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宇治県主(うじあがたのぬし)と猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)

列島の民(日本人)は、「先住民(縄文人)渡来系部族の混血だ」と言われていて、天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった。

神話に於いては、猿田彦が天孫降臨を感知して雲に上って上天し、「途中まで出迎えた(渡来を歓迎?)」とされ、その時天孫(渡来人・進入部族)は猿田彦に対し天宇受売命を「使者として交渉させた(誓約(うけい)の性交による群れの一体化の儀)」と言う。

実はこれらの神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。


京都府宇治市の地名や宇治川右岸の宇治山田町に鎮座している世界文化遺産の宇治上神社と直ぐ近くに在る宇治神社に謂れを残すのは古代の豪族・宇治県主(うじあがたのぬし)の存在である。

宇治県主(うじあがたのぬし)は、猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)・大田命(サルダヒコノミコト)の末裔とされる宇治土公氏(うじのつちぎみし・うじとこし)の事である。

この宇治土公氏(うじのつちぎみし・うじとこし)の名から、猿田彦(サルダヒコ)大神・大田(サルダヒコ)命が土公(つちぎみ)=縄文人(蝦夷)、つまりニニギノミコトの天孫降臨に際して出迎えた先住神で在る事がはっきり判る。

つまり宇治県主(うじあがたのぬし)=猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)は、畿内に先住していた蝦夷族の部族長・土公(つちぎみ)である。

猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)との誓約(うけい)を介して大和朝廷(ヤマト王権)下で臣従し、宇治県主(うじあがたのぬし)の地位(官職)を得たのではないだろうか?

余談であるが、京都・宇治上神社近くに県(あがた)神社が在り、古くは大和政権下に於ける宇治県主(うじあがたのぬし)に関係する神社と見られている。

その宇治県(うじあがた)神社の祭礼「県(あがた)祭り」は暗闇祭りで俗に「種貰い祭」とも言われ、祭礼で行き会った多くの男女が性交に及び、妊娠すれば「神から子種をさずけられた」とした祭りだった。

この奇祭の発祥が、猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)と天宇受売命(あめのうずめのみこと)との誓約(うけい)の故事に倣(なら)ったものである事は容易に想像が着く。

尚、現在の宇治土公氏(うじのつちぎみし・うじとこし)の子孫は、三重県伊勢市宇治浦田の地に鎮座する「猿田彦神社」の宮司家として永らえている。

また、その猿田彦神社境内には猿田彦(サルダヒコ)大神の后神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀る「佐瑠女神社(さるめ)」が鎮座しており、芸能の神・縁結びの神として崇敬されている。

天宇受売命(あめのうずめのみこと)】に戻る。

詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2010-05-31 00:30 | Comments(0)  

県主(あがたのぬし)

律令制が導入される以前の大和朝廷(ヤマト王権)の職種・姓(かばね)の一つに県主(あがたのぬし)が在る。

県(あがた)は大和朝廷(ヤマト王権)が直轄する地方行政区分の一つで、県(あがた)は、国の下部に有った行政区分と言われているが、古くはその地方の豪族が治めていた「小国家群の範囲で在った」と考えられ、「古くは国と県を同列に扱っていた」とする説もある。

つまり、前身は日本列島への渡来部族が勝手に創った小国家群・倭の国々で、その大和朝廷(ヤマト王権)統合過程で県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやつこ)を称した。

しかしながら、県(あがた)の詳細は律令国が整備される前の行政区分である為、明確とはしていない部分が多い。

県主(あがたのぬし)の「ヌシ」の称号は、国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)の「ミヤツコ」よりも古く、在地首長の子弟が勤める一種の朝廷出仕・「名代(なしろ)・子代(こしろ)の制」よりも古めかしい奉仕形態をとる事から、「古墳時代初期(三~四世紀)頃に成立した」と考えられている。

地方の豪族がそのまま任じられたと言われている国造(くにのみやつこ)とは違い、県主(あがたのぬし)は大和朝廷(ヤマト王権)への忠誠度が高い事から、大和朝廷(ヤマト王権)支配体制の代権者として「その地方を治める体裁に在った」との考えも見られる。

