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豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実

一般的な節分の豆撒きは、「鬼は外」である。

しかし大和朝廷が最後に平定した東北地方には、節分の豆撒きに「鬼は内」の所がある。

つまり、関東以西で鬼は悪役だが東北では先祖の神様で、ここら辺りに蝦夷(エミシ/先住民)が鬼とされた経緯の「名残が在る」と見るべきである。

青森県弘前市字鬼沢の「鬼神社」の豆まきは、「鬼は内」である。

東北だけではなく群馬県鬼石町でも「福は内、鬼は内」と言い、埼玉県比企郡・武蔵嵐山の「鬼鎮神社(きじんじんじゃ)」の豆まきも「鬼は内」なのだ。

鬼鎮神社(きじんじんじゃ)の祭祀は、陸奥国地頭職・鎌倉有力御家人畠山重忠の手に拠るもので、東北の鬼とされた「安倍氏」に対する同情心や遠慮とされている。

また、陸奥国安達郡二本松城に拠った戦国大名・二本松畠山氏(はたけやまし)は、秩父平氏・支族で、武蔵国・畠山庄に在した鎌倉有力御家人・畠山重忠にその名跡を発している。

奥州合戦の功により陸奥国葛岡郡地頭職に任官した畠山重忠は北條時政に謀られ鶴ヶ峯で戦死するも、妻(北条時政の娘)は重忠の死後、源氏系流・足利義兼の子・義純と再婚する。

足利義純は畠山氏の名跡と領地を継承して室町期から戦国初期に戦国大名とし活動、また、その子孫の一部は二本松畠山氏となり伊達氏の興隆に圧されて滅亡した。

凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて頻発した「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の「寛平・延喜年間東国の乱」がある。

平安群盗と呼ばれ文献に残るそれらは、国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が起こした大規模な反乱(レジスタンス)だった。

つまり平安時代中期の武将・源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語や、平安末期・源(三位)頼政が生きた時代の妖怪・鵺(ぬえ)の物語は、後の世に先住民族・蝦夷(エミシ)の存在を無い事として覆い隠す同化策の御伽話に伝えられたのではないだろうか?

詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語】に戻る。
平安群盗と原初の武士達(自衛武力)】に戻る。
俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】に飛ぶ。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

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第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-04-30 00:22 | Comments(0)  

源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語

源頼光(みなもとのよりみつ)は清和源氏の三代目にあたり、鎮守府将軍・源満仲の長子で平安時代中期の武将であるが、俗に「らいこう」とも呼ばれる。

頼光(よりみつ)は、父・満仲(みつなか)が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれた。

その源頼光(みなもとのよりみつ)の異母弟には大和源氏の源頼親(みなもとよりちか)と、後に武家源氏の主流となる河内源氏初代・源頼信(みなもとのよりのぶ)が居る。

尚、河内源氏の二代が奥州で前九年の役を始めた源頼義(みなもとよりよし)で、その息子が八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとよしいえ)へと続く。

頼光(よりみつ)の父・満仲(みつなか)は摂津国多田に源氏武士団を形成し頼光はそれを継承し、自らは摂関家の警護なども務めているなど武士としての性格も否定できないが、頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向に在った。

九百八十六年(寛和二年)頃、居貞親王(おきさだしんのう / いやさだ・三条天皇)が皇太子となった際に、摂津源氏の棟梁・頼光(よりみつ)は春宮権大進(皇太子近習)に任じられる。

その後の九百九十年(正暦元年)、関白・藤原兼家の葬儀に際しての藤原道長の振る舞いに感心して、頼光(よりみつ)は「側近として従うようになった」と伝えられる。

九百九十二年(正暦三年)には、頼光(よりみつ)は備前守に任官しているが都に留まっており、「遙任であった」と思われる。

東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに頼光(よりみつ)も参加している。

千一年(長保三年)には、源頼光(みなもとのよりみつ)は受領に拠り美濃守を兼任、この時は「任国へ赴いていた」と推測される。

一方で源頼光(みなもとのよりみつ)は、後世に成立した「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」、室町時代になって成立した「御伽草子」などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる。

その説話では、母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱(わたなべのつな/俗称・金太郎)を筆頭にした頼光四天王や藤原保昌などの「強者の家臣がいた」と言われ頼光が実際に郎党を従えていたと考えられる。

