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日露戦争(にちろせんそう)その(六)・日本海海戦

日露戦争(にちろせんそう)その(五)・旅順港】に戻る。

日露戦争の決着をつけたのは、東郷平八郎が指揮した海戦の大勝利で在った。

千九百四年(明治三十七年)から始まった日露戦争では、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は連合艦隊旗艦・三笠の艦橋で指揮を取り、推薦した山本権兵衛の期待に沿う働きをする。

作戦参謀として着任した秋山真之(あきやまさねゆき)中佐の進言を採り上げ、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦を始めとする海軍の作戦全般を指揮する。

ロシア東洋艦隊相手に圧倒的戦績をあげた平八郎(へいはちろう)は海軍大将に昇進する。

バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順へ向けてリエパヤ港を出発し、旅順陥落の後はウラジオストクへ向かい、地球を半周する航海を続け千九百五年五月二十七日-翌二十八日に日本軍連合艦隊と遭遇した日本海海戦に於いて激突した。

千九百五年(明治三十八年)五月二十七日、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による作戦、上村彦之丞提督率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅した。

この大勝利の海戦当日、日本軍連合艦隊には四名の英国観戦武官が同船しており、英国の戦法にもある丁字戦法に関しての補佐・指導を行っている。

バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど連合艦隊の一方的な圧勝で、この結果日本側の制海権が確定し、世界のマスコミの予想に反する結果に列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。

この一大海戦は大日本帝国の命運を掛けたもので、平八郎(へいはちろう)はこの日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。

また平八郎(へいはちろう)は、指揮下の艦隊に対しては「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。

日本海海戦に於いて平八郎(へいはちろう)は、丁字戦法・・その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に大勝利を納めた。

三日間に渡った東郷平八郎率いる日本の連合艦隊とロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊との日本海海戦は、おそらく世界海戦史上最も完全に近い勝敗であり、各国の軍事研究で広く注目を集める海戦でもある。

当時世界屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破ったこの海戦の勝利は世界各国を驚愕させ、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は名海軍提督として伝説となった。


日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領したこの占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらす事となる。

ロシアでは、相次ぐ敗北とそれを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、千九百五年一月九日には「血の日曜日事件」が発生し、ロシア革命(千九百十七年)の炎がチョロチョロと燃え始め、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけていた。

日露戦争に勝利はしたものの、日本も当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。

両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、千九百五年九月五日に締結されたポーツマス条約により講和した。

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by mmcjiyodan | 2010-10-26 00:48 | Comments(0)  

日露戦争(にちろせんそう)その(五)・旅順港

日露戦争(にちろせんそう)その(四)・満州遼陽(りょうよう)会戦】に戻る。

第三軍を指揮して旅順攻略を完遂し、沙河対陣に駆け付けた乃木希典(のぎまれすけ)は、対ロシアの陸戦で最も過酷な戦闘をした司令官である。

台湾から帰任後の千八百九十九年(明治三十二年)、乃木希典(のぎまれすけ)は第十一師団(四国四県が徴兵区)の初代師団長(中将)に親補せられる。

その後希典(まれすけ)は願い出て休職していたが、千九百四年(明治三十七年)日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として戦役に着く。

六月六日、乃木希典大将率いる第三軍が大連に上陸したが、陸軍の旅順攻略参戦を拒む海軍の意向を受け、満洲軍総司令部の指示により旅順に向けて漸進(ユックリ進軍)を余儀なくさせられる。

第三軍は旅順要塞攻略の為に新たに編成されたもので、第一回総攻撃では空前の大規模な砲撃を行った後、第三軍を構成する各師団の歩兵部隊に対し、ロシア旅順要塞の堡塁へ白昼突撃を敢行させ希典(まれすけ)は多くの犠牲者を出した。

乃木希典大将率いる第三軍は旅順攻囲戦を続行中で在ったが、旅順要塞に対する十月二十六日からの第二回総攻撃は失敗し、十一月二十六日からの第三回総攻撃も苦戦に陥る。

第三軍の戦況を懸念した満州軍総参謀長・児玉源太郎大将は、大山巌元帥の指示を受け旅順方面へ着任し、大本営と海軍の主張を受け入れ、攻撃目標を要塞北西の二百三高地に絞り込む。

