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湯女(ゆな)

湯女(ゆな)の起源については、中世に於いて有馬温泉などの温泉宿にその原型が見られ、次第に「諸国の都市部に移入された」とされている。

また文献を紐解くと、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の生母・於由利の方は紀州藩第二代藩主・徳川光貞を湯殿で世話をしてお手が付き、源六(吉宗幼名)を懐妊したとされる。

大名家や大身旗本などでは奥女中が湯殿で世話をするのは一般的だったから、そうした情報も庶民に伝わって湯女(ゆな)誕生に影響したのかも知れない。

湯女(ゆな)と言う名称が一般化したのは、江戸時代初期の都市部に於いてであり、当初は銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性とされ、垢すりや髪すきだけだったが、次第に飲食や音曲に加え性的なサービスを提供するようになって諸国で湯女が流行(はや)った。

つまり現代のソープラントに於けるソープ嬢の走りが、江戸前期の「湯女(ゆな)」と言う事になる。

性的なサービスを提供するようになった為に幕府はしばしば湯女禁止令を発令し、江戸では千六百五十七年(明暦三年)以降は吉原遊郭のみに限定された。

禁止後は、三助と呼ばれる男性が垢すりや髪すきのサービスを行うようになり、湯女(ゆな)は「あかかき女」、「風呂屋者(ふろやもの)」などの別称で幕府の禁止令を逃れようとした歴史が在って現代に至る。

遊女関連の詳しくは、小論【遊女(女郎)の歴史】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2010-08-28 20:28 | Comments(0)  

陰間(かげま)と野郎歌舞伎

現代でこそ日本が誇る伝統文化と言われる歌舞伎界にも、江戸期にはまだ華やかな表舞台の光に対して陰間(かげま)と言う影の部分が在った。

陰間(かげま)とは江戸期に於ける性風俗の一種で、数え十三〜四から二十歳頃の美少年が茶屋などで客を相手に男色を売った男娼に拠る売色の総称である。

陰間(かげま)は所謂(いわゆる)両刀使いで、男性だけでなく女性も客に取り、特に数え二十五歳を過ぎた陰間は女性を相手にする事がほとんどだった。

語源の由来は、野郎歌舞伎でまだ舞台に出ていない修行中の少年役者の事を「陰の間の役者」と呼んだ事が、彼らが売色を兼業していた為に、陰間(かげま)が「男娼を差す語となった」とされる。

こうした背景には、遡ると歌舞伎の源流である歌舞音曲の発祥が神前巫女舞(神楽舞い)の音楽と舞いからで、神前巫女が娼婦を兼ねていた事からの伝統として娼婦を兼ねる高級遊女・白拍子が生まれ、やがて出雲阿国に拠る巫女舞を発祥とする旅回りの阿国歌舞伎が始まったが、勿論娼婦は兼業だった。

女歌舞伎が娼婦兼業だった為に、「風紀が乱れる」とした江戸幕府は歌舞伎に女性が出演する事を禁じたが、しかし野郎歌舞伎に成っても伝統の売色は無く成らず、女性の売色が美少年の売色に成っただけだった。

江戸期も時代が下ると、陰間(かげま)の語源を離れて舞台に立たない専業の男娼(陰間)を抱える陰間茶屋が出現し、役者が売色もする芝居小屋とは一線を画す業態も出現するようになって行った。

当然ながら、当時の風俗では氏族階層に於ける稚児小姓の習俗も残っている時代だから、「色道の極みは男色と女色の二道を知る事だ」と言われていた為、同性愛者と言うよりは粋と珍奇を求める遊客で陰間茶屋は大いに栄えた。

芸者などが「芸は売っても身は売らぬ」と言うものの、それは現代に成ってからの話しで、つまり我が国の歌舞音曲の遊興には、売色とセットが昭和の始め頃までは永い間常識だったのである。

出雲阿国】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-08-21 02:07 | Comments(0)  

日清戦争(十)本格陸海大戦と終結

日清戦争(九)開戦 】に戻る。

日清戦争開戦・豊島沖海戦の後、七月の末、日本軍は陸上でも成歓で清国軍を破り、九月の平壌の陸戦、続く黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。

尚、豊島沖海戦は、猶予付最後通牒への返答がないまま期限が切れてまだ互いに宣戦布告はなされていない早朝、両国海軍の開戦準備途中の第一遊撃隊(司令官 坪井航三少将)旗艦・吉野(よしの)、秋津洲(あきつしま)、浪速(なにわ、艦長 東郷平八郎大佐)の三艦が航行時に防護巡洋艦 ・済遠(ツアィエン/さいえん)、巡洋艦・ 広乙の二艦と遭遇し砲撃を交わした。

