<   2010年 03月 ( 30 )   > この月の画像一覧

 

歴代朝鮮王朝略史(四)

歴代朝鮮王朝略史(一)】に戻る。

高麗王朝(コリョワンジョ)を開いた松岳(開城)の豪族・王(ワン)氏、高麗朝(コリョワンチョウ)の王建(ワンゴン・太祖<テジョ>)は、新羅末期の群雄の一人で後高句麗を建国した弓裔(クンイェ)の部下であったが、弓裔(クンイェ)の暴政にあきれた仲間に推されるようにして弓蕎(クンイェ・泰封国王)を倒した。

その後、九百三十四年に後百済、九三五年に新羅敬順王が降伏、統一高麗王朝(コリョワンジョ)が成立する。

千二百五十九年になるとチンギスハン率いるモンゴル(蒙古・後の元)が台頭し、高麗王朝(コリョワンジョ)は元(げん・ユエン)帝国の属国化するに至る。

その後起こった朝鮮半島と日本列島の間の出来事は、もう「倭の国同士のうちわ(内戦)」の感覚ではなく、他国、他人種の侵略と受け取られるほど、互いに違いが出来てしまっていた。

朝鮮半島は、「元(げん・ユエン)」の属国と成りながらも、「高麗(コリョ)」が四百七十年ほど続いた。

その間、日本の鎌倉時代、「元」の手先として、数次に亘る元寇の侵略軍の大半は、動員された「高麗((コリョ)」の人々であった。

鎌倉後期、執権北条時宗(第八代)の時代「元寇」として日本に襲来したのは、実は「元」に命じられた半島(当時・高麗王朝・コリョワンジョ)の民だった。

この時は、二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風(台風)」が吹いた。

海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島・高麗王朝・コリョワンジョの海軍)は大打撃を受けて撤退した。

内陸の国「元(げん・ユエン・モンコル)」には、本来海軍はない。

動員されたのは高麗王朝(コリョワンジョ)の海軍と兵である。

厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の海軍だが、これが到着した時には対馬海峡(玄海灘)の海はもう荒れ狂っていた。

南宋の船団は、戦う事なく被害を出し、撤退している。

歴代朝鮮王朝略史(五)】に続く。
歴代朝鮮王朝略史(三)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-03-31 02:39 | Comments(0)  

歴代朝鮮王朝略史(三)

歴代朝鮮王朝略史(一)】に戻る。

唐(とう・中国の帝国)の援助を受けて、初めて朝鮮半島(ちょうせん・チョソンバンド)を統一した新羅(シルラ)王朝は、三百五十六年から半島の一部を領有する国に始まり、約六百年続いたが、その内の約二百四十年が統一新羅(シルラ)である。

七百八十年に、統一新羅(シルラ)の太祖・武烈王(金春秋=キム・チュンチュ)の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位纂奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。

また骨品制(血統)により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり、新羅(シルラ)の官僚制度は行き詰まりを見せていた。

この時代には、地方の村主や王位継承に破れ、王都から地方に飛び出した王族や官僚らが、私的軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興(ぼっこう)した。

そして、地方で頻繁に反乱を起こす様になる。

豪族の独立が頻発し、その中でも有力な私的軍事勢力であった農民出身の甄萱(キョンフォン)が、八百九十二年に半島南西部に後百済を、新羅(シルラ)王族の弓裔(クンイェ)が九百一年、北部に後高句麗を建て、新羅・後百済・後高句麗の三国が鼎立する後三国時代に入る。

その中で後高句麗の武将であった王建(ワンゴン)が、九百十八年に弓裔(クンイェ)を追放して建てた高麗(こうらい・コリョ)が勢力を伸ばし、九百三十五年に最後の王・敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した事により新羅(シルラ)王朝は崩壊、滅亡した。

その後「新羅(シルラ)」は、十世紀に入って起こった「高麗(こうらい・コリョ)」に取って代わられたが、この頃には日韓互いに完全に独立した文化・言語が育ち、日本列島からも、朝鮮半島からも、倭(わ)人、倭の国々の意識は失われて行った・・・・。

歴代朝鮮王朝略史(四)】に続く。
歴代朝鮮王朝略史(二)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-03-30 01:25 | Comments(0)  

歴代朝鮮王朝略史(二)

