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阿倍氏・安倍氏(あべうじ)

六百年代(奈良時代)、どうも渡来部族では無いらしい阿倍氏が歴史書に現れる。

阿倍・安倍氏について、渡来系部族であるとの説を採る者が居るがトンデモナイ誤解である。

左大臣・阿倍倉橋麿と越国守・阿倍比羅夫(あべのひらふ)と言った顔ぶれである。

越国・阿倍氏は、独立した有力部族説があり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)や阿倍氏一族が、どの時点で大和朝廷(ヤマト王権)に参加(一体化)したのか、現時点では定説はない。

藤原氏の台頭に時を合わせるように力を失って行く古代の有力豪族、大和朝廷黎明期の阿倍氏、阿倍倉橋麿や阿倍比羅夫について、その出自が所謂(いわゆる)土着の部族王・御門(みかど/臣王)であれば色々と説明が着く。

そして越後守(越後国主)は、まさに臣王(おみおう/御門)であり、中央の大和朝廷が任命派遣したのではなく、都市国家もどきの小国群の残滓(ざんし)、既存の越国(えつのくに)の部族王・御門(みかど/臣王)の阿倍比羅夫を「越国守と追認した」と考えるのである。

陰陽師安倍清明は、阿倍倉橋麿から数えて九代目の子孫にあたり、阿倍倉橋麿と阿倍比羅夫(あべのひらふ)は「従弟にあたる」と言う説もある。

この阿倍氏と安倍氏は古代の系図上同じとされ、阿倍氏は孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)を祖先とする皇別氏族とされるが確たる証拠は無い。

歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化大王(せんかおおきみ/第二十八代天皇)の大夫(だいふ)であった阿倍大麻呂(あべのおまろ)が初見であるが、大と火の書文字が似ている事から阿倍火麻呂(あべのほまろ)とする説もある。

つまり阿倍氏として始めて中央に登場する阿倍大麻呂(あべのおまろ)なる人物が、この物語で述べる阿倍氏蝦夷王説の「安倍=アピエ(火)説」と別説名・火麻呂(ほまろ)の名の一致点は偶然だろうか?

そして阿倍氏は、まだ大和朝廷(ヤマト王権)の統治が落ち着かない東国支配の強化に朝命を持って活躍し、その子孫が蝦夷俘囚長の奥州安倍氏(引田系阿倍氏)・安倍貞任(あべのさだとう)安倍宗任(あべのむねとう)兄弟に繋がると言うのだ。

安倍貞任(さだとう)、安倍宗任(むねとう)兄弟の父・安倍頼時(あべのよりとき)は平安中期の陸奥(むつ)の豪族で、千五十年代に前九年の役で源頼義義家父子と戦っている。

一方、中央に在った阿倍朝臣(あべあそみ)阿倍氏は、大化の改新の新政権で左大臣・阿倍倉梯麿(あべのくらはしまろ・六百八十年代活躍)、遣唐留学生から唐帝国高官・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ・七百五十年代活躍)などを経て、九百年代中期に陰陽師・安倍清明を輩出している。

以後土御門家として陰陽頭を任ずる貴族となる。

謎が多過ぎる氏族とされるこの安倍氏・安倍氏の謎については、日本人単一民族説や大和朝廷(ヤマト王権)の貴族が全て渡来氏族と錯誤していては永久に解決しないのではないだろうか?

七世紀(奈良時代末期)の中頃には、大和朝廷(ヤマト王権)の勢力範囲は日本海岸沿いで北陸の越国まで達しており、この頃の阿倍比羅夫(あべのひらふ)は大和朝廷の将軍で越国守を任じ、北陸の越国(えつのくに)の国司をしていた。

つまり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は大和朝廷の勢力範囲の最前線に居て、阿倍氏一族の内、「引田臣」と呼ばれる集団を率いていた。

また一説に拠ると越国(えつのくに)・阿倍氏は、独立した有力部族長説(国主=国造=倭国王の一人)があり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)や阿倍氏一族が、どの時点で大和朝廷に参加(一体化)したのか、現時点では定説はない。


実は先住民族(蝦夷/エミシ) の王族から大和朝廷に合流して豪族と成ったアピエが、当初の当て字「安倍(アピエ=あべ)」を名乗ったのが安倍氏の始まりと言う説が有力である。

