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日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)

江戸幕府を創設した徳川家康は、天台宗の関東の全権を握った二代目・天海僧正に、天台宗・喜多院の寺領として日光山の一帯を贈っている。

二代目天海は家康の死後そこに東照宮を建て、その一帯を「明智平」と命名するのだが、天海が明智氏に縁無き者なら、謀反人明智の名を寺領に使うのは説明が付き難い。

増してや、本能寺の変当時の伊賀超えの家康逃避行が「茶番」でないなら、命を狙った明智の名の寺領命名など徳川家が許す訳がない。

この明智平の地名は、今に栃木県・日光の地に残っている。

そして明智光秀=天海僧正説最大の疑惑の象徴が、明智平に在る日光東照宮の存在だった。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の前身は、平安期の八百七十二年(天応二年)に勝道上人(しょうどうじょうにん)が下野国(しもつけのくに)・男体山頂上(現・栃木県日光市山内)に四本龍寺を開山したもので、その後日光山の造営は源義朝で、祭神は江戸幕府初代将軍・徳川家康(東照大権現)とし、その他に源頼朝を配祀している。

まぁ、建前源氏の系図を名乗っている徳川家としては、源頼朝を配祀されていても不都合は無い。

日光山は、源氏の棟梁・源頼朝の鎌倉幕府開府後は永く坂東(関東)武士の信仰を集めていた。

千六百十六年(元和二年)に駿河(静岡)・久能山(久能山東照宮)から天台宗天海僧正に拠って日光に家康が改葬され、千六百十七年(元和三年)徳川二代将軍・秀忠が、陰陽修験道の色合いが濃い神仏集合の東照社(とうしょうしゃ)として創建した。

特筆すべきは、久能山東照宮には日光東照宮に存在する「明智疑惑の桔梗紋などは存在しない」と言う事実である。

前述した様に天海は、家康没後、一旦駿府の久能山(東照宮)に鎮座させた家康(大権現)を日光山に移している。

日光の位置も風水上の江戸の要であると同時に、その建設にはいざ徳川家江戸落ちに際しては要塞と化す工夫がなされていた。

徳川幕府にとって、誰も否定出来ない極めて重要な施設である。

その日光東照宮を守る陽明門(日の当たる明智の門?)の木造り像の武士の紋は、明智家の家紋「桔梗紋」であり、近くの鐘楼のひさしの裏にも、おびただしい「桔梗紋」が見受けられる。

徳川の墓所であるのに「葵紋」以外に、いたる処に「桔梗紋」が隠されているのは何を意味するのか。
この事は、明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない。

天海が家康の為に神号を取るのは、感謝と尊敬の念による。
その神号がすごい、東照大権現(とうしょうだいごんげん)である。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は日本の最高神であるり、それに準じる様に東を照らすと来て「現れになった神」と来た。

家康は天海の一世一代の仕事で、神君(しんくん)となり、日光東照宮に鎮座している。

この日光東照宮の銘々に、我輩はいささか異論がある。

本来、徳川家康が東照宮の宮(ぐう)を名付けられるのはいささか問題がある。

本場中国では神様と言っても実在の人物が祭られるのは廟(びよう)であり、つまり日光東照廟が正しい。

日本の神社の成り立ちを氏神(氏上)に見る上でヒントになるのが明神(みょうじん)権現(ごんげん)で、実は明神も権現も言わばこの世に現れた神様の事である。

代表的な氏上(神様)が、剣明神社(つるぎみょうじん/織田神社)や東照権現(とうしょうごんげん/日光徳川神社)と言う事になる。

明智光秀=天海僧正説の詳しくは【明智光秀=天海僧正説を検証する】に飛ぶ。

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)】に戻る。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-02-28 03:14 | Comments(0)  

歌舞伎(かぶき)

歌舞伎の元祖・出雲阿国は、出雲大社所属の鍛冶方「中村三右衛門の娘」と言われている。

この鍛冶方が曲者で、元々鍛冶師・踏鞴(たたら)師は、山岳信仰の傍(かたわ)ら鉱物探査を受け持つ修験山伏の出身であり、雑賀根来とは深い関わりがある。
正式な鍛冶方は渡来占有金属技術を持つ百姓身分の氏族であるから勿論中村姓を名乗っていて、その娘・阿国の名乗りは「中村国ではないか」と思われる。

