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大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(三)大阪城落城

大坂城近郊に後退した豊臣方は、最後の決戦の為に現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築する。

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など一万四千五百、 岡山口は大野治房ら四千六百、別働隊として明石全登三百、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計一万四~五千が布陣する。

これに対して幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟四万を茶臼山方面に、その前方に松平忠直一万五千が展開し、 天王寺口は本多忠朝ら一万六千二百、その後方に徳川家康一万五千が本陣を置き、 岡山口は前田利常ら計二万七千五百、その後方に近臣を従えた徳川秀忠二万三千が本陣を置いた。

豊臣家滅亡を画していた徳川家康の野望は、正に大詰めを向えていた。

戦国最大にして最後の戦いとなる大阪攻め、大激戦となった天王寺・岡山合戦は正午頃に開始された。

果敢に攻め込む豊臣方の真田信繁(幸村)・毛利勝永・大野治房などの突撃により、幕府方の大名・侍大将に死傷者が出て幕府方徳川家康・秀忠本陣は大混乱に陥る場面も在ったが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直す。

この果敢な攻撃に豊臣方は多くの将兵を消耗し、流石の真田信繁(幸村)も松平忠直の越前勢に討ち取られて午後三時頃には壊滅状態に陥り、唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により豊臣方は城内に総退却した。

城内に総退却をしてみたものの、大坂城は本丸以外の堀を埋められ裸同然となってもはや殺到する徳川方を防ぐ術が無い。

真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、豊臣秀頼淀君らとともに籾蔵の中で毛利勝永に介錯され自害し大坂城は陥落した。

豊臣秀頼に嫁していた徳川秀忠の娘・家康の孫・千姫(せんひめ/天樹院)は落城寸前に大阪城を脱出、秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の奈阿姫は僧籍に入る事で助命された。

この大坂の役は言わば戦国生き残り合戦の最終章にあたり、殺傷力が強い史上最多の最新銃砲火器に拠る交戦だった事から、過っての弓矢・槍・太刀と言った武器に依る交戦と違って死傷者も多く、また相手の選別には不向きな武器の為に大阪城に立て篭もる女子供・町人なども無差別に攻撃を受ける悲惨なもので、つまり死屍累々の地獄絵図が繰り広げられた戦だった。

戦後の大坂城には松平忠明(奥平松平家初代)が移り、街の復興にあたった。

幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き西国支配の拠点の一つとした為、以降大坂は将軍家の直轄地となり、「天下の台所」と呼ばれる大商業都市となる。

大坂復興が一段落すると、松平忠明は大和郡山十二万石に加増移封された一方、松平忠輝(家康の六男)は総大将を務める天王寺合戦で遅参した事が理由の一つとなり翌年に改易となった。

また松平忠直(結城秀康の長男)は、予(か)ねて家康が腐心した「無い袖は振れない」を読めずに大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく茶器・「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであった事を不満としており、後に乱行の末改易となった。

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by mmcjiyodan | 2009-06-28 02:43 | Comments(0)  

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(二)大阪野外戦

六日間ほど費やして徳川家康が名古屋城に入った頃、二代将軍・徳川秀忠も早々に江戸を出発していた。

その頃豊臣方では和平交渉の当事者・大野治長が城内で襲撃される事件が起き、内部の混乱が露呈していた。

名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康はその足で上洛し二条城に入った。

この頃、関が原合戦での遅参の失敗経験を持つ二代将軍・徳川秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも「家康に伝えてくれ」と依頼している。

四月下旬に、関東の軍勢を従えた秀忠は無事二条城に到着し、家康と本多正信正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。

此度の情勢は、前回の大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と比べ遥かに有利である。
大坂城は本丸を残して丸裸であり、兵力も二万ほど減っていて八万弱と篭城戦など出来る状態ではない。