千九百四年(三十七)十二月、児玉源太郎(こだまげんたろう)は乃木希典が攻めあぐねていた二百三高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行う為、元々海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な二十八センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで一日で配置転換を行うと言う奇抜な作戦を取ったとされる。

源太郎(げんたろう)は、自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続け、無二の親友として接していたが、希典の性格を知る故に二百三高地に無謀な突撃を繰り返す希典を側面支援し、そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、二百三高地を半日で陥落させた。

さらに二百三高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言を無視して二百三高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に二十八センチ砲で砲撃を加え、敵艦は旅順湾街に降り注ぐ砲弾を少なくするため次々と自沈し壊滅した。

日露両軍ともに戦死五千、戦傷者一万以上を出す激戦の末、第三軍は十二月四日に二百三高地を占領し、ロシア軍は戦力を決定的に消耗した。

乃木家の男児は二人居たが、長男・勝典(かつすけ/戦死特進中尉)は先に行われた南山の戦いで戦死、次男・保典(やすすけ/戦死特進中尉)は希典(まれすけ)指揮の二百三高地に於ける白昼突撃の戦闘で戦死している。

第三軍の司令官・希典(まれすけ)は、この失敗により要塞の堡塁直前まで塹壕を掘るなどし犠牲者を激減させたとされるが、特に台湾総督時代や旅順攻略戦に対する希典(まれすけ)の評価は識者の間だけでなく、歴史通の人々の間でも評価が分かれている。

その後第三軍は、満洲軍総司令部の当初からの攻撃目標であった要塞東北正面の堡塁群を攻略し、これによりロシア太平洋第二・三艦隊(所謂バルチック艦隊)は単独で日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順攻囲戦の目的は達成された。

旅順要塞のロシア軍は二百三高地陥落を境に弱体化しこの一ヶ月後に降伏、要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(またはステッセル)と乃木希典の水師営の会見(旅順開城交渉)が行われる。

千九百五年一月一日にロシア軍旅順要塞司令官のステッセリ(ステッセル)中将は降伏した。

ロシア旅順要塞攻略後に同要塞司令官アナトーリイ・ステッセリとの間で水師営の会見(旅順開城交渉)が行われ、希典(まれすけ)は水師営の会見で紳士的にふるまい、従軍記者たちの再三の要求にも関わらず会見写真は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。

水師営の会見(旅順開城交渉)で敵将・アナトーリイ・ステッセリに対する希典(まれすけ)の態度は、軍人の見本とすべき崇高な態度として評価され、乃木希典(のぎまれすけ)神格化の第一歩となった。

戦時中は一般国民にまで兵を消耗する戦下手と罵られた希典(まれすけ)で在ったが、勝てば評価は変わるもので、旅順攻略戦が極めて困難であった事や二人の子息を戦死で亡くした事から希典(まれすけ)の凱旋には多くの国民が押し寄せた。

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by mmcjiyodan | 2010-10-26 00:44 | Comments(0)  

日露戦争(にちろせんそう)その(四)・満州遼陽(りょうよう)会戦

日露戦争(にちろせんそう)その(三)・開戦】に戻る。

この頃ロシアのウラジオストク艦隊は、六月十五日に輸送船常陸丸を撃沈する事件を起こすなど活発な通商破壊戦を続けていた。

遼東半島の大連を占領した第二軍は、占領後第一師団を残し遼陽を目指して北上、六月十四日、旅順援護の為南下して来たロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、七月二十三日には大石橋の戦いで勝利する。

海軍陸戦重砲隊が旅順要塞への砲撃を開始し、これを受けて旅順艦隊は旅順から出撃、八月十日、東郷平八郎大将率いる連合艦隊との間で黄海海戦となった。

この海戦で連合艦隊は旅順艦隊の巡洋艦三隻他を撃沈したが、主力艦を撃沈する事は適わず、取り逃がしている。

八月十四日、上村彦之丞中将率いる日本海軍第二艦隊は蔚山沖でようやくウラジオストク艦隊を捕捉し、海戦と成って大損害を与えその後の活動を阻止した。

他方陸軍は七月の大本営通達を受けて、乃木希典大将率いる第三軍は旅順攻囲戦の第一回総攻撃を八月十九日に開始したがロシアの近代的要塞の前に死傷者一万五千という大損害を受け失敗に終わる。

