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武将と髭(ひげ)と影武者と・・山崎合戦

山崎合戦は天王山の戦いとも呼ばれ、中国大返しの奇跡で引き返して来た羽柴秀吉が、京都へ向かう途中の摂津国(おおむね大阪府)と山城国(京都府南部)の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町・山崎、京都府乙訓郡・大山崎町)の地で、明智軍と激突した戦いである。

摂津衆は中川清秀・高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方し、更に四国征伐の為に大坂に集結していた織田信孝丹羽長秀らも羽柴秀吉の味方になった為、明智光秀と羽柴秀吉の山崎決戦に於いて、事前の形勢は光秀には壊滅的に不利だった。

この時点で、織田信長が策した徳川秀忠の存在は、光秀にとって唯一秀吉への「隠し弾」となっていた。

光秀の結論はすぐに出た。

家康殿と組んで、かならずや秀忠(明智光忠)に天下を取らせようぞ。」

この時点で光秀には、目先の合戦の勝敗など既に眼中にない。

家康には親書を送り、傍観を決め込むように念を押した。

こうした背景を踏まえて、光秀対秀吉の「山崎の合戦」は、「秀吉一人が鼻息荒く」始まったのである。

実は、羽柴秀吉は長年の間明智光秀に嫉妬していた。

自分が越えられない血統と才能、そして、人脈の大きな壁であった。

光秀がいる間、秀吉が戦でどんなに成果を上げても織田家家中でいつも二番手に甘んじていた。

その邪魔者を、目の前から取り除くチャンスである。

明智光秀軍一万六千、羽柴秀吉軍三万八千、およそ倍以上の兵力の上に秀吉は織田信長直伝の戦上手である。

最初から苦戦の光秀は、合戦の最中、正に信長の亡霊と戦っている様な感覚に襲われていた。

「光秀、わしを乗り越えて見よ。」

信長の高笑いが、聞こえた様な気がする。

明智光秀がそんなだから、山崎の合戦の勝敗は戦う前に目に見えていた。

予期した山崎の合戦の敗戦である。

土民の竹槍に影武者が討たれている間に、光秀は甥の明智光春を伴ってヒッソリと歴史の表舞台から消えた。

この時身代わりの影武者を買って出たのがお福の父親で、光秀の従弟とも腹違いの兄弟とも言われる家老の斉藤利三だった。

彼は、自らそれを買って出た。

元々近い身内で良く似ていたから光秀の身代わりは容易で、死ぬのは覚悟の上だったから、見事な最後だった。

後になってお福はその事を知ったが、「父上らしい御最後だ。」と、武士の娘らしく自らを納得させた。

影武者を容易にしたのは口髭(くちひげ)である。

口髭(くちひげ)は、長い事氏族(武士)の象徴だった。

この章に登場する男性の人物達が一様に口髭(くちひげ)を生やしていたのは、自分を強くたくましみせ、相手を威嚇(いかく)して武士・武将(氏族)の威厳(いげん)を保つのが目的だった。

つまり、征服部族の目的精神に合うのが、髭(ひげ)である。

従って戦国末期まで、武士は手入れの行き届いた髭(ひげ)を生やすのが常識で、髭(ひげ)の無い武士など存在しない時代で在った。

口髭(くちひげ)の相手に与える視覚的印象は強烈で、この髭(ひげ)の形状が人相の一部として武家社会と言う世間に受け入れられていた事が、実は情報戦の細工に利用される事になる。

家長制度の時代では、弟であっても家臣である。

従兄弟などは尚更で、家の為に家長に尽くす。

普段身分の高い者とその顔に良く似た「顔立ち年恰好の身内」が居る場合、口髭(くちひげ)の形状をわざと違えて周囲が見分けられるように配慮がなされていた。

これを裏返せば、影武者の創造は、「髪型と口髭(くちひげ)の形状を本物に似合わせれば出来上がり」と容易だったのである。

この時代、影武者は常道である。

明智光秀の影は斉藤利三が勤め、利三の影にはまた身内の従弟が勤める。

従って山崎の合戦後の斉藤利三の消息には、数通りの微妙な伝承が残されているのである。

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by mmcjiyodan | 2009-08-28 14:11 | Comments(0)  

明智光忠(あけちみつただ)

