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御伽(おとぎ)

仏教用語は、その生い立ちから梵語(ぼんご/サンスクリット語)に起因するものが多である。

御伽話(おとぎばなし)や御伽小姓(おとぎこしょう)に使われる伽(とぎの)文字は、梵語(ぼんご/サンスクリット語)のカ・ガの音を「カ(漢語)ガ(呉語)」に当てた字で、清浄閑静な場所を指す「伽藍(がらん)」、仏に手向ける水を意味する「閼伽(あか)」、極楽浄土に居ると言う想像上の鳥「頻伽(びんが・迦陵頻伽/かりょうびんが)」、冥想による寂静の境地を指す「瑜伽(ゆが/ヨーガ)」などの仏教用語使われる文字で、伽(とぎ)はその訓読みである。

我が国では仏教の極楽浄土の解釈から転じて、御伽(おとぎ)とは貴人・敬うべき人を慰める事を意味し、御伽話(おとぎばなし)とは若君の夜の連れ連れ(つれづれ)を慰める為に話し相手又は物語の語り部(かたりべ)となる為の空想的な伝説・昔話である。

伽(とぎ)とは、主君や病人の為などに夜寝ないで付き添う人を伽(とぎ)と言い、また寝所に侍(じ/仕え)る侍妾(じ‐しょう/そばめ)が男の意に従って夜の共寝をし、貴人の夜の連れ連れ(つれづれ)を慰める事を伽(とぎ)または御伽(おとぎ)や夜伽(よとぎ)と言う。

幼君に仕えて、その遊び相手となる小姓を御伽小姓(おとぎこしょう)と言うが、御伽小姓(おとぎこしょう)には往々にして敬うべき主君に仕え夜の連れ連れ(つれづれ)を慰める衆道(男色)稚児小姓の場合も存在する。

明治維新後にタブーに成った部分だが、ハッキリ言え女性の肉体には男根を受け入れる穴が三つあり、男性の肉体にも穴が二つある。

つまり衆道(男色)・稚児小姓は、その二つを使って主(あるじ)と性的な行為をする事である。

現代の思想信条や社会合意を基準にすると、確かに稚児との男色(衆道)の交わりは異常(いじょう)な行為である。

ただし現代のように男性同士に偏った個人的な性癖ではなく男女両刀使いが一般的で、そして明治維新前の主従関係では、それは上流社会の嗜(たしな)みとして公然と認められていた。

この稚児小姓の習俗が、奈良時代の僧侶に拠って「宗教的な意味合いで男児(少年)と交わった事が始まり」とされている事から、御伽(おとぎ)や伽(とぎ)の文言が仏教用語から発生していて不思議は無い。

つまりこの御伽(おとぎ)には、幼君の遊び相手や添い寝語り(御伽話)から主君の性的愛玩相手まで広義の意味は幅広く、この他に通夜を仏教用語で伽(とぎ)と言い、通夜(つや)の夜に死者の傍(かたわ)らで夜通(よどお)し過ごす事も同様に夜伽(よとぎ)と言う。

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◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2010-01-31 00:58 | Comments(0)  

梵語(ぼんご/サンスクリット語)

梵語(ぼんご/サンスクリット語)は、古代・中世期にインド亜大陸や東南アジアに於いて公用語として用いられていた古典言語である。

現在のインドでは、母語、日常語としての梵語(ぼんご)の話者はほとんどいないが、宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語としてその権威は現在も大きい。

梵語(ぼんご/サンスクリット語)は釈迦の時代に公用語として普及し、ヒンドゥー教・仏教などの宗教・学術・文学等の分野で幅広く長い期間に亘って用いられた。

仏教に於いては、釈迦の時代にはインド各地でパーリ語などのプラークリットと呼ばれる地方口語が一般に用いられてより民衆に近い言葉で文献が書かれた為に最初は梵語(ぼんご/サンスクリット語)は用いられなかったが、紀元の前後を境にして徐々に取り入れられ、仏教の各国への伝播とともに東アジアの多くの国々へ伝えられた。

日本では一般に「言語扱い」とされ「サンスクリット語」と呼ばれ、梵語(ぼんご/ブラフマンの言葉)とも呼ばれて、主に日本に於ける仏教関連の辞典や書物に用いられ、時代は少なくとも真言宗の開祖・空海までは遡れる。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2010-01-31 00:55 | Comments(0)  

鎧(よろい/甲冑具足・かっちゅうぐそく)・兜(かぶと)

