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頑張る(がんばる)

小学校の勉強なら兎も角、実社会では幾ら「頑張って」もそれだけでは「良くやった」と褒められない。

つまり一所懸命も努力も同じ事だが、それなりの結果が出せなければ、幾ら「頑張って」も実社会では「無」である。

「頑張る(がんばる)」はある種の言い訳にも使われる言葉であり、現代に於ける政治家などはその典型的な立場で、頑張って居ても結果を出せなければ赦されるものではない。

その日本人が良く使う「頑張る」って言葉の意味は何だろうか?

「がんばる」と言う言葉先に在りきで、「漢字を充てた」と言う説もあるが、文字の意味を素直に採ると頑(かたくな)を張ると言う事で自分の我を押し通す説や「目を着ける・見張る」から転じて「眼張る」が語源と言う説がある。

これと同じような意味に使う中文(中国語)の言葉は「加油(ちゃよう)」と発音し、如何にもエネルギーを追加する雰囲気で頑(かたくな)とは少々雰囲気が違う。

これでお気付きの方も出てきそうだが、「加油(ちゃよう)=がんばる」の油を絶つ事が、日本語の「油断(ゆだん)」に通じ、つまり頑張りを怠る事が「油断(ゆだん)」の語源ではないかと推測するがいかがか?

それに対して同じような意味の「頑張る」は柔軟性に欠ける質濃い発想の下、論理とは別の個人が応援・援助も当てにせずの拘束的で精神的な色が濃い言葉である。

その精神的色を辿って見ると、日本人は明治維新を迎えるまでスポーッと言う概念は無く武術がそれに当たるものだが、武術に於いても基本的に個人競技で、ほとんど団体競技は無かった。

何故ならば、織田信長が歴史の表舞台に登場するまでは、戦の形が「手柄の確定」の為に「名乗ってから切り合う」個人戦の集積型だったからである。

そうなると兵法修行(学問)も武術修行(実技)も、文字通りに個人が頑(かたくな)に努力するしかない。

勿論、「頑張(がんば)る」の効用も在るのだがケースバィケースで、論理無き精神思想の下に「無駄な頑張(がんば)り」を念仏のごとくに唱える所に、歴史が培(つちか)った日本人気質を感じる。

詳しくは【日本人・その気質のルーツ】を参照して下さい。

関連参考文献
金と日本人】に飛ぶ。
家制度恥文化の規制的な行動制約】に飛ぶ。
良い加減・放棄と融合】に飛ぶ。
物造り大国・日本】に飛ぶ。
物造り大国・日本の矛盾】に飛ぶ。
島国日本人気質・謙譲の美徳(けんじょうのびとく)】に飛ぶ。

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-11-29 20:03 | Comments(0)  

やませ(山背)

「やませ(山背)」は、主として日本列島の北海道・東北(奥州)地方に発生し、住民にはけして歓迎されざる気象現象である。

初夏から夏の時期にかけて、北海道・東北(奥州)地方の太平洋側にオホーツク海気団より吹く北東風または東風の冷たく湿った強い風が吹く事が在る。

特に梅雨明け後に吹くこの季節外れに冷たい強風の事を人は「やませ」と呼び、「やませ」の風が吹くと沿岸部を中心に気温が下がり、海に面した平野に濃霧が発生し易くなる。

この気象現象は通常三日ほどで収まるが、「やませ」が長引くと低温と日照不足に拠って水稲などの農作物に被害を及ぼし、長期化は東北地方全域に凶作を引き起こす。

「やませ」の影響で、太平洋側では日照時間は少なく気温も低くなる為、長く吹くと冷害の原因となり、凶作風、飢餓風とも呼ばれて、知られるものだけでも江戸四大飢饉、昭和東北大飢饉などの大飢饉の記録が残されている。

この「やませ」の季節外れの寒風には、源頼義(みなもとよりよし)が率いる坂東武者もてこずり苦しんでいる。

蝦夷族(えみしぞく)が追いやられた北海道・東北(奥州)地方は、列島の西側を統一した大和朝廷(ヤマト王権)の進出を阻むほどに、冬季の厳しさだけでなく「やませ」の存在も北海道・東北(奥州)地方が厳しい風土に在ったのだ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-11-27 19:28 | Comments(0)  

日本武士の出現

日本武士の出現に関しては、如何なる必然が在っていつ頃出現した事かを意外と知らない方が多い。

実は決定的な必然として、支配体制を確立し掛かっていた渡来部族に対する原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスに対する対策として日本武士は出現した。

弥生期から平安期に到る日本列島黎明期の武力は、部族単位の自警団的要素が強いもので、必要に応じて召集される武力だった。

それが、原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスと言う必要な事態が常態化して専業の武門を組織する必要が生じた。

