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平安時代(へいあんじだい)

平安期とは、桓武天皇長岡京から平安京に都を遷都した七百九十四年から鎌倉幕府が成立した千百八十五年(以前は千百九十二年説だった)までの間を指す。

つまり、凡そ千年に及び天皇の住まいし都・平安京(へいあんきょう)は、明治維新を経て千八百六十八年(慶応四年/明治元年)に、江戸(東京)の地に遷都(えどせんと)され、江戸は東京と名を変えて日本の首都となるが、時代としての「平安時代」の呼び名は千百八十五年(以前は千百九十二年説だった)の鎌倉幕府成立の時点で「鎌倉時代」と代わっている。

平安期の政治形態としては、天皇が自ら治世した「天皇親政」、藤原氏を中心とした「摂関政治(せっかんせいじ)」、上皇・法皇に拠る「院政政治(いんせいせいじ)」などの統治形態が在った。

平安期には、清少納言(せいしょうなごん)紫式部(むらさきしきぶ)などの女流作家が生まれ、貴族文化を象徴する七世紀後半から八世紀後半にかけて編纂された「万葉集)」が在る。

その「万葉集」以後の百五十年間をまとめる為、醍醐天皇の勅命によって編纂され九百五年(延喜五年)に出来た古今和歌集などの存在から、この平安期について単純に「平安文化が息づく良い時代」と考えている方が多い。

しかも現代に到っては、「平安」と言うネーミングそのものがその時代に対して「平和な良い時代」と言うイメージの先入観を持たせるに充分足りる名称である。

しかしそうした平安文化は、都の一部の氏族・貴族生活に於ける文献を基にした表面的な物を解釈したに過ぎない事に留意しなければならない。

桓武帝が平安遷都をした頃は、まだその大和朝廷(ヤマト王権)の権威が確立していたのは日本列島の半分・西日本に過ぎず、坂東(関東)以東から奥州(東北)に到る地域は、大和朝廷に取っては未だ混沌とした辺境の地だった。

確かに、華やかな平安貴族の文学に色採られた優雅な生活を生活に想いを馳せば、平安期を平和で文化的な「良い時代」と思い込んでしまうのも無理はない。

実はこの平安期、大和朝廷(ヤマト王権)が西日本から日本列島の全域に広がる過程の時代で、けして優雅に明け暮れる平坦な平和の時代では無かった。

むしろこうした平安文化を象徴する読み物や歌集に大和朝廷(ヤマト王権)が力を入れた背景は、地方の陰惨な現実を文化面で覆い隠す狙いでも在り、平安期の蝦夷支配の実態から目を逸らして後の世に伝え難くする政治的狙いが在ったのではないか?

つまり都の貴族生活だけが文献として後世に残り伝えられた物だから、影に隠れた庶民(良民)や奴婢(ぬひ)俘囚(ふしゅう)の生活は認識から欠落し、また地方で起こった地方貴族の反乱や俘囚(ふしゅう)に拠る平安群盗など多くの騒乱の類も都の貴族生活に隠れてしまっていたのだ。

鎌倉幕府成立大略】に続く。

この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。

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by mmcjiyodan | 2010-12-31 16:36 | Comments(0)  

明神(みょうじん)と信長の熱田神宮

織田信長が戦国統一の有力大名の列に加わったのは桶狭間の合戦今川義元を破ったからで、その時戦勝祈願したのが熱田神宮(熱田明神)である。

熱田神宮(あつたじんぐう)は愛知県名古屋市熱田区にある神社で、旧官幣大社、「式内社(名神大)」である。

「明神(みょうじん)」とは、神は仮の姿ではなく「明らかな姿をもって現れている」と言う意味であり、日本神道の神の称号の一つで天皇を指す場合には特に「あきつみかみ=明神」と読む。

そして京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から、つまり上賀茂神社も上賀茂明神なのである。

織田氏の出自とされる越前国織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は別名を織田明神社とされる明神様で、尾張一ノ宮・熱田神宮も別名は熱田明神社である。

織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は越前国二宮とされる「式内社」で別名を織田明神(おたみょうじん)と呼ぶ。

実は葛城ミステリー三島大社(三島明神)も、江戸の守り神の一社・神田明神も、同じ事代主神(賀茂の神)を主神とするもので、海彦伝説呉族系神が現れたものである。

この物語を最初から読まれた方には判る事で、信長がいきなり「自ら神に成る」と言い出すと現代の認識では「不遜な事」と受け取るが、織田氏は元々越前国織田庄・剣神社(織田明神/越前二の宮)の神官の出で、信長は氏神=氏上のカラクリも天孫降臨伝説のカラクリも承知していた。