存在を確認されているもっとも古い甲冑は古墳時代のもので、古墳から発掘される金属製の挂甲(けいこう)、短甲(たんこう)とよばれる鎧、眉庇附兜(まびさしつきかぶと)、衝角附兜(しょうかくつきかぶと)と呼ばれる兜である。

山河を修験山伏として移動する修験武術を発祥として発展した日本の武術には西洋や中国のように盾と剣を組み合わせるのではなく、盾を用いずに切り合う形式だった為に主として鎧兜(よろいかぶと)で防御する形式と成った。

本式の鎧兜(よろいかぶと)は敵の攻撃から身を守る防具として、七百九十四年に桓武帝平安京(京都)に都を移した平安期の頃に上級の武士の間で始まり、源平の鎌倉期を経て後醍醐帝建武の新政(親政/けんむのしんせい)から南北朝並立期頃まで用いられ発達した武具である。

今も昔も技術の発達には戦の存在が切欠に成る事実が悩ましいが、桓武帝が本格的に東国(坂東)支配に乗り出し征夷を唱えて東北(奥州)蝦夷の征伐を始めた事が必要に迫られて武具の発達を促したのである。

鎧(よろい)は甲冑具足(かっちゅうぐそく)とも呼ばれて本格的な物は平安期に始まり、南北朝期頃まで用いられた物を大鎧と言い、大鎧は頭を覆う兜と肩、腕、手、胴を防御の為に覆う甲冑具足を総称する呼び名である。

まず、兜の上に立つ飾りは「脇立」、横に出ているものが「吹き返し」、頭の横後ろを守る蛇腹が「しころ」、顔を守るものが「面頬 (めんぽう)」、その下に付いている首を守る蛇腹が「垂れ」、兜の紐は「忍紐」と称する。

次に肩を被うものが「袖」、腕に被せるものが「篭手」、手の部分は「手甲」と呼び、胴の前板は「胸板」、胴の下の何枚かの蛇腹部分は「草摺(くさずり)」、その「草摺」の上に付けて股から腿を被うものを「はい楯」、脚を被うものを「脛当」と言う。

大鎧一式を身に着けると相当に重量があり身動きに負担を伴い実戦には不向きだが、基本的に修験武術から発達した日本の武術には盾を使う概念が無く個人戦の集積型だった当時の戦ではこの重量がある防具で戦っても双方条件が同じだった。

この大鎧は上級の武士が使用するもので、大鎧とは別に同時代に簡便な防具として雑兵や修験山伏が着用し、元は腹巻と呼ばれた胴丸と呼ぶ防具がある。

胴丸には始め袖は無かったが、鎌倉末期より大袖を付けて武将も着用するようになり大鎧は衰退する。

室町後期から戦国期には防禦率良く活動的なものを求めて当世具足と呼ばれる防具が開発され、大鎧や胴丸は使われなくなる。

関連記述
修験武術(しゅげんぶじゅつ)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-01-30 00:36 | Comments(0)  

修験武術(しゅげんぶじゅつ)

修験者(山伏)の表の顔は、言わば官製メディアとして「天孫降(光)臨伝説」を民に周知徹底させる為に、全国津々浦々に指導・布教した組織が陰陽修験の修験導師達だった。

同時に修験者(山伏)の裏の顔は秘密軍事警察組織兼諜報工作組織であるから武術能力が要求されたが、その組織の性質から西洋式の団体戦拠りも単独または少人数の武術が基本と成って発達した。

大王(おおきみ/天皇)の「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」の為に表向き「陰陽修験の信仰組織」とした「秘密警察組織」と思われる賀茂氏の修験道行者頭・役小角(えんのおづぬ)とその配下の山伏達は、武装組織であるから杖術を基本として独特に工夫した山伏兵法を編み出ている。

この杖術が後に剣術・槍術・柔術・忍術(しのびじゅつ)へと分化発展して、各々の完成された武術に進化して行く事になる。

槍術、剣術などの古い流派は、いずれも「陰陽師に祖を発する」と言われ、京八流、関東七流などがある。

また、この「神の威光で統治する」と言う建前を基にした警察力欠如の環境が、平安時代以降に京八流や関東七流を必要とする各入植地の自衛農民団、もしくは自衛海運業者団としての武士団の発展を促し、各寺社も僧兵を整備した。

山河を修験山伏として移動する修験武術を発祥として発展した日本の武術には西洋や中国のように盾と剣を組み合わせるのではなく、盾を用いずに切り合う形式だった為に主として鎧兜(よろいかぶと)で防御する形式と成った。