酒呑童子(しゅてんどうじ)は、京都と丹波国の国境の「大枝(老の坂)に住んでいた」とされる鬼の頭領で、「盗賊で在った」ともとも伝えられるが、鬼にしても土蜘蛛にしても、当時の群盗と呼ばれる集団は蝦夷(エミシ/先住民)マツラワヌ者達である。

室町時代の物語を集めた「御伽草子」などに拠ると、酒呑童子の姿は「顔は薄赤く髪は短くて乱れた赤毛、手足は熊の手のようで背丈が四十尺(六メートル)以上で角が五本、目が十五個も在った妖怪」と言われる。

酒呑童子(しゅてんどうじ)が本拠とした大江山では、彼は「龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていた」と言う。

その酒呑童子(しゅてんどうじ)を討伐したのが、源頼光(みなもとのよりみつ)とその部下達である。

詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-04-29 01:03 | Comments(0)  

荒木村重(あらきむらしげ)

荒木村重(あらきむらしげ)は、明智光秀本能寺の変より四年前に織田信長に反逆した武将として、また利休七哲のひとりとして有名な男である。

戦国時代から安土桃山時代の武将・荒木村重(あらきむらしげ)は、幼名を十二郎、のち弥介(または弥助)と言う村重(むらしげ)は、千五百三十五年(天文四年)生まれと言うから信長より一歳年下である。

荒木村重(あらきむらしげ)は、摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として生まれた。

その村重(むらしげ)が主君・池田勝正(いけだかつまさ)の継嗣・池田長正(いけだながまさ)の娘を娶り、村重(むらしげ)は池田家一族衆となる。

荒木村重(あらきむらしげ)は、三好三人衆の調略にのり池田知正とともに三好家方に寝返り、知正に主君・池田勝正(いけだかつまさ)を池田城から追放させる混乱に乗じ池田家を掌握する。

その時の荒木村重(あらきむらしげ)の軍略は、信長に凄いと唸らせるほど見事で文句無しの軍略だった。

その池田家の政変後、池田勝正(いけだかつまさ)は三好三人衆についた村重(むらしげ)らの押さえとして、信長より原田城主に任じられ細川藤孝らとともに各地を転戦したが、荒木村重が信長家臣になると池田に戻り隠居した。

千五百七十三年(天正元年)、荒木村重(あらきむらしげ)は、その性格を気に入られて織田信長に三好家から織田家に移る事を許され茨木城主となる。

同年、織田信長が足利義昭を攻めた時、荒木村重(あらきむらしげ)は若江城の戦い攻めで功を挙げている。

翌千五百七十四年(天正二年)、村重(むらしげ)は伊丹城主となり摂津一国を任され、その後も信長に従って石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)紀州征伐など各地を転戦して武功を挙げている。


いつしか村重(むらしげ)は、信長傘下の有力武将と成っていた。

そんな折の千五百七十八年(天正六年)の十月、突如、荒木村重(あらきむらしげ)は有岡城(伊丹城)にて、信長に対して反旗を翻しす。

この村重(むらしげ)の織田信長に対する謀反の理由は、諸説が在って今でも定かではない。

信長は村重を高く評価して重用していた為、その反逆に驚愕し一時は彼としては珍しく村重(むらしげ)翻意まで促したとされている。

その後村重(むらしげ)は、一度は翻意し釈明の為安土に向かったが、途次寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け「伊丹に戻った」と伝えられている。

村重(むらしげ)鎮圧に向かった織田軍・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、村重と旧知の仲でもある黒田官兵衛・孝高を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁してしまう。

その後、村重(むらしげ)は有岡城に篭城し、織田軍に対して一年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀(なかがわきよひで)高山右近が信長方に寝返った為に戦況は圧倒的に不利となって行く。

千五百七十九年(天正七年)、荒木村重(あらきむらしげ)は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、次いで花隈城に移り奮戦するが既に劣勢は動かず最後は毛利氏に亡命する。

残された村重(むらしげ)の一族と重臣の家族への信長の処置は過酷で、三十六人が大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首されている。

千五百八十二年(天正十年)、信長が本能寺の変で横死すると、荒木村重(あらきむらしげ)は堺に戻りそこに居住する。

豊臣秀吉が覇権を握ると村重の過去の過ちを許し、村重(むらしげ)は大坂で茶人・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもって利休七哲のひとりに数えられ茶人として生涯を終えている。

池田勝正(いけだかつまさ)】に戻る。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-04-28 00:45 | Comments(0)  

池田勝正(いけだかつまさ)