「安倍氏」から、一部が「阿倍氏」となり、遥か後に大阪地域に組み込まれて一部となる阿倍野は、大和朝廷主力豪族の「阿倍氏」の本拠地(支配地)だった。

他に「安倍氏」の一部は、部民名の安部・阿部を用いる者も出現した為、安倍・阿倍・安部・阿部は全て同系統と考えられる。

従って京都・晴明神社や名古屋・晴明神社は安倍晴明表記だが、晴明生誕の地と言われる大阪市阿倍野区の安倍晴明神社の表記は安部晴明神社とある。



安倍晴明は、阿倍倉橋麿から数えて九代目の子孫にあたり、阿倍倉橋麿と阿倍比羅夫(あべのひらふ)は「従弟にあたる」と言う説もある。

この説では阿倍比羅夫(あべのひらふ)は後の「前九年の役」での源氏の敵役、俘囚長と言われた安倍貞任の七代先祖である。

すると、阿倍氏・安倍氏には蝦夷王(えみしおう)の立場と大和朝廷(ヤマト王権)下での臣王(国造/くにのみやっこ)の立場が並立する。

民族的抵抗派を抑えるのは同族の恭順派を使うのが古今の常識だから、或いは早い時期に恭順した蝦夷王(えみしおう)・阿倍氏・安倍氏が、マツラワヌ蝦夷族(えみしぞく)を大和朝廷(ヤマト王権)に恭順させる役目を負って居たのではないだろうか?

一説に拠ると、阿倍氏は欠史八代(実在しないとみられている天皇)とされる第八代・孝元天皇の皇子・大彦命の末裔で、大和朝廷(ヤマト王権)では北陸・東国経営に大きく関った為に、「アベの一族」は現在でも東日本に多いとされている。

孝元天皇の皇子・大彦命については、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣にその名が刻まれた事から「実在する」との説もあるが、何しろ実在を疑われている聖徳太子にしてもその名をかざす寺が建立されるなど、出土品が事実を示すかどうかの検証は難しい。

孝元天皇の末裔説については、「アベの一族」が北陸・東国経営に大きく関ったされる事も、逆説的考えれば古代の独立した部族王が大和朝廷(ヤマト王権)に合流するに際し、皇統のすきまを繕い、有力王族(部族王)の符系を政治的にまとめた疑いが強く感じられる。

いずれにしても安倍氏は、六百年代(奈良時代)に成って突然古代豪族・阿倍氏として登場し、その本拠地とした所が奈良県桜井市に「安倍」や「阿部」と言う地名となって残っている。

阿倍氏・安倍氏の詳しくは【日本語のルーツと安倍氏】を参照下さい。

関連小論【賀茂忠行(勘解由小路家)と安倍晴明(土御門家)の謎】を参照下さい。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2010-09-29 16:55 | Comments(0)  

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、朝臣(あそみ)・阿部臣とする中務大輔・阿倍船守の子である。

阿倍氏は、孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)を祖先とする皇別氏族とされるが確たる証拠は無く、歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化大王(せんかおおきみ/第二十八代天皇)の大夫(だいふ)であった阿倍大麻呂(おまろ)が初見で、阿倍火麻呂(あべのほまろ)とする説もある。

つまり阿倍氏として始めて中央に登場する阿倍大麻呂(あべのおまろ)なる人物が、この物語で述べる阿倍氏蝦夷王説の「安倍=アピエ(火)説」と別説名・火麻呂(ほまろ)の名の一致点は偶然だろうか?

そして阿倍氏は、まだ大和朝廷(ヤマト王権)の統治が落ち着かない東国支配の強化に朝命を持って活躍している。

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、若くして学才を謳われ七百十七年(霊亀二年)多治比県守(たじひのあがたもり)が率いる第九次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。

同期遣唐使一行には留学生・下道真備(吉備真備/きびのまきび)や留学僧・玄昉(げんぼう)がいた。

仲麻呂(なかまろ)は唐の太学で学び、唐現地の学生でも中々合格しない科挙に合格し唐の皇帝・玄宗に仕え、七百二十五年の洛陽司経局校書として任官したのを皮切りに、七百二十八年に左拾遺、七百三十一年に左補闕と官位を重ねている。

仲麻呂(なかまろ)は唐の朝廷に於いて主に文学畑の役職を務めた事から、彼に関する唐詩人の作品が現存し、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたと推測されている。

七百三十三年(天平五年)に平群広成(へぐりのひろなり/多治比県守の弟)が率いる第十次遣唐使が来唐し、下道真備(吉備真備/きびのまきび)や留学僧・玄昉(げんぼう)は翌年帰国の途に着くが、仲麻呂(なかまろ)はさらに唐での官途を追求する為に帰国しなかった。

帰国の途に就いた第十次遣唐使の帰路一行はかろうじて第一船のみが種子島に漂着、真備と玄昉は幸運にも第一船に乗船していて帰国を果たしている。

残りの三艘は難破し、内、副使・中臣名代(なかとみのなしろ)が乗船していた第二船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った為、名代(なしろ)一行を何とか帰国の航行に就かせる。

所が、その帰国船が今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、唐帝国に脱出して来た遣唐使判官・平群広成一行四人が長安に戻って来た。

遣唐使判官・平群広成(へぐりのひろなり)らは、唐帝国の高官に成っていた仲麻呂(なかまろ)の奔走が実り、漸く渤海経由で日本に帰国する事ができた。

七百三十四年に儀王友、七百五十二年に衛尉少卿に仲麻呂が昇進した年、藤原清河(ふじわらのきよかわ)率いる第十二次遣唐使一行が来唐し、既に在唐三十五年を経過していた仲麻呂は帰国を図り、翌七百五十三年の第十二次遣唐使帰路に秘書監・衛尉卿を授けられた上で乗り込む。