また、こうした渡来系金属技術者の別の顔は、陰陽修験の一郭を占める鉱物山師であると同時に諜報活動者である場合が多かった。

勿論、雑賀者の女諜報員・出雲阿国には本来の出自とは違う創作の公式プロフィールが用意される。

一説には、出雲阿国は出雲大社の巫女をしていたが、出雲大社修繕の為に諸国を勧進し、浄財(寄付)を集める手段として巫女姿で神楽舞や念仏踊りを舞い踊る様になり、やがて男装で踊る様になって、「歌舞伎踊りと呼ばれた」とされる。

また一説には「阿国は、河原者であった」とも言われるが定かな事は明らかではなく、今日までその「いずれかが事実」と信じられまさか雑賀の女諜報員とは見抜く者も居ない。

勿論、笛太鼓の音曲に拠る歌と舞踊りの「歌舞の女性」を歌舞伎(かぶぎ)と言うが、かぶきは「傾ぶく」で、常識外れを意味する。

阿国のかぶきは、実を言うとかぶいては居ない。

原点にあったのは、「かぐら(神座・かみくら)踊り」であり、勘解由小路党の「白拍子」衣装の進化形だった。

公家武家社会には馴染みの「白拍子の男装姿」が、後の阿国の時代の「特に庶民」には異様に見え、相当傾ぶいて受け取られたのである。

上流社会の歌舞音曲から見世物小屋の軽業に至るまで、実は修験道武術がルーツであり、その当初の主なる目的は密偵だった。

従って現代歌舞伎に於ける見顕(みあらわ)し、仏倒(ほとけだお)れ、引き抜き、早替り、トンボ(を切る)、戸板倒し、宙乗(ちゅうの)り、荒事(あらごと)などの大技もその修験武術の流れを汲む忍び術の名残と言える。

阿国=中村国であるなら現代歌舞伎の中村屋一門の祖が鍛冶方・中村三右衛門で、出雲阿国流の末裔かも知れない。

歌舞伎(かぶき)の原点はパホーマンス(表現形態)で、「傾(かぶく)く=歌舞伎(かぶき)」に通ずる過程は、とどの詰まり「傾(かぶく)く」が前衛的な感性から発したもので、前衛自体が何かをパホーマンス(表現形態)する事である。

そして御国が人気を博した十八番は、ツンツルテンの衣装を着た「ややこ(こども)踊り」だった。

阿国歌舞伎は人気を博し、世に受け入れられた。

しかし人気故に新興の遊女たちの間に、いち早くより色気の多い模倣が普及し、官能的な歌舞伎が出現して「遊女歌舞伎・女歌舞伎」と呼ばれるように成った。

折りしも幕府は、儒教・儒学(朱子学)を統治の指針に採用した。
そう成ると、いかがわしい出し物「遊女歌舞伎・女歌舞伎」は容認できない。

その為、千六百二十九年(寛永六年・三代将軍・徳川家光の頃)に、本家の阿国の女歌舞伎諸共「風紀を乱す」として女性を舞台に上げる事を、幕府に禁止されてしまった。

やがて、美少年を中心とした「若衆歌舞伎(男色の風俗を増長させるとして禁止)」の時代を経て、「野郎歌舞伎」と呼ばれ、女形(おがた)と呼ばれる女装の男性が出演する現代歌舞伎の形式が定着して行った。

江戸期に入り世の中が安定して来ると、歌舞伎・猿飼などは「河原者」と呼ばれて差別され、士農工商以下の身分へと落とされて行く。

そこには、体制から外れた彼らの「裏の顔を封じ込めよう」と言う、幕府の思惑があったに違い無い。

これは現代でも通じる事だが、「世の中はそう言うものだ」と他人に既成概念を押し付ける者には想像力も進歩も無い。

知識人と称するご都合主義の連中が他人のファッションをしたり顔で「場所柄」とかをとやかく言うが、それを言うなら洋装などせずに紋付袴の上に夫婦別姓で生活しろ。

歌舞伎が良い見本だが、その時代に相当傾(かぶ)いていても十年続けば「新たな文化」と成り、百年続けば「芸術」となる。

つまり文化や芸術、そしてファッションは時代とともに変化して行く物で、個人の概念を押し付けるものではない。

陰間(かげま)と野郎歌舞伎】に続く。

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第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-02-27 02:16 | Comments(0)  