明智光忠(あけちみつただ)は織田信長に重用された明智光秀の家臣で、明智光秀の叔父に当たる明智光久又は明智光安の子であるとされるがどちらの子か定かではない。

丹波国八上城主とされる戦国時代の武将で、明智光春と同様に妻は光秀の娘を娶っている。

光忠は、織田信長の陪臣時代に丹波過部城攻めの功績で織田信長より感書を下される手柄を立てている。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変では、信長の息子の織田信忠らが篭る二条御所を攻撃し、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが、同年山崎の戦いで主君・光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にした事を知ると「自害して果てた」と伝えられている。

明智光忠にも次郎四郎、次右衛門、などの名前がある。

この明智光忠(あけちみつただ)は実在していたのは事実であるが、しかし「自害して果てた」と伝承されているだけで墓も残っておらず、光忠の事自体公式記録や一級資料にも残っていない。

最後は、丹波八上城(周山城)主であったが、これも早い時期からの身代わりとも考えられる。

彼にも従弟説と娘婿説が存在し、結論がでないのだ。

それどころか光忠は、明智光久(又は明智光安)の子では無く「美濃の百姓の出自」と言う異説まで存在する。

そこで考えられるのが、明智光忠は途中で入れ替わっており、前期の光忠は確かに明智光久(又は明智光安)の子で光秀とは従兄弟だったが、後期の光忠は「美濃の百姓の出自」と言う可能性も出て来る訳で、それなら本物の明智光忠が徳川秀忠に化ける筋書きに信憑性が出て来るのである。

そして大きな謎なのだが、三代将軍・徳川家光の古文書には何故か二世権現や二世様などと記された文章が多数存在し、故に徳川家光が「家康春日局の子で在る」と言う説が散見される。

いずれにしても三代将軍・徳川家光を二世と数え書き記すは、いったい何を意味しているのだろうか?

そこで問題なのは、三代将軍・家光が二世と数えるのであれば二代将軍・徳川秀忠の存在は飛ばされている事になり、つまり秀忠が養子で正体が「明智光忠である」と言う話にも信憑性が出て来る。

そしてこの事が事実であれば、春日局が駿府まで出向いて家康に家光を将軍に推させた事に納得が行き、徳川家光と徳川忠長(とくがわただなが)は将軍世襲で微妙な状態にあり、保科正之(ほしなまさゆき)だけが二代将軍・秀忠の実子と言う事かも知れない。

かりに、江戸初期の天海僧正が、疑われているように明智光秀または明智光春などの明智の者であれば、伝記は、「いかようにも書ける」と考えられ、そこに秘匿すべき物があれば然るべく書き表されてのである。

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by mmcjiyodan | 2009-08-26 08:46 | Comments(0)  

明智光春(あけちみつはる)

明智光春(あけちみつはる)は、明智光忠同様に織田信長に重用された明智光秀の家臣で、こちらの方は確り記録があり明智光秀の叔父に当たるとされる「明智光安の子である。」とされているが、明智光春には現在二つの説が有る。

一つは明智光安の子で、光秀の従弟、一つは三宅弥平次と言う名で、光秀の娘婿となり、明智の姓を名乗ったとする説である。

この二つの説から選ぶのが通常なのだろうが、何しろ戦国の世で、これが始めから二人居て謀略の為にそれぞれ入れ替わり、しかるべきに収まったのなら辻褄が合うのだ。

つまり、この明智光春も謎の多い人物で、「明智軍記」などの物語にのみ登場する人物であり、誰かをモデルに作られた可能性はあって実在の人物かは確証がない。

伝えられる所に拠ると、明智嫡流だった光秀の父・が早世した為、光春の父・明智光安が後見として明智・長山城主を務めていたのだが、斎藤道三斎藤義龍親子の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。

光安は自害するが、光春は光秀や光忠らとともに城を脱出して浪人し、年長・明智嫡流の光秀を盟主として一族で行動する。

盟主・光秀が織田信長に仕えると光春は光秀に従って各地を転戦し、武功を立てて丹波国に五万石を与えられた。

光春の妻は光秀の次女で、荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが村重謀反の際に離縁され、光春と再嫁した。

光秀が織田信長を討った本能寺の変では、光春は先鋒となって京都の本能寺を襲撃し、変事の後は安土城に回ってこれを占拠し守備につくが、羽柴秀吉との山崎の合戦で光秀が敗死すると「坂本城に移って自害した」とされるが、替え玉が容易な時代でこれも確たる自害の証拠は無い。

巷に流れる光秀生存説を採れば、野に下った光秀に光春が最後まで従った可能性も否定出来ない。

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by mmcjiyodan | 2009-08-26 08:43 | Comments(0)  

