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奈良県五條市・幸せを呼ぶ神事・鬼走り(おにばしり)

奈良県五條市・真言宗念仏寺・陀々堂の火の祭典・「鬼走り(おにばしり)」は、松油脂をタップリと含んだ松の根を掘り起こして切り取り、皮を剥いで松明(たいまつ)とし、堂内を豪快に走り回る「火祭り神事」である。

鬼追い式は本来鬼を追っ払うと言うのが通常一般だが、此処の祭典は各地でも珍しく「幸せを呼ぶ鬼・悪霊を追っ払う鬼」としている儀式に成っている。

五條市大津の「念仏寺陀々堂」では五百年を越える伝統を誇る火の祭典・「鬼走り」が行われ、燃えさかる松明(たいまつ)を振りかざした父鬼・母鬼・子鬼が堂内を豪快に走り回り住民の災厄を払う。

「念仏寺陀々堂」は、平安末期鎌倉時代に、この地の領主・坂合部氏(さかいべ)の氏寺として建てられ、坂合部(さかいべ)は外交に従事する渡来人を管理する部民の長が「坂合(さかいあい/境合いの意)の職掌で氏族化した」と考えられている。

「陀々堂」の意味は、達陀(だったん)の秘法(松明をかざして飛び散る火の粉で身を清め、災いを焼き払う行)を行うお堂と言う意味の達陀(だったん)が訛って「陀々堂に成った」とされる。

「鬼走り(おにばしり)」は室町時代中期から続く修正会の儀式で、平成七年には国の重要無形民俗文化財に指定され千四百八十六年(文明十八年)から数えて五百三十年ほどとなる火の祭典である。

古い鬼面の裏に室町時代・千四百八十六年(文明十八年)の墨書があり、鬼が人を守る存在で先祖の霊だった時代の姿を伝え無病息災を願い鬼が振り回す松明(たいまつ)の炎で「その年の吉兆を占う」とされる。

時系列的に言えば、平安群盗と呼ばれる「組織的な蝦夷族・先住縄文人(鵺・鬼・土蜘蛛)の抵抗」は、千百年代頃の平安末期までにほぼ鎮圧された。

鬼面の裏に記された千四百八十六年(文明十八年)の室町時代を思えば、その蝦夷族の抵抗戦の終結からから凡そ三百年後の時を隔てて始まった神事である。

逆説的に考察すれば当時の人々の認識として、そろそろ蝦夷族・先住縄文人(鵺・鬼・土蜘蛛)の名誉を「幸せを呼ぶ鬼走り(おにばしり)」として回復させる狙いが込められていたのかも知れない。

詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

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第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-02-27 14:13 | Comments(3)  

室町幕府体制・三管領・四職〔一〕

三管領・四職(さんかんれい・ししょく)は、室町幕府の高官を表す役職である。

そしてこの役職は、当初足利氏の室町幕府成立に貢献した足利支流家や有力大名の後裔が半ば世襲で任じていた。


後醍醐天皇元弘の乱(げんこうのらん)に拠って鎌倉幕府が滅亡した後に成立した建武政権から離反した足利尊氏が、南北朝並立時代を有利に進めて開府した武家政権の事を「室町幕府」と呼ぶ。

室町幕府と言う呼称は、他の幕府と識別する為に後世に呼ぶ様に成ったもので、三代将軍・足利義満の代になって都の室町通り今出川付近に造営した将軍の公邸である花の御所(室町殿)が由来となっている。

室町幕府の職制はほぼ鎌倉幕府の機構を踏襲し、基本法としては千三百三十六年に足利尊氏が建武式目を制定し、具体的な法令としては鎌倉時代の御成敗式目(貞永式目)を適用し、必要に応じて「建武以来追加」と呼ばれる追加法を発布して補充している。

初期の幕府(室町)政治は、まだ南朝が存在した事もあり不安定であった上に足利尊氏が弟である直義と権限を分割し、尊氏が武家の棟梁としての職務を行い、その他の一般行政・司法は直義が行う「二頭体制」が取られていた。
下文・御教書等の公文書も尊氏・直義が其々の職務に関する文書を自己の権限で発給し、その下に将軍の補佐である執事を始めとして侍所、政所、問注所、評定衆、引付衆が其々設置される。

だが、兄・尊氏の執事である高師直(こうのもろなお)と弟・足利直義(あしかがただよし)との確執が、尊氏・直義兄弟間の内乱である「観応の擾乱」へと発展し、幕府役人も両派に分裂して幕府機構は危機的状況に陥った。

