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西郷隆盛と大久保利通の幼馴染説は誤報

薩摩・島津藩から頭角を現した西郷吉之助・隆永、後の西郷武雄・隆盛(たかもり)は、明治維新の立役者の一人である。

千八百二十八年(文政十年)鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄四十七石余)の第一子として生まれ、十三歳で元服、十六歳で藩に出仕している。

西郷氏は藤原氏流の肥後(熊本県)菊池氏の分家、増水西郷氏の末裔を名乗っている。

肥後・菊池氏は建武の親政から南北朝並立期にかけて、一貫して後醍醐天皇(南朝方)に与力した有力豪族である。

そう、西郷吉之助は、まさしくあの「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の血筋を受け継ぐ南朝の影人だったのである。

西郷隆盛はしぶといのが身上である。

西郷が政局に関わり実力を発揮し始めたのは、沖永良部島の流罪から復帰し、千八百六十四年(元治元年)西郷三十六歳に起こったの禁門の変以降の事である。

何度も遠島(流刑)と言う目に遭いながら、あたかも後醍醐帝の怨念にでも後押しされるかのごとく不死鳥の様によみがえり、薩摩藩をリードして行く。

確かに彼に相応の資質があったのだろうが、長州藩がかなり孤軍奮闘した後で薩摩藩が倒幕に加わった事など「あらゆる条件が揃う」と言う見えない幸運にも恵まれている。

運も実力の内ではあるが、隆盛の場合は、人格が周りを引き付けていたのである。

もうひとりの薩摩・島津藩出身維新の立役者は大久保利通である。

大久保家の家格は、御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。

利通は千八百三十年(文政十三)に薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に生まれた後、幼少期に「西郷が住む加治屋町に引っ越した」として「幼少期に西郷隆盛と共に学問を学び親友となる」と言う記述が多いが、幼馴染説の辻褄合わせでその事実はない。

加治屋町郷中時代の西郷の記録には大久保に関する記述はなく、また大久保側にも加治屋町郷中時代の記録も幼少期に西郷と接触した記録もないのである。

例え引っ越しが事実としても、文政十年生まれの西郷隆盛と文政十三年生まれの大久保利通では、ほぼ三歳の年の差(二年十ヶ月)があり、事実西郷は十三歳で元服、十六歳で藩に出仕している。

凡そ十四歳位で元服する時代に幼馴染みとしての接点は互いの幼少期の時期的に見出せないのである。

生まれた場所も育った環境も大きく違い、大久保と西郷は青年期に成るまで「ろくな面識は無かった」と言う地元の研究者の成果が事実である。

大久保利通は千八百四十六年(弘化三年)から藩の記録所書役助として十六歳で出仕、薩摩藩内の出世に注力して藩内での力を着け、千八百六十二年(文久二年)利通が三十二歳に成って初めて島津久光を擁立して岩倉具視らと京都の政局に関わりを持ち始めている。

つまり大久保と西郷の間柄は、たまたま激動の時期に薩摩藩に二人の秀才が同時に現れ、途中から倒幕の志を同じくして協力し合うように成っただけの事だった。

大久保と西郷は、幕末の動乱期に同じ藩に在して同じ志であったから倒幕の為に活躍する様になって力を合わせた盟友には違いないが、「竹馬の友」は酷い誤報である。

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by mmcjiyodan | 2009-09-29 13:47 | Comments(0)  

物部氏(もののべうじ)・賀茂氏(かもうじ)同根説

まず葛城氏(かつらぎうじ、かずらぎし/賀茂族)についてだが、あくまでも古事記日本書紀を「信じるとしたら」の注釈つきだが、古事記や日本書紀に拠ると、葛城氏(かつらぎし、かずらぎし/賀茂族)は、大和葛城の地(奈良県)に本拠を置いていた「古代豪族」と言う事に成っていて、紀伊半島内陸部・奈良盆地一帯に神武大王(おおきみ/初代天皇)神武東遷以前から住んでいた事に成っている。