大鎧一式を身に着けると相当に重量があり身動きに負担を伴い実戦には不向きだが、基本的に修験武術から発達した日本の武術には盾を使う概念が無く個人戦の集積型だった当時の戦ではこの重量がある防具で戦っても双方条件が同じだった。

やがて平氏源氏などの武門が成立して武士と言う身分が定着すると、修験武術から発展した武術がそのまま用いられた為に、織田信長が戦術を切り替えるまで「名乗り合ってから切り合う」と言う個人戦の集積型とも言うべき戦闘がスタンダードな形式として続けられていた。

陰陽師起源の詳しくは、小論【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

関連記述
行者服(ぎょうじゃふく)・装束と持ち物】に飛ぶ。
平安群盗と原初の武士達(自衛武力)】に飛ぶ。
真言宗当山派(東密)・天台宗本山派(台密)】に飛ぶ。
鎧(よろい/甲冑具足・かっちゅうぐそく)・兜(かぶと)】に飛ぶ。
歌舞伎(かぶき)】に飛ぶ。
同朋衆(どうぼうしゅう)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-01-29 04:12 | Comments(0)  

行者服(ぎょうじゃふく)・装束と持ち物

修験者の、あのお馴染の「行者服」の出(い)で立ち、中々凝っていて高価そうである。

あれは常識的に考えて「軍事組織か警察組織の制服にしか見えない」が、如何か?

山中でも一目で識別が可能なしろものであるが、活動費や行者服の資金はいったい何処から出ていたのか?

そしてなによりも、修験道の祖・役小角(えんのおづぬ・賀茂小角)が活動し始めたのは、疑惑の天皇・天武天皇(大海人皇子/おおあまのみこ)が即位した時期に重なっている事である。

山伏は「やまぶせ」とも読め、恐らくは身を隠す仕事(影の仕事)を意味している。

その装束と持ち物だが、髪を伸ばし、頭に頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には遊環(ゆかん)を特徴とする杖状の法具・錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる一部金属製の杖を持つ。

袈裟(けさ)と、篠懸(すずかけ)と言う麻の法衣を身に纏(まと)い、山中での互いの連絡や合図の為に、ほら貝を加工した楽器や護身用に金剛杖(こんごうづえ)と刀を持つ。

この金剛杖(こんごうづえ)から杖術が生まれ、氏族の武術へと発展して行く事になる。

つまり、武士のルーツ(おおもと)が山伏(修験道師)と言う事に成るのである。

昔は武人の装備を「出(い)で立ち」と言った。

この装束と持ち物には、機能性以外に相手を威圧したり心服させる為のアピール効果の目的が込められている。

いずれにしても、残念ながら人間の見かけなどそう差が有る訳ではないから、衣装や住居など現代にも通じる「こけおどし」が無ければ相手には中々認めては貰えない。

まぁ、衣装もそうだが、政治経済のリーダーも宗教家も、本質は役者である。

役者で無ければ大衆に信用されないから、力を見せつけたり信じさせる為に衣装や舞台装置(建造物)と演出、そして評判には拘(こだわ)る事になる。

それらは全て指導者としての力を心理的に補完する為のものだから衣装を脱げば只の人で、評判を壊して支持者や信者が居なければ個人の力など知れたものである。

そんな訳で、修験者の「行者服」の出(い)で立ちの裏に「表沙汰にし難い理由」があり、宗教(信仰)でカモフラージュして民間の体裁を整えた「公的な秘密組織ではないか」と、我輩は疑ってみた。

元々衣装や装飾は、身分を現す為の言わば「分別標識」である。

童話ではないが、王子と乞食が衣装や装飾を取り替えれば、誰も乞食が「本物の王子だ」とは気が付かない。

わが国でも「馬子にも衣装」と言う諺(ことわざ)がある。

裏返すと、元々大差がないものをそれらしく見せる為に衣装や装飾は存在し、時代に拠っては身分の違うものに、その衣装や装飾の使用は制限されていた。

視点を変えて見ると、一つの可能性が浮かび上がって来た。

「修験密教」と言う独特の信仰・・・・・それは、列島の新支配者達の権力闘争と占領政策だった。


この修験道の「密教・山岳信仰」のルーツこそ、中華帝国を経由し仏教と習合して伝わった遥かヒマラヤ山脈の「夜這いの国々のヒンズー教起源」である事は間違いない。

元々弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典を現代の先入観に当て嵌めて真言密教を理解しようとする所に無理がある。

弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典には、ヒンドゥー教の経典も多数含まれていた事から、真言密教が生まれた。

