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天手力雄命(あめのたぢからおのみこと/手力王の尊)

日本神話に登場する神・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)は腕力の神様である。

初期の神話には、日本列島で遭遇した多くの部族が「誓約」に依り、次の世代が混血して「異部族融和を図る過程が暗示されている」と解釈される。

古事記では、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が胸も女陰も露わなストリップダンスで神々を賑わす中、天手力雄命(あめのたぢからおうのみこと)は天岩戸の脇に控えて居り、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸から顔をのぞかせた時、天岩戸を引き開けて天照大神を引きずり出して天照大神のまわりに「しりくめ縄」を引き巡らせてしまう。

天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)は「天(あめ)」と名乗るからには天照大神(あまてらすおおみかみ)とは同族の天孫族の神様だが、天照大神のまわりに引き巡らせた「尻久米(しりくめ)縄」の久米(くめ)は「出す」を意味している。

つまり「尻久米(しりくめ)縄」を直訳すると「尻を出す縄」と言う事に成り、その事から解釈に拠っては天手力雄命は天照大神を岩戸から引きずり出して尻を出す形で縛り上げ「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供した」と受け取れるのである。

信濃国(長野県)の戸隠山天台密教真言密教と神道とが習合した古くからの陰陽修験の霊場で、戸隠神社(長野市)には天手力雄命が引き開けた岩戸が「勢い余って飛んで来て戸隠山に成った」と伝承が残っている。

詳しくは【天照大神・天の岩戸伝説は只の神話か?】に飛ぶ。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈であるが、これこそ天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

関連記事
天照大神(あまてらすおおみかみ)】に飛ぶ。
フェール・エチル・アミン】に飛ぶ。
天宇受売命(あめのうずめのみこと)】に飛ぶ。
天岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)】に飛ぶ。
しめ縄の由来】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-12-31 03:32 | Comments(0)  

天岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)

天岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)は、太陽神である地上の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩屋に隠れて岩戸を閉じ、地上が暗闇の世界に成ってしまった事に始まる伝説である。

そもそもの天岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)に拠ると、陸地を支配する「天照大神」が岩戸に籠もった原因は、「海を支配する弟神・須佐之男命(スサノオのミコト)の度重なる悪行に拠る」とされている。

この事は、我が国・日本列島に於いて、農耕民族系・加羅族(天孫族・山の民))海洋民族系(呉族・海の民))の覇権争いを伝えているのである。

平穏な世界に災いをもたらす「弟神・須佐之男命(スサノオのミコト)」は、何を暗示しているのか?

この須佐之男命(スサノオのミコト)の「度重なる悪行」がこの物語のヒントで、異民族同士の支配地争いであれば大陸山間の稲作系民族と海洋民族の図式が成り立ち、実に判り易い。

つまり、大陸山間の稲作系民族の太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)と海洋民族・須佐之男(スサノオ)の命が、「日本列島の覇権を争そっていた」と解釈できるのである。

それにしても、部族同士の戦を何時までも続ける訳には行かない。

そこで考え出されたのが、誓約(うけい)に拠る部族の統合である。

異部族・異民族も、誓約(うけい)の性交の後生まれるのは両者混血の子供達で、この誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事の神事である。

神事の性交こそ、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

天岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)の胸も女陰も露わなストリップダンスの賑わいにつられて岩戸を少し開け、外を覗き見た。

そのチャンスに、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと/手力王の尊)が岩戸を引き開けて天照大神を連れ出し、天照大神のまわりに「しりくめ縄を引き巡らした」と言う神話が伝えられている。

この「尻久米(しりくめ)縄」の略したものが「しめ縄」である。

尻久米(しりくめ)縄の久米(くめ)は「出す」を意味している事から、直訳すると「尻を出す縄」と言う事に成る。

神聖な伝承に於いて、天照大神が「しりくめ縄を引き巡らされる」・・・この意味するものはいったい何だろうか?