東叡山(とうえいざん)寛永寺と秩父神社(天海=光秀説・その五)

江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠は、相談相手として天海僧正を江戸に置く為に、上野山に寺を造営する。

東の比叡山の意味で、「天台宗関東総本山・東叡山(とうえいざん)寛永寺」と言う。

寛永寺の開基(創立者)は第三代将軍・徳川家光、開山(初代住職)は天海僧正、徳川将軍家の菩提寺でもあり徳川歴代将軍十五代の内六人が眠っている。

風水学に長じた天海の助言で、徳川と江戸の守りの位置に、「寛永寺」は在る。

また、日光東照宮の造営に先駆けてテスト造営され、「家康が寄進した」とされる秩父神社の社殿と言うのが今に残されている。

この秩父神社・本殿の、東照宮に負けない豪華な極彩色の彫刻の中に、何故か「桔梗紋」を着けた僧侶の姿が掘り込まれている。

秩父神社の創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命(県主)が先祖の八意思兼命を祭った。

秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれて、実は関東妙見信仰の中心的役わりを担っていた。

その秩父神社に、天海僧正が東照宮建造の予行演習的社殿を家康の為に造営している処からも、家康と天海の宗教的DNAが密かに山岳(山伏)信仰にある事が推測される。

家康が漢方に通じていた所も、陰陽師修験山伏)の出自(子孫)らしいではないか。

秩父神社の近くにも、慈目寺や明智寺が存在する。
これは多くの謎である。

「明智平」の命名と言い、天海が明智に関わりがあり、しかも秀忠が日光陽明門の「桔梗紋」を容認している所が、明智光秀=天海僧正説の重要な要件として一つの検証になるのかも知れない」と、今日の歴史好き達の想像意欲を掻き立てるのだ。

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by mmcjiyodan | 2009-08-22 15:33 | Comments(0)  

明智平と桔梗紋(天海=光秀説・その四)

天海僧正の生涯年齢から二代目と思われる天海が北院の住職となったのは、千五百九十九年(慶長四年)と言う事に成っているが、これは天海を急に上席に引き上げるに当たってのアリバイつくりで、言わば経歴詐称である。

実際に天海(二代目)が関東に呼ばれたのは千六百十二年(慶長十七年)の事で、無量寿寺・北院の再建に着手し寺号を喜多院と改めて関東天台宗の本山としている。

その後は急ピッチに家康の信任を得て、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)の起こる前年・十四年千六百十三年(慶長十八年)には、日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興している。
 
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の合戦後から始まった徳川家の豊臣家への圧迫に豊臣家が抵抗し 十四年千六百十四年(慶長十九年)から翌十四年千六百十五年(慶長二十年)、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)が起きている。

豊臣家壊滅のシナリオを書いたのはこの二代目天海であったが、時機を考え直接の目通りは控えて今日まで来ていた。

しかし大坂落城をもって徳川家の天下は不動のものと成り、世の局面が変わった。

天才軍師・天海(光秀)が再び世に現れたのである。

徳川家康は、天台宗の関東の全権を握った二代目天海に、天台宗・喜多院の寺領として日光山の一帯を贈っている。

二代目天海は家康の死後そこに東照宮を建て、その一帯を「明智平」と命名するのだが、天海が明智に縁無き者なら、謀反人明智の名を寺領に使うのは説明が付き難い。

増してや、本能寺の変当時の伊賀超えの家康逃避行が「茶番」でないなら、命を狙った明智の名の寺領命名など徳川家が許す訳がない。

この明智平の地名は、今に栃木県・日光の地に残っている。

そして明智光秀=天海僧正説最大の疑惑の象徴が、明智平に在る日光東照宮の存在だった。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の前身は、平安期の八百七十二年(天応二年)に勝道上人(しょうどうじょうにん)が下野国(しもつけのくに)・男体山頂上(現・栃木県日光市山内)に四本龍寺を開山したもので、その後源氏の棟梁・源頼朝の鎌倉幕府開府後は永く坂東(関東)武士の信仰を集めていた。

千六百十六年(元和二年)に駿河(静岡)・久能山(久能山東照宮)から天台宗・天海僧正によって日光に改葬され、千六百十七年(元和三年)徳川二代将軍・秀忠が、東照社(とうしょうしゃ)として創建した。

