<   2010年 06月 ( 30 )   > この月の画像一覧

 

伊予戦国三武将・宇都宮氏、河野氏、西園寺氏

戦国時代末期、肱川嵐(ひじかわあらし)の大洲市と内子町は喜多郡と呼ばれ、領主は宇都宮豊綱に代表される伊予宇都宮氏である。

伊予国・宇都宮氏は下野国・宇都宮氏と同族で、宇都宮氏の分家の一つであり喜多郡に勢力を築いた。

戦国時代の宇都宮氏当主・宇都宮豊綱(うつのみやとよつな)は大洲城城主で在ったが、当時の伊予国内では道後方面を支配する守護の河野氏、宇和郡の西園寺氏に挟まれる位置にあり、国外からも土佐の公家大名・一条氏、豊後の大友氏、中国地方の大内氏、後に毛利氏と言った諸勢力が伊予への大きな関わりを持って、さながら伊予の国は戦国期の縮図だった。

宇都宮氏の宿敵・宇和郡の戦国大名・西園寺公広(さいおんじきんひろ)は伊予の黒瀬城主で、初陣は千五百三十七年(天文六年)の土佐国・一条兼定攻めである。

西園寺公広(さいおんじきんひろ)は千五百六十八年(永禄十一年)、毛利氏、河野氏と手を結んで一条兼定、宇都宮豊綱、津野氏を攻めて勝利し、四年後の千五百七十二年(元亀三年)に再び一条氏を攻めたが、逆に一条氏と縁戚関係に在った大友宗麟の攻撃を受けて大敗している。

もう一方の宇都宮氏の宿敵・伊予国の道後方面を支配する守護の河野氏の出自は古く、ニギハヤヒ命の後裔「越智氏から出ている」とされる。

守護の河野氏当主・河野通宣(こうのみちのぶ)は家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。

来島水軍・来島村上氏は戦国期に河野氏に臣従し、重臣となって同じ重臣の平岡房実と遠征を繰り返し鎮圧に及んだが、もはや河野通宣(こうのみちのぶ)に伊予国内を独力でまとめる力もなかった。

河野通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景(こばやかわたかかげ)を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している。

宇都宮氏・宇都宮豊綱は西園寺氏との戦いでは、西園寺実充の子公高を討ち取り、その後、姻戚関係にあった一条氏と結んで河野氏との対立を深めた。

その後宇都宮豊綱は、千五百六十八年(永禄十一年)に毛利氏の援軍を受けた河野氏との鳥坂峠の合戦にて大敗を喫し、毛利方に捕らえられ、千五百八十五年(天正十三)に備後で病没している。

一方の伊予西園寺氏・西園寺公広は、千五百八十四年(天正十二年)土佐国公家大名・一条氏を下克上で倒して急速に勢力を拡大して来た長宗我部元親の猛攻を受けて降伏する。

長宗我部元親の臣従した西園寺公広だったが、翌千五百八十五年(天正十三年)四国平定を図る豊臣秀吉配下の小早川隆景に攻められ降伏し、新領主の小早川隆景に属し居城の黒瀬城のみを残される。

その後小早川隆景の配下として九州の役に従軍するなどしたが、千五百八十七年(天正十五年)新たに宇和の領主(大州七万石)となった豊臣秀吉の子飼いの家臣・戸田勝隆(とだかつたか)に戸田邸で謀殺されている。

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by mmcjiyodan | 2010-06-30 00:37 | Comments(0)  

肱川嵐(ひじかわあらし)

四国は中央に山地を頂く島で、伊予国(愛比売/エヒメ)は四国の北西・瀬戸内海側に在り、中でも南予と呼ぶ大洲市と内子町以西は西日本最高峰の石鎚山(石鎚山系)を擁している。

愛媛・肱川(ひじかわ)は、愛媛県西部を流れる愛媛県最大の河川・肱川水系の本流(一級河川)で、自然現象・肱川嵐(ひじかわあらし/又は肱川おろし)が発生する事で有名である。

肱川(ひじかわ)は屈曲が激しく、長さ百三キロメートルと比較的長大な河川であるにも関わらず、源流部と河口との直線距離が僅か十八キロメートルと特異な姿の河川と言える。

肱川(ひじかわ)は、愛媛県西予市宇和町(旧東宇和郡宇和町)鳥坂峠に源流を発し、一旦南流し、西予市宇和町の南部で東に向きを変え、西予市野村町(旧東宇和郡野村町)坂石で黒瀬川、船戸川と合流し、北へと向きを変える。

その後は河辺川、小田川等の支流を集めて蛇行しつつ四国山地を横断し、大洲盆地・伊予長浜の町に到って瀬戸内海に注ぐ。

肱川嵐(ひじかわあらし)とは局地風の一つで、毎年十月中旬から翌年の三月頃の朝五時から十時頃の晴天の日に吹く、冷気に霧を伴った強風の事だ。

河口に在る伊予長浜の町が晩秋から冬の朝に深い霧に飲み込まれる自然現象・肱川嵐(ひじかわあらし)の発生が見られる。

肱川嵐(ひじかわあらし)は、主に早朝で晴天、放射冷却で特に冷え込んだ日に発生し、肱川の中流域にある広大な大洲盆地で発生した霧が深く切り立った山に囲まれた肱川下流を流れ、海に一気に押し出される現象である。

その下流域は、大洲市長浜町(旧喜多郡長浜町)にて、渓谷状の地形から一気に瀬戸内海(伊予灘)に流れ込む形となっており、河口には水面上の三角州は形成されていなが、海中には膨大な川砂が流れ込んでいる。

伊予戦国三武将・宇都宮氏、河野氏、西園寺氏】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-06-29 18:05 | Comments(0)  