池田勝正(いけだかつまさ)の摂津池田氏は同じ織田信長の織田家家臣であるが、信長の乳母の子として池田氏を名乗る池田恒興(いけだつねおき)池田輝政(いけだてるまさ)の池田氏とは出自が違う。

摂津池田氏は、千五百六十八年(永禄十一年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛して来ると、信長の圧倒的な軍事力の前に摂津の他の豪族が降伏して行く中で池田勝正(いけだかつまさ)は抵抗したが、最後は降服せざるを得なかった。

しかし信長は勝正(かつまさ)の能力を認め、抵抗に対するお咎め立てをしないどころか摂津国の有力豪族である池田氏などを臣下に置いて摂津国支配の安定を図ろうと考え、六万石に加増の上で領地安堵の処置をする。

信長はこの時、勝正・伊丹親興・和田惟政の三名に摂津支配を任せた為、勝正らは「摂津の三守護」と称され、池田勝正(いけだかつまさ)は、信長の働きかけで室町幕府から摂津守護に任じられ、伊丹親興・和田惟政を配下とし摂津国を治める。

その摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男・荒木村重(あらきむらしげ)が勝正(かつまさ)の継嗣・池田長正(いけだながまさ)の娘を娶り、村重(むらしげ)は一族衆となる。

婚姻に拠り摂津池田家の一族となった荒木村重(あらきむらしげ)の先祖は、あの平将門の乱を平定した藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)である。

この荒木村重(あらきむらしげ)が、明智光秀本能寺の変より四年前に織田信長に反逆した武将として、また利休七哲のひとりとして有名な男である。

戦国時代から安土桃山時代の武将・荒木村重(あらきむらしげ)は、幼名を十二郎、のち弥介(または弥助)と言う村重(むらしげ)は、千五百三十五年(天文四年)生まれと言うから信長より一歳年下である。

荒木村重(あらきむらしげ)は、三好三人衆の調略にのり池田知正とともに三好家方に寝返り、知正に主君・池田勝正(いけだかつまさ)を池田城から追放させる混乱に乗じ池田家を掌握する。

その時の荒木村重(あらきむらしげ)の軍略は、信長に凄いと唸らせるほど見事で文句無しの軍略だった。

その池田家の政変後、池田勝正(いけだかつまさ)は三好三人衆についた村重(むらしげ)らの押さえとして、信長より原田城主に任じられ細川藤孝らとともに各地を転戦したが、荒木村重が信長家臣になると池田に戻り隠居した。

荒木村重(あらきむらしげ)】に続く。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-04-27 00:43 | Comments(0)  

遺伝資源(いでんしげん)

実は、全ての生物は遺伝子を持っているのだが、遺伝資源(いでんしげん)は新たなる「現代の鉱脈」で、これは野生生物に限らず、農作物や家畜等の品種や系統も重要な遺伝資源である。

遺伝資源(いでんしげん)とは、現在或いは潜在的に利用価値のある遺伝素材で、ここで言う遺伝素材とは遺伝の機能的な単位を持つ生物その他に由来するものを言う。

つまり人類にとって遺伝資源(いでんしげん)は、農作物や家畜の育種、医薬品開発、バイオテクノロジーの素材や材料として考えた場合、 全ての生物は、将来役に立つ可能性がある。

また生態系の維持には様々な生物種が必要である事は明らかで、生物及び生物を生物たらしめている遺伝子は、これらの観点から重要であり一度失われると二度と完全には復元できないから保存は急務である。

遺伝資源としては生物多様性が重要で、これら資源を保全保護する為に日本ではジーンバンク等の機関があるが、 遺伝子プールの豊かさを考慮すると生息地ごとの保全が理想的である。

只、矛盾する事に現在の人類がそこまで科学を先鋭化しているにも関わらず人類そのものの遺伝資源(いでんしげん)については、深刻な「虚弱精子劣性遺伝」の問題などに正面から向き合う事を避け、感情論や倫理観の「べき論」が優先して着実に滅びの道を辿っている。

勿論、この二千年代に入って、女性の社会進出と伴に不妊原因として顕著に成った卵子の老化(らんしのろうか)も、男女共同参画の美名の下に、結果的に少子化社会を促進させている。

自然界では、子孫に強い遺伝子が伝わりそうな相手を雌が選ぶ事が一般的で、地位・金・好みの風貌などの「他の条件」を優先するのは人間だけである。

これほどの難問など無いかも知れないが、良くも悪くも永い人類の歴史於ける自然淘汰との戦いは「虚弱精子劣性遺伝」の問題をより深刻なものにし続けている現実を、立ち止って考えて見る必要が在りそうだ。