古代に於ける治安維持に関して、大和朝廷(ヤマト王権)初期の官憲としては犬飼部が挙げられ、その後は後胤貴族である平氏源氏が大和朝廷(ヤマト王権)から地方派遣される形でその役割を担う経緯が存在した。

この頃に成り立ったのが実は全国に存在する初期鎮守神の出現で、鎮守府将軍に表される治安維持に関して、武力組織が地方に派遣され、陰陽修験道師山伏)の活動も在り地方の平安を司どる呪詛的要素を習合して鎮守氏神(鎮守氏上)の信仰概念が成立した。

平安時代の中期になると、奈良時代の防人制度の廃止、武力ではなく神の力で国を修める建前の為に、朝廷の武人貴族が形式化して弱体となり、地方豪族の私的で日常的な武装化が促進され、武器・武具の形状に著しい変化が現れる。

所謂(いわゆる)「武士の台頭」で、地方豪族の私的で日常的な武装化が進んだからである。

日本武士の出現が平安期とすると、それではそれ以前の武力は何だったのかと疑問をお持になるだろう。

それは当初の大和合国家の成り立ちからして、武力ではなく「神の威光で統治する」と言う呪詛的意味で統治する初期大和朝廷(ヤマト王権)の大王(おおきみ/天皇)に武力は相応(ふさわ)しくは無く、御所の守りは兵衛(ひようえ)と呼ばれる武官職の衛士で武士ではなかった。

地方に派遣するにしても、警察権的要素の犬飼氏を除くと米大陸に於ける移民が武力専任ではない立場で武器を携えていたのと同じレベルの位置付けになるのである。

つまり八百年も後の、米大陸の開拓移民に対する原住ネイティブアメリカン(インデアン)のレジスタンス抗争に騎兵隊が編成されたがごとくに良く似た経緯を辿って日本武士の出現を促した。

そしてそうした武力と言うものは、世界の常識のごとくご他聞に漏れず、やがて独自に動き始めて統制の利かない勢力に育ち、歴史の表舞台に昇る事になる。

詳しくは、小論【日本武士のルーツ】を参照。

関連小論
国家の品格・武士道の国日本のまやかし】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-11-26 15:40 | Comments(0)  

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)

江戸幕府を起こした徳川家康(とくがわいえやす)の墓所となった久能山東照宮くのうざんとうしょうぐう)は駿河国(静岡県静岡市駿河区)にある神社で、元々は隣接する日本平と共に太古海底の隆起によって出来き、長い年月の間に浸食作用などの為に堅い部分のみが残り、現在のように孤立した山と成った久能山(標高二百十六メートル)に在る。

久能山の由来であるが、六百年頃の推古大王(すいこおおきみ/天皇/女帝)のみ世に久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、駿河国の名産・静岡茶の始祖といわれる聖一国師など多くの名僧が往来し隆盛を極めたとされる。

戦国期は今川氏の所領と成っていたが、今川氏の滅亡後の千五百六十八年(永禄十一年)駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地・久能山に久能城を築いた。

その久能城も、武田氏の滅亡とともに駿河国は三河国の徳川家康の領有するところとなり、その支配下に入った。

天下が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の物となり、家康は一時関東へ国替えとなり久能城から離れるも、関が原の合戦の戦勝を経て征夷大将軍と成り、大阪の役で豊臣家を滅ぼして天下人と成る。

家康は将軍職を二代・秀忠に譲り、大御所と成って当時未だ西国方面に多い秀吉恩顧の大名に備えて、関東・江戸の守りも兼ねた立地である駿河・駿府城に隠居、晩年を駿府で過ごした。

大御所として駿府に在城当時の家康は「久能城は駿府城の本丸と思う」と評して久能山の重要性を説き、千六百十六年五月(元和二年四月)に死没 すると死後その遺言により久能山の地に埋葬された。

その一年後の千六百十七年(元和三年)には二代将軍・秀忠によって社殿が造営され、久能山東照宮と命名した。

特筆すべきは、後に三代将軍・家光に拠って造営された日光東照宮に存在する明智疑惑の桔梗紋などは、久能山東照宮には存在しない。

久能山東照宮の祭神は東照大権現(徳川家康)であり、相殿としては、一時家康が家臣として仕えた豊臣秀吉と同盟として家康の出世に力を与えた織田信長を祀っている。

その後、三代将軍・家光に拠って日光東照宮が造営され、日光東照宮へはこの久能山東照宮から「御霊の一部を移した」とされている。

久能山東照宮を管理したのは、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領した徳川四天王の一人・榊原康政(さかきばらやすまさ)の兄・清正の交代寄合格・榊原家宗家である。

久能山東照宮は五十年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、落成当初以来の多くの建造物が現存し二千十年に本殿、石の間、拝殿が国宝に指定されるが、明治初期の廃仏毀釈によって五重塔を失っている。

