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丹羽長秀(にわながひで)

丹羽長秀(にわながひで)は、尾張守護職・斯波氏の家臣・丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれている。

丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は千五百五十年(天文十九年)から信長に仕えた。

千五百五十六年(弘治二年)に起きた、織田信長とその弟・信勝(信行)との家督争いから起きた稲生の戦いでは柴田勝家他多くの武将が弟・信勝(信行)方に付く中、丹羽長秀(にわながひで)は最初から信長方に付いて戦い、信長の信頼を勝ち取っている。

その後長秀(ながひで)は千五百六十八年(永禄十一年)、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、観音寺城の戦いと呼ばれる南近江の六角氏征伐や斎藤龍興との美濃における戦いで武功を挙げ織田家中で台頭して行く。

長秀(ながひで)は軍事だけではなく、政治面に於いても優れた手腕を発揮して安土城の普請奉行などを務めるなど多大な功を挙げ、信長から近江佐和山城や若狭一国を与えられ家老の席順としては柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、織田家の柴田・丹羽の双璧といわれる。

その事から、当時「木下」姓だった木下秀吉(後の豊臣)が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請し、丹羽長秀にとっては柴田勝家に並び称されている証で在る為に長秀が秀吉に対し好意を持った逸話もある。

この羽柴秀吉の行為を快く思った丹羽長秀は秀吉の保護者となり、柴田勝家とは対照的にその後の秀吉の天下統一に大きく寄与する。

その後も丹羽長秀(にわながひで)は拡大する織田家中で二番家老の席次待遇を受け続けるが文官扱いで、軍事的な面では独立した軍を持つ柴田勝家・滝川一益明智光秀・羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。

本能寺の変当時、長秀は主君・信長の三男・織田信孝(神戸信孝)の四国征伐軍の副将を命じられ三好康長・蜂屋頼隆とともに四国征伐軍(長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)討伐)の出陣の支度をしていた所に出陣直前に本能寺の変が起こる。

長秀は羽柴秀吉の軍に参戦し、山崎の戦いで信孝を補佐して共に戦い明智光秀を討ち、その後の清洲会議でも柴田勝家が押す織田信雄(おだのぶお)に抗して秀吉の主張する信忠の嫡男・三法師君の織田家相続を支持し、結果として諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。

羽柴秀吉が柴田勝家と天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前の大半及び加賀二郡を与えられ約百二十三万石の有数の大々名となったがその二年後に病死している。

丹羽長重(にわながしげ)】に続く。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2009-07-30 11:45 | Comments(0)  

信長次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・伊勢国主)

織田信長の嫡男・織田信忠(おだのぶただ)と次男・織田信雄は、異説もあるが定説では「生駒吉乃(いこまきつの)の胎による」と伝えられている。

織田信長は、伊勢長島の一向一揆鎮圧に腐心する一方で、伊勢国を勢力範囲に入れる為に、次男・織田信雄(幼名・茶筅丸/ちゃせんまる)を伊勢に勢力を維持していた村上源氏流の名門・北畠家に養子に出す。

織田茶筅丸は、千五百五十八年(永禄元年)、尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷織田信長の次男として生まれる。

千五百六十九年(永禄十二年)信雄(のぶお)十二歳の時、父・信長の北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠具房(きたばたけともふさ)の養嗣子となって具房の妹の雪姫(北畠具教の娘)を娶った。

千五百七十二年(元亀三年)に信雄(のぶお)は、十五歳で元服して北畠具豊(きたばたけともとよ)と称し、三年後の千五百七十五年(天正三年)に北畠家の家督を相続する。北畠具豊(きたばたけともとよ)はこの頃から、津田一安(織田一門)の補佐の元、家中の実権を掌握し始める。

具豊(ともとよ)は家督相続後は北畠信意(きたばたけのぶおき/信雄)に改名する。

翌千五百七十六年(天正四年)には、信意(のぶおき/信雄)は信長の命令で北畠一門を抹殺し、翌年に津田一安を粛清している。

千五百七十九年(天正七年)、信意(のぶおき/信雄)は無断での伊賀国侵攻戦に大敗して信長から叱責される。

しかし信意(のぶおき/信雄)は、二年後の千五百八十一年(天正九年)に、大和・伊勢の諸大名の加勢を受けて再度伊賀へ侵攻し平定する。


千五百八十二年(天正十年)、武田勝頼が率いた甲斐・信濃を平定した父・信長は、終(つい)に覇権を握る為の工作が最終段階に入っていた。

しかし信雄(のぶお)の父・信長は、千五百八十二年(天正十年)に京都の本能寺に投宿、家臣の明智光秀に依って討たれてしまう。

世に言う本能寺の変のこの時、同じ京都の妙覚寺に投宿していた信長の嫡男・織田信忠(当時美濃国主)、次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき・当時伊勢国主)、信長弟・長益(後の織田遊楽斉)の所にも信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した知らせが届く。