精子劣勢遺伝とⅩY染色体】に戻る。
亜鉛パワー】に続く。

遺伝子関係の詳しくは・小論【ホモサピエンス(知性人)の「種の保存と遺伝子」】を参照下さい。

詳しくは【地球を救う「共生主義」と言うイデオロギー】を参照。

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by mmcjiyodan | 2010-04-26 02:52 | Comments(0)  

呉族(ごぞく/海洋民族)

呉族(ごぞく)は、中国福建省辺りの発祥と考えられる海洋民族であるが、大元は「ポリネシア群島辺りから中国大陸に沿岸部に移り住んだ人々ではないか?」と考えられる。

海洋民族(隼人族・呉族系)の発祥は、特定がむずかしい。

インドネシア、ポリネシア、ミクロネシアなどの南方の島々の原住民族が、「黒潮に乗って島伝いに北上してきた」とする説が有力で、それが九州南部に早い時期に上陸したのだろうか。

但し勿論、任那(みまな)も、農耕山岳民族系の加羅(カラ)や加那(カナ)とも呼ぶ訳でもあるが、部族に拠っては一旦朝鮮半島に上陸してかの地に勢力を築き、その一部が部族単位で日本列島に移り来た呉族(ごぞく/海洋民族)系も存在したに違いない。

つまり、任那(みまな)の国そのものの国内も農耕山岳民族(加羅族系)と海洋民族(呉族系/加那・カナ)は混在し、日本列島同様に覇権を争い新羅(シルラ/しらぎ)に後押しされた農耕山岳民族(加羅族)と百済(ペクチュ/くだら)に後押しされた海洋民族(呉族)との勢力争いは存在した。

一方で隼人系の「呉族」の様に一旦中国大陸で大国(呉帝国)を作り、文明を携えて一気に東シナ海を渡り日本列島に渡来して来た者達も居ただろう。

今に伝わる浦島竜宮伝説などは、その名残とされている。

この農耕山岳民族(天一族・加羅系)と海洋民族(隼人族・呉族系)と言う二つのまったく違う民族が、幾つかのルートを経て九州の地で遭遇し、生きる為の土地をかけて覇権を争う。

この争いの期間が、神代の時代だったのだ。

つまり、日本列島に渡来した呉族系海洋民族が奴国(なこく)を造り、その奴国(なこく)は一時期は邪馬台国に圧迫されたが、やがて盛り返して海洋民族国家・狗奴国(くなくに)が成立、その狗奴国(くなくに)が勢力をまして邪馬台国を圧迫、誓約(うけい)に到って両者が統一を為して日本列島の西半分が神武朝大和朝廷の基礎と成ったのである。

狗(いぬ=犬)の文字は犬神信仰に通じ、呉族系(ごぞく/海洋民族)・狗奴国(くなくに)の国号にも使われている。

日本列島の氏族が呉族(ポリネシア)系部族と加羅族(中国雲南省発祥の山の民)系部族の二系統が存在する証拠は、漢字と呼ばれる文字の読み方にも名残を残している。

例えば原(はら)の文字は、呉族(ポリネシア)系の「海の民」が原(バル)が「はら」と読み、加羅族(中国雲南省発祥)系の「農耕民族(山の民)」の原(ユェン)が「げん」と読むのではないだろうか?

それなら海彦・山彦の民話伝承も、符合して来るのである。

加羅族(からぞく/山岳民族)】へ戻る。
単一日本民族の成立過程大略】へ戻る。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-04-25 00:46 | Comments(0)  

加羅族(からぞく/農耕山岳民族)

加羅族(からぞく)は、朝鮮半島から日本列島に渡って来た渡来部族であるが、元は中国雲南省辺りの発祥と考えられる農耕山岳民族である。

列島の民のルーツの内、農耕山岳民族(天一族・加羅系)の発祥の地は、遠く「中国大陸南部、雲南省」と言われている。

雲南省の人々の稲作文化、それにまつわる風習、伝承等、数え上げれば限がないほど、日本のそれぞれに共通するものが多い。

その農耕農耕民族(天一族・加羅系)が長い歳月をかけて北上し、中国各地に足跡を残しながら朝鮮半島を南下、任那(みまな/加羅族)国を造り、更に対馬を経て日本列島の山陰地方と九州北部に上陸して集落を築き、やがて邪馬台国を形ち造って行った。