その後、尊氏の後継となった第二代将軍・義詮(よしあきら)が幕府機構の再建に努め、執事の権限を強化して「管領」と称される様になる。

だが義詮(よしあきら)は病に倒れ、幼少の後継者・第三代将軍・義満の為に細川京兆家の当主・細川頼之(ほそかわよりゆき)を管領に任じて後見をさせた以後、頼之後見期及び義満による親裁期を経て将軍を頂点とする政治機構が構成される。

室町幕府は将軍直轄の軍事力として奉公衆が編成されたが、体制は守護大名による連合政権であり、足利家の執事職を起源とする管領は鎌倉幕府の執権程は実権が無く、幕政は原則的に合議制であった。

将軍を補佐する管領には細川氏斯波氏畠山氏の三氏が交替で就き(三管領と呼ばれる)侍所長官である所司には赤松氏一色氏山名氏京極氏の四氏(四職と呼ばれる)が交替で就任した。

幕府要職には細川氏、斯波氏、山名氏、一色氏、畠山氏等、あく迄も足利氏の臣下筋である、数カ国に渡る守護職に就いている有力守護大名が就き、渋川氏、今川氏、吉良氏等の足利一門は家来筋ではないので幕府要職に就く事は無いのが特徴である。

室町幕府体制・三管領・四職〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-02-26 00:32 | Comments(0)  

室町幕府体制・三管領・四職〔二〕

室町幕府体制・三管領・四職〔一〕】に戻る。

室町幕府の地方統治機構としては、観応の擾乱が起こると、足利尊氏は鎌倉に東国十ヵ国を統括する機関として鎌倉府・鎌倉公方を設置し、尊氏の子・足利基氏を鎌倉公方(長官)としてその基氏の子孫が世襲し、関東管領が補佐した。

鎌倉公方は室町時代を通じて幕府と対立し、関東管領を務める上杉氏とも対立して行った為、これに対抗する幕府は東国や陸奥の有力国人を京都扶持衆として直臣化した。

そうした背景の中、足利義教の代に永享の乱を起こした第四代鎌倉公方・足利持氏を攻め滅ぼして一時直接統治を図るが失敗に終わり、持氏の子・足利成氏を新しい鎌倉公方とした。

しかしその成氏も享徳の乱を起こして、古河御所に逃れて古河公方を名乗り、更に関東管領・上杉氏は山内上杉家と扇谷上杉家に分裂した為、応仁の乱が始まる前に東国は騒乱状態となる。

この東国の騒乱に幕府も手を拱いていた訳ではなく、八代将軍・足利義政の庶兄・足利政知を関東に堀越公方として派遣するも、堀越公方も政知の死後に今川氏の重臣伊勢盛時(北条早雲)によって倒されて、失敗に終わった。

また、鎌倉公方から古河公方となった足利成氏の血統も小弓公方との分裂を経て、盛時の子孫である後北条氏によって傀儡化させられて行く。

九州には九州探題が設置され、本拠を博多(福岡県福岡市)に置くも初めは懐良親王ら南朝勢力の討伐に任じられた今川貞世(了俊)が就くが、了俊が九州で独自の勢力を築くと幕府に警戒され、了俊が解任された後は渋川氏の世襲となる。

東北地方には奥州探題が設置されるも、奥羽二ヵ国が鎌倉府の管轄下に組み込まれると廃止されて一時期は稲村公方と篠川公方が設置され、斯波家兼が任じられ、家兼の死後に羽州探題が分裂し、出羽の斯波氏は最上氏となる。

室町幕府の特徴としては、荘園公領制の崩壊=守護領国制への移行や貨幣経済の進展等が挙げられ、守護大名がその領国の武士と主従関係を結び、被官化して一元支配する様に成った。

鎌倉期との比較であるが、鎌倉期は室町期と比べ個々の御家人が直接将軍と主従関係を結んでおり、有力御家人の被官の様な例外はあるが、通常守護職は国内の御家人の監督者に過ぎなかった。

つまり鎌倉期は全ての御家人が将軍家の家臣だったが、室町期では守護大名がその領国の武士と主従関係を結んで居た為に室町将軍家すら上回る程の実力を蓄えた守護大名が生まれる土壌を作ったのである。

その守護大名の有力化に対して、室町将軍家も守護大名の頭越しに各地の武士と主従関係を結び、将軍直轄の軍事力として「奉公衆」を編成し、軍事力を強化するのみならず、守護大名の領国支配に対抗したのである。

