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村上水軍(むらかみすいぐん)(二)

村上水軍(むらかみすいぐん)(一)】に戻る。

村上水軍の一家・能島村上氏(野島氏)が本拠地とした能島(のしま)は、瀬戸内海のほぼ中央、伯方島と大島との間の宮窪瀬戸、鵜島の南西に位置する周囲七百二十メートル、面積約2.5平方キロメートルの小島だった。

村上水軍の一家・来島水軍(来島村上氏)が本拠地とした来島(くるしま)は、愛媛県今治市の来島海峡の西側、波止浜湾の入り口、四国から沖合い二百四十メートルに位置する面積0.04平方キロメートルの有人島である。

村上水軍の一家・因島水軍(因島村上氏)が本拠地とした因島(いんのしま)は、現在の広島県尾道市にある面積33.73平方キロメートルの島で、能島(のしま)、来島(くるしま)拠りは大きい島である。

戦国期、能島村上氏は伊予国(愛媛県)の有力豪族・河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。

来島村上氏は河野氏に臣従し、村上通康は河野姓を名乗る事を許され、因島村上氏は毛利氏に臣従した。

まぁ地勢的に、村上水軍の本拠地・瀬戸内海が四国伊予・河野氏と中国・安芸・毛利氏の勢力の狭間に在って、どちらに臣従するかは生き残りの為の重要な判断だったに違いない。

その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、千五百五十五年(弘治元年)の厳島の戦い、千五百六十一年(永禄四年)の豊前・簑島合戦、千五百六十七年(永禄十年)からの毛利氏の伊予出兵、千五百七十六年(天正四年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。

村上水軍は真言宗信徒で在ったが、一向宗 と織田信長の全面戦争「石山合戦」の折は、毛利氏の意向で信長軍団に包囲された一向宗・石山本願寺を海上支援した。

これに手を焼いた織田信長は、鉄甲船(てっこうせん)を建造して村上水軍に対抗し、千五百七十八年(天正六年)に漸く村上水軍を撃破し石山本願寺を講和させている。

千五百八十五年(天正十三年)豊臣秀吉に拠る四国平定の後の、千五百八十八年(天正十六年)に豊臣秀吉が海賊禁止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。

来島村上氏は早くから豊臣秀吉についた為に独立大名とされるも、江戸期に豊後国の玖珠郡に転封され、森藩として完全に海から遠ざけられたが大名として生き残った。

他の二家は因島村上氏は毛利氏の家臣、能島村上氏は小早川氏の家臣となった後、江戸期には因島村上氏は長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地とし、能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。

能島(のしま)には能島水軍(野島氏)が水軍城を設けたが、江戸時代以降廃城となり、現在は愛媛県今治市(旧:越智郡宮窪町)に属する無人島である。

村上水軍(むらかみすいぐん)(一)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-07-31 02:48 | Comments(0)  

村上水軍(むらかみすいぐん)(一)

村上水軍(むらかみすいぐん)は、中世日本に瀬戸内海に於いて芸予諸島を中心とした海域で活動した水軍(海賊)の有力な一派である。

村上水軍の活動が文献に残る最も古い記録は、千三百四十六年(南朝:正平四年、北朝:貞和五年)に能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたと言うものである。

村上水軍(むらかみすいぐん)は、南北朝期には因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。

水軍としての主な活動は、瀬戸内海の制海権を握って航行船の破壊、略奪、信書の開封破棄等を通じた同盟関係の分断で、代表的な表家紋は丸に上や八角形に縮み三文字などである。

村上家の起源ははっきりしないが、「元々は一つの家であった」と言われ、大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれていた。

三家に分かれれる前の村上家の起源として最も有力とされるのが、「尊卑分脈」に記されている河内源氏庶流・信濃村上氏を起源とする説である。

これに拠ると、平安時代に活躍した村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の千百六十年(永暦元年)に越智大島に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。

元々伊予は信濃村上氏と縁のある土地で、越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの寺社・仏閣を建立させたという伝承が残っている。

一方能島村上氏の系図では自らの出自を村上天皇の皇子・具平親王(ともひらしんのう)の子・源師房(みなもとのもろふさ)を祖とする村上源氏としていて、因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。

これを裏付ける良く似た説が信濃村上氏に残る系図に伝わっており、源頼信の次男頼清が村上天皇の皇子・為平親王(ためひらしんのう)の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとされている。

その他村上水軍については、伊予越智氏の庶流との説もある。

今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住み、戦後暫く瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている。

村上水軍(むらかみすいぐん)(二)】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2010-07-30 23:58 | Comments(0)  

八坂神社(祇園神社)