だからこそヒマラヤ原産の桜木も日本に伝わり、吉野に代表する山岳信仰と桜木は日本でも一体のものと成った。

陰陽師起源の詳しくは、小論【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

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第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-01-28 03:33 | Comments(0)  

天皇家祖先・朝鮮半島より渡来説

近頃、某有力政治家が韓国訪問の際に「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」とスピーチして論争に成っている。

確かに、近現代の微妙な国民感情を考慮すれば言葉足らずで不正確な発言かも知れない。

だが正確に言えばその有力政治家の発言は、けして「韓国から来た」とは言ってはいない。

言ったのは「朝鮮半島から来た」である。

この「朝鮮半島から来た」を、国家意識や民族意識を排除して永い朝鮮半島と日本列島の歴史の中で冷静に捉えると「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」は、あながち間違った発言ではない。

日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を論証するに、まず邪魔になっているのが現在の国境である。

天皇家を含む日本民族は、永い歳月と様々な歴史的経緯を辿って日本列島に形成されたもので、当然ながら最初から単一民族として存在して居た訳では無く、それは朝鮮半島に於ける韓民族(朝鮮族)も同様である。

そうした認識を、帰属意識信仰などの右脳域の感性を優先してしまうと、具体的事実を検討する能力を停止してしまう事に成り、つまり本来は見るべき事を「意図的に見ない」と言う事に成る。

現代人が現在の国境と人種観を持って垣根を作り、それを前提にして「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を論ずるから多くの誤解が生じる。

つまり国家を象徴する天皇家の祖先が「他国から来た」と感じてしまう前提から論議を始めてしまうから問題なのである。

そもそも、大陸で秦の始皇帝に拠る中華帝国が繁栄した二千数百年前頃は、朝鮮半島も日本列島もまだ辺境の地で、まともな国家など存在しなかった。

存在したのは朝鮮半島から日本列島の西半分くらいに広く分布した「倭の国々」と呼ばれた都市国家もどきの小国家群である。

この「広域倭国論」を前提にしないで、皇統の正当性を広く啓蒙する為に古事記日本書紀の編纂で天武天皇桓武天皇が仕掛けた天孫降臨伝説を基にする皇国史観を前提にすると、「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」はタブーになってしまう。

ひと括(くく)りだった朝鮮半島と日本列島の「倭の国々」は自由に交流し、その小さな国々の王族は広域倭国の中で部族を率いて移動し、新たな小国家国を打ち建てた歴史が存在した。

それらの小国王が日本列島では国造(くにのみやっこ)であり国主だったのだが、やがてその小国家群が合流して「大国主(おおくにぬし)」が誕生し、時代が下がると大王(おおきみ)と尊称され、やがて中華帝国の皇帝に対抗する為に「天皇」と言う尊称を創り出した。

中華帝国の皇帝と対抗する独立の帝国である為には、昔の小国家にそのまま国主(国造/くにのみやっこ)を置いてその上に皇帝にあたる大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ)=天皇が成立した。

地方を「あなたのお国は?」と呼ぶ習慣が日本に残っているのは、この時の多国家群を束ねる大王(おおきみ)=天皇の制度を成立する為の体裁である。

この過程で、他の海洋系渡来部族の王も含めて、朝鮮半島側に在った倭の国から部族を率いて日本列島に渡来した王族の子孫が大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ)=天皇の地位に着いたのは、歴史的事実である。

一方で先の大戦前、朝鮮半島を日本が併合した歴史も二千年遡れば「同じ倭の国」であるから、現在の国境と人種観で見れば朝鮮半島側で物議を呼ぶかも知れないが、永いスパンで歴史を見れば「広域倭国が一つにまとまった」だけなのである。

日本列島側が大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ)=天皇の過程を辿り日本列島の西半分が統一された頃、朝鮮半島側の小国家「半島の倭国々」は高句麗(こうくり・コグリョ)、百済(くだら・ペクチェ)、新羅(しらぎ・シルラ)の三国時代を経て唐帝国の力を借りた新羅(しらぎ・シルラ)による朝鮮半島統一が為される。

この歴史的経過が朝鮮半島と日本列島の間に国境を引き、各々別の人種観(民族観)を持つに到って現在が在る。

日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を一言で言うのはいささか乱暴であるが、詳細に歴史を検証すれば、少なくても朝鮮半島と日本列島の間に感情論ばかりが存在するのは両国にとって不幸な事である。

「今はもう違う人種で違う国だ」とバッサリ言ってしまえばそれまでだが、広域倭国論は、双方の国家の都合で見事に双方の歴史から排除され、同朋意識から争う相手に国民感情が成ってしまったのは、双方にとって残念な事ではないだろうか?