その海戦中に、清国側は砲艦・操江及び商船「高陞」(船長 トーマス・ライダー・ゴールズワージー)の二艦が合流するも、済遠が大破、広乙と高陞は撃沈、操江は鹵獲(ろかく=接収/せっしゅう)された。

黄海海戦(こうかいかいせん)は千八百九十四年(明治二十七年)九月中旬に日本海軍連合艦隊と清国北洋艦隊の間で戦われた海戦で、初めて近代的な装甲艦が実戦に投入された戦いとしても知られ鴨緑江海戦とも呼ばれる。

この海戦では艦の速度が重要な決め手と成り、速度に勝る日本海軍が終始有利な戦いを進め、結果、清国北洋艦隊は経遠、致遠、揚威、超勇、広甲の五隻の巡洋艦を沈没で失う大損害を受けて無力化し制海権を失った。

日本海軍側の艦船に沈没艦はなかったが、但し旗艦の巡洋艦・松島、巡洋艦・比叡、仮装巡洋艦・西京丸、砲艦・赤城の四隻が大破している。

十月に入り、日本軍の第一軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡河して清帝国の領土に入った頃、第二軍も清帝国の領土・遼東半島に上陸を開始しする。

大本営の命令の下糧食不足と耐寒軽装備での冬の行軍に苦しみながらも、約一万二千の清軍の内九千人が新募兵と士気などが低い事もあり、十一月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。

この旅順攻撃軍には、第一旅団を率いる乃木希典(のぎまれすけ)少将の姿も在った。

思えばこの日清戦争勝利経験が、その後の大本営の現場実状を無視した無茶な作戦立案の基に成ったのかも知れない。


旅順攻略戦に於ける日本側の損害は戦死四十名、戦傷二百四十一名、行方不明七名に対して、清国は四千五百名の戦死、捕虜六百名を出して敗退する。

この一連の陸戦に於いて、終始日本軍が優位に立ったには国産化小銃・田村銃の存在がある。

欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていたが、日本の場合は旧藩がそれぞれの基準に拠ってバラバラに輸入を行った為に統一性を欠く装備で弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。

慌てて軍の近代化を進めた清帝国も銃装備は同様にバラバラで在ったが、日本では千八百八十年(明治十三年)に日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。

日本陸軍はこれを村田銃と命名し改良を進めながら全軍の小銃の切り替えを進め、同銃が全軍に支給されて行く過程で日清戦争に突入した。

日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていた訳ではなかった。

だが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていた為、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能と成っていたのに対し清国陸軍では小銃の混在状態が続いて居て、部品の補給などに手間取るなどの混乱が生じて劣勢に終始したのである。

翌千八百九十五年二月、清帝国の北洋艦隊の基地である威海衛(ウェイハイウエ)を日本軍が攻略し、三月には遼東半島(リャオトンバンタオ)全域を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。

台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、澎湖列島(馬公湾が天然の良港)を占領する。

司令長官・伊東祐亨中将率いる南方派遣艦隊の旗艦・吉野が座礁し予定より到着が遅れ、派遣約六千二百名中の約千二百六十名もの病死者を出すコレラ発生に苦しんだものの、三月下旬混成支隊が澎湖列島に上陸を果たす。

この段階に至り、千八百九十五年(明治二十八年)三月中旬、劣勢の清帝国は漸く休戦・講和に動き、李鴻章(リホンチャン)全権大使が門司に到着した。

下関での交渉の席上、李は、日本側の台湾割譲要求に対し、「日本軍は台湾本土に入っておらず筋が通らない」と大いに反論するも交渉中の李全権大使が五日後に日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、慌てた日本側が早期決着に動いた。

その為、台湾と澎湖列島を除く一時的な休戦に合意し、翌四月中旬日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(二億両/約三・一億円)、日本に最恵国待遇を与える等が決まり五月初旬に清帝国の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。


日清戦争(にっしんせんそう)は、日本での正式名称は明治二十七~八年戦役(めいじにじゅうしちはちねんせんえき)と呼び、戦争期間が十ヵ月、日本の戦費総額は日本円で三億円、死者一万三千人を費やした戦役である。