そして明神(みょうじん)そのものが、「明らかな姿をもって現れている」と言う「現人神(あらひとがみ)」の性格を持つのであるから、織田明神の嫡孫・信長が「自ら神に成る」と言い出しても理屈が通るのである。

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by mmcjiyodan | 2010-12-29 18:24 | Comments(0)  

高家旗本(こうけはたもと)

江戸時代の高家は、江戸幕府に於ける儀式や典礼を司る役職であり、また、この職に就く事ができる家格の旗本を指して高家旗本(こうけはたもと)と称す。

役職としての高家を「高家職」と記す事があり、高家旗本と言う家格の内、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。

この高家を江戸幕府に置いたには、徳川家・初期歴代将軍の貴家趣味(きけしゅみ)に起因する所が大きく、特に徳川家康の貴家趣味は有名で、儀式を行う高家として没落した名門武家を数多く登用した。

貴家趣味(きけしゅみ)とは、高貴な家柄の人物と交流したり、また能力・実態以上に重く用いる事を好む事で、歴史学的には日本史に於ける血統至上主義が如実に現れたものであり、没落した貴家の出身者を家臣として迎えて自己の地位を高めようとする狙いもある。

つまり江戸幕府から朝廷や公家との交際指南役として公家に近い扱いを受けたのが、室町幕府で高級官僚を務めた経緯を持つ没落名家などから幕臣に引き立てた家が高家旗本である。

また、徳川家康が三州・吉良家(四千二百石)や元駿河国・今川家(一千石)が、高家旗本(こうけはたもと)として幕臣に列したのは他にも訳が在る。

彼らの家が足利系流れであり、事の真相はともかく徳川家も出自を足利系得川家と名乗っていたからである。

千六百八十三年(天和三年)、奥高家(有職高家)の中から有職故実や礼儀作法に精通している大沢基恒、畠山義里、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の三名を選んで高家肝煎(こうけきもいり)としたが、高家肝煎となる家は固定されていた訳ではない。

◆摂津下野河内源氏足利流畠山家(能登)畠山民部大輔(はたけやまみんぶだゆう)五千石、
◆清和源氏足利流・吉良家(三河西条吉良氏)吉良左近衛権少将(きらさこんえしょうしょう)四千二百石は元禄赤穂事件に依り廃絶、
◆公家・持明院流・駿河名家・大沢家(遠江)大沢右京大夫(おおさわうきょうだゆう)三千五百五十六石、
◆自称平家織田流・大和織田家(尾張/信長織田家の本家)織田宮内大輔(おだくないだゆう)三千石、
◆清和源氏流美濃石津高木西家・高木弾正(たかぎだんじょう)二千三百四石、
清和源氏新田流・由良家(信濃)由良信濃守助(ゆらしなののかみすけ)一千石、
◆宇多源氏佐々木流・京極家(近江)京極丹後守(きょうごくたんごのかみ)千五百石、
◆河内源氏足利流・今川家(遠江)今川従五位(いまがわじゅごい)一千石、などが、有力高家旗本である。

高家は、公式の場に於ける礼儀作法を諸大名に伝授する事も職分であり、その際、相応の謝礼を受ける事が黙認されていたのだが、それは格式が高い為に収入以上の経費を必要とする少禄の高家にとっては貴重な収入であった。

元禄赤穂事件(忠臣蔵)」で知られる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、僅か四千二百石取りながらも、従四位上左近衛権少将であった。

その「元禄赤穂事件」は、千七百一年(元禄十四年)高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしひさ)が勅使馳走役の播州赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)に殿中で斬りつけられ、その成敗が一方的に浅野の非を認めるものとなった事から翌年暮れに浅野の遺臣の一団に自宅を襲撃されて討ち取られ高家・吉良家は改易となった事件である。

高家職に就く事のできる旗本(高家旗本)は、主に室町時代の足利氏一門や旧守護、著名な戦国大名の子孫など、所謂(いわゆる)「名門」の家柄で占められた。

最初期、初めて高家職を務めた大沢基宿は、公家・持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮と言う皇族の末裔を母とする人物である。

次に将軍家から高家に登用した吉良義弥・一色範勝・今川直房らは、いずれも清和源氏流足利家の一族である。

高家の創設の理由として、徳川家康が過っての名門の子孫を臣下に従える事により、対朝廷政策を優位に運びたかった為と思料され、次いで徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」と言う、政権の正当性及び権力誇示と言う見方が強い。

当初の高家は十家に満たなかったが、その後、江戸へ下向した公家の二・三男の子孫も加わるなどその数は順次増加し、千七百八十年(安永九年)には二十六家となって以後、幕末までその数は変わっていない。

この高家旗本以外に、知行一万石に満たないながら特例で参勤交代の特例を江戸幕府から認められた「交代寄合格(大名待遇格)」の旗本が、只の寄合格旗本よりは格式が高かった。