解釈に拠っては天手力雄命は天照大神を岩戸から引きずり出して尻を出す形で縛り上げ「須佐之男命(スサノオのミコト)に供した」と受け取れるのである。

こんな解釈をすれば嘘で固めた良識派の「尻久米(しりくめ)縄を巡らしたのは岩戸の入り口の方だ」と反発はあるだろうが、この「天の岩戸伝説」を解するに「異民族同士の誓約(うけい)儀式の顛末伝承」と考えれば「尻久米(しりくめ)縄」に神代誓約(じんだいうけい)儀式の「リアルな意味が込められている」とも解釈できる。

つまり「尻久米(しりくめ)縄」に掛けられた天照大神(あまてらすおおみかみ)が、須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供されて異民族同士の誓約(うけい)儀式が成立し、「異民族の和合が成立した」と言う生々しい話かも知れないのである。

この岩戸隠れの時、三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)の一つ八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)に於いて、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すツール(道具)として使われたとされる。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈である。

これこそが、天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

そして神社境内は「氏神(氏上)の神域」に成り、その神域の結界を示すものが、「しめ縄(しりくめ縄)」である。

つまりその接点は、日本列島他民族乱立時代の部族融合の為の誓約(うけい)人身御供伝説の神話の世界が形成されるのである。

実はこれらの神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)が政治的思惑も含め、皇子の舎人親王(とねりしんのう)を使って編纂を始めさせた古事記日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説までの物語が、創作された。

それを、桓武帝修験道師を使ってまで喧伝仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、異部族を混血化して単一民族に仕立てる事であり、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

つまり天武大王(てんむおおきみ/天皇)が始めて桓武天皇(かんむてんのう)がほぼ編纂を締め括った壮大な歴史改ざん文献が古事記・日本書紀である。

尚、三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、スサノウ(須佐王)は、「記紀(古事記日本書紀)神話」に於ける「)」の伝承的存在である事を心して分けて扱うべきである。

詳しくは【天照大神・天の岩戸伝説は只の神話か?】に飛ぶ。
詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。

尚、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと/手力王の尊)が開けた天岩戸が信州まで飛んだという伝説が在り、戸隠れの地名が生まれて仁科大助(戸隠大助)と戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術の伝承に続いている。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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伝説シリーズ
因幡(いなば)の白兎(うさぎ)伝説】に飛ぶ。
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。
霊犬伝説シリーズ】に飛ぶ。
八岐大蛇(やまたのおろち)伝説】に飛ぶ。
「沢田の大蛇退治 」伝説】に飛ぶ。

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第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-12-31 01:18 | Comments(0)  

しめ縄の由来

この物語を読まれている貴方は、神事・慶事に使う「しめ縄の由来」をご存知か?

しめ縄とは、天の岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて岩戸を少し開け、外を覗き見た所を手力雄命(手力王の尊/たぢからおうのみこと)が岩戸を引き開けて天照大神を連れ出し、天照大神のまわりに「しりくめ縄を引き巡らした」と言う神話がこの「しめ縄の初めだ」と言われている。

しめ縄は、「尻久米(しりくめ)縄」の略したものと言われ、久米(くめ)は「出す」を意味している事から、直訳すると「尻を出す縄」と言う事に成る。

神聖な伝承に於いて、天照大神が「しりくめ縄を引き巡らされる」・・・この意味するものはいったい何だろうか?

こんな解釈をすれば嘘で固めた良識派の「尻久米(しりくめ)縄を巡らしたのは岩戸の入り口の方だ」と反発はあるだろうが、この「天の岩戸伝説」を解するに「異民族同士の誓約(うけい)儀式の顛末伝承」と考えれば「尻久米(しりくめ)縄」に神代誓約(じんだいうけい)儀式の「リアルな意味が込められている」とも解釈できるのである。

いずれにしても神代の当時は現在のように性を秘するべきものでは無く、民族和合の誓約(うけい)儀式や五穀豊穣の祈りの証明としての性交儀式は神聖なものとして捉えられていたので、頭から現代風に受け取らず神代の当時の積もりで「尻久米(しりくめ)縄」の伝承を古事を辿りて偲い受け取って貰いたい。