インディアン(ネイティブアメリカン)の襲撃と鬼退治(おにたいじ)

戦後間もない頃、復興日本は映画娯楽が全盛で、米国から西部劇と言われる米大陸開拓の映画が盛んに封切られた。

大陸移民が困難に遭いながらも新しい大地で生活の基盤を創る映画だが、その中に原住民・アメリカンインディアン(ネイティブアメリカン)との抗争が描かれている。

欧州からの開拓移民家族が原住民・アメリカンインディアン(ネイティブアメリカン)に襲われ、勇気ある市民や騎兵隊がそれを救う筋立てだが、近頃はめっきりそうした映画をハリウッドは作らなくなった。

何故ならば、原住民・アメリカンインディアン(ネイティブアメリカン)の土地を勝手に切り取り強盗をしたのは欧州からの開拓移民の方だからで、開拓時代の熱気が冷めた今ではその正当性を映画で主張するのは難しいからである。


現生アメリカン(ネイテブアメリカン)に於いては、その発祥をシベリヤとする研究が原生類人猿のミトコンドリアDNAで、明らかになっている。

氷河期に、その試練を智慧で克服して生き残ったのが、南北アメリカ大陸への現生移住民だったのかも知れない。

そして北アメリカ大陸でも、現生移住民はいくつかのネイテブアメリカン部族として生活していた。

そこへヨーロッパから、食い詰めた人々が大砲やライフル銃や拳銃と言った近代兵器を携(たずさ)え、「開拓」と称してネイテブアメリカン部族の地を奪い取った。

つまり原住民・アメリカンインディアン(ネイティブアメリカン)側からすれば侵略者へのレジスタンスで、一方的に白人正義を描く当時の西部劇映画には怪しい意識操作の意図を感じるのである。

これは遥か昔の日本列島で、渡来氏族(征服氏族)が原住民・縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の土地を奪い、西日本列島を支配する大和朝廷(ヤマト王権)を打ち立て、縄文人(蝦夷族/えみしぞく)を鬼・鵺・土蜘蛛と呼んで彼等のレジスタンスを強盗行為に仕立て上げた事に酷似している。

そしてその支配範囲を広げて行く過程で、大和朝廷(ヤマト王権)は原住民・縄文人(蝦夷族/えみしぞく)を俘囚と呼ぶ形で米国のインデアン居留地宜しく一定地域に閉じ込めて管理し、俘囚が起こしたレジスタンスを鬼退治の物語にした。

そしてこの支配被支配の歴史は、鬼退治(おにたいじ)伝説が残るように、血塗られた歴史も存在する。

後に反政府勢力鎮圧や治安維持警察活動をするトップの役名とされる「検非違使(けびいし)非人(エミシ族)身分のレジスタンスを取り締まる「非人検(ひにんあらため)に違使(つかわされた)」と言う意味だった。

つまり蝦夷(エミシ)族は、初期の大和朝廷(ヤマト王権)下でまだ組織的なゲリラ局地戦をしていて事に成る。

つまり米国の騎兵隊も日本の家業武士団も、当初は原住民のレジスタンス対策から始まり、米国の白人政府も日本の大和朝廷(ヤマト王権)も、原住民を悪役に仕立てて自分達に有利な喧伝に精を出したのである。

詳しくは【日本人の祖先は何処から来たのか?】に飛ぶ。
詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

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切捨て御免のルーツ】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-06-28 00:55 | Comments(0)  

鬼八伝説(おはちはちでんせつ)と高千穂(たかちほ)

日向(ひゆうが)国【高千穂庄】には高千穂(大明神)神社が在り、神々の存在を感じる喜八伝説のアララギの里・高千穂十社の森を抜け、五箇瀬川峡谷(高千穂峡)の高千穂神社に辿り着く。

高千穂(大明神)神社の由来には、【平安時代末期には高千穂庄十八郷八十八社の総社として、上古高千穂皇神(日向三代の神々)を祀る】とある。

高千穂・猪掛け祭りは、新暦一月中旬(旧暦十二月三日)のこの日に執り行なわれる収穫祈願祭りである。

来る年の豊作を願って執り行なわれる年末の神事が、子作り神事と共通していても不思議では無い。

「乙女を縛(しば)きて吊るし掛けに供し・・・男衆、老いも若きも列を成して豊作を祈願す。」

この縛(しば)きが「しめ縄」であるなら即ち乙女は「尻久米(しりくめ)縄」に掛けられた事に成り、いかにも性交呪詛の実行が伺われる。

鳥居内の神域(境内/けいだい)に於いては、性交そのものが「神とのコンタクト(交信)」であり、巫女或いはその年の生け贄はその神とのコンタクトの媒体である。

祭りに拠っては、その神とのコンタクトの媒体である巫女の存在、或いはその年の生け贄の前に、「ご利益を得よう」と神とのコンタクト(交信)の為に、縛(しば)かれて尻久米(しりくめ)縄で吊るされた乙女に、老いも若きもの男衆の行列が出来るのである。

高千穂神楽(たかちほかぐら)と所謂(いわゆる)「日本神話」との関係については、誰も異論は無いだろう。

だが、高千穂神楽を語る時、避けて通れないもう一つの「神話」がある。

それが高千穂に伝わる「鬼八伝説」である。

畿内への東征(神武大王の東征?)から帰郷したミケヌ(三毛入野命)は、後に神武大君(じんむおおきみ・神武大王・初代天皇)となるカムヤマトイワレヒコ(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊)の兄で、高千穂神社の祭神である。

そのミケヌが、「アララギの里」に居を構えた同じ頃、二上山の洞窟に住んでいた荒ぶる神・鬼八(きはち・蝦夷族?)は山を下り、美しい姫・ウノメ(鵜目姫。祖母岳明神の孫娘)を攫(さら)ってアララギの里の洞窟に隠した。