八坂神社(祇園神社)の旧社格は官幣大社で、古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。

日本三大祭の一つ祇園祭で有名な京都の八坂神社は素盞尊(すさのうのみこと/須佐王)を祀っている。

京都の八坂神社は全国祇園信仰の総本社であるが、実は本社(元社)が存在する。

その本社(元社)は、備後国・鞆浦(とものうら/現・広島県福山市鞆町)にある沼名前神社(ぬなくまじんじゃ/祇園神社)で、平安期の法令「延喜式」にも記載されている。

京都の「八坂神社」は、今は明治政府の神仏判然令(いわゆる神仏分離令)により名前に変更させられているいるが、本来は神仏習合で祇園神社(感神院祇園社)と呼ばれていた。

八坂神社の由来は地名からで、その所在地が古代豪族・八坂国造(やさかのみやっこ)一族が居住した土地を由来とする「八坂」だったからである。

京都祇園神社(八坂神社)の元社にあたる社が「鞆(とも)祇園神社」=「神仏判然令(いわゆる神仏分離令)改名・沼名前神社(ぬなくまじんじゃ/祇園神社)」で、京都の「鞍馬の火祭り」と鞆の浦(とものうら)の「お手火祭り」は良く似ている。

福山沼名前神社(ぬなくまじんじゃ/祇園神社)の「お手火祭りは」素盞尊(すさのうのみこと/須佐王)の神輿渡御(みこしとぎょ) に先だって行なう祓いの行事として今に伝えられている。

神輿渡御(みこしとぎょ)の原型は、遡るとインド・ヒンドゥー教のシヴァ神が考えられ、シヴァ神は破壊神であるが破壊(川の氾濫)の跡には新たなる肥沃な大地が恵みをもたらす信仰である。

シヴァ神が新たな肥沃をもたらす破壊の踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う」とされるシヴァ神の乗る牛が「ナンディン(乳白色の牡牛)神」と成って神聖化が進んだ「牛(ナンディン)」が朝鮮半島・新羅(シルラ/しらぎ)の牛頭天王(ゴヅテンノウ)とされる。

「牛(ナンディン)」が破壊神シヴァの使いであるなら、記紀神話(古事記日本書紀)の素盞尊(すさのうのみこと/須佐王)の破壊神話と符合する。

勇壮豪快で荒々しい京都の八坂神社の神輿渡御(みこしとぎょ)や博多祇園祀りの勇壮な山鉾巡行は、シヴァ神の新たな肥沃をもたらす破壊の踊りがその神事の根底に在るからではないだろうか?

インド・ヒンドゥー教でシヴァ神が踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う」とされるシヴァ神の乗る牛が「ナンディン(乳白色の牡牛)神」と成って神聖化が進んだ「牛(ナンディン)」が朝鮮半島・新羅の牛頭天王(ゴヅテンノウ)とされる。

インド・ヒンドゥー教で神聖な動物として崇拝されている「ナンディン(聖なる牛)信仰」が朝鮮半島・新羅(シルラ/しらぎ)の牛頭天王(ゴヅテンノウ)=祇園神・須佐王(スサノオ)とされ、現代では定説化している。

いずれにしても、全国に広がる祇園神社の祇園神・須佐王(スサノオ)が、ヒンドゥー教・ナンディン(乳白色の牡牛)神で、シヴァ神が踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う神」とされている事から、祇園祭(ぎおんまつり、ぎおんさい)の祭礼神で在っても不思議は無い。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-07-29 05:06 | Comments(0)  

徳川家康二人説

徳川家康は幼少の頃から青年期まで、今川氏に人質として送られ駿河国・駿府(現・静岡市)に育った。

そして多くの空白が生まれる中、後世「家康別人説」が浮上するのだが、この家康別人説、家康二人説についてはあらゆる痕跡からかなりの精度が在る。

しかし、巷で流れている単なる影武者説では説明が着かないのが今川家から独立後の家康母方・水野氏一族の隆盛である。

徳川家康には双子説以外に影武者説なども在るが、血統が繋がらないまったくの他人であれば一度は父・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁された家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏を家康が重用する筈が無い。

つまり影武者入れ替わり説では、水野氏重用の説明が着かないのだ。

影武者説に関してはこの水野氏重用の視点が欠落しているか、説の提唱者が無理にそこは目を塞いでいるのかも知れない。

比べるに正妻・築山御前(つきやまごぜん)と長男・松平信康親子の処断しかり、清洲同盟しかり、家康庶子・鈴木一蔵の存在しかり、家康双子説の方が遥かに筋が通っているのではないだろうか?