前述した様に天海は、家康没後、一旦駿府の久能山(東照宮)に鎮座させた家康(大権現)を日光山に移している。

日光の位置も風水上の江戸の要であると同時に、その建設にはいざ徳川家江戸落ちに際しては要塞と化す工夫がなされていた。

徳川幕府にとって、誰も否定出来ない極めて重要な施設である。

その日光東照宮を守る陽明門(日の当たる明智の門?)の木造り像の武士の紋は、明智家の家紋「桔梗紋」であり、近くの鐘楼のひさしの裏にも、おびただしい「桔梗紋」が見受けられる。

徳川の墓所であるのに「葵紋」以外に、いたる処に「桔梗紋」が隠されているのは何を意味するのか。

この事は、明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない。

天海が家康の為に神号を取るのは、感謝と尊敬の念による。

その神号がすごい、東照大権現(とうしょうだいごんげん)である。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は日本の最高神であるり、それに準じる様に東を照らすと来て「現れになった神」と来た。

家康は天海の一世一代の仕事で、神君(しんくん)となり、日光東照宮に鎮座している。

この日光東照宮の銘々に、我輩はいささか異論がある。

本来、徳川家康が東照宮の宮(ぐう)を名付けられるのはいささか問題がある。

本場中国では神様と言っても実在の人物が祭られるのは廟(びよう)であり、つまり日光東照廟が正しい。

それは、他の実在する人物の神社も同様である。

独自文化と言えばそれまでだが、都合により核心部分を曖昧にするのは日本列島の専売特許みたいなものである。

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by mmcjiyodan | 2009-08-21 10:26 | Comments(0)  

二人の天海僧正(天海=光秀説・その三)

天海僧正=明智光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり正解でない。

天海僧正についてはさまざまな妖力の噂が付きまとうが、その最たるものが長寿である。

天海は、家康秀忠家光の徳川家の将軍三代に使え、没年齢は百八歳とも百三十五歳とも言われているが、これは常識的に眉唾である。

いくら長生きでも、安土桃山から江戸時代初期にかけての事で、二代将軍・秀忠と同年代の生まれなら長生きして家光に任えるのも判る。

しかし天海は、江戸に召された段階で相当の年齢(よわい)を重ねていなければ百八歳とも百三十五歳とも言われる長寿の計算が成り立たない。

我輩が思うに、二人分の生涯が「ダブって計算された」と見るのが妥当である。

そこで思い到るのが、明智光秀に付き従っていた年下の従兄弟・明智光春が「天海(光秀)の後を継いで二代目に納まったのではないか」と言う推測である。

この辺りも、残された文献を盾に頑として「光秀(或いは天海)は長生きだった」と主張する方も居られるが、書いてある文章を読めるのと中身を読み解くとには明確な違いが有る。

徳川秀忠が明智光忠であるなら、その後の事の説明は付き易い。

天海僧正が明智光春なら更に説明が付く、何しろ幼少の頃の明智城落城より光秀に付き従い、寝食、生死を伴にして来た「従弟同士」である。

それを、親代わりの天下の秀才明智光秀が、心血を注いだ知略で天下の秀才に育て上げて、歴史が再び二人を江戸で引き合わせたのであれば此れ程強い信頼の絆はない。

この事が事実であれば、天海がいきなり幕府で重用されるに「もっとも自然な理由」と言える。

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by mmcjiyodan | 2009-08-20 14:12 | Comments(0)  

桔梗門(別名、内桜田門)と慈目寺(天海=光秀説・その二)

そしてこれも明智光秀天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件なのだが、光秀が「匿まわれていた」とされる比叡山松禅寺には、光秀没後三十三年目の年に「願主・光秀」つまり「光秀が寄進した」と彫りこんである石灯籠が存在する。

