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囚人のジレンマ

現代人には奇妙に思える「水揚げ制度」や「筆おろし制度」、「歌垣(うたがき)」や「暗闇祭り」の風習、「夜這い制度」や「寝宿制度」など、現代では否定される性文化でも、その時代環境が今とは違う価値観を肯定し、それを誇りに思えた歴史がある。

現代では否定される事でも、その時代環境が今とは違う価値観を肯定し、それを誇りに思える場合があるのだが、これこそ誓約(うけい)精神の原点なののである。

だが、群れを強く意識した村落共生社会では「囚人のジレンマ」と呼ばれる個人性と社会性のせめぎ合いの中から共に生きる為に生まれた協調性が、村の掟(ルール)として採られたのではないだろうか?

囚人のジレンマとは、群れ合意(社会性)と個人の意志が必ずしも一致しない為に、個人の意志を優先すると群れとしての利益を失い、結局個人も大局的には「利」を失う事を言う。

それ自体は応用範囲の広い人類永遠のテーマであるが、二人の隔離した囚人の自白ゲームがモデルとなっている為に「囚人のジレンマ」と呼ばれている。

自らを有利にする自白は、同時に友人を陥(おとしい)れて失う事である為、合理的な各個人が自分にとって「最適な選択(裏切り)」をする事と、全体として「最適な選択」をする事が同時に達成できない事が、ジレンマ(板挟み)なのである。

つまり個々の最適な選択が全体として最適な選択とは成らない状況が存在する事を指して「囚人のジレンマ」と言う。

しかしながら人間は独りでは生きられない動物であるから、結局個人は「群れ」と言う社会性に囚われているので、個人が確実に「利を得る方法」を選ぶなら群れに対する協調性が必要に成るのである。

但し余り極端に片寄ると国家全体主義に走る恐れがあるので、あくまでも国境と人種の壁を取り除く事を含めての「共生主義」へのイデオロギーの転換が必要なのである。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

詳しくは【日本の性文化】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2009-10-31 00:39 | Comments(0)  

家康・神君伊賀越えの怪

徳川家康の伊賀越えは、その「本能寺の変」の直後の出来事である。

徳川家の歴史書には、便宜上「神君伊賀越え」と称されているが、それらには源氏の末裔を名乗った徳川家の表向きに対する「嘘」が存在した。

それは家康の生家・松平家が、実は賀茂臣(かもあそみ)であり、松平家には家臣に雑賀鈴木家の分家筋が存在し、領内に伊賀神社も奉っていて、紀州雑賀家(鈴木家)や伊賀服部家とは古い縁が在った事である。

また、密約で影に廻った明智光秀の存在をその後の歴史から抹殺する必要があったからでは無いだろうか?

家康は、織田信長の招きで僅かな供回りを連れ、五月に安土城を訪れた後、堺(雑賀衆の本拠地)に滞在した。

旧暦六月二日朝、本能寺の変の報を聞き、蝉時雨(せみしぐれ)の伊賀越え街道をひた走って、山城・近江・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻り、これを後に「神君伊賀越え」と称される。

これが、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機と呼ばれたものだが、光秀方の息が掛かった伊賀超えの山中を選択し、小人数の供回りで突破した事は、その選択自体が怪しい。

このエリア、明智方の郷士が乱立する地域だったので、危険であれば堺より海路を取るのが常識的で安全である。

チョットした謎だが、その後の羽柴秀吉との「小牧の戦い」に於いて、光秀と縁が深かった根来衆・雑賀衆がこぞって家康に加担した事から、「光秀と家康の密約の結果だった」と言う疑いを感ずる話で有る。

