築山御前を殺害、長男・松平信康を切腹させた事にされていた。

この事件、忠誠心を確かめる為に徳川家康に長男・松平信康の「殺害を迫った」とされて、織田信長にはとんだ迷惑な濡れ衣だったが、信長のその強烈無慈悲な生き方から、疑いもされずに「信長が命じた」と世間に信じられたのは自業自得なのかも知れない。

所が最近の研究では、この時期の織田信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、同盟者である家康にこのような緊張関係を強いていた様子は「伺えない」とされ、信長は築山御前と松平信康の殺害など命じては居ず、殺害原因として「家康と信康の対立説」の方が有力視され始めている。

それにしても子煩悩な家康が、殺害まで決断する「家康と信康の対立」の裏には何があったのだろうか?

その対立の原因が、双子の家康(元康)の入れ替わりであったなら、築山御前・松平信康親子にとつては家康(元康)は別人で、対立は確実に修復不可能なものであった事に成る。

この戦国時代、実家が婚家に滅ぼされる事は珍しく無いし、婚家の世継ぎを産んでいれば嫁は婚家に納まるのが一般的である。

だからこそ、松平元康の家族が「徳川家康の家族では無かったのなら」との疑惑が生じるのだ。

入れ替わった家康(元康)に本当の子供が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考えると、側室・於万の方の胎になる結城秀康からであれば、信長の命による殺害説よりも、近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?

築山・信康親子が松平元康(徳川家康)の入れ替わりを容認しないのであれば、公表出来ない双子の入れ替わりの秘密を守る為には口を封ずるしかない。

家康は築山・信康親子の処断を決断し、まず築山殿を二俣城への護送中に佐鳴湖の辺(ほと)りで殺害させ、更に二俣城に幽閉させていた信康に切腹を命じた。

この戦国時代、実家が婚家に滅ぼされる事は珍しく無いし、婚家の世継ぎを産んでいれば嫁は婚家に納まるのが一般的である。

だからこそ、松平元康の家族が「徳川家康の家族では無かったのなら」との疑惑が生じるのだ。

それにしても、三河物語にはそんな事は書いていないし書ける筈も無い。

幸いな事に、三河物語に記述する頃には一方の当事者・織田信長はこの世に居なかった。

世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた事になりそうである。

築山殿(関口瀬名・瀬名姫/せなひめ・駿河御前/するがごぜん)】に戻る。

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第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-04-12 12:33 | Comments(0)  

夫婦別姓(ふうふべっせい)

近頃婚姻による女性側の改姓を「差別ではないか」と、男女平等の意識から「夫婦別姓」を採る夫婦の考え方が一部で始まっている。

この夫婦別姓は別に目新しい物ではなく、我が国では明治維新まで続いていた事で、お隣の中国や韓国では昔から現在まで当たり前に続いている事である。

徳川二代将軍・秀忠(ひでただ)の正室として世継ぎの三代将軍・家光(いえみつ)を生んだ浅井三姉妹(あざいさんしまい)の三女・浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)は、その前に二度結婚していて秀忠の下へは三度目の嫁入りである。

明治維新後の西欧化でロックインして今では夫婦同姓が当たり前に成っているが、東洋の国々は元々夫婦別姓が基本だったから、当時の夫婦は別姓で、生まれた家の姓が正式な名乗だから何度再婚しても浅井江(あざいごう)である。

まぁ正室だけでなく側室も持つ時代だったから、結婚についても夫婦同姓にする事は余分な手間だったのかも知れない。

昔の氏族社会では源頼朝北条正子の夫婦のように夫婦別姓で、織田信長の正妻・帰蝶(きちょう/濃姫)の場合も斉藤道三の娘・斉藤帰蝶(さいとうきちょう)が正しく、豊臣秀吉の晩年の妾・淀殿(淀君)の本姓名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)が正しい名乗りである。

この庶民には姓が無い時代の氏族社会の夫婦別姓は、明治維新後の千八百七十二年(明治五年)に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効されるまで続いていた。

つまり今は当然に思える夫婦同姓は、明治維新後の高々百三十年ほどの歴史しかないのだ。

まぁ厳密に言うと、この夫婦別姓も江戸末期まで氏族系として生き残って来た公家や武士など全体の八パーセントほどである。

授ける立場である天皇には名乗る姓(かばね)は無かったし、平民には名乗る姓(かばね)も無かったから、正確には夫婦別姓社会とも言い切れない。

存在を「只存在」と記憶する学問には限界が有り、何故それが存在するのか疑問を持たなければ真実は見えて来ない。

現在では、民法七百五十条に婚姻に拠る入籍に拠り夫婦同姓が規定されている。

しかし夫婦同姓の規定は、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法・通称「壬申戸籍 (じんしんこせき)」に拠って明治維新政府が国民皆兵政策の一環として言わば総氏族化(総武士道精神化)を図った際の知恵である。

夫婦別姓論に異議を唱え、「普通は夫の姓に改姓するものだ」と主張される方は、二千年の歴史に於いて僅か百三十年程の期間の規定を然したる歴史見識も無く、アンカリング効果と一貫性行動理論に影響されて「普通」と主張している事になる。

つまりは「常識の履き違い」である。

時代が創った常識は、次の時代では不要に成るのが当たり前で、明治維新の主役と成った者に誰一人常識に囚われた者は居なかった。

常識的に生きれば楽な人生を送れるかも知れないが、アンカリング効果的な常識に囚われた発想からは何も生まれず、型破りな発想からこそ未来が開ける。

選択的夫婦別姓の法制化提起に関して、夫婦別姓が家庭崩壊を招くがごとく主張するが、近隣の中国(中華人民共和国)、台湾(中華民国)、北朝鮮(朝鮮人民共和国)、大韓民国などいずれも夫婦別姓だが家庭崩壊などしていない。

むしろ日本国内に於ける家庭崩壊は、氏姓の問題を別にして行き過ぎた個人主義思想に於ける社会構造的要因で、歯止め無く進んでいる。

時代が創った常識は次の時代では不要に成るのが当たり前で、もっともらしい今日的常識を振りかざす者に、大物など居ない。

この問題は広域倭の国論卑弥呼の墓(ひみこのはか)と同じで、「昔からそうだった」の基点が時系列的にあやふやな所が問題なのである。

夫婦同姓(ふうふどうせい)は日本の固有文化と言うけれど固有文化と思われているのは先入観だけで、西洋的文明開化の迎合産物に過ぎない。

夫婦別姓(ふうふべっせい)に反対する者は、日本人に典型的な「形から入ろうとする建前主義者」で、根底に在るのは根拠が無い「べき論」で在るから、そう言う意味で言えば確かに日本独自の悪しき文化かも知れない。

そして我が国の氏族社会に於ける「夫婦別姓時代」の女性には婚家拠りも実家を大切にした傾向も在るが、現在の男女平等の価値観とは別の夫婦間のルールが在って、どの時代が女性にとって幸せなのかの比較は出来ないのである。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-04-12 03:36 | Comments(0)