所が、仲麻呂や清河(きよかわ)の乗船した第一船は暴風雨に遭って南方へ流され、船は以前に平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートを辿どり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。

結局、仲麻呂一行は二年後の七百五十五年に長安に帰着するが、清河(きよかわ)の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は安禄山の乱を理由に行路が危険であるとして清河らの帰国を認めなかった。

仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、七百六十年には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。

仲麻呂(なかまろ)は六年間もハノイの安南都護府に在任し、帰任するに当たって安南節度使を授けられ、日本への帰国は叶えられる事なく最後は潞州大都督(従二品)を贈られ、七百七十年に七十三歳の生涯を閉じいる。

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by mmcjiyodan | 2010-09-29 07:13 | Comments(0)  

日本史に混在する虚と実

この国の歴史を取り上げる場合、厄介な事に「現実の歴史」と「文化としての歴史」の二つが混在している。

この「現実の歴史」と「文化としての歴史」の狭間が、正に「理性」と「感性」の二つの発想が混在する人間の思考領域である。

そして「文化としての歴史」には、観念を基とする幻想があたかも現実の歴史として思わせる形で後世に伝えられている。

この混在する「現実の歴史」と「文化としての歴史」の正体は判っていて、双方の歴史が存在するのは人間の「左脳域と右脳域」の働きとリンクしているからである。

「左脳」は、理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」とされ、「右脳」は本能的無意識能力系統を司る役割で「無意識脳」と言われ、つまり「文化としての歴史」は「無意識脳」としての「右脳域の観念」を満足させる為のものである。

そして後世の人々が、その「文化としての歴史」を具現化する為に墳墓寺社、多くの文献を残している。

「文化としての歴史」は観念的な物で、史実としては多分に怪しいものであるが、信仰や思想信条に於いて現実の歴史としたい勢力が存在するのである。

だから混在しているこの「観念的な歴史」を否定される訳には行かない難しい立場に立つ者も居る。

為に元々日本史には多くの「虚構」が含まれている。

しかしこの「虚構」を暴くと、それを生活の糧(かて)にしていて都合の悪い人々が数多く居る事も事実である。

こうした「虚構」の存在を指摘し出せば都合の悪い人達が猛反発するから、今まで取り上げられないで来た事も多い。

また、人間様々な考え方をするのも勝手だから、「虚構」を信じて「正しい」と主張しても一向に構わない。
それでも都合の悪い真実は存在し、へそ曲がり者の我輩は「虚構」を信じない。

優秀な人間は「本に書いてある」とその混在も構わず指摘するが、更に優秀な人間ならばこの観念的な物を排除して「本を自分で書くのではないだろうか?」と考えた。

我輩はけして優秀ではないが、信仰や思想信条に於いて許容されない部分もこの物語では恐れずに果敢に切り込んで行く積もりである。

「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。

その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、明治維新政府が天皇制を採って育てた「皇国史観」は、正に皇統に拠る統治を補完する「虚(きょ/感性)」の部分を多く含んでいる。

つまり憂うべきは、日本史の一般常識(じょうしき)とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。

勿論だが、現代でも「有名人や肩書きが在る人だから」と言って、世の中それだけで信用できるとは限らないではないのか?

統治に於ける重要な要件は、その権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。

過去も現在も、一国の治世を担う者がこの「日本史に混在する虚と実」の矛盾に気が着かない訳が無い。

つまり気が着いている上で、都合に拠って使い分けているのである。

その為に何度も捻じ曲げられてしまった官製日本史を、貴方はそのまま信じては居ないだろうか?

記紀(古事記日本書紀)神話に於ける天孫降臨神話や後の皇国史観に合致しない為にロスト(欠落)してしまった縄文期から弥生期に掛けての史実と、その後の縄文人(蝦夷族)のレジスタンス(抵抗)の歴史に対して貴方はどのくらい認識が在るだろうか?

この物語では戦前の「皇国史観政治体制」では誰も書けなかった歴史の闇も書き記すので、戦前の教育を受けた方とは歴史認識には世代間のギャップもあるかも知れないが、「自分と歴史認識が違う」と切り捨てないで批判は最後まで読んでからにして貰いたい。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-09-27 14:58 | Comments(0)  

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、奈良時代(ならじだい)の廷臣で右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子達・藤原四家(ふじわらしけ)藤原四兄弟の三男、藤原式家・藤原宇合(ふじわらのうまかい)と石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の女との長男である。

七百三十七年(天平九年)疫病(天然痘)の流行によって父の藤原宇合(ふじわらのうまかい)を含む藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡する。

朝廷に於いて圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなったこの年、広嗣(ひろつぐ)は従六位上から従五位下に昇叙し式部少輔に任官、翌年の四月には大養徳(大和)守を兼任する。