堺に逗留していた家康の前に、光秀の親書を携えて来たのは伊賀の棟梁、服部半蔵であった。

書状を受け取った家康は、瞬時に事態を把握する。

織田信長の死は局面が大変(おおか)わりをする事態で、家康も本拠地に戻ってあらゆる事態に備えねばならない筈だが、ここで一つの謎が生じる。

知らせを聞いたのは港町・堺で、そして泉州・紀州・伊賀・甲賀辺りは最も明智光秀の息が掛かった土豪の多い土地であるから本来なら最も安全な領国三河・遠近江への帰途は船旅の筈である。

所が家康は、危険な伊賀越えを躊躇無く選択している。

「これは大事、急ぎ三河に戻るぞ。」と家康が発すれば、本多忠勝が色めいたって「殿、何(いず)れの道を戻りまするか?」と申すに、それを井伊直政が制して「殿、堺より船を仕立てては如何がか?」と進言する。

「直政、案ずるな。明智殿が手配の伊賀超えじゃ。手抜かり無く、半蔵とやらも遣わして寄越したわ。」

身代わりの影武者まで立てて隠遁を選んだ光秀にとって、家康の生死は重大な意味を持つ。

本能寺急襲の決意を固めた時から直ぐに手を打ち、服部半蔵に文と退路の案内を託していた。

家康の安全は最初から確保されていた確信で、この時、家康の「苦難の伊賀越え」に助力したのが、光秀の命を受けた伊賀衆である。

この神君伊賀超えには、後に「徳川四天王」の一人と呼ばれる側近の井伊直政(いいなおまさ)本多忠勝、帰参が成った本多正信などが同行している。

伊賀山中突破の「神君のご艱難」は、家康伝説を脚色した大げさな手柄自慢では無いだろうか?

いずれにしても、この辺りの如何にも出来レース臭い伊賀越えの辻褄合わせが、徳川家康の本能寺の変黒幕説の立ち上る煙かも知れない。

この折道案内をした伊賀の棟梁・服部半蔵正成は、その伊賀山中突破の功で江戸城に「半蔵門」が作られ、公儀お庭番として登用されている。

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-10-27 06:22 | Comments(0)  

小早川密約(こばやかわみつやく){秀吉中国大返しの奇跡(四)}

明智光秀の計算では、羽柴秀吉も北陸方面の柴田勝家同様に中国方面の毛利に張り付き動けぬ予定だった。

天下の秀才・明智光秀さえ読み切れずに驚愕した余人では出来ない迅速な中国大返しを秀吉が実行できたのは、川並衆・蜂須賀家と馬借(ばしゃく)・生駒家輜重(しちょう)力の結果だが、それを可能にしたのは背後の憂い(毛利勢)を二段構えで取り除いた根回しだった。

秀吉と毛利氏との高松城下の講和の際、実は毛利方が知らない事になっている「本能寺の変」が起こって毛利輝元と和睦する時点で、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景と追撃しない密約をしていた。

考えて見れば、主君・織田信長が健在であれば秀吉が勝手に毛利勢と和議を結ぶなど出来無い事は知将・小早川隆景に見当が着かない訳は無い。

だが、秀吉は織田新帝国成立宣言の警護の為に、秀吉の軍勢を畿内に引き戻す事を想定した信長から和議の書状を予め持参していた。

それで何とか和議交渉の場は造られたが、それでも血気にはやる毛利勢に拠る追撃の懸念は在った。

追撃の懸念を回避しなければ機内へは戻れない。

そこで秀吉は、隆景に本能寺の変を洗いざらい打ち明けて密約し和議に持ち込んだ。

秀吉は天分とも言うべきか、生来他人の懐に入るのは得意だった。

それで誑(たら)し込まれた武将も数が多いのだが、小早川隆景は秀吉の天分に乗ったのかも知れない。

「本能寺の変」を毛利方が知らない事になっているのは政治判断で、毛利家中を説得する時間も無く事を成す為の手段だった。

そして更に万が一の毛利勢追撃を考えて備前宇喜多勢・宇喜多八郎(秀家)に毛利家の監視役を務めさせ、結果中国大返しは成功し秀吉の天下取りを容易にした。

その結果、小早川隆景は毛利家陪臣の位置に在りながら筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられ、周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の主家・毛利輝元と並んで秀吉から豊臣政権の重臣(後世に大老職と呼ばれる)に登用され、同じく宇喜多八郎(秀家)は備中東部から美作・備前の五十七万万四千石を拝領して豊臣政権の重臣(大老職)に登用されている。