家康は集結した十五万五千の軍勢を二手に分けて、一方は河内路から、いま一方は大和路から道路の整備と要所の警備を行いながら大坂に向かう事を命じた。

この二手の他、紀伊の浅野長晟にも南から大坂に向かうよう命じている。

交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。

豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、筒井定慶の守る大和郡山城を落とし付近の村々に放火その二日後には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。

この大野治房勢、一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い討死してしまう。

その後、大野勢は浅野勢と対峙しつつ、堺攻防戦を続けている。

五月に入って戦闘が本格化し、幕府方三万五千が大和路から大坂城に向かって来るところを豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起ている。

しかしこの迎撃、寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取る事が出来ずに、後藤基次隊二千八百が単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗水野勝成ら二万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも基次は討死し隊は壊滅する。

次いで到着した明石全登・薄田兼相(すすきだかねすけ)ら三千六百の豊臣方も、後藤基次隊を壊滅させて小松山を越えた幕府方二万と交戦し、薄田兼相らが討死した。

この小松山の戦闘に、更に遅れて真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方が漸く到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止める。

そうした小松山道明寺・誉田合戦の激戦の他、八尾・若江合戦が起こっている。

河内路から大坂城に向かう徳川本軍十二万を、豊臣方・木村重成の六千と長宗我部盛親、増田盛次ら五千三百の兵が迎撃している。

まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊五千を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ後退中に追撃を受け長宗我部隊は壊滅する。

木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊三千二百らと交戦に入り激戦の末に重成は討死した。

いずれにしても幕府方は大軍で、豊臣方は意地を見せたが大勢は幕府方優勢で戦闘は推移している。

真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方は、小松山で幕府方大和路隊三万五千を押し止めていた。

しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、後藤隊・薄田隊の残兵を回収して後退を余儀なくされ、大坂城近郊に追い詰められている。

この豊臣方の撤退を、幕府方も連続した戦闘に疲弊した為に追撃を行わなかった。

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by mmcjiyodan | 2009-06-28 02:40 | Comments(0)  

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(一)開戦経緯

成立した和議の条件に乗っ取って、大阪城の一部破却が始まる。

なお、冬の陣の終了後の和議の条件により出城(砦)・真田丸(さなだまる)は破壊された。

信繁が真田信繁よりも今では世間の通りが良い真田幸村を名乗ったのは、冬の大阪の陣で一旦和睦し、真田丸を失った以後の文献に登場したからである。

出城(砦)・真田丸の正確な位置については幾つか説が在り、確かな遺構も残っていない為にまだどれも決定的には成って居ない。。

和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。

この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すといった儀礼的なもので在ったが、徳川側は家康の命を受け徹底的な破壊を実行する。

講和後、味方した諸将も国表に帰らせ、大御所・徳川家康本人も駿河の居城(駿府城)に引き上げた。

駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。

城割(城の破却)はその年の末から美濃の諸将を率いる松平忠明、重臣・本多忠政、重臣・本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋め。

翌年の一月より二の丸も埋め立て始める。

二の丸は本来豊臣方の受け持ちの為豊臣方は抗議するが、幕府方は「工事が進んでいないので、手伝う」と強引に進め、二の丸の門や櫓も徹底的に破壊している。

約していなかった二の丸まで「だまし討ちで幕府方が埋め立てた」は後の作家の手に拠る俗説で、二の丸の埋め立ては当初からの和議の内なるが、幕府方が受け持ちを逸脱して二の丸の埋め立てに関わったのは事実である。

二の丸の埋め立てについては幕府方も相当手間取ったらしく「周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した」と伝えられている。

此処で新たな問題に成ったのが、豊臣方が召抱えていた浪人達である。

幕府方は浪人達の仕置きこそお咎め無しにしたが雇った浪人衆は七万人以上に上り六十五万石の豊臣家には相応せず、まさかそのまま豊臣家が召抱えるなど思いも依らなかった。

和議で一部解雇はしたものの、豊臣家はまだ都合八万ほどの兵力を維持したままで、とてもこのまま収まるとは思えない情勢だった。

家康は和平成立後京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で家康は国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、再戦の準備を行っている。