しかし時の権力者に橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭し、広嗣(ひろつぐ)の昇進は順当とは行かず遣唐使帰りの吉備真備(きびのまきび)僧・玄昉(げんびぼう)が重用をされる。

朝廷内にこうした反藤原氏勢力が台頭した背景の下、広嗣(ひろつぐ)は親族への誹謗を理由に大宰少弐(大宰府の次官)として九州に左遷される。

広嗣(ひろつぐ)は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である吉備真備と僧の玄昉に起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)はこれを謀反と受け取った。

真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄(もろえ)であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、その内実は諸兄(もろえ)その人への批判と捉えられる事は明白で在った。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は、この広嗣(ひろつぐ)の所業に対して広嗣の都召喚の勅(ちょく/命令)を出す。

広嗣は聖武帝の勅(ちょく)に従わず、七百四十年(天平十二年)、弟の藤原綱手(秦綱手/はだのつなて)とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた一万余を率いて世に「藤原広嗣の乱」と伝えられる反乱を起こした。

しかし広嗣(ひろつぐ)は、武官(武人)として実績を挙げていた大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ同国唐津にて処刑された。

大野東人(おおののあずまびと)は、当時の武官(武人)で、養老七百二十年(養老四年)に発生した東北蝦夷の反乱に征夷将軍として出兵、奥州(東北)統治の拠点として多賀柵(多賀城)を築き、七百二十年(天平元年)には陸奥鎮守将軍に任じられている。

この「藤原広嗣の乱」に拠って多くの藤原式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの後世に於ける藤原式家の不振を招く要因の一つになった。

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by mmcjiyodan | 2010-09-27 01:03 | Comments(0)  

玄昉僧正(げんぼうそうじょう)

玄昉僧正(げんぼうそうじょう)は奈良時代(ならじだい)の法相宗の僧で、俗姓は宿祢(すくね)と連(むらじ)の阿刀氏(安斗氏)と伝えられ、安斗阿加布の子、安斗善珠の父とする史書もある。

法相宗の僧・義淵に師事し、七百十七年(養老元年)に多治比県守(たじひのあがたもり)を遣唐大使とする第九次遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ、玄昉(げんぼう)の在唐は十八年に及び、その間に当時の唐皇帝で在った玄宗に才能を認められ三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けている。

約二十年後の、次に唐に遣って来た七三五年(天平七年)の遣唐使に玄昉(げんぼう)は随い、経論五千巻の一切経を携えて吉備真備(きびのまきび)等と伴に帰国する。

帰朝した七三六年(天平八年)、玄昉(げんぼう)は封戸(住まい)を与えられ、翌七三七年(天平九年)僧正に任じられて内裏に於いて仏像を安置し仏教行事を行う「内道場(建物)」に入る。

内道場に入った玄昉僧正は、そこで聖武大王(しょうむおおきみ/第四十五代天皇)の母・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気を祈祷により回復させ賜物を受けて出世の糸口を掴んだ。

病気回復の成功に拠り、母思いの聖武大王(しょうむおおきみ/第四十五代天皇)の玄昉僧正への信頼も篤く、玄昉は吉備真備とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)政権の担い手として出世したが、出世欲の野心が強過ぎて人格に対して人々の批判も強かった。

七百四十年(天平十二年)には、旧勢力の藤原広嗣が新たな実力者である吉備真備と玄昉僧正に不満を持ち二人を排除しようと九州で「藤原広嗣の乱」と呼ばれる兵を起こした。

藤原広嗣の乱は大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする朝廷軍に鎮圧されたが、吉備真備と玄昉僧正も朝廷での力を失いつつ在って玄昉(げんぼう)は翌七百四十一年(天平十三年)に千手経千巻を書写供養し失地回復を図る。

しかし藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が勢力を持つようになると、玄昉僧正は七百四十五年(天平十七年)筑紫国・観世音寺別当に左遷、封物も没収されて翌年任地で没した。

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by mmcjiyodan | 2010-09-25 17:13 | Comments(0)  

ヒンドゥー教と日本の信仰

人間は群れ社会の生き物で帰属意識が高く、どこか心の隅に民族的な意識を持っていて文化文明や信仰に独自性を求めるから目を曇らせる。

しかし黎明期の日本列島は文化文明の後進国だったから、早くから進んだ古代黄河文明や古代インダス文明を採り入れて国家を築くのは当然の事である。

古代インダス文明は、東方の国々に多くの影響を与えた。

インド・ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教と神仏習合の神道に影響を与えている。

我が国では、密教の権現・としてダキニ天(荼枳尼天)を仏教でも神道でも祀る。

ダキニ天(荼枳尼天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語(ぼんご/サンスクリット語)のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属(けんぞく/属神)とされる。

インドに於いてはジャッカルが荼枳尼天(ダキニ天)の使い神の象徴とされていたが、中国や日本に伝わった時、インドに居たジャッカルが居ない為に狐が代用されて使い神とされた為に日本では神道の権現・稲荷(大明神)と習合する。