本能寺強襲の知らせを受けた信長嫡男・織田信忠は本能寺へ救援に向かうが途中で父・信長自害の知らせを受け、光秀軍が自分に向かったと知ってこれを迎撃すべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代・村井貞勝らと共に皇太子の居宅である二条新御所(二条城の前身)に移動して御所の主である儲君(皇太子)・誠仁親王を城の外に出して僅かな軍兵とともに篭城し、攻め寄せる明智軍に善戦するも及ばぬ事を悟って自害している。

この時織田信忠(当時美濃国主)と共に妙覚寺に居た次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき)と信長弟・長益(後の織田遊楽斉)は明智軍の包囲を掻い潜り夫々の所領に逃げ帰り、北畠信意(織田信雄)は伊勢で兵を整えて近江土山まで進軍するが余程臆病な性格なのか明智軍と交戦する事無く所領の伊勢に戻っている。

程なく中国大返しで戻って来た羽柴秀吉山崎の合戦で明智光秀を破ると北畠信意(きたばたけのぶおき)は織田家の継承を目論んで織田姓に復帰し、清洲会議で柴田勝家に担がれて織田家相続を狙うが、羽柴秀吉に亡き信忠の嫡男・三法師君を対抗に立てられて失敗する。

その後織田家筆頭家老の柴田勝家と羽柴秀吉との間で、千五百八十三年(天正十一年)織田信長の天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされると、織田信雄(おだのぶお)は徳川家康に助勢を頼んで小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)を起こすが、やはり余程臆病な性格から戦の途中で和議をしている。  

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第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-07-26 06:50 | Comments(0)  

伊達政宗(だてまさむね)(1)青年編

伊達家第十七代当主(仙台藩初代藩主)・伊達政宗(だてまさむね)は伊達藤次郎政宗と呼ばれ、伊達家中興の祖と呼ばれる第九代当主・伊達大膳大夫政宗の名に因(ちな)んで正宗を名乗っている。

政宗(まさむね)の伊達家の祖につては、異説もあるが一般的に藤原・山蔭流の待賢門院非蔵人・藤原光隆の息子である藤原朝宗(伊達朝宗/だてともむね)に比定されている。

平安時代末期の武将・伊達朝宗(だてともむね)は中央で官位を持つ藤原北家魚名山蔭流であるとともに常陸国伊佐郡に勢力を張る在地豪族でもあり、源頼朝が挙兵した際には、母方の従兄弟という関係もあってその麾下に馳せ参じた。

奥州合戦に際しては、四人の子息とともに前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。

藤原朝宗(伊達朝宗/だてともむね)はこの功によって激戦地阿津賀志山がある陸奥国・伊達郡を賜り、これを契機に伊達を称したという。


奥州(東北)の雄・伊達政宗も、織田信長同様に母に愛されなかった男である。

それも生半端な話ではなく、母・最上義姫は弟・小次郎(政道)が生まれるとそちらを可愛がり、政宗に降りかかった二度の暗殺未遂事件の首謀者が母・義姫だった。

それで止むなく、政宗は弟・政道を自らの手にかけて殺害している。

伊達政宗の母・最上義姫は、出羽国(山形・秋田)の戦国大名・最上義守の愛娘で次の当主・最上義光の妹に当たる。

義姫は、最上家から所領が隣接して対立関係に在った出羽国の(山形・秋田)の戦国大名・伊達家に十六歳で嫁ぎ、三年後の十九歳で伊達家継嗣・梵天丸(政宗)を産んでいる。

或いは政宗の壮絶な戦ぶりは、織田信長同様に母に愛されたくて己の能力を証明したかった事が原動力かも知れない。

政宗(まさむね)は、千五百六十七年の九月に生まれたとするから、豊臣秀吉とは三十歳、徳川家康とは二十四歳も年下になり、政宗誕生の翌年には織田信長足利義昭を奉じて大軍の兵を率い、畿内を制圧しつつ上洛している。

千五百七十年(元亀元年)の姉川の合戦が政宗が四歳の時で、千五百八十二年(天正十年)六月の本能寺の変当時でも漸く政宗は十六歳で、つまり遅れて戦国期に生まれて来た不運の名武将だったのかも知れない。

千五百六十七年(永禄十年)出羽米沢の米沢城に生まれた伊達政宗(幼名・梵天丸)は、五歳のみぎり疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。

当時はまだ天然痘を治す治療方法はなく、死の病であった。

政宗は千五百七十七年(天正五年)に数えの十一歳で元服、二年後の十三歳で仙道の戦国大名・三春城主・田村清顕の娘・愛姫を正室としている。

元服から四年、政宗は隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に十五歳で初陣し勝利を収める。

この相馬氏との合戦で見せた政宗の政宗の武将としての素質を見抜いていた父・輝宗は、四十一歳若さで家督相続を伝え十八歳の正宗に家督を譲り伊達家十七代を継承する。

その後正宗は、小手森城主の戦国大名・大内定綱や二本松城主の戦国大名・畠山義継など近隣武将と戦い、反伊達連合軍を形成した佐竹氏・蘆名氏など三万の連合軍を安達郡・人取橋付近で六千に満たない兵力で迎え撃ちかろうじて勝利を納める。