そうした中、京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)より駿府へ大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞と言った「不穏な動きがある」とする報が届く。

幕府方はその報告を受け、浪人の解雇と豊臣家の移封を要求し、その二週間後には畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛する事、小笠原秀政に伏見城の守備に向かう事を命じた。

三日後、家康は徳川義直(家康の九男)の婚儀の為と称して駿府を出発、名古屋に向かう。

その道中の途中で、大野治長の使者が来て「豊臣家の移封は辞したい」と申し出る。

もはやこれまでの回答に、家康は常高院(京極高次の正室/浅井初)を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ(そう言う事ならどうしようもない)」と豊臣方に伝え、すぐさま諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じている。

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by mmcjiyodan | 2009-06-28 02:37 | Comments(0)  

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(三)和議

徳川家康は投降を促す矢文を大阪城に射て(送り)、尚且つ甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道掘削を始め、更に船場の堀の埋め立ても命じている。

そして投降を促す矢文から六日目、幕府方全軍より一斉砲撃が始められる。

北方の備前島(都島区網島町)方面だけで大筒百門と石火矢が本丸北側の奥御殿に発射され、南方の天王寺口(茶臼山)からは本丸南方の表御殿千畳敷に目標を定めた砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。

この砲撃では国友製三貫目の大砲が用いられており、またイギリスより購入したカルバリン砲四門やセーカー砲一門、つい最近兵庫に到着し漸く間に合ったオランダ製四・五貫目の大砲十二門も含まれていた。

この砲声は京にも届き、「その音が途切れる事はなかった」と伝えられている。

徳川方が奥御殿や表御殿を砲撃する為に接近して来たので、豊臣方はその近接する徳川方に激しく銃撃する。

当初、寄せての防御が竹束のみだった為にその銃撃で徳川方に三~五百の死傷者が出たが、徳川方が築山・土塁を築いた為に豊臣方の鉄砲の効果は激減している。

豊臣方はこの幕府方の激しい砲撃に対抗して砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたたりしたが、以前劣勢を覆す事ならず、評定の結果、投降を促す幕府方の矢文に応じて和議する事を決する。

戦闘の経過で豊臣方は兵糧に加え弾薬の欠乏が進み、また徳川方が仕掛けた心理戦と今までの常識を超える飛距離を持つ輸入したばかりの新型大砲に拠る砲撃で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、士気は衰えを見せていた。

特に豊臣家で主導的立場にあった淀君は、幕府方の本丸への砲撃で身近に被害が及び、頑なだった態度を軟化させて和議に応じる気に成た。

織田有楽斎(長増・ながます/織田信長の実弟)を通じて豊臣方との和平交渉が始まり、有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。

交渉を始めて十日余り、淀君が人質として江戸に行く替わりに篭城浪人の為の加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、和議は一時の時稼ぎである考えの家康はこれを拒否する。

徳川方の京極忠高の陣に於いて、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀君の妹である常高院(京極高次の正室/浅井初)との間で行われた和議交渉の場で家康が提示した講和の条件は、絶妙だった。

幕府方は豊臣秀頼の身の安全と本領の安堵と城中諸士についての不問を約し、その代わり大阪城は本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める城割(城の破却)が主たる条件で、「今後の抵抗は無い」と形にする事である。

また秀頼・淀殿の関東下向を免じ、淀君を人質としない替わりに「大野治長または織田有楽斎より人質を出す事」として和議は成立している。

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by mmcjiyodan | 2009-06-24 22:02 | Comments(0)  

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(二)戦闘

豊臣家では戦争準備に着手し、旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばして兵を募った。

また兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。

豊臣秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、著名な浪人として真田信繁(さなだのぶしげ/幸村・さなだゆきむら)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいた。

浪人を併せた豊臣方の総兵力は約十万、浪人達は歴戦の勇士が多く士気も旺盛で、徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などだったが、いかんせん寄せ集めに過ぎない為に中々統制が執れず、結果、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなっている。