詳しくは【「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を検証する】に飛ぶ。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

関連記事
単一日本民族の成立過程大略】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
天皇(てんのう/すめらみこと)の称号】に飛ぶ。

参考・・関連記事ページ紹介
日本人の祖先は何処から来たのか?】に飛ぶ。
日本語のルーツと安倍氏】に飛ぶ。
古代国家・邪馬台国の卑弥呼】に飛ぶ。
広域倭の国論】に飛ぶ。
葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説】に飛ぶ。
真言密教立川流】に飛ぶ。
私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。
地球を救う「共生主義」と言うイデオロギー】に飛ぶ。
日本史検索キーワード集】に飛ぶ。
歴代朝鮮王朝略史】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-01-27 00:56 | Comments(0)  

山内一豊(やまうちかつとよ)

山内一豊の読みに関しては、先の「寛政重修諸家譜」では「やまうち」とひらがなルビ付けが在り、また家臣に与えた偏諱の読みも「かつとよ」で在る為、通常世間で読まれている「ヤマノウチカズトヨ」は正確ではない。

山内一豊(やまうちかつとよ)の生まれた山内氏の出自は諸説在り、土佐藩提出の「寛政重修諸家譜」では藤原秀郷の子孫である首藤山内氏の末裔を称しているが、決定的な証明を得る資料は見つかっていない。

はっきりしているのは、一豊(かつとよ)の祖父・久豊が尾張上(山側)四郡を支配する尾張守護代岩倉城主・織田氏(伊勢守家)に重臣として仕えていた事である。

一豊(かつとよ)の父・山内盛豊も守護代家・伊勢守織田氏に使え、一豊(かつとよ)はその三男だった。

父・山内盛豊は尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)に居城・黒田城を持ち守護代家・伊勢守織田氏の家老をしていた。

そこに現れたのが、もう一方の尾張下(海側)四郡を治める尾張守護代清洲城主・織田氏(大和守家)の家老家から下克上で伸し上った織田信長である。

織田信長は尾張下(海側)四郡を実質支配する事に成功すると、次に一豊(かつとよ)の父・山内盛豊が仕える伊勢守織田氏の尾張上(山側)四郡に触手を伸ばして対立し、家老である山内家もこれに巻き込まれ黒田城を襲撃されて兄・十郎が討死する。

兄・十郎の討ち死にから二年後には主家の岩倉城が落城し、この際に父・盛豊が討死ないし自刃したらしく主家と当主を失った山内一族は離散し流浪する事になる。

流浪する事と成った一豊(かつとよ)は転々と主家を代え、千五百六十八年(永禄十一年)、ちょうど織田信長が神戸氏を降伏させ伊勢国を平定した頃に信長に仕えるようになり、木下秀吉(豊臣秀吉)の与力となった。

この間に一豊(かつとよ)は、良妻と評判高い見性院(けんせいいん/千代とする説あるも実名かは不明)と結婚している。

一豊の妻である見性院(千代、まつ?)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、真偽の程は定かではないが嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で「名馬(鏡栗毛)を買った」と伝えられている。

この名馬(鏡栗毛)、主君・信長の馬揃え(軍事パレード)の際にその馬の見事さから信長の目にとまり「武士の心得怠り無し」と加増された話は有名である。

その後の山内一豊(やまうちかつとよ)は木下秀吉(豊臣秀吉)の与力として千五百七十年(元亀元年)の姉川の戦い、三年後の朝倉攻め刀禰坂(とねざか)の戦いなどに出陣し、朝倉攻めでは矢を受けて顔に重傷を負いながらも敵将・三段崎勘右衛門を討ち取った。

一豊(かつとよ)は近江国浅井郡唐国(現在の長浜市域)で四百石を与えられ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の直臣に直している。

一豊(かつとよ)が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の直臣に直して四年後の千五百七十七年には播磨国有年(兵庫県赤穂市内)で二千石、本能寺の変に拠る信長の死後もそのまま秀吉の家臣として従い、秀吉の天下取りに加わって賤ケ岳の戦い小牧・長久手の戦いなどに参陣している。

主君・羽柴秀吉(豊臣秀吉)がほぼ天下を手中にする頃には、一豊(かつとよ)は秀吉の甥・豊臣秀次の宿老となり千五百八十五年(天正十三年)には若狭国高浜城主、間も無く近江長浜城主となり二万石を領している。