人取橋の戦いに勝利した政宗は正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て更なる侵攻を行い、千五百八十八年(天正十六年)に安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる郡山合戦にて伊達政宗軍と蘆名義広・相馬義胤連合軍との戦闘で相手国の領土を奪い、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下に置く戦国有数の大名となる。

しかし中央では既に豊臣秀吉が天下を掌握しつつあり、朝廷から関白の位を得て関白・豊臣秀吉は関東・奥州(東北)の諸大名、特に関東の後北条氏と奥州(東北)の伊達氏に対して私戦禁止命令を発令した。

所が、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行し、会津の蘆名氏・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)で破りさらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼし戦国大名・白河義親、石川昭光、岩城常隆、大崎氏、葛西氏を服属させ現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部宮城県の南部を領し、南陸奥の諸豪族や宮城県や岩手県の一部を勢力下に置いて支配し、全国的にも屈指の領国規模を築く大々名に成っていた。

伊達政宗(だてまさむね)(2)苦闘編】に続く。
伊達政宗(だてまさむね)(3)大成編】に飛ぶ。

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安土桃山時代(あづちももやまじだい)】に飛ぶ。
奥州・伊達氏(だてうじ)】に飛ぶ。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-07-22 03:34 | Comments(0)  

伊達政宗(だてまさむね)(2)苦闘編

伊達政宗(だてまさむね)(1)青年編に戻る。

屈指の領国規模を奥州に築く大々名に成っていた伊達政宗(だてまさむね)だが、政宗には転機が訪れていた。

正宗が奥州(東北)に覇を唱えた頃には織田信長の統一事業を継承した豊臣秀吉が「天下布武」の最終段階に漕ぎ着けていて、秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられる。

当初無視していた正宗も同盟関係に在った関東に大国を領する後北条氏が秀吉の二十万余の大軍に攻められる(小田原征伐)に及んで、後北条氏に味方して秀吉と戦うべきか秀吉方に参陣して小田原攻めに参加するか直前まで迷っていた。

出した結論が、秀吉に服属し小田原攻めに参陣する事だった。

伊達政宗は戦国の世に生まれて、少なくとも奥州制覇を目論んだ男である。

しかし残念な事に奥州最大の戦国大名に手が届いた頃は、既に中央では豊臣秀吉が関東の後北条氏以西を制覇してその力は強大だった。

引く事も将の器の内で、ここで意地を通すのが必ずしも名将ではない。

圧倒的な秀吉の力を前にして、政宗は伊達家の存続を考えざるを得なかった。

伊達政宗の助勢援軍を頼りに小田原に篭城していた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、後北条氏の滅亡と正宗の服属により残されていた関東と奥州は平定され、秀吉の天下取りは達成された。

関白殿下・豊臣秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉との対立をあきらめ服属する事で、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされた会津領などは没収されたが七十二万石になった本領を安堵される。

この時空いた合津領に、伊達政宗の抑えとして四十二万石で移封されて来たのが蒲生氏郷(がもううじさと)だった。

その後政宗は葛西大崎一揆に絡んで嫌疑をかけられ、扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に五十八万石に減封されての転封となり、移封先の城名を岩出山城に変えている。

豊臣秀吉が朝鮮半島と中華帝国の平定の野心を抱き文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を決めると、政宗は従軍して朝鮮半島へ渡る。

この朝鮮出兵時に政宗が派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させ伊達家の部隊に誂(あつら)えさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。

これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになって「伊達男」の語源になった。

太閤となり関白職を甥の豊臣秀次に譲った秀吉だったが、その関白・豊臣秀次が秀吉から謀反の疑いをかけられ切腹した時には秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。

政宗自身も秀吉から秀次謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れている。

いずれにしても、織田軍団相手に不敗を誇った上杉家に直江兼続が在る限りの警戒と同様に、ほぼ奥州を平らげた伊達政宗の力量を秀吉は警戒して事あるごとに牽制していたから、それが正宗にとって忍従の日々だった事は事実である。

伊達政宗(だてまさむね)(3)大成編】に続く。
伊達政宗(だてまさむね)(1)青年編】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2009-07-22 03:26 | Comments(0)  

伊達政宗(だてまさむね)(3)大成編

伊達政宗(だてまさむね)(1)青年編に戻る。
伊達政宗(だてまさむね)(2)苦闘編に戻る。

伊達正宗にとって重石となっていた豊臣秀吉文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の第二次出兵「慶長の役」の最中に病死する。