その寄せ集め浪人衆の一人真田信繁(さなだのぶしげ/幸村・さなだゆきむら)は二段構えの作戦を主張し、まず畿内を制圧して近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍して来る徳川軍を迎え撃って足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無い時には初めて城に立て籠もって戦う策だった。

ところが、豊臣家宿老の大野治長を中心とする家臣達は二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針で籠城を主張していた。

同じ浪人衆の後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り「敵を足止めすべし」と主張して豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派と対立した為に豊臣軍内部は二つに割れていた。

しかし大評定の末に大野治長ら豊臣家臣の籠城する作戦案で落ち着き、周辺に砦を築き防衛線を敷いて幕府方を迎え撃つ事になる。

一方の幕府方であるが、徳川家康は豊臣方が戦の準備を始めた数日後に軍勢を率いて駿府を出発し、その家康の軍勢が十日ほどの行軍で二条城に入る頃、二代将軍・秀忠が六万の軍勢を率い江戸を出発している。

家康は二条城に入城二日後には作戦を開始し、藤堂高虎片桐且元を呼び先鋒を命じている。

籠城を決めた豊臣方は、水も食料武器弾薬も豊富に備蓄していた事から、大坂城を浮城にしようと淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ様としたが幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、幕府方の被害は行軍に支障をきたす程度に止まっている。

幕府方の動員した兵力は約二十万に上ったが、豊臣家恩顧の福島正則黒田長政が豊臣方に寝返るのを恐れて江戸城留め置きとし、その子達を大坂に参陣させている。

二条城入城から三週間後の幕府方がほぼ大阪を囲むように結集した頃、家康は二条城を出発して奈良経由で大坂に向かい、茶臼山陣城にて先着していた秀忠と軍議を行っている。

千六百十四年(慶長十九年)十一月十九日、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)の戦闘の火蓋は木津川口の砦に於いて切って落とされる。

その一週間後には鴫野・今福で、三日後には博労淵、野田・福島に於いて激しい戦闘が行われるが、数ヶ所の砦が陥落した後、豊臣方は残りの砦を破棄して大坂城に撤収する。

豊臣方が籠城した大坂城を幕府方は約二十万の軍で完全に包囲した頃、家康は方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布し、茶臼山を皮切りに各将の陣を視察し各将に仕寄(攻城設備)の構築を命じている。

各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に接近して行く。

この接近時に包囲戦における最大の戦いである真田丸(さなだまる)・城南の攻防戦が豊臣方の挑発に乗って始められ豊臣方が幕府方を撃退、幕府方諸隊に大きな損害を与えた。

家康はこの大阪城の攻撃には慎重で講和を策していたが、岡山に着陣した秀忠は家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申する。

家康は敵を侮る事を戒め「戦わずに勝つ事を考えよ」とこれを退け、住吉から茶臼山に本陣を移して新たに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。

家康は、予め前の月から淀川の流れを尼崎に流す長柄堤を、伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた。

その長柄堤が茶臼山に本陣を移した翌日辺りに竣工し、大和川がある為に淀川が干上がる事はなかったが川の深さが膝下まで下がった為に大和川の塞き止めも行い、家康はいよいよ大坂城に対する城攻めを本格化させる。

また、茶臼山に本陣を移した翌日辺りから諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘い、大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は二~三十間、藤堂隊は七間に近接している。

しかし、此処に到って家康は多くの難題を抱えていた。

まずは兵糧不足で、豊臣方の買占めに拠る深刻な兵糧不足の上に真冬の陣でもあり、幕府方の士気が落ちていた。

それに、豊臣を攻め滅ぼすは良いが、戦後処理も頭の痛いものだった。
それで和議を模索したのだがこの目算を為す手立ては、まず豊臣方を疲弊せねば成らない。

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by mmcjiyodan | 2009-06-24 19:54 | Comments(0)  