水野氏当主・水野信元(於大の方の兄弟)は、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれると徳川家康・生母の実家として家康の今川家からの独立を支援し、信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介するなど身内らしい動きをして居る。

豊臣秀吉の死後家督を継いだ水野信元の弟・水野忠重(みずのただしげ/於大の方とは姉弟)の嫡男・水野勝成と四男・水野忠清は共に家康に仕え、猛将として知られた勝成は関ヶ原の戦い大阪の役に参陣して武功を挙げ、大和郡山藩主(六万石)後に備後福山藩(十万石)・下総結城藩水野家(一万八千石)の祖となり、忠清は駿河沼津藩二万石(最終五万石)・水野家および上総鶴牧藩・水野家(一万五千石)の祖となり、徳川政権の幕閣に要職を得ている。

また水野忠政四男・水野忠守(水野信元の兄弟)は出羽山形藩五万石・水野家の祖であり、さらに水野忠政八男・水野忠分の子・水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家二万石(改易)と紀伊新宮藩・水野家(紀州藩附家老水野家・石高は三万五千石。)の祖である。

つまり水野家は、小なりとは言え五ヵ家に及ぶ大名家を出し、老中など幕閣に要職を勤める親藩として江戸幕府時に存続し、その大半の大名家が維新を迎えている。

詳しくは小説・「徳川家康二人説を追う」を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-07-28 17:27 | Comments(0)  

版籍奉還(はんせきほうかん)

版籍奉還(はんせきほうかん)とは、千八百六十九年(明治二年)に諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還を意味し、日本の明治政府により行われた中央集権化事業の一つである。

江戸時代の領主の支配地を「藩(はん)」と呼び、その藩(領主の支配)を統括する幕府(将軍)と言う封建的主従関係を歴史学上は近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)と使用されている。

藩(はん)は、江戸時代に一万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す歴史用語で、実は江戸期に於いての公的な制度名では無い。

「藩(はん)」と言う呼称は江戸幕府下の制度と思われがちだが、江戸期の一部の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来して使用したもので、元禄年間以降に新井白石などの書に散見される程度だった。

江戸期の大半に於いて、厳密には「藩(はん)」は一部の学者などが書などで使用するのみで、江戸幕府下の体制で公式に「藩」という呼称はなかったが、幕末になると大名領を「藩(はん)」と俗称する事が多くなった為、幕末時代劇の台詞では「藩(はん)」を多用しても可である。

千八百六十八年(慶応四年)、江戸幕府の解体により成立した明治新政府拠り初めて「藩(はん)」と言う呼称が公式に使用され、政体書に於いて地方制度では領主・大名領を藩とし、大名を知事に任命して諸大名統治の形ちを残す府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)を確立する。

藩(はん)と言う俗称を継続させ、従来どおり大名が支配した事で一瞬俸禄(知行)安泰を錯覚させたこの「府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)」の巧みな施策、廃藩論者の伊藤博文木戸孝允の意見を三条卿岩倉卿大久保利通西郷隆盛ら新政府有力参議が知恵を絞った過渡期的な手段だった。

同年(明治元年)、藩行政と家臣の分離を定める藩治職制を設けて政府による藩統制が実施され、千八百七十一年(明治四年)には薩長土を主体とする御親兵とする軍事力を持って廃藩置県を行い、府県制を確立している。

この「藩(はん)」と言う呼称に関しては、維新政府が領主・大名に拠る支配体制を切り替える為に旧家臣勢力の抵抗を逸らす為の便宜的な制度だった事は否めない。

つまり、明治維新後のに成って初めて「藩(はん)」と言う呼称が公式に使用されたが、実は廃藩置県で藩が消失するまでの僅か二年程度の行政区名称だった。

廃藩置県及び帯刀禁止・禄の支給(知行地召し上げ)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-07-27 00:44 | Comments(0)  

幕藩体制(ばくはんたいせい)

江戸期の領主の支配地を「藩(はん)」と呼び、その藩(領主の支配)を統括する幕府(将軍)と言う封建的主従関係を、歴史学上は近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)と呼称使用されている。

藩(はん)は、江戸時代に一万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す歴史用語で、実は江戸期に於いての公的な制度名では無い。

昔の主従関係には思想的に家族主義が在り、鎌倉期の御家人呼称で判るように棟梁には一家内一族の生活を支える責任の側面が在った。

江戸期の中期頃までは徳川家の直参家臣は御家人で、各大名諸侯の家臣は藩士では無く家中の家来と呼んでいた。

つまり武士道は、一家内一族の生活を支える棟梁側の責任を前提とするもので、その一方が欠けた精神論だけにしてしまったのは明治政府の皆兵政策からである。

「藩(はん)」と言う呼称は江戸期の一部の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来して使用したもので、元禄年間以降に新井白石などの書に散見される程度だった。