或る時、ミケヌが水を飲もうと川岸に寄ると、川面に美しい娘が映って話し掛けた。

「ミケヌ様、鬼八に捕らえられているウノメをお助け下さい。」

水面に映し出されたウノメの姿に助けを求められたミケヌは、他にも悪行を繰り返す鬼八(蝦夷ゲリラ?)の討伐を決意する。

「心配には及ばぬ。私が必ず助け出す。」
ミケヌは、四十四人の家来を率いて鬼八を攻めた。

鬼八は各地を逃げ回った挙句、二上山に戻ろうとした処でミケヌらに追い詰められ、遂(つい)に退治された。

しかし、そこは妖怪である。

鬼八は何度も蘇生しようとした為、亡骸は三つに切り分けられ別々に埋葬された。

この鬼八伝説、単純に聞けばよく在り勝ちな「おとぎ噺」だが、一説には往古の先住民族と大陸系征服民族の抗争が描写されていて、その先住民族の末裔達がこの地方独特の「ある姓を名乗る人々ではないか?」とも言われて居る。

実はこれらの神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。


後日談では、救出されたウノメはミケヌの妻となり、「八人の子をもうけた」と言う。

その後末裔が「代々高千穂を治めた」とされている。

処が、ここからが問題で、死んだ鬼八の「祟り」によって早霜の被害が出る様に成った。

この為、「鬼八の祟り」を静める為に「毎年慰霊祭を行う様に成った」と言う下りである。

「乙女を縛(しば)きて吊るし、掛けに供し・・・」
【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。

この慰霊祭の風習では、過って永い事生身の乙女を人身御供としていた。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭りの性交行事が認められていた。

その生贄に供えたのが慰霊祭の人身御供だった。

だが、戦国時代になって、供される娘を不憫(ふびん)に思った城主・甲斐宗摂(かいそうせつ)の命により、イノシシを「乙女の代用とせよ」と、呪詛様式が改革されるように成った。

さて問題は、高千穂神楽には陰陽師の呪詛様式が色濃く残っている点である。

この伝説自体に高千穂神楽との結び付きが出て来る訳ではないが、慰霊祭「猪掛祭(ししかけまつり)」は注目に値するのだ。

いかにも修験者の仕事らしい伝説だからである。

まずこの「人身御供」は、神代の時代からの伝承に基づき、戦国時代の甲斐宗摂(そうせつ)の命令があるまで、生身の乙女を供する事が続けられて居た。

すると、何者かが鬼八伝説を利用して、「人身御供」のシステムを作り上げ、少なくとも数百年間は、それが継続していた事になる。

「この伝説の中で始まった」とされる鬼八の慰霊祭も今日に伝わっていて、高千穂神社で執り行われる「猪掛祭(ししかけまつり)」がそれである。

猪掛(ししかけ)の「掛け」の意味は、人架け(獲物縛りに吊るされてぶら下がった状態の人身御供)を指す。

代替として「人身御供」の乙女の代わりに、社殿に猪を縄で結わえて吊り下げるからで、単純に考えれば以前は「人身御供の娘を結わえて吊るしていた」と考えられ、陰陽呪詛的な匂いを感じるのである。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-06-27 00:24 | Comments(0)  

源氏流諸系詳細(げんじりゅうしょけいしょうさい)

源氏は源の姓を持つ氏族である。

嵯峨天皇(さがてんのう/五十二代)が始めた事で、生まれた子らの臣籍降下に伴い皇室と祖(ミナモト)を同じくすると言う名誉の意味を込めて源姓(みなもとせい)を与えた。

清和天皇(せいわてんのう/五十六代)の皇子を祖とする清和源氏流が最も多く、二十一流あると言われる源氏に於ける一家系であるが、武家源氏として歴史上に名を馳せた事に拠り、清和源氏をして源氏と称する事が多い。

清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子・経基(つねもと/六孫王)が源を賜姓、経基流清和源氏の初代となりその子孫の系統を清和源氏(せいわげんじ)流とする。

武家源氏として名を馳せた清和源氏に於いては畿内に始まり、各地に広がって土着しており、経基(つねもと)の子・源満仲(みなもとのみつなか)の子から源頼光は摂津源氏、源頼親は大和源氏、源頼信は河内源氏とに分かれそれぞれの祖となる。

河内国を本拠地とした河内源氏の本流/・源義家(八幡太郎義家)は清和源氏の主流で、その子孫は鎌倉幕府を開いた源頼朝に代表される武門として栄え、さらに河内源氏からは石川源氏(石川氏)、他に平賀氏、万部氏、万力氏、紺戸氏、板金氏、中川氏などがある。

また同じ河内源氏・源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家から甲斐源氏(武田氏)、甲斐源氏(若狭武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)や信濃源氏(平賀氏)、信濃源氏(加賀美氏流・小笠原氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。

「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流新田氏の一族である。

平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。

この尾張国・平手氏の世良田系図を徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められたには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。

村上水軍に関しては河内源氏庶流・信濃村上氏を起源とする説で、村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の千百六十年(永暦元年)に越智大島に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。

能島村上氏の系図では自らの出自を村上天皇の皇子・具平親王(ともひらしんのう)の子・源師房(みなもとのもろふさ)を祖とする村上源氏としていて、因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。

また信濃源氏流小笠原氏からは、室町期から戦国初期に活躍し一時は畿内一円に覇を唱えた三好氏(みよしうじ)が出ている。

源義国(みなもとのよしくに)の下野源氏(足利氏)と上野源氏(新田氏)は、鎌倉幕府有力御家人から後醍醐天皇(九十六代)元弘の乱(げんこうのらん)に味方して倒幕に参加、建武の新政(親政/けんむのしんせい)に加わった後南北に分かれて戦った足利尊氏新田義貞が居た。