千八百九十四年(明治二十七年)七月から翌千八百九十五年(明治二十八年)四月にかけて行われた主に朝鮮・李氏王朝の利権をめぐる日本と清帝国の戦役で、一部の朝鮮王朝の権力者が己の権力の為に日清両国の後押しを利用したに過ぎず、朝鮮国民の望むものではなかった。

日清戦争(九)開戦 】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-08-16 01:55 | Comments(0)  

日清戦争(九)開戦

日清戦争(八)天津条約と甲午農民戦争】に戻る。

甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請するも両軍ともに受け入れず、伊藤内閣は停戦後の六月半ば朝鮮国の内政改革を日清共同で進める案を提唱する。

清帝国が拒否すれば日本単独で指導すると言う方針を閣議決定し清帝国に通告、清がこれを拒否すると条約改正交渉の結果、領事裁判権を廃止する日英通商航海条約調印を経て五日後、大鳥公使は李氏・朝鮮政府に清軍の撤退と朝清間の条約廃棄を三日間の期限で回答するよう通告する。

これに対して朝鮮政府は日清両軍の撤兵要求を回答した為、七月下旬未明に陸軍第五師団の二個大隊が漢城の電信線を切断して朝鮮王宮を三時間にわたり攻撃・占領し、その後豊島沖海戦、牙山攻撃が行われる。

これは開戦の名義を立てる目的で朝鮮政府の閔(ミン)氏一族を追放し、興宣大院君(フンソンデウォングン)を再び担ぎだして政権を樹立して日本に清軍の朝鮮からの撃退を要請させる為で在った。

この日本政府の強引な日清開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していたと伝えられる。

日本軍の王宮占領後、朝鮮国では軍用電線の切断、兵站部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など民衆の「義兵」反日抵抗が続いたが、千八百九十四年十月に全琫準(ぜんほうじゅん)を指導者とする東学農民軍が侵入した日本軍を秀吉軍の再来と受け止め再蜂起する。

農民軍参加者は延べ十三万人を超えると推定されている。

興宣大院君(フンソンデウォングン)は農民軍鎮圧の為の派兵をしないよう大鳥公使に要請したが、日本は部隊(歩兵独立第十九大隊)を十一月初めに派兵し、下旬からの公州攻防戦で勝利して農民軍を南方へ退ける。

更にロシアの軍事介入を極度に警戒した日本は、農民軍の北進を恐れ朝鮮最西南端の海南さらに珍島まで追いつめて徹底的に殲滅した。

対清宣戦布告は八月一日で、日本政府が国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は下記のごとくものである。

そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。

それにも関わらず清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。

日本は済物浦(チェムルポ/さいもっぽ)条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久に無くし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清帝国に協同して事に従おうと提案したが清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。

日本は朝鮮の独立を保つ為朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。

しかし、清国はそれを妨害し朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖(豊島沖)で日本の軍艦を攻撃した。

日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。

清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。

事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。

戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。

と言った意味の文面だった。

宣戦布告など、大概は一方的な正義を振りかざしたものだが、これを正論と採るか言い掛かりと採るかは「夫々(それぞれ)の考え方」と言う事になる。

日清戦争(十)本格陸海大戦と終結】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-08-15 00:33 | Comments(0)  

日清戦争(八)天津条約と甲午農民戦争

日清戦争(七)壬午事変(じんごじへん)と甲申政変(こうしんせいへん)】に戻る。

千八百八十五年、全権大使・伊藤博文と清帝国全権・李鴻章(リホンチャン)により天津条約が結ばれ、四ヶ月以内の日清両軍の朝鮮からの撤退と、以後出兵時の事前通告及び事態の沈静化後すみやかに撤収すべき事が定められ、その後十年間は外国軍隊の朝鮮国駐留はなくなった。

こうした日清の軋轢の中、千八百八十六年に清帝国の北洋艦隊の内・定遠など四隻の軍艦が長崎港に入港した際、上陸した水兵が日本の警官隊と衝突し双方に死傷者を出す長崎事件が起きている。

何度か起こった朝鮮国内の事変後、明治政府は軍備拡大を進めていて千八百八十二年、山縣有朋は煙草税増税分による軍備拡張を、岩倉具視は清帝国を仮想的国とする海軍軍拡と増税を建議し、陸軍は三年後からの兵力倍増を、海軍は翌年からの八ヵ年で四十八隻の建艦計画を立てた。