そして神社境内は「氏神(氏上)の神域」に成り、その神域の結界を示すものが、「しめ縄(しりくめ縄)」である。

つまりその接点は、日本列島他民族乱立時代の部族融合の為の誓約(うけい)人身御供伝説の神話の世界が形成されるのである。

また、時代が下がってからのしめ縄とは「注連(しめ)縄」、または「標(しめ)縄」とも書き、一名を「しめ飾り」とも言う。

これは標縄(しめなは)を意味する言葉で、言わば縄張りの語源であり、皇位皇族・高貴の者が一般を排除して地域を占有する事を指して標縄(しめなは)を張る地域」と言う訳である。

つまりしめ縄は、神事の場所と下界の区切りを現す為に張る縄で「区切りを占める縄」の意味を持つ。

これは神社に於いて、内外の境界または出入禁止のしるしに引き渡す縄で、神前や神事を行う場所にこれを張るときは清浄な区域である事を示し、家庭で新年に戸口にこれを張る時には、災いをもたらす神や不浄な物が内に入らないようにとの意味が込められている。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈であるが、これこそ天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

実はこれらの神楽舞いの題材と成った神話天孫降臨伝説神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

古事記日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝修験道師を使ってまで仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

詳しくは【天照大神・天の岩戸伝説は只の神話か?】に飛ぶ。
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官人接待(かんじんせったい)と神前娼婦(しんぜんしょうふ)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2009-12-30 14:12 | Comments(0)  

西郷隆盛(さいごうたかもり)・城山の最期

鹿児島市中央部に在る城山は鹿児島城(鶴丸城)の裏手の山で、元々万が一の時には後詰めの城域として使う為に軍事整備された城郭部を持つ「上之山城」で在った。

熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)が守る熊本城の陥落に失敗、田原坂の攻防に敗れた西郷隆盛率いる薩軍は、人吉、小林、宮崎と敗走を重ね、難路・可愛岳(えのだけ)越えを敢行して出陣から七ヶ月後に故郷鹿児島の城山に辿り着き立て篭もった。

一時三万人まで膨れ上がった薩軍兵力は、城山に辿り着いた時には僅か四百名にまで減少し装備も百五十挺の先込め小銃と数門の砲、一方、城山を包囲する政府軍は五万の大軍だった。

城山を包囲した政府軍は、千八百七十七年九月二十四日午前四時の号砲を合図に総攻撃を開始、西郷軍も徹底抗戦するが次々と陣地を破られ、包囲網は縮まって西郷自身も大腿部を銃撃され歩行困難となるなど惨憺たる戦況となる。

自分の役目が終わったと感じた西郷は自らも数箇所傷つきながら、心静かな安らぎの中に最期を迎えようとしていた。

死を目の前に、西郷隆盛が心穏やかな気分に成ったのは久しぶりだった。

「わー」と言う辺りを威圧する時の声。時折響く「ど~ん」と言う不気味な砲声。「どし~ん」着弾の音、舞い上がる砂埃。

「だぁ~ん」銃声の先で「バタッ」と倒れる兵の姿。

乱れ飛ぶ怒号や気合と斬り合いの響きが、遠く近く聞こえながら迫って来ていた。

西郷隆盛は傍らの別府晋介に声をかけ、「晋どん(別府晋介)、もうここいらで良かでごわはんか。」と介錯を頼み、自刃する。

西郷が自軍の将兵に解散を布告した北川の地から可愛岳(えのだけ)越えを敢行して終焉の地城山まで従った四百名の中には薩軍幹部・村田新八(むらたしんぱち)、篠原国幹(しのはらくにもと)、桐野利秋(きりのとしあき)、池上四郎(いけのうえしろう)等が居て最後は四十数名が残っていた。