奥州に大国を領しながら豊臣政権下で大老職にも就けられない冷遇を受けていた正宗にして見れば、継子・豊臣秀頼の行く末は秀吉から何も頼まれては居ない。

豊臣秀吉と言う重石が取れた政宗は秀吉の遺言を破り、五大老・徳川家康と政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させ反豊臣色を鮮明にして行く。

千六百年(慶長五年)に徳川家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ上杉討伐の出陣を行うと、政宗は家康に従軍して上杉の支城白石城を陥落させるなど活躍したが、家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し為、小山まで北上していた家康は急遽反転して西へ向かった。

この際家康は、政宗に上杉景勝を会津に釘付けにさせて置く為に「新たに四十九万石の領土を与える」と言う百万石のお墨付きを与えるが「和賀一件」の策謀を咎められ四十九万石加増の約束を反故にされ、政宗への恩賞は仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて二万石の加増のみに止まっている。

仙台開府の許可を得た政宗は関が原合戦の翌年、千六百一年(慶長六年)に仙台城と仙台城下町の建設を始め居城を移して仙台藩が誕生した。

仙台藩・伊達六十二万石については、後に近江と常陸に小領土の飛び地二万石の加増を受けた事で公称六十二万石とされている。

その後の千六百十三年(慶長十八年)には伊達政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図してエスパーニャ帝国国王フェリペ三世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造し、家康の承認を得ると支倉常長(はせくらつねなが)ら一行百八十余人を慶長遣欧使節としてヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した。

その慶長遣欧使節派遣の翌年、千六百十四年(慶長十九年)には豊臣家最後の抵抗大坂の役が起こり、政宗は大阪城攻めに参戦して家臣の将・片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田信繁(幸村)の攻勢を受けて立つなど大きな功があった。

しかし関東二百五十万石を領した後北条氏との同盟を破り豊臣秀吉に臣従して後北条氏を滅亡に追いやり、徳川家康に乗り換えて豊臣家の滅亡にも加担した伊達政宗の天下への影響力は一流だった言って良い。

伊達政宗は二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の頃まで仕え、千六百三十六年(寛永十三年)五月に江戸で波乱の生涯を閉じている。

政宗亡き後の伊達家は外様ながら徳川家とは姻戚関係を結び、東北の雄藩として明治維新まで永らえ華族令施行により伯爵を賜っている。

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by mmcjiyodan | 2009-07-22 03:22 | Comments(0)  

黒俣(すのまた)一夜城(秀吉出世城)

美濃国々主・斉藤道三の娘帰蝶(きちょう/濃姫)織田信長が嫁に貰うには、元の国主・美濃守護職・土岐頼芸が道三に追われ、信長の父信秀に援助を要請した経緯などがある事は在る。

しかし信長の織田家は格から言えば守護代家の家老相当格で、まだ弱小領主だから娘を嫁がせてまでの政略結婚の理由としては説得力に欠ける。

何故なら、斉藤道三は凄まじい下克上を経て、美濃一国を手に入れた男で有る。

斉藤道三が、信長に「何か」を見たからこその、縁談ではなかったのか?

それで無ければ、息子を差し置いて信長の手元に、道三からの美濃一国の「譲り渡し状」など残る訳が無い。

信長はこの道三の「譲り渡し状」を根拠に、美濃の豪族へ「味方に寝返るよう」書状を送り、実父・道三を討ち、美濃の国主に納まった斉藤義龍と対峙、度々美濃に攻め込む。

木下藤吉郎(秀吉)の「黒俣一夜城」は、この時のエピソードである。

長良川西岸、犀川が合流する所に墨俣(すのまた)と呼ばれる土地が在る。
言わずと知れた、「豊臣秀吉の出世城が在った」とされる所である。

内陸に在った美濃国にとって、水運の要衝・墨俣(すのまた)に砦を築かれる事は、戦略上、交通上重要な拠点ではあった。

秀吉の墨俣(すのまた)一夜城の舞台であるが、実はこの話は江戸中期になって捏造(ねつぞう)されたものである。

墨俣(すのまた)城に関しては、築城主は不明とされているが中世からその存在の痕跡がある。

つまり「木下藤吉郎(秀吉)の手による築城」と言うよりも、、山窩(サンカ・サンガ)系独立集団の土豪・蜂須賀小六正勝率いる「川並衆」の勢力下に在ったものを、藤吉郎(秀吉)への忠誠の証として形式上「信長に献上した」と言う可能性が高い。

お館様・織田信長が本格的に美濃国攻略を決意した時、織田勢としては足掛かりになる砦が美濃に欲しかった。

軍儀で「何か策は無いか?」と問われて、藤吉郎(秀吉)は「恐れながら」と末席から名乗り出た。

藤吉郎(秀吉)は、独立集団・蜂須賀小六が率いる「川並衆千五百」とその本拠地・墨俣(すのまた)砦を「傘下に引き入れて見せる」と言上し、信長から「成功したらそのまま守将に任じさせる」と約を取り付けていた。