そうした軍備拡大の為、歳出に占める軍事費の割合は千八百八十二年度には17.4%だったが、八年後の千八百九十年年度には30%を超えるまでに増大する。

この軍備拡大の間、千八百八十三年に政府は徴兵令を改正し免役規定中の代人料を廃止して兵員増を図り、千八百八十八年には従来の内乱鎮圧型の鎮台を改編し六師団と近衛師団を創設して海外での戦闘能力を高め、千八百八十九年には徴兵令の免除規定を全廃している。

壬午事変(じんごじへん)と甲申政変(こうしんせいへん)の事変後、朝鮮国に於いて日本は経済的に進出し、千八百九十年代の朝鮮国貿易に於いて日本は輸出の90%以上、輸入の50%を占め、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させる。

当時の朝鮮国はただでさえ宮廷上層部の権力闘争に明け暮れ、維新後の日本の様に殖産に力を入れるでもなく財政が逼迫していたから地方官の搾取、賠償金支払いの圧力に対して農民が立ち上がった。

千八百九十四年六月、朝鮮国に於いて東学教団構成員の全琫準(ぜんほうじゅん)を指導者として暴政を行う役人に対する憤りから民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう/東学党の乱)が起き、全羅道首都・全州を占領する。

この甲午農民戦争(東学党の乱)の内乱により李氏朝鮮政府は清帝国の派兵を要請する一方、農民軍への宣撫にあたり、農民軍の弊政改革案を受け入れて全州和約を結び、清帝国および日本の武力介入を避けるべく農民軍は撤退した。

清帝国は日本に派兵を通告して九百名の軍隊が朝鮮国・牙山に上陸、折りしも日本の伊藤博文内閣は議会との激しい対立(内閣弾劾上奏案可決)しており、政治的に行き詰まった伊藤内閣は対外的に強硬に出て事態打開を図ろうとした。

甲午農民戦争(東学党の乱)を内政混乱打破の好機と捉えた閣議は、衆議院解散と公使館、居留民保護の名目で朝鮮への混成一個旅団八千名の派兵を決定し史上初の大本営を設置した。

海軍陸戦隊四百名と大鳥圭介公使が漢城に入り、後続部隊を合わせて四千名の混成旅団が首都周辺に駐留する事となったが、既に農民軍は撤収しており天津条約上でも日本軍の派兵理由は無くなった。
清帝国も軍を増派したが首都に入る事は控えて、上陸地点の牙山を動かなかった。

日清戦争(九)開戦】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-08-14 21:04 | Comments(0)  

日清戦争(七)壬午事変(じんごじへん)と甲申政変(こうしんせいへん)

日清戦争(六)琉球処分と分島改約案】に戻る。

修好条規締約後の朝鮮国では日本の支援による兵制改革で軍人が失職し、残った旧式軍隊にも給与が遅配、開国後の貿易で日本への米輸出による米価高騰と食糧危機が民衆を圧迫していた。

そうした千八百八十二年、失脚していた興宣大院君(フンソンデウォングン)らの煽動を受けて、旧式軍の兵士と市民が漢城で蜂起し朝鮮国で壬午事変(じんごじへん)が起こる。

旧式軍の兵士と市民が漢城で蜂起して新編成の「別技軍」の日本人教官らを殺害し日本公使館を包囲、翌日には政府と王宮を襲い領議政(ヨンイジョン/首相)と李高宗(イーコジョン/李氏朝第二十六代)王妃・閔(ミン)妃の一族・閔(ミン)氏系高官らを殺害、公使館が焼失し(公使自ら火を放つ)、日本人十数人が殺害される事態となった。

この壬午事変(じんごじへん)に日清両国が出兵、日本から軍を率いた花房義質公使が派遣され、朝鮮国と済物浦(チェムルポ/仁川の旧称)条約を調印し、日本人被害者への補償五万円、公使館の損害と日本の出兵への補填金五十万円と公使館警護の為に若干の軍隊の漢城駐留などを取り決めた。

壬午事変(じんごじへん)後、清帝国は河南省陳州府項城県の名家出身の軍人・袁世凱(ヤンシカイ)らが指揮する軍隊を朝鮮に駐留させ、軍隊訓練や政府顧問を置くなど朝鮮国の軍事や内政に積極的に関与した。

袁世凱(ヤンシカイ)は、興宣大院君(フンソンデウォングン)を天津へ連れ出し幽閉するなど早くも能力を発揮して清帝国軍部で力を着け、北洋軍閥を指揮して清帝国にも発言権を持つ様に成って行く。

千八百八十四年、ベトナムをめぐる清帝国とフランスとの対立で朝鮮駐留清軍の半数が帰還し、事変後政治的に後退していた日本は竹添進一郎公使を漢城に帰任させ、済物浦(チェムルポ/さいもっぽ)条約の未払い分四十万円の返上を申し出させた。