しかし、守護大名は幕府から守護職に任命されたと言う権威を背景に領国の支配を進めて居た為、幾ら勢力を拡大しようとも室町将軍の権威を否定する訳には行かず、個々の守護大名を幕府が討伐した例はあるものの守護大名と室町将軍が全面的に対立する事は無かった。

将軍の権威の失墜は即ち守護大名の権威の失墜を意味し、事実室町後期になると守護大名の権威は失墜し下克上の世に移って行くのである。

応仁の乱以降、将軍の権威が失墜すると細川氏以外の三管領四職も没落し、更に戦国時代中期に至って細川氏の勢力が減退すると室町幕府の諸制度は形骸化していった。

その間、国人と呼ばれる在地支配層が台頭していった。山城国南部では山城国一揆が形成され、地域住民(在地支配層の他、農民等も参加)による自治に至った事例もある。

これらの国人勢力も互いに整理統合されながら、強力な戦国大名が成長し、これが群雄割拠して幕府支配に取って代わり、以後の戦国時代への流れを作って行く事になる。

室町幕府体制・三管領・四職〔一〕】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2011-02-26 00:30 | Comments(0)  

額田王(ぬかたのおうきみ)

額田王(ぬかたのおうきみ)は、大和国平群郡(へぐりのこおり)・額田郷に本拠を置く「額田部(ぬかたべ)に育てられた」と伝えられる貴人で、斉明朝から持統朝に活躍した日本の代表的な女流万葉歌人であり、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の妃(一説に采女とされる)とも言われている。

推古大王(すいこおおきみ/第三十三代女帝)の皇女時代の名が額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で在る事から、額田王(ぬかたのおうきみ)は相応の身分で在った事は否定出来ない。

額田王については残された文献が少なく「万葉歌人」で有名な他は余り判っていないが、一説には中臣鎌足の妻・鏡王(かがみのおおきみ)の「子であるとか妹であるとか」言われている。

日本書紀」の記述に、額田王(ぬかたのおうきみ)は鏡王(かがみのおおきみ)の娘で大海人皇子(おおあまのみこ/天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。

鏡王(かがみのおおきみ)は、王(おうきみ)の尊称から皇族(王族)と推定され一説に宣化天皇の曾孫、或いは近江国野洲郡鏡里の皇胤豪族で「壬申の乱の際に戦死した」とも言われている。

万葉集」に収められた歌のみであるが、額田王(ぬかたのおうきみ)は十市皇女の出生後、天武大王(第四十代天皇)の兄である「中大兄皇子(天智大王・第三十八代天皇)に寵愛された」と言う説も根強く伝わっている。

また、歌の解釈から額田王(ぬかたのおうきみ)が大海人皇子(おおあまのみこ/天武大王・天皇)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/天智大王・天皇)の両者と「同時期に情を通じている」とされるのは、その歌が「単なる宴席での座興」とする説も在る。

しかしながら、大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑に信憑性が在るのであれば、性におおらかな当時の事では額田王(ぬかたのおうきみ)は単に権力者の間を行き来しただけなのかも知れない。

額田王(ぬかだのおおきみ)は最初、大海人皇子(おおあまのみこ・天武大王・天皇)の妻で、後に弘文天皇の妃に嫁ぐ事になり子まで為している。

その額田王を、兄の天智大王(天皇/中大兄皇子)が自分の妃に奪っているのだ。

しかし歴史学者によっては、額田王は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の元に嫁いでも、大海人皇子との関係も「続いていた」とする者もいる。

詳しくは小論・【大海人皇子(おおあまのみこ)は何者か?】を参照下さい。

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第一巻の二話】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-02-25 10:00 | Comments(0)  

里見氏(さとみうじ)

里見氏(さとみうじ)の本姓は清和源氏(河内源氏)源義国(みなもとのよしくに)流の源(新田)義重の三男・義俊を祖とする後裔の氏族で、新田氏の庶宗家である。

新田義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み初めて里見氏を称したが、後に里見家基が鎌倉公方・足利持氏に仕え、持氏が「永享の乱」で敗死した後、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して室町幕府に敵対し「結城合戦」で家基が戦死する。

里見家基が嫡子・義実は、父を失って城を逃れて落ち延び、相模の三浦から海上を安房の白浜に渡り安房の国に落ち着き房総里見氏の祖となる。

詳細は不明だが安房国に移った新田(源)家基の子息、里見義実が土地の領主・安西氏を追放し安房国(今の千葉県の一部)の領主となる。

折りしも安房国は、室町中期の惣領制の崩壊によって旧来の豪族による支配が崩れ、鎌倉時代以来の豪族である安西・神余・丸・東条の各氏が互いに隙を伺って睨み合い、戦乱がうずまいていた。