日吉神社(日枝神社)と豊臣秀吉

豊臣秀吉の幼名「日吉丸」の名は、生誕の地・尾張国中村(名古屋市中村区)から程近くに在る「清洲山王宮・日吉神社(現在の清須市清洲 2272番地)から採って名付けられた」と言われている。

その日吉神社では、大巳貴神(オオナムチノカミ)と、大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀っている。

この大巳貴神(オオナムチノカミ)は、大国主(オオクニヌシ神)と言った方が通りが良いかも知れないつまり別名は大黒様である。

神話に於いて大巳貴神(オオナムチノカミ/大国主神)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の前に地上(豊葦中津国)を支配していた王で、天照大神(あまてらすおおみかみ)に国譲りをして後に出雲大社の神となった。

大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、もともと近江(滋賀)の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)一帯を治める山の神だった。

史書に拠ると、滋賀の日吉大社では、東本宮に大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀り、西本宮に大己貴神(オオナムチノカミ/大国主神)を祀っている。

その滋賀・日吉大社では、最初に在ったのはそれとは別の牛尾山山頂の奥宮で、東本宮は里宮として創建されたらしいが、その年代が崇神大王(すじんおおきみ/天皇)七年と伝えられるから紀元前九十年となり、何処まで本当か定かではない。

公称創建とされる年代から凡そ七百八十年の後、滋賀・日吉大社は大津京を守る神として大神神社の大己貴神(オオナムチノカミ)を勧請して、それが大山咋神(オオヤマクイノカミ)よりも格上だとして大巳貴神(オオナムチノカミ)を大宮と称するようになる。

その滋賀・日吉大社は、七百九十四年の平安京遷都に拠って都の鬼門に当たる事から、鬼門除けの神社として出世する事になる。

それから約十二年後の八百六年(大同元年)、伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)が中国で修行を終えて帰国し、比叡山に延暦寺を建立した際に古くからこの山の神だった大山咋神(オオヤマクイノカミ)を寺の守護神とした。

大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、比叡山の王と言う事で山王と呼ばれ、また、中国・天台宗の本山(国清寺)に祀られていた山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)にちなんで山王権現、日吉山王や日吉権現などとも呼ばれるようになって全国に分社が創建された。

伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)の天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、山王権現や日吉山王、日吉権現は天台宗の布教活動の中で全国に広まり、日吉神社が増えて行った。

比叡山の前の名が日枝山(ひえのやま)である事から日枝神社(ひえじんじゃ)ともよばれる。

清洲山王宮・日吉神社もその一つで、清須城下の総鎮守神として奉られてるのだが、その使い神が「猿」である所から後の脚本作家が秀吉のあだ名として採用した感が強い。

日吉神社の使い神は「猿神様」であり、日吉神社の別称が山王神社・・・つまり「山の王」とも言う事が、或いは「山窩(サンカ・サンガ)の王」を暗示させて居まいか?

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by mmcjiyodan | 2010-02-26 02:41 | Comments(0)  

鎌倉御家人(かまくらごけにん)

坂東(関東)を制圧して鎌倉に入った源頼朝は、武士の棟梁として組織化を図る。

従うを家人(臣下)とし、従わぬを攻め滅ぼして全国の武士を武力統一する。
平安時代に於いては、貴族や武家の棟梁に仕える出仕武士を「家人」と呼んでいた。

征夷大将軍の家人を特に「御家人」と称するが、鎌倉殿御家人の成立は源頼朝による鎌倉幕府の樹立経緯と密接に関連する。

源氏の棟梁を継いだ源頼朝が平家を倒して天下の実権を握り征夷大将軍の官位を得て鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿(将軍・源頼朝)と主従関係を結び従者となった武士を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人(鎌倉殿御家人)と呼ぶようになった。

つまり平家と覇を争う初期の頃から、頼朝は自分に従う「家人」を集めていた事に成る。

千百八十年(治承四年)の源頼朝が伊豆の国(いずのくに)で挙兵の際には、元々平清盛に拠って伊豆へ流人とされた頼朝の家人は極僅かで、大半は妻・北条正子の父・北条時政の手勢と流人の地伊豆で知り合った加勢だけであった。

その為父・源義朝の旧家人だった南関東の武士達を「累代の御家人」として誘引したが、当時の観念では累代の認識は無く主従関係は個々に結ぶ習慣であり頼朝に従属しない武士も多く、石橋山の合戦は惨敗だった。