その残っていた四十数名が、城山陥落時は西郷隆盛の自決を見守った後に岩崎口の塁をめざして進撃、途中、弾雨の中で自刃、刺し違え或いは戦死した。

西郷隆盛はこの城山の自刃で、自らが生み出した維新政府と言う作品に、密かに魂を入れたのかも知れない。

理性では割り切れない事も、感性の思い入れが強ければ理解できる。

今一度言うが、明治維新は隆盛にとって、自分が生み出した身を棄てても(自らを犠牲にしても)惜しくは無い心境の、歴史そのものだったかも知れない。

西南戦争/西南の役】に戻る。
西郷隆盛・鹿児島私学校 】に戻る。

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第六巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2009-12-29 01:19 | Comments(0)  

谷干城(たにたてき)

西南戦争時の熊本鎮台司令長官として西郷軍から熊本城を死守した名将・谷干城(たにたてき)は、土佐の国人領主で神官の名流・谷氏の末裔である土佐藩士だった。

谷氏は、土佐の国人領主から戦国大名に成った長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の忠臣・谷忠澄(たにただすみ)が「元は土佐国の神官で在ったが、長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交方面で活躍した」とされる所から、谷忠澄(たにただすみ)の末裔が江戸末期の学者・谷重遠(秦山)だろうと推測され、谷干城(たにたてき)本人もその血流を名乗っている。

谷干城(たにたてき)は、千八百三十七年(天保八年)土佐藩士・谷万七(たにまんしち)の第四子として高知城下に生まれた。

干城(たてき)二十二歳の千八百五十九年(安政六年)江戸に出て安井息軒の弟子となって学んだ後、土佐に帰国して藩校・致道館で史学助教授となる。

干城(たてき)は土佐勤皇党の武市瑞山(半平太)と知り合って友人となり尊王攘夷運動に傾倒するも、千八百六十六年(慶応二年)藩命で長崎を視察した時、そこで後藤象二郎坂本龍馬と交わって攘夷拠りも次第に倒幕へ傾いて行った。

千八百六十七年(慶応三年)には、盟友の坂本龍馬や中岡慎太郎がともども土佐藩から脱藩罪を赦免された為、谷干城(たにたてき)は再び江戸に出て西郷隆盛と会い、奔走して土佐藩主・山内容堂の側用役重臣・乾退助(板垣退助)と薩摩藩家老の小松帯刀(こまつたてわき/小松清廉・ こまつきよかど)・西郷吉之助との間で薩土(薩摩藩と土佐藩)同盟を結んで討幕運動を目指した。

この年、京都近江屋に滞在中の盟友・坂本龍馬が何者かに襲われて斬殺され、同席していた陸援隊・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)も重傷を負った時、干城(たてき)は駆けつけて落命前の中岡から襲撃時の情況を聞き取っている。

その後谷干城(たにたてき)は、翌年(明治元年)の戊辰戦争で官軍の大軍監として北関東・会津戦線で活躍し、明治三年には土佐藩に戻って藩少参事と成り藩政改革に尽力するも翌明治四年の廃藩後、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)として新政府に出仕、陸軍少将・熊本鎮台司令長官となる。

谷干城(たにたてき)は一時熊本鎮台司令長官を退くが、神風連の乱後、薩摩に戻った西郷隆盛周辺の不穏な動きを考慮した新政府が再び干城(たてき)を熊本鎮台司令長官に起用、その西郷隆盛決起の西南戦争の際には、干城(たてき)は五十二日間に渡って西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献している。

西南戦争の功績により干城(たてき)は陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長と成るも台湾出兵時の政府・陸軍首脳部不手際を抗議して辞任をする。

谷干城(たにたてき)はその後、学習院院長から政治家に転身、千八百八十五年(明治十八年)の第一次伊藤内閣(伊藤博文)の初代農商務大臣に就任するなど晩年は貴族院議員・土佐派の重鎮として活躍し、明治四十四年に七十五歳で没した。

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by mmcjiyodan | 2009-12-28 11:04 | Comments(0)  