尚、高家の当主は高家職以外の幕府の役職に就く事はできないのが原則で、高家以外の職に就く場合は一度高家の列を離れて一般の旗本に列してからとなる。

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by mmcjiyodan | 2010-12-27 02:00 | Comments(0)  

吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)

吉良家は名門清和源氏足利氏の末裔である。

鎌倉幕府有力御家人から南北朝並立時代は北朝・足利方に在って室町期は小領主ながら室町幕府・足利将軍家の近臣として仕えて生き延びる。

戦国期は同門でもある今川氏や同じ三河の松平氏に翻弄され盛衰を繰り返しながら江戸幕府・江戸期を迎える。

千五百九十二年(天正二十年)、格式高きを持って徳川家康に取り立てられ徳川家旗本に列した吉良氏は、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として高家肝煎(こうけきもいり)の家格を与えられ、赤穂義士の討ち入り時の当主・上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)は、三河国吉良庄内三千石の領主だった。

ただし吉良家には上州白石にも千二百石知行地があり、陣屋を構えていた所から上野介(こうずけのすけ)を賜った。

吉良家は、出自を本姓は源氏(清和源氏)の足利氏に遡る名門で、本拠地の三州は駿河の戦国大名・今川氏の発祥の地であり、今川氏と吉良氏は同族である。

元禄赤穂事件の一方の当事者・吉良義央(きらよしひさ)は、江戸時代前期の高家肝煎(こうけきもいり)格の旗本だった。

従四位上左近衛権少将の官位、上野介(こうずけのすけ)の官職(官途名)などを賜っていた為、吉良上野介(きらこうずけのすけ)と呼ばれる事が多い。

千六百四十一年(寛永十八年)九月、高家旗本四千二百石・吉良義冬(きらよしふゆ)と幕府大老・若狭国小浜藩主・酒井忠勝の姪(旗本寄合・酒井忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれるが、生地については陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれとされる説もある。

また、父・義冬(よしふゆ)の母が高家・今川家出身である為、義央(よしひさ)は今川氏真(いまがわうじざね)の玄孫にあたる。

弟に旗本五百石・東条義叔、旗本切米三百俵・東条義孝・東条冬貞(義叔養子)・東条冬重(義孝養子)・孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の五人がいる。

千六百五十三年(承応二年)、吉良義央(きらよしひさ)は将軍・徳川家綱に拝謁を許され、四年後の千六百五十七年(明暦三年)の暮れには従四位下侍従兼上野介に叙任される。

翌千六百五十八年(万治元年)春、義央(よしひさ)は出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚する。

吉良氏が古くからの婚姻関係によって扇谷上杉氏の血を引いており、義央(よしひさ)は上杉富子との間に二男四女(長男吉良三之助、次男吉良三郎、長女鶴姫、次女振姫、三女阿久利姫、四女菊姫)に恵まれる。

高家としての吉良氏に生まれた吉良義央(きらよしひさ/上野介)は、千六百五十八年(万治二年)の十七歳から父・義冬(よしふゆ)に伴われて出仕を開始する。

二十一歳で初めて幕府のお役目を拝命、千六百六十二年(寛文二年)八月に大内仙洞御所造営の御存問の使として京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜り、以降、生涯を通じて年賀使十五回、幕府の使九回の計二十四回上洛した。

千六百六十三年(寛文三年)正月、義央(よしひさ)は後西上皇の院政の開始に対する賀使としての二度目の上洛に際して従四位上に昇進、若干二十二歳だった。

義央(よしひさ)の高家としての技倆が卓越して、それを認めた将軍・綱吉が寵愛した為か部屋住みの身でありながら使者職を行い、二十四回もの上洛は高家の中でも群を抜いていた。

そうした中、千六百六十四年(寛文四年)の初夏、妻・上杉富子の実家・米沢藩上杉家が存亡の危機を迎える。

米沢藩主・上杉綱勝が嗣子無きまま急死した為に改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、義央(よしひさ)長男・三之助を上杉家の養子(のち上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、三十万石から半減の十五万石への減知で危機を収束させた。

以後、義央(よしひさ)は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、度々財政支援をさせた他、三人の娘達を綱憲の養女として縁組を有利に進めようとする。

長女鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政QU(つがるまさたけ)の室、四女菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている。

但し薩摩島津家に嫁した鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も夫・忠平と死別するが、後に公家・大炊御門経音の室となって一男一女をもうけている。

父・義冬が健在だった為に、初出仕の十七歳から十一年間部屋住みだった義央(よしひさ)は、千六百六十八年五月、義冬の死去により二十八歳で漸く高家・吉良氏の家督を相続する。