そこに神武大王(おおきみ/初代天皇)が神武東遷でやって来て、葛城氏(賀茂族)が恭順する筋書きである。

しかし、葛城氏(かつらぎし)の本拠地が「大和葛城である」と言う説には符合しない多くの興味深い事実が、伊豆半島(伊豆国/静岡県)の「伊豆葛城」や「賀茂郡」に存在する。

この古事記や日本書紀の記述する筋書きを事実関係で照合すると、恐らく三宅島に発祥して伊豆半島に進出した葛城氏(賀茂族)が伊豆半島から西に進出して本拠を紀伊半島・奈良盆地一帯に西遷(移した)以後に神武東遷を迎えた事になる。

物部氏(もののべうじ)については、古事記・日本書紀に拠ると、物部(もののべ)氏は河内国の哮峰(タケルガミネもしくはイカルガミネ/現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト(饒速日命/邇藝速日命)を祖先と伝えられる氏族で、元々は兵器の管理を主に行なっていたが自然と大伴氏とならぶ武器を扱う「軍事氏族へと成長して行った」とされている。

言わば物部(もののべ)氏は武門を売り物にする古代の有力豪族(部族王・臣王・国主)で、連(むらじ)の姓(かばね)、八色の姓(やくさのかばね)の改革の時に朝臣姓(あそみ/あそんせい)を賜っている。

この物部氏(もののべうじ)の一部が穂積氏(ほずみうじ)となり、その分家が鈴木氏である。

実は、神武東遷(東征)記・(神武初代大王・神武天皇)の東征伝承に於いて、賀茂家と鈴木家は「同根ではないか」と疑うに充分なその両家に関わる内容に明らかな重複が見られるので紹介する。

天照大神の弟神・須佐王(スサノウ)は牛頭天皇(スサノオ)とも表記するのだが、すなわち神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)が熊野から大和に入る険路の先導役が八咫鳥(やたがらす)であり、その正体を「賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)である」としている。

その熊野権現が、神職として藤白鈴木氏の祀(まつ)る御神体・牛頭天皇(スサノオ)であり、その使いが八咫鳥(やたがらす)である。

葛城・賀茂氏の系図に、通説で天照大神の弟とされる、牛頭天皇(スサノオ)の名が記されているのも事実で、すると賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)を祀る山城国一宮・上賀茂・下鴨の両神社と、紀州・熊野権現社は同じ葛城御門(葛城朝)からの出自が想起されるべきである。

藤白鈴木家に伝わる系図には、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が神武大王(おおきみ・初代天皇)に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。

そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後に穂積国興の三男・基行が鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。

賀茂氏の牛頭天皇(スサノオ)を神として祀る神職が、物部氏(もののべし)流の藤白・鈴木家と言う状況が、血統を重んじるこの国では謎である。

ヒョットすると賀茂家と鈴木家が同族で、その元になった「葛城家と物部家も同族」と考えるとその辺りの謎が全て解ける事になる。

つまり葛城御門(葛城朝)から、職掌としての武器を管理する物部氏(もののべし)と神事・呪術を管理する賀茂氏が別れ出た。

しかし物部氏(もののべし)も元は葛城氏族であるから、その一部が紀州・熊野の地で穂積・鈴木氏として武士兼神主になったのではないだろうか?

熊野・鈴木氏は、熊野水軍の棟梁家としても有名で、伊豆・賀茂葛城氏族の海の民とも符合し、その交流も時の政権とは関わりなく相互に永く続いている。

「古事記・日本書紀」の記述では、五世紀後半頃の葛城氏(賀茂族)は神武朝に心服した大豪族(臣王)で、神武朝に葛城族から嫁を出す誓約(うけい)の形式を採って居たようであり、大臣・葛城円(かつらぎつぶら)が雄略大王(おおきみ/天皇第二十一代)に滅ぼされるまで、大和朝廷は「大王(おおきみ)家(天皇家)と葛城家の連合政権であった」とされている。

但しこの話、あくまでも百五十年ほど後に天武天皇(第四十代)から桓武天皇(第五十代)の時代にかけて、皇統の正統性を殊更強調する事を目論んで編纂された「古事記・日本書紀」の記述内容である。