県主(あがたのぬし)は西日本に集中し東日本には少なく、大和朝廷(ヤマト王権)の支配が確立する時期が遅かった東日本では、ヤマト王権に帰属した豪族達にその支配地域をそのまま治めさせ、ほぼ全権を委任する国造(くにのみやつこ)として据え置かれたと見られている。

その東日本に対し、朝廷(王権)の確立が早かった西日本では豪族の支配地域を大和朝廷(ヤマト王権)が掌握する支配体制の整備が早くから行われた為、「県主(あがたのぬし)が西日本に多かった」と考えられる。

ただしそれは、姓(かばね)・県主(あがたのぬし)がいつの時点で大和朝廷(ヤマト王権)・大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)の臣下となったかで、県主(あがたのぬし)の地位はまったく違う見方に成る。

異説として、小国家群・倭の国々の内で特に有力な国主(くにぬし/臣王)の中から大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)が選出され、西日本に大和朝廷(ヤマト王権)が成立した時点で、西日本と政治の中心となる機内周辺に県(あがた)を設け、一部が国替えして県主(あがたのぬし)に成った事も考えられる。

八色の姓の導入や律令制度が導入された後も姓(かばね)自体は存続していた。

近代に到っても県主(あがたのぬし)の姓(かばね)が使われている例があり、京都・賀茂神社鴨県主(かもあがたのぬし)家などが主要な例である。

古墳時代(こふんじだい)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-05-30 04:38 | Comments(0)  

守護領国制と守護大名(しゅごだいみょう)

守護は鎌倉時代に発生し、鎌倉幕府に於ける守護(しゅご)の元は「惣追捕使」と言い諸国に置いたが、間もなく惣追捕使は「守護」と改められた。

御成敗式目にその規定があり、御家人の義務である「鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕」と定められた大犯三ヶ条の検断、及び大番役の指揮監督と言う軍事・警察面に権能が限定されていた。

当時はまだ、国司の権限である国衙行政(こくがぎょうせい)・国衙領支配(こくがりょうしはい)に関与する事は禁じられていた。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙(こくが)に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。

後醍醐天皇に拠る建武の新政足利尊氏の挙兵に拠る南北朝(吉野朝)の騒乱を経て室町幕府が成立すると、新幕府も鎌倉幕府の守護制度を継承する。

為に当初、守護の職権については鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、武士間の所領紛争に伴って発生した所有を主張する為に田の稲を刈り取る実力行使・刈田狼藉などが多発する。

室町幕府は、千三百四十六年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)に国内統治を一層安定させる為、「刈田狼藉の検断権」と守護が幕府の判決内容を現地で強制執行する「使節遵行権」を新たに職権に加えた。

これらの検断権を獲得した事により、守護は国内の武士間の紛争へ介入する権利と司法執行の権利の両権を獲得し、また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も、次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されて幕府支配体制が確立して行く。

千三百五十二年(南朝:正平七年、北朝:文和元年)将軍・足利尊氏と執事・高師直(こうのもろなお)の主従体制と政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する将軍弟・足利直義の両者が対立する観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起こる。

室町幕府は、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)に於ける軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領(こくがりょう/公領)から年貢の半分を徴収する事のできる半済の権利を「守護」に与える。

守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は次第に恒久化されて各地に拡がり、やがて従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、この後、守護による荘園・国衙領(こくがりょう)への侵出が著しくなって行く。

守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになり、この守護請に拠って、守護は土地自体を支配する権利・下地進止権(したじしんしけん)を獲得して行く。

さらに守護は、朝廷や幕府が臨時的な事業(御所造営など)のた為に田の面積に応じて賦課した段銭や、家屋ごとに賦課した棟別銭の徴収を行う事とされていて、この徴収権を利用して独自に領国へ段銭・棟別銭を賦課・徴収し、経済的権能をますます強めて行く。