そうした戦乱の隙を突いて安房里見氏を始め上総武田氏・正木氏・酒井氏・土岐氏などの諸将が、各々他国から入って来て戦国時代に安房に勢力を築き上げるもこれに勝ち抜いた安房里見氏が房総地方を領する戦国大名にまで成長した。

戦国末期には関東一円に勢力を拡大した後北条氏と敵対していたが、中央でほぼ天下を掌握しつつ在った羽柴秀吉(羽柴豊臣)小田原平定戦に参軍するも、独自の動きをして秀吉の怒りを買う不祥事を引き起こす。

その場は徳川家康の取り成しで切り抜け、秀吉に所領の一部は取り上げられたが安房一ヵ国は安堵されて生き残った。

千六百九十九年(慶長五年)の関ヶ原の合戦に際して、里見氏は家康の継嗣・徳川秀忠の要請に応じて宇都宮方面に参陣し、戦勝後には恩賞として常陸国鹿島郡に三万石の加増を受け十二万石の大名となった。

千六百十四年(慶長十九年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉三万石に転封となったが、実態は配流と同じ扱いであった。

そして元和八年(千六百二十二年)、里見忠義が病死すると「跡継ぎが居ない」として里見氏は改易された。

南総里見八犬伝の謎】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-02-24 18:59 | Comments(0)  

渋谷氏(しぶやうじ)・渋谷重国(しぶやしげくに)

渋谷氏(しぶやし)は桓武平氏流秩父氏の一派で、後に現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市となる広域な一帯に勢力を張った一族である。

秩父重綱(平重綱)の弟・基家が武蔵国橘樹郡河崎に住んで河崎冠者と称し、その河崎冠者が相模国高座郡渋谷庄を与えられ、その孫・重国の代に渋谷庄の司を称したのに始まる氏名乗りである。

渋谷氏の名ある人物としては、平安時代末期の渋谷重家(河崎重家)、源義朝(みなもとのよしとも)に従って平治の乱に参戦し渋谷金王丸、源頼朝(みなもとのよりとも)治承(じしょう)のクーデターで平家方から頼朝の御家人になった豪傑・渋谷重国が知られる。

渋谷氏(しぶやし)の以前の本拠地は川崎で、平安期は川崎氏を名乗っていたが、河崎から現在の綾瀬市西部を流れる目久尻川河畔に開けた相模・渋谷荘(高座郡渋谷村)の荘司になったと考えられ、 この川崎重国(渋谷重国)が最初に渋谷氏を名乗ったものと推測できる。

渋谷重国は平治の乱では源義朝の陣に従うが、義朝が敗れて所領を失い陸奥へ逃れようとした佐々木秀義とその子らを渋谷荘に引き留めて援助し、秀義を婿に迎えている。

千百八十年(治承四年)八月の源頼朝挙兵には、秀義(旧佐々木氏)の息子達には頼朝に従わせ、重国は頼朝から加勢を打診されるも平氏に対する旧恩から石橋山の戦いで平家方の大庭景親の軍に属す。

石橋山の戦いで頼朝が敗れると大庭景親が重国の下を訪れ、頼朝方に従った佐々木兄弟の妻子を捕らえるよう要請する。

重国は「彼らが旧恩の為に源氏の元に参じるのを止める理由はない。当方は要請に応じて外孫の佐々木義清を連れて石橋山に参じたのに、その功を考えず定綱らの妻子を捕らえよとの命を受けるのは本懐ではない」と拒否した為に、景親はそのまま戻っている。

夜になって佐々木兄弟は途中で行き会った僧・阿野全成(あのぜんじょう/頼朝異母弟)を伴って重国の館へ帰着し、重国は喜んで彼らを匿い手厚くもてなした。

その後の渋谷重国は、石橋山の戦いで敗れて逃れた安房の国で再起し勢力を強めて鎌倉入りする頼朝に臣従して所領を安堵され、子の高重と共に御家人となる。

小田急江ノ島線の駅名「高座渋谷」は、旧・高座郡渋谷村に由来し、渋谷氏の本貫地として渋谷と言う地名が在った事の名残を伝えている。

東京の渋谷区については武蔵国に移住した渋谷氏一族の支族があり、現在の東京都渋谷区一帯を領した事に始まっている。

つまり渋谷氏一族の支族が、谷盛七郷と呼ぶ渋谷・佐々木・赤坂・飯倉・麻布・一ツ木・今井を領し渋谷城を築いていた事から「渋谷区として現在に名が残った」とされる。

渋谷川とその支流に挟まれた台地が天然の要塞と成って渋谷氏の館(渋谷区 渋谷三丁目)があり、現在は金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)と言う神社に成って居る。