坂本龍馬(さかもとりょうま)の近江屋暗殺事件

世に言う近江屋事件(おうみやじけん)は、幕末・慶応三年の末に海援隊隊長・坂本龍馬(さかもとりょうま)と陸援隊隊長・中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸に於いて暗殺された事件の事を言い、京都見廻組の仕業であるとされる。

しかしこの説は大いに疑う所これ在り、この時点で類稀なネゴシェーター・坂本龍馬(さかもとりょうま)の死を本当に望んでいたのは幕府方とは思えない。

国外事情に詳しい龍馬が内戦の混乱に乗じて欧米列強国が介入して来るを恐れ、徳川慶喜を新政府に参加させる事に拠り徳川家の懐柔と温存を自説として西郷隆盛達急進派と意見対立していたからである。

慶応三年十一月三日、龍馬はそれまで宿舎としていた寺田屋が幕府方に目をつけられたので、近江屋に移った。

十日後、伊東甲子太郎(元新選組参謀、後に御陵衛士)が尋ねて来て、「お主は新選組に狙われているので三条の土佐藩邸に移ったらどうか」と勧めたが龍馬は近江屋に留まった。

伊東訪問の二日後の夕刻に盟友の中岡慎太郎が近江屋を訪れ、当時京都の治安維持を行っていた新選組が三条大橋西詰の制札を引き抜こうとした土佐藩士八名を襲撃、捕縛した「三条制札事件」について話し合う。

夜に成り、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出る客が近江屋を訪れ、応対した元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようと二階に案内するが、背後から行き成り切りつけられ重傷を負って倒れる。

藤吉は切りつけられて「ぎゃあ!!」と大声を上げ、その声を聞いた龍馬は咄嗟に「ほたえな!」と土佐弁で「騒ぐな」の意で声を挙げた為にその刺客に自分達の居場所を教えてしまう。

土佐弁を聞き付けた刺客は階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入し龍馬と中岡に切りかかる。

不意打ちを食らった龍馬は初太刀で切られ、意識が朦朧(もうろう)とする中、中岡の正体がばれないように中岡の事を庇い「石川、太刀はないか」と変名で呼んだと伝えられる。

定説はそんなものだが、近年新たに発見された資料として土佐藩の下級役人で徒目付(かちめつけ)・樋口真吉が当時在京していて龍馬暗殺の詳細を日記に付けていた。

樋口家の元々の格式は組外だったが、樋口真吉は千人を越える弟子を抱える私熟を経営して志士らの代表格のような存在だった。

才能を評価され嘉永年間に徒士格となり、藩主・山内豊範の参勤交代に徒士目付として随行するなどして下役ながら土佐藩々士として活躍していた。

樋口真吉は龍馬よりも二十歳も年上だが、剣豪としても知られた真吉は龍馬が十六歳の少年期から可愛がっていたと故郷土佐で伝えられている人物で、龍馬暗殺の時には京都で情勢の内定活動をしていた為、その日記には信憑性が在る。

樋口日記に拠ると、京都の近江屋に於いて、龍馬は「才谷梅太郎」、中岡新太郎は「横山勘蔵」の変名を使っていた。

刺客は三人で、襲われた時に龍馬は刀を手にする間も無く一太刀浴びせられ、中岡は隣の部屋に太刀を於いて来た為、小太刀で応戦するも、切り伏せられている。

それにしても奇妙な事に、近江屋とは河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)に在った土佐藩邸からは、龍馬の身を寄せる近江屋で騒動在るも暗殺当夜に何の救援の手も差し伸べられなかった。

この襲撃で龍馬は、胸など数カ所を斬られ終(つい)に絶命するも中岡はまだ生きており助けを求めるが、二日後に吐き気を催した後に死亡した。

龍馬暗殺は新選組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされたが、この事件に関しては不可解な事が多く、現在では新選組犯行説を支持する研究者はほとんど居ない。

徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜(第十五代)の処遇をめぐっては、西郷と龍馬では意見の相違が在った事は明らかになっていて、武力倒幕派に拠る大政奉還派の龍馬暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中達の証言などの資料をもとにしている。