足利尊氏が南北朝の戦乱をほぼ勝利で収め、室町幕府を成立して下野源氏(足利氏)族は隆盛し、有力守護大名・細川氏上杉謙信(長尾輝虎)を出した長尾氏元禄赤穂事件(忠臣蔵)の敵役に成ってしまった三河の吉良氏、駿河今川氏のなどを出している。

摂津国を本拠地とした摂津源氏からは多田源氏(源満仲/多田満仲)、美濃源氏(土岐氏)その他が分派しており、いずれも清和源氏一門であり、いわゆる「武家源氏」で、美濃源氏(土岐氏)からは、明智光秀の明智氏が分流とされている。

美濃の国(今の岐阜県の南部)に、土岐と言う町(市)がある。

土岐と言う名は、清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名の土岐氏の名で、言うまでも無いが源氏は皇統守護の血筋で有る。

美濃国守護・土岐氏(ときうじ)は、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる清和源氏嫡流第三代・摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の子・頼国(よりくに)が美濃国土岐郡に土着する。

頼国(よりくに)が居館を構えて居住した土地の名、「土岐」を取って土岐氏を名乗ったのが土岐氏の始まりである。

平安時代中期の武将で官人だった清和摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の長男・源頼国(みなもとよりくに)が美濃守として赴任、その子孫が美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた一族である。

土岐氏(ときうじ)は、室町時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三ヶ国の守護大名となり、庶流としては平安期から鎌倉期にかけて明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、浅野氏など多くを輩出している。

清和源氏水野氏が三河国から出た。

水野氏は、源満政流・満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って水野氏を名乗ったとされる。

三河水野氏からは徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)が出て、水野氏は江戸期に五ヵ家に及ぶ大名家を出している。

清和源氏以外に武家となった源氏としては、嵯峨天皇(さがてんのう)・嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)を祖とする「融流嵯峨源氏」があり、嵯峨源氏の武家として系譜を伝えた摂津国を基盤とした渡辺氏の代表は、摂津源氏源頼光の郎党となり、頼光四天王の筆頭とされる源綱(みなもとのつな/渡辺綱)の渡辺氏とその分流の松浦氏である。

また宇多天皇(うだてんのう/五十九代)を祖とする宇多源氏の中で、武家として近江国を基盤とした系統は近江源氏(佐々木氏)と称し、佐々木氏流として有力武士団に成長して行く。

この佐々木氏流武家としては、京極氏六角氏尼子氏などの戦国大名を輩出している。

中央貴族(公家)として栄えた源氏として、村上天皇(むらかみてんのう/六十二代)の皇子を祖とする村上源氏があり、代表的な人物は源通親(みなもとみちちか/土御門通親)である。

同じ源氏でも公卿として繁栄する系統や、武士や神官となる系統に別れるのは、政治情勢や臣籍降下する者、母方の勢力や身分がその後の官途に大きく左右する為である。

特に天皇の皇子が降下する事を「一世の源氏」と言い、任官の上で大いに優遇され、皇孫に至って臣籍降下する事を「二世の源氏」と言い、一世の源氏よりも家系的には出世に不利を蒙った。

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参考記事
源義国(みなもとのよしくに)
足利氏(あしかがうじ)と足利義康(あしかがよしやす/源義康)
新田氏(にったうじ)と新田義重(にったよししげ/源義重)
足利流・斯波氏(しばうじ)
新田流・山名氏と明徳の乱・山名宗全(やまなそうぜん)と応仁の乱〔一〕
新田流・山名氏と明徳の乱・山名宗全(やまなそうぜん)と応仁の乱〔二〕
足利流・一色氏(いっしきうじ)〔一〕
足利流・一色氏(いっしきうじ)〔二〕
足利流・京兆細川家・細川勝元(ほそかわかつもと)と応仁の乱
足利流・畠山氏(はたけやまうじ)

皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
第三巻】に飛ぶ。
第四巻】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-06-26 00:13 | Comments(0)  

吉原遊廓(よしわらゆうかく)と廓内女郎折檻(くるわうちじょろうせっかん)

遊郭(ゆうかく)は傾城(けいせい)とも言われ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)とも同じ意味である。

元々遊郭(ゆうかく)の発生は、風紀の取り締まりなどを求め「他所での開業を認めない」と言う為政者側の管理思想が背景にある。

江戸幕府は、遊郭惣名主・甚右衛門と条件を交わして江戸市中の遊女街を一ヵ所に集めた公娼(公許)の地を吉原遊郭(よしわらゆうかく)と呼んだ。

また、江戸・吉原のみならず大坂や京都、長崎などに於いても大規模な公娼遊廓が存在し、地方都市にも小さな公娼(公許)遊廓は数多く存在した。

吉原遊廓は敷地面積は二万坪余り、最盛期で「数千人の女郎(遊女)が居た」とされ、最大級の規模を誇った公娼街である。

芝居(しばい)の猿若町と日本橋(大商家街)、そして吉原が江戸市中の中でも「一日に千両落ちる場所」と言われて、吉原遊廓は最大級の繁華街と言う事ができた。

そして誤解が多いのだが、吉原遊廓の女郎(遊女)は借金に縛られ女衒(ぜげん)に奉公期間を売られた年季奉公の女性とする解説には欠落がある。

実は吉原遊廓の女郎(遊女)には、重罪を犯して町奉行所で裁かれ、罪一等を減じられて現代で居言う終身刑にあたる奴刑(しゃっけい)に科された者がいた。

つまり吉原の女郎(遊女)には年季奉公の女性と、建前終身非人として遊廓で客を取る奴刑者(しゃっけいもの)の二通りが居たのだ。

女郎(遊女)の年季明けの者の平均年齢は二十七歳で、女郎(遊女)に病死が多く寿命が短いは俗説であり、当時の町人の罹病率と極端な差はなく、早期身請けを含む年季明け率は約八割で、実稼動期間は十年から十五年と言われている。