また、大阪岸和田に「本徳寺」がある。

この寺の開基は、年号的には光秀没後三十一年目である筈が、この寺を寄進したのが光秀本人となっていて肖像画も残されているのである。

江戸城(現皇居)の門の中に桔梗門(別名、内桜田門)と呼ばれる門がある。

門の瓦に太田道灌の家紋「桔梗」が付いていたので、「桔梗門と言われた」とする説があるそうだが、天海僧正の明智光秀説が証明されれば、もう一つ説が浮上する。

江戸城三の丸の南門にあたり、大門六門の一つとして厳重に警備され、幕府の要職者が登下城する門だった。

つまり天海僧正は、この桔梗門を利用していた事になる。

門の前には桔梗門橋が架かっていて、門前の掘割は桔梗濠と呼ばれている。

天守閣が明暦の大火(千六百五十七年・振袖火事)で焼失した後、幕府の財政難などの理由で再建されなかった為、この桔梗門の富士見櫓が天守閣の代用とされた。

天海の別名「慈目大師」の名を持つ京北町周山の慈目寺には、光秀の位牌と木造が安置されている。

それらは、おびただしい光秀の亡霊だが、今となっては生き延びた本人なのか、一族の誰かの手に拠るものかは特定できない。

しかしながら、天才・織田信長に挑み続けた、天下の秀才がいた事は事実である。

これらを検証し、光秀の知略に思いをはせる時、我輩には光秀渾身の天下取りが、浮かんで来る。

大逆転である。

天下を取ったのは、人知れず清和源氏の末裔「土岐流れ明智一族」と言う事になるのかも知れ無い。

徳川四代将軍・家綱と五代将軍・綱吉に共通する「綱」の字についても、明智光秀の父「明智光綱の名から取った」と言う説があるが、それとて明智光忠が二代将軍・徳川秀忠と同一人物であれば、至極判り易い話なのである。

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by mmcjiyodan | 2009-08-18 14:04 | Comments(0)  

天海僧正の千里眼(天海=光秀説・その一)

天海僧正には「千里眼の超能力があった」と言う逸話がある。

千里眼とは、言うまでもなく遠方の出来事を見通す事のできる能力だ。

天海の別名「慈目大師」の由来ともなったのが、この千里眼である。

天海はほとんど喜多院に住んでいたが、江戸城中で起こった事や徳川家康のいる駿府城(静岡市)の出来事を事ごとく知っていた。

時折半眼になって、そうした事を納所坊主に話して聞かせたが、後で確かめてみると、「全て天海が言った通りだった。」と言うのである。

読者にはもうお分かりだろうが、天海が光春(二代目・光秀)であり、光秀の専門分野である諜報手足として伊賀衆の諜報機関、服部半蔵以下を操れるからこその能力では無いだろうか?

天海僧正が明智光秀ならば、光秀は妻・妻木(勘解由/かでの)煕子(ひろこ)の縁もあり、織田信長家の諜報組織の全てを受け持っていた今で言う情報局長官みたいな立場だった経歴の持ち主で、天海僧正の「千里眼」は容易に納得でき不思議な事ではない。

その光秀の諜報組織を、光春(二代目・光秀)が「ソックリ受け継いで居た」とすれば千里眼など造作もない。

伝わる奇跡の正体は大方そんなものであるが、正体を知らなければ恐ろしい能力を持つ「大師・大僧正」と畏怖され、信仰されるようになる。

ダイジェストなら【明智光秀=天海僧正説を検証する】に飛ぶ。

桔梗門(別名、内桜田門)と慈目寺(天海=光秀説・その二)】に続く
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by mmcjiyodan | 2009-08-17 01:59 | Comments(0)  

同朋衆(どうぼうしゅう)

同朋衆(どうぼうしゅう)は、大名家などに仕えて雑務や芸能にあたった御坊主衆の事で剃髪していた為に坊主と呼ばれたが、この物語のそもそも論のごとく氏族のくくりは在っても武士と神官・僧侶は線引きなど無く、同朋衆(どうぼうしゅう)も出家している訳ではない。

阿弥は、芸能に優れた同朋衆(どうぼうしゅう)の内、阿弥衆と言われた氏族由来の者が阿弥号(あみごう)を用い、剃髪(ていはつ)をして法体(出家姿)となって雑務や芸能などで将軍奥向きに仕えた所から始まり、やがて大名達に出仕する様になった。

おもな同朋衆の芸としては猿楽能の観阿弥・世阿弥、同じく猿楽能の音阿弥 、茶道の毎阿弥、唐物・茶道・水墨画の芸阿弥、唐物や茶道・水墨画・連歌・立花・作庭などの能阿弥と相阿弥、作庭・連歌を得意とした善阿弥、囲碁の重阿弥などが有名である。

元々の能舞は、「田楽能舞」と言われて住民に密着した素朴な奉納神事だった。

それが室町期に同朋衆(どうぼうしゅう)の手で発展して、能舞は貴族や武士が鑑賞する芸能になった。

大茶人・千利休(せんのりきゅう)、一時は豊臣秀吉の重い信任を受けたが突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ追って切腹を申し付かった。

利休の祖父が任じていた同朋衆とは、武将の側近として使えた僧形の武士の事で、この当時は僧体のまま武将でもある者も多くいたが、それとは異なり武ではなく芸能・茶事・雑務・話し相手と、言わば世話係(茶坊主)として仕えていた。