「古事記・日本書紀」の編纂以前にこの葛城氏族(賀茂氏)ついての詳細が無く、どの程度史実に反して皇統の正統性を脚色しているかは定かではなく、手放しで鵜呑みには出来ない。

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by mmcjiyodan | 2009-09-26 14:47 | Comments(0)  

擬似生殖行為

二十万年前アフリカに居た、たった一人の女性が現在七十億人に達したホモサピエンス(知恵のある人)と呼ばれる「人類の祖先だ」と言う。

人類は知力を武器として進歩をし、為に大脳が発達して頭頂部が非常に大きく丸く、顔面はほぼ垂直、完全に直立の姿勢を取れる地球上他にt類を見ない生物である。

そしてホモサピエンス(知恵のある人)が地球上で最も優位に立った主因は、知力と集団化(群れ)であるが、「群れ」の形勢の為に「性的接触の効果を上げる為の適応能力」の高度化に成功した。

つまり知恵の発達と群れ社会の形成と言う必要に迫られて、「擬似生殖行為」は自然発生した。

人類は、他の動物種では類を見ない脳の発達に拠って余分な事を思い過ぎる様になり、絶えず「思い通りに行かない」ジレンマを抱える様に成った。

生き物は自然則として、生き行く必要の為に自らを変身させて行く。

つまり、生き物本来の性交目的は子創り(繁殖)である。

しかし人間の場合、それより圧倒的に多いのがコミュニケーション(付合い)目的の性交であり、その本質は快楽目的の性交(疑似生殖行為)である。

コミュニケーション(付合い)目的の性交の相手は、夫婦や恋人で在ったり、場合位に依っては上司や支援者と言う事も在る。

要するに、生きて行く為に必要なコミュニケーション(付合い)目的の性交も充分に在り得るのが、社会の現実である。


実は、この発達した脳の苦悩を緩和する(脳を納得させる)為の「擬似生殖行為」として、生殖を伴わないSEX行為の合意が、人類の意識の中に「必要な行為」として与えられた。

その為に、他の動物種では滅多に無い事だが、「擬似生殖行為」と言う生殖目的以外の「癒し目的」と言う性交を必要とする様に成なる。

自然界では例外的なものでは在るが、自然の与えた本能にはけして無駄はなくこの癒し目的の快感である「擬似生殖行為」も、生きて行く上で必要だから与えた筈で悪いものである訳がない。

そして人間は、その性交に到るまでのプロセスから技巧まで、あらゆる性文化を発展させて来た。

実の所、複雑な思考を持つまでに進化した人間が生きて行くには辛い事も多いから、神が人類の脳に与えた「擬似生殖行為」が快楽の性交ならば、社会的な慎みさえ考慮に入れればそれを素直に楽しんでも良いのかも知れない。

しかしその一方で、この「擬似生殖行為」の欲求が在るばかりに人類は、欲求を抑え切れずに運命を狂わす行動に出たりするリスクも負った。

そしてその「擬似生殖行為」の為に、人類の脳は益々発達して他の動物に例を見ない高知能生物になった。

もっとも、性欲に限らず仏教用語で言う所の「煩悩」とされるあらゆる欲望も、動物種の中では類を見ないのが人類である。

遺伝子関係の詳しくは【種の保存と遺伝子】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2009-09-26 14:33 | Comments(0)  

地祇系(ちぎけい)神

貴方の街や村の鎮守(神)様、最初の成り立ちを考えた事があるだろうか?