歴代朝鮮王朝略史(一)】に戻る。

やがて朝鮮朝鮮半島から日本列島の西側にかけて広く広がっていた倭人の国々の内、半島側の倭人(倭の国々)は百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)、高句麗(コグリョ)の鼎立割拠する三国(サムグ)時代を経て新羅(シルラ)に統一される。

当時の中華帝国の側の認識では、統一された半島側の新羅(シルラ)は「属国としての王国」と認めていたが、列島側はまだ倭人(倭の国々)が残っている状態と認識し、「倭」と呼び続け文書(もんじよ)にもそう記した。

朝鮮半島側に新羅(シルラ)統一王朝が成立した為、大陸の中華帝国は半島を新羅(シルラ)と呼び、残りの日本列島を倭国(わのくに)として呼称を残した為に、日本列島・大和朝廷を「倭国(わのくに)と認識した」と考えられるのである。

その中華帝国の側の認識を、倭人である筈(はず)の朝鮮半島側の新羅(シルラ)王朝をも採用し、列島側だけが、隣国から「倭人(倭の国)」と呼ばれるように成って行く。

この時点で、中華帝国(ツォンファティゴウ)側が列島の民を倭人(倭の国々)と呼び続けた裏には、「倭人は蛮族」と言う中華思想が根底にあり、征服部族として列島に渡って来た倭人が、列島原住部族を「蝦夷(エミシ)」と呼んだと同じ意識が存在する。

そして本来倭人だった半島側の新羅(シルラ)は、任那(加羅/加那)・百済(ペクチェ)を滅ぼして統一国家を成立した事を期に、自分達が列島側の人々に優越する為に、あえて列島側の呼称を「倭」と残した。

朝鮮半島側の人々の立場からすると、早く中華皇帝の国から文明国人と認められたい。

裏返すと、日本列島の民を「倭奴(ウエーノム・韓国語/ハングル)」と一段挌下に位置付ける事で、自らが「倭人」からの脱却を目指した事になる。

この事が、日本列島側の意識の中に「中華帝国からの脱却意識」を芽生えさせ、大和朝廷は独自の皇帝(大王・おおきみ/後に天皇)をその中心に据え、中華王朝との対等国家を標榜した。

唯一同様の立場に置かれていた琉球王朝(沖縄)だけはこの経緯を認識していたから、倭人とは呼ばず大和人(ヤマトンチュー)と呼んでいた。

だとするなら、「倭国は日本国の古代名である。」は間違いである。

正確には、在る一定の時期から主として他国が日本列島・大和国を「勝手にそう呼ぶように成った。」が正しい事に成る。

広域倭の国論が正解であれば、当然ながら初期大和朝廷の大王(おおきみ)の故郷が朝鮮半島で在っても不思議は無いので、これを否定する輩は「皇国史観」と呼ばれる創られた歴史(天孫降臨伝説)を未だに引きずっている事に成る。

この大いなる間違いは、恐らく政治的理由で多民族混合国家の過去を消して単一民族国家として国民の民族意識と愛国心を喚起する為に、思惑として肯定しざるを得無かったからである。

歴代朝鮮王朝略史(三)】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-03-29 02:29 | Comments(0)  

歴代朝鮮王朝略史(一)

朝鮮半島側に於いても、古代朝鮮に於いて檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮、辰国などの伝説的な国の言い伝えは存在するが、それらは日本の古事記日本書紀の類の記述と同様な後世の創作部分が多いと推論される程度のものである。

実は朝鮮半島も日本列島もまだ中華帝国周辺の小国家群の内で、朝鮮半島から日本列島の西半分に掛けてが倭人達の住む「倭の国々」だった。

史上その存在を確認できる王朝は七世紀中盤の三国(サムグ)時代からで、半島南東部の新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の三か国が鼎立していた。

新羅(シルラ)は、古代の朝鮮半島南東部に紀元前五十七年頃に成立した国で、三国史記の新羅本紀によれば王統が金(キム)氏、昔(ソク)氏、朴(パク)氏とされ、建国神話に於いてこの王系三姓がそれぞれに始祖説話を持っている。

特に昔(ソク)氏に於いては、その始祖説話で「倭人」とされる事から「新羅王は、日本人だった!」と唱える者も居るが、それは大きな間違いである。

これは経時的な視点を無視したもので、広域倭国論では乱立した倭人の小国群が朝鮮半島から日本列島の西半分まで広がっていた時代で現在の人種的な線引きは、半島にも列島にも存在しない。