奴刑者(しゃっけいもの)が年齢を重ねて、女郎(遊女)としての仕事が難しくなった場合は「やり手(女郎上がりの世話係り)」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。

女郎(遊女)にはランクが在り、美貌と機知を兼ね備えて男性の人気を集める事が出来る女性であれば、女郎の中でも高いランクに登る事が出来た。

女郎の最高のランクは、宝暦年間まで「太夫(だゆう)」と呼ばれ、以下「局(つぼね)」、「端(はし)」とされていたが、湯屋を吉原に強制移転した際に花魁(おいらん)と呼ばれるようになる。

花魁は気位が高く、振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿(かぶろ)と呼ばれる子供を従えており、気に入らない男性は「中々相手にして貰えなかった」と伝えられている。

まぁ、多分にスター娼婦を演出する商売上の付加価値創造と言う所だが、吉原遊廓は一歩中に踏み入れたら寺社奉行所は勿論、町奉行所も管轄外の別世界で、非(あら)ずの場であるから非人差配の穢多頭(えたかしら)が管轄していた。

つまり日常生活の場とは異なり、非(あら)ずの場であるから粋に振舞う事が男性のステータスと特殊な世界に考えられ、そうした夢想空間として演出され、男性の下心を上手く使ってお金を搾り取るのが遊廓全体の仕事である。

尚、吉原遊郭に於ける遊女の変形として、湯女(ゆな)と言う営業形態も在った。

投げ込み寺(浄閑寺)の事を、女郎(遊女)の末路とする解説が多いが、実際には吉原の掟を破った者に限られている事が、最近の研究で明らかになっている。

浄閑寺に投げ込まれてのは、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った者と奴刑者(しゃっけいもの)に限られている。

この吉原の掟を破って死に到った場合、人間として葬ると後に祟るので、「犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」と言う迷信により亡くなった女郎(遊女)は素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。

吉原遊廓内では町奉行所もその権限が及ばないから、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った場合、これを裁くのは持ち主である遊廓主である。

また、「足抜け(逃亡)」などで遊廓外に抜けた場合は、その探索を穢多頭(えたかしら)とその配下の穢多役人(えたやくにん)が受け持った。

吉原の掟を破った場合、女郎(遊女)は折檻(せっかん)にかけられるが、その折檻にも誤解が在り、そのまま店に置くにしても他所に売るにしても肉体(からだ)は売り物だから痛め付けると言うよりも苦しめる事を主眼にした見せしめを施した。

例を挙げれば、寝させない、食事(水)を与えない、丸裸にして縄で縛り上げて吊るし、そのまま水に漬けて呼吸を苦しめるなどである。

先を考えない竹木での吊るし叩きなどは、遊廓主が痛め付けて死んでも構わないと判断した特殊な場合だけで、その場合は文字通り「打ち殺す」在った。

遊女関連の詳しくは、小論【遊女(女郎)の歴史】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-06-25 00:23 | Comments(0)  

巫女(みこ)と遊女(ゆうじょ)

原始的な土人の踊りや音楽にしても、元々は神に捧げるシャーマニズム(呪術)の踊りと音楽である。

欧米の音楽や踊り、イスラーム社会の音楽や踊りもそのルーツは宗教音楽(教会音楽)から発生して発達し、後世に娯楽の側面を持つに到った。

日本に於ける音楽や踊りにしても例外では無く、最初は神を祀り祈る誓約伝説の神事から発生して神楽舞(かぐらまい/巫女舞)に発達し、神事であるからこそ楽士は神官が勤め、踊り手は巫女が勤めた。

神道発祥初期の頃は、人身御供伝説でも判るが、神官の出自は渡来系氏族である。

実は、神社を司る氏神(うじがみ)は氏上(うじがみ)で、氏神主(うじがみぬし)も氏上主(うじがみぬし)も国造(くにのみやっこ)県主(あがたぬし)の系図(天孫族)を持ち、つまり神主(かんぬし)は氏族の棟梁の兼業であるから、官人(高級貴族役人)接待は身分保身や出世栄達の為に大事な勤めだった。

巫女は俘囚と呼ばれる身分の蝦夷族の中から調達された。

そして踊り手の巫女はシャーマン(巫術者)であり、その神事の中で神(神官が神の代理を勤める)と性交をし、恍惚忘我(こうこつぼうが)の境地に至り神懸かって御託宣を神から賜った。

神楽(かぐら)の事を「神遊び」とも言い、過って日本の遊女は神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた貴人(特権階級)相手の神殿娼婦だった。

この遊女について、「本来は芸能人の意味を持つ言葉」と建前の解釈をする方も居られるが、発祥が神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた「遊び女(あそびめ)」と呼ばれる神殿娼婦だった事から、「芸能のみに従事していた」と綺麗事にするには無理がある。

特記すべきは「芸能の神様」とされる天宇受売命(あめのうずめのみこと)の岩戸神楽の原型は、「天宇受売命(あめのうずめのみこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」が伝説上での遊芸のルーツとされる点である。

また天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、猿田毘古神(サルダヒコカミ)との誓約(うけい)の和合(性交)の実践者でもあるのだ。

遊女の元々のルーツ(起源)は、「官人(高級貴族役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠る」とされる事からである。

実は、神社を司る氏神(うじがみ)は氏上(うじがみ)で、氏神主(うじがみぬし)も氏上主(うじがみぬし)も国造(くにのみやっこ)や県主(あがたぬし)の系図(天孫族)を持ち、つまり神主(かんぬし)は氏族の棟梁の兼業であるから、官人(高級貴族役人)接待は身分保身や出世栄達の為に大事な勤めだった。