日本の神社の成り立ちを氏神(氏上)に見る上でヒントになるのが明神(みょうじん)権現(ごんげん)で、実は明神も権現も言わばこの世に現れた神様の事である。

代表的な氏上(神様)が、剣明神社(つるぎみょうじん/織田神社)東照権現(とうしょうごんげん/日光徳川神社)と言う事になる。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)】に続く。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-11-23 03:37 | Comments(0)  

犬養部(いぬかひべ)・伴造四氏族(とものみやつこよんしぞく)

犬養部(いぬかひべ)を統率した伴造(とものみやつこ)に、県犬養連(こおりのいぬかひのむらじ/あがたのいぬかいむらじ)、海犬養連(あまいぬかひのむらじ)、若犬養連(わかいぬかひのむらじ)、阿曇犬養連(あずみのいぬかひのむらじ)の四氏が存在した事が伝わっている。

古代豪族・犬養氏は、この伴造(とものみやつこ)でである。

県犬養氏(あがたのいぬかいうじ)は宮門、屯倉などの守衛に当たる犬養部を統率した伴造四氏族(とものみやつこよんしぞく)の一つで、大和朝廷(ヤマト王権)の直轄領である屯倉の守衛・管理を職としたため朝廷直轄地を意味する県(あがた)を犬養に冠したと考えられる。

伴造(とものみやつこ)とは、連(むらじ)とも重なり、また、連(むらじ)の下で大和朝廷(ヤマト王権)の各部司を分掌した豪族の尊称である。

造(みやつこ)と言う名称は国又は土地の造り主を意味し、連(むらじ)は連合の主を表す。

つまり、有力征服部族長出身の大和政権の有力構成メンバーで、大王(おおきみ・帝)に対する御門や臣王(おみおう)と同様な意味と考えられる。

伴造(とものみやつこ)には、秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのふみ)など代表的な帰化氏族があり、他に、弓削(ゆげ)、矢集(やずめ)、服部(はとり)、犬養(いぬかい)、舂米(つきしね)、倭文(しとり)などの氏があり、これら氏族は、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(かばね)を称した。

県犬養氏(あがたいぬかいうじ)は、神魂命(かむむすびのみこと)の後裔と称する神別氏族で、姓(かばね)は連(むらじ)であったが六百七十二年の壬申の乱に一族の大半が大海人皇子の舎人として功を立て、六百八十四年に行われた「八色の姓(やくさのかばね)」の制定にともなって宿禰姓(すくねのかばね)を改賜された。

尚、県犬養氏(あがたいぬかいうじ)が名乗る出雲の神々の御祖神・神魂命(かむむすびのみこと)の孫には、賀茂氏(賀茂県主/かもあがたぬし)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が居ると言う寸法である。

そして犬養氏(いぬかいうじ)が神魂命(かむむすびのみこと)の後裔で、賀茂氏(賀茂県主/かもあがたぬし)の始祖も神魂命(かむむすびのみこと)であるならば、賀茂(賀茂役君/かもえのきみ)・役小角(えんのおずぬ)陰陽修験組織が官憲であり、官憲が「犬」と呼ばれても符合するのである。

「続日本紀」に拠ると、県犬養氏(あがたいぬかいうじ)は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の妻であり、藤原光明子(光明皇后)・橘諸兄(たちばなのもろえ)の母である贈従一位・県犬養三千代や、聖武天皇夫人で安積親王(あさかしんのう)の母である正三位・県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)などが輩出され、天武大王(てんむおおきみ/天皇)~奈良時代中期にかけて有力な氏族であった事が知られている。

後世、屯倉(みやけ)の守衛に始まった犬養氏・犬養部は、後に犬を手放すとともに、屯倉(みやけ)の「守衛」により培って来た武芸を活かし、「軍事氏族としての色を強めて行った」と思われる。

その事が判るのが、有名な大化の改新の引き金となった蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺のクーデター(乙巳の変)の参加者として、海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)や葛城稚犬養(若犬養)連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた)の名が見られる事で有る。

この軍事氏族犬養氏が皇統の血族とは異なった事から、直系の賀茂(葛城)の隠密組織「陰陽寮」が組織され、その後、皇胤(こういん)貴族(皇統の血族)である平氏源氏に取って代わられる事になる。

いずれにしても、犬養部(いぬかひべ)と陰陽師は、庶民にとっては神(上)の使い=官憲である。

犬神の「神が外れて」ただの「犬」になってしまったのは、正に庶民の呪縛が解け、「敬いと恐れ」の気持ちを失ったからである。

尚、県犬養三千代は、大伴家持が個人的に編纂したとされる万葉集に作品が残る万葉歌人(まんようかじん)でもある。

橘諸兄(たちばなのもろえ)】に続く。
犬養氏(いぬかいうじ)】に戻る。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-11-10 02:17 | Comments(0)  