皇族も神社も「宮」である。

当初、「村の鎮守の神様」は、渡来部族占領軍の入植地に設けた氏族氏神(征服者の祖先を祭る)であり、被征服者(隷属した現住民/民人/蝦夷・えみし)は氏子ではない。

鎮守様は入植者氏族の氏長(氏上)自身の役職名「鎮守」であり、鎮守神社は、被征服者(蝦夷族)に征服者氏族を畏怖させ、ひれ伏させる為の政治的布教活動の拠点であり、鎮守社は砦でもあった。

氏神は氏上であり神主(かみぬし=かんぬし)なのだ。

例えば「絵馬」は、最初は氏長(氏上=氏神)に「馬」を献上して治世の願い事をした習慣が、時を経て氏神が神社と成って「馬」の奉納が形式化して馬の絵に成り、やがて現在の木製の板に絵を描いたものに成り、そこに願い事を書き入れて奉納する信仰習慣に成った。

こうした経緯一つ取っても氏神の正体は氏上(氏族の長)であり、尊敬はされていたかも知れないが生臭い神だった筈である。

土地の氏神が民を守る事と土地の氏上(うじがみ)が土地と民を守る事は、その到達の意味合いが重なっている。

氏族が先祖を神に祭り上げる事は、子孫である自分達の権力の正統化に繋がる事であるから奇跡現象などの労はいとわなかった筈で、純朴な民がそれを信じても仕方が無い。

神主(かんぬし)と言う呼称の発祥の由来は「氏神主(うじかみぬし)」である。

現在では神職全般に神主(かんぬし)と言う名称を使うが、本来は神社における神職の長を指すのが神主(かんぬし)であり、つまり氏族の氏長が氏上(うじかみ・氏神)で、その氏神主(うじかみぬし)と言う訳である。

この古代征服者が祀る神・征服者が祀られる神を総称して、「地祇系(ちぎけい)神」と学問的に提起されている。

この「地祇系(ちぎけい)神」、狭義の上では祇園神を指す言葉として使用されている。

祇園祭は、朝鮮半島を発祥とする神様・牛頭王(ごずおう)またの名を祇園神・須佐王(スサノオ)を祀る祭りで、日本の祭りが朝鮮半島を発祥とする神を祀る証拠として祭りの掛け声は「ワッショイ」だが、現在の半島(朝鮮半島)の言葉でも掛け声は「ワッソー」で、この「ワッソー」を、御輿を担ぐ勢いで早口で言って見れば判るのである。

祇園祭りは、北は青森から南は九州・熊本まで広範囲に地祇系神(祇園神社系神)として執り行われている祭礼で、京都・牛頭王(ごずおう)の八坂神社(祇園総社)や博多・櫛田神社に祀られる素戔嗚尊(すさのうのみこと)の博多祇園山笠は特に盛大で知られている。

古代豪族の地祇系神に関しては、出雲系を指す神を地祇系神とする説があるが、天孫降臨伝説の天神系も渡来古代豪族であるから、地祇系(ちぎけい)神の定義は渡来部族入植地の鎮守神・氏長(氏上)=氏神が相応しいのではないだろうか?

従って理屈で言えば、本来なら総本社の神職の長が神主(かんぬし)で、分社の神職の長は厳密に言うと神主(かんぬし)の代理・代行者かも知れない。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

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by mmcjiyodan | 2009-09-23 18:35 | Comments(0)  

律令制(りつりょうせい)

国家の統治には法秩序が必要である。

古代中国に於いては、国家や社会秩序を維持する規範として、礼、楽、刑(法)、兵(軍事)が在った。

律令制(りつりょうせい)は、中国・隋帝国で成立した制度で、「律令制(りつりょうせい)」と言う「律(りつ/刑法)」と「冷(りょう/行政法と民法)」による中央集権国家には都合の良い非常に優れた政治体制を採用している。

この制度の基本思想は、儒家と法家の思想で儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義である。

儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじ、刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範で在ったものが次第に重要性が増して律から独立した行政法的なものになって律令(りつりょう)と成った。

また律令制は儒家と法家の思想から発展した制度だが、古代中国ではそれをを補完するべく国家宗教としての「仏教」も採用していた。

日本の律令律令(りつりょう)制度は、蘇我馬子(そがのうまこ・蘇我稲目の子)が大和朝廷の実権を握っていた大和朝廷・用明大王(ようめいおおきみ/天皇・第三十一代)の御世当時、中国・唐帝国のものを参考に日本の律令制度は作られた。