その後の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の小田原平定(北条氏)に参陣後、一豊(かつとよ)は遠江国掛川に五万一千石の所領を与えられた。

千五百九十五年(文禄四年)、一豊(かつとよ)が宿老と成った秀次が謀反の疑いで処刑され危うく連座されそうになるが上手く免れ秀次の所領から八千石を分けて加増されている。

豊臣秀吉の死後、豊臣家を上回る実力を持つように成った徳川家康と豊臣家・淀方や石田三成が天下の実権をめぐって反目を始め、一豊(かつとよ)に転機が訪れる。

千六百年(慶長五年)、五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると一豊は下野国小山に於ける軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、豊臣恩顧大名で在りながら真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し家康を喜ばせている。

何んとも調子が良い話しだが、勝ち馬に乗るのも武将の才覚で一豊(かつとよ)の選択肢は満更責められない時代だった。

関ヶ原の戦いの本戦では、一豊(かつとよ)は東軍に与して毛利長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかったものの戦前の軍議(小山評定)及び東海道諸将の取りまとめなどの功績を高く評価され土佐国一国・九万八千石(太閤検地時に長宗我部氏が提出した石高)を与えられた。

尚、この石高については後の山内氏自身の検地で二十万二千六百石余の石高を算定して江戸幕府に申告し、幕末まで存続する土佐藩が成立して居る。

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by mmcjiyodan | 2010-01-26 00:52 | Comments(1)  

土佐藩(とさはん/山内家)

幕末の動乱期に坂本龍馬(さかもとりょうま)武市瑞山(たけちずいざん)ら多くの人材を輩出した維新の雄藩が土佐藩(とさはん)である。

土佐藩(とさはん・高知藩/こうちはん)は廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩で、土佐国は四国の太平洋側の現在の高知県に位置していた。

戦国時代末期、土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が治めていたが、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いて長宗我部盛親(長宗我部元親の継子)は西軍に与し改易となる。

豊臣氏恩顧の大名で遠江国・掛川(現在の静岡県掛川市付近)を治めていた山内一豊(やまうちかつとよ)は東軍(徳川家康方)に味方した為に大幅な加増を受けて、土佐一国二十四万二千石(実禄は二十万二千六百石余り)を与えられこの地を治める事となり、以来、明治時代初頭まで山内氏が治めている。

山内氏が豊臣秀吉から土佐一国を与えられ移って来た時、土佐には一領具足と呼ばれた長宗我部氏の旧臣が多数存在しており、彼らは藩政当初より新領主・山内家に馴染まず反乱を繰り返した。

山内氏は、その一領具足の懐柔に力を注いだが、藩政の中枢には彼らを入れず高知城下に住む山内系の武士(上士)と、長宗我部氏の旧臣(郷士)の二重構造が幕末まで続いた。

長宗我部氏遺臣の系譜を引く一領具足の郷士は基本的には在郷武士であり、土佐藩に於いては武士(上士)の下位で下士(足軽)の上位に位置づけられていた。

長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙って千六百十三年(慶長十八年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後新田等の開発を行う度に正式な郷士として取り立てられて来た。

この制度が功を奏して領内の開発が進み、千八百七十年(明治三年)の廃藩置県前には土佐藩の公称本田地高とほぼ同規模の新田があり、本・新田の合計は四十九万四千石余に達していた。

幕末の土佐藩には十五代・山内豊信(容堂)が登場し、吉田東洋を藩参政に起用し藩政改革を断行する。

吉田東洋はその藩政改革で保守派門閥や郷士の反感を買い、安政の大獄で豊信が隠居すると武市瑞山(たけちずいざん)を中心とした土佐勤王党により暗殺された。

後に勤王党は、藩政の実権を回復した山内容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧・解散される。

武市瑞山一味の暗殺に倒れた藩参政・吉田東洋だったが、東洋の門下より後藤象二郎、乾退助(のちの板垣退助)、岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を輩出している。

東洋とは反目関係に在った武市瑞山(たけちずいざん)側にも、郷士である坂本龍馬や中岡慎太郎など優れた人材がこの藩より輩出されて居るのは承知の通りで、山内容堂(豊信)の進言で徳川慶喜に拠る大政奉還がなされ、土佐藩は薩長土肥の一角を為して時代転換の大きな役割を演じた。

山内一豊(やまうちかつとよ)】に戻る。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。
従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

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by mmcjiyodan | 2010-01-25 01:05 | Comments(0)  

榎本武揚(えのもとたけあき)