つまり守護は、強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙(こくが)の組織を吸収し、国衙の在庁官人を被官(家臣)として組み込むと同時に、国衙領(こくがりょう/公領)や在庁官人の所領を併合して、守護直轄の守護領(しゅごりょう)を形成した。

形成した守護直轄の守護領(しゅごりょう)は強い経済力をもって、在庁官人の他、国内の地頭・名主と言った有力者(当時、国人と呼ばれた)をも被官(家臣)にし、土地と人の両面で、国内に領域的かつ均一な影響力(一円支配)を強めて行く。

こうして誕生した守護大名(しゅごだいみょう)は、室町時代に一国内または数ヵ国内に領域的・一円的な軍事・警察権能、経済的権能の支配を獲得した守護と言う職制を指し、守護大名による領国支配の体制を守護領国制と言う。

その幕府に於ける守護大名の権能は室町中期までに肥大化し、有力な守護大名には足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者が顕われて、室町幕府は言わば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。

有力守護は、幕府に出仕する為に継続して在京する事が多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置き、さらに守護代も小守護代を置いて多重の支配構造を形成して行った。

応仁の乱の前後から守護大名同士の紛争が目立って増加して室町幕府は統治能力を失い、また国人層の独立志向(国人一揆など)が顕著に現れるようになって守護大名の権威の低下を招き、守護に取って代わった守護代・国人は、戦国大名へと変質・成長して行く。

この変動期に、一部領国支配の強化に成功した守護も戦国大名へと変質して下剋上の戦国時代を迎えたのである。

守護地頭制(しゅごじとうせい)】に戻る。

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名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭】に飛ぶ。
権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-05-29 00:17 | Comments(0)  

名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭

平安時代に起こった武士台頭の背景は名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)である。

名田(みょうでん)または名(みよう)は、日本の平安時代中期から中世を通じて荘園公領制に於ける支配・収取(徴税)の基礎単位である。

この平安時代中期頃には、律令制の解体が進展し百姓(注・農民ではない。)の中に他から田地を借りて耕作し、田堵(たと)と呼ばれる田地経営をおこなう有力百姓層が出現して富の蓄積を始めた。

有力百姓の田堵(たと)には古来の郡司一族に出自する在地豪族や土着国司などの退官した律令官人を出自とする者が多く、彼等は蓄積した富を持って、墾田開発・田地経営などの営田活動を進めた。

この平安時代、朝廷政府は土地(公田/くでん)を収取の基礎単位とする支配体制を構築していたが、律令制を支えていた戸籍・計帳の作成や班田の実施などの人民把握システムが次第に弛緩して行き、人別的な人民支配が存続できなくなった。

そうした収取体制の弱体化を改革する為に、朝廷政府は度々荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発し、まず国衙(こくが)の支配する公田が、名田(みょうでん)または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成される。

この名田(みょうでん)を基礎とする支配・収取体制を名体制(みようたいせい)と言う。

国衙(こくが)領に於いて公田(くでん)から名田(みょうでん)への再編成が行われると、田堵が名田経営を請け負う主体に位置づけられるようになる。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。

更に荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵(たと)が請け負うようになり、田堵は、荘園・公領経営に深く携わるようになって行き、荘官や名主の地位を得るに到る。

その下級貴族・百姓の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏を名乗る枝の者が圧倒的に多くなり、混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ/なあざ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となった。

田堵(たと)は荘園・公領経営に深く携わり、その経営規模に拠って大名田堵(だいみょうたと)や小名田堵(しょうみょうたと)などと呼ばれ、荘園公領制の成立に非常に大きな役割を果たした。

尚、荘園・公領経営期から名田経営者一族が力を着けて自営を始める後の守護領国制の守護大名(しゅごだいみょう)や戦国期に、半国、一国、数ヵ国を領有する大名の由来は「大名田堵(だいみょうたと)から転じた」で、たまに見かける「大いに名が轟くから大名と言う説」は怪しい解説である。

一方で「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に、田堵(たと)が対抗する為の自衛武力の整備が始まっている。