古墳期から平安期にかけて中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から地方に派遣され赴任が解けた後も土着した氏姓(うじかばね)身分鎮守氏上(うじかみ=氏神)は、その地方の有姓(百姓)・有力者となり一定の勢力を持つ。

そこへ中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から新たな官人(役人)が地方に派遣され、赴任して来てその地方の有姓(百姓)・有力者と権力の二重構造が発生した時、対立するか懐柔策を採るかの地方有力者の選択肢の中で、鎮守氏神を祀る巫女に拠る官人接待は始まった。

歌舞音曲の遊芸もそうした環境の中で育ち、次第に様式化されて源義経の愛妾・静御前で有名な平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。

それと言うのも、元々俘囚身分の蝦夷族社会には自然信仰と群れ婚(集団婚)の習俗が残っていて共生村社会を営んでいた経緯が在ったから、それが容易だったのである。

そうした経緯を踏まえて考えれば判る事だが、出雲阿国は最初出雲神社の巫女だったが神社修復の勧進(寄付集め)の為に旅回りの巫女踊りを始め、「そこから大衆演劇・歌舞伎踊りに到った」とされる。

そして阿国が評判を得たのがツンツルテンの衣装を着た「ややこ(こども)踊り」と言う子供の踊りであった。

そうとするなら、現在の映画やテレビドラマのような優雅な踊りではなく、下着を身に着ける習慣がないノーパンティ時代に丈が足りない衣装で腿も露(あらわ)に踊った事に成る。

もっともこれを史実通りに映画化すれば、今の時代では十八禁指定を採らなければ成らないだろう。

神前祭祀(しんぜんさいし)と大麻(おおぬさ)】に飛ぶ。
神前娼婦(しんぜんしょうふ)】に飛ぶ。

遊女関連の詳しくは【遊女(女郎)の歴史】に飛ぶ。

吉原遊廓と廓内女郎折檻(くるわうちじょろうせっかん)】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-06-24 00:18 | Comments(0)  

織田信長の虚け者(うつけもの)

織田信長(おだのぶなが)の虚け者(うつけもの)は、一口で言えば「常識を主張する者は今日しか創れないが、はみ出し者は明日を創る。」と言う事である。

まぁ常識を主張する横着者に進歩は無いのだが、そう言う輩に限ってはみ出し者に敵意を抱く。

もっとも「常識」とは、コモンセンス(common sense)の訳語として明治時代頃に日本に普及し始めた言葉で、実はこの時代に常識(じょうしき)と言う概念も用語も存在はしなかった。

従ってこの時代に「常識」と言う言葉を明治維新以前に使うのは時代考証に触れるのだが、現代的には説明がし易いので「常識」と言う言葉を使わしてもらった。

武士道のフェアプレィ精神(尋常に勝負)だ」と綺麗事を喧伝する輩がいるが、命をやり取りする切り合い(殺し合い)にフェアプレィが存在するなど本来おかしな話である。

戦国時代になって特にこの傾向が顕著になったのだが、この事は後に講談師や脚本家、果ては明治維新政府から昭和初期の戦陣訓にまで利用される武士道の精神にまで発展するので明記して置くが、武士道のフェアプレィ精神(尋常に勝負)など建前主義者の嘘っぱちな綺麗事である。

武士道に於けるフェアプレィ精神(尋常に勝負)のルーツをバラセば、実の所「恩賞の確定」と言う止むに止まれぬ事情が在っての事で、何の事は無い、旧勢力にとっては「名乗ってから切り合う個人戦」が、譲りがたい利権だったのである。

その個人戦だった事が良く判るのが、戦場での旗指物の変遷である。

この旗指物、戦場での「敵味方を判断する為」とする簡単な解説が多いが、実はそれだけの解説では不充分である。

何故なら織田信長が歴史の表舞台に登場するまでは、戦が個人戦の集積型だったからである。

戦国期に様々で個性豊かな印が登場した理由は、主に「手柄の確定」だった。

本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせる為に始めた「名乗ってから切り合う」は当時の武士の暗黙の了解で、それが「恩賞の決め手」と言う常識なのだ。

それを、団体戦にされると手柄を雑兵に持って行かれる。

つまり織田信長の提案した団体戦は上級武士の利権がらみなのであるから、それで事の是非ではなく旧勢力は頭から抵抗する。

周囲は何時(いつ)も「決まっている」の大合唱だった。

これには参った織田吉法師(信長)だったが、直ぐに「これはイケル」と思い着いて喜んだ。

発想の転換が、新しい物を生み出す事は言うまでも無い。

これだけ既成概念に取り付かれた者ばかりであれば、「それを利用すれば戦に勝てる」と吉法師(信長)は踏んだのである。

この時の閃(ひらめ)きが、織田信長の生涯の武器になった。

人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求「一貫性行動理論」がある。

織田吉法師(信長)の周囲の既成概念で凝り固まった者にとって、自分達の意識と一致しない吉法師(信長)の行動は理解出来ない困りものだった。

確かに現状を肯定すれば楽に生きれるかも知れないが、現状を否定しなければ未来の進歩は無い。

何かに挑(いど)む事が何もしない事より遥かに価値が在る事を、天才・織田信長は知っていた。

才能有る者の感性は凡人には判らない。

「社会性」と言うものとの本質は妥協であるから、「社会性」と「非凡な才能」は中々相容れられるものではない。

その判らない奴が、自分の感性を基準に才能有る者を判断する評価が「織田の小倅(こせがれ)、大虚(おおうつ)け者」の正体である。

彼らは、自分達の意識や価値観と一致しない異端児・吉法師(信長)を「大虚(おおうつけ)者」と呼んだ。

そんな彼らを、吉法師(信長)は相手にしなかった。

時は戦国、繊細で尚且つ豪胆な男で無ければ生きられない時代だった。

織田家の家督を継いだ後も、常識的に物を考える家臣達相手に「新たらしい発想を、迷う事なく実行させる事に腐心する」のは、信長にとって余分な苦痛だった筈である。

そこで信長は、自らで新しい意識や価値観の旗本家臣団を育てる為に、吉法師時代から身分の差など構わない遊び仲間を結集し、それこそ「決まり事」を無視した遊びを繰り返した。