大政奉還以降、龍馬は確かに幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていた。

確証は無いが、武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府方に「龍馬の所在を漏らした」とする説もある。

坂本龍馬暗殺の真相】に続く。

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by mmcjiyodan | 2009-12-27 16:56 | Comments(0)  

坂本龍馬(さかもとりょうま)と二人の妻

坂本龍馬(さかもとりょうま)の才能は、機会(チャンス)に恵まれて開花した。

土佐藩下士(郷士)の軽輩・坂本龍馬は、岩の僅かなひび割れから滲(にじ)み出るように表舞台に姿を現したのだ。

もし、この事を「神の意志だ」と言うのなら、我輩も同意せざるを得無い。

運も実力の内だが、坂本龍馬のデビューは言わば幸運の連続だった。

土佐藩下士(郷士)で在りながら商家(才谷屋)も営んで居て裕福だった坂本家の次男・龍馬は剣術修行に江戸に出て、高名な北辰一刀流剣術開祖・千葉周作の弟・千葉定吉の小千葉道場(千葉定吉道場)に入門した。

その後千葉定吉の息子・千葉重太郎と友人関係、また重太郎の妹・千葉さな子(定吉・二女)は龍馬の婚約者とも妻とも言われて居る。

坂本龍馬は、千八百五十七年(安政五年)に二度目の江戸での剣術修行を終えて土佐に帰国、楠山塾で学ぶ他に城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。

この二度目の龍馬・江戸修行、修行では無く小千葉道場の「千葉さな子が目当てだった」と言う説もある。

龍馬が幕府政事総裁職の松平春嶽に面会出来たのはこの「千葉重太郎の紹介」と言われ、そこからまるで「わらしべ長者」のように春嶽の紹介状を携えて、勝海舟に弟子入りしている。

一般的に知られている龍馬の妻は「おりょう(本名は楢崎龍子/ならさきりょうこ)」、ただ資料に拠っては故郷の土佐(高知県)には「婚約者の千葉さな子も居た」とされる。

つまり北辰一刀流小千葉道場・千葉重太郎の妹・千葉さな子が、龍馬の正式な妻だった可能性は強い。

本命の、「おりょう」こと龍子は、幕府の詮議で龍馬が危ない時、たまたま湯を使っていたが、戸惑う事無く急を知らせに全裸で部屋まで走ったそうである。

楢崎龍または龍子とも言われる通称「おりょう」は、医師・楢崎将作の長女として生まれた。

「おりょう」の父・将作は京都柳馬場三条南で医者を開業していたが、尊王の志士らと積極的に交流していた為に井伊直弼による安政の大獄で連座して捕らえられ獄死している。

「おりょう」の一家は父の獄死に拠り生活に困るように成り、母と幼い四人の弟妹を養うために旅館・扇岩で働くも間もなく旅館を辞めて天誅組残党の賂(まかないふ)となる。

その天誅組が幕府の追討を受けると、「おりょう」は各地を放浪するようになった。

この各地放浪の最中に坂本龍馬と出会い、自由奔放な所を龍馬に気に入られて愛人となりその世話を受けて寺田屋に奉公する事となる。

「おりょう」は気性は激しいが、その激しさで、「龍馬を愛していた」と言う事で有ろう。

坂本龍馬は生まれ付き気が優しく、本来争いは好まなかった。

優しすぎて姉の乙女(おとめ)などは龍馬を弱虫呼ばわりして、剣術を教え込んだ逸話が残っている。

しかし異性に関しては並の男に違いなく、チャッカリ二人の女性を愛していたのだろうか?