後に榎本武揚(えのもとたけあき)を称する榎本釜次郎は、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれ、その突出した秀才故に歴史の変わり目に登場する。

武揚の父・円兵衛は元の名を箱田良助と言い、備後国・福山藩・箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)の出身で、郷士で庄屋・細川家の秀才の誉れが高い次男だった。

箱田良助は、江戸へ出て伊能忠敬の筆頭内弟子天文学・測量学を学び、忠敬に伴って日本各地の測量に歩き、地図の製作にも携わって優れた数学者・測量家として世に知られように成っていた。

師・伊能忠敬が亡く成ると、箱田良助は幕臣・榎本家(家格は御徒士/おかち)の株を五十両(千両説あるも法外な値である)で買い、女子しか子が無かった榎本家の娘と結婚する事で養子縁組みして幕臣となり、榎本円兵衛武規を称して幕府天文方に出仕する。

榎本釜次郎は、この榎本円兵衛武規(箱田良助)の次男に生まれ、幕府御用学者の父に恵まれて幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、十九歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。

その後釜次郎は、幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、オランダに留学して国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、江戸幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国する。

帰国後、榎本武揚(えのもとたけあき/釜次郎)は軍艦頭並を経て大政奉還後の千八百六十八年(慶応四年)に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなった。

新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて、幕府海軍総裁・矢田堀景蔵は軽挙を慎んだが、新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が実質的に幕府海軍を抑えていた。

将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、続いて戊辰戦争(ぼしんせんそう)が起るも、開戦直後鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城に居た慶喜らは主戦派の幕臣に無断で大坂の天保山沖に停泊していた旗艦「開陽」に座乗し、榎本の率いる旧幕府艦隊は江戸へ引き揚げた。

新政府軍が江戸城を無血開城すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに軍艦・開陽、回天、蟠竜、千代田形、輸送艦・神速丸、美嘉保丸、咸臨丸、長鯨丸の八艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。

榎本武揚は、途中東北列藩同盟側敗戦濃厚な仙台で同盟軍および大鳥圭介・新撰組(しんせんぐみ)土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約二千五百名を収容して蝦夷地(北海道)へ向かう。

旧幕府軍は約四千数百の兵力で、ほとんど交戦する事無く藩主が逃げ出した松前藩の箱館五稜郭などを占領し、蝦夷地を平定して蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出する。

新政府がこの蝦夷地支配を認め無い中、旧幕臣は箱館政権を樹立し総裁は入れ札(選挙)に拠って決められ、榎本武揚が総裁となった。

総裁に就任した榎本はイギリス軍艦に改めて嘆願書を仲介してもらうが、新政府はこれを黙殺し新政府軍を派遣する。

新政府軍が蝦夷地に向かう中、旧幕府軍が江差攻略に成功した夜、天候が急変し風浪に押されて旗艦・開陽は座礁、開陽救出の為に到着した軍艦・回天と輸送艦・神速丸の内神速丸も座礁してしまう。

防衛の要となる旗艦・開陽と輸送艦・神速丸を座礁沈没させて失い制海権を失った旧幕府軍は上陸して来た新政府軍と交戦と成り、主戦派の土方歳三が戦死し榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結する。

尚、榎本武揚(えのもとたけあき)は、後年その才を惜しむ黒田清隆(くろだきよたか)の助命嘆願活動が功を奏し明治五年に特赦出獄し、その才能を買われて新政府に登用され復権を果たし、爵位を賜って子爵に叙任されている。

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by mmcjiyodan | 2010-01-24 00:25 | Comments(0)  

土方歳三(ひじかたとしぞう)

局長の近藤勇(こんどういさみ)と伴に新撰組副長として名を残す土方歳三(ひじかたとしぞう)は、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に広がる「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の大百姓(豪農)の家系に生まれる。

歳三は、十四歳の時に江戸上野の「松坂屋いとう呉服店(現在の松坂屋上野店)」へ奉公に出、二十四歳に成るまでの十年間を江戸上野で過ごしている。

その後は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ各地の道場で他流試合を重ね修業を積み、日野の佐藤道場に出稽古に来ていた天然理心流四代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこの頃出会ったと推測され、千八百五十九年(安政六年)歳三は天然理心流に正式入門する。

近藤勇と土方歳三が出会った日野の佐藤道場主・佐藤彦五郎は日野宿名主で歳三とは従兄弟であり姉・のぶが嫁いでいる事から歳三も彦五郎宅には良く出入りしていた。

佐藤彦五郎は井上源三郎の兄、井上松五郎の勧めで天然理心流に入門、自宅の一角に佐藤道場を開いていた縁で彦五郎は近藤と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援していた。