勾玉(まがたま)の謎

阿部氏・安倍氏の蝦夷族長説に付いての裏付けとしては、我輩は我が国古代の装身具である翡翠の勾玉(ひすいのまがたま)に注目した。

玉器に拠る宝飾品は歴代中華帝国にも在ったが、勾玉(まがたま)は無かった。

つまり勾玉(まがたま)は、日本列島に存在した固有の装身具である。

前述の様に、阿部氏・安倍氏が土着の部族王・御門(みかど/臣王)であれば、越後守(越後国主)は正に臣王(おみおう/御門)であり、我が国古代に於いて固有の装身具・翡翠勾玉(ひすいまがたま)の翡翠(ひすい)は、その越後国(新潟)糸魚川が唯一の産出地である。

そして勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、日本史では「先史」とされている古事記日本書紀に於ける記述以前の古代史に於いて日本に於ける装身具の一つであり、「祭祀にも用いられていた」と言われるが、「先史」は大和朝廷(ヤマト王権)に於いて意図的に葬られたので詳細は分からない。

しかし勾玉(まがたま)が、列島固有の装身具として「先史(縄文)時代」から存在した物であれば、三種の神器(みくさのかむだから)の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は何を意味しているのだろうか?

古墳時代前期の古墳から硬玉翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)が出土する事が多く、大阪府和泉市黄金塚古墳では、大小の勾玉が三十四個も見つかり、この内には翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)が二十六個が含まれている。

「突拍子もない」と否定するかも知れないが、平安貴族と成る安倍家の朝廷からの賜姓を良く読んで欲しい。

貴族「土御門家」である。

御門は部族王の事であるから、これを素直に読むと土蜘蛛、或いは土族(つちぞく)の帝=「つちみかど」なのである。

そして、宮中で、天文学を操って都の平穏を呪詛すると同時に、蝦夷の「統括及び民意誘導」を執り行う陰陽寮の長官・陰陽頭を任じたのである。

御門(みかど)が部族長或いは部族王の尊称であれば、安倍氏・貴族・土御門家(つちみかどけ)は紛れも無く土族(つちぞく)の長(王)であり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)勾玉(まがたま)を祭祀に用いた縄文人(蝦夷族)の長に違いないのではないか?

そしてこの古墳時代前期が、越後国の蝦夷族部族王・阿部氏・安倍氏が大和朝廷(ヤマト王権)に合流しつつある時期だったのではないだろうか?

日本の神道は氏族の氏神(氏上)であり、渡来部族の支配を確立する為に神格化させ、縄文人(蝦夷族)の土着信仰と融合させた物だ。

そして勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、縄文期から古墳期にかけての「先史」と言われる時代、つまり「古事記日本書紀」で日本史が天孫降臨伝説に捏造される以前の時代に存在した祭祀的意味合いを持った装身具で、平安期には姿を消した物だった。

当然ながら、勾玉(まがたま)が縄文人(蝦夷族)の土着信仰に関係があるのであれば、渡来部族と縄文人(蝦夷族)が混在した縄文期から古墳期にかけての融合期にのみ集中していた訳である。

つまり土偶(どぐう)や勾玉(まがたま)と言った縄文文化は、「古事記・日本書紀」の天孫降臨伝説とその伝説喧伝工作を担った陰陽修験の活躍にかき消されてしまったのだ。

「まがたま」の言葉(語)の初出は「記紀」にあり、「古事記」には「曲玉(まがたま)」、「日本書紀」には「勾玉(まがたま)」の表記が見られ、語源は「曲っている玉」から来ていると言う説が有力である。

多くは、アルベットの「C」の字形またはカタカナの「コ」の字形に湾曲した玉から尾が出たような形をして居り、丸く膨らんだ一端に穴を開けて紐を通し、首飾りとした。

孔のある一端を頭、湾曲部の内側を腹、外側を背と呼び、多くは翡翠、瑪瑙、水晶、滑石、琥珀、鼈甲で作られ、土器製のものもある。

その勾玉(まがたま)の形状は、「元が動物の牙であった」とする説や、母親の胎内にいる「初期の胎児の形を表す」とする説などがあるが列島固有の装身具で、古代の日本列島が文化的な影響を受けたとされる中華大陸側には勾玉(まがたま)に相当するものは無い。

現在では縄文時代極初期のs�状耳飾(けつじょうくびかざ)りが勾玉(まがたま)の原型であると考えられており、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。

この勾玉(まがたま)の装飾文化は朝鮮半島へも伝播し、紀元前六世紀から七世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉(まがたま)が見られる。

縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期には「C」字形の勾玉(まがたま)が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化している。

「先史」とされている縄文時代を通じて勾玉(まがたま)の大きさは、比較的小さかったが、大和朝廷(ヤマト王権)が列島の西側に成立した弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉(まがたま)が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。

三種の神器(みくさのかむだから)の一つに、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が存在する事から、大和朝廷(ヤマト王権)が渡来部族と原住縄文系民族(蝦夷族)との和合に力を入れた結果ではなかったのか?