しかし唐の律令をそのまま受け入れたので、日本の国情に則さないものが多く徐々に修正を加えて日本の国情に合うような律令を完成させるまでには、かなりな歳月を費やしている。

初期の段階は六百四十五年の乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)に始まる大化の改新後に、改新政権にが中央集権を目指して律令制の導入が始められ、約五十五年後の七百一年(大宝元年)の大宝律令によって大枠が出来た。

中国法のを手本として、初の左右大臣の並置や人民の政治への不満を訴える事を認めた鐘櫃制(かねひつせい)の採用、正月に大和大王(やまとおおきみ)を拝賀する賀正礼の開始、喪葬秩序を規律するいわゆる大化薄葬令の制定、祥瑞(しょうずい)による大赦改元などの諸策が採用され、その後も不足を補いながら制定措置が執られて行った。

律令制に於ける官職】に続く。
律令制に於ける位階】に続く。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-09-20 15:19 | Comments(0)  

モラトリアム(返済猶予制度)

昭和初期、日本は金融を主体とした経済恐慌に見舞われる。

昭和に入った頃、日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。

一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。

千九百二十七年(昭和二年)三月十四日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎ(預金・貯金・掛け金等を取戻そうとして預金者が一時に金融機関の店頭に殺到して混乱をきたす事。)が発生し、昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)と言う事態と成った。

昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)は、日本で千九百二十七年(昭和二年)三月から発生した経済恐慌で、単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれる事もあり、金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本に於いて特に断らない場合は千九百二十七年(昭和二年)の経済恐慌を指す事が通例である。

この経済恐慌の兆候は、一旦は収束するものの四月に財閥の一郭・鈴木商店(現在の双日のルーツの一つ)が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれた事から金融不安が再燃した。

これに対して高橋是清蔵相は、戦争・恐慌・天災などの非常時に、社会的混乱を避ける為に法令により金銭債務の支払いを一定期間猶予するモラトリアム(返済猶予制度)を実地する一方、片面印刷の二百円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くして現金の流通を増やし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努めて金融不安は収まった。

昭和金融恐慌は、二年後に起きた昭和農業恐慌(千九百二十九年の世界恐慌の影響を受けて主に農業に経済的打撃を受けた)と合わせて昭和恐慌と言われる事もある。

モラトリアム(返済猶予制度)については、千九百二十七年(昭和二年)の昭和金融恐慌以外に千九百二十三年(大正十二年)の関東大震災、最近では、千九百九十五年(平成七年 )の阪神・淡路大震災の際に、被災地企業に対する手形の支払猶予措置がとられた特殊ケースが在る。

モラトリアム(返済猶予制度)の名称は広範囲に使うので、制度の解釈はその設定で中身はかなり違って来る。

例えばを大胆に言うなら、借入金の金利だけ払い続けて元金の返済だけを期限付きで猶予する方法や、元金と金利返済の両方を期限付きで猶予する方法もある。

勿論、過去の徳政令には「借金チャラ」と言うのが多いので、歴史的に見れば只のモラトリアム(返済猶予)は政策程度的には大した事ではない。

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by mmcjiyodan | 2009-09-20 09:34 | Comments(0)  

信長三男・織田信孝(おだのぶたか/神戸信孝)

織田信孝(おだのぶたか/神戸信孝)は、千五百五十八年(永禄元年)織田信長と側室の坂氏の間に信長の三男として生まれた。

信孝は、信長が伊勢国を平定した千五百六十八年(永禄十一年)に降伏した神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛(かんべとももり)の養子となり、養父・具盛(とももり)が信長によって隠居させられた後の千五百七十二年(元亀三年年)、十五歳で神戸氏を継ぎ、神戸信孝(かんべのぶたか)とも称する。