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by mmcjiyodan | 2009-12-26 08:00 | Comments(0)  

坂本龍馬(さかもとりょうま)と北辰一刀流

坂本龍馬(さかもとりょうま)は、土佐藩下士(郷士)で在りながら商家(才谷屋)も営んで居て裕福だった坂本家に生まれる。

坂本家の次男・龍馬は剣術修行に江戸に出て、高名な北辰一刀流剣術開祖・千葉周作の弟・千葉定吉の小千葉道場(千葉定吉道場)に入門した。

その後千葉定吉の息子・千葉重太郎と意気投合して友人関係を築き、また重太郎の妹・千葉さな子(定吉・二女)は龍馬の婚約者とも妻とも言われて居る。

坂本龍馬は、千八百五十七年(安政五年)に二度目の江戸での剣術修行を終えて土佐に帰国、楠山塾で学ぶほか城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。

この二度目の竜馬・江戸修行、修行では無く小千葉道場の「千葉さな子が目当てだった」と言う説もある。

坂本龍馬に関しては千葉道場の免許を得ている所から剣術の達人と描かれる事が多いが、実は「さほど剣の腕は立た無かった」と言われている。

剣は江戸で北辰一刀流を修めた竜馬だが小千葉道場の「一番低い目録」でたいして腕は立たず、短銃を常に携帯して「斬り合いは避けていた」と伝えられている。

しかし交渉能力は高く、政情が落ち着いたらその能力を生かして通商で国を支える積りだった。

だが、そんな龍馬の気持ちは周囲には受け入れられないほど、龍馬の影響力は膨らんでいた。

横着な者は、「言わなくても判る筈だ」とその努力をせずに敵を造る。

面白いもので、剣の腕は一向に上達せずとも坂本龍馬には千葉重太郎に妹・さな子を娶らせようとするくらい気に入られる程に持って生まれたネゴシェーター(交渉人)の才能が在ったらしく、竜馬は源頼朝徳川家康同様に手紙魔で見方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。

それが裏目に出て、龍馬は維新を主導した志士の一人に目されてしまって居た。

もっとも、維新の中心人物の大半が筆マメだった事は事実で、つまり信頼の獲得にはいかに「コミニケーションが大事」と言う事である。

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by mmcjiyodan | 2009-12-25 00:27 | Comments(0)  

中岡慎太郎(なかおかしんたろう)

中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)の北川郷大庄屋・中岡小傳次、はつの長男として生まれる。

長じて慎太郎は土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)の豪農から郷士に取り立てられた「白札郷士」の武市瑞山(半平太)が城下の新町に開いた剣術道場に入門する。

この武市道場の門下には後に「人切り以蔵」と恐れられた岡田以蔵等もおり、武市瑞山(半平太)の過激な思想が中岡慎太郎にも及んで居たと推測される。

中岡慎太郎が本格的に志士活動を展開し始めたのは、千八百六十一年(文久元年)に師である武市瑞山(半平太)が結成した土佐勤皇党に加盟してからである。

翌年(文久二年)、慎太郎は俊英と評判の長州・久坂玄瑞・山県半蔵(宍戸璣/ししどたまき)と伴に松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し大いに意識を高めて居る。

京都で八月十八日の政変(文久三年)が起こり土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まった為、慎太郎は速やかに藩を脱藩し久坂玄瑞らを頼って長州藩三田尻(現防府市)に亡命する。

亡命後、中岡慎太郎は長州藩内で脱藩志士達のまとめ役を勤め、久坂玄随の案内で三田尻近くの田布施に都落ちしていた公家・三条実美七卿落ちの衛士として随臣となり長州はじめ各地の志士達との重要な連絡役となる。

千八百六十四年(元治元年)、中岡慎太郎は石川誠之助を名乗り薩摩藩の島津久光暗殺を画策して上洛したが果たせず、長州方として脱藩志士達を率いて禁門の変、下関戦争と転戦して負傷する。

中岡慎太郎自身のこの頃の手紙に拠ると、一連の変事に於ける幕府方の長州藩への冤罪・薩長雄藩同士の有害無益な対立・志士達への弾圧を目の当たりにして、尊皇攘夷活動から方針を雄藩連合に拠る武力倒幕論に傾き始めていた。

慎太郎は、この雄藩連合に拠る武力倒幕を目指し三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士達のまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、海援隊坂本龍馬や三条の随臣土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて長州藩と薩摩藩との会合による薩長同盟締結を目指す。