砦の主は藤吉郎(秀吉)に旧知の蜂須賀小六で、話を着ける自信は充分にある。

藤吉郎(秀吉)は長良川の水嵩(みずかさ)が増す前に浅瀬を見つけ、河を渡って墨俣(すのまた)の砦に辿り着いた。

そして藤吉郎がどんな手を使ったのかは定かでないが、蜂須賀小六以下蜂須賀党をことごとく口説(くど)き落として傘下に入れている。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)は蜂須賀小六を口説(くど)き落として傘下に入れると、墨俣(すのまた)砦を突貫工事で整備して城の体裁を整えている。

この墨俣の織田方小城の存在が美濃・斉藤勢に取っては厄介この上ないもので、美濃・斉藤家臣団に大きな動揺を与えたのは事実である。

それにしても蜂須賀小六正勝は、何故か当時まだ「織田家家臣の末席に在った」と思われる木下藤吉郎の口説(くど)きに易々と乗り、まるで以前からそうであったがごとく臣従しているのは謎であるが、その話は後ほど解き明かす事にする。

父である美濃国々主・斉藤道三を追い出し、その後討ち取って国主の座を手に入れた斉藤義龍は、追い出された道三からの美濃一国の「譲り渡し状」を受け取っていた織田信長と対立し、両者は再三小競り合いを繰り返している。

その後斉藤義龍は病死、息子・斉藤龍興が十四歳で家督を継ぐが、若輩の当主の為に斉藤家は求心力を失い、道三の「譲り渡し状」が勿怪(もっけ)の理由と家臣の寝返りが激しくなって、美濃は信長の手に落ちたので有る。

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太閤刀狩(たいこうかたながり)】に飛ぶ。
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき/朝鮮征伐)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2009-07-19 02:51 | Comments(0)  

山窩(サンカ・サンガ)

元々の列島の先住民・蝦夷(えみし/縄文人)は調和の民で、自然と調和し互いに調和して暮らしていた。

そこへ破壊混乱の氏族が武力を持って征服に来た。

この時から、まったく違う価値観を持った氏族と良民(民人)・非人(賎人)、つまり破壊混乱の氏族と調和の民が同居する二重国家体制の日本列島が徐々に形ち作られて行く事に成る。

日本人は、原日本人系縄文人と比較的後期の渡来系との同化二重構造の中で、混血が今でもまだ続いている。

日本列島の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)が「自然共生主義」である所から、その信仰基盤に自然神が多数存在し、後期の渡来系が同化に際してそれを採用(治世に利用)して八百万(やおよろず)の神が成立した。

その混血同化の証明が、ミトコンドリアDNA分析である。

アイヌの人々と沖縄の人々が、人類学的にも分析でも、「縄文人に近くて近縁関係にある」と証明されてはいるが、少なくとも一万二千年以上前には、「別の集団として存在していた」と見られる。

「原日本人系縄文人に近い」とされているアイヌ系と沖縄系に多いタイプの割合が原ポリネシア系であり、日本本土では約二十四%、韓国では約十九%、中国では約十二%である。

わが国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。

明治維新以後に戸籍(壬申戸籍 /じんしんこせき)をつくるまで、山窩(サンカ・サンガ)は、治世の外に存在した自由民であった。

この山窩(サンカ・サンガ)は、九州から東北地方まで分布している所から、比較的後期の渡来系勢力に押されて、同化を拒み、山中に逃げ延びた「内地の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)の一部ではないか」と考えられる。

つまり、先住民族(鵺、土蜘蛛、鬼、の類)の同化から取り残された残存の一部が、山窩(サンカ・サンガ)でないと、存在の理由が見当たらないのである。

勿論、山窩(サンカ・サンガ)にも渡来系勢力との接触はあるから、完全に文明から取り残された訳ではない。
山に篭った群れ、平地に降りて来て一郭に集団で居留したもの、その中間の存在もあった筈である。

戦国期安土桃山期に伸し上がった土木工事や築城術、土木戦術、輜重(しちょう/後方支援)運輸術など異能の勢力が、豊臣秀吉を始めとする蜂須賀正勝(小六)加藤清正藤堂高虎などの別の素性を出自とする土豪集団が一大勢力を築いた事も、彼らが平地に降りて来た山窩(サンカ・サンガ)集団からの出自を疑わせが、その話は追々語る事にしよう。

そして彼ら山に篭った群れの純粋な山窩(サンカ・サンガ)の生活にも、文明や道具の一部は取り入れられたが、生活様式だけは頑なに守って独自の生活圏を山岳地帯につくり、言わば祭らわぬ人々(統治されざる人々)として存在し、それが明治維新の少し後まで無人別集団として存在して居たのである。