雲南省の家族体系は昔から女系であり、家は女性が継ぎ、男性の夫は生家から通って来る「通い婚」だった。

この「通い婚」の風習は、日本列島に於いて平安初期の貴族社会で見られるものである。

つまり家の主は女性だったから、天一族が農耕民族(加羅系)ならば女系女王(卑弥呼)を頭にいただくのが当たり前ではないだろうか。

その天一族も、朝鮮半島に至るまでに農耕民族(加羅族)として呉の国(今の中国福建省などを中心とした国)などで大陸文明を蓄えてから、陸路や海路を列島に渡って来た様だ。

一方で、隼人系の「呉族」の様に一旦中国大陸で大国(呉帝国)を作り、文明を携えて一気に東シナ海を渡り日本列島に渡来して来た者達もいる。

今に伝わる浦島竜宮伝説などは、その名残とされている。

この農耕民族(天一族・加羅系)と海洋民族(隼人族・呉族系)と言う二つのまったく違う民族が、幾つかのルートを経て九州の地で遭遇し、生きる為の土地をかけて覇権を争う。

この争いの期間が、神代の時代だったのだ。

つまり、日本列島に渡来した呉族系海洋民族が奴国(なこく)を造り、その奴国(なこく)は一時期は邪馬台国に圧迫されたが、やがて盛り返して海洋民族国家・狗奴国(くなくに)が成立、その狗奴国(くなくに)が勢力をまして邪馬台国を圧迫、誓約(うけい)に到って両者が統一を為して日本列島の西半分が神武朝大和朝廷の基礎と成ったのである。

日本列島の氏族が呉族(ポリネシア)系部族と加羅族(中国雲南省発祥の山の民)系部族の二系統が存在する証拠は、漢字と呼ばれる文字の読み方にも名残を残している。

例えば原(はら)の文字は、呉族(ポリネシア)系の「海の民」が原(バル)が「はら」と読み、加羅族(中国雲南省発祥)系の「農耕民族(山の民)」の原(ユェン)が「げん」と読むのではないだろうか?

それなら海彦・山彦の民話伝承も、符合して来るのである。

呉族(ごぞく/海洋民族)】へ続く。
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◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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国造(くにのみやっこ・こくぞう)】に飛ぶ。
倭国大乱(わこくたいらん)と誓約神話(うけいしんわ)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-04-24 00:38 | Comments(0)  

院政政治(いんせいせいじ)

院政(いんせい)とは、在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治で、特に、千八十六年の白河上皇の時代から平家滅亡の千百八十五年頃までを「院政時代」と呼ぶ事があり、院政を布く上皇は「治天の君」とも呼ばれた。

但し、この院政と言う表現は後の世の命名で、天皇が余力ある内に引退し「若き子(孫)の天皇を後見する」と言う意味では院政のめばえは持統天皇・元正天皇・聖武天皇などから見られる。

当初は大兄制(同母兄弟中の長男)であり皇位継承が安定していなかった為、譲位と言う意思表示に拠って意中の皇子に皇位継承させる為にとられた方法と考えられている。

この太上天皇(上皇)が天皇に代わって政務を直接行う形態は、平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や円融天皇などにも見られ、これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。

その後、「神の意向で統治する」と言う精神的統合の象徴である天皇家の存在から、当時はまだ強い王権の状態を常に維持する為の政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分で在った。

また平安時代中期には、血統至上主義に在る皇統として虚弱精子劣性遺伝の影響を受け、幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮する為の若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかった為に、父系によるこの仕組みは衰退して行く。

そして代わりに、母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家流が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治(せっかんせいじ)が隆盛して行く事になる。

その藤原北家流の摂関政治(せっかんせいじ)は、千六十八年(治暦四年)の皇統を一条天皇系へ統一すると言う流れの中で行われた後三条天皇(七十一代)の即位に拠って揺らぎ始める事となる。

後三条天皇(七十一代)は、宇多天皇(五十九代)以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない百七十年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた藤原北家流摂関政治が成立しない事態を迎えた。

即位四年後、後三条天皇は第一皇子・貞仁親王(さだひとしんのう/七十二代・白河天皇)へ生前譲位し、その直後に病没してしまう。

後三条天皇の後を受けた白河天皇の母も、摂関家ではない閑院流出身で中納言・藤原公成の娘、春宮大夫・藤原能信の養女である女御藤原茂子で在った為、白河天皇は、関白こそ置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。