千八百六十六年(慶応二年)の正月、中岡慎太郎は海援隊の坂本龍馬と伴に京都二本松薩摩藩邸に於いて長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会見を実現させ、漸く薩長の和解及び薩長同盟の締結を成し遂げる。

翌年(慶応三年)には、慎太郎は盟友の坂本龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免され、薩土同盟についても奔走して土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松帯刀・西郷吉之助との間で倒幕の薩土密約締結に成功する。

更に慎太郎は土佐藩取り込みに奮闘し、京都三本木料亭・吉田屋に於いて、薩摩の小松帯刀大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村左膳・後藤象二郎乾退助(板垣)・福岡藤次(福岡孝弟)・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との会合にこぎつけ、双方の間で倒幕・王政復古実現の薩土盟約が締結される。

土佐藩に復帰した中岡慎太郎は、長州の奇兵隊を参考に自ら隊長となり陸援隊を本格的に組織し、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。

まさに獅子奮迅の働きを見せた中岡慎太郎だったが、その終焉は突然遣って来た。

京都近江屋に坂本龍馬を訪問中に何者かに襲撃され瀕死の重傷を負い、同席した龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが慎太郎は二日間生き延び暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語り後に死去している。

三条実美ら七卿の衛士として田布施に在った中岡慎太郎は、当然長州の隠し玉・良光親王(ながみつしんのう)の末裔を知っていた。

或いは薩長倒幕派にして見れば、慶応元年に土佐勤皇党の武市瑞山(半平太)を切腹させるなど倒幕の腰の定まらない前土佐藩主・山内 容堂(やまうちようどう)など土佐藩に 不安を抱いて居た結果の陰謀かも知れない。

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by mmcjiyodan | 2009-12-24 00:26 | Comments(0)  

坂本龍馬(さかもとりょうま)の海援隊(かいえんたい)

坂本龍馬は、幕府機関である勝海舟の神戸海軍操練所が千八百六十五年に解散されるに伴い薩摩藩・西郷隆盛の援助を得て長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区)に於いて海援隊(かいえんたい)前身となる亀山社中が結成されグラバー商会(英国ジャーディン・マセソン商会代理人)と銃器の取引を開始し藩に銃器などを卸している。

坂本龍馬が中心となり結成した私設海軍・貿易会社として活動した貿易結社・「亀山社中」は物資の輸送や航海訓練なども行い、龍馬は千八百六十六年の第二次幕長戦争に於いて長州藩の軍艦に同乗し下関海戦に従軍する。

翌年には、土佐藩から龍馬の脱藩が許されて土佐藩に付属する外郭機関として亀山社中は「海援隊」と改称されて龍馬は隊長となり、同年に起こった「いろは丸沈没事件」に於いては、紀州藩に賠償金を請求する。

薩長の険悪な仲を憂慮した龍馬は、海援隊(かいえんたい)隊長の立場を利して武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で長州へ流すなどの斡旋を行い、険悪で在った薩摩と長州の関係修復を仲介し、薩摩の西郷隆盛(吉之助)・長州の木戸孝允(桂小五郎)を代表とする薩長同盟の締結に大きな役割を果たす。

坂本龍馬は朝廷の復権・倒幕運動に奔走するが、徳川慶喜大政奉還を受けて内戦回避を主張する坂本龍馬と薩摩・長州の武力倒幕論が意見対立し、京都・近江屋で坂本が陸援隊隊長の中岡慎太郎とともに暗殺される。

日本初の株式会社とも言われる海援隊(かいえんたい)は龍馬暗殺を持って求心力を失い、結成三年余りで分裂して長岡謙吉らの一派、菅野覚兵衛らの一派などが夫々戊辰戦争の局地戦に参加、長岡謙吉が土佐藩より海援隊長に任命されたが、翌年には藩命により海援隊は解散される。

その後土佐藩士の後藤象二郎が海援隊を土佐商会として、土佐国地下浪人・岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させている。

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by mmcjiyodan | 2009-12-22 02:00 | Comments(0)