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郷士(ごうし)・下士(かし/下級氏族)

郷士は、江戸時代に在った階級の一つであり、大名家臣団の秩序の中に組入れられている者で「半農の武士」と言う定義がある武士の一種である。

これは歴史的に言うと織田信長が変革を試みた「一所懸命時代」の名残であるが、名字帯刀を許されており、家系がはっきりしている者も多い。

過って武家であり、過っての戦国大名の一族や家臣が敗戦などで主家を失い、仕官せず土着・帰農した者が、兵農分離時に在地を離れず、新たな領主から郷士とされた者で、在地に於ける一定の実力者であり、新たな領主がその懐柔策として取り立てたのが「郷士」と言う下級武士の身分である。

通常、江戸時代に於ける武士は城下に集住する(こちらを城下士という)のに対し、在方(郷)に住む為にこう呼ばれた。

身分は概ね城下に住む武士より下、一般的な百姓(豪農・豪商を含む)より上と言う身分的中間層であるが、地方(各藩・各大名家)によって実態は千差万別で在った。

年貢米を財政の基礎とする形態の性質上、江戸時代の農村部では過酷な搾取が続いていた。

今でこそ百姓と言うと「農業従事者の事を指す」と理解されている様であるが、その生い立ちは違う。

氏姓制度の変革により、江戸期に入って武士と百姓は大きく身分が分類される様になるが、そもそもの「百姓」は、姓を有し家系がはっきりしている多くの下級氏族の総称から始まっている。

つまり氏族の出自であれば、携わる業務に関わり無く本来は百姓なのである。

当然氏族は、農園の経営のみならず、寺社の神官・僧侶から鍛冶師、薬師、商業まで営みを手広く広げていた。

このように、日本の士農工商の成り立ちの経緯を勘案すると、江戸期以前は神仏の宮司・僧侶を含め、士農工商の全ては武人である氏族の兼業形態が普通だった。

つまり、畿内を中心に堺、浪速、近江等の大店(おおだな)の商家も、安土桃山期頃から武士兼業の商工氏族が商業に特化したものが多かった。

従って、名字帯刀の特権をもって始まった豪商の感覚は、御家大事の「一所懸命」を持ち合わせた氏族感覚を持ち合わせていた。

従って江戸期以前は、一つの業種を専業で生業(なりわい)としていても、それが身分を現すものでは無かったのである。

豊臣秀吉の「太閤刀狩り」以後、行政上の都合により兵農分離が始まり、新たな身分制度が確立する。

ここで問題なのが、元々その土地にあって力を有し、家系がはっきりしている下級氏族の「百姓」の新たな身分制度への組み込みである。

武家として取り上げられ、大名家に仕官する者、仕官せず土着・帰農しても刀を捨てずに郷士(半農の武士)と成る者、培った勢力を生かし、名字帯刀を許された特権の豪農・豪商に変身して行くものも現れる。

間違えてはいけないのは、百姓町人の中から頭角を現して「名字帯刀を許された者」も確かに居るには居たが、初期の段階では元々旧体制の下級氏族が、勢力を維持したまま、当初は豪農・豪商に変身して名字帯刀の特権も認められたのである。

従って、ここで言う百姓とは家系がはっきりしていて農業経営を専業で生業とする下級氏族の出自を持つ大庄屋、庄屋、村長、村役などの特権豪農の事であり、農業経営者は所謂土地無しの農業従事者とは身分も違ったのである。

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by mmcjiyodan | 2011-03-25 21:44 | Comments(0)  

越前福井藩・松平綱昌(まつだいらつなまさ)

改易(かいえき)とは江戸時代に於いては大名旗本などの武士に課せられた刑罰を意味し、武士の身分を剥奪して所領と城・屋敷を没収する事を言う。

以下、江戸時代の改易について一部記述するが、符合する事に千六百七十二年に水戸藩大日本史編纂事業が本格化し軌道に乗り始めたと思える七年後辺りから大名改易(だいみょうかいえき)が増加している。