江戸期の差別制度は、明治維新後の部落民差別として残って行く。

狩猟の民である先住民(蝦夷族/エミシ族)山窩(サンカ・サンガ)は、仏教の教えである「殺生の禁止」を生業としていた。

しかし大和朝廷では、仏教を国家統一の為に採用して啓蒙していたので、「殺生の禁止」を生業としていた山窩(サンカ・サンガ)は、永く非主流の狩猟遊民として定住もままならない存在だった。

この歴史現象を公平に判断すると、この仏教の教えである「殺生」を禁じた教えを渡来民族政府だった大和朝廷が採った事は、日本列島運営の政治的な計算も在った筈である。

正直大和朝廷政府は、原住民族である先住民(蝦夷族/エミシ族)の抵抗には平安末期まで苦労していた。

それでも時を費やしながら、先住民(蝦夷族/エミシ族)の末裔である賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)を含む平民にも、仏教の教えは徐々に定着して行った。

現にこの「仏教化政策」は成功し、四足動物の建前上での食肉禁止は明治維新までほぼ国民の多数合意されていた。

その食肉禁止の文化も、明治維新の文明開化で薄れて行った。

基を正すと歴史経過の中で取り残されたに過ぎない一部の部族文化を、「自分達と価値観が違うから」と差別するは、最初から間違っていたのだ。

但し一部の賤民(せんみん)部落に残った四足動物処理技術文化への差別は、一部の心無い人々の意識の中に現在でも残っているのは残念である。


小論【豊臣秀吉・山窩(サンカ・サンガ)の王族説】に飛ぶ。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-07-17 19:30 | Comments(0)  

藤堂高虎(とうどうたかとら)

加藤清正と並び称される築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)に関しては、どうも豊臣秀吉と同じ山窩(サンカ・サンガ)出自の疑いがある。

それは高虎(たかとら)に(山窩(サンカ・サンガ)出自を顕す土木技術や築城術を持つ集団を抱えている特徴と、何よりも豊臣秀吉や豊臣秀長に過分に可愛がられていた点である。

藤堂高虎(とうどうたかとら)は、土豪・藤堂源助虎高の二男として近江犬上郡藤堂村に生まれた。

一介の土豪の出自に過ぎ無い高虎は、北近江の戦国大名・浅井長政に仕えたのを皮切りに北近江の土豪・阿閉氏、磯野氏と次々と主君を代え、次いで織田信長の甥である津田信澄、そして羽柴秀吉へと仕え、最後は豊臣家から徳川家康へと鞍替えを為すなど主家を転々としながら出世を果たした。

当初は仕えた主君に難が在り高虎(たかとら)も不運だったが、羽柴秀長(羽柴秀吉の弟)に仕えてからは何故か秀長に可愛がられて漸く出世への糸口を掴んだ。

羽柴秀長に仕えた時点で、既に高虎(たかとら)はその築城の技術などが認められて三千三百石の知行を拝領して武将の列に入っている。

その後起こった主君秀長の兄・羽柴秀吉と柴田勝家との織田旧主・信長の天下布武(てんかふぶ) の継承権を掛けた決戦・賤ヶ岳の戦いで高虎(たかとら)は目覚しい武功を立てて秀吉の目に留まり、秀吉から直接五千石を拝領する出世劇を得た。

羽柴軍団の将に出世した高虎は羽柴秀長子飼いの中堅の将として仕えて活躍し、秀長の大和国移封にともない一万石を加増されて一万五千石を拝領し小なりとも大名の名乗りを上げるに到った。

その後の秀吉九州征伐への従軍で更なる軍功を立てた高虎は更に一万石の加増を得て二万五千石とし、中堅大名を狙える所まで出世した。

豊臣政権に在って高虎は単に武功によるものだけでなく、実質豊臣政権の屋台骨を背負った豊臣(羽柴)秀長の懐刀として外交や人事、築城と言った官僚技術面でその才能を開花させ、巨大化した豊臣政権の運営には欠く事のできない人物と言う位置を獲得して行く。

豊臣政権が成立して諸大名を抑えての平時の運営に必要なのは優秀な官僚で、その難局に高虎は政治力で良く応えた。

豊臣家ではその高虎の能力を重視し、高虎を従五位下佐渡守に叙任して豊臣家の官僚として諸大名との調整役と言う潤滑油のような役割に使っている。

主君・豊臣秀長が病没し秀吉が文禄の役(朝鮮征伐)を始めると、高虎はまだ若輩の豊臣秀保(秀長の養子/秀吉の姉・日秀の子)を盛り立てて、朝鮮の役に出陣した。

文禄の役では、高虎は水軍を指揮して朝鮮水軍と戦ったが連戦連敗と言う散々な敗北を喫してしまう。

その最中に主君・豊臣秀保が十六歳歳と言う若さで病没、主家である秀長・秀保の豊臣家は解体され行き場を失った高虎は、朝鮮海戦敗退の恥辱と主家の倒壊を嘆いて剃髪して高野山に入ってしまう。

しかし秀吉は、高虎のその才能を惜しみ高虎を召し出して伊予板島(宇和島)七万石を与え、直臣とする。

その高虎は、秀吉が没するといち早く次の天下人は徳川家康に成ると予見して高虎は家康に接近した。

この辺りの高虎の行動に、豊臣秀頼の実父・秀吉に疑問を持つ高虎の行動があったのではないだろうか?