いずれにしても、「阿弥」を名乗る同朋衆の出自は、氏族や有姓百姓である。

そして陰陽修験道を源とする武道や演芸は、「氏族のたしなみ」としての武芸百般の内で、演芸は諜報活動の側面を持っていた。

その事から考えられるとすれば、千利休が出自違いの豊臣秀吉と対立する事も、充分考えられない事は無い。
それにしても、室町幕府最盛期の第三代将軍・足利義満の頃に発達した文化芸術・茶道、華道、芸能の家系には、影に諜報員家系の疑いが付き纏(まと)って居る。

当然の事であるが、室町政権に諜報機関が在っても不思議は無い。

それが、文化芸術を隠れ蓑にした同朋衆が、影で負っていた役目であれば、足利義満が力を入れた室町文化、また別の側面が見えて来ないとも限らない。

何しろ、最も平和的に受け取られるのが文化芸術で、何処の屋敷も無警戒に信用される利点があるのだ。

ちなみに豊臣秀吉の母・仲(なか/大政所)の再婚相手・竹阿弥(ちくあみ/秀吉の義父)は織田信長の父・信秀の同朋衆(どうぼうしゅう)であった。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2009-08-13 10:41 | Comments(0)  

織田信秀(おだのぶひで)

織田信長の父・織田信秀は、千五百十年(永正七年)、尾張南西部を支配する海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)の城主・織田信定の長男として生まれる。

織田家の家系は越前国織田庄・劔神社の祠官の系譜を引く尾張守護・斯波氏の被官・織田氏の尾張下四郡守護代に補任された「織田大和守家」の分家にて同家重臣・勝幡城主「織田弾正忠家」である。

つまり信秀の父・信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡守護代の「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣たる清洲三奉行の一人であった。

信秀は父・信定の生前である千五百二十七年(大永七年)に十七歳で家督を譲られて当主となる。

家督相続から間も無い千五百三十二年(天文元年)頃、信秀は主家の織田達勝(大和守)と争ったが、後に和解している。

同年、信秀は三河に進出していた今川氏豊(駿河守護今川氏親の末子・今川義元の弟)の居城とされる那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を奪い、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した。

千五百三十五年(天文四年)に、三河の松平清康が守山崩れで不慮の死を遂げる。

織田信秀は混乱する松平氏・松平広忠(清康の子で家康の父)の隙を突いて三河に侵攻し、千五百四十年(天文九年)には安祥城を攻略して支配下に置いた。

その勢いを持って信秀は京都に上洛し、朝廷に献金して従五位下に叙位され備後守に任官、更には室町幕府に参じて第十三代将軍・足利義輝にも拝謁している。

千五百四十一年(天文十年)には、伊勢神宮遷宮の際して材木や銭七百貫文を献上し、その礼として朝廷より三河守に任じられている。

しかし三河・松平氏は今川氏の従属下に入って抵抗し、信秀は今川義元と敵対する事となって千五百四十二年(天文十一年)には第一次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利し、西三河の権益を保持した。

また、この頃に美濃国主の土岐頼芸(ときよりのり)が斎藤道三に依って追放されたが、信秀は頼芸を保護して斎藤道三とも戦い、一時は大垣城を奪っている。

その後も信秀は、勢力の拡大にともなって千五百三十九年(天文八年)に古渡城(名古屋市中区)、その九年後の千五百四十八年(天文十七年)に末森城(名古屋市千種区)を築いて居城を移して戦国大名の頭角を現し始めている。

しかし織田信秀は、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、主家の尾張守護代・織田大和守家拠りも強大な力を有しながら主家への臣従関係は保ち、主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回る尾張国内の他勢力を圧倒する地位を築いていたが、晩年まで守護代家臣に甘んじ、尾張国全域を支配する事は出来なかった。

織田信秀は、今川義元と斎藤道三と言う困難な敵と対峙して苦戦し継子・信長と斎藤道三の娘・濃姫を政略結婚させる事で斎藤家とは和睦し、今川家に人質として出る筈の松平竹千代(徳川家康)を横取りで人質にするなどしたが、千五百五十一年(天文二十年)に居城・末森城で流行病により急死している。

尚、主家に当たる尾張守護・斯波氏(武衛家)の当主は斯波義統(しばよしむね)で、織田信秀(おだのぶひで)と後を継いだ継嗣・信長(のぶなが)に拠って滅ぼされている。

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by mmcjiyodan | 2009-08-13 10:14 | Comments(0)