その群盗の活動は九世紀を通じて活発化した為、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。

盗賊の取締りで名を上げた勲功者が武士の初期原型となり、彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行った。

つまり平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、名田経営を行う下級貴族・百姓の私兵組織として発展し、その財力と武力の相乗効果で力を蓄え、中央の朝廷政権の制御は衰えた。

そしてこの私兵組織を保有する名田経営者一族が、その組織の維持と拡大の為に共同して武力活動を行い、俘囚(奴婢身分)の反乱や、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱前九年の役後三年の役治承(じしょう)のクーデターなどを経て主従関係が成立し、武門の政権・鎌倉幕府が成立するのである。

庄官と荘官は同じ意味で、庄(荘園)で、領主の命を受けて年貢の徴収・上納、治安維持などの任務にあたった者を庄官(荘官)と呼び、荘司と言う呼称もある。

つまり江戸期以前の庄(荘園)経営に於いて「庄屋」は庄官の居宅であり、庄(荘園)領主が地方行政を行う為の役所を兼ねていた。

守護地頭制(しゅごじとうせい)】に続く。
権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)】に戻る。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-05-28 00:36 | Comments(0)  

三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)

三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨(てんそんこうりん)の時に、天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承して来た三種の宝物である。

三種の神器(宝物)とは、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)の事を指す。

勿論この神器(かむだから/じんぎ)には夫々(それぞれ)に神話伝承が在る。

八咫鏡(やたのかがみ)は天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)に於いて、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すツール(道具)として使われた。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、同じく岩戸隠れに際して玉造部(たまつくりべ)の祖神・玉祖命(たまのおやのみこと/豊玉神・とよたまのかみとも言う)が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)は、須佐之男命(すさのうのみこと)が出雲・簸川上(ひのかわかみ)で倒した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出て来たとし、その時の名前は都牟刈の太刀(つむかりのたち/偉大な力を持つ太刀)であった。

剣は須佐之男命から天照大神に奉納され、天皇家に天照大神の神体として八咫鏡とともに手渡された事になっている。

八咫鏡(やたのかがみ)は伊勢神宮の皇大神宮に、天叢雲剣天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は皇居の御所に安置されているとされている。

また皇居には、八咫鏡と天叢雲剣の形代があり、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所(かしこどころ)に、天叢雲剣の形代は八尺瓊勾玉とともに御所の剣璽の間に安置されているとされる。


皇位そのものの証明は三種の神器の所持を以て挙げられる為、南北朝正閏論に於いては神器が無いまま即位した北朝の正当性が否定される根拠の一つとなっている。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-05-27 01:06 | Comments(0)  

単一日本民族の成立過程大略

現在の日本人は、確かに単一民族である。

しかし過去に多民族国家だった時期が存在し、それを誓約(うけい)の概念と修験山伏の活躍に拠って単一民族にまとめあげた事実が在った事を、中途半端に隠蔽してはならない。

日本史には虚と実が混在しているのだ。

縄文時代の日本列島には樺太から来た原人とその後に黒潮に乗って北上して来た稲作系(熱帯ジャポニカ種)原ポリネシア人、そして早い時期に中国大陸南部・雲南省辺りに発祥し、朝鮮半島経由でやって来た原加羅族系人に拠って先住民族「蝦夷(えみし/縄文人)」が成立した。

その後、紀元前千五年前からの五百年間の頃より日本列島に中国大陸・朝鮮半島などから一族を率いた渡来移住者が多数、勝手に土地を占拠して定着し始め、小国家を形成する。

この小国家が倭の国々で、この時渡来した移住者一族が「縄文人」を制圧して上位に立ち、「縄文人」を未開人の「蝦夷族(えみしぞく)」と呼んで俘囚化し、自らは「天孫族(てんそんぞく)」と言う支配階級(搾取階級)を形成して君臨する。

この渡来部族には主に二つの民族系統、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)呉族(ごぞく/海洋民族)があり、一時日本列島は縄文人(蝦夷/えみし)を含め三つ巴の多民族の地だった。