渋谷氏の館が築かれたのは、千五十一年(永承六年)に前九年の役での武功により秩父重綱の弟・河崎基家(武蔵国橘樹郡河崎に住む)の孫・渋谷重国に与えられた武蔵国豊島郡谷盛庄(としまぐんやもりのしょう)の地である。

また金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)は渋谷氏歴代の居城渋谷城址の一部で、千九十二年(寛治六年)に河崎基家(かわさきもといえ)が城内の一角に創建した。

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)の名称の由来は、渋谷常光(金王丸・後に僧籍に入って土佐坊昌俊/とさのぼうしょうしゅん)からとされ、渋谷常光(金王丸)は源義朝、頼朝親子に仕えた武将だった。

土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん/渋谷常光)は源頼朝の命を受けて京・堀川の館にいる源義経に夜襲をかけ、利あらずして逆に討たれた武将である。

しかしもう一つ、以下の通り渋谷区の由緒には薩摩藩との縁(ゆかり)説が在る。

北条氏が三浦氏を破った「宝治元年の合戦」に拠る渋谷光重の戦功の恩賞として、北薩摩の祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の地頭職を得た為、長男・重直を本領の相模国に留め、地頭として他の兄弟をそれぞれの地に下向させる。

この北薩摩に下向させ渋谷光重の息子達が、赴任先の地名を名字として守護職島津氏につぐ薩摩の雄力豪族となり、戦国時代に至るまで渋谷五家(祁答院家・東郷家・鶴田家・入来院家・高城家)としての活動が確認できる。

尚、彼らは最初から東郷氏や入来院氏(いりきいんうじ)、祁答院氏(けどういんうじ)を称した訳けでなく、現在の姓に改姓した年は不明であるが、なかでも国衆として成長した入来院氏は、清色城(きよしきじょう)を本拠として渋谷五家一族では最有力な存在で在った。

渋谷五家一族は、寺尾・岡本・河内・山口などの諸氏家も分出して守護職・島津氏に対して勢力を保ち、南北朝内乱以降も向背し続けるも、永禄十二年に薩摩・大隅国衆はほぼ平定される。

つまり薩摩・大隅国衆の中に鎌倉時代中期以降に薩摩に移住した渋谷氏の一族が在り、薩摩東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏を名乗って国人領主となり、後年いずれも薩摩藩士なった。

その関わりからか、江戸期に現在の渋谷川左岸に薩摩藩地が在った事実から武蔵国渋谷氏も薩摩藩に組み入れられて薩摩藩渋谷藩地が残り、現在の渋谷区の由緒とも言われている。

尚、渋谷五家の一・薩摩東郷氏から明治新政府の海軍提督・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が出ている。

また東郷氏の分流の白浜氏の一族は江戸時代に渋谷氏に復し、この白浜氏一族の渋谷貫臣の娘は薩摩藩々主・島津宗信の生母である。

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by mmcjiyodan | 2011-02-20 17:10 | Comments(0)  

足利義教(あしかがよしのり)

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町幕府・六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)謀殺事件である。

時の将軍が謀殺されるなどはとんでもない大事件だが、六代征夷大将軍・足利義教(あしかがよしのり)はそのとんでもない事件で命を落とした歴史的将軍である。

六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)は、その降って湧いたような将軍就任の経緯も在ってかコンプレックスの塊だった。

義教(よしのり)は三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の三男で、四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の同母弟だが、得度して門跡となり「義円」と名乗った同じ日に、義満に溺愛された異母弟の足利義嗣が従五位下に叙爵されており、義円は義満の後継者候補から外れた。

その異母弟・足利義嗣(あしかがよしつぐ)は、関東地方で起こった上杉禅秀の乱に関与していたとして将軍・義持(よしもち)が相国寺等に幽閉、二年後の千四百十八年(応永二十五年)に殺害している。

門跡となった義円は、十一年後には百五十三代天台座主となり一時大僧正も務めたが、千四百二十五年(応永三十二年)、四代将軍で兄の足利義持の子・五代将軍・足利義量(あしかがよしかず)が急逝(在職三年で早世)し、義持も千四百二十八年(応永三十五年)正月に重病に陥った。

前将軍・義持が後継者の指名を拒否した為に群臣達の評議が行われて結果、義持の弟である梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の四人中から、石清水八幡宮で籤(くじ)引きを行い将軍を決める事となり、義持の死後籤(くじ)を開封して義円が後継者に定まった。