六世紀初めには、製作される数が少なくなり、その後、奈良時代には寺院の芯礎に納められたり、仏像の装飾に使用されることはあったが、あくまでも古来の伝世品で、新規に製作されたものではない。

詳しくは【日本語のルーツと安倍氏】を参照に飛ぶ。

阿倍氏・安倍氏(あべうじ)】に戻る。
阿倍比羅夫(あべのひらふ)】に戻る。

関連記事
三種の神器(みくさのかむだから)】に飛ぶ。
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-11-10 00:57 | Comments(0)  

橘氏の由来と橘諸兄(たちばなのもろえ)

橘が姓として正式に登場するのは、県犬養宿禰(あがたのいぬかいのすくね)三千代が元明大王(てんむおおきみ/第四十三代天皇)即位の大嘗祭(だいじょうさい/おおにえのまつり)後の祝宴で、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)から橘姓を賜った。

橘諸兄(たちばなのもろえ)は、元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおう/おおきみ・皇族)と称し、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の後裔で大宰帥・美努王(みぬのおう/皇族)の子であった。

その葛城王(葛木王・かつらぎのおう/おおきみ・皇族)が、弟の佐為王(さいのおう)と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰(たちばなのすくね・宿禰は八色の姓(やくさのかばね)で制定された姓(かばね)の一つ)を継ぐ事を願い許可され、それ以後は臣籍降下(しんせきこうか)をして橘諸兄(たちばなのもろえ)と名乗る。

橘宿禰(たちばなのすくね)の由来は、古代氏族・犬養氏の一つ県犬養(宿禰)東人(あがたのいぬかいの(すくね)あずまびと)の娘・県犬養宿禰三千代が元明大王(めいげんおおきみ/奈良朝初代・第四十三代天皇)即位の大嘗祭(だいじょうさい/おおにえのまつり)後の祝宴で、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)から「橘を氏とせよ。」と橘姓を賜る。

その橘三千代は奈良朝に於いて最も注目すべき女性で、長じて敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の曾孫・美努王(みぬおう/みぬおおきみ)に嫁ぎ、葛城王(かつらぎのおう・橘諸兄/たちばなのもろえ)と牟漏女王を産み、その後藤原不比等と結婚して光明皇后を産む。

橘三千代が嫁いだ美努王(みぬおう/みぬおおきみ)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の第二皇子・敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の第一子・難波皇子の子・栗隅王(くりくまのおう/くりくまのおおきみ)の子で皇族である。

美努王(みぬおう/みぬおおきみ)と橘三千代の間に出来た葛城王(かつらぎのおう)は参議まで上り、当時皇族が臣席に下るには眞人姓を賜るのが常であったが、母三千代の死後三年、橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜り、橘諸兄(たちばなのもろえ)を名乗る。

初代橘長者(たちばなのちょうじゃ)と成った橘諸兄(たちばなのもろえ)に権力を握る出来事が起こった。

七百三十七年(天平九年)疫病(天然痘)の流行によって藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡して議政官がほぼ全滅し、出仕出来る公卿は従三位左大弁の諸兄(もろえ)と従三位大蔵卿・鈴鹿王(すずかのおう・皇族)のみとなった。

そこで政権体制を整える為、急遽この年に諸兄(もろえ)を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王(すずかのおう・皇族)を知太政官事(太政大臣と同格で皇族である事のみが任用条件)に任命する。

翌年には、橘諸兄(たちばなのもろえ)は正三位右大臣に任命されて一躍朝廷の中心的地位に出世する事になり、これ以降の国政は事実上橘諸兄(たちばなのもろえ)が担当し、聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)を補佐する事になる。

尚、橘諸兄(たちばなのもろえ)は、大伴家持が個人的に編纂したとされる万葉集に作品が残る万葉歌人(まんようかじん)でもある。

橘諸兄(たちばなのもろえ)の乱】に続く。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

関連記事
犬養氏(いぬかいうじ)】に飛ぶ。
犬養部(いぬかひべ)・伴造四氏族(とものみやつこよんしぞく)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-11-07 03:19 | Comments(0)  

秋山真之(あきやまさねゆき)

海軍軍人として日清日露の海戦に従軍し、日本海海戦で、先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した後、海軍中将に昇った秋山真之(あきやまさねゆき)は、千八百六十八年に伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に於いて松山藩の下級武士・徒士目付筆頭・秋山久敬(あきやまひさたか)の五男として生まれた。