八月末、日本陸軍の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽(りょうよう)へ迫った。

八月二十四日-九月四日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃するもロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。

十月九日-十月二十日にロシア軍は攻勢に出るが日本軍の防御の前に失敗、その後両軍は遼陽(りょうよう)と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。

一方、遼陽(りょうよう)と奉天(現・瀋陽)の中間付近、沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導のもと、千九百五年一月二十五日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。

一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古(あきやまよしふる)少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱し、二月には旅順攻略を完遂した第三軍がこの戦線に到着した。

日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始、まず二月二十一日に日本軍右翼が攻撃を開始、続いて三月一日から左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。

ロシア軍は予備を投入し、左翼の第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続け、三月九日になるとロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示、日本軍は翌十日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。

一連の戦いで両軍とも大きな損害を受け作戦継続が困難となった為、その後は終戦まで奉天・四平街付近での対峙が続いた。

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by mmcjiyodan | 2010-10-26 00:40 | Comments(0)  

日露戦争(にちろせんそう)その(三)・開戦

日露戦争(にちろせんそう)その(二)・日露交渉】に戻る。

日露戦争の戦闘は、千九百四年二月八日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まり、この攻撃ではロシアの戦艦に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。

同じ千九百四年二月八日、日本陸軍先遣部隊の第十二師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸した。

瓜生外吉少将率いる日本海軍第三艦隊の巡洋艦群は同旅団の護衛を終えた後、二月九日、「仁川沖海戦」と呼ばれる仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し損傷を与えた。

千九百四年二月十日には日本政府からロシア政府への正式な宣戦布告がなされた。

ロシア旅順艦隊は日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機し、援軍・バルチック艦隊を待つ構えを見せ、もしロシアのバルチック艦隊が極東に回航して旅順艦隊と合流すれば戦力は圧倒的となり、制海権はロシアに奪われる事になる。

バルチック艦隊との合流を避けたい連合艦隊は「旅順港閉塞作戦」を慣行、二月から五月にかけて旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった。

四月十三日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させると言う戦果を上げたが、五月十五日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。

一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開し、四月二十五日には日本軍の輸送艦金州丸を撃沈するなど、日本近海を縦横無尽に行き来し、これを追う日本の上村中将率いる第二艦隊を右往左往させ、船舶による補給に頼る日本軍を悩ませた。

対するロシア陸軍は黄海の制海権確保の前提に基づき、日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定、鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させ、迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引き付けながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる計画だった。

日本陸軍の戦略は、第一軍(黒木為楨大将)で朝鮮半島へ上陸、鴨緑江を渡河しつつ、在朝鮮のロシア軍と第一会戦を交えた後に満洲へ進撃、第二軍(奥保鞏大将)をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させ、そののち、満洲平野にて第三軍(乃木希典大将)、第四軍(野津道貫大将)を加えた四個軍でもって、ロシア軍主力を早めに殲滅する。

日本陸軍は、ロシア軍主力を殲滅した後にウラジオストックの攻略まで想定して沿海州へ進撃し、海軍は旅順及びウラジオストックにいるロシア太平洋艦隊を黄海上にて殲滅した後に、ヨーロッパより回航して来るを想定されるバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)と決戦し殲滅する戦略だった。

黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、四月三十日-五月一日に掛けて、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破り、続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、五月二十六日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した。

南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、奥保鞏大将率いる第二軍は死傷者四千の損害を受け、東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったと伝えられている。

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日露戦争(にちろせんそう)その(二)・日露交渉

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千九百三年八月から始まった日露交渉に於いて、日本側はロシア側へ朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くと言う妥協案、所謂(いわゆる)「満韓交換論」を提案した。

しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。

更に常識的に考えれば強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無く、ニコライ二世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。

唯一セルゲイ・ヴィッテ首相は、戦争に拠って負ける事はないにせよロシアが疲弊する事を恐れ戦争回避論を展開したが、これは皇帝達主戦派に拠って退けられた。

ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯三十九度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずると言う提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。

またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。

千九百四年二月六日、終(つい)に日本の外務大臣・小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。

千九百四年二月、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国に於ける日本の軍事行動を可能にする為に日韓議定書を締結し、開戦後の八月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をする事とした。

大韓帝国内でも李氏朝鮮王朝による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに五万人とも言われる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

農民階級(東学党→進歩会)と支配階級出身で朝鮮の近代化をめざす改革派知識人グループ(維新会)が意見が合い、進歩会を吸収して親日団体「一進会(イルチンフェ)」を設立する。

一方、李氏朝鮮王・高宗(コジュン)や両班(ヤンバン/特権貴族)などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中に於いてロシアに密書を送るなどの外交を展開して行った。

つまり大韓帝国内も新勢力は日本側、旧勢力はロシア側に接近して権力攻守の後ろ盾としていたのである。

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日露戦争(にちろせんそう)その(一)・海外権益

日露戦争(にちろせんそう)は、大日本帝国とロシア帝国が朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争で、言わば両国の満洲及び朝鮮に於ける自国権益の維持・拡大を目的とした戦争である。

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利に拠ってバルカン半島に於ける大きな地歩を獲得した。

しかしロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催する。

ビスマルクはベルリン会議で露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功し、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向ける事になった。

近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。

朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉に拠って、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。

日本の国内世論に於いては「ロシアとの戦争も辞さず」と言う強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。

日本の立場とすれば、日清戦争後に下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するように、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国が日本に対する勧告「三国干渉」をして来た対抗処置の一環であり、主として満洲を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下を防ぎ、日本の安全保障と半島での権益の確保が目的だった。

所がロシアは千八百九十八年に露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めて行った。

ロシアは千九百年に清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を口実に満洲へ侵攻し、満洲全土を占領下に置いた。

ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束するが、ロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。

ロシアの南下が自国の権益と衝突するとボーア戦争を終了させるのに戦費を調達した為国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況で在った英国は危機感を募らせ、千九百二年に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った。

朝鮮半島・大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手掛かりに南下政策を取りつつ在った。

ロシアは李氏朝鮮の第二十六代王・高宗の妃・閔妃(ミン)を通じ売り払われた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。

当初、大国ロシアの国力を承知する日本側は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増して行った。

日本政府内では小村寿太郎桂太郎山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。

千九百三年四月二十一日に京都に在った山縣有朋の別荘・無鄰庵で、小村寿太郎・桂太郎・山縣有朋・伊藤博文による「無鄰菴会議」が行われる。

その席上で桂太郎は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決する事、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」と言う対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。

桂太郎は後に、「この会談で日露開戦の覚悟が定まった」と書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤博文の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映される事になる。

日露戦争(にちろせんそう)その(二)・日露交渉】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-10-26 00:29 | Comments(0)  

黒田清隆(くろだきよたか)その(二)

黒田清隆(くろだきよたか)その(一)】に戻る。

函館戦争の終結に成果を挙げた黒田清隆(くろだきよたか)は千八百七十一年(明治四年)一月から五月まで米国と欧州を旅行し、米国の農務長官ホーレス・ケプロンに顧問就任を承諾させ、他多数のお雇い外国人招請の道を開いている。

米欧旅行の帰国後の十月十五日に開拓使長官・公卿・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が辞任した後は、清隆(きよたか)は次官のまま開拓使の頂点に立った。

千八百七十四年(明治七年)六月二十三日、清隆(きよたか)は陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられて同年八月二日、清隆(きよたか)は参議兼開拓長官となり、榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に官登用した。

北海道経営に携わった清隆(きよたか)は、基盤整備事業を起こし支出超過を招いて苦慮し、千八百七十三年(明治六年)に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移した。

千八百七十三年(明治六年)の征韓論に際して、参議になっていた清隆(きよたか)は内治重視の立場から西郷らに反対し、翌千八百七十四年(明治七年)の台湾出兵に際してもロシアの脅威をあげて不可の立場をとり、出兵後には清国との全面戦争を避ける為速やかに外交交渉に入る事を唱えている。

この千八百七十四年(明治七年)、ロシアとの交渉にあたって清隆(きよたか)は榎本武揚(えのもとぶよう)を使節に推薦して容れられ、榎本が特命全権公使として樺太・千島交換条約の交渉と締結にあたっている。