徳川家康と石田三成の間で起こった関ヶ原の戦いでは高虎は東軍・家康方に付いて軍功を挙げ、戦後の論功行賞では家康から伊予半国を拝領し二十万石の中堅大名へとのし上がった。

高虎は今治城を居城と定め、外様大名でありながら徳川家康に信任され、その後の政局で活躍して行く事になる。

高虎はその後家康に仕えて信任を得、大坂城の豊臣秀頼の備えとして伊賀一国を拝領して伊勢安濃津城への移封となり、二十二万余石の大名となった。

以後、藤堂家は外様大名でありながら、譜代大名の井伊家と並んで徳川家の先鋒を勤める名誉ある家柄となり、大坂夏の陣で高虎は八尾で大坂方の長宗我部盛親と交戦した。

つまり秀吉恩顧の大名と言うよりも早くに親徳川に走った武将だった。

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by mmcjiyodan | 2009-07-17 19:23 | Comments(0)  

文禄・慶長の役(朝鮮征伐)

文禄・慶長の役(朝鮮征伐)は、天下人と成った豊臣秀吉が「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心を持った事から始まった。

秀吉の「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心の背景には、武将達を束ねる為の求心力の確保である。

主君・織田信長も、頭角を現すまではその「お血筋」を求心力に後押しをされて戦国の一国を手中にした。

信長の場合は、血筋の他働きに応じた恩賞と所領を与える「お取り立て」が、多くの将兵を傘下に置く求心力だった。

しかし豊臣秀吉の場合は、所詮血筋と言う求心力も持たない為に信長の発想受け売りだけだったので、天下が統一された桃山期に武将達にその恩賞と所領を与え続け、己への求心力を続けるには他国の侵略に手を染めるしかない。

つまり豊臣秀吉が織田信長から学んだ部下の掌握術は覇権を握るまでの途上の事で、領土を切り取り分け与えて臣従させる事だった。

矛盾する事に、秀吉が天下を掌握した時点で切り取る領土は国内には無かった。

天下統一後(天下布武の達成後)の事は、織田信長がどうしょうとしていたのか秀吉は聞いては居無いし信長が亡くなった後、彼のやる事は見る事も出来ない。

そして、唯一秀吉を導ける弟の大納言・豊臣秀長は、この世に居なかった。

多くの武将が秀吉に臣従して来た背景にあるのが所領の加増(つまり分け前)で、日本中を統一した秀吉が武将達に分け与える土地を確保するには、無謀で在っても国外に打って出る以外に無かったのかも知れない。

人間は、一度成功するとその成功の記憶に固執する。

そして危険な事に、その条件や環境が揃わなくても、その成功の記憶に頼って無謀な決断を下す。

朝鮮及び中華帝国の侵略を目的とした文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の実行である。

或いは織田信長の天下布武の最終ビジョンの中に「朝鮮及び中華帝国の侵略」があり、秀吉はその事を信長から聞いて居たのかも知れない。

千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正福島正則小西行長黒田長政浅野幸長らを主力に、十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出した。

当時の李氏朝鮮王朝は然したる軍事力を持っては居なかったので、当初遠征軍は勝利を重ねて半島の南部を簡単に制圧占領している。

しかし他国の侵略は、国内の様には簡単ではない。

国内なら戦は氏族同士の争いだが、他国ともなると民族意識が強く容易に屈服はしないばかりか、民族が団結して民衆まで敵に廻る。

従って、朝鮮半島進攻軍は泥沼に陥る事になる。

その後朝鮮の宗主国・明帝国の軍勢が南下して来て一進一退の攻防となり、小西行長と石田三成が謀って「明帝国」の降伏を偽り一度講和に持ち込むが、互いに勝利を思い込んだ講和交渉がまとまる訳も無く、決裂して秀吉は千五百九十七年(慶長二年)に十四万の大軍勢を持って二度目の出兵を命じている。

この二度に渡る半島に対する派兵を、第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役と呼んでいる。

後のベトナム戦争やイラク戦争に於ける米軍の様相で、その苦戦の泥沼に秀吉子飼いの大名達でさえ不満が鬱積して行った。

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by mmcjiyodan | 2009-07-14 15:11 | Comments(0)  

真田昌幸(まさゆき)と真田信繁(のぶしげ/真田幸村・さなだゆきむら)