つまり秀吉の中国大返しは、秀吉の持つ特殊な機動力と小早川密約(こばやかわみつやく)の合わせ技たったのである。

秀吉中国大返し・奇跡の謎(一){川並衆(かわなみしゅう)}】に戻る。
秀吉中国大返し・奇跡の謎(二){生駒家(いこまけ)}】に戻る。
秀吉中国大返し・奇跡の謎(三){輜重(しちょう)}】に戻る。

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第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-10-23 17:00 | Comments(0)  

小早川隆景(こばやかわたかかげ)

小早川隆景は毛利元就の三男で、父・元就に次兄・吉川元春と共に本家・毛利家を支える毛利両川体制の教え受け、長兄・隆元が急死した後、次兄・吉川元春とともに毛利の両川として本家・毛利家を支える。

次兄・元春が九州の陣中で没した後は、隆景一人で本家(長兄)・毛利隆元の遺児である当主・毛利輝元を良く補佐し、終生その姿勢を変える事がなかった。

秀吉に臣従後の隆景は、毛利本家を守りながら豊臣秀吉の天下人を確実にさせた一連の小田原平定・四国平定・九州平定に積極的に参戦し、功績を挙げて筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられている。

織田信長健在の頃より中国方面担当として毛利氏と対決して来た豊臣秀吉は、敵であった隆景の人物・実力を非常に高く評価して親任厚く、小早川家が毛利の陪臣分家的な位置にも拘らず秀吉政権下で後に五大老と言われた徳川家康前田利家上杉景勝宇喜多秀家(うきたひでいえ)、毛利輝元と並ぶ重臣として小早川隆景を遇している。

この秀吉の小早川隆景厚遇の理由だが、実は毛利方が本能寺の変を知って居て、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景が高松城下の講和を容認し、中国大返しを毛利方が追撃しない決断を下して密約し、秀吉の「天下取りを容易にした事に対する謝意と信頼」と考えれば得心が行く。

その隠された史実なくして、毛利氏系から二人も豊臣政権に重臣を登用する理由は見当たらない。

惜しむらくはこの隆景には実子がなく、豊臣秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。

小早川秀秋(こばやかわひであき)】に続く。

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第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-10-23 01:09 | Comments(0)  

毛利輝元(もうりてるもと)・「後編」

毛利輝元(もうりてるもと)・「前編」】に戻る。

織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉に拠って、毛利輝元は徐々に追い込まれて居た。

輝元も叔父達と共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻して来るなど身動きが採れず、羽柴秀吉は播磨三木城を長期に渡って包囲し、持ち堪え切れなくなった別所長治は自害させ、因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城させ毛利氏の名将・吉川経家が自害する。

千五百八十二年、羽柴秀吉が毛利氏の忠臣・清水宗治が籠もる備中高松城を水攻めにしていた頃、秀吉は京都・本能寺にて本能寺の変が発生し、明智光秀の謀反により主君・織田信長滅ぶの報を聞き慌てて毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけ毛利氏との和睦を持ちかける。

戦況の不利で和睦を願って居た輝元や小早川隆景らは信長の死を知らずにこの和睦を受諾、結果備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹して秀吉の中国大返しを許す事になった。

中国大返しで機内に戻った羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦を経て、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、毛利輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたがいずれが勝利するか確信が持てずに中立を保った。

賤ヶ岳の戦いには協力しなかった輝元は、合戦後に羽柴秀吉を天下人と見定めて接近し、秀吉に臣従し毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し忠誠を誓っている。