稲荷神社(いなりじんじゃ・おきつねさん)は「稲なり神社」で、富と子孫繁栄の神様である。

稲荷神社は、財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭や繁華街の一郭に、商売繁盛(現世利益)の神様として祭られたりしていた。

この富と子孫繁栄の神様・稲荷(大明神)が、日本の江戸期に存在したおかみさん文化の原点になったのかも知れない。

弘法大師・空海伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。

従って桓武天皇が設けた中務省・陰陽寮に於いても、ヒンドゥー教の統治に都合の良い部分は組み入れられていても不思議ではない。

実は北辰妙見信仰に於ける天地開闢(てんちかいびゃく)神話に於ける世の最高神・天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)=陀羅尼神(だらにしん/全ての祈り神)もヒンドゥー教の三最高神の一柱・ヴィシュヌ神(天地創造神/見渡せる神)が妙見(見通す)に通じる所から、「同一の神である」と考えられるのだ。

インド・ヒンドゥー教は生活する事に正直な神で、ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)である。

ヒンドゥー教に於けるシヴァ神(破壊神)は災いと恩恵を共にもたらす神で、例えば洪水は大きな災いだが同時に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う二面性がある。

神は生活を共にする恋人、神に捧げる踊りの原点はインド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、シヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)であるから、神楽(かぐら)・巫女舞の原点として、或いは陰陽修験道人身御供伝説のカラクリとして時の統治政策に応用されたのではないだろうか?

リンガ(男根)の神・シヴァ神(破壊神)に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う能力が有るのであれば、日本神道の主神でもある賀茂信仰・五穀豊穣神・事代主(ことしろぬし)の神を祀る祭祀に、子宝に恵まれる事と五穀豊穣を祈る事の共通性をもったエロチックな呪詛が存在しても不思議は無い。

その初期陰陽修験は、密教の到来と伴に真言宗・東密修験と天台宗・台密修験として僧と修験者の垣根が無くなり、修験者が僧に僧が修験者に教えを請う形で北辰妙見信仰は様々な教義を創設して新しい宗派を成立して行くのである。

日本では祇園神とされている朝鮮半島由来の守護神・牛頭天王(ゴヅテンノウ)=スサノウ(須佐王)であるが、もう少し深く探ると基は多神教であるインド・ヒンドゥー教で、「牛」は神聖な動物として崇拝されている「ナンディン(聖なる牛)信仰」がその源流の様である。

多神教であるインド・ヒンドゥー教では生き物も神であり、シヴァ神の乗る「ナンディン(乳白色の牡牛)神」と成った事で神聖化が進んだ「牛」は、神聖な動物(聖なる牛)として崇拝されている。

そしてこのナンディン(乳白色の牡牛)神、シヴァ神が踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う」とされている。

牛頭天王(ゴヅテンノウ)が、元々シヴァ神が踊りを舞う祭礼音楽の奏者を担う神であれば、祇園祭(ぎおんまつり、ぎおんさい)の祭礼神で在っても不思議は無い。

そう成って来ると、日本神話天孫降臨伝説天岩戸伝説)に於ける天宇受売命(あめのうずめのみこと)の存在も、ヒンドゥー教の「シヴァ神がモデルではないか?」とも思えて来るのである。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-09-23 17:55 | Comments(1)  

遣唐使(けんとうし)

六百十九年、中華大陸の隋帝国が滅び唐帝国が建った為、派遣していた朝貢使の名称も遣唐使(けんとうし)に代わる。

留意して欲しいのは、日本側ではこの唐代の朝貢使に於ける名乗りは「日本国(ひのもとのくに)」であり、けして「倭国」と言う名称は使ってはいない。

「倭国」は、あくまでも六百十八年の唐の成立から九百七年の滅亡までについて書かれている中華大陸側の中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書「旧唐書」記されている名称である。

中華大陸側の「旧唐書」には「倭国日本伝」、宋代になって編纂された正史書「唐書(新唐書)」に於いては「日本伝」としての記載がある。

日本側の朝貢使派遣の目的は、海外情勢や当時の先進国で在った中華大陸・唐帝国の文化や制度の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされ、六百三十年の第一次朝貢大使・犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)一行の派遣によって始まり、八百九十四年に菅原道真の建議により停止されまで約二百六十年間続いている。

「約二百六十年間続いた」と言っても不定期で、「唐書」の記述が示すように遠国である倭国の朝貢は「毎年でなくて良い」とする措置がとられた。

「旧唐書・倭国日本伝」には「太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。」と記述され、「唐書(新唐書)日本伝」には「帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。」とある。

以来遣唐使(けんとうし)は、「二十年一来(二十年に一度)」の朝貢が八世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で朝貢使の派遣が行われた。

遣唐使船 (けんとうしせん)には大使・ 副使 (ふくし) の他、官僚養成大学が無かったので留学生(りゅうがくせい)や留学僧 (りゅうがくそう)が四艘の船で一艘当たり百人、計四百人ほどが乗り込み渡海 (とかい)に臨んだ。