伊勢国には伊勢神宮が在り、天下布武を掲げる信長としては抑えるに重要な土地だった為に、三男・信孝を伊勢の抑えに配する事は計画的だったと考えられる。

織田家臣団からは傳役として幸田彦右衛門が付けられ、岡本太郎右衛門、坂仙斎などの他かなりの侍が信孝付きと成り、また地着きの土豪・関氏一族他も与力として従っている。

神戸氏を継承から二年後、千五百七十四年(天正二年)から千五百七十四年(天正三年)に掛けて伊勢長島一向一揆越前一向一揆が起こり、神戸信孝(かんべのぶたか)はその一揆の平定戦に参加している。

神戸信孝の率いる伊勢勢は、一向一揆平定後の紀州征伐や荒木村重討伐戦(有岡城の戦い)にも出陣している。

父・信長の天下布武構想に現実味が出て来た千五百八十二年(天正十年)、信孝は四国征伐(長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)討伐)の総司令官に任ぜられ織田氏の宿老・丹羽長秀・従兄弟の津田信澄らと共に堺にて四国渡海の準備中、明智光秀に拠る本能寺の変が勃発する。

神戸信孝(かんべのぶたか)は摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。

しかし戦勝後の清洲会議に於いて、信孝は父・信長の弔い合戦の総大将を勤めたにも関わらず羽柴秀吉に押し切られ織田氏の後継者は甥の三法師(兄・信忠の長男)に決まり、信孝は三法師の後見役として兄・信忠の遺領地であった美濃国を与えられ、岐阜城主となる。

その後信孝は、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介し、織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、三法師を擁し秀吉に対して挙兵するが、この挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏せざるを得なくなり、人質を出して三法師を秀吉に引き渡した。

羽柴秀吉と柴田勝家の間に賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は柴田方に組して再度挙兵したのだが、兄・織田信雄(信長・二男)に拠って居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害した為、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。

この賤ヶ岳の戦いの戦後処理で、信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ、自害している。

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by mmcjiyodan | 2009-09-19 18:33 | Comments(0)  

国造(くにのみやっこ・こくぞう)

国造(くにのみやつこ・こくぞう)は、律令制が導入される以前の初期大和(やまと)朝廷王権の地方支配形態の一つで、訓読みの「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。

国造(くにのみやっこ・こくぞう)は読んで字のごとく国の造り主で、国主(くにぬし)とも呼ぶ。

成立時の大和王権は、その土地の支配者をそのまま県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやつこ)に任じている。

つまりその時点の地方権力者を、追認しているに過ぎない。

国造(くにのみやっこ・こくぞう)或いは国主(くにぬし)のいずれの呼称に於いても、初期の日本列島が多くの部族国家の林立する状態だった事を意味している。

しかし、大和(やまと)朝廷王権成立以前の日本列島は、渡来部族の武力に拠る支配地切り取りから始まった地方豪族国家の小国群が乱立していた為、国造(くにのみやつこ)制の実態や中小豪族との関係で不明な点が多く、律令制以前の地方支配の実態は明確になっていない。

国造(くにのみやつこ・こくぞう)は、大和(やまと)朝廷王権(大王/おおきみ=大国主)の行政区分の一つである国の長と言う意味で、この国が示す範囲は律令国が整備される前の地方豪族国家(国主)の行政区分である為、はっきりと判明していない。

元来、その地域の豪族(国主)が支配していた領域が「そのまま国として扱われていた」と考えられている。

そうした地域豪族(国主)支配の経緯から、律令国制整備の時点で国造(くにのみやっこ)の定員も一人とは限らず、須佐氏=稲田氏国造出雲の国造の様に一つの国に複数の国造がいる場合もあった様である。

大和(やまと)朝廷王権への忠誠度が高い県主(あがたのぬし)とは違い、元々は国主(くにぬし)と言われていた有力な地方の豪族が大和(やまと)朝廷王権に服した時に、そのまま国造(くにのみやっこ)に任命され、臣・連・君・公・直などの姓が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていて、その為軍事権、裁判権を持つなどその職権の範囲はかなり広かった。

国造には、東国の国造のように部民や屯倉(みやけ)の管理なども行っていたり、出雲の国造の様に神祇を祀り、祭祀により領内を統治することなども行っていたり、紀国造などのように外交に従事したりした事などが分かる。