新井白石が幕臣に編入されたのは千七百九年、徳川光圀が亡くなったのが その八年前の千七百一年であるから、水戸黄門漫遊記で「**藩や**藩々藩主」と言う台詞は公的な制度名でも一般的に使用されてもいなかったから、時代考証的には正しくは無い事になる。

江戸期に於ける「藩(はん)」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称された事は無く、「**家中」のような呼称が用いられ、例えば加賀前田氏は将軍家から松平を賜り名としていたから松平加賀守家中が加賀前田藩の公式呼称である。

通常会話に於いての領主の呼称については、「**藩々主」とは呼ばず封地名に「侯」を付けて「紀州侯」、「尾張侯」、「仙台侯」、「薩摩侯」、「加賀侯」と言った呼称が一般的だった。

藩士の呼称についても、江戸期於いては「仙台藩々士」とはほとんど言わず、公的には仙台藩伊達氏は将軍家より松平姓を賜っていたから仙台藩々士は「松平陸奥守家来」と称されのが通常だった。

但し、幕末になると大名領を「藩(はん)」と俗称する事が多くなった為、幕末時代劇の台詞では「藩(はん)」を多用しても時代考証的に可である。

つまり通りが良いので本書でも便宜的に使用しているが、幕藩体制(ばくはんたいせい)も「藩(はん)」も明治期に入り公称と成って一般に広く使用されるようになったもので、江戸期に於いて「藩(はん)」と言う呼称自体が一般的に使用されていた呼称では無いのである。

戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)が使われるに到ったのである。

版籍奉還(はんせきほうかん)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-07-26 00:38 | Comments(0)  

江戸城大奥女中(えどじょうおおおくじょちゅう)

江戸城大奥の体制を確立したのは、従三位春日局を朝廷から授かった斉藤福である。

当初の江戸城は、大奥は存在したものの政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。

しかし将軍家は、皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)同様に奥女中から「妾(側室)」を選ぶしきたりが在る独占のハーレム状態で、将軍次第で「妾(側室)」に代わる存在でも在った為、奥女中は寵愛の有無に関わらずお定め上は最初からお召し自由の将軍の妾妻である。

将軍の側室は基本的に将軍付き中臈(ちゅうろう)、イレギラーで御台付き中臈(御台付き奥女中)からも選ばれる。

将軍が目に適った者の名をお目見え以上の奥女中で老女とも呼ばれる御年寄に告げると、その日の夕刻にはその奥女中が寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。

御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合ってお召しとなり、奥女中の寝間の準備が行なわれた。

寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」(おはらさま)、男子を出産すれば「お部屋様(おへやさま)」となり、漸(ようやく)正式な側室となる。

さらに我が子が世子となり、やがて将軍ともなれば、落飾した側室でも将軍生母として尼御台(あまみだい、落飾した御台所)をはるかに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。

当然ながら、将軍のお手が付けば奥女中(御殿女中)から将軍継承者が産まれる事が在る。

万が一他の男との子では血統至上主義の将軍家が成り立たないから、大奥は男子禁制を引く事になる。

事は将軍家の継承問題に関わる大事である事から、三代将軍・徳川家光の乳母・春日局によって組織的な整備がなされて行き現在知られる形の大奥に整えられて行った。

本丸御殿は、表、中奥、大奥に区分され、この内、表と中奥は一続きの御殿で在ったが、大奥は表・中奥御殿とは切り離されており、銅塀で仕切られていた。

中奥と大奥を繋ぐ唯一の廊下が御鈴廊下で、将軍が大奥へ出入りする際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていた事からこの名が付いた。

いずれにしても本丸御殿大奥は、お手つきの有無に関わらず形式上は千人に及ぶ将軍の配偶者の居住区と言う事に成る。

つまり成熟し、発情期に入った女性が千人からの大勢で将軍のお情け(性交)を待っているのが大奥である。

正直、発想を女性側に変えれば奥女中は永久出仕の建前制度で、将軍からお情け(性交)を受けない奥女中の方が長期に可愛そうな男日照りである。

性的本能は誰にも存在するから、性交する自由を奪って奥女中に忍耐を強いるのは人間的に遥かに残酷な事かも知れない。

この男子禁制の大奥、確かに将軍のお種を確定するに充分な制度だった。

しかしこの時はまだ、虚弱精子劣性遺伝と言う氏族血統至上主義最大の難敵が存在する事を春日局は知る由も無かったのである。

皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)】に戻る。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2010-07-25 01:01 | Comments(0)  

皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)

天皇が執務と居住する宮城(禁中)が在る所をと呼ぶ。

皇居内裏(こうきょだいり)は天皇の居住区であり妻子も同居していたが、皇室居住区に務める内裏女官(だいりにょかん)を宮中女官(きゅうちゅうにょかん)・内侍(ないし)などとも呼び、その妻・妾(側室)に関して天皇は女官も含め多妻制だった。