後に御案内する今川義元との桶狭間の一戦も、発想が常識に決まっていた義元と決まっていない信長の戦だったのである。

実は、約束事を壊すのが成功の秘訣である。

約束事は人まねであり、その範囲で物事をするだけなら安全だが注目もされないし進歩も無い。

若干無礼な表現だが、我輩を含め凡人はこの「約束事」に拘(こだわ)ってしまう。

目標に苦悩する事は大いに結構だが、「約束事」に迷っては進歩も成功も無い。

迷う者は、生涯迷い続ける事に成る。

つまり、何をするにしても如何なる事でも、如何に早くその境地に辿りつくかで、その道で大成するかどうかが決まる。

これは現代でも通用する事で、数百数千の発想の中から何か新しいものに挑戦して僅かに生き残った独自の物以外、既存業種に挑戦して常識論や理想論だけで新規事業に成功するのはかなり難しい。

それが企業犯罪で成功するのでは困るが、つまり成功の鍵は「他に類を見ない独特(ユニーク)なもの」と言う事に成る。

織田信長のように、利巧な人間ほど好奇心が強く何か思い付けば「試そう」と努力する。

そうした人間が進歩するのだが、大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩しないのである。

人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)があり、つまり何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う事で、裏を返せば織田信長のように意識を変えてしまえば今まで「出来ない」と思っている事が出来る様に成るのだ。

これをもう少し深く突き詰めると、「出来ない」事の言い訳をする為に「決まっている」と言う物言いの決り文句があるのかも知れない。

本来、価値観何てものは別に唯一絶対な訳ではない。

所が、何時の時代の人間もアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)に縛られて、織田信長のように新たな発想をしようとしない。

それは、どう生きようと個人の勝手で、アンカリング効果(行動形態学上の基点)や一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)の範囲で判断した価値観の幸せも、自己満足では在るが本人は幸せを感じる。

しかしこの「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」は、安全ではあるが別の側面から見れば「平凡で詰まらない人生」と言う淋しいものに成る。

自ら思考範囲を狭(せば)めたアンカリング効果は、周囲を正しく見渡す事を阻害する。

このアンカリング効果(行動形態学上の基点)は、織田信長のように錨(いかり)を上げて自由な思考にしまえば価値判断の範囲も変わるもので、全く違う発想が持てるのである。

一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)においても頑固に既存意識を守ろうとせず、一貫して意識改革をし続ける事自体に行動の基点を置けば良い訳だ。

つまり、この織田信長のようにアグレシブ(攻撃的)な発想を持って、既成概念をぶち破り、知略・戦略おいて「まさか?」と思う事が出現すれば、相手は戦略上対処が出来ない理屈である。

そして信長は天下掌握(天下布武)達成の直前、誰もがその事実を疑う信長流の大胆にして奇想天外なある秘密の策略を試みる。

だからこそ、この物語はその後世に大きく膨らんで行くのである。

信長の「虚(うつ)け振り」も、周囲に警戒されない様に周りを欺く「策略」と解説する見解の方も居られるが、そうは思えない。

単純に、常人が当たり前と思っている「常識」が、怪しいものだと気付いている信長は、当時の常識など意に介さない。

むしろ、積極的に破壊しょうとした。

信長は、日頃から異様な風体で城下に繰り出し、若者を集めて奇妙な遊びに興じて家臣のいさめなど、問題にしない。

周りの家臣が、信長の行動が枠からはみ出す事を、ルール無視の「虚(うつ)け者としか理解できなかった」と解釈している。

「出る杭は打たれる・・・」
大概の所、世間から突出する者が居ると、周囲の多くが失敗を望んで敵に廻る。

しかしながら世間に迎合していては道は開けず、失敗を恐れず一歩前に出るかどうかでその人物の可能性は広がる。

しかし、それはあくまでも可能性止まりの話で、つまり成功の確立が低いからこそ、実は挑戦する事が面白いのである。

奇想天外なものを発想したり開発したりするのは、大概の処普段は変人扱いされている人々である。

言い換えれば、変人扱いされるくらいでないと良いものは出来ない。

それなのに凡人は、相手が自分達と変わっているとそれだけで憎しみさえ抱く。

信長は、凡人の「物差し(ものさし)」からすると、「常識外れな事ばかりする。」、家臣が手を焼く困り者だった。

それで、寄って集って何とか枠に嵌め様とし、出来ないと判ると領主の座から外そうと常識的な弟・織田信行(おだのぶゆき/信勝)を擁立して戦を仕掛けたのである。

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織田信長(おだのぶなが)については第三巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第三巻をお読み下さい。

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-06-23 00:24 | Comments(0)  

武田元明(たけだもとあき)と京極竜子(きょうごくりゅうこ・松の丸/京極殿)

京極高次(きょうごくたかつぐ)の姉とも妹とも言われる京極竜子(きょうごくりゅうこ・たつこ)は、若狭武田氏・武田元明(たけだもとあき)に嫁いでいた。

京極竜子の夫・武田元明の若狭武田氏は甲斐源氏の血を引く名家だった。

武田氏は、清和源氏の一流・河内源氏の一門・源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家で在ったが、若狭武田氏はその分家で戦国期には領地であった丹後加佐郡も丹波守護代・内藤氏の侵攻を受けるなど勢力が弱体化していた。