為に義円は還俗して義宣と名乗り、義宣は義教(よしのり)と改名して参議・近衛中将に昇った上で征夷大将軍となったが、その後継手段から「籤(くじ)引き将軍」とも呼ばれた。

門跡に在った義教(よしのり)は六代将軍となっても将軍としての帝王学を学んだ訳でもなく、周囲の重臣は四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)や五代将軍・足利義量(あしかがよしかず)の代からのベテランで扱い辛い。

この時代の将軍権力継承のシステムとして、当時の出仕習慣では多くの有力者は次期将軍と目される者に自らの子女を男なら幼い頃から御伽(おとぎ/男色)相手を務めるなどの稚児小姓・御伽衆として館に上げ、女なら側女にお仕えさせて強固な関係を築き、お家の次代の安泰を図る。

子飼いの臣とはそんなものだが、所が門跡に在った籤(くじ)引き将軍・足利義教(あしかがよしのり)にはそうした有力豪族との接点が無い。

つまり信頼を置くべき臣従関係として、有力守護職との間で事前に形成されるべき将軍職継承の為の暗黙の絆・「誓約(うけい)」が無いままの異常事態だった。

義教(よしのり)には、将軍職を強固な物にする為に扱い易い子飼いの重臣を揃える必要があった。

有力守護を抑えて将軍の地位を強化しようと、一色義貫、土岐持頼ら有力守護を討って幕府の権威を高めんと画策した将軍・義教の矛先が、次に赤松満祐(あかまつみつすけ)に向いて来るのは間違いなかった。

黙って居れば、将軍・義教の意に沿わない守護は潰されてしまう運命で、事此処に到っては赤松満祐一族は切羽詰っていた。

嘉吉の乱(かきつのらん)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-02-17 00:50 | Comments(0)  

赤松氏(あかまつうじ)

赤松氏(あかまつうじ)は、鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した氏族で、後醍醐天皇鎌倉幕府の打倒、足利尊氏室町幕府の創設に寄与し、守護大名となる。

室町期を守護大名の一人として勢威を振るった後に嘉吉の乱(かきつのらん)を起こし、応仁の乱にも深く関わるなど戦国時代の到来の一因を作った。

出自に関しては、村上源氏流として居るが信憑性は無く、鎌倉末期の棟梁・赤松則村(赤松円心)北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家の属する「村上源氏の末裔を自称する事を許可された」と言う説が近頃では浮上している。

南北朝時代に入ると、赤松円心は後醍醐天皇に味方したにも関わらず、建武の新政で守護国を没収された事などから、新政から離反した足利尊氏に味方する。

足利尊氏が一時形勢不利で九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で釘付けにして、千三百三十六年(延元元年/建武三年)の湊川の戦いに於いて尊氏を勝利に導く遠因を作った。

円心の三男・則祐は第二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)や管領職・細川頼之を補佐し、京都が南朝方に一時占拠された際には、幼い次期将軍・足利義満を自身の居城に避難させて保護するなど、室町幕府の基礎固めにも貢献する。

その功により播磨国の守護職に任じられると共に、室町幕府内では京極氏一色氏山名氏と並ぶ四職の一つとなって幕政に参画した。

赤松氏(あかまつうじ)は、円心の長男・範資(のりすけ)には摂津、次男の貞範(さだのり)には美作、三男の則祐(のりすけ/そくゆう)には備前の守護職が与えられ、播磨と合わせて四ヶ国の守護となる。

しかし本来の宗主家である範資(のりすけ)の摂津守護は範資の子・光範の代に召し上げられ、以後、範資の系統は一旦庶流となり七条家を称した。

十五世紀に入った千四百四十一年(嘉吉元年)、赤松満祐(あかまつみつすけ)・教康(のりやす)父子が結城合戦の祝勝会で、第六代将軍・足利義教を暗殺すると言う「嘉吉の乱(かきつのらん)」を起こし、それにより赤松氏は山名持豊(宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐・教康父子は殺され、赤松氏本流は没落し領地は功により山名氏に引き継がれた。

その後、赤松氏の遺臣が千四百四十三年(嘉吉三年)の禁闕の変で後南朝に奪われた三種の神器の神璽を千四百五十七年(長禄元年)の「長禄の変」で取り返し、南朝皇胤を殺した功により、赤松政則(あかまつまさのり/満祐の大甥)の時に再興を果たす。

赤松政則(あかまつまさのり)は「応仁の乱」では細川勝元(ほそかわかつもと)に与し、その功により播磨・備前・美作の三ヶ国を領する大々名にまで返り咲き、千四百八十八年(長享二年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐し本拠を置塩城に移した。