その後頼朝が安房の国で再挙挙兵に成功し、鎌倉に平家に対抗する東国臨時政権を樹立すると、各地の武士が続々と頼朝支配下へと入って行く。

そこで後白河天皇(ごしらかわてんのう)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家打倒の令旨が利用され、急速に増加した支配下の武士を秩序だって組織化する為に令旨に従って頼朝の支配に入った武士は一律に「御家人」として組織された。

源家の棟梁・鎌倉殿と主従関係を結び、従者となった武士を御家人と呼び、全国の御家人の総数は約四百八十家余りであり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だった。

鎌倉幕府と御恩・奉公の契約関係に無い「非御家人」の数も多く、非御家人の中には悪党となって幕府や公家・寺社への反抗を行う者も現れた。

御家人には、東国に在住し早い時期から頼朝に臣従していた者が鎌倉殿から直接所領安堵を受ける御家人と、荘園領主たる本所や国司の地位権限を追認した本宅安堵を受ける御家人に分けられる。

鎌倉殿から直接所領安堵を受けた御家人は、地頭職に補任されるなどの厚い保護を受ける見返りに有事には緊急に鎌倉に参集する義務を負っていた。

鎌倉幕府成立に武功が在って直接所領安堵を受けた有力御家人は広大な所領を持ち数カ国の守護を兼ねる者も在ったが、零細な御家人も含め御家人相互の主従関係・支配関係は厳しく禁じられ、鎌倉殿に等しく従属する家人として身分上は同格として扱われた。

本宅安堵の御家人は、国を単位に編成されて「国御家人」と呼ばれ、大番役(鎌倉警護)への催促を通じて各地武士の国御家人化が進められ、西国武士の多くがこれにより国御家人へ編成された。

この国御家人を統括するのは守護の任務であり、大番役(鎌倉警護)を催促するとともに大番役勤仕の御家人名簿を幕府へ提出していた。

この御家人の名簿に載っているのが幕府認定の武士であり、乗っていない武士は未登録の言わば「まつらわぬ者」で、反政府勢力或いは悪党・野武士の類と言う事に成る。

★クリックリスト・・武将名をクリック願います。
初期・鎌倉有力御家人記事リスト(◆印は十三人の合議制のメンバー)
◆北条時政(ほうじょうときまさ)】に飛ぶ。
◆北条義時(ほうじょうよしとき)】に飛ぶ。
上総広常(かずさひろつね)】に飛ぶ。
◆安達盛長(あだちもりなが)】に飛ぶ。
千葉常胤(ちばつねたね)】に飛ぶ。
◆梶原景時(かじわらかげとき)】に飛ぶ。
畠山重忠(はたけやましげただ)】に飛ぶ。
渋谷重国(しぶやしげくに)】に飛ぶ。
◆比企能員(ひきよしかず)】に飛ぶ。
◆大江広元(おおえのひろもと)】に飛ぶ。
伊賀朝光(いがあさみつ/藤原朝光)】に飛ぶ。
土肥次郎実平(どひじろうさねひら)】に飛ぶ。
工藤祐経(くどうすけつね)】に飛ぶ。
河越重頼(かわごえしげより)】に飛ぶ。
◆和田義盛(わだよしもり)】に飛ぶ。
平賀朝雅(ひらがともまさ)】に飛ぶ。
伊賀兼光(いがかねみつ/藤原兼光)】に飛ぶ。
◆三浦義澄(みうらよしずみ)】に飛ぶ。
◆足立遠元(あだちとおもと)】に飛ぶ。
天野遠景(あまのとおかげ)】に飛ぶ。
加藤景廉(かとうかげかど)】に飛ぶ。
仁田忠常(にったただつね/仁田四郎)】に飛ぶ。
島津忠久(しまづただひさ)】に飛ぶ。
大友能直(おおともよしなお)】に飛ぶ。
少弐資頼(しょうにすけより)】に飛ぶ。
佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱】に飛ぶ。
武田信義(たけだのぶよし/源信義)】に飛ぶ。