その後の輝元は、秀吉家臣として四国征伐、九州征伐にも先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与して結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の所領を安堵され、豊臣姓と羽柴の名字を許され羽柴安芸中納言輝元と称された。

文禄・慶長の役と呼ばれる二度の秀吉に拠る朝鮮出兵にも輝元は主力軍として兵三万を派遣し、これらの功績から秀吉より五大老に任じられた。

千五百九十八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に輝元は五大老の一人として遺児の豊臣秀頼の補佐を託されている。

豊臣秀吉死去から二年、千六百年(慶長五年)に徳川家康石田三成による対立が遂いに武力闘争に発展、徳川家康が上杉景勝討伐に出陣する隙を突く形で石田三成が西軍の総大将として毛利輝元を擁立し挙兵する。

四十七歳に成っていた輝元は、三成らに擁されて大坂城西の丸に入り西軍の総大将として大坂城に在ったが、関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させるに止まった。

その西軍が関ヶ原で壊滅した後、輝元は徳川家康に申し出て自ら大坂城から退去し決戦を避けている。

一方、毛利両川(もうりりょうせん)の一家・吉川広家は、西軍が負けると判断して黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行い、関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える形となって毛利秀元の率いる毛利軍は不戦を結果とした。

それで毛利家は安泰と思われたが、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収した事から、徳川家康は戦後その本領安堵の約束を反故にして毛利輝元を改易する。

その上で家康は、改めて吉川広家に周防・長門の二ヶ国を与えて毛利氏の家督を継がせようとしたのだが、広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えた為に毛利輝元は隠居、毛利秀就への周防・長門二ヶ国の安堵となり毛利本家の改易は避けられた。

この家康の仕置きが、まさか二百五十年後に徳川家への「禍根となる」などとは、流石の徳川家康も知る由もない。

毛利氏は所領を周防・長門二ヶ国の三十七石に大減封されて江戸期を凌(しの)ぎ、遠い歳月を経て明治維新の倒幕急先鋒の藩と成ったのである。

毛利輝元(もうりてるもと)・「前編」】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2009-10-21 01:23 | Comments(0)  

毛利輝元(もうりてるもと)・「前編」

石田三成が西軍(豊臣方)の総大将に据えた毛利輝元(もうりてるもと)は、下克上で大内氏を倒して周防・長門を奪った陶(すえ)氏を倒した毛利元就(もうりもとなり)の嫡男・毛利隆元の嫡男で、言わば毛利家の正統三代目である。

安芸(現在の広島県)に生まれ、幼名は幸鶴丸を称した毛利輝元(もうりてるもと)は父・隆元が急死した為十一歳で家督を継ぐも若年の為、祖父・元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行していた。

毛利幸鶴丸は、千五百六十五年に十三代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され十二歳で元服し、輝元と名乗り同年の月山富田城で初陣を飾る。

千五百七十一年(元亀二年)、輝元十八歳の折に周防・長門・長州・安芸・石見をほぼ制した一代の英雄・祖父の元就が死去すると、毛利両川(もうりりょうせん)体制を中心とした重臣の補佐を受け、元就は漸く親政を開始する。

その親政開始の三年後、千五百七十四年(天正二年)には織田信長の助力で将軍職に就いた十五代将軍・足利義昭からの推挙を得て、輝元は朝廷から右馬頭に叙任され室町幕府の相伴衆に成った。

「三本の矢」の逸話の元とも成った毛利両川(もうりりょうせん)体制とは、吉川氏には次男の元春、小早川氏には三男の隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やしてその勢力を吸収するのに成功し、中国制覇を果たすのに大きな役割をした組織体制である。

月山富田城・初陣の後、輝元は中国地方の覇者となるべく各地に勢力を拡大して行く。

祖父・元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利して九州や中国地方に勢力を順調に拡大し続けていた。