播磨・美作・備前の守護戦国大名・に帰り咲いた赤松政則(あかまつまさのり)は、七条家後裔の赤松義村を政則(まさのり)の養子に入れて後継とし、宗家への復帰を果たす事となる。

その後赤松氏宗家は、秀吉没後の千六百年(慶長五年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍(石田方)に与した為、自害を余儀なくされた。

同じく赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広は、西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払った事を理由として徳川家康から自害を命じられ、大名としての赤松氏は滅亡した。

但し赤松則村(円心)の三男・赤松則祐(あかまつそくゆう/のりすけ)の五男・有馬義祐の後裔で摂津有馬氏当主・有馬豊氏は関ヶ原の戦いで東軍に属し、大坂の役に於いても徳川方で功を挙げた事により筑後国久留米に二十一万石の大封を与えられ、宗家・赤松氏と明暗を分けている。

この有馬義祐の家系は久留米藩の他に、享保年間には紀州藩士・有馬氏倫(ありまうじのり)が紀州藩主だった八代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)に仕え、吉宗が将軍に就任すると側御用取次に栄進して伊勢国三重郡に千三百石を与えられた。

その後有馬氏倫(ありまうじのり)は、下野国芳賀郡に千石、千七百二十六年(享保十一年)伊勢・下野・上総国内に七千七百石を加増され、翌年には領地の朱印状を賜って事実上一万石の大名となり、江戸定府(参勤交代を行なわない)の陣屋大名(城を持たない小大名)に出世し、伊勢西条藩を立藩した。

また旗本・赤松家の分家の旗本だった石野則員の子・則維は、嗣子のなかった久留米有馬家に養子に入り、大名家の家督を相続している。

足利義教】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-02-16 03:35 | Comments(0)  

嘉吉の乱(かきつのらん)

嘉吉の乱(かきつのらん)のそもそもの事の起こりは、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が自らの権力強化を目論んで有力守護を廃する動きをした事に端を発している。

その為幕府の最長老格となっていた赤松満祐(あかまつみつすけ)は将軍・義教に疎まれる様になっており、千四百三十七年(永享九年)には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れている。

将軍・義教は赤松氏庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、千四百四十年(永享十二年)三月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。

また、同年五月に大和永享の乱が起き、大和出陣中の一色義貫と土岐持頼が将軍・義教の命により誅殺され、「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱した」と称して家督を子の教康に譲って隠居する。

千四百四十一年(嘉吉元年)四月、足利持氏(あしかがもちうじ/四代目の鎌倉公方)の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、一年以上に渡って籠城していた結城氏朝(ゆうきうじ)の結城城が陥落(結城合戦)した。

捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首され、これより先の三月に出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた弟の大覚寺義昭も島津氏に殺害されており、将軍・義教の当面の敵は皆消えた。

黙って居れば、将軍・義教の意に沿わない守護は潰されてしまう運命で、事此処に到っては赤松満祐一族は切羽詰っていた。

赤松満祐の子・教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ将軍・義教を招いた。

この宴に相伴した大名は管領・細川持之(ほそかわもちゆき)畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村など将軍・義教の介入によって家督を相続した者たちで、他に公家の三条実雅(義教の正室・三条尹子の兄)らも随行している。

つまり宴に同席したのは、赤松満祐(あかまつみつすけ)・教康(のりやす)の父子以外、全ては将軍・義教お気に入りの取り巻き連中だった。

一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれて屋敷の門が一斉に閉じられる大きな物音がたち、癇性(かんしょう)な将軍・義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた公家・三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えたと言う。

その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者・安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。

周囲に居たのは将軍・義教の取り巻き連中だったのだが、赤松父子やその家人と覚悟が違い、誰もほとんどが義教を救おうと動かないまま義教が討たれると無抵抗のままに各々自分の屋敷に逃げ返っている。

管領・細川持之を始め諸大名達は、赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は「必ず同心する大名がいるに違いない」と考え、形勢を見極める為に邸へ逃げ帰ると門を閉じて引き篭(こも)ってしまう。

それでなくても籤(くじ)引きの候補者はあと三人残っていて、つまり赤松氏が帝や先代先々代の将軍の血筋と「合意上の行動か」と疑いを持ったのだ。

しかし義教暗殺は、実際には赤松氏に拠る単独犯行で、赤松満祐一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害する積りで居た。

だが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかった為に赤松満祐一族は領国に帰って抵抗する事に決め、邸に火を放つと将軍の首を槍先に掲げて隊列を組んで堂々と京を退去した。