真田家と徳川家の間には、徳川氏と後北条氏の平和交渉の過程で出た代替領地案を真田家に蹴られた因縁と関が原合戦の折に二代将軍・徳川秀忠が信州・真田家の抵抗に合い秀忠の中仙道軍の関が原到着を遅参させた因縁がある。

その真田信繁(幸村)を松平忠直(まつだいらただなお)は討ち取る功績を挙げたのである。

忠直にしてみれば、得心が行かなくても当たり前だったのかも知れない。

真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは海野頼昌の子とされる海野幸綱(真田幸綱/幸隆)が小県郡真田郷を領して以後に真田姓を名乗ったとされるが、本家となる海野氏が滋野氏嫡流を名乗っているので真田氏の清和源氏とする出自は信憑性に欠ける。

真田氏の本家に当たる海野氏は、清和天皇の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)をその家祖とする滋野氏(しげのうじ)三家と呼ばれる望月氏、禰津氏(ねずうじ)、海野氏の内の一家であり、真田氏も海野氏流を名乗っている。

清和源氏は、清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子・経基(つねもと/六孫王)が源を賜姓、経基流清和源氏の初代となりその子孫の系統を清和源氏(せいわげんじ)流としているので、海野氏流を清和源氏とするは強引な創作系図である。

とにかく真田氏は、山地の谷あいに在る真田郷の在地の小豪族として歴史に登場する。

時代が下がった戦国期になると、真田氏は甲斐国守護・武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。

しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸は織田信長に恭順した。

その後、本能寺の変明智光秀に反逆された織田信長が横死すると、真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え真田家の勢力維持に奔走する。

名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に。この決定に抵抗、徳川軍兵七千の攻撃を受け上田神川の合戦が勃発するも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。

真田家の得意技は篭城戦で、その戦法は元弘の乱(げんこうのらん)当時の名将・楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城篭城戦と良く似ている。

つまり最小の軍勢で大軍を破るのに適して居るのが篭城戦であるが、攻め手が大軍で先を急いでいるほどその戦法は効果的である。

真田昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。

信州で生き延びた真田昌幸は、やがて豊臣秀吉が天下を取るとその臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解の後、徳川氏の与力大名とされた事から、嫡男・真田信幸と家康養女・小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。

これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である真田昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である真田信幸(沼田城)のニ家が夫々に主を頂く体制となる。

この二家体制が、後に真田氏を二分させて戦う事態となる。

五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いが起こると、真田昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。

但し五大老・五奉行の敬称は後の創作で、リアル豊臣体制では「大老・徳川殿」などとは用いられては居ない。


真田昌幸と次男・信繁は上田城にて二代将軍・徳川秀忠率いる約三万の軍勢を僅か数千で迎え撃ち秀忠軍の足止めに成功、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間にあわなかった原因と言われた。

これが第二次上田合戦と呼ばれた真田勢の大殊勲功である。

名将・真田昌幸(まさゆき)と次男・信繁(のぶしげ/幸村)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、再び数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。

しかし関ヶ原の戦いそのものは東軍・徳川方の勝利となり、戦後に真田昌幸と次男・信繁(幸村)は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって嫡男・真田信之(信幸改め)が上田領を引き継いでいる。

処分はされたものの、二度も徳川の大軍を退けた名将として昌幸・信繁(幸村)親子の名声は高まっている。

紀伊の九度山に蟄居中の真田親子に、孤立無援になりつつある豊臣家から要請があり、真田信繁(信繁・のぶしげ/幸村・さなだゆきむら)は警戒中の紀伊国和歌山藩・浅野幸長(あさのよしなが)の軍勢の目をかいくぐり九度山を脱して大阪城に参じている。

やがて起こった大坂の陣では、真田信繁(幸村)は大坂城に豊臣方として戦い、弱点として見出した平野口の南に曲輪(出丸)、真田丸(さなだまる)を構築し、徳川方を翻弄する。

その冬の陣に於いて真田信繁(幸村)は、一時は茶臼山の家康本陣まで迫る戦ぶりを見せるが、夏の陣で討死している。

天下の知将・真田信繁(幸村)は豊臣家に請われて大阪城に入ったが、残念ながら豊臣家にはこの一代の知将を生かす術を持たず、真田信繁(幸村)が戦の作戦を立案しても豊臣首脳は信繁(幸村)の進言のほとんどを却下した。

真田信繁(幸村)が縦横無尽にその力を発揮するには、豊臣首脳はその戦の全てを知将・信繁(幸村)に任せて置けば良かったのだが、度々信繁(幸村)を統制しに掛かって彼の能力を封じてしまった。

つまり豊臣首脳は、信繁(幸村)の知力よりも自分達の面子を重んじる愚を犯して、戦をより不利なものにしてしまったのである。

一方、徳川方として参陣した嫡男・真田信之(信幸改め)は戦功を上げ、松代藩十三万石へ加増移封となって真田の家名を残している。

関連小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

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