開化派(開化党)は日本公使・竹添進一郎の支援を利用して事大派政権打倒を計画して甲申政変(こうしんせいへん)を起こし、日本公使・竹添は警護兵百数十名を連れて朝鮮王宮に国王保護の名目で参内して開化派を支援しており、重大な内政干渉だった。

朝鮮国近代化を急ぐ一環で在った郵政局の開局祝賀宴に際し事大派要人を襲撃、その後王宮内で六人の大臣を殺害するなどして新しい政権を発足させたが、翌日に清帝国・袁世凱(ヤンシカイ)の武力介入により失敗する。

また、日本公使・竹添が率いる警護兵百数十名が清帝国軍との間に王宮で戦闘をし双方に死者を出したが、これは近代に於ける日中間の最初の武力衝突となる。

この時またも公使館が全焼し日本人に三十数名の犠牲者を出し、日本国内では翌年に福沢諭吉が「脱亜論」を時事新報に執筆するなど、日本の国内世論に於いても朝鮮、清両国への反感が高まって行った。

天津条約と甲午農民戦争】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-08-14 00:34 | Comments(0)  

日清戦争(六)琉球処分と分島改約案

日清戦争(五)江華島事件と日朝修好条規】に戻る。

明治政府は千八百七十二年(明治五年)所謂(いわゆる)「琉球処分」を行い琉球藩を沖縄県とする。

明治政府は琉球王・尚泰の東京移住を命じるが、琉球内ではそれを不服とし明治政府に様々な嘆願を行い、また清に救援を求める人々も在った。


千八百七十九年(明治十二年)、清帝国は琉球との冊封関係の回復にむけ積極的になり、日清両国の関係は悪化する。

おりしも世界巡遊中の前合衆国大統領ユリシーズ・グラントが明治天皇との会見で西欧列強の介入を防ぐ為の日清両国の譲歩を助言した事もあり、千八百八十年(明治十三年)北京で日清の交渉が行われた。

この時日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とし、日清修好条規に中国内での日本人の通商権を追加する案(分島改約案)を提示し一旦はまとまる。

しかし元来、清帝国は二島の領有を望まず、冊封関係維持の為に二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島に対する琉球人の反対もあり清帝国とは調印に至らなかった。

この琉球問題の決裂と日本の台湾への野心の疑いから清帝国側ではこの後対日強硬論が唱えられるに至る。

この結果、領有権問題の解決は千八百八十四年(明治十八年)の日清戦争後まで持ち込まれる事になった。

詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。

日清戦争(七)壬午事変と甲申政変】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-08-13 18:48 | Comments(0)  

西郷隆盛・鹿児島私学校

征韓論と「明治六年の政変」】に戻る。

千八百七十四年(明治七年)二月、閣議で台湾征討が決定した。

この征討には参議・木戸孝允が反対して参議を辞めたが、西郷隆盛も反対していた。

しかし、隆盛三弟・台湾征討軍の都督・西郷従道の要請を入れ、止む無く鹿児島から徴募して、兵約八百名を長崎に送った。

征韓論と「明治六年の政変」で下野した西郷隆盛は、故郷鹿児島で大半を武村の自宅で過ごし、猟に行き、山川の鰻温泉で休養していたこの明治七年三月、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し一泊、翌日指宿まで見送ったが、その後江藤は土佐で捕まっている。

西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治六年末以来、鹿児島県下は無職の血気盛んな壮年者が多数のさばり、それに影響された若者が溢れる状態になった。

これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令大山綱良の協力を得て、同千八百七十四年(明治七年)の中頃に旧厩跡に私学校がつくられた。

私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。

翌千八百七十五年(明治八年)、この他に西郷と県令・大山綱良との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)も創るられた。

西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、大山県令もこの力を借りる事なしには県政が潤滑に運営できなくなる。

大山県令は私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、千八百七十五年(明治八年)度や翌年度には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。

このようにして別府・辺見・河野・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は西郷の私学校党の支配下に於いて「半ば独立状態にある」と見為すようになった。

しかも千八百七十三年(明治六年)徴兵令公布、千八百七十六年(明治九年)廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族最後の特権をも奪われた事に憤慨した熊本県士族神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱萩の乱と続き、世相は西南戦争前夜の様相を呈していたのだ。

西南戦争/西南の役 】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-08-11 00:19 | Comments(0)  