天皇の妻に関しては資格に厳格な決まりが在り、「皇后又は妃(ひ/きさき)」と呼ぶ妻の資格は「四品(しほん)以上の内親王」を妻にした場合で二名以内、平安期以降の別称に「中宮(ちゅうぐう)」がある。

従三位以上の公卿の娘が配偶する場合は三名以内の「夫人(ふじん/おおとじ)」があり、従五位以上の貴族の娘であれば「嬪(ひん/みめ)」と呼ばれ、「嬪(ひん/みめ)」は平安期以降は女御(にょうご)とも呼ばれ四名以内と定められていた。

その他、順次地位が下がって行くが、定員十二名の「更衣(こうい)」、定員無しの「御息所(みやすんどころ)」、定員十二名の「御匣殿(みくしげどの)」などの女官も天皇の配偶者である。

いずれにしても、格(階級)さえ下げれば公式最大は三十三名プラス無限大の配偶者が天皇には認められていた。

尚、呼称・「御息所(みやすんどころ)」に関しては後に意味が転じて皇太子・親王の配偶者を称するようになった。

天皇が公の執務を司る宮城(禁中)の内側、天皇が常住し、「皇居」、「御所」などとも呼ばれる区画を「内裏(だいり)」と呼び、天皇に近侍してそこに務める女官を内侍(ないし)と呼ぶ。

内侍(ないし)は宮城(禁中)の後宮(内裏)に在った律令制に定められた役所で、奏請、伝宣、宮中の礼式等等を掌る内侍司の女官の総称で、役職位としては「尚侍(ないしのかみ/従三位相当)」二人、「典侍(ないしのすけ/従四位相当)」二人、「掌侍(ないしのじょう/従五位相当)」四人、他に「権掌侍(ごんのないしじょう)」二人と定められていた。

女官(内侍/ないし)は未婚である事が条件で、天皇の日常生活に供奉(ぐぶ)する役目で在ったが、皇后(中宮)・妃・夫人・嬪(ひん)などと呼ばれる天皇の「妾(側室)」は女官の中から選ぶしきたりが在り、「妾(側室)」に代わる存在でも在った。

つまりお定め上、内裏(だいり)の女官は寵愛の有無に関わらず最初からお召し自由の天皇の妾妻だった。

血統至上主義の皇統に在って止む得ない事だったのかも知れないが、皇居内裏(こうきょだいり)は天皇独占のハーレムだった事になる。

江戸城大奥女中(えどじょうおおおくじょちゅう)】に続く。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-07-24 01:47 | Comments(0)  

桓武天皇のヒタカミ(日高見国)蝦夷の役

七百八十一年(天応元年)、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)が即位した時、大和朝廷(大和王権)の完全支配域は日本列島の西半分に過ぎなかった。

桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)は、次は東北の蝦夷征伐と、七百八十八年(延暦七年)七月紀古佐美(きのこさみ)を征夷将軍に任命、七百八十九年(延暦八年)兵員、五万三千人 を集めて、東海・東山・板東から奥州に大軍を送り、東北に進行を開始する。

蝦夷が反乱を起こしたからその征伐に出掛けるのではなく、侵攻の最終目標は日高見国征服で、何年間も兵たんの準備をして何万もの軍勢でもっての侵攻作戦を立てている国家意志による侵略戦争である。

まず、このヒタカミ(日高見国)蝦夷の役、官軍と賊軍と表現する歴史学者も居るが、その表現は正しくない。

アテルイ(阿弖流為)は賊軍ではなく、祖国防衛軍である。

独立している祖国を、これから征服しようとする相手に、何で「賊軍」と呼ばれなければ成らないのか?

大和朝廷側の文献を鵜呑みに読む歴史学者の、余りにも大和朝廷寄りに偏った発想である。

ヒタカミ(日高見国)は 、七百二十四年に大和朝廷側の蝦夷開拓使・陸奥鎮守将軍・大野東人(おおののあずまびと)が、多賀柵(宮城県)を築いてからは北の方へ支配地を狭められて、主な支配地域は宮城県北を含む岩手県と秋田県内陸になっていた。

周囲は同じ蝦夷族の居住地だが、既に大和朝廷の支配下に置かれてヒタカミ(日高見国)は孤立していた。

ヒタカミ(日高見国)は度重なる大和朝廷の侵略にも耐えてきたが、 ここに大きく強力な敵、桓武天皇が現れる。

ヒタカミ(日高見国)蝦夷の首領にアテルイ(阿弖流為)と呼ばれる指導者がいた。

この名前、個人名なのか、地位の名称なのかまだ結論が出ていない。

アテルイ(阿弖流為)を人名と決め付けたのが現在の事情で有るが、悪路帝(王)説によると、「悪路」と言うのはアイヌ語の「アコロ」と同じ意味で、「われわれの」と言う意味ではないか、と言う事である。