遣唐使船は竜骨を用いない平底のジャンク船に似た箱型構造で、簡単な帆を用い横波に弱く無事に往来出来る可能性は低いもので在った為、遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、遭難する船も少なくはない命懸けの航海だった。

遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたが、朝貢の使いであると言う性格上、唐帝国の元日朝賀に出席するには十二月までに唐の都へ入京する必要が在り、気象条件の悪い六月から七月頃に日本を出航すると言う最悪の条件だった。

勿論国家を挙げての派遣事業であるから経費の面でも情報の迅速化の面でも遅滞は許されず、朝貢後の帰り船も気象条件の良くない冬の季節に帰国せざるを得なかった為、渡海中の水没・遭難が頻発した。

八世紀の遣唐使の内、遣唐使船が四隻全ての船が往復出来たは「たった一回だけ」と言う危険な渡航だったので遣唐大使に任命されても嫌がって拒否する者もいた。

この遣唐使の歴史に於いて日本史上に大きな足跡を残したのは、多治比県守(たじひのあがたもり)を遣唐大使とする一行に遣唐留学生・吉備真備(きびのまきび)阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、遣唐留学僧・玄昉(げんぼう)が居た事である。

大使・多治比県守(たじひのあがたもり)には真人(まひと)の姓(かばね)が見られ、天皇・皇子の子孫に当たる「高級官吏級が大使を任じた」と思われる。

右大臣・中衛大将にまで昇り詰めた吉備真備(きびのまきび)は、七百十六年、二十二歳の時に遣唐使の遣唐留学生となり、翌年の七百十七年(養老元年)に入唐した。

その帰朝後、学識を買われて真備(まきび)は登用され、従四位上・右京大夫と言う高級官吏に昇った真備(まきび)は、聖武大王(しょうむおおきみ/第四十五代天皇)光明皇后(こうみょうこうごう/藤原光明子)の寵愛を得て大王(おおきみ/天皇)の娘・阿倍内親王(あべのないしんのう)に東宮学士として「漢書」や「礼記」を教授した。

七百五十一年、五十七歳の時に真備(まきび)は遣唐副使となり翌年には再び入唐し、帰朝後出世を重ねて右大臣・中衛大将にまで昇り詰めた遣唐使の優等生だった。

真備(まきび)と伴に入唐した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は十九歳で遣唐留学生に選ばれた秀才で、日本人でありながら超難関の「科挙の試験」に合格して登用され、玄宗皇帝に重く用いられた人物である。

吉備真備(きびのまきび)の二度目の入唐の折には、仲麻呂(なかまろ)は「相当の便宜をはかり支援した」とされている。

また遣唐留学僧・玄昉(げんぼう)は、帰朝後当時流行した病に最高実力者・藤原氏一族の主だった四人(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いで逝去するに付け入って聖武天皇生母である皇后宮・藤原宮子(ふじわらのみやこ)藤原不比等の娘)の「病状を回復させた」として「僧正」称号を得る。

皇后宮・藤原宮子は玄昉(げんぼう)僧正を寵愛し、為に真備(まきび)と玄昉僧上(げんぼうそうじょう)を除く事を名目に大宰府で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ/藤原式家・藤原宇合の長男)が反乱を起こしている。

尚、この遣唐使、八百年代初頭・桓武天皇の御世、八百四年派遣の朝貢使・藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ/藤原北家・正三位中納言)を遣唐大使、橘逸勢(たちばなのはやなり)を遣唐副使とする一行の中には、遣唐留学僧・最澄、同・空海が居た。

遣唐留学僧・最澄(伝教大師)、同・空海(弘法大師)は僅か一年(渡航期間を入れて二年)の唐滞在だったが、新しい仏教の教義と多くの書物を日本にもたらせ、その後の日本史に大きな影響を与え続けた。

九百七年(延喜七年)には中華・唐帝国が滅亡し、遣唐使は再開されないままその朝貢使の歴史に幕を下ろしている。

第一巻の二話】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-09-22 19:29 | Comments(0)  

伊都内親王(いずないしんのう)

伊都内親王(いずないしんのう)は、平安時代前期に桓武天皇と宮人・藤原平子(中納言・藤原乙叡の女)との間に第八皇女として生まれた。

実はこの桓武天皇の御世に生まれた天皇の第八皇女の名乗りが伊都内親王(いずないしんのう)で、「伊都」を「いず」と読ませませ、時に「伊豆」とも表記している。

伊都(伊豆)の名については「乳母が伊豆氏出身だった事に由来する」と言う説が在るが、「伊豆氏」は藤原南家流・工藤氏、同族の伊東氏・狩野氏・河津氏などの地方豪族一族を指すとされる。

工藤(藤原)維職(これもと)が伊豆横領使を任じられて、宇佐美・伊東・河津の三荘を領したのが千百年(平安時代後期)頃だったので、八百十年代と思われる平安初期に生まれた伊都内親王(いずないしんのう)を、伊豆藤原南家流の女が内親王の乳母を務めるのは年次的に三百年近く前後している。

むしろ内親王(ないしんのう)の父帝・桓武天皇が伊豆の地に並々ならぬ関心を寄せていた為に伊都(伊豆)と名付けたのではないだろうか?