また、筑紫の国造(筑紫王)のように北九州を勢力下に入れ、大和(やまと)朝廷王権に反抗する者もいた。

この地方有力豪族国造(くにのみやっこ)も、大化の改新以降は世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられた。

また国造が治めていた国は、時の経過とともに整理・統合、あるいは分割されて行き、律令国に置き換えられて行った。

ただし学者によっては、この国造(くにのみやっこ)の下に県(あがた)があり、「かなり整備された国県(くにあがた)制があった」とする見解もある。

また県主(あがたのぬし)は、古い時期に大和朝廷(ヤマト王権)に合流した豪族が治めていた「小国家群の範囲で在った」と考えられ、「古くは国と県を同列に扱っていた」とする説もある。

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by mmcjiyodan | 2009-09-17 22:15 | Comments(0)  

肥後ずいき(随喜・芋茎)・熊本細川藩

これは余談だが、この細川忠興/長岡忠興(ほそかわただおき/ながおかただおき)が初代藩主となった肥後・細川藩は中々商売上手で、肥後ずいき(随喜・芋茎)を特産品に育てて藩の財政に役立て、その特産品は今に伝わっている。

特産の性具・肥後ずいき(随喜・芋茎)は、江戸時代から芋茎(いもがら)を使ってこけし形に作ったの伝統ある熊本の特産品である。

元祖・大人の玩具(おとなのおもちゃ)と言った所だが、まぁ何時(いつ)の時代でもこの手の事は熱心である。

肥後ずいき(随喜・芋茎)は使用すると効果覿面で、女性がムズ痒(かゆ)さの為に大いに大胆になる所から大奥で珍重された為、細川藩が徳川将軍家への献上品に定め、「参勤交代のお土産として持参した」と文献に残っている。

随喜(ずいき)とは仏教用語で、大いに感謝したり大いに喜ぶ事である。

その仏教用語が肥後熊本の細川藩で、サトイモなどの茎である芋茎(いもがら)のムズ痒(かゆ)さを使って女性を喜ばす為の民芸伝統性具・肥後ずいき(芋茎)になった。

使用された女性が、ムズ痒(かゆ)さの余りに熱狂して激しく腰を使って性交に及ぶ所から「随喜(ずいき)」と名付けられたこけし形の性具で、ぬるま湯に漬(ひた)して女陰に抽入して使用する。

文献に拠ると芋茎(いもがら)の皮付近に存在する針状結晶のシュウ酸カルシウムが溶解して皮膚に刺さるからムズ痒(かゆ)いらしい。

それを陰茎とカリ首で擦(こす)り、ムズ痒(かゆ)さを和らげようとするから、女性は涙を流すほど激しい抽送を繰り返す事になって「随喜(ずいき)の涙を流す」と言う表現が生まれるほど性交が持続する。

尚、シュウ酸カルシウムのムズ痒(かゆ)さは酸で中和するので、食酢やレモンの果汁などで治まる。

肥後ずいき(随喜・芋茎)に関しては現代の倫理観で言えば「とんでもない名産品を生み出した」と考える方も居られるが、昔の日本は「性に対して非常におおらかだった」事を忘れてはならない。

詳細は【私の愛した日本の性文化】を参照。

細川忠興/長岡忠興(ほそかわただおき/ながおかただおき)】に飛ぶ。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2009-09-14 13:13 | Comments(0)  

細川忠興/長岡忠興(ほそかわただおき/ながおかただおき)

明智光秀の娘・細川ガラシャ(玉姫)の夫・細川忠興(ほそかわただおき)は、足利氏の支流・細川管領家の傍流の和泉国・上半国の守護家である細川藤孝の長男として京都に生まれている。

父・藤孝が将軍・足利義輝に仕える幕臣だった為に、足利義輝の命により同じ一族である奥州細川家の細川輝経の養子となる。

ただしこの養子縁組は系譜上のもので、細川忠興は養子縁組の後も京都に在って実父・藤孝と行動をともにし、領国・和泉国の上半国も継承した。

三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)松永久秀らの軍勢によって室町幕府第十三代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され討死した永禄の変の後、父・細川藤孝は尾張・美濃の大名・織田信長を頼って義輝の弟・足利義昭を将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従し、忠興本人は信長の嫡男・信忠に近習として仕えた。