◆十三人の合議制のメンバーは、頼朝の舅・北条時政(ほうじょうときまさ)、その継嗣で頼朝の義弟・北条義時(ほうじょうよしとき)、頼朝の流人時代からの側近・安達盛長(あだちもりなが)、頼朝最大の危機から逃した梶原景時(かじわらかげとき)、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の継養子・比企能員(ひきよしかず)、頼朝の旗揚げに即座に呼応した三浦義澄(みうらよしずみ)と同じ三浦流の和田義盛(わだよしもり)、官僚実務を取り仕切る・大江広元(おおえのひろもと)、側近・安達盛長(あだちもりなが)の年下の叔父・足立遠元(あだちとおもと)、その他十三人の合議制のメンバーには大江広元の兄・中原親能(なかはらのちかよし)、頼朝の外祖父・熱田大宮司・藤原季範の妹の子・二階堂行政(にかいどうゆきまさ)、下級公家・三善康信(みよしのやすのぶ)、頼朝の異腹弟とも言われた・八田知家(はったともいえ)が居た。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-02-25 00:37 | Comments(0)  

足立遠元(あだちとおもと)

足立遠元(あだちとおもと)は、鎌倉御家人として鎌倉殿(将軍)・源頼朝に仕えた文官要素の高い平安末期から鎌倉初期に掛けての武将である。

遠元(とおもと)の父は鳥羽院の北面武士を務めた藤原遠兼で、同じ鎌倉御家人の有力者で頼朝側近の安達盛長(あだちもりなが)は年下の叔父にあたる。

足立氏は藤原氏の流れを汲み、遠元の父・遠兼の時に武蔵国足立郡(現東京都足立区から埼玉県北足立郡)に移り足立姓を名乗ったとされる一方では、武蔵国造(むさしくにのみやっこ)の流れで承平天慶の乱の時代に足立郡司で在った武蔵武芝の子孫である「在地豪族だった」とする説もあり、出自については不明な点が多い。

遠元(とおもと)は、平治の乱源義朝の家人に加わり陣に従い、義朝の長男・源義平(みなもとのよしひら)率いる十七騎の一人として戦った。

治承・寿永の乱に於いては、挙兵した義朝の遺児・源頼朝が下総国から武蔵国に入った時期に、遠元(とおもと)は葛西氏らと共に手勢を率いて迎えに参上し家人と成っている。

千百八十四年(元暦元年)、足立遠元(あだちとおもと)は成立間もない鎌倉幕府の公文所の知事家(寄人)に補任され、千百九十年(建久元年)に頼朝が上洛した際、布衣侍(ふいもち/参内衣装の裾持ち)十二人の内に選ばれて参院の供奉をし、頼朝の推挙で官位・左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられる。

遠元(とおもと)は京都権門(中央の有力武家・公家・寺社などの勢力)とも繋がりを持ち、娘の一人は院(後白河法皇)近臣の藤原光能(ふじわらのみつよし)に嫁ぐなどして幅広い縁戚関係を築き、主に朝廷工作などを担当する官僚として活躍し、頼朝死後に成立した十三人の合議制の一人に加わるなど有力御家人の一人に数えられている。

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by mmcjiyodan | 2010-02-24 01:19 | Comments(0)  

仁田忠常(にったただつね/仁田四郎)

鎌倉御家人・仁田忠常(にったただつね/仁田四郎)は、伊豆の国(いずのくに)・仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の住人で、工藤氏、狩野氏、伊東氏吉川氏と同族の藤原南家流である。

源頼朝が挙兵するとその家人(家臣)と成る。

平家追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げ、奥州合戦(奥州藤原氏討伐)に於いても戦功を挙げ、鎌倉幕府創立に武功を挙げている。

また富士の裾野で起こった大事件、曾我兄弟の仇討ちの際には忠常が兄の曾我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)を討ち取っている。

忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞うほど頼朝からの信任は厚かったと伝えられ、頼朝死後は二代将軍・源頼家に仕えた。

仁田忠常は、その二代将軍・頼家からの信任も厚かったのだが、運命の歯車が突然狂う事件が起きる。

二代将軍・頼家が病で危篤状態に陥り、忠常は時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員(ひきよしかず)北条時政の命に従い謀殺した。

所が、頼家が病から回復すると比企氏が北条時政によって滅ぼされたと知り、激怒した頼家は北条追討の将軍命令(御教書)を発した為、仁田忠常は逆に頼家から時政討伐の命令を受ける事に成る。

そんな状況下で、仁田忠常は頼家の命を受けながらも能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かい、その帰宅の遅れを怪しんだ弟達が騒ぎを起こしてしまう。