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)の切欠に使われた方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、誰かの入れ知恵で徳川家康が最初から書いた筋書きである。

豊臣家は過って羽柴(豊臣)秀吉が建立し地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿を、徳川家康の勧めにより豊臣家二代・豊臣秀頼が再建する事になった。

そしてその東山方広寺の修営が終わり梵鐘の銘が入れられた時、家康はその文言に重大な言いがかりをつけたのである。

梵鐘の銘「国家安康」という句は家康の名を分断したものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」と解釈を為し、「徳川家を呪って豊臣の繁栄を願うものだ」と激怒して見せたのである。

無理に解釈した家康の言い掛かりに過ぎないが、これを受けた豊臣家は駿府の家康の下に片桐且元(かたぎりかつもと)を弁明の為に派遣する。

ところが、使者に立った且元は家康に目通りも許されずに狼狽する。

漸く本多正純や金地院崇伝(こんちいんすうでん)と言った家康の側近から、且元は「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、この内のどれかを選ぶように」との内意を受け大阪城に持ち帰る。

しかしはその全てが仕掛けた策謀で、今一人豊臣家の使者として駿府へ立っていた大蔵卿の局(淀殿や豊臣秀頼の乳母・大野治長の母)の持ち帰った証言に拠ると、「家康は機嫌良く会い、鐘銘の事には少しも触れないばかりか、秀頼は将軍・秀忠の娘婿でもあるのでいささかの害心もない」と明言したと言う。

この報告の違いで家康に直接会った大蔵卿の局の報告を信じ、淀君は片桐且元の裏切りを疑った。

片桐且元(かたぎりかつもと)の持ち帰った三ヶ条は、且元が「徳川家臣と示し合わせて豊臣家を陥れようとするものに違いない」と信じ込んだのである。

結果、淀君の信頼を失った豊臣家の忠臣・片桐且元は、大坂城を退去するに至っている。

この「方広寺鐘銘事件」のきっかけになった東山方広寺再建の家康の助言からして、秀吉の遺した軍資金を大な再建経費で消費させる事が目的であり、言い掛かりをつけた上で三ヶ条を提示し、それを持ち帰った片桐且元を放逐した事は「幕府に対する反抗意志である」と断定する口実を与え、大坂城攻撃を決定するに至る描いた筋書き通りに事が運んだのである。

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by mmcjiyodan | 2009-06-23 04:19 | Comments(0)  

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(一)発端

関が原の合戦の後、天下の形勢は勝利した徳川家に大きく傾き、朝廷は徳川家康を征夷大将軍に任じて武門の長と認め、関白・豊臣家の天下への影響力は急速に衰えつつ在った。

大坂の役(おおざかのえき)は、千六百十四年(慶長十九年)の冬から千六百十五年(慶長二十年)夏に掛けて、徳川家の江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。

一般には「大坂の陣(おおざかのじん)」とも呼ばれ、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と大坂夏の陣(おおざかなつのじん)をまとめた呼称である。

千六百十一年(慶長十六年)、御所では後水尾天皇が後陽成天皇の譲位を受けて即位する。

この即位に際して上洛した徳川家康は豊臣家二代・豊臣秀頼の上洛を求め、二条城での秀頼との会見を要請する。

秀頼が二条城に出向いて家康と会見すれば天下に豊臣家の服属を示す事になる為、豊臣家内では反対もあったが、加藤清正浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は何とか実現する。

この年から徳川家康は江戸に二代将軍・徳川秀忠の幕府を置いたまま二条城を居城に二元政治を始め、家康は在京の大名二十二名を二条城に招集させて「幕府の命令に背かない」と言う誓詞を提出させ、その翌年(慶長十七年)になると東北・関東などの大名六十五名からも同様の誓詞をとっている。