千六百七十九年には上総久留里藩二万石・土屋直樹、備中庭瀬藩二万石・戸川安風、常陸玉取藩一万二千石・堀通周の三家、翌千六百八十年には志摩鳥羽藩三万五千石・内藤忠勝、丹後宮津藩七万三千石・永井尚長の二家が改易(かいえき)となる。

そして編纂事業九年目に当たる千六百八十一年には越後高田藩二十六万石・松平光長を筆頭に、駿河田中藩四万石・酒井忠能、上野沼田藩三万石・真田信利、武蔵高坂藩一万三千万石など四家、都合約三十五万石近くが取り潰されている。

以後は千六百八十三年の上野館林藩二十五万石・徳川徳松、千六百八十三年の越前福井藩四十七万五千石・松平綱昌(まつだいらつなまさ)が目立つ所で、十数年後の千六百九十七年の美作津山藩十八万六千石まで大きな改易は無い。

勿論、継嗣が無いなどの改易理由があるが表向きで、何事も咎めが無ければ養子が認められ、現実には乱心・乱行などの行状を咎められた物も多い。

この諸侯の行状探索に、水戸藩CIAとして編纂調査を名目としたの現地調査の暗躍が、「無かった事」とは言い切れない。

越前福井藩四十七万五千石・松平綱昌(まつだいらつなまさ)の処置は正確には改易(かいえき)とは言い切れない。

松平綱昌(まつだいらつなまさ)は、先代藩主・松平昌親の代に起こった家督騒動が原因で、藩内に於いても昌親に対する反発が在った為、昌親の兄に当たる昌勝の子・綱昌を養嗣子として藩内の鎮静化を図った処置で昌親の養嗣子となる。

綱昌(つなまさ)は、元服し従四位下侍従に叙任、越前守と名乗った後、千六百七十六年(延宝四年)七月二十一日、昌親から家督を譲られて藩主となる。

四年後の千六百八十年(延宝八年)八月十八日、綱昌(つなまさ)は左近衛少将に任じられるも、翌千六百八十一年(延宝九年)の三月、理由も無く側近を殺害する事件を起こし、次第に奇怪な行動を取り始める。

そんな折に藩内に飢饉が起き、越前福井藩では上手く対応できず藩内に多数の餓死者を出した。

そうした不祥事が重なる中、千六百八十五年(貞享二年)には綱昌(つなまさ)が江戸城登城をも怠った為、翌貞享三年閏(うるう)三月、遂に幕府は綱昌(つなまさ)の狂気を理由に蟄居を申し渡し、綱昌は江戸鳥越の屋敷へ身柄を移される。

本来なら大名家改易と言う所だが、徳川家康の二男・結城秀康の子孫である御家門の越前松平家を取り潰す訳にも行かず、幕府は前藩主・昌親に知行半減(二十五万石)と言うペナルティを与えた上で存続を許している。

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by mmcjiyodan | 2011-03-21 01:54 | Comments(0)  

常陸国水戸藩・徳川頼房(とくがわよりふさ)

徳川家康は、賀茂流陰陽として伝わる秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)を作り続けて多くの子女を儲けた。

その最後の男児が、十一男・松平鶴千代丸(徳川頼房/とくがわよりふさ)である。

徳川頼房(とくがわよりふさ)は千六百三年(慶長八年)、家康在京の本拠地となっていた伏見城にて側室・万(養珠院/ようじゅいん)との間に生まれる。

同腹の兄に、前年・千六百二年(慶長七年)に生まれた長福丸(後の徳川頼宣/紀州徳川家・初代藩主)が居る。

実母の万は、実父・正木頼忠(上総勝浦城・正木時忠の次男)が後北条家に人質として滞在している時に出来た娘で、頼忠が上総に戻る事になり離婚、万の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚し、万はこの義父の元で育てられる事になる。