所が、千五百七十六年(天正四年)になって織田信長に拠って都を追われた将軍・足利義昭が領内の備中に動座して来た為、輝元は保護せざるを得ない状況となる。

その上石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると輝元が村上水軍を使うなどして本願寺に味方し、兵糧・弾薬の援助を行うなどした事から信長と激しく対立する。

信長軍団と事を構える事に成った毛利輝元だったが、当時織田軍は越後の上杉謙信と敵対していた事もあり兵が手薄で、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り大勝利を収めた。

その勢いで羽柴秀吉尼子氏連合軍との決戦に及んだ上月城の戦いで、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれる事を恐れて上月城に尼子勢を残して転進した為、輝元は上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、信長を歯軋りさせるほど織田氏に対して優位に立った。

しかし上杉謙信が死去、更に第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側の不利となって行き、千五百七十九年(天正七年)に成ると毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多直家が織田信長に通じて毛利氏から離反した。

毛利輝元(もうりてるもと)・「後編」】に続く。
毛利元就(もうりもとなり)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2009-10-21 01:20 | Comments(0)  

毛利両川(もうりりょうせん)体制

毛利氏に関しては、その中興の歴史と毛利両川(もうりりょうせん)体制を説明して置かないと、何故力を着けて中国地方を制覇する戦国大名に伸し上がったのかの説明が着かない。

中国地方を制した毛利元就(もうりもとなり)が家督を継いだ時、毛利家は安芸国の一介の国人領主に過ぎなかったが、一応安芸国人領主の盟主的な役割を担っていた。

そして周囲には、周防国を本拠とする守護大名から戦国大名に成長した周防・大内氏や出雲国の支配権を奪取し山陰地方に勢力を伸ばした出雲・尼子氏(あまごうじ)が備前国まで手を伸ばし始めた圧力が在った。

この分では安芸国は大内氏や尼子氏(あまごうじ)に蹂躙されると恐れた毛利元就は、安芸国人領主の結束を訴え腐心するが当時の毛利氏は安芸国の国人領主の盟主的な地位に在ったものの、彼らを力づくで支配するだけの政治・軍事力は備わって居なかった。

そこで元就は謀略に拠って有力国人領主を取り込み、軍事組織と政治組織を確立して行く。

その組織が毛利両川(もうりりょうせん)体制で、元就嫡男・毛利隆元を残し毛利氏と同格の国人領主だった吉川・小早川両氏に二男・元春と三男・隆景を養子として送り込んで夫々の勢力を吸収するのに成功する。

この毛利両川(もうりりょうせん)体制の一郭を担う事に成る水軍・小早川氏の先祖が、鎌倉有力御家人・土肥(小早川)氏の支流・安芸・小早川氏である。

この物語の平安末期から鎌倉初期に活躍し吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた土肥氏・土肥次郎実平(どいじろうさねひら)の嫡男・小早川(土肥)遠平の養子として入り、安芸国沼田荘地頭職を養父・遠平から譲られた鎌倉御家人・平賀家からの養子・小早川(土肥)景平だった。

毛利・吉川・小早川が血縁同盟をした事で力を着けた毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を倒し、更に大内氏を滅ぼして安芸の完全支配を確立し、中国地方制覇に乗り出して行く。

千五百五十七年(弘治三年)、毛利元就の嫡男・毛利隆元は弟達である吉川元春小早川隆景が毛利氏の運営に参画して自分を補佐する事を条件とし家督継承を承諾する。

その際元就は、三人の実子隆元・元春・隆景に対して有名な「元就教訓状」を出し、毛利の家名を存続させる事を第一として、他名(吉川・小早川)は当座のものである事、兄弟が協力して毛利家中を守り立てる事を説いた。