伊豆地には昔から、海洋族(呉族)賀茂・葛城氏事代主神(ことしろぬしのかみ)にまつわる多くの地名が存在する。

伊豆は、太平洋に突き出した半島で、黒潮の流れ沿いに位置し、間違いなく隼人(はやと)の子孫たちが辿り着くべき、ロマンを持ち合わせる半島である。

現存する古文書によると、天武天皇の御世、六百八十一年七月に駿河国の東部二つの郡(賀茂郡・駿東郡)を割いて成立した伊豆の国(いずのくに)は、天城連山をはじめ多くの山に囲まれた山国である。

天武大王(てんむおおきみ/天皇)の御世、役小角(えんのおずぬ)修験道を始めた、六百八十一年七月に小角(おずぬ)縁(ゆかり)の律令国上の伊豆の国(いずのくに)は成立した。

まぁ、こうした古文書が残っていると、それ以前には「伊豆の国(いずのくに)が無かった」と単純に言われそうだが、裏を返せば、わざわざそうした名の国を作る「理由は何なのか」と言う見方も出来る。

伊豆の国(いずのくに)成立から百年程経った七百八十一年の桓武天皇(かんむてんのう)の御世、天武大王(てんむおおきみ/天皇)が始めた古事記日本書紀の編纂が佳境を向かえ、八百七年には遣唐使の学僧だった弘法大師(空海)伝教大師(最澄)が帰朝する。

二人の帰国は、ちょうど桓武天皇(かんむてんのう)のダイナミックな治世が行われた頃で、この頃の都は長岡京 (ながおかきょう)から遷都(七百九十四年)されたばかりの平安京(へいあんきょう)だった。

そして空海(弘法大師)は、帰朝して間もない時期に都から遠い伊豆の国(いずのくに)・修善寺の地におお慌てで「桂谷寺」と言う寺を開山し、伊豆の国(いずのくに)に橋頭堡を築いている。

この一連の動きには、何か隠された伊豆の国(いずのくに)の謎があるのではないだろうか?

平安時代初期の段階で「伊都」は「いず」と読み、「伊豆」とも表記しているのだが、この伊都内親王(いずないしんのう)の誕生時期と、陰陽師に拠る天孫降臨伝説(記・紀神話)の喧伝の開始、弘法大師(空海)が伊豆・桂谷山寺(後の修禅寺)の開基を急いでいるなどが集中していて、桓武帝を中心とした作為の連携が感じられる。

つまり伊豆に思い入れが在る桓武天皇は娘(内親王)に伊都(伊豆)の名を与え、昔の国(伊都国)を文字を変えて「復活させたのでは?」とも取れるのだ。

伊都内親王(いずないしんのう)は、八百二十四年(天長元年)頃に平城天皇の第一皇子・阿保親王(あぼしんのう)の妃となり、翌八百二十五年(天長二年)に業平王(なりひらおう)を産む。

阿保親王(あぼしんのう)は、嵯峨天皇より息子達・行平、業平ほかに在原姓を賜わり臣籍降下させた為、伊都内親王(いずないしんのう)の子・業平王(なりひらおう)は在原業平(ありわらのなりひら)を名乗る。

伊都の夫・阿保親王(あぼしんのう)は、桓武天皇の嫡系の孫と言う立場に翻弄されながら結婚十八年後の八百四十二年に、急死する。

父・阿保親王(あぼしんのう)没後の在原業平(ありわらのなりひら)は従四位上蔵人頭右近衛権中将を務め歌人としても名を馳せている。

伊豆の国=伊都国(いとこく)説の詳細は【葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-09-22 02:23 | Comments(0)  

寺子屋・私学校とリテラシー(識字力/情報理解活用力)

江戸末期の日本人総体のリテラシー(識字力/情報理解活用力)は、庶民の寺子屋と武士の藩校・私学校が充実して教育を行っていたからであるが、そのリテラシー(識字力/情報理解活用力)能力を持つ国民比率は総体の七十パーセントに昇る。

つまり江戸期当時の日本は、世界的にも最高水準のリテラシー(識字力/情報理解活用力)能力を国民が持つ奇跡の国だった。

その影に在った向学心は、この物語で前述のごとく神官・僧・工商人の前身は姓(かばね)を有する氏族から発生している関係で、リテラシー(識字力/情報理解活用力)に対するモチベーション(動機付け/やる気)は高かった。

農漁村部に於いても、縄文人(エミシ族)出自の純粋な農漁業従事民はともかく、百姓の語源でも判る通り百姓と呼ばれる農漁村部の指導階級は元は姓(かばね)を有した事からリテラシー(識字力/情報理解活用力)に対するモチベーション(動機付け/やる気)は高かった。