千六百八十年(延宝八年)、義央(よしひさ)は四十歳で高家の極官(上限)である左近衛権少将に任官し、その三年後の千六百八十三年(天和三年)には大沢基恒、畠山義里とともに新設の格式・高家肝煎(こうけきもいり)に就任している。

さて、高家肝煎(こうけきもいり)・吉良義央(きらよしひさ/上野介)は、江戸城内大廊下(松の廊下)で起こったとんでもない事件の当事者に成る。

その事件は、千七百一年(元禄十四年)二月四日、播州播磨赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)と伊予吉田藩主・伊達村豊の両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春・霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの饗応役を命じられた事に始まった。

実はその際、義央(よしひさ)は指南役に任命されたが、義央は朝廷への年賀の使者として京都におり、帰途に体調を崩して二月二十九日まで江戸に戻らなかった。

この間、浅野長矩(あさのながのり)は二度目の饗応役であった為に過去の経験をもとに饗応準備をしていたが、過ってとは変更になっている事もあって手違いを生じていた。

この吉良義央(きらよしひさ/上野介)不在中の準備に於いて擦れ違いが生じた事が事件の遠因と見る向きもあり、更に三州吉良、播州赤穂ともに塩田経営が盛んで、言わば両者は「製塩産業のライバルだった」とも指摘されている。

また大名・播州赤穂浅野家の五万三千石と比べれば、高家旗本・三州吉良家は四千二百石で知行は約十三倍、格式は高いが実入りが少ない高家としては儀典の指南料は暗黙の常識ながら、「長矩(ながのり)がこれを拒んだ」と言う説もある。

いずれにしても、浅野長矩(あさのながのり)の刃傷の原因は諸説あり、いずれも決定打には至らない。

元禄・赤穂事件(俗称・忠臣蔵)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-12-26 15:28 | Comments(0)  

崇徳天皇(すとくてんのう/後に上皇)

平安末期の千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇(すとくじょうこう)方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

その戦いを、「保元の乱」と呼ぶのだが、この「保元の乱」の主役が悲劇の帝・崇徳天皇(すとくてんのう/後に上皇)と権謀術策の帝・後白河天皇(ごしらかわてんのう/後に法皇)だった。

鳥羽天皇(とばてんのう/七十四代)と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし/たまこ・待賢門院)の第一皇子として顕仁親王(あきひとしんのう・後の崇徳天皇/すとくてんのう)は生まれるが、顕仁(あきひと)は父帝・鳥羽には疎んぜられた。

疎んぜられた理由だが、これは「古事談」のみの記述であり真偽は不明ではあるが、崇徳天皇は白河法皇(七十二代)と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は顕仁(あきひと)を「叔父子と呼んで忌み嫌っていた」と言う逸話が記されている。

藤原璋子(ふじわらのしょうし)が十六歳で鳥羽天皇(七十四代)の下に入内(結婚)した時、二歳年下の鳥羽天皇はまだ十四歳、院政を敷いた白河法皇は当時六十四歳の最高権力者で、その可能性が無い訳ではない。

この白河法皇、中宮・賢子の死後は身分を問わず非常に多数の女性と関係を持つなど女性関係が乱れ、加えて関係を持った女性を次々と寵臣等に与えた事から、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤である」と言う噂が当時広く流布され信じられる原因ともなっている。

その疑惑の皇子・顕仁親王(あきひとしんのう)は千百十九年(元永二年)五月下旬に生まれ、翌六月中旬に親王宣下を受けるも波乱の人生が待っていた。

千百二十三年(保安四年)正月二十八日に白河法皇(七十二代)の推しも在って顕仁親王(あきひとしんのう)は五歳で皇太子となり、同日に鳥羽天皇(七十四代)の譲位により践祚(せんそ)、同年二月十九日に第七十五代・崇徳天皇(すとくてんのう)として即位した。

即位から六年後の千百二十九年(大治四年)、崇徳天皇(すとくてんのう)十一歳の時に関白・藤原忠通(ふじわらただみち)の長女である藤原聖子(ふじわらのきよこ/皇嘉門院)が七歳で入内(結婚)する。

藤原聖子(ふじわらのきよこ)入内の同年七月七日、崇徳天皇(すとくてんのう)の擁護者・白河法皇が亡くなり、崇徳とは合わない鳥羽上皇が院政を開始、後ろ盾を持たぬ幼帝崇徳は孤立する。

院政開始後の鳥羽上皇は、藤原得子(美福門院)を寵愛して得子所生の体仁親王(なりひとしんのう)の即位を目論み、千百四十一年(永治元年)十二月七日、崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位を迫りこれを承知させると、体仁親王(なりひとしんのう)を近衛天皇(七十六代)として即位させる。