つまり、平泉周辺の人々は、アテルイの事を「アクロオウ」と呼ぶ事で、ひそかに、昔の自分達の言葉で「我々の王」と呼んでいたのではないかと言う説もある。

弱小の村落を平定するのは容易であるが、いかに朝廷軍と言えども組織的に抵抗されるとそう簡単には決着がつかない。

征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)は、蝦夷の首領アテルイに大敗を喫する。

征討軍は北上川にそって北上を始めた。

余談だが、この北上川(きたかみがわ)の呼び名、本当はヒタカミカワ(日高見川)である。

対する蝦夷軍の将軍はアテルイ(阿弖流為)、朝廷軍は隊を二つに分けて進軍した。

アテルイ軍はその館から三百人ほどが出て抵抗を試みるが、適わず退却し、紀軍は村々を焼き払って追撃する。

日高見川(北上川)を渡った朝廷の戦闘部隊、四千人ほどの当時としては大軍が水沢の巣伏村に来た頃に、アテルイは急遽反撃に出る。

一部は後方に回ってこの渡河部隊を挟み撃ちにし激戦となるが、ここで朝廷軍は壊滅的な大敗北を喫する。

紀軍(朝廷側)の被害は戦死者二十五人・矢にあたった者二百四十五人・河で溺死した者千三十六人・河を泳ぎ 逃げて来た者千二百十七人と言う敗北で有る。

紀(朝廷)軍はここに来るまでに十四村・住居八百戸 を焼き討ちにして、アテルイ軍の戦死者は八十九人だった。

この住居焼き討ち戦果の記述、紀(朝廷)軍がまったくの侵略軍だった事を物語っている。


大和朝廷(ヤマト王権)の勢力図は、七百十年代頃の多賀城の鎮守府設営(宮城県)から百年かけて北上を続け、今の青森県の手前に到達している。

この百年間は、大和朝廷(ヤマト王権)勢力の奥州(東北地方)侵略の歴史で、エミシ(蝦夷)側にすれば、アテルイ(阿弖流為)やモレィ(母礼)は民族の英雄だった。

千九百九十年以降、漸(ようやく)くアテルイ(阿弖流為)と言う人名が教科書の歴史に記載される。

千九百九十七年度、中学校歴史教科書七社のうち三社がアテルイを取り上げ、二千二年度までに、八社中七社がアテルイ(阿弖流為)を記述するようになった。

二千年度前後で漸(ようやく)く中学校歴史教育に取り上げられたアテルイ(阿弖流為)の存在は、北海道の先住民族・アイヌに比較し東北の先住民族・エミシの復権が遅れた事を物語って居る。


蝦夷征伐の征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての武人公家である。

古佐美(こさみ)の紀氏(きし/きのうじ)は、武内宿禰(たけのうちすくね)系の古代豪族の一つで、宿禰の母・影媛(宇遅比女、武内角宿禰の祖母)が紀伊国造(きいくにのみやっこ)家の出であった事から母方の紀姓を息子に名乗らせたとされる。

紀氏(きし/きのうじ)は、古代は臣姓・朝臣を賜り、紀小弓・紀大磐・紀男麻呂などが廷臣や鎮守府将軍として軍事面で活躍する傾向が目立っていた。

しかしヒタカミ(日高見国)蝦夷の役で桓武天皇に命じられて征夷将軍として出撃した紀古佐美(きのこさみ)は、アテルイ(阿弖流為)の反撃に合い敗退して九月十九日に帰京したが、敗北の責任を喚問されて征夷将軍の位を剥奪された。

その敗戦後を受けてヒタカミ(日高見国)攻略に成功し、初代・征夷大将軍に出世したのが坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)である。