十四年後の千八十六年、白河天皇は当時八歳の善仁皇子(たるひとのみこ/七十二代・堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となって堀河幼帝の後見を理由に白川院と称して引き続き政務に当り、これが院政の始まりであるとされている。

千百七年(嘉承二年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が四歳で即位し、またも白河上皇は院政を続け白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の国王として君臨する政治体制が成立した。

白河天皇(しらかわてんのう/後に上皇・法皇)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-04-23 01:01 | Comments(0)  

摂関政治(せっかんせいじ)

摂関(せっかん)とは、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)の二つの役職の事で、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や百官の最上位・関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態を摂関政治(せっかんせいじ)と呼ぶ。

天皇君主制を取る国家に於いて、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行う事ができない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)事、またはその役職を摂政(せっしょう)と言う。

摂政(せっしょう)には、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、或いは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。

この場合の摂政(せっしょう)は、君主の成人や病気の快癒に拠って解任され得る性質のものである。

しかし関白(かんぱく)はそうした一時的処置と違い、律令に本来規定された官ではない令外官であり、実質的に公家の最高位(百官の最上位)としてズバリ天皇が健在で在っても代わりに政治を行う職である。

関白位(かんぱくい)は、形式上は天皇が実務を任せる形ではあるが治世運営上の実質的最高責任者でその権限は強力だった。

藤原北家・良房流一族が、代々この摂関政治(せっかんせいじ)を世襲する足掛かりを築いたのが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)の父・追贈太政大臣・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ/右大臣・藤原内麻呂の子)である。

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が、八百十年に嵯峨天皇(さがてんのう/五十二代)の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任した事に家勢の上昇が始まった。

その冬嗣(ふゆつぐ)の子・藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、「承和の変」に於いて伴・橘両氏及び藤原式家を失脚させて八百五十七年に人臣として初めて太政大臣に就任する。

また、良房(よしふさ)は文徳天皇(もんとくてんのう/五十五代)に娘を嫁がせ、その結果五十六代・清和天皇(せいわてんのう)が誕生し、良房(よしふさ)は天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築き、八百六十六年には「応天門の変」に於いて伴・紀両氏を失脚させ、人臣として初めて摂政(せっしょう)へと就任する。

この藤原良房(ふじわらのよしふさ)の、娘を天皇家に嫁がせて次代の天皇と母系的繋がりを持つ手法は藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなって摂関政治(せっかんせいじ)体制を確立して行った。

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by mmcjiyodan | 2010-04-22 01:36 | Comments(0)  

氏族(うじぞく)

縄文時代の日本列島には、樺太から来た原人とその後に黒潮に乗って北上して来た稲作系(熱帯ジャポニカ種)原ポリネシア人、そして早い時期に中国大陸南部・雲南省辺りに発祥し朝鮮半島経由でやって来た原加羅族系人に拠って「縄文人」が成立した。

その後、紀元前千五年前からの五百年間の頃より日本列島に中国大陸・朝鮮半島などから一族を率いた渡来移住者が多数、勝手に土地を占拠して定着し始め、小国家を形成する。

この小国家が倭の国々で、この時渡来した移住者一族が「縄文人」を制圧して上位に立ち、「縄文人」を未開人の「蝦夷族(えみしぞく)」と呼んで俘囚化し、自らは「天孫族(てんそんぞく)」と言う支配階級を形成して君臨する。

「縄文人」と後期に渡来した移住者一族との間で混血が進み「弥生人」が形成される中、小国家群である倭の国々の国主(くにぬし・国造/くにのみやっこ)が統一に向かって大国主(おおくにぬし・大王/おおきみ)を頂き、大和朝廷の成立を見て国家の体裁を整えて行く。

やがて、その支配階級を形成する自称・天孫族(てんそんぞく)が支配階級の固定化を図り、「氏姓制度(しせいせいど)」を制定して氏族(うじぞく)となり、氏族(うじぞく)の下に良民と賤民(せんみん・非人/奴婢・俘囚)の階級社会を成立させる。

この氏姓制度(しせいせいど)に拠って、日本列島に血統至上主義が支配する社会体制が成立した。

尚、近年の「共通の祖先を持つ血縁集団」と言う氏族(うじぞく)の解釈は、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍(じんしんこせき)発効以後の事である。

氏神(うじがみ・氏上)】へ続く。

名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-04-21 02:43 | Comments(0)