その軽挙から北条氏側に頼家方寝返りの疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中で北条義時の命に拠って加藤景廉(かとうかげかど)に、弟(五郎忠正・六郎忠時)らと共に滅ぼされる。

仁田忠常(にったただつね)は、所謂(いわゆる)比企能員の変(比企の乱)に巻き込まれた訳である。

伊豆仁田(静岡県田方郡函南町仁田)には、忠常の墓と館跡がある。

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by mmcjiyodan | 2010-02-23 01:29 | Comments(0)  

伊豆の国長岡・あやめ御前と源頼政の物語

平安末期伊豆の国(いずのくに)・長岡の「古奈」に美しい娘がいた。

この「古奈」であるが、伊豆の国(いずのくに)が伊都国(いとこく)と考えると、「古奈良」の可能性がある。

そもそも「古奈」の地名は、事代主命の后神である伊古奈比咩命(いかなひめのみこと)から「名を貰っている」と考えられ、辻褄が合うのである。

伊豆の国「古奈」の美しい娘は、長じて京に上り近衛の院(近衛天皇)に仕え、その美しさ は宮内随一と謳われた「あやめ御前」となる。

この朝廷内裏(ちょうていだいり)への「あやめ御前」の出仕、常識的に朝廷と縁の無い田舎娘が簡単に出来る訳が無い。

つまり、「朝廷と伊豆の国の間に強い関わりが存在した」と考えるべきである。

やがて鵺(ぬえ)退治の誉れ高い、源(三位)頼政と恋に落ち、結ばれて幸せな時を過ごす。

処が、以仁王(もちひとおう)が、密かに発した「平家追討の令旨(りょうじ)」に頼政が呼応、武運拙く宇治川の露と消え、「あやめ御前」は伊豆長岡町古奈の里で頼政の霊を弔いながら八十九年の生涯を閉じたのである。

平清盛一族(平家)の専横に怒った後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の令旨が発せられる。

するとこの時、平家全盛の折に源氏の武士でありながら宮中に大内(だいり・御所)守護として使えていた源(三位)頼政は、京に在って源頼朝木曾(源)義仲より早く、大内(だいり・御所)守護として立ち上がる。

村上源氏流れ・鵺(ぬえ)退治の源頼政は、嫡子で前伊豆守の源仲綱や源宗綱、養子の源兼綱らと共に清盛一族(平家)打倒の最初の挙兵を行い、宇治橋の合戦にて無念の討ち死を果たしているのである。

源頼政の行動は源氏や平家ではなく、最期まで大内(だいり・御所)守護としての立場を貫いた皇統護持だった。

源(三位)頼政が伊豆の国(いずのくに)長岡出身の「あやめ御前」と結ばれた縁で、伊豆の国市長岡では、「鵺祓い(ぬえばらい)祭」が新春の行事として執り行われている。

あやめ御前の父親は、一時伊豆に配流になった「貴族の藤原為明」とも言われているが、確たる証拠はない。

豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-02-22 02:02 | Comments(0)  

大江広元(おおえのひろもと)

幕府を開いて政権を運営すると成ると武官ばかりではなく文官も必要と成り、源頼朝の側近に大江広元(おおえのひろもと/中原)が幕府御家人として登場する。

鎌倉幕府の政所初代別当をつとめ、幕府創設に貢献した大江広元(おおえのひろもと)は、始めは朝廷に仕える下級貴族(官人)、つまり朝臣だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となった人物である。

大江広元(おおえのひろもと)の出自は諸説あり、一説には「江氏家譜」に於いて藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたとされ、また、一説には「尊卑分脈」所収の「大江氏系図」に於いて大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に「続群書類従」所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としているなどその詳細は不明である。

広元(ひろもと)は当初、中原姓を称して中原広元(なかはらのひろもと)と名乗っていた。

大江姓に改めたのは、晩年に陸奥守に任官した以後の事である。

源頼朝が坂東(関東)を制圧し鎌倉に本拠地の館を構えた頃、中原広元(なかはらのひろもと)は兄・中原親能(なかはらのちかよし)の縁で頼朝の拠った鎌倉へ下り公文所の別当となる。

広元(ひろもと)の兄・中原親能(なかはらのちかよし)は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。

中原親能は、千百八十三年(寿永二年)に源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。

源頼朝が二品右大将(右近衛大将/うこんえのだいしょう)となり公文所を改めて政所としてからは、広元(ひろもと)はその別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与し、「吾妻鏡」に拠ると頼朝が守護・地頭を設置したのも「広元の献策に拠る」とされている。