日本列島はその後、渡来部族・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と渡来部族・呉族(ごぞく/海洋民族)が、神話の時代として今に伝わる覇権争いと誓約(うけい)の儀を経て西日本で大和朝廷(ヤマト王権)を成立させる。

ネイティブジャパニーズ・(えみしぞく/原住縄文人)は日本史から抹殺され,、加羅・呉の両族は日本列島に於ける支配権を確立し氏姓制度を制定して血統至上主義の氏族として永く支配階級の独占をする事に成る。

その後の多民族同化過程が、日本民族の誕生と単一化の歴史であるが、一方で天皇家を始めとする皇族・貴族(公家)・武士・高級神官・高級僧侶などの氏族は、血統至上主義に拠る虚弱精子劣性遺伝に悩まされ人口は抑制される。

もう一方の庶民は共生村社会夜這い文化で優勢精子の選択機会に恵まれて人口増加する構図の中で、支配階級の氏族人口と被支配階級の庶民の比率は、ほぼ五パーセント対九十五パーセント(非人約五パーセントを含む)を永く保って来た。

つまり見事な人口比率制御のメカニズムが働いていたのだが、これは偶然な事だろうか?

それとも桓武帝祀り事(政/まつりごと)、或いは陰陽修験道の呪詛なのだろうか?

いずれにしても支配階級(搾取階級)は全体の五パーセントくらいが理想的な比率であるから、多少氏族(搾取階級)の血が混ざっているにせよ、残念ながらいつの時代でも国民のほとんどが被支配階級(被搾取階級)身分だった筈で、言い換えれば「搾り出せば誰でも祖先に氏族を持つ」とも言える程度の話しである。

従って、日本を「武士道の国だ」と観念的に主張する連中は「どうか?」と想うし、そんなジュピター・コンプレックス(被支配の願望)を「至上の思想」と想う事こそ「被支配階級(被搾取階級)の根性」と言うものである。

それにしても現代日本では中央役人も地方役人も膨張し、挙句に天下りと称して擬似公務員もどきが大量発生して正常な支配階級(搾取階級)と被支配階級(被搾取階級)の比率を壊してしまった。

搾取階級の比率が増えれば国が遣って行けなくなるのは自明の理で、現代日本の最大の病根である。

古墳時代(こふんじだい)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-05-26 02:12 | Comments(0)  

別当(べっとう)

大和政権に於いて別当(べっとう)は、読んで字の如く「別に当てる」と言う令外官の官職名である。

太政大臣(一位相当/非常設空位あり)、左大臣・右大臣(二位相当)、大納言(正三位相当)などの太政官、中納言と参議を加え議政官などの本官を別に持つ者が、他の管轄の役職を持つ場合にそれを補佐する役職名として別当を使い、 律令制度の下で令外官として設置された検非違使庁(けびいしちょう)蔵人所(くろうどどころ)などの兼職担当責任者を指す。

機関の統括責任者ではあるが、兼職であるから所内部の実務については官職・頭(かみ)が指揮しており別当(べっとう)はその運営に直接関与しなかった。

例えば、検非違使(けびいし)別当は検非違使庁そのものは統括するが検非違使(けびいし)ではなく、同様に蔵人所別当(くろうどどころべっとう)も蔵人所を統括するが蔵人(くろうど)ではなかった。

別当は朝廷内に在っては対外的な担当責任者であるとともに、天皇と太政官との連絡にあたったもので、後には一部の寮・司にも別当が設置された。

尚、朝廷組織とは別に、鎌倉幕府に於いて武官の総責任者(長官)を侍所別当(さむらいどころべっとう)、文官の総責任者(長官)を政所別当(まんどころべっとう)、公文書の総責任者(長官)を公文所別当(くもんじょべっとう)とした役職名も存在した。

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by mmcjiyodan | 2010-05-25 00:12 | Comments(0)  

蔵人(くろうど/くらんど)