体仁親王(なりひとしんのう)は崇徳天皇(すとくてんのう)の中宮・藤原聖子(ふじわらのきよこ)の養子であり「皇太子」の筈だったが、鳥羽上皇の画策で譲位の宣命(みことのり)には「皇太弟」と記されていて、天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

崇徳天皇(すとくてんのう)は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになる。

新院・崇徳は在位中から頻繁に歌会を催していたが、上皇になってからは和歌の世界に没頭し、「久安百首」をまとめ「詞花和歌集」を撰集し、鳥羽法皇が和歌に熱心でなかった事から、当時の歌壇は崇徳を中心に展開している。

鳥羽法皇も表向きは崇徳に対して鷹揚な態度で接し、病弱な近衛天皇(このえてんのう)が継嗣のないまま崩御した場合に備え、崇徳(すとく)の第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう/母は兵衛佐局)を美福門院の養子に迎えた。

千百五十五年(久寿二年)七月二十四日、予てより病弱だった近衛天皇が十七歳で崩御し、改めて後継天皇を決める王者議定が開かれる。

順当なら美福門院の養子に治まった崇徳(すとく)の第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう)が候補として最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(まさひとしんのう)が立太子しないまま二十九歳で、後白河天皇(七十七代)として即位する事になった。

背景には崇徳(すとく)の院政によって自身が掣肘される事を危惧する美福門院、忠実・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳(すとく)の寵愛が聖子から兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)に移った事を恨む忠通、雅仁の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀が推測される。

この後白河天皇(七十七代)の即位により崇徳(すとく)の院政の望みは粉々に打ち砕かれる。

後白河天皇即位の翌千百五十六年(保元元年)五月、鳥羽法皇が病に倒れ、崇徳(すとく)は臨終の直前に見舞いに訪れたが対面は適わず七月二日申の刻(午後四時頃)に崩御した。

鳥羽法皇は臨終の床で崇徳(すとく)との対面を拒否、側近の藤原惟方に自身の遺体を「崇徳に見せないように」と言い残した為、崇徳(すとく)は憤慨して鳥羽田中殿に引き返すも、後白河天皇と崇徳上皇(すとくじょうこう)の間は誰が見ても険悪な状態に成っていた。

鳥羽法皇が崩御して程なく、二月後に事態は急変する。

千百五十六年(保元元年)七月五日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の七月八日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集める事を停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。

これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣らによる「崇徳上皇(すとくじょうこう)方への先制攻撃」と考えられる。

千百五十六年(保元元年)七月九日の夜中、崇徳上皇(すとくじょうこう)は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある鳥羽天皇・第二皇女、統子内親王(むねこないしんのう/母は中宮藤原璋子)の御所に押し入る。

「兵範記」の同日の条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、自らの第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう)も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。

崇徳(すとく)に対する直接的な攻撃は未だ無かったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まって居れば拘束される危険もあった為に脱出を決行したと思われる。

翌十日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳(すとく)の側近である藤原教長や、平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。

崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳(すとく)は今は亡き平忠盛が重仁親王(しげひとしんのう)の後見だった事から、忠盛の子・清盛が味方になる事に一縷の望みを賭けていた。

所が、「愚管抄」に拠ると重仁の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力する事を命じた。

天皇方は、崇徳の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり(「兵範記」の七月十日の条)」として武士を動員し、十一日未明、白河北殿へ夜襲を掛けた為に白河北殿は炎上し、崇徳(すとく)は御所を脱出して行方をくらます。

十三日になって、逃亡していた崇徳(すとく)は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するも、しかし覚性が申し出を断った為、崇徳(すとく)は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。

十日ほどして讃岐配流処置が決まり、二十三日に成って崇徳(すとく)は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ下った。

天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来に成る凡そ四百年ぶりの出来事で、崇徳上皇(すとくじょうこう)に同行したのは寵妃の兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)と僅かな女房だけだった。

その後崇徳上皇(すとくじょうこう)は、配流先の讃岐での軟禁生活の八年後、四十六歳で二度と京の地を踏む事はなく、千百六十四年(長寛二年)八月下旬に崩御した。

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by mmcjiyodan | 2010-12-23 19:36 | Comments(0)  

信長が明智光秀と羽柴秀吉を重用した訳

織田信長(おだのぶなが)は、父・織田信秀(おだのぶひで)以来の家臣で筆頭家老・柴田勝家(しばたかついえ)や二番家老・丹羽長秀(にわながひで)以上に新参の明智光秀(あけちみつひで)羽柴秀吉(はしばひでよし)を重用した。

二人の能力が「他の家臣依り勝っていた」と言ってしまえばそれまでだが、この重用した訳の分析が現代にまで通じるヒントと成るので少し掘り下げる。

確かに、氏族の草と深い関わりを持ち彼らを自在に操る明智光秀(あけちみつひで)と氏族には関わり無い特殊な人々の動員力を持つ羽柴秀吉(はしばひでよし/木下藤吉郎)は、織田信長の天下布武の両輪だった。
しかしそれだけではない重要な素養が、二人にはあった。