この時点で、家康は豊臣家の討伐を選択していたのだ。

加藤清正や浅野幸長らの助力で秀頼が二条城に出向いて家康と会見する二条城の会談が実現し、両者の緊張は緩和したものと思われたのだが、二条城の会談直後の慶長十六年には浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長十八年に成ると池田輝政浅野幸長が、そして慶長十九年には家康に次ぐ大老として豊臣家の後ろ盾となっていた前田利家の前田家を継承した二代・前田利長が亡くなる。

百万石の大々名・前田利長が亡くなると、秀吉恩顧大名の主力のほとんどが代替わりと共に徳川家に臣従するか改易減封になって頼るべくも無く豊臣家は孤立して行く。

ただ大阪城の金蔵には、太閤・秀吉が溜め込んだ莫大な軍資金があった。

孤立に焦った豊臣家は、資金を使って幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり兵糧や浪人を集めだして幕府との対決姿勢を前面に押し出し始める。

実はこうした緊張状態を、だれよりも待っていたのが家康である。

勿論家康も戦の準備は怠らず、大阪城攻略の兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じると共にイギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。

準備は整えつつ在ったが、家康はきっかけを探していた。

今後諸侯の上に立つ将軍家の立場として、主家筋である豊臣家を討つ事は秩序の否定に繋がり跳ね返って来ないとも限らない。

もはや「きっかけ待ち」だった家康は、主家筋である豊臣家を討つ事の倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩していた。

そのきっかけとして目を着けたのが、「方広寺鐘銘事件」である。

こうした状況下で、西国大名五十名から「幕府の命令に背かない」と言う誓詞をとって家康のもくろみは着々と進んでいた。

片桐且元・貞隆は大坂城を退去し、相前後して秀頼に近侍していた織田信雄、石川貞政なども退去するに到って期が熟すと、いよいよ家康は諸大名に大坂城攻撃を宣言し、大坂冬の陣が始まっている。

大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(二)戦闘】に続く。

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方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2009-06-23 04:16 | Comments(0)  

加藤清正(かとうきよまさ)

福島正則(ふくしままさのり)の盟友・加藤清正(かとうきよまさ)は、どうやら我輩の推察する所の豊臣秀吉山窩(サンカ・サンガ)説の立証をしてくれそうな人物である。

智勇兼備の名将として知られている加藤清正(かとうきよまさ)だが、武将の側面として特筆すべき能力を備えていた。

清正は、藤堂高虎(とうどうたかとら)と並び称される築城の名手としても知られているが、この辺りにその謎解きのヒントがある。

清正は、重臣に登用した飯田覚兵衛、大木土佐らと穴太衆(あのうしゅう/石工衆)を用いて熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっている。

また、清正は領内の治水事業にも意欲的に取り組み、その土木技術は非常に優れており肥後の領国(熊本県内)には現在も清正による遺構が多数存在して四百年後の現在も実用として使われている。

その清正の築城・土木技術は何処から来たのだろうか?

加藤清正(かとうきよまさ)は、鍛冶屋を営む父・加藤五郎助(清忠)と母・伊都の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。

この母・伊都が問題で、秀吉の生母である大政所の「従姉妹(あるいは遠縁の親戚)で在った」とされ、つまりは清正が秀吉とは血縁関係にあるところから同様に土木技術を持つ集団の長の一族だったのでは無いだろうか?

千五百七十六年(天正四年)、豊臣秀吉が丹羽長秀柴田勝家から一字ずつをもらい受けて木下姓を羽柴姓に改め織田家内で頭角を現した頃、加藤清正は秀吉の遠戚として秀吉に仕え、百七十石を与えられている。

秀吉の土木技術はつとに有名で、備中国に侵攻し毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込むなど、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺しと城攻めの名手・秀吉の本領を存分に発揮しているのだが、この中に若き日の加藤清正の姿が在ったのである。

千五百八十二年(天正十三年)明智光秀本能寺の変を起こして織田信長が死去すると、秀吉の弔い合戦・山崎の戦いに清正も参加して光秀に圧勝する。

その翌年、柴田勝家と秀吉の雌雄を決する賤ヶ岳の戦いで「敵将・山路正国を討ち取る」と言う武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」の一人と並び称されて、三千石の所領を与えられている。