蔵人(くろうど/くらんど)とは天皇の秘書的役割を果たす官職で、日本の律令制下の令外官の一つである。

そもそもの蔵人所(くろうどどころ)の設置には、八百九年(大同四年)に即位した嵯峨天皇(さがてんのう)と皇位を譲位した兄・先帝・平城上皇との確執が背景に在った。

先帝・平城上皇は、平城太上天皇の変(薬子の変/くすこのへん)を起こすなど皇位復帰を画策していた。

為に嵯峨天皇は、翌八百十年(大同五年)に兵を動かして平城上皇を出家に到らしめる。

また、平城上皇側に機密がもれないようにする目的で、新たな秘書役として藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を蔵人頭に、清原真野(きよはらのまの)らを蔵人に任命したのが始まりである。

蔵人所の名目上の責任者「別当(べっとう)」は大臣一名が兼任し、詔勅を各省に伝達する役目だった。

実務上の責任者「蔵人(くろうど)の頭(とう/かみ)」には、二名が選任された。

文官として太政官職の中弁から一名が補任されて「頭弁(とうのべん)」と呼ばれ、もう一名は武官として近衛中将から補任され「頭中将(とうのちゅうじょう)」と呼ばれた。

蔵人(くろうど)が控える蔵人所(くろうどどころ)は、内裏校書殿(だいりきょうしょでん)の北部に置かれ、元々天皇家の家政機関として事務を行う場所の事を指し、書籍や御物の管理、また機密文書の取り扱いや訴訟を扱った。

何しろ蔵人(くろうど/くらんど)は天皇の秘書的役割(側役・側近)の立場で、良くも悪くも天皇の意向に直結する部署である。

やがて蔵人所(くろうどどころ)は、訴訟にこそ関与しなくなるが侍従や少納言局や主鷹司など他の組織の職掌を奪って行き、詔勅、上奏の伝達や、警護、事務、雑務等殿上に於けるあらゆる事を取り仕切る機関となった。

平安時代中期になると内豎所・御匣殿・進物所・ 大歌所・楽所・作物所・御書所・一本御書所・内御書所・画所など「所」と言われる天皇家の家政機関一切をも取り扱うようになって権力は集中して行く。

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by mmcjiyodan | 2010-05-24 04:49 | Comments(0)  

検非違使(けびいし)

検非違使(けびいし、けんびいし)は律令制下の令外官の一つで、「非違(びい/非法・違法の意)を検察する」の意味し、云わば現在の警察と裁判所を兼務した検非違使庁が設けられ、京都の治安維持と民政を所管した官人である。

凡そ八百二十年代頃に設置され、当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務し、官位相当は無いがこの職が五位から昇殿が許され殿上人に出世となる目安となっていた。

四等官の長官(頭/カミ)に相当する「別当」、四等官の次官(助/スケ)に相当する「佐(スケ)」、四等官の判官(允/ジョウ)に相当する「大尉(ダイジョウ)」、四等官の判官(ジョウ)に相当する「少尉(ショウジョウ)」、四等官の主典(属/サカン)に相当する大志、少志などの官職からなる組織が編成される。

令外官ながら徐々に権限が強くなり、司法を担当していた刑部省、警察・監察を担当していた弾正台、都に関わる行政・治安・司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使(けびいし)は大きな権力を振るうようになる。

平安時代後期には平安群盗などの出没もあり、検非違使(けびいし)が令制国にも置かれ、刑事事件に関する職権行使の為に律令とはちがった性質の「庁例(使庁の流例ともいわれた慣習法)」を適用するようになった。

また、この頃から検非違使庁に於ける事務は別当の自宅で行われるようになった。

しかし平安時代末期になると摂関政治(せっかんせいじ)が弱体化し、法皇・上皇の院政(いんせい)に移行した為に御所の軍事組織である北面武士に取って代わられる。

治承のクーデター・寿永の乱の折、後白河上皇源義経(みなもとよしつね)検非違使に叙任し、兄・源頼朝(みなもとよりとも)との分断に使われ、この検非違使叙任を持って義経(よしつね)が「判官」と呼ばれた事は有名である。

鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると検非違使庁は次第に弱体化し、室町時代には幕府が京都に置かれ侍所(さむらいどころ)に権限を掌握される事になった。

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by mmcjiyodan | 2010-05-23 22:32 | Comments(0)  

八岐大蛇(やまたのおろち)伝説

八岐大蛇(やまたのおろち)伝説は、古事記日本書紀に記述が残る須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に関わる伝承で、その伝説の舞台となったのが、須佐之男(スサノオ)縁(ゆかり)の地・出雲国を中心にした山陰地方一帯である。

高天原を追放された須佐之男(スサノオ)が降り立ったとされる地が鳥髪(とりかみ、現奥出雲町鳥上)とされる天孫降臨伝説を、日本列島への渡来と解釈し、降り立ったが上陸したであれば高天原は出立の地である。

須佐之男(スサノオ)降臨の地が島根県東部および鳥取県西部を流れる一級水系・斐伊川(肥河/ひのかわ)上流の鳥髪(とりかみ、現・奥出雲町鳥上)の地で、阿武郡・須佐町と出雲国(現・島根県簸川郡)佐田町・須佐(須佐神社)に近いのだ。

その辿り着いた鳥髪(とりかみ)の地で、斐伊川(肥河/ひのかわ)の川上から箸が流れて来た事から須佐之男(スサノオ)が川を遡ると、美しい娘を間にして老夫婦が泣いているのに出食わす。

夫婦の名はオオヤマツミの子・アシナヅチとテナヅチであり、娘は櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)と言った。

元々は夫婦に八人の娘がいたが、毎年、古志から八岐大蛇(ヤマタノオロチ/八俣遠呂智、八俣遠呂知)がやって来て娘を食べてしまう。

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の住む「古志」については、越国(こしのくに)説、出雲国古志郷説、吉備地方を古志としていた説などが考えられる。

今年もオロチのやって来る時期が近付き、最後に残った末娘の櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)も「このままでは食べられてしまう」と泣いていた。

須佐之男(スサノオ)は櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)が美しかったので、比売(ヒメ)を妻として貰い受ける事を条件に、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治を請け負う。

櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)を隠す為、須佐之男(スサノオ)は比売(ヒメ)を櫛に変えて自分の髪に挿し、アシナヅチ・テナヅチの両親に強い酒(八塩折之酒)を醸し、垣を作って八つの門を作り、それぞれに醸した酒を満たした酒桶を置くように言う。

準備を終えて待っていると八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が遣って来て、八つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。

やがて大蛇(オロチ)が酔ってその場で寝てしまうと、須佐之男(スサノオ)は十拳剣を抜いてオロチを切り刻んだ。

須佐之男(スサノオ)が大蛇(オロチ)の尾を切り刻んだ時、ガチンと剣の刃が欠ける。

剣で尾を裂いてみると大刀が出て来たので「これは不思議なものだ」と思い、天照大神(アマテラスオオミカミ)にこの大刀を献上した。

この時大蛇(オロチ)の体内から出て来た大刀が、三種の神器の一つ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、後の草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。

見事、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した須佐之男(スサノオ)は、櫛として髪に挿していた櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)を娘の姿に戻し妻に娶る。

須佐之男(スサノオ)は、比売(ヒメ)と暮らす場所を求めて出雲の須賀の地へ行き、そこで「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と詠んだと伝えられる。

櫛名田(クシナダ)の櫛(クシ)は髪飾りで、天宇受売(アメノウズメ)の宇受売(ウズメ)も髪飾りを意味し、この頃の神話女性には象徴的に髪飾りが登場する。

また、須佐氏(すさうじ)=稲田氏(いなだうじ)に拠れば、櫛名田比売(クシナダヒメ)の別名・奇稲田姫(クシ・イナダヒメ)が見事に符合して来るのである。

須佐氏(すさうじ)=稲田氏(いなだうじ)】に戻る。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-05-22 22:29 | Comments(0)