その後漸くして管領・細川持之が評定を開き、義教の嫡子・千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とする事を決定し体勢を整えた。

将軍・義教の葬儀の後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬、伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。

討伐軍が領国へ侵攻すると、赤松満祐一族は各方面で善戦するが力尽き城山城へ籠城するが山名一族の大軍に包囲され、翌々日幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた赤松満祐(あかまつみつすけ)は教康(のりやす)や弟の則繁を城から脱出させ、自らは切腹した。

足利義教】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2011-02-16 03:32 | Comments(0)  

足利流・畠山氏(はたけやまうじ)

畠山氏は桓武平氏流平良文(たいらのよしふみ/村岡良文)を祖とする坂東八平氏の一つ秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を領して居た。

村岡良文流平氏・畠山氏(はたけやまうじ)の棟梁・畠山重忠(はたけやましげただ)が、源頼朝(みなもとのよりとも)が起こしたの治承のクーデターに加わって鎌倉幕府成立に貢献する。

畠山重忠(はたけやましげただ)は鎌倉幕府の御家人に納まって幕政に参加していたが、北条時政の画策した時政の後妻・牧の方(牧鍾愛)の娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)の将軍就任運動と先妻の子である時政の娘・北条正子と時政の息子・北条義時(ほうじょうよしとき)との権力争いが起こる。

重忠(しげただ)も北条時政の前妻の娘婿だった為に、後妻・牧の方を寵愛していた時政に謀反人とされ、追っ手を掛けられて世に言う畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)で郎党共々討ち取られてしまう。

この畠山重忠(はたけやましげただ)の妻が源氏流・足利義康の四男・足利義兼(あしかがよしかね)の庶長子・足利義純(あしかがよしずみ)に再嫁して義純が畠山氏を継承した事から畠山氏の名跡が平氏流から源氏流に移り、後の南北朝期室町期などに活躍する源氏足利流・畠山氏が誕生した。

足利義純(あしかがよしずみ)の家系(足利流畠山氏)は名門・畠山氏の名跡を継承した事から、後に足利一門の家臣筋分家の中で斯波氏に次いで高い序列に列せられ、細川氏など他の家臣筋の分家とは異なる待遇を足利宗家から受ける。

千三百三十六年(建武三年)に足利尊氏(あしかがたかうじ)室町幕府を創立すると、足利流・畠山氏はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の四ヵ国の守護に任じられた。

足利家の内紛である観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では、庶流の畠山国清は足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢を保ち、その一方で畠山氏嫡流の畠山高国・国氏父子は滅ぼされてしまう。

本来の嫡流である奥州畠山氏が衰退する中で、畠山国清の家系(河内畠山氏)が畠山氏の惣領格となり、関東管領に任命されて東国で南朝方と戦うが、その後鎌倉公方の足利基氏と対立して東国から追放される。

国清はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深(はたけやまよしとう)が後に守護職に任命され畠山氏を再興させる。

義深(よしとう)の子・畠山基国は、千三百九十一年の明徳の乱で功績を挙げるなどして三代将軍・足利義満の信任を受け、能登の守護を任されるなど守護大名として力を着ける。

足利流・畠山氏は、千三百九十八年に管領職に任じられ、同じ足利一門の斯波氏京兆細川氏とともに三管領家として名を連ねる家柄となった。

基国の子・畠山満家は三代将軍・義満には冷遇されたが、四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の代になってから表舞台に復帰して管領に就任する。

満家の子・畠山持国(徳本)は、将軍権力の強化を目論む六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の干渉に苦しめられるが、畠山氏の内紛を鎮めて細川氏や山名氏と拮抗する勢力を維持した。

しかし、持国の子・畠山義就と甥・畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それに細川氏や山名氏が絡んで後の応仁の乱の一因になった。

応仁の乱の終息後も、政長流と義就流との身内の対立は続いて、同じく管領家で在った細川政元の策略により弱体化し衰退した為、支配地の守護代や被官の自立や下克上を促す結果となった。

越中国は守護代の神保氏に奪われ、河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされたが紀伊国だけは最後まで勢力を保っも、守護職としての支配権は豊臣政権や徳川政権の大名任封ではじき飛ばされてしまう。

戦国の戦乱が終わる頃には、畠山氏は見る影も無く勢力を失ったが、家柄の良さを徳川家康秀忠親子に認められ、江戸時代に於いては旗本や高家として数家が残った。

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by mmcjiyodan | 2011-02-13 13:59 | Comments(0)