これが毛利宗家を中心として吉川・小早川両氏がこれを支える「毛利両川」体制である。

以後、毛利氏当主・毛利隆元を高齢の父・元就が後見し、吉川元春と小早川隆景がこれを補佐する三兄弟体制で臨んだ毛利氏は、尼子氏を制圧して山陽・山陰地方の大半を制圧し、隆元の早世、元就の病没後には隆元の遺児である毛利輝元を毛利氏当主として押し立てる事によって、中国地方の覇者・毛利氏の基礎を築いたのである。

しかしこの婿養子作戦がまさか豊臣秀吉に拠ってそっくり真似をされ、秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる木下秀俊(きのしたひでとし/羽柴秀俊)を小早川隆景の養子として送り込まれ、小早川氏が乗っ取られるとは夢にも思わなかったかも知れない。

この時小早川氏に送り込まれたのが、後に関が原の合戦で勝敗を分ける鍵と成った小早川秀秋(こばやかわひであき)だったのである。

毛利輝元(もうりてるもと)・「前編」】に続く。
毛利元就(もうりもとなり)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2009-10-21 01:13 | Comments(0)  

毛利元就(もうりもとなり)

安芸国高田郡吉田の国人領主・毛利氏は、源頼朝の側近として名を馳せた鎌倉幕府の御家人・政所初代別当(長官)・大江広元の四男・大江季光を祖とする一族と伝えられる。

毛利元就(もうりもとなり)が家督を継いだ時、毛利家は安芸国の一介の国人領主に過ぎなかったが、一応安芸国人領主の盟主的な役割を担っていた。

そして周囲には、周防国を本拠とする守護大名から戦国大名に成長した周防・大内氏や出雲国の支配権を奪取し山陰地方に勢力を伸ばした出雲・尼子氏(あまごし)が備前国まで手を伸ばし始めた圧力が在った。

この分では安芸国は大内氏や尼子氏(あまごし)に蹂躙されると恐れた毛利元就は、安芸国人領主の結束を訴え腐心するが当時の毛利氏は安芸国の国人領主の盟主的な地位に在ったものの、彼らを力づくで支配するだけの政治・軍事力は備わって居なかった。

そこで元就は謀略に拠って有力国人領主を取り込み、軍事組織と政治組織を確立して行く。

その組織が毛利両川(もうりりょうせん)体制で、元就嫡男・毛利隆元を残し毛利氏と同格の国人領主だった吉川小早川両氏に二男・元春と三男・隆景を養子として送り込んで夫々の勢力を吸収するのに成功する。

毛利・吉川・小早川が血縁同盟をした事で力を着けた毛利元就は厳島の戦い大内氏・大内義隆(おおうちよしたか)の所領を下克上で横領した陶氏・陶晴賢(すえはるたか)を倒し大内氏の所領の大部分を領して戦国大名に脱皮、更に大内氏を滅ぼして周防・安芸の完全支配を確立し、中国地方制覇に乗り出して行く。

千五百五十七年(弘治三年)、毛利元就の嫡男・毛利隆元は弟達である吉川元春・小早川隆景が毛利氏の運営に参画して自分を補佐する事を条件とし家督継承を承諾する。

その際元就は、三人の実子隆元・元春・隆景に対して有名な「元就教訓状」を出し、毛利の家名を存続させる事を第一として、他名(吉川・小早川)は当座のものである事、兄弟が協力して毛利家中を守り立てる事を説いた。

これが毛利宗家を中心として吉川・小早川両氏がこれを支える「毛利両川」体制である。

三兄弟体制で臨んだ毛利氏は、尼子氏を制圧して尼子氏の所領を併せ、山陽・山陰地方の大半(中国地方十ヵ国と北九州の一部)を制圧し、隆元の早世や元就の病没にも結束は緩まず、隆元の遺児である毛利輝元を毛利氏当主として押し立てる事に依って、戦国最大級の大名・中国地方の覇者・毛利氏の基礎を築いたのである。

毛利両川(もうりりょうせん)体制】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-10-21 01:07 | Comments(0)  