しかしこんな事(紀古佐美の敗退)で諦める桓武天皇ではなかった。

七百九十一年(延暦十年)蝦夷征伐準備のため、 坂上田村麻呂と百済俊哲を東海道諸国に派遣している。

この記述、「征伐準備の為」となっているが、建前大和朝廷が統治権を確立している事に成っている為で、「実は東海道諸国の平定だった」とも言われている。

七月に大伴弟麻呂を征夷大使に任命し、坂上田村麻呂は四人の征夷副使の一人となる。

この間にも七百九十二年には紫波村の首長の胆沢公・阿奴志己(アヌシユ)が朝廷に恭順を示すなど、蝦夷の方でもまとまり(団結)が欠けて行く。

同じ年(延暦十年)の七月、いよいよ討伐軍十万が派遣され、延暦十三年四月にこの大軍が北進を開始した。

七百九十四年、六月には副将軍・坂上田村麻呂以下蝦夷を征すとの報告をしている。

延暦十三年に首級四百五十七個を挙げると言う大勝利を収める。

十一月二十八日、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が帰京して戦果を奏上した。

この戦で坂上田村麻呂の活躍がめざましく、大いに面目を施した。

紀古佐美(きのこさみ)以後の紀氏(きし/きのうじ)であるが、平安時代に入り藤原氏が朝廷の要職を占めて来るに連れて紀長谷雄(紀大人の子の紀古麿の子孫)以降の紀氏(きし/きのうじ)は政治・軍事面で活躍する機会はほぼ無く成った。

紀淑望・紀淑人(紀長谷雄の子)、紀貫之・紀友則(紀大人の子の紀園益の子孫)以降の子孫は神職や文人として活躍するようになる。

氏族・紀氏(きし/きのうじ)の長は紀伊国造(きいくにのみやっこ)を称し、現在に至るまで日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市)の祭祀を受け継いでいる。

紀氏(きし/きのうじ)では、平安期・九百五年(延喜五年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集「古今和歌集」を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂した歌人の紀貫之(きのつらゆき)が有名である。

紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、菅谷氏、信太氏、高安氏、中村氏、品川氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮冒系図の可能性)、などが挙げられる。

国を統治する上で、交通網の整備は欠かせない。

昔の街道は、制定されると土地土地の責任でそれなりに手入れがされ、整備はされていたが今では考えられない程細い「土埃の街道だった。」と思われている。

我輩の理解もそんな処で、そう思うのが自然で在ったが、意外な事に、この街道に対する認識は江戸期以後の認識らしい。

調べてみると、そもそも道の成立ちは二種類ある。

つまり、道が出来て町が出来るのか、町が出来て道ができるのか。

当初開かれた日本の街道は、開拓地に相応しい米国型の道路だった。

七世紀の天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)以降に全国に張り巡らされた古代の幹線道路は、有事の際、軍隊や馬をいち早く移動させる必要から、ほとんどが要所に関所と駅屋(うまや・厩駅舎)を配置した「幅の広い直線道路」だった。

つまり、開拓と地方の治安維持が目的の街道だったのである。

その古代の広く真っ直ぐな街道が、やがて使われなくなる。

分国単位の封建統治がその所領ごとの防衛の必要性を生み出して、広い一本道は敬遠されたのである。

また、生活上の地形に合わせて発生した無秩序な集落を繋ぐ為に、「細く曲がりくねった街道になった」と言われ、十二世紀ごろまでには国策の幹線道路が使われなくなっている。

その幅広い道は今の様に海岸線ではなく、主として山の中腹に切り開かれていた。

現在の様に山腹にトンネルをうがつ近代土木技術と違うから、地形の高低さを克服するには、山の中腹と低い山の峠を繋いで行く峠道が有効だった。

その街道を疾走したのが、坂上田村麻呂と征夷軍だったのである。

十三年の功績により、田村麻呂は順調に階位を上げ、七百八十七年に近衛少将に七百八十八年に越後守に昇進している。

七百九十五年、(延暦十四年)には抵抗した俘囚大伴部・阿テ良(アテラ)等 六十六人を日向国に流配し、吉弥候部真麻呂父子を斬首している。

七百九十六年、(延暦十五年)田村麻呂は陸奥出按察使・陸奥守、に任命され、 翌、延暦十六年にはついに征夷大将軍に任じられる。

八百一年(延暦二十年)二月十四日、坂上田村麻呂は兵員 四万人を動員して、第三次征夷蝦夷攻撃に出発した。 田村麻呂の戦果は目覚しく、秋には従三位を授けられ、九月二十七日には「夷賊討伐せり」と報告として作戦を終了している。

度重なる攻撃で、蝦夷(エミシ)のアテルイと同盟軍モレィ(母礼)も力の衰えが見えていた。

翌八百二年(延暦二一年)には、長い間朝廷の征夷作戦に抵抗して来た蝦夷の首領・アテルイも・モレィ(母礼)等、「種類(配下)五百余 人を率いて降参する」としてアテルイは田村麻呂の軍門に下った。

田村麻呂は、日高見国の中心だった所に胆沢城(岩手県水沢市の近く)を作り、そこに関東から流浪人(囚人)を四千人ほど入れて永久 占領の構えを見せ始める。

朝廷軍は敵の本拠地を占領して城を作り始めた事になる。

祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事で、東北地方の祭らわぬ(マツラワヌ)山の民「またぎ」が、今日ではこの「日高見(北上)国の阿弖流為達の子孫達ではないか?」と言われて居る。