高句麗(コグリョ)は朝鮮半島北部紀元前三十七年頃に扶餘系民族に拠り成立した国で、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とし、王統は高(コ)氏だった。

日本語で「こま」と称した高句麗(コグリョ)は、中華帝国の隋・煬帝(ヤンディ)、唐・太宗(タイソン)に拠る遠征を何度も撃退したが、唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。

百済(ペクチェ)は紀元前十八年頃に成立した国で、百済(ペクチェ)辰王家である扶餘(プヨ)氏は呉人で、中華帝国史上に於ける亡国の民が「半島に逃れて来て建国した」とされる。

百済八姓はいずれも中国亡国の民で百済王家の姓は余氏、百済扶餘氏とも言い呉王家の姫氏、百済の木氏、倭の紀氏はいずれも同族とされる呉人である。

七世紀中頃に新羅は朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。

朝鮮半島までに広がっていた「古代・広域・倭国(わのくに)群」が消滅の道を辿ったのは、朝鮮半島側が早い時期に大きな国三ヶ国(サムグ時代)に成り、やがて統一国家「新羅(シルラ)統一王朝」の成立と伴に、中華帝国における倭の国の呼称が日本列島側だけに残ったからである。

日本列島の倭国で統一大和朝廷が成立した頃、一方の倭国である朝鮮半島では、日本列島・大和朝廷飛鳥時代になる頃に百済(くだら・ペクチェ)が新羅(しらぎ・シルラ)と中華帝国「唐」の連合軍に敗れ滅んでいる。

大和朝廷は百済再興の為、大軍を送ったが、「白村江の戦い」で大敗を喫してしまう。

この敗戦のダメージは、相当大きかったに違いない。

この頃、戦勝国「新羅」から、「多くの王族、豪族が渡来して来た」と言われている。

百済(くだら・ペクチェ)滅亡から八年、高句麗(こうくり・コグリョ)も新羅(しらぎ・シルラ)・「唐」の連合軍に滅ぼされ、新羅が始めて朝鮮半島を統一する。

歴代朝鮮王朝略史(二)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-03-28 02:01 | Comments(0)  

元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡(四)・倒幕成功

元弘の乱と鎌倉幕府滅亡・(一)計画露顕】に戻る。

播磨国で赤松則村(のりむら/円心)が挙兵し各地で反乱が起きた頃、後醍醐天皇は時来たりと名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。

幕府方は船上山の後醍醐帝を討つ為に足利高氏(あしかがたかうじ/尊氏)、名越高家らの援兵を送り込むが名越高家が赤松則村(のりむら/円心)に討たれ、足利高氏は丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻し、呼応して六波羅探題を攻め落として京都を制圧する。

敗れた北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、近江国の番場蓮華寺で自刃している。

坂東(関東)では、足利高氏(あしかがたかうじ/尊氏)の挙兵と時を同じくして新田義貞(にったよしさだ)が挙兵する。

隠岐(おき)の島に流されていた後醍醐天皇が船上山で再起し、帝方と幕府方が五分五分の形勢になりそうな所で坂東(関東)に於いて新田氏棟梁・新田義貞(にったよしさだ)が野国・生品明神で倒幕の旗を揚げる。

挙兵した新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やし、足利高氏の嫡子・千寿王(後の足利義詮)らも合流して相模国に達する頃の新田軍は数万規模に膨れ上がった。

新田軍の進撃に、幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃の為に向かわせるが、「小手指ヶ原の戦い」や「分倍河原の戦い」でことごとく敗退し、幕府軍(鎌倉勢)は鎌倉へ追い詰められて行く。

鎌倉に入るには狭い七切通し小道しか無く、天然の要塞と成っていた。

幕府軍(鎌倉勢)はその七切通しを封鎖するも、新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、化粧坂と言う三方の切通し小道から攻め入って行きてこずって撤退する。

守りの固い鎌倉に手を焼いた新田義貞は、幕府軍(鎌倉勢)の裏をかいて引き潮の七里ヶ浜の浜伝いに稲村ガ崎から鎌倉へ突入、背後を突かれ幕府軍は総崩れとなり北条高時ら北条一門は応戦するも力尽き、北条氏の菩提寺・東勝寺に於いて滅亡する。

建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立】に続く。
元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(三)隠岐流配】に戻る。
元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(一)計画露顕】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-03-27 03:22 | Comments(0)  