母親の再婚相手・義父にあたる蔭山氏広の所領伊豆で成長した万は十六~七歳の頃、沼津か三島の宿で家康の投宿の為に給仕に出た所を見初められ家康の側室となった。

家康の秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)が功を奏してなのか、万(養珠院/ようじゅいん)は千六百二年(慶長七年)の三月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年・千六百三年(慶長八年)の八月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。

何と六十歳代のヒヒ親父(家康)が、十六~七歳の小娘を側室にして子供を為したのだから、現在の東京都条例(他県も似たようなものだが)であれば立派な淫行犯である。

その、鶴千代(後の徳川頼房)の兄・長福丸(後の徳川頼宣)は、僅か生誕一年目の千六百三年(慶長八年)に常陸国水戸二十万石が与えられ、鶴千代(後の徳川頼房)には千六百六年に下総国下妻十万石が与えられる。

千六百六(慶長十一年)、三歳にして常陸下妻城十万石を、次いで千六百九年(慶長十四年)、実兄・頼将(頼宣)の駿河転封(五十万石)によって新たに常陸水戸城二十五万石を領した。

二十五万石の太守となった徳川頼房だったが、幼少だった為に元服するまで家康隠居所となった駿府城で、家康と生母・万(養珠院/ようじゅいん)の許に育った。

徳川頼房(とくがわよりふさ)の封地・常陸国水戸藩入府は、千六百十一年(慶長十六年)に八歳(数え九歳)で元服してからである。

家康は平均寿命が五十歳代と言われた時代に、六十歳代で子を為している。

元気だったから六十歳代で子を為したのか、六十歳代でも側室相手に励んだから元気だったのか?

まぁ人間の脳は、必要性の信号波を受け取ればそのような対処の指令を身体中に出すような構造になっている。

反面的に言えば、性交の必要性を感じなくなって老いが進むのであれば、この家康の子創りの執念が家康の若さを保ち長生きをさせた原動力かも知れない。

水戸黄門の真実】へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

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by mmcjiyodan | 2011-03-20 15:40 | Comments(0)  

富士山は何故日本一高い

富士山は日本一高い活火山である。

富士山が何故日本一高いかと問えば、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートが交差(クロス)する位置、駿河トラフの先端にそびえているからである。

トラフとは、深海底にある細長く比較的幅の広い舟底状の沈降帯をさし、駿河トラフとは主に駿河湾の中央部に位置した沈降帯で、駿河湾北端部付近から伊豆半島南端沖まで南北に連なっている。

つまりトラフと呼ぶ沈降帯の地殻変動のプレートとプレートの交差(クロス)する裂け目から地殻のマグマが吹き出て日本一高い活火山は形成された。

富士山の地殻形成を探査すると三段階になっていて、現在の美しいコニーデ型の火山に形成されるまでにマグマを大量に噴出した大噴火は三回起こり、徐々に高く美しく形成されて行った。

そしてその山頂部分が噴火の爆発で吹き飛ぶと、阿蘇山のような外輪山を持つカルデラ型になる。

アイヌ語で「フジ(huji)」は 「噴出する所」と言う意味である。

アイヌ語の単純な火は「火(アピapi)」であるが、アイヌ語の「火の神」の火は「火(アピapi)」を使わず「火(フチfuti)」である。

火の神 (カムイフチkamuifuti)の火(フチfuti)が「火山=火の神」の言語生成図式ならば、「噴出する所(フチfuti)=火の神の火(フチfuti)」が成り立つのである。

良く、富士山の事を「不死の山」と充てて信仰の対象にしているが、富士の語源がアイヌ語の「フジ(huji)」であれば、活火山として「噴出する所」・・即ち富士の山ではないだろうか?