日清戦争(五)江華島事件と日朝修好条規

日清戦争(四)台湾出兵】に戻る。

千八百七十三年の末になると朝鮮・李氏王朝の興宣大院君(フンソンデウォングン)は失脚し、王妃の一族・閔(ミン)氏が政権を握り、朝鮮国内でも通商開化を説く意見が登場し始める。

明治政府は千八百七十四年(明治七年)の年中から交渉を再開するがやはり紛糾した為、軍艦数隻を朝鮮国沿岸に派遣し海路を測量させて示威を行い交渉を有利に進める事とし、千八百七十五年(明治八年)軍艦・雲揚、第二丁卯の二艦を派遣した。

この軍艦・雲揚が同千八百七十五年九月、朝鮮国首都・漢城に近い要塞地帯であった江華島に接近し、発砲されたとの理由で三日間にわたり戦闘し永宗島の砲台を攻撃・占領する事件が起きた。

明治政府は同年の末に黒田清隆を特命全権大使に任命し軍艦三隻などの艦隊をともなって朝鮮国に派遣して砲艦外交に入り、その結果翌年の千八百七十六年春朝修好条規が調印された。

これは首都への公使駐在と釜山の他二港の開港と日本人の居留通商などを認めさせたが、第一条で「朝鮮は自主の邦にして、日本国と平等の権利を保有せり」としながらも第十条で片務的領事裁判権を規定する不平等条約で在った。

さらに第七条では、日本が朝鮮国沿岸の測量権を得て軍艦の周航など軍事的進出を容易にする事となっていた。

なお「自主の邦」と規定したとは言え、清帝国は冊封関係に於いて従来から「属国自主」として内政・外交については関与しない立場を採っており、解釈上清帝国の宗主権を否定し尽くすものでもなかった。

ちなみに千八百八十二年の朝清商民水陸貿易章程では清帝国の宗主権が明文化されている。

江華島事件後の朝鮮国では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。

それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清帝国との対立も表面化して来る。

日清戦争(六)琉球処分と分島改約案】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-08-10 07:12 | Comments(0)  

日清戦争(四)台湾出兵

日清戦争(三)征韓論と「明治六年の政変」】に戻る。

千八百七十一年(明治四年)に琉球船が難破し台湾南部へ漂着した際、先住民による琉球島民殺害事件(牡丹社事件/ぼたんしゃじけん)が発生していたが、明治政府はそれを解決できないまま数年が経過していた。

この琉球島民殺害事件に対して旧薩摩藩出身者を中心に台湾出兵が建言され、征韓論派下野の後、政府は内務卿・大久保利通の主導の下、派兵を決定する。

千八百七十四年(明治七年)、台湾蕃地事務長官に大隈重信、同都督に陸軍中将・西郷従道を任命して出兵準備をさせた。

兵力は二個大隊(三千名)であり、内鎮台兵(正規兵)は一個大隊で残りは「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で占領地永住を前提に募集・編成されたもので、言わば失業士族の雇用対策の面も在った。

しかし英国や米国の反対圧力と局外中立の表明及び征韓論にも反対していた参議・木戸孝允が征韓論を否定して置きながら、同じ海外である台湾に出兵するのは「矛盾している」と反対、参議の辞表を提出して下野してしまう。

木戸孝允の反対と辞任により政府は一旦台湾出兵の中止を決めるが、西郷従道が征討軍を長崎から出航させると大久保利通もこれを追認し、日本軍が台湾南部の事件発生地域を占領する事となった。

日本軍は台湾先住民の村を焼き払うなどし、日本側の戦死者は十二名で在ったが、年末までの駐屯でマラリア等による病死者が五百名を超える大事態となった。

この台湾出兵は近代日本初の海外出兵で在ったが、清帝国側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。

明治政府は撤兵交渉決裂の場合の清帝国との開戦も決し、「和戦を決する権」を与えられた大久保が全権大使として北京で交渉し、難航の末英国の仲介もあり清帝国は日本の出兵を「義挙」と認め、五十万両(テール)の賠償をする事で政治決着、植民兵は撤兵した。

この台湾出兵は琉球の帰属問題で日本に有利に働き、明治政府は翌千八百七十五年(明治八年)琉球に対し清帝国との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清帝国との関係存続を嘆願、清帝国が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着は着かなかった。

また清帝国は以後日本の清帝国領土簒奪への警戒感を持ち北洋艦隊建設の契機ともなっている。

日清戦争(五)江華島事件と日朝修好条規】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-08-09 22:46 | Comments(0)