さて、鎌倉幕府のブレーンとして活躍した大江広元(おおえのひろもと)のその後であるが、頼朝の死後の広元(ひろもと)は、北条義時北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱の際は嫡男・大江親広が官軍に就いた為、袂を分かつ悲運に直面する。

しかし広元(ひろもと)は嫡男・大江親広をあきらめて、あくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者のひとりとなる。

和田義盛の乱に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟に於いて広元(ひろもと)が二代執権・北条義時とともに「連署」をした文書が存在する。

また頼朝が強い繋がりを持っていなかった公家・土御門通親(つちみかどみちちか)などの公卿とも独自の連絡網を持っていた事なども明らかになっていて、広元(ひろもと)の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る「重要な地位を占めるものだった」と、指摘されている。

尚、広元長男・大江親広は政所別当・京都守護などの幕府要職を歴任するが、承久の乱で朝廷方に付いて敗走し、出羽国寒河江荘に籠もり、その子孫は寒河江氏などに繋がると伝えられる。

特記すべきは、広元四男・毛利季光が宝治合戦で三浦泰村に味方して三浦一族とともに源頼朝持仏堂であった法華堂で自害するも、その四男・毛利経光は越後に居た為に巻き込まれず所領を安堵され、そのまた経光の二男・時親は伊豆南条と安芸吉田庄を相続し、戦国大名・安芸毛利家の始祖となって毛利元就に繋がっている事である。

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by mmcjiyodan | 2010-02-21 02:00 | Comments(0)  

三浦義澄(みうらよしずみ)

三浦義澄(みうらよしずみ)は相模国三浦郡矢部郷の出身で、坂東八平氏と並び称される桓武平氏(桓武天皇の皇子・葛原(かずはら)親王流)の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明(みうらのすけよしあき)の次男である。

義澄(よしずみ)の妻は伊豆伊東荘の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の娘だが名は不明。

平安末期、千百五十九年(平治元年)の平治の乱では、義澄(よしずみ)は頼朝の父・義朝の長男・源義平(みなもとのよしひら)に従うが、平家方に敗れて京都から郷里の相模国矢部に落ち延びる。

その後兄で三浦氏継嗣の杉本義宗が亡くなり、義澄(よしずみ)が三浦氏の家督を相続する。

千百八十年(治承四年)に源頼朝石橋山の戦いで挙兵した際には頼朝方として出陣するも、悪天候の為増水した丸子川(酒匂川)を渡れず、参戦できずに引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明を討ち死にさせてしまう結果となった。

その後三浦義澄(みうらよしずみ)ら三浦氏の郎党は、平家方との衝突を避け海路安房国へ一時撤退するが、房総半島へ渡って来た頼朝軍と合流し、後に頼朝に帰伏した畠山重忠らと共に鎌倉に入る。

頼朝方の関東での優勢が揺ぎ無いものに成りつつ在ったこの頃、義澄(よしずみ)は平家側についていた妻の父である伊東祐親(いとうすけちか)が捕らえられてその身を預かる事となる。

義澄(よしずみ)は頼朝に助命を嘆願して祐親の事を許させるが、しかし祐親(すけちか)は自分の娘と頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じて自害してしまう。

頼朝が関東を制圧すると、三浦義澄(みうらよしずみ)は千葉常胤上総広常土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も、一ノ谷の戦い壇ノ浦の戦い奥州合戦に参戦して武功を挙げる。

鎌倉幕府が成立すると、頼朝方に付いた義澄(よしずみ)は鎌倉幕府の有力御家人となり、頼朝が死去した後には二代将軍源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。

頼朝が死去の翌年、義澄(よしずみ)は梶原景時の変梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた僅か三日後に病没している。

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by mmcjiyodan | 2010-02-20 00:13 | Comments(0)  