そこに親族にあたる越前の戦国大名・朝倉義景(あさくらよしかげ)によって元明(もとあき)は身柄を拘束され、越前の一乗谷朝倉館に強制移住させられ、朝倉氏は元明を傀儡として若狭を間接支配した。

その後、織田氏の勢力が近江の湖西地域に及び、朝倉攻めに協力した武田氏の重臣・武藤氏・粟屋氏らにより元明は開放されたが、朝倉氏滅亡後、若狭の支配は織田信長の重臣の丹羽長秀に任される事となる。

若狭武田氏・武田元明は、当時たった三千石の領主で在ったが名目・若狭守護で、河内源氏流・武田氏と言う名門の名だけは残っていた。

千五百八十二年(天正十年)に本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、高次は京極竜子が嫁いでいた若狭の武田元明(たけだもとあき)と共に光秀に属し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻める。

しかし山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れ、高次は秀吉からの追及を受けて武田元明は自害し、高次は初め幼少気に過ごした美濃、さらに若狭の武田領へと逃れ、一時は柴田勝家に匿われていた。

それでも何処に運が転がっているかは判らないもので、武田元明(たけだもとあき)に嫁いでいた京極竜子(松の丸/京極殿)が羽柴秀吉の側室となった事から竜子の嘆願で高次は許される。

この戦国期、敗れた将の妻子(妻・娘)が敵に捉えられたら、名乗らなければ雑兵の性の餌食だから積極的にそれと名乗っている。

名乗れば恩賞目当てに命は助けられ、性の餌食にもされずに勝った将の手元に送られる。

敗れた将の妻子(妻・娘)は、捉えられたら勝った将の戦利品が常識だから自害しないで名乗った時点で、処刑されようが誰かに政略で側室に引き渡されようが、夫や親を殺された将の側室にされ様が、それを覚悟で身柄を委ねた事になる。

後に秀吉に敗れたお市の方再婚先・柴田勝家の養女・浅井長政の娘・浅井三姉妹の長女・浅井茶々(淀君)もそうだったが、武田元明の正室・京極竜子は、勝者・羽柴秀吉が側室にした。

実はこの羽柴秀吉の心理は、現在でも出世したりにわかに金持ちになった者が美人芸能人や血統の良い女性を妻や妾にする「トロフィーワイフ」と言う心理現象で、アメリカンドリームの国にこの言葉が在るからには万国共通の男の夢なのかも知れない。

例を挙げると、日本でも戦後の混乱期にドサクサで儲けた男が元伯爵や子爵と言った没落貴族の娘を嫁や妾にしたり、近頃のITバブル長者が美人芸能人と浮名を流したり結婚したりもその類だが、世の中とかくそんなものである。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-06-22 00:11 | Comments(0)  

浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)

浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)は、お江(おごう)もしくは於江与(おえよ)とも呼ばれる。

戦国大名・浅井長政織田信長の妹・との間の浅井三姉妹(あざいさんしまい)の三女・浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)の前半生は、波乱に満ちたものである。

北近江国小谷城主・戦国大名・浅井長政と尾張国・織田信秀の娘・市(織田信長の妹)の間に、所謂浅井三姉妹の三番目の娘として生まれた。

その後、父・長政と伯父・織田信長が交戦し小谷城は落城、母・市が再婚した義父・柴田勝家羽柴秀吉と交戦し北ノ庄城も落城と二度の落城を経験する。

江(ごう)が長女・淀君(浅井茶々)や二女・常高院(浅井初)の姉二人と比べると歴史的に地味な存在であるのは、徳川二代将軍・徳川秀忠の正室と言う立場では在ったが、彼女自身が余り軍事・政争に関与する事が無かったからである。

江(ごう)の最初の婚姻相手は母の姉(お犬の方)の子・佐治一成(さじ かずなり)で、秀吉の命により十一歳で嫁いだが一成が小牧・長久手の戦いに於いて織田信雄(信長次男)を擁立した徳川家康に味方した為に秀吉の怒りに触れ、一成は所領を没収されるとともに江(ごう)と離縁させられた。

二度目の江(ごう)の婚姻相手は、秀吉の姉・日秀の子で秀吉の甥にあたり秀吉の養子に迎えられた豊臣秀勝(とよとみのひでかつ)で、江(ごう)との間に娘の完子が生れる。

豊臣秀勝(とよとみのひでかつ)は文禄の役に出陣し、その最中に病を得て巨済島にて病没した為、秀吉の正室・高台院(北政所/木下おね)の甥・豊臣秀俊(小早川秀秋)が遺跡を相続した。

三度目は千五百九十五年(文禄四年)、江(ごう)は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠に二十三歳で再々嫁し、徳川家康の嫡男・秀忠の正室(継室)となり、江(ごう)が秀忠と再々婚した事で娘の完子は伯母の淀殿に引き取られ養われる。

明治維新後の西欧化でロックインして今では夫婦同姓が当たり前に成っているが、東洋の国々は元々夫婦別姓が基本だったから、当時の夫婦は別姓で、生まれた家の姓が正式な名乗だから何度再婚しても浅井江(あざいごう)である。

まぁ正室だけでなく側室も持つ時代だったから、結婚についても夫婦同姓にする事は余分な手間だったのかも知れない。

江(ごう)は秀忠との間には千五百九十七年(慶長二年)の千姫(せんひめ/天樹院)を頭に徳川家光徳川忠長など二男五女を儲けている。

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by mmcjiyodan | 2010-06-21 02:19 | Comments(0)