その後も秀吉の命に従い各地を転戦して数々の武功を挙げ、千五百八十二年(天正十三年)に秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭(かずえのかみ)に叙任され、翌年の九州征伐の後に肥後の半国・十九万五千石を拝領して熊本城主となる。

尚、加藤清正(かとうきよまさ)は、藤原北家・利仁流斎藤氏の枝・加藤景廉(かとうかげかど)の末裔を自称するが、証明する証拠は乏しく出自は証明されていない。

加藤清正(かとうきよまさ)の石田三成・小西行長との確執】に続く。

豊臣秀吉・恩顧大名リスト】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2009-06-20 14:35 | Comments(0)  

加藤清正(かとうきよまさ)の石田三成・小西行長との確執

肥後(熊本)の領国運営に力を入れ治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮していた清正だったが、主君・豊臣秀吉の野心から朝鮮及び中華帝国の侵略を狙った文禄・慶長の役(朝鮮征伐)が起こり、清正は二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いて朝鮮へ出兵する。

清正は戦果を挙げつつ半島内部に進行し目覚まし働きをした清正は、その勇猛振りから朝鮮の民衆に「犬、鬼(幽霊)上官」などと恐れられた。

所が、清正は三番隊・小西行長と作戦面で対立、またこの朝鮮出兵の頃から元々肌が合わなかった文治派閣僚の石田三成との確執が明との和睦をめぐって顕著なものとなり、その対立が元で秀吉の勘気を受けて一時は京に戻されている。

この辺りの確執が、後の関が原で石田三成・小西行長vs福島正則加藤清正(かとうきよまさ)の関が原対峙の芽と成ったのである。

慶長の役の出兵の最中に太閤・秀吉が病死して朝鮮征伐が中止となり、清正が引き上げて来ると石田三成が豊臣家を我が物顔で取り仕切っている。

面白くない清正は五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶って三成に敵対、前田利家が死去すると福島正則や浅野幸長ら六将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こして家康の取り成しの為に失敗した。

しかしその翌年、三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに清正は九州別動隊として東軍に参戦、西軍・小西行長の宇土城や立花宗茂の柳川城を攻め、また蝶略して九州の西軍勢力を次々と破り、戦後の論功行賞で肥後の小西行長旧領を与えられ、加藤清正は肥後一国など都合五十二万石の大々名となる。

加藤清正もまた、主君・秀吉の正室・北政所(おね/ねね)は勿論の事、多くの側室に子が為せなかった主君・秀吉が、不思議な事に淀君(よどぎみ/浅井茶々)にだけ二人(一人は夭折)も子を為した。

つまり秀頼の実父は別人の可能性があり、加藤清正は秀頼の出生に疑念を持ち、秀頼が秀吉の実子で有る事には最後まで得心が行かなかった事も、東軍・家康方に組した要因だった。

関が原戦後は、旧主・豊臣家の存続にも腐心して忠義を尽くし、福島正則とともに二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した清正だったが、帰国途中の船内で発病し居城・熊本城で死去している。

清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だった為に幕府に何か難癖を付けられて幕府の命により改易になっている。

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by mmcjiyodan | 2009-06-20 14:32 | Comments(0)  

福島正則(ふくしままさのり)の関が原

徳川家康が、難癖ではあるが会津・上杉家の豊臣家に対する謀反を言い出し討伐の軍を編成した時、正則は六千余りの軍勢を率いて従軍していた。

その上杉討伐の北上行軍の途中、上方(京・大阪)方面で石田三成が挟み撃ちを狙って家康討伐を掲げて挙兵する。

この三成挙兵の報を受けて、家康と行軍中の諸大名・諸将はどちらに味方するのかの選択を迫られ去就に窮して動揺する。

その迫られた去就を決定つけたのが、あらかじめ家康の意を受けた黒田長政(くろだながまさ)に懐柔されていた福島正則の談合密約に拠る正則主導の小山評定である。

小山評定では動揺する諸大名・諸将の機先を制して、正則がいち早く家康の味方につく事を誓約した為に秀吉恩顧の正則の姿勢に諸将は一致して同意、反転して西上する方針が決定する。