細川忠興は、天正五年に起こった紀伊国の紀州征伐に加わり十五歳で初陣を飾っている。

また忠興は、信長から離反した松永久秀(信貴山城の戦い)の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父・藤孝やその僚友・明智光秀と共に落として信長直々の感状を受け、さらに天正七年の一色攻めでは、信長の命を受けて父・藤孝や光秀と共に丹後国守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼす功を挙げている。

その年(天正七年)忠興は、信長の仲介を受けて明智光秀の三女・玉姫(細川ガラシャ)と結婚、この時信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。

翌年の天正八年、父・藤孝は功により一色義定領を除く丹後一国十二万石の領主となる。

主君・織田信長の天下布武は目前に迫っていた。

所が、千五百八十二年(天正十年)妻・ガラシャ(玉姫)の父・明智光秀が突如謀反を起こし主君・織田信長が本能寺に討たれてしまう。

この本能寺の変の後、明智光秀と中国大返しで戻って来た羽柴秀吉山崎の合戦で合間見える時、細川忠興は妻ガラシャ(玉姫)の父・光秀の支援要請に応えず傍観を決め込んで光秀軍を不利にしている。

この後細川忠興は、山崎の合戦に勝利し柴田勝家との賤ヶ岳の合戦をも征して天下統一を推し進める羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え丹後領有を許され、小牧・長久手の戦いに参加して功を挙げ、翌年従四位下、侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられた。

その後も九州征伐や小田原征伐、文禄の役にも出兵している。

千五百九十八年(慶長三年)、天下・人豊臣秀吉が死去すると、武功派大名の一人として石田三成ら吏僚派と対立し、徳川家康と誼(よしみ)を通じ、翌年には加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長池田輝政黒田長政らと共に石田三成襲撃に加わった。

その年、実権を握った大老・徳川家康から豊後・杵築六万石を加増され丹後十二万石と併せて十八万石を領している。

関ヶ原の戦いでは、細川忠興は徳川家康に与して東軍に参加している。

石田三成が大阪に挙兵した時、細川忠興は徳川家康の下で会津及び米沢・上杉家討伐軍に参陣していたが、豊臣恩顧の有力大名である上に、父・藤孝と正室・ガラシャ(玉姫)が人質として在京していた為にその去就が注目されたがいち早く東軍に入る事を表明し、「他の豊臣恩顧の大名の去就に影響を与えた」と言われている。

この夫・忠興の決断の為に、伏見に人質として留め置かれていた妻のガラシャ(玉姫)は西軍石田方の襲撃を受け、石田三成方の人質となる事を拒んで自害を余儀なくされた。

また、父の藤孝(幽斎)は忠興の留守を守り丹後田辺城に籠城したが、朝廷からの勅命により関ヶ原の戦い前に開城して敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入っている。

一方、関ヶ原の戦いに勝利した東軍に付いた細川忠興は、関ヶ原合戦の本戦で黒田長政らと共に石田三成本隊と激闘を演じ、首級百四十ほどを上げその功績から、戦後家康から豊前中津藩三十九万九千石の大藩に加増移封され、その後豊前小倉藩四十万石に移り小倉城を築城する。

その後の豊前中津藩・細川忠興であるが、千六百十四年(慶長十九年)、朝廷から征夷大将軍に任じられた徳川家と豊臣家の間で大坂の陣が起こり、細川忠興は徳川方に付くが三男の細川忠利が参陣し、忠興本人は大坂冬の陣の戦闘には参戦していない。

六年後、忠興は三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。

千六百三十二年(寛永九年)、家督を譲った忠利が肥後熊本藩五十四万石の領主として熊本城に移封されると忠興は熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所とし、千六百四十五年に没した。

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by mmcjiyodan | 2009-09-14 12:03 | Comments(0)