清隆(きよたか)本人は、千八百七十五年(明治八年)の江華島事件をきっかけに、翌年(明治九年)二月に朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結した。

千八百七十七年(明治十年)に西南戦争が起きると、黑田清隆(くろだきよたか)は二月に海路で鹿児島に到って出払っていた西郷軍の本拠地を確保し、いったん長崎に引き上げた。

西郷軍に熊本城は包囲され、北から来る山縣有朋の主力軍が解囲戦に苦戦していた三月十四日に、清隆(きよたか)は征討参軍に任命された。

清隆(きよたか)は敵の背後を突く為に八代付近に上陸し、三月三十日から交戦を始め、前進を続けて四月十五日に熊本城に入った。

千八百七十七年(明治十年)四月十六日に山縣と合流した当日、清隆(きよたか)は自らの辞任を請い、二十三日に辞令を受け取ったが、入れ替わりに戦線に到着した開拓使で清隆(きよたか)が育てた屯田兵は、以後の城山の戦闘まで活躍した。

西郷隆盛が城山に自刃し、翌千八百七十八年(明治十一年)にもう一人の大物・大久保利通が暗殺されると、清隆(きよたか)は薩摩閥の重鎮となった。

しかし黑田清隆(くろだきよたか)はアル中・酒乱とも評され、酒の上での醜聞には事欠かない人物で、千八百七十八年(明治十一年)に妻の清が死んだ時も、「酔った清隆(きよたか)が殺した」と噂が流れ、大警視・川路利良が清の墓を開け、病死である事を公に確認した。

その後も酒の上の醜聞と開拓使の官営事業の継続に関わる疑獄事件(開拓使官有物払下げ事件)の指弾が絶えない中で、薩摩閥の重鎮・清隆(きよたか)は第一次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤博文(いとうひろぶみ)の後をうけて千八百八十八年(明治二十一年)四月に二人目の内閣総理大臣となった。

清隆(きよたか)の内閣総理大臣在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉に失敗して翌年辞任した。

第二次伊藤内閣の逓信大臣に就任、この伊藤内閣のもとで日清戦争が起こったが、清隆(きよたか)は特に活躍する事なく、千八百九十五年(明治二十八年)に枢密院議長となり、千九百年(明治三十三年)八月二十三日、脳出血で死去した。

黒田清隆(くろだきよたか)その(一)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-10-25 00:10 | Comments(0)  

黒田清隆(くろだきよたか)その(一)

黒田清隆(くろだきよたか)は、千八百四十年新暦十一月九日(旧暦天保十一年十月十六日)に薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で、家禄僅か四石の下級薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。

千八百四十に清隆(きよたか)が生まれたと言う事は、同じ頃に明治新政府で活躍した長州の桂太郎よりは八歳年上で、同郷の偉大な英雄・西郷隆盛の十二歳年下にあたる。

清隆(きよたか)は長じて藩に出仕し、薩摩藩の砲手に任用となり、剣術でも示現流門下として有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝している。

千八百六十二年(文久二年)八月、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近に於いて、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬の英国人を、供回りの藩士が殺傷した事件を生麦事件と言う。

生麦事件当時の薩摩藩行列のには一行の中には、後に維新の立役者となる大久保利通もいた。

この時には、二十二歳の清隆(きよたか)が随行の一人として生麦事件に居合わせたが、自らは武器を振るわず「抜刀しようとした者を止めた」と言う。

千八百六十三年(文久三年)、清隆(きよたか)は生麦事件の賠償を要求する英国との間で起こった薩英戦争に参加した後、大山巌と共に江戸で江川太郎左衛門の塾に入り西洋砲術を学び皆伝を受けた。

千八百六十六年(慶応二年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷隆盛桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いている。

千八百六十八年(慶応四年)戊辰戦争が勃発し、薩長同盟の繋ぎ役を務めた黒田清隆(くろだきよたか)は、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。

同千八百六十八年(慶応四年)三月、北陸道鎮撫総督・公卿・高倉永? (たかくらながさち)の参謀に、薩摩の黒田清隆は長州の山縣有朋とともに任命される。

北越戦争に際して清隆(きよたか)は、長岡藩を降伏させ新発田藩を降し新潟を占領して所期の目標を達し越後の戦闘が決してから秋田に上陸して庄内を背後から攻略、西郷隆盛と合流して米沢藩と庄内藩を帰順させ鶴岡城を接収してこの北越・北陸日本海方面の戦闘を終わらせた。