伊東祐親(いとうすけちか)と八重姫の悲話

石橋山合戦平家方として源頼朝軍の後方から参戦した伊東祐親(いとうすけちか)と源頼朝の間には、平安末期から鎌倉初期に掛けてかなり悲惨な因縁話が伝承されている。

流人となった頼朝だが、伊豆配流と言う事は伊豆配流と言う事でそこは高貴な後胤貴族の血を引く源氏の棟梁で、伊豆の国(いずのくに)内ならば比較的自由に行動が出来た。

十四歳の若者から三十三歳で旗揚げするまでの十九年間、ちょうど恋の季節を伊豆国で送った頼朝である。

北条正子と割り無い仲に成る前に、一つの恋が在った。

その恋の相手が伊東祐親(いとうすけちか)の三女・八重姫で、頼朝は二十五歳だった。

何時(いつ)の世でも、女性(母性)にとっては悲劇の主人公は恋の相手として魅力的である。

正直、名門・源氏の若き棟梁が流人として父・伊東祐親(いとうすけちか)に預けられたとなると、哀れみ混じりに八重姫(伊東八重)の母性本能をくすぐらせ、やがて恋に落ちたのかも知れない。

源頼朝の監視を任されていた伊東祐親(いとうすけちか)の娘・八重姫は、祐親(すけちか)が大番役(朝廷警護の任)で上洛している間に頼朝と通じて一子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。

その千鶴丸が三歳に成る頃、大番役を終えて京から戻った祐親はこの事実を知ると「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」と激怒する。

そして祐親(すけちか)は、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川轟ヶ淵に沈めて殺害、さらに頼朝自身の暗殺も図り、娘・八重を取り返して伊豆の国(いずのくに)江間の住人、「江間小四郎(えまのこしろう)に嫁がせた」と伝えられる。

この危機に、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の三女を妻として頼朝と親交が在った祐親(すけちか)次男・祐清(すけきよ)が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たと伝えられている。

伊東祐親(いとうすけちか)は平安時代末期の伊豆の国(いずのくに)の在地豪族で、後に毛利両川の一家になる吉川氏(きっかわうじ)とも同族の藤原南家の流れを汲む工藤氏流れ伊東氏・伊東祐家の子で在ったが、父・祐家が早世すると、祖父・伊東家継は祐家の兄弟・工藤祐継(くどうすけつぐ)に本領の伊東荘を与え孫の祐親(すけちか)には河津荘を与えた。

本領を工藤祐継(くどうすけつぐ)に渡され伊東氏の総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親(すけちか)は、訴訟を起こして争い、祐継(すけつぐ)の死後にその子・工藤祐経(くどうすけつね)から伊東荘を奪った。

これを恨んだ祐経(すけつね)は祐親(すけちか)の嫡男・河津祐泰(かわづすけやす)を狩りの場で射殺し、これが後に祐親(すけちか)の孫が達(曾我祐成・時致)が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。

伊東祐親(いとうすけちか)は東国に於ける親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治の乱に敗れて伊豆に配流されて来た源頼朝の監視を任され、娘・八重姫の悲惨な恋の当事者と成ったのである。

祐親(すけちか)の暗殺の手を逃れ北条時政の館に匿われた源頼朝は、やがて時政の娘・正子と新たな恋を始めていた。

千百八十年(治承四年)に頼朝が伊豆目代・山木(平)判官兼隆を討って挙兵すると、祐親(すけちか)は大庭景親(おおばかげちか)らと協力して石橋山の戦いに後方から頼朝方の退路を絶ちこれを撃破する。

しかしやがて安房国で勢力を盛り返した頼朝に拠って逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられて娘婿の三浦義澄(みうらよしずみ)に預けられる。

危ない所を知らせた次男・祐清(すけきよ)への恩義も在り、三浦義澄(みうらよしずみ)による助命嘆願が功を奏して一時は頼朝に一命を赦された祐親(すけちか)だが、この助命を深く恥入り祐親(すけちか)は自害して果てた。

尚、この八重姫の悲話については「創作部分が多い」との指摘もあるが、源頼朝と伊東祐親(いとうすけちか)の間にただならぬ経緯が存在したのは事実である。

尚、近頃は現代の倫理観に当時を無理に当て嵌め、「伊東祐親(いとうすけちか)は極悪人」とする意見を持つ者もいるが、それを言うなら武力簒奪だろうが陰謀だろうが領地簒奪は武士の習いであり、殊更伊東祐親(いとうすけちか)を俎上に上げなくても武士は全員極悪人である。

恥ずかし気も無く、自分の正義感を満足させたいだけで「こうあるべき」と言う「べき論」を真っ先に掲げて思考を始める怪しげな綺麗事歴史論者の姿勢は、結果的に歴史を捻じ曲げてしまう。

曽我兄弟のあだ討ち】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-02-19 00:57 | Comments(0)