当然ながら平安期以降の日本は、縄文人(エミシ族)出自の民と有姓階層の工商人や農漁村部の指導階級・百姓との血的融合が進んで境目が壊れて行き、日本全体の向学心が向上して庶民の学び舎である寺子屋が繁盛した。

武士の藩校は藩内の家臣教育の為だが、出世に繋がる事からモチベーション(動機付け/やる気)は高く、学ぶ事で知識欲を刺激して向学心は更に燃え上がった。

このリテラシー(識字力/情報理解活用力)の高さが、黒船の到来で始まった欧米列強の圧力の中で植民地化されなかった要因でもあり、やがて起こった明治維新にも発展した。

反対に世界的傾向では、権力階層が庶民に教育の場を積極的には与えないで権力基盤を安定させる政策を採る国も多く、為に国が守れず植民地化される要因にも成った。

この辺りの経緯(いきさつ)を簡単に「日本人は優秀な人種である」として、その要因を歴史経緯と結び付けないから日本史に対する理解が広がらないのかも知れない。

いずれにしても江戸末期の日本人は、世界的にも相当学識が高かった事になる。

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by mmcjiyodan | 2010-09-19 17:01 | Comments(0)  

遣隋使(けんずいし)と小野妹子(おののいもこ)

遣隋使(けんずいし)とは、日本史に於いて大和朝廷(ヤマト王権)飛鳥期推古朝(推古大王/すいこおおきみ)の頃、大陸・隋帝国との正式交流として派遣した朝貢使の事を指す史学上の名称である。

つまり朝貢使を派遣したとされる六百年(推古八年)から六百十八年に掛けて五回の派遣については、遣隋使(けんずいし)と言う呼称を大和朝廷(ヤマト王権)が使用して居た訳ではない。

そしてこの遣隋使(けんずいし)と言う史学上の朝貢使について、まだ解明されていない部分が多く、果たしてどれほどの精度がある事か怪しいのである。

まず、第一回目の朝貢使とされる派遣については大和朝廷(ヤマト王権)側の日本書紀などにその記述は見られず、「隋書・東夷傳俀國傳」に在る俀國(倭国?)の朝貢使を「第一回ではないか?」としている。

そこで問題が幾つかある。

まず「隋書・東夷傳俀國傳」に記載された「倭国の朝貢使」であるが、当時の大陸・隋帝国に於ける倭国の認識は、辺境の蛮国を指し必ずしも大和朝廷(ヤマト王権)を指すとは限らないからである。

大和朝廷(ヤマト王権)側に記録が無いにも拘らず、この「隋書・東夷傳俀國傳」の記載を持って第一回の遣隋使(けんずいし)としてしまうには、かなり後に成って確定した倭国=日本の定説を遡って適用してしまうからではないだろうか?

そしてもう一つ、日本史に於いて第一回目の朝貢使は推古大王(すいこおおきみ)の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)が発案、派遣を命じたとされるが、その聖徳太子その者の存在も疑われていて遣隋使(けんずいし)の存在と整合性が採れていないのである。

第二回とされる六百七年(推古十五年)の朝貢使については「日本書紀」に記載があり、小野妹子(おののいもこ)が大唐国に「国書を持って派遣された」と記されているので実在と考えられる。

しかし大陸・隋帝国に朝貢使を送るも「大唐国に国書を持って派遣された」と記載あるを、かなり後(七百年代)に編纂された「日本書紀」の誤りなのか、大唐國は加羅國の宗主国の意味だったのかは定かではない。

小野妹子(おののいもこ)は、近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で春日氏の一族・小野氏の出身とされる朝臣で小野臣、大徳冠の冠位を賜ったとされている。

但し、「隋書・東夷傳俀國傳」には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ「倭国の使者」とあるのみで、小野妹子の存在は虚構が多いとされる「日本書紀」に見えるだけである。

「隋書・東夷傳俀國傳」に拠ると、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」と書き出されていた書を見た煬帝は、書に天子在るに「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)」と立腹したと書き記されている。

此処で注目して欲しいのは「倭国の使者」はあくまでも「隋書」の記述で在って、大和朝廷(ヤマト王権)側は「日出ずる処の天子」を名乗り、倭王ではない。

「隋書」では大和の国に当たる国名は記されて居らず、「都於邪靡堆(都はやまたいにある)」と記されて在る事から「東夷傳俀國」が大和朝廷(ヤマト王権)を指すと解釈されている。

小野妹子はその後返書を持たされて返されるが、帰途に於いて返書を百済に盗まれて無くしてしまったとし、煬帝の返書は大和朝廷(ヤマト王権)が受け取っていない事になっている。

煬帝の返書の内容がとても大和朝廷(ヤマト王権)に容認できない為に、受け取らなかった事にしたのではないかと言う推測が定説である。

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by mmcjiyodan | 2010-09-17 14:41 | Comments(0)