その任務終了後、清隆(きよたか)は一旦鹿児島に帰り、翌千八百六十九年(明治二年)一月に軍務官出仕に任命される。

箱館戦争が始まると、清隆(きよたか)は二月に清水谷公考中将の参謀を命じられ、三月に東京を出港し途中、宮古湾停泊中に旧幕府軍の新政府軍・主力艦「甲鉄」奪取作戦である宮古湾海戦に遭遇している。

四月十九日日に清隆(きよたか)は蝦夷の江差に上陸して旧幕府軍との最後の戦いの総指揮を取り、五月に成って旧幕府軍が箱館に追い詰められたのを見て、助命の為の内部工作を手配している。

五月十一日の箱館総攻撃では、清隆(きよたか)自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んで榎本武揚に降伏を勧め、武揚は十七日に降伏した。

戦後処理に於いて、清隆(きよたか)は榎本助命を強く要求して、厳罰を求める者と長い間対立し、彼の為に丸坊主に成った事もあり、榎本問題は二年六ヶ月を費やして千八百七十二年(明治五年)一月六日に漸く榎本らを謹慎、その他は釈放として決着した。

その榎本助命交渉の最中も、樺太でのロシアの圧力が増した為、千八百六十九年(明治二年)八月に開拓使長官として赴任していた「七卿落ち」の公卿の一人だった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)を補佐する形で、千八百七十年(明治三年)五月に清隆(きよたか)は樺太専任の開拓次官と成った。

開拓次官と成った清隆(きよたか)は七月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して十月に帰京し、二十日に建議して、樺太は3年も持たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた。

黒田清隆(くろだきよたか)その(二)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-10-24 00:20 | Comments(0)  

二百三高地(にひゃくさんこうち)

二百三高地は、遼東半島・軍港旅順港を見下ろす標高二百三メートルの高台に築かれたロシア軍の要塞である。

旅順港は日清戦争の後、ロシア帝国が中国から租借して軍港と要塞を建設した東アジアに於ける軍事上の重要な要で、日露戦争の時にも旅順を母港としていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)とう言う強力な海上兵力が在った。

ロシア帝国の東アジア進出の最重要地・旅順港は背後の丘陵地帯に堅固な要塞群を築いていて、その強固な陣地の一つが旅順港を見下ろす高台・二百三高地だった。

高い丘・二百三高地の上にロシア軍が死守する陣地があり、攻め落とそうにも丘の途中には身を隠す所もなく、丘の上からロシア軍の機関銃に大砲を撃ちかけられ、突撃を繰り返す日本兵は一方的に犠牲者を出す。

その為旅順陥落を為さしめる作戦に於いて二百三高地の攻防は戦略的に重要で、結果、この高地の支配を掛けて大規模な軍事的衝突となる。

日本軍は要塞と港への攻撃を敢行、ロシア軍は強固な陣地に大砲や機関銃を配備して迎え撃ち、日本兵にも露兵にも空前の死傷者を出す。

この戦闘で日本兵約六万人が倒れ、時の第三軍司令官・乃木希典(大将)は無能と糾弾されるが、これは事実である。

陸軍大将・満州軍総参謀長・児玉源太郎(こだまげんたろう)が希典を側面支援し、そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、二百三高地を半日で陥落させた。

三軍司令官・乃木希典が攻めあぐねていた二百三高地に対し、児玉総参謀長が火力の集中と言う要塞攻撃の常道を行う為、元々海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な二十八センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで「一日で配置転換を行う」と言う奇抜な作戦を取った結果である。

多大な犠牲者を出した日本軍は状況を好転すべく重砲を投入し、十五センチ榴弾砲、そして二十八センチの巨大榴弾砲で攻略して散兵壕を破壊、ロシア軍は五千名近くの戦死者を出して撤退し、漸く二百三高地を奪取する。

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by mmcjiyodan | 2010-10-23 00:17 | Comments(0)  