秋田美人と粛慎(ミセハシ)の謎

日本書紀によれば、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は六百五十八年に水軍百八十隻を率いて日本列島東北部の蝦夷を討ち、さらに「粛慎(ミセハシ)」を平らげた。

粛慎(ミセハシ)は本来満州東部に住むツングース系民族を指すが、日本書紀がどの様な意味でこの語を使用しているのか不明である。

実は北東アジア大陸の諸族をツングース系民族と言うのだが、ツングース系民族は地形上ロシア人との交易も盛んで、民族事情を良く知らない第三者にはロシア人をツングース系民族と混同する可能性も在り、日本書紀の中の粛慎(ミセハシ)の記述が中国文献中の粛慎(しゅくしん)と同じものであるとは言い切れない。

それにしても、この阿倍比羅夫(あべのひらふ)の東北進攻、半島で百済と新羅とが戦火を交え、大和朝廷も百済に援軍を送っている時にしては、よくも大軍を「奥州に派遣できた」と、若干の疑問も残る。

東北蝦夷統一王の安倍氏の歴史を、大和朝廷の成果として後世に伝える為に、時代をずらして日本書紀に組み込んだ可能性もある。

または、阿倍比羅夫(越国主・えつのくにぬし)はまだ独立していて別行動を取っていたのだが、後に大和朝廷に合流して「朝廷の歴史として後で組み込まれた」と、考え得るのかも知れない。

現在の秋田県の雄物川の河口のアギタ浦(今の秋田市)に着いた時、アギタ蝦夷の首長の恩荷(オガ)は安倍比羅夫に恭順した。

阿倍比羅夫はこの恩荷に「小乙上(しょうおつじょう)」と言う、六百四十九年(大化五年・奈良時代)施行の「冠位十九階」中十七位の官位を与えている。

その後、阿倍比羅夫は更に北ヘ行き、ヌシロ(能代) ツガル(津軽)の蝦夷の頭領を郡領(コオリノミヤッコ)に任命している。

そして、有間浜(岩木川の河口?)に渡島(今の北海道?)の蝦夷を集めて懐柔の饗応をしている。

更に、肉入籠(シシリコ)に至って 後方羊蹄(シリベシ)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いた。

同年七月には、二百余人の蝦夷が飛鳥の朝廷に朝貢(ちょうこう)に来ている。

その後、六百六十年(斉明六年)三月には、阿倍比羅夫は二百艘の大船団を引き連れて第二次遠征に出発している。

阿倍比羅夫が、ある大河の河口に来ると、渡島(ワタリシマ・北海道?)の蝦夷が千人ほど集まっており、この中から二人の蝦夷が走り出して来て、ここに突然粛慎(ミセハシ)の船が襲って来たので「助けて欲しい」と安倍比羅夫に懇願した。

そうこうする内に粛慎(ミセハシ)が比羅夫を攻撃して来たので、両軍は矛を交える事になった。

これには征服をしに来た比羅夫に助けを求めるなど、記述内容に矛盾がある。

だとすると、推測するに比羅夫本人が蝦夷の王だからこそ比羅夫に助けを求めたのではないのか?

比羅夫は戦闘の末、粛慎(ミセハシ)の内四十九名を捕足したが、比羅夫の側にも能登臣の馬身竜が戦死している。

面白い事に、メラニン色素の割合で言っても「秋田美人」に喩えられる秋田の人の白人の様な肌の白さは東北の中でも群を抜く結果となっていて、秋田県を中心とする東北の一部に明らかに白人との混血種日本人が多く存在してる事も知られている。