元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(三)隠岐流配

元弘の乱と鎌倉幕府滅亡・(一)計画露顕】に戻る。

元弘元年(千三百三十一年)に勃発した元弘の変の炎が、まだチロチロと種火に成って燃えていた。

二度目の倒幕計画、笠置(かさぎ)山挙兵に失敗して捕らえられた後、醍醐天皇は隠岐(おき)の島へ流される。

後醍醐天皇の隠岐流配を追跡し、院庄で有名な十字の詩を桜の幹に刻んだ児島高徳(備前国の武士)は、熊野の山伏達が開いた熊野修験分流「児島修験」の人物で、戦前は小学校の唱歌にも歌われている。

隠岐に流された後醍醐天皇が密書を送った出雲の鰐渕寺(がくえんじ)も天台修験の古刹である。

一方、千三百三十二年に「隠岐(おき)の島」に流された後醍醐天皇の流刑中に、息子(第一皇子)の天台宗座主(ざす)尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮(おおとうのみや)として臣民の支持を一身に集めていた。

潜伏して再挙兵の機会を伺っていた護良親王(もりながしんのう)楠木正成(くすのきまさしげ)だったが、まず楠木正成が河内国金剛山の千早城で挙兵し、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。

楠木正成は赤坂城を奪回し、鎌倉方六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破する。

鎌倉幕府は再び鎮圧に乗り出して大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向ける。

幕府方は楠木正成配下の平野将監らが守る上赤坂城を攻め、苦戦するも上赤坂城の城の水源を絶ち平野将監らを降伏させる事に成功、吉野でも護良親王を破って敗走させている。

次いで幕府方は楠木正成の篭る千早城の攻略に掛かるが、三ヵ月に渡って正成に翻弄されている間に幕府方の武力権威が落ちて各地に倒幕の機運が広がって行く。

元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡(四)・倒幕成功】に続く。
元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(二)笠置(かさぎ)山】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-03-26 02:20 | Comments(0)  

元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(一)計画露顕

一度「正中の変」で倒幕謀議失敗したが、後醍醐天皇はあきらめず倒幕親政の機会を狙っていた。

六年後の千三百三十一年、後醍醐天皇は再び元弘の乱(げんこうのらん)を引き起こす。

元弘の乱(げんこうのらん)は、千三百三十一年(元弘元年)に起きた後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。

この乱は、千三百三十三年(元弘三年・正慶二年)に鎌倉幕府が滅亡に到るまでの一連の戦乱を含め元弘の乱(げんこうのらん)とする事も多いが、その発端が「正中の変」の後、処分を免れた側近の日野俊基(ひのとしもと)や真言密教の僧・文観らと再び倒幕計画を進めた後醍醐帝の再度の倒幕計画だった。

再び討幕を企てた後醍醐天皇で在ったが、またも密告に拠って露顕してしまう。

後醍醐帝の側近である吉田定房が帝を案ずる余り六波羅探題に倒幕計画を密告して倒幕計画はまたも事前に発覚、六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り込んだ為に後醍醐帝は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山へ向かい、そこで挙兵した。

後醍醐天皇が勘解由小路党の内密の本拠地、笠置山(城)に移り挙兵すると、後醍醐帝の挙兵に呼応して、後醍醐帝の皇子・護良親王(もりながしんのう)の吉野山・金峯山寺蜂起や難波・河内国の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)が南河内の下赤坂城で挙兵する。

楠木正成は文観真言立川の「教義」を支持し、後醍醐天皇を奉じて、鎌倉幕府の倒幕を試みたのである。

後醍醐帝・笠置山(城)挙兵の知らせは、急ぎ幕府方に伝わった。
六波羅探題軍が京の御所を急襲して、計画に加担した者は皆逃げる間もなく捕縛される。

この時「正中の変」で捕らえられていた日野資朝(ひのすけとも)は佐渡国、日野俊基は鎌倉にてそれぞれ幕府方に殺されている。

後醍醐天皇が笠置山に逃亡した為、鎌倉幕府執権・北条高時は持明院統・後伏見天皇の第三皇子の量仁(かずひと)親王を光厳(こうげん)天皇(北朝初代)として擁立させた。

元弘の乱と鎌倉幕府滅亡・(二)笠置(かさぎ)山】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-03-24 23:03 | Comments(0)  

奥州・藤原氏の誕生・(三)