後藤象二郎(ごとうしょうじろう)

後藤氏の遠祖は藤原利仁流後藤氏で、言わば藤姓武士の一分派と言う事に成る。

土佐後藤氏の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の先祖・播磨後藤氏は、播磨別所氏家臣・後藤将監基国(後藤氏当主)で、安土桃山時代から江戸時代初期の武将・黒田孝高(如水)の家臣、後に豊臣秀頼の家臣・後藤基次(ごとうもとつぐ/通称・又兵衞)は後藤基国(ごとうもとくに)の次男だった。

豪傑として知られた後藤又兵衞基次の兄の家が、又兵衛の叔父にあたる播磨の住人・後藤助右衛門で、父とともに山内一豊に召し出され土佐に移り住んだのが、土佐藩上士・後藤氏である。

後藤象二郎 / 象次郎(ごとうしょうじろう)は、その後藤氏・土佐藩の馬廻格百五十石・後藤助右衛門正晴の長男として土佐郡高知街片町に生まれた。

少年期に義理の叔父・吉田東洋(よしだとうよう)の少林塾にて学び、吉田の推挙により千八百五十八年(安政五年)幡多郡奉行、二年後の千八百六十一年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として活躍するも、千八百六十二年(文久二年)に武市瑞山の策謀に依り吉田が暗殺されて失脚する。

しかし、千八百六十三年(文久三年)に象二郎 (しょうじろう)は藩政に復帰し、前藩主・山内容堂の信頼を得るとともに、江戸の開成所にて蘭学や航海術、英学も学ぶ。

千八百六十四年(元治元年)、象二郎 (しょうじろう)は大監察に就任し公武合体派の急先鋒として、武市瑞山らを切腹させるなど土佐勤王党を弾圧する。

所が土佐勤王党弾圧から三年、千八百六十七年(慶応三年)に成って象二郎 (しょうじろう)は公武合体派から尊皇攘夷派に転換する。

尊皇攘夷派の坂本龍馬と会談し、龍馬の提案とされる船中八策(新政府綱領八策の俗称)に基づき、将軍・徳川慶喜大政奉還を提議する。

この後の象二郎 (しょうじろう)は在京土佐藩幹部の同意を得た後に、薩摩藩の賛同も得て薩土盟約の締結を為すも帰国して報告すると、容堂は武力発動の可能性を持つ盟約に難色を示す。

折りしも長崎で起きたイギリス人殺害事件で海援隊士に容疑がかかったイカルス号事件の処理で土佐に乗り込んで来た英国公使パークスとの交渉を象二郎 (しょうじろう)が命じられるなど時間を消耗した為、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。

時流が薩長同盟によって倒幕へ傾斜した事に対する焦りがあり、薩摩との提携解消後も象二郎 (しょうじろう)は大政奉還への努力を続ける。

流石に前藩主・山内容堂も大勢を読み、千八百六十七年(慶応三年)十月三日に象二郎 (しょうじろう)は容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出、十一日後の十月十四日、将軍・徳川慶喜がこれを受けて大政奉還を行う。

これらの功により、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は土佐藩中老格七百石に加増され、役料八百石を合わせて計千五百石取りに栄進する。

翌千八百六十八年(慶応四年)パークス襲撃事件鎮圧の功により、象二郎 (しょうじろう)は中井弘と共に英国ビクトリア女王から名誉の宝剣を贈られ、更に維新の功により明治帝(新政府)から賞典禄一千石を賜っている。

象二郎 (しょうじろう)は、新政府で参与、左院議長、参議などの要職に就くが、千八百七十三年(明治六年)の征韓論争に敗れ、三十五歳に成っていた象二郎 (しょうじろう)は板垣退助・西郷隆盛らと共に下野、板垣退助・江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民選議院設立を建白する。

千八百八十一年(明治十四年)、象二郎 (しょうじろう)は下野後八年間民選議院設立運動をしていたが、板垣退助を中心として自由党を結成して後に大同団結運動を推進するが、のちに政府への協力に転じる。

黒田内閣や第一次松方内閣で逓信大臣、第二次伊藤内閣で農商務大臣などを歴任、千八百八十七年(明治二十年)、四十九歳の象二郎 (しょうじろう)は伯爵を授けられた。

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