明智光秀(あけちみつひで)と羽柴秀吉(はしばひでよし)が実質で織田家旧臣をごぼう抜きにしたのは、「心構え」と言ってしまえば益々抽象的になるのだが、簡単に言えば彼等二人が幹部に欲しい人材だったからである。

経営者が幹部に要求するのは、常識論を持ち出して「それは無理でござる。」と否定する幹部ではない。

幾ら頭が良くても、「どうしたら出来るか?」ではなく「出来ない理由ばかり考えている」のでは、企業はとても雇う気には成らない。

つまり戦国期にしても現代の事業にしても「常識を打ち破る事」こそが他に勝る新しい戦略(有望な経営モデルやアイデア商品等)として「他を凌ぐ事」に通じ、常識論を持ち出して他と横並びでは何の発展も無い。

所が、「お館様(社長)は非常識な無理を言う。」と言う不満や「金や人員を揃えてくれさえすれば。」の言い訳は、最も幹部に相応しくない事に気が着かない。

つまり企業として当たり前のローコストで価値のある事を生み出してこそ幹部で、常識を盾にその枠からはみ出した名案へ思考が到らないでは幹部として全く不要なのである。

そして中には、お館様(社長)の自分への期待も判らず、「拙者(私)が何度も説明しているのにまだ判らない。頭が悪いのじゃないの?」と相手を馬鹿にする。

本人は相手が悪い積りでも、そんな世渡りの姿勢では何処でも認められないし、雇われてもそこに永く身を置けない事になる。

明智光秀(あけちみつひで)も羽柴秀吉(はしばひでよし)も、信長(のぶなが)に資金や人員の事を無心した事は無く、秀吉(ひでよし)に到っては敵が降伏寸前の情況に在る事を見計らって信長(のぶなが)の出陣を求め、「お館様に恐れを為して・・」と手柄を主君に譲る世渡り上手である。

まぁ、そうした見え見えの芝居をする秀吉依りも、クールな光秀の方が信長の肌には合っていたのだが。

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by mmcjiyodan | 2010-12-22 16:58 | Comments(0)  

まほろば(マホロバ)

古代史を学ぶと、必ず「まほろば/マホロバ」と言う言葉に出会う。

「まほろば/麻本呂婆(マホロバ)」とは、「素晴らしい場所」或いは「住みやすい場所」と言う意味の日本の古語と現在に伝えられている。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト・倭建命)が詠んだと伝えられる「夜麻登波久爾能麻本呂婆  多多那豆久阿袁加岐  夜麻碁母禮流  夜麻登志宇流波斯」は、「大和(やまと)は国のまほろば  たたなずく青垣  山隠(やまこも)れる  大和し麗(うるは)し」と読む。

「渡来部族が日本列島に遣って来た当初、原住・縄文人(蝦夷族/エミシ族)は言語がまったく違う為に「通訳が必要であった」と言うくらい渡来部族に取っては異民族であった。

そして縄文期から弥生期に掛け、渡来部族と原住・縄文人(蝦夷族/エミシ族)の間で共存の為の意志の疎通と言う必要に駆られて、後に日本語と成る奇跡の言語・大和言葉が編み出された。

まほろば(マホロバ)」の「バ」には「場」であろうと言う説があり、「場」の音読みは中文(中国語/漢音)では「チョウ」と発音し、呉音 では「ジョウ」と発音して現在の日本でも「場(じょう)」は音読み表記に使われ、訓読みでは「ば」と発音されてている。

因みに「バ(場)」は、韓国語・朝鮮語では「場(ジャン・チャン)」と発音され、つまり「バ(場)」は中・韓には関わりがなさそうである。

まほろ(素晴らしい)バ(場所)の「まほろ」は「まほら」とも言い「バ(場)」は「ま(間)」とも言い、「まほろバ」を「まほらバ」とも「まほらマ」とも表示しているが、「まほろ・まほら」の語源の由来が何語だったのかなどが不明である。

断って置くが、日本語の現状を見れば判る通り言語は時代と伴に激しく変化する物であり、アイヌ語だけが永く不変などと言う事は在り得ない。

従って日本語のアイヌ語起因説の言葉について「類語が現存しないから」と言って「間違い」と決め付けるアイヌ語研究者が存在するが、態度として如何なものだろうか?