奥州藤原家(清原家)・(一)源氏と安倍氏】に戻る。

後三年の役」の後に清原氏が藤原氏に代わった経緯であるが、前の戦・「前九年の役」が終わった後、清原武則(きよはらのたけのり)の息子・清原武貞(きよはらのたけさだ)は安倍氏一門の有力豪族で前九年役敗戦後に処刑された藤原経清(ふじわらのつねきよ)の妻を自らの妻として再婚していた。

この清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻となった藤原経清(ふじわらのつねきよ)の元妻は、前九年の役で戦死した安倍氏の当主・安倍頼時の娘であり、平将門の乱の平定に活躍した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫・藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)・藤原経清(ふじわらのつねきよ)との間に生まれた息子が居た。

その連れ子は清原武貞(きよはらのたけさだ)の養子となり、清原清衡(きよはらのきよひら)を名乗り清原家の継嗣に納まった。

その後、安倍氏と清原氏の惣領家の血を引いた異父弟・家衡(いえひら)も生まれている。

後三年の役後、中央で摂政関白を任じていた藤原師実(ふじわらのもろざね)が同じ藤原北家流である事から目をかけられて戦後処理が有利となり、「後三年の役」の後の源義家(みなもとよしいえ/八幡太郎)に対する処置とは対照的に清原清衡(きよはらきよひら)は清原氏一門の旧領すべてを手に入れる事となる。

清原清衡(きよはらのきよひら)は摂政関白・藤原師実(ふじわらのもろざね)に願い出て許され、実父・藤原経清(ふじわらのつねきよ)の姓・藤原に復し、清原氏は奥州藤原氏と成った。

尚、時の白河天皇に深く信任された摂政関白・藤原師実(ふじわらもろざね)は藤原頼通(ふじわらのよりみち/太政大臣)の長男で藤原道長(ふじわらのみちなが)の孫にあたる。

奥州・藤原家(清原家)・(四)藤原家と源義経】に続く。
奥州・藤原家(清原家)・(二)八幡(はちまん)太郎・源義家】に戻る。

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前九年の役(ぜんくねんのえき)】に飛ぶ。
清原武則(きよはらたけのり)】に飛ぶ。
後三年の役(ごさんねんのえき)】に飛ぶ。
藤原清衡(ふじわらきよひら)】に飛ぶ。
藤原秀衛(ふじわらひでひら)】に飛ぶ。
奥州平泉・中尊寺(ちゅそんじ)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-03-23 02:24 | Comments(0)  

奥州・伊達氏(だてうじ)

戦国大名として奥州の地で気を吐いた伊達政宗(だてまさむね)は、定説では藤原北家魚名山蔭流・伊達氏とされる。

鳥羽天皇中宮・待賢門院(たいけんもんいん)の非蔵人・権中納言・藤原光隆(ふじわらみつたか)の息子で平安時代末期の武将・伊達朝宗(だてともむね)を祖としているが異説もある。

異説では、伊達氏は遥か古代史に登場する長髄彦(ながすねひこ)の末裔説も伝承されている。


魚名山蔭流の藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)は平安時代前期の公卿・藤原高房の次男で、山蔭(やまかげ)の九代後に常陸の国に常陸介として赴任した常陸介・藤原実宗(ふじわらのさねむね/中村宗実・なかむらむねさね)が居た。

その藤原実宗(ふじわらのさねむね)は、都に於いて従五位下遠江守・常陸介の官位を得る一方、常陸国伊佐郡に勢力を張る在地豪族だった。

この常陸介・藤原実宗(ふじわらのさねむね)の代に「伊佐、若しくは中村と称した」とされ、その四代後に常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)が居て、母が源為義(みなもとのためよし)の娘とされる為、念西(ねんさい)は源頼朝(みなもとよりとも)の従兄弟にあたる。

常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい朝宗・ともむね)には子息に為宗、宗村(為重)、資綱、為家らがあり、娘には源頼朝(みなもとよりとも)の側室・大進局(だいしんのつぼね/僧・貞暁の母)として知られた女性が居た。

千百八十年(治承四年)に源頼朝(みなもとよりとも)が挙兵した際には、母方の従兄弟と言う関係も在って念西(ねんさい)はその麾下に馳せ参じる。

常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)は源頼朝(鎌倉幕府)の御家人となり、千百八十九年(文治五年)の奥州合戦(奥州藤原攻め)に際しては、四人の子息とともに前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。