勝利成って、田村麻呂はアテルイとモレィ(母礼)を連れて帰京、凱旋している。

七月二十五日朝廷は大喜びして、「朝廷の役人総動員で蝦夷平定を祝賀する」と言う状態だったのである。

何やら、明治、大正、昭和期の戦勝賛賀、「ちょうちん行列」を思い起こさせるしろものである。

八百二年(延暦二十一年)八月十三日アテルイとモレィ(母礼)は河内国の杜山で斬刑に 処せられた。

その後の田村麻呂は八百十年(弘仁元年・平安時代初期)には大納言に任じられ、藤原薬子の乱では鎮圧軍の指揮も任じられた。

そして八百十一年(弘仁二年)五月二十三日、平安京郊外の粟田別業で田村麻呂は死去する。

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by mmcjiyodan | 2010-07-23 00:41 | Comments(0)  

身分制度と五パーセントの悪魔の犠牲者

為政者が統治を安定する為の手法として、「出世」を目標にさせて忠誠心を醸成させる事が身分制度の目的である。

しかしそれだけでなく、「自分より不幸な存在が在る。」と言う比較感を創出する事で不満を逸らせる狙いが、身分制度の陰に隠されている。

他国の事例でもほとんど同じだが、こうした隷属民の比率は五パーセントから十パーセント以内の少数である。

何故ならば、この賤民(せんみん)の存在が、被統治者の不満をかわす為の物で、「統治の安定」と言う政治的効果を狙ったものだからである。

狙いを明確にすると、惨めな身分の下層階級を作り出して大多数の比重を占める一般民衆の「不満と抵抗をそらす役割」を果たさせるのが目的である。

つまり数パーセントを犠牲者にして、一般民衆を自分達よりも下の身分の者が居る事で納得させ、武士支配を容易にするのが狙いである。

従って、この身分差別制度は「狙いが先に在ったもの」で、その差別を始めた被差別側には、被差別の強制世襲まで負わされる負い目や必然性などまったく無い。

大和朝廷は成立後、中華文明の身分制度を模倣採用した。

つまり、「中世」に制定された「律令制(りつりょうせい)」に於いて、同じ下層階級の非支配者層の民は「良民(常民)」と「非良民」に分けられていた。

支配階級の氏姓制度と下層階級の「良民(常民)」と「非良民(賤民・せんみん、奴婢・ぬひ)」の組み合わせで、身分別の居住エリアの分類が始まり、それぞれの居住地区が「本所と散所」に分離され、「散所(さんじょ)」に住む「非良民」と言う不当な身分の既存化・固定化が促進された。

此処で言う「中世」とは、おおむね平安時代終わり頃の十一~十二世紀の事である。

当初、身分制度の最下級に在ったのが被征服部族である縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の抵抗勢力俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)だった。

平安末期から戦国時代末期の十六世紀まで、この身分制度は多少の変遷を伴いながら実質的に続いた。

この時代、戦乱や飢饉が繰り返される中で、所有地または耕作地を失い生活ができない人々を排出した。

その中には荘園の免税地(散所)などに住み、公家や寺社に使われて労役奉仕をする事で生き長らえる道を選択した為に、その居住区が発生して「非良民・賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)」の身分が定着した。

賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)身分は、我が国日本では律令制(りつりょうせい)の解釈が完全消滅する江戸末期まで、お隣の朝鮮半島では両班(ヤンバン・特権貴族階級)制度が解消される大韓帝国成立まで、人間性を認められず「家畜身分」だった。

人間は残酷な生き物で、自分が安心する為に「見下す相手」を作りたがる。

それは現代の学校でも企業でも同じ事だが、多くの無知な者が、必ず虐めたり見下したりする被害者を作りたがる。

根にあるのは、生きる事に対する自信の無さ、「不安感」である。

こうした民衆心理を、巧みに利用したのが卑劣で不当な江戸期の身分制度だった。

子供の社会で起こる「虐(いじ)め問題」も、根にあるのは虐(いじ)める側の「不安感」である。

本来、その「救い」となるべきが「信仰の教え」の筈(はず)であるが、どう言う訳か宗教指導者は、信者を増やす為に不安心理を煽りたてる。

つまり、この差別願望と信仰は、精神的には究極の所で「同根」であり、いずれも目的は自分を安心させる為のものである。

この不合理な身分制度は、、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効され言われ無き差別は建前上なくなったが、その後も社会的に消滅するには尚時間が必要だったのである。

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by mmcjiyodan | 2010-07-22 01:26 | Comments(0)