伊予松山・久松松平氏十五万石は、幕府親藩・御家門の大名で、真之(さねゆき)の秋山氏は安土桃山期まで遡れば伊予の名流・河野氏に繋がるとされている。

日本陸軍の、特に騎兵隊の父と呼ばれた勲一等陸軍大将・秋山好古(あきやまよしふる)は、真之(さねゆき)の九歳年上の実兄の一人である。

秋山真之(あきやまさねゆき)は親友の正岡子規(まさおかしき)の上京に刺激され、愛媛県第一中学(現在の松山東高校)を中学五年にて中退する。

千八百八十三年(明治十六年)、真之(さねゆき)は将来の太政大臣を目指すために東京へ行き、受験準備の為に高橋是清(たかはしこれきよ)が校長を務めていた共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学する。

大学予備門では東京帝国大学進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之(さねゆき)は兄の好古(よしふる)に学費を頼っていた為、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む親友の子規(しき)らとは道を異にし、千八百八十六年(明治十九年)に海軍兵学校に十七期生として進学している。

この頃、兄の好古(よしふる)は陸軍騎兵大尉に昇任して東京鎮台参謀を務めている。

千八百九十年(明治二十三年)に、真之(さねゆき)は海軍兵学校を首席で卒業し、卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね、座礁したオスマン帝国(現トルコ)軍艦の生存者送還(エルトゥールル号遭難事件)にも従事する。

オスマン帝国(現トルコ)から帰還後の千八百九十二年(明治二十五年)真之(さねゆき)は海軍少尉に任官、千八百九十四年(明治二十七年)の日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参戦従事している。

子供の頃から戦争ごっこが好きな真之(さねゆき)だったが実戦で現実を知り、国を守る為に戦う事が止むを得ないのなら、せめて「なるべく兵を失わない戦をしよう」と考え、作戦参謀を志して作戦の立案を学ぶ道を進む。

日清戦争後には「和泉」分隊士、千八百九十六年(明治二十九年)には横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生になり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第二水雷隊付になる。

横須賀水雷団第二水雷隊付の後、真之(さねゆき)は海軍大尉となり報知艦「八重山」に乗艦し、同年十一月には軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。

千八百九十八年(明治三十一年)に海軍の留学生派遣が再開され、真之(さねゆき)は派遣留学生に選ばれるが公費留学の枠には入れずに始めは私費留学だった。

この頃、兄の好古(よしふる)は陸軍騎兵大佐に昇進していたから、その援助も在っての私費留学だったのかも知れない。

米国へ留学した真之(さねゆき)は、ワシントンに滞在して海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。

この米国留学の時、真之(さねゆき)は米西戦争を観戦武官として視察し報告書「サンチャゴ・デ・クーパの役」を提出する。

米国海軍がキューバの港を閉塞する作戦を見学しており、この時の経験が日露戦争に於ける「旅順港閉塞作戦の礎となった」とも指摘されている。

翌千八百九十九年(明治三十二年)一月、真之(さねゆき)は英国駐在武官となり約七ヶ月視察を行い八月に帰国する。

英国視察後の千九百年(明治三十三年)には、真之(さねゆき)は海軍省軍務局第一課員・常備艦隊参謀になり、翌千九百一年(明治三十四年)には海軍少佐に昇任している。

秋山真之(あきやまさねゆき)、千九百二年(明治三十五年)に海軍大学校の教官となり、千九百四年(明治三十七年)に海軍中佐に昇任して第一艦隊参謀(後に先任参謀)を拝命する。

この頃、兄の好古(よしふる)は陸軍少将に昇任、騎兵第一旅団(習志野騎兵旅団)を指揮する立場に立っていた。

真之(さねゆき)が第一艦隊参謀(後に先任参謀)を拝命したこの年、朝鮮半島を巡り日本とロシアとの関係が険悪化し、同年からの日露戦争では真之(さねゆき)は連合艦隊司令長官・東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第一艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。

旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅の為の旅順港閉塞作戦に於いては、真之(さねゆき)は先任参謀を務め機雷敷設などを行い、ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案して日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争に於ける日本の政略上の勝利を決定付けた。

日露戦争戦勝後の千九百五年(明治三十八年)に連合艦隊は解散、真之(さねゆき)は巡洋艦の艦長を歴任し、千九百八年(明治四十一年)海軍大佐、第一艦隊の参謀長を経て千九百十二年(大正元年)の末からは軍令部第一班長(後の軍令部第一部長)に任ぜられ、翌千九百十三年(大正二年)に海軍少将に昇進している。

その後海軍中将まで昇って軍務局長を務めた真之(さねゆき)だったが、晩年は病に苦しんで活躍の場面は少なく、千九百十八年(大正七年)に五十歳で没する二年程前からは闘病が仕事だった。