或いはそれらが、有史以前に日本列島に到達していた粛慎(ミセハシ)と呼ぶ実は欧州系の白人種(ロシア人)だったのかも知れない。

この粛慎(ミセハシ)と言う部族は少なくともこの 地方(奥州・渡島)に住んでいる蝦夷とは違った種族だった。

彼ら捕虜は、生きた熊二頭と熊の皮七十枚と一緒に朝廷に戦利品として献上されている。

この秋田美人について、東北地方の日本海側は全国的に見て日照時間が少ない事から、秋田に住む人は紫外線による影響が少ない上、冬季は積雪が多く屋内に篭り勝ちになる事も「肌が白い事の原因」として考えられる説がある。

言わば、経時変化への相当必要時間を無視した根強い「メラミン色素説」である。

つまり秋田美人の色白がメラミン色素説ならば、同じ緯度・同じ黄色人種系のアラスカ・エスキモー種(イヌイット )やネイティブアメリカン種(カナダ・インディアン)も、居住環境に拠っては色白でなければならない。

また同じ緯度に住むロシア人の中にも白色人種系と黄色人種系の部族がハッキリ混在していて、メラミン色素説ではどの人種も白く成り、その色分けは無くなる筈ではないのか。

そして何よりも、白色人種の列島渡来を伺わせる古文書や伝承の類をまったく無視して良いのだろうか。

ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説】に続く。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2009-10-18 04:20 | Comments(0)  

鳥居元忠(とりいもとただ)

鳥居元忠(とりいもとただ)は、幼少の頃から徳川家康に仕えた三河松平氏以来の老臣である。

その鳥居元忠の父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏の老臣で、元忠自身もも家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれていた頃からの幼い側近の一人である。

桶狭間の合戦に拠って今川義元が討ち取られたドサクサに、主君・家康が三河の本領に戻って三河を統一し独立した領国運営を始めると、元忠は旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

父の死により家督を相続した元忠は、三方ヶ原の合戦や諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。

元忠は、頑固一徹に「家康の絶対的忠臣であった」と言われている。

幼少の頃から徳川家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、元忠が感状をもらう事は無かった。

家康が感状を無理に与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕える時に役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には「無用なものである」と答えた。

家康が豊臣秀吉に帰服して関東に移封された時、元忠は家康から下総矢作に四万石を与えられ、家康の右腕として精勤する。

天下人となった豊臣秀吉からの官位推挙の話が度々あったものの、「主君以外の人間から貰う言われはない」と断ったと言う逸話も残っている。

しかしお茶目な一面も在り、武田氏の滅亡後、重臣である馬場信房の娘の情報が家康に届き、元忠に捜索を命じる。

元忠は娘は見つからないと報告し、その捜索は打ち切られるのだが、それが暫くして「馬場の娘が元忠の本妻になった」と言う話を聞き、家康は高笑いで許した。

天下人・秀吉死後の豊臣政権に於いて、五大老となっていた家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵する時、元忠は後を任されて伏見城を預けられる。

その家康らの出陣中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は最初から玉砕を覚悟で僅か千八百の兵で立て籠もる。
ここで見せた鳥居元忠の行動には二つの謎がある。

一つは死を覚悟してまでの忠勤に、元忠の家康への想いの深さはいったい何だったのだろうか?

そして今一つは、せっかく共に篭城してまで味方をしようとした島津義弘(しまづよしひろ)率いる八千の軍勢の伏見城入城を拒否した事である。

元忠は島津勢の裏切りを嫌ったのか、或いは玉砕覚悟の元忠が島津勢まで巻き込みたくは無かったのか?

関が原合戦の戦勝後、家康は忠実な部下・元忠の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・鳥居忠政は江戸幕府成立後に山形藩二十四万石の大名に昇格しているが、これは三河譜代の他家と比べ三河譜代の家としては異例の厚遇である。

つまり鳥居家と家康の間には、他者が入り込めない隠された絆が在ったのではないだろうか?

尚、元忠の子一人・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩の家老大石内蔵助良欽に嫁いでいる。

その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)に於いて主君に忠死した大石内蔵助良雄であった。

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by mmcjiyodan | 2009-10-15 19:56 | Comments(0)