もし日本語とアイヌ語が「まったく違う言葉だ」と主張するなら、結局その方は縄文期から弥生期に移る過程の理解を曖昧のままに遣り過ごして居た事に「気が付いて居ない」と言う、とんでもない話しなのである。

そして驚いた事に、かの研究者は縄文期から弥生期に移る過程を無視し、日本人或いは日本語とアイヌ人或いはアイヌ語をスッパリと切り離して「それは日本語、これはアイヌ語」と断言しているのである。

九州の鬼八伝説を始め日本列島各地に鬼・鵺・土蜘蛛の伝説が散見される事から、日本人が列島の西半分に最初から住んで居て、縄文人(蝦夷族・アイヌ族)が最初から東北・北海道に限定的に住んでいたなどと言う強引な主張は現実的ではない。

そしてこの現代に、「天孫降臨」などと言っても誰も信じないし、それよりも彼等が「船で列島に渡って来た」と言う方が遥かに現実的である。

そして天孫降臨伝説を解釈すると、列島全域に居住していた原住縄文人(蝦夷族・アイヌ族)が、「文明を携えて渡来して来た部族に北に追い遣られた」とする方が遥かに現実的である。

極め付けは、現在の東北地区にアイヌ族(蝦夷族/エミシ族)の痕跡を本人が認めながら「猿(サル)」の話しに成ると突然「猿(サル)は北海道には存在しない」から、アイヌ語に「サルと言う言葉は無い」のだそうだ。

それでは中文(中国語/漢音)では「エン」と発音する「猿(サル)」の「サルと言う発音」は何処から来たのだろうか?

東北地方の地名に多くのアイヌ語起因説があるのは、いったい何なのだろうか?

つまり訓読みの「バ(場)」は、まったく確証が無い話で恐縮だが、もしかしたら「縄文語・アイヌ語起因かも知れない」と思ったのだ。

日本古代史の弱点は、縄文期から弥生期に移る過程を古事記日本書紀で政治的にロスト(欠落)させた事にある。

日本史には、所謂(いわゆる)右脳域の「虚・文化としての歴史」と左脳域の「実・現実の歴史」が混在し、「虚」は精神世界のもので「実」は必ずしも精神世界と合致する物ではない。

日本人は、この弱点と確り向き合わないで来た為に、歴史認識に於いて整理が尽いていないのではないだろうか?

そこで我輩は、理想郷の意味と解釈される「まほろば(マホロバ)の語源由来」を、若干資料不足を承知でアイヌ語起源説を提起したい。

実は、マホロバの「ホロ」に関してはアイヌ語に漢字の「幌」を充てた地名を数多く見かけ、代表的な地名に石狩地方の札幌(サッポロ/乾いた広いところ・サッ・ポロ・ペッ/湿原を流れる大事な川)市が在る。

その他、十勝地方の士幌(シホロ/本当に大事な川)町、留萌地方の羽幌(ハボロ/うばゆりの自生する川)町、網走地方の美幌(ビホロ/水量がある川)町、空知地方の幌加内(ホロカナイ/後戻りする川)町、留萌地方の幌延(ホロノベ/広い原野)町、日高地方の幌満(ホロマン/洞窟から流れ出る)川などが、「幌(ホロ)」を使っている。

アイヌ語に於ける「ホロ」は、どうやら「川のある土地」の意味のようだが、ご承知のように人類は川の畔(ほとり)で生活する事から古語の解釈「素晴らしい場所」或いは「住みやすい場所」と意味合いが矛盾しない。

つまり日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が詠んだとされる「まほろば」の歌の内容は、王城の地と定めた飛鳥川、葛城川、大和川などに代表される大和川水系や淀川水系の加茂川(鴨川)の流域 など畿内・大和(やまと)の地を「国のまほろば(素晴らしい場所)」と称えているのである。

まぁ日本神話に於ける日本武尊(ヤマトタケルノミコト・倭建命)の存在その物が、近年では「古事記に於ける架空な創造上の人物である」とされているのだから、この「麻本呂婆」の歌も尊(ミコト)が詠んだと言う確証は無い。

詳しくは、小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】を参照。

日本語のルーツ】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-12-11 02:47 | Comments(0)  

そうせい侯・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)

長州藩の第十三代藩主(安芸毛利家二十五代当主)・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)は、藩内の尊皇攘夷運動(そんのうじょういうんどう)勤皇攘夷派(倒幕派)、対する佐幕派(俗論派=保守派)のいずれの意見にも「そうせい」と頷く所から「そうせい侯」と陰口をたたかれた人物である。

勿論、倒幕から維新政府に到る長州藩の存在は群を抜いて大きかったが、藩主の毛利敬親 (もうりたかちか)は幕末の四賢候(ばくまつのしけんこう)に並び評されずも、見事な「そうせい侯」を演じて臣下の邪魔をせず、結果、長州主体の倒幕を自主的に完結させた。

一見、「そうせい」ばかりではリーダーとして頼りない評価があるかも知れないが、視点を変えれば目を掛けた部下に藩政を任せ切る敬親(たかちか)の「度量の大きさ」もチラつく。