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by mmcjiyodan | 2010-11-06 00:36 | Comments(0)  

秋山好古(あきやまよしふる)

日本陸軍の、特に騎兵隊の父と呼ばれた勲一等陸軍大将・秋山好古(あきやまよしふる)は、千八百五十九年(安政六年)に伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に於いて松山藩の下級武士・徒士目付筆頭・秋山久敬(あきやまひさたか)の三男として生まれた。

伊予松山・久松松平氏十五万石は、幕府親藩・御家門の大名で、好古(よしふる)の秋山氏は安土桃山期まで遡れば伊予の名流・河野氏に繋がるとされている。

実弟の一人に、海軍軍人として日清・日露の海戦に従軍し、日本海海戦で、先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した後、海軍中将に昇った九歳年下の久敬(ひさたか)五男・秋山真之(あきやまさねゆき)が居る。

千八百七十五年(明治八年)、好古(よしふる)は大阪師範学校受験し翌年には名古屋師範学校附属小学校に勤務するも僅か一年後(明治十年)には陸軍士官学校(旧制三期生)に入学し、軍人としての一歩を始めた。

二年後の千八百七十九年(明治十二年)、好古(よしふる)は陸軍士官学校卒業し、陸軍騎兵少尉に任用されて東京鎮台に配属される。

翌千八百八十年(明治十三年)、病に在った兄・則久の代替として好古(よしふる)が秋山家の家督相続する。

千八百八十三年(明治十六年)、好古(よしふる)は陸軍騎兵中尉に任じられて陸軍士官学校騎兵科教官に異動の後、翌月に陸軍大学校(第一期)入学する。

二年後の千八百八十五年(明治十八年)、好古(よしふる)は陸軍大学校卒業し参謀本部に勤務した後、翌明治十九年には東京鎮台参謀に異動となり陸軍騎兵大尉に任用される。

千八百八十七年(明治二十年)、好古(よしふる)は秋山家の旧主君家である旧伊予松山藩主・久松定謨(ひさまつさだこと)のサン・シール陸軍士官学校に留学に補導役として就き、フランスへ渡り騎兵戦術の習得に努める。

四年後の千八百九十一年(明治二十四年)、帰国した好古(よしふる)は騎兵の戦術専門家として騎兵第一大隊中隊長に異動、翌年には陸軍士官学校馬術教官に異動し陸軍騎兵少佐に任用される。

千八百九十三年(明治二十六年)、好古(よしふる)は騎兵第一大隊長に異動、翌年起こった日清戦争に従軍し、戦勝後の千八百九十五年(明治二十八年)には陸軍騎兵中佐に昇任した。

千八百九十七年(明治三十年)に陸軍騎兵大佐となり騎兵関係の軍教育畑を歴任した好古(よしふる)は、清国駐屯軍守備司令官などを経て千九百二年(明治三十五年)に陸軍少将に昇任する。

日露戦争の機運が高まる中、大陸に於ける作戦に好古(よしふる)の騎兵戦術は大いに期待され、千九百三年(明治三十六年)に騎兵第一旅団(習志野騎兵旅団)に異動する。

翌千九百四年(明治三十七年)の日露戦争の折には、秋山好古旅団長の指揮下で騎兵第一旅団は当時最強と言われたロシア帝国のコサック騎兵部隊を撃破するなど大いに活躍した。

九歳年下で学費を援助するなどして可愛がった弟の真之(さねゆき)には、千九百十八年(大正七年)に先立たれていた。

日露戦争後、好古(よしふる)は陸軍中将、近衛師団長、朝鮮駐剳軍司令官、陸軍大将、陸軍教育総監などを経て、晩年は本人の強い希望で故郷の北予中学校(現在の松山北高校)校長就任、千九百三十年(昭和五年)に亡くなる半年ほど前まで約七年教育現場で過ごしている。

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by mmcjiyodan | 2010-11-06 00:33 | Comments(0)  

坂本龍馬(さかもとりょうま)暗殺の真相

千八百六十七年(慶応三年)の年末、坂本龍馬は京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)事件で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。

この暗殺、一応佐幕派の犯人とされる者の自白も取れているが、その暗殺犯人がさしたる罪を問われて居ない為、実は「倒幕側(新政府勢力)の暗殺陰謀ではないか?」と、維新の謎とされている。

暗殺犯は「京都見廻組」と言う説が一般的であるが、近頃では別の説も浮上している。

実は現代とは程遠い幕末期の情報環境に在って、坂本龍馬の存在は「知る人ぞ知る」の情況にあり、その活躍を知る者は薩長土肥の勤皇の志士に限られていた。

この時代の坂本龍馬に関する情況をまとめると、藩(土佐)の代表として活動した事が無い脱藩下士の龍馬に佐幕派の注目度は低く、龍馬の存在が本当に維新の英雄と認知され全国区に成ったのは、維新後その存在を桂小五郎(木戸孝允)西郷隆盛などの新政府参議に公に明らかにされてからである。