徳川家康を総大将とした東軍はふた手に分かれて上方に攻め上る事となり、家康本隊の東海道方面軍と家康長男・徳川秀忠を大将とする中山道方面軍の二隊が夫々の街道を進軍して行く。

東軍・家康方の東海道方面軍が福島正則(ふくしままさのり)の居城・尾張清洲に到達した関ヶ原の戦いが始まる前、福島正則は先鋒を買って出て出陣し、池田輝政と先鋒を争い、清洲から美濃方面に進軍して西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは黒田長政らと共同で城を陥落させている。

この関が原の戦いで獅子奮迅の活躍した猛将・福島正則(ふくしままさのり)は東軍に布陣して居た。

東西両軍が対峙した関ヶ原の戦い本戦では、福島正則は当初石田勢との直接対陣を希望したが手柄の一人占めを憂慮した家康の思惑で結局叶わず、幾多の戦いで先陣を務めたにも関わらず、功を焦った井伊・松平らに抜け駆けされ激怒し、西軍・宇喜多勢一万七千に福島勢六千余りで戦端を開き死闘を繰り広げた。

宇喜多勢に突っ掛かっては見たが、宇喜多秀家隊の前衛を率いた明石全登は音に聞こえた勇将の上に兵は八千で福島勢は劣勢に立たされて押しまくられ、一時壊滅寸前に追い込まれている。

この福島勢壊滅の危機を、正則自身が血相を変えて叱咤し一進一退の攻防を続けている情況で西軍方に配陣していた小早川秀秋が突如東軍方として参戦、それを機に西軍の戦線は次々に崩壊した為に福島正則隊は甚大な被害を受けながらも宇喜多勢を打ち破る事に成功する。

関が原戦大勝利後も、正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走して貢献、戦後処理で安芸広島と備後鞆の計約五十万(四十九万八千二百)石の大封を得ている。

福島正則(ふくしままさのり)は、関が原の戦いで東軍側に立ち石田三成の率いた西軍を打ち破る大功を立てたが、秀吉恩顧大名の側面も残していて豊臣家存続に腐心している。

もはや家康の時代になっているのに未だ豊家主筋を主張する淀君を、加藤清正や浅野幸長とともに説得して二条城での会見に豊臣秀頼の上洛を実現させた。

この二条城に於いての家康と秀頼の会見直後に、不思議な事が起こる。

加藤清正や浅野長政幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も体調を壊して隠居を願い出るが許されずに飼い殺しの状態に置かれている。

この豊臣恩顧大名の相次ぐ死、徳川方の放った忍びの仕業とも大陸から持ち帰った風土病とも言われているが、何故か有力豊臣恩顧大名の当主が多かった。

大坂の陣では大阪方・秀頼に加勢を求められても拒絶したが、正則の恩顧大名の心情を疑われ東軍への従軍も許されず江戸留守居役を命じられた。

大坂の陣で豊臣氏が滅亡し、それを機に正則はひたすら幕府への恭順を余儀なくされ、家康死後間も無くの正則居城・広島城の応急修理に「武家諸法度違反」の難癖を付けられ、咎められて安芸・備後五十万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩と越後国魚沼郡の四万五千石に減封される。

その後嫡男・忠勝が早世した為、正則は幕府に二万五千石を返上して僅か二万石を残すのみになるが、その二万石も正則の死去に際して遺体を幕府の使者が到着する前に火葬した事を咎められ没収され改易、福島家の後を継いだ正則の子・正利は三千石の旗本として家名を継ぐ事になる。

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by mmcjiyodan | 2009-06-18 05:12 | Comments(0)