奥州合戦(奥州藤原攻め)で功を立て、この功によって激戦地阿津賀志山がある陸奥国伊達郡(福島県)を賜り、旧来の常陸国の所領は長男の為宗が相続し、伊達郡は次男・宗村が相続しこれを契機に伊達を称して伊達氏が起こった。

次男・宗村の後裔は伊達氏として存続、戦国期に奥州の覇者・伊達政宗(だてまさむね)を輩出して以後、奥州(東北)の雄藩として維新まで栄えている。

但しこの伊達氏、一般に「念西(ねんさい)を伊達朝宗、為重が後の二代当主・伊達宗村である」と言われが、初代を「宗村」としている文章類も多く見受ける事から二代当主とされる伊達宗村が念西であると言う説もあるが、初期伊達氏の系譜にはその他諸説が入り乱れて確定はしていない。

伊達政宗(だてまさむね)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-03-22 01:55 | Comments(0)  

上杉氏(うえすぎうじ)

上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾景虎・ながおかげとら)の上杉家は藤原北家・勧修寺流・上杉氏とされていて、言わば藤姓系図である。

上杉氏の祖は、京都の中級公家・左衛門尉勧修寺清房(藤原北家高藤流)の次男として生まれた上杉重房(うえすぎしげふさ)で、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が鎌倉幕府第六代征夷大将軍に就任するが、重房はその介添えとして共に鎌倉へ下向した。

上杉重房(うえすぎしげふさ)は丹波国何鹿郡上杉庄(京都府綾部市上杉町周辺)を賜り、以後あらたに上杉氏を称したが宗尊親王は謀反の疑いにより帰京させられる。

しかし重房(しげふさ)はそのまま鎌倉に留まり、武士となって幕府に仕え、やがて有力御家人・足利泰氏(あしかがやすうじ)に仕えて重房(しげふさ)の妹(または娘)が泰氏(やすうじ)の継嗣・足利頼氏(あしかがよりうじ)の家女房となり、その間に生まれた足利家時(あしかがいえとき)が足利家の当主となる。

こうした経緯で上杉氏は、姻戚関係を通じて足利家中で権勢を得るようになったのだが、重房(しげふさ)の嫡男・上杉頼重(うえすぎよりしげ)の子・清子が足利貞氏(さだうじ)に嫁して尊氏・直義を生み、足利氏の外戚家として重きを為して行く。

その足利貞氏(あしかがさだうじ)の嫡男で、上杉氏の外孫でもある足利尊氏(あしかがたかうじ)後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に呼応して挙兵する。

上杉頼重(うえすぎよりしげ)の子・上杉憲房(うえすぎのりふさ/三代当主)は鎌倉幕府打倒に功があり、伊豆の地頭職と上野の守護職を与えられる。

その後尊氏(たかうじ)が後醍醐帝の建武の新政に反発し反乱を起こすと、上杉憲房(うえすぎのりふさ)はこれに従ってともに上洛したが、北畠顕家(きたばたけあきいえ)新田義貞(にったよしさだ)の反撃を受けた為に尊氏(たかうじ)は京都から九州へ逃走する。

上杉憲房(うえすぎのりふさ)は、この時の敗戦に於いて尊氏(たかうじ)を逃がす為に戦死したが、足利尊氏(あしかがたかうじ)は巻き返して後醍醐帝方を吉野山に追い詰めて室町幕府の初代征夷大将軍になり、憲房(のりふさ)の子・上杉憲顕は山内上杉家の、上杉憲藤は犬懸上杉家のそれぞれ祖となった。

尚、戦国期の山内上杉家に同名の上杉憲房(うえすぎのりふさ/十三代当主)が居て上杉謙信(うえすぎけんしん)は祖の上杉重房(うえすぎしげふさ)から数えて十六代当主にあたる。

上杉謙信(うえすぎけんしん)は上杉氏の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎(ながおかげとら)を称していたが、兄である守護代・長尾晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。

長尾景虎(ながおかげとら)は上杉氏の縁者にあたり、主君の越後守護・上杉定実(うえすぎさだざね)から見て「正妻の甥」且つ「娘婿の弟」にあたる存在だった。

守護代・長尾景虎(ながおかげとら)は、足利宗家の外戚・山内上杉家の当主・関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命され、十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)より偏諱(へんき)を受けて最終的には上杉輝虎(うえすぎてるとら)と名乗っている。

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by mmcjiyodan | 2010-03-21 02:13 | Comments(0)