歳三もこの佐藤道場で腕を磨き、近藤と土方とは年齢的には六ヵ月ほど土方の方が若いだけだが、近藤が天然理心流宗家と言う事で土方は近藤を立てている。

近藤勇が浪士組に参加すると、歳三も天然理心流剣術宗家・近藤道場(試衛館)の仲間と伴に幕府の征夷大将軍・徳川家茂警護の為の浪士組に応募し、京都へ赴く。

近藤と土方とは、年齢的には六ヵ月ほど土方の方が若いだけだが、近藤が天然理心流宗家と言う事で土方は近藤を立てている。

八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新撰組が発足し、その後新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺し、権力を握った近藤勇が局長となった。

土方歳三は副長の地位に就き、局長・近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。

新撰組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

千八百六十四年(元治元年)の池田屋事件の際は、半隊を率いて長州土佐藩士が頻繁に出入りしていた四国屋方面を探索して廻ったが空振りに終わり、すぐさま池田屋に取って返し応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩、桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組ただ一隊の手柄を守った。

池田屋事件の後、副長から総長に据えた山南敬助の脱走切腹事件や御陵衛士に転身した伊東甲子太郎や藤堂平助を暗殺し御陵衛士達を壊滅させるなど土方歳三は隊の規律を守る。

その後土方歳三は近藤と伴に幕臣に取り立てられるが、徳川慶喜が征夷大将軍を辞し大政奉還、王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊する。

鳥羽・伏見の戦いが始まると、歳三は墨染事件で負傷した局長・近藤勇の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃戦の前に敗北する。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大阪から江戸へ撤退した後、近藤は大久保大和、歳三は内藤隼人と一時名乗って甲斐国に向かうが勝沼の戦いに敗退、流山で再起を謀っていたが新政府軍包囲により局長・近藤が切腹を図るが、歳三が近藤の切腹を止め近藤勇は新政府軍へ出頭する。

局長・近藤の出頭を受け、歳三は江戸へ向かい勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、近藤は板橋近辺(現JR板橋駅前に墓所有り)にて処刑(斬首)される。

土方歳三(ひじかたとしぞう)は近藤出頭後、助命嘆願のかたわら新選組を斎藤一(山口二郎)に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府脱走軍と合流する。

江戸城無血開城が成立すると、歳三は江戸を脱走し秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を勤め下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させるなど転戦する。

その後壬生の戦いに敗走、新政府軍と再度宇都宮で戦った際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送され三ヶ月ほど療養生活を送り、全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力する。

歳三は会津から仙台へ向かい榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流、榎本武揚(えのもとたけあき)らと共に仙台折浜(現:宮城県石巻市折浜)を出航、蝦夷地に渡った。

榎本武揚は、途中東北列藩同盟側敗戦濃厚な仙台で同盟軍および大鳥圭介・新撰組(しんせんぐみ)の土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約二千五百名を収容して蝦夷地(北海道)へ向かう。

旧幕府軍は約四千数百の兵力で、ほとんど交戦する事無く藩主が逃げ出した松前藩の箱館五稜郭などを占領し、蝦夷地を平定して蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出する。

新政府がこの蝦夷地支配を認め無い中、旧幕臣は箱館政権を樹立し総裁は入れ札(選挙)に拠って決められ、榎本武揚が総裁となり、土方歳三は陸軍奉行並と成って前線の指揮を担う事と成った。

総裁に就任した榎本はイギリス軍艦に改めて嘆願書を仲介してもらうが、新政府はこれを黙殺し新政府軍を派遣する。

新政府軍が蝦夷地に向かう中、旧幕府軍が江差攻略に成功した夜、天候が急変し風浪に押されて旗艦・開陽は座礁、開陽救出の為に到着した軍艦・回天と輸送艦・神速丸の内神速丸も座礁してしまう。

防衛の要となる軍艦・開陽と輸送艦・神速丸を座礁沈没させて失い制海権を失った旧幕府軍は上陸して来た新政府軍と交戦と成り、土方歳三は馬上で指揮を執ったが、その乱戦の中銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していた。

主戦派の土方歳三が戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終結する。

幕臣に取り立てられた近藤勇と土方歳三の夢は、幕臣として徳川家の存続に貢献し大名に出世する事だった。

その夢を、土方歳三は最後まで追って居たのかも知れない。

時の流れには個人の力など知れたもので、時代は変革を望んでいたのだ。

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by mmcjiyodan | 2010-01-23 00:18 | Comments(0)