現在の坂本と中岡の名声で考えると無いものを有ると思わせ、佐幕派の暗殺説はミスリードのまま素直に受け入れてしまうが、そこには時系列的に「如何にも」と思わせる認識トリックが存在する。

つまり落日近くの幕府を支える佐幕派が、大した高名には成らない坂本と中岡の暗殺をこの時期にピンポイントで襲うのは、情況的に得心が行かない出来事である。

それでは「何者が何故に」と成るのだが、簡単に表現してしまうと坂本龍馬の考え方は徳川家を残す有力大名の合議制で、公卿の三条実美岩倉具視、薩長を代表する西郷隆盛大久保利通桂小五郎(木戸孝允)らの完全倒幕派には相容れない所が在った。

そこに存在したのが、北朝天皇から南朝天皇の入れ替わったと言う表ざたには出来ない世紀の大陰謀で、徳川家の新政府入りを画策した坂本龍馬は、この入れ替わりの秘密を守る為に倒幕派に暗殺された可能性を棄て切れない。

そこで、薩長同盟(薩長盟約)締結の功労者の龍馬では在ったが、その後の状況変化では龍馬の考え方(龍馬案・大政奉還建白書)は完全倒幕派の邪魔になる為、龍馬の暗殺は「完全倒幕派の手に拠るもの」との見方も有力である。

坂本龍馬は土佐の貧乏郷士だが、その出自は豊臣秀吉紀州(根来衆・雑賀衆)征伐のおりに土佐に逃れた「根来衆の末裔」とも明智光秀に繋がる「明智一族一派の末裔」とも伝えられている。

人懐こさが信条の坂本龍馬には、持ち前の斡旋交渉能力があり、その能力は勘解由小路(賀茂)の血を彷彿させるものだった。

坂本龍馬の魅力は、権力奪取に固執しない自由な生き方を標榜する透明感であり、それは安土桃山期に活躍した雑賀孫市の生き方に共通している。

堺の根来衆・雑賀衆の自由自主独立精神が龍馬の血には流れていたから、事が成就しても新政府に参加する意志はなかった。

新政府の援助で貿易船団を仕立てて、商業活動で国力をサポートする積りでいた。

しかしながら龍馬には、功績を背景とした彼の新政権構想に徳川家の参加案があった為に、守旧派(親幕府派)ばかりでなく革新派(倒幕派)にも存在を疎む勢力が在った。

強烈な個性は諸刃の剣で、竜馬にはいかなる相手でも説得が通じない事くらい、薩長の志士達は先刻承知だった。

倒幕の成功をロマンとだけ捉えると動機は見えて来ない。

まぁこの時代、勤皇派(尊皇攘夷)も佐幕派も動乱に乗ったのは現状では浮かび上がれない者達で、野心満々の立身出世が根底に在っての主義主張であり、要はいずれの側に付いた者も大儀は方便だった。

そして厳密に言うと、長州の桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)達吉田松陰(よしだしょういん)一派は最初から尊皇攘夷だったが、薩州の小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)・西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)等は途中まで公武合体派だった。

それが翻(ひるがえ)った早い話が、倒幕に向かう彼等の動機は権力欲である。

現実的に坂本龍馬暗殺の可能性を探ると、純粋に日本を改革しようとした坂本龍馬と、功名心に始まり巧みな扇動と駆け引きで競合する者を蹴落として上り詰めて来た薩長の志士達とは根本の所で違っていた。

その権力への想いが最も強く、なかでも坂本龍馬の純粋な存在が疎(うと)ましかったのが、大久保利通(おおくぼとしみち)で在った事は否定出来ない。

薩摩の大久保利通(おおくぼとしみち)と言う男は、「誠忠組」と名つけた薩摩改革派グループの指導的立場に在り、土佐で言ったら「土佐勤皇党」を率いた武市瑞山(たけちずいざん/半平太)の立ち位置に近い所に居た。

幸い維新の達成に列する事が出来たが、岡田以蔵(おかだいぞう)を暗殺者に使った武市瑞山(たけちずいざん/半平太)と同様に大久保利通(おおくぼとしみち)も田中新兵衛(たなかしんべい)を使うなど頭角を現すに或いは目的の為には手段を選ばない非情さを兼ね備えていた。

そうした思考の持ち主である利通(としみち)からすれば、権力志向が無い強力なネゴシェーター(交渉人)・坂本龍馬(さかもとりょうま)の存在は脅威であり、存在さえも許せなかったのかも知れない。

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by mmcjiyodan | 2010-11-05 01:53 | Comments(0)