勿論、毛利敬親 (もうりたかちか)は家臣を見る目に優れており、多くの低い身分の者を取り立てた上での「そうせい」で、闇雲に藩政を任せた訳ではない。

敬親 (たかちか)が自藩内で見出した吉田松陰は自らの私塾・松下村塾高杉晋作久坂玄瑞(くさかげんずい)桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)を始めとする多くの有志を育てた。

そして、松陰の松下村塾を支援した政務役筆頭・周布兼翼・政之助(すふかねすけ・まさのすけ)を登用したのも敬親 (たかちか)公だった。

あくまでも結果論であるが、薩摩の島津久光(ひさみつ・忠教/ただゆき)や土佐の山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)の様に藩実力者の立場を持って臣下の邪魔を続けた事のどちらが経営者として相応しいのだろうか?

日本の天皇制も「君臨すれど統治せず」が国家・国民の風土に合っていたとするなら、現代の経営学に照らせば「そうせい侯」も部下の自主性と能力を引き出す立派な君主の生き方かも知れない。

詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

幕末~明治維新・人名と事変の周辺記事なら【クリックリスト】がお薦めです。

松下村塾・関連小説【松下村塾関係者・維新顛末記】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-12-09 18:13 | Comments(0)  

二~三番手の皮肉な論理

二~三番手の皮肉な論理とは、獅子奮迅の活躍をした者が大事を為した後、「必ずしも報われない不幸に見舞われる」と言う歴史法則染みた不公平な情況を言う。

政権の転換期には、必ずその「歴史の皮肉」が現れる。

それは、政権転覆に着手した者が無理をせざるを得ないからで、言わば「信長がつき、秀吉がこねし天下餅、喰らうは家康」の事である。

重要な発想を得るには視点を柔軟に変えて見る事で、歴史的に権力を握るに際して卑怯な振る舞いが無かった事例などこの世に存在しない。

大久保利通三条実美(さんじょうさねとみ)公岩倉具視(いわくらともみ)公の様に汚れ役の屍の上に乗る戦術巧者・駆け引き巧者が最後に笑うのが世の常である。

多少強引だったが突破口を開いた武市瑞山(たけちずいざん/半平太)坂本龍馬西郷隆盛まで本当の功績者は悲劇的末路を辿る事が多い。

つまり政権の転換は、多くの人々の思いと人生が費やされている。

鎌倉幕府の成立には、以仁王(もちひとおう)を始めとする多くの貴族や地方武士の想いが在って治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)が始まった。

その歴史的経緯の中で事実を辿れば、源範頼(みなもとのりより)にしても源義経にしても、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れないのが残酷な事実である。

新興の中小企業なども同様だが、事業が軌道に乗って楽をするのは二代目経営者で、鎌倉幕府の場合はその二~三番手が北条執権家であり、創業者・源頼朝やそれをサポートした初期の御家人・幹部ではない。

鎌倉幕府を滅亡に追い遣った元弘の乱(げんこうのらん)の主役・後醍醐天皇護良親王(もりながしんのう)、多くの親・後醍醐帝派の武将にした所で、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が、必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れない残酷な「世の習い」と言う事実は「歴史の皮肉」と言うべきなのだろか?

ここで南北朝の乱世を制し天下を押さえたのが、「歴史の皮肉」と言うべきか二~三番手の論理に当て嵌まる足利尊氏(あしかがたかうじ)で、南朝方を畿内吉野山と東北・九州に押し込めて室町幕府を開いた。

室町幕府の衰えから応仁の乱が起こり、群雄割拠の乱世から天下統一(天下布武)までもう一歩の所まで漕ぎ着けた織田信長だったが、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が、必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れないのが残酷な事実である。

最終的に天下を握って江戸幕府を開いたのは、二~三番手に当たる徳川家康だった事は、「歴史の皮肉」と言うべきなのか?。

欧米列強の外圧と言う国家的危機に在って多くの有意の士が立ち上がり歴史を回転させたが、政権の転換期には必ず「歴史の皮肉」が現れる。

それは、政権転覆に着手した者が無理をせざるを得ないからで、土佐の武市瑞山(たけちずいざん/半平太)や長州の吉田松陰(よしだしょういん)久坂玄瑞(くさかげんずい)などの夢半ばに散った生涯である。

そして倒幕から新政府の地盤固めに到る歴史的経緯の中で、高杉晋作坂本龍馬西郷隆盛まで、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れないのが「世の習い」と言う残酷な事実である。

結局明治新政府の舵取りは、勤皇第二世代の伊藤博文井上馨大山巌東郷平八郎らに移って行った。

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by mmcjiyodan | 2010-12-08 16:40 | Comments(0)