いずれにしても、日本一高い火の山は信仰の対象となり、「アピェ」の「フジ(huji)」、つまり噴出する火の山として山岳信仰の最高峰に君臨してもおかしくは無い。

安倍・阿倍氏と言った縄文系の氏名(うじな)は、原ポリネシア語の「アピ(火の意)」とアイヌ語の「アピェ(ape・火の意)」は共通していて、インドネシア語系の「アピ(火)」も同じ音であるが、その音に中国語系の文字「安倍(アンペイ、アペイ)」を充てたのではないかと考えている。

安倍川と富士山の由来】に戻る。

詳しくは【日本語のルーツと安倍氏】に飛ぶ。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

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by mmcjiyodan | 2011-03-18 00:37 | Comments(0)  

武田信吉(たけだのぶよし/松平信吉)

徳川家康五男・武田信吉が松平姓ではなく武田姓を名乗った訳から始める。

千五百八十二年(天正十年)、本能寺の変織田信長が自刃する直前、徳川家康と織田の連合軍で甲斐国・武田氏征伐に成功する。

甲斐武田氏の断絶を惜しんだ家康は、当初、甲斐国武田氏の御一門衆・穴山信君(梅雪)・見性院夫妻の嫡男・穴山勝千代(武田信治)に武田氏名跡を継承させる。

所が、その勝千代(武田信治)が僅か十六歳で早世してしまう。

そこで目を着けたのが、家康が所望して側室とした甲斐源氏武田氏の分流・秋山虎泰の娘於都摩(下山殿・妙真院)との間に、出来た自らの五男・福松丸(武田信吉)である。

武田信吉は、千五百八十三年(天正十一年)九月、当時家康が居城としていた遠近江国・浜松城に生まれる。

家康は、武田氏所縁の於都摩が出産した福松丸を万千代丸と名付け、見性院(穴山梅雪正室/武田信玄の次女)を後見人として武田氏の名跡を継承させて穴山氏の領知である河内領のほか江尻領・駿河山西・河東須津を支配させ、元服して武田七郎信義と名乗らせた。

千五百九十一年(天正十九年)、武田氏の名跡を継承した信吉(七郎信義)の母(於都摩)が亡くなった為、見性院が養母となる。

千五百九十三年(文禄二年)、信吉は下総国佐倉城十万石を与えられ、七年後の千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは江戸城西ノ丸に在って留守居役を務めた。

関ヶ原の戦いで佐竹氏が西軍に属した為、武田信吉は千六百二年にその佐竹領・常陸国水戸二十五万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。

所が、生来病弱で在った信吉は、水戸二十五万入封の僅か一年後の千六百三年二十一歳で死去、信吉に子女もいなかったので武田氏は再び断絶した。

水戸藩は異母弟の徳川頼将(家康十男)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の徳川頼房(家康十一男)が入封し、水戸徳川家の祖となり、信吉の遺臣の多くは水戸家に仕えた。

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by mmcjiyodan | 2011-03-14 12:06 | Comments(0)  

敬称・屋形号(やかたごう)

守護大名・戦国大名の主は、「殿様」では無く「お館様」と呼ばれた。

これには歴史的経緯があり、「館」は「屋形(やかた)」と言う称号の事である。

本来の「屋形(やかた)」とは、公家や武家など貴人の「館」の事を意味し、室町幕府及び江戸幕府に於いては、名門或いは功績ある武家の当主に許された称号または敬称であり「屋形号」と言う。

「屋形号」が成立したのは室町時代初期の頃であり、足利氏の一門や有力な守護大名、守護代、主に室町幕府の成立や謀反人討伐に功ある国人領主にその称号が許された。

これが派生して、戦国期には家臣が国人領主を呼ぶ「お館様」に成ったが、厳密に言うと正式な「屋形号」は、時の幕府が認めた称号または敬称に限られる。

江戸幕府の事例としては、徳川御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩)が「屋形号(敬称)」を許され「お館様(おやかたさま)」と呼ばれる名誉を得ている。

また、室町期守護大名として山陰地方に大勢力を張った新田流・山名氏応仁の乱を境に没落したが、因幡国・山名氏の豊国(祐豊の甥で娘婿)は、豊臣対徳川の圧力高まる早くから徳川家康に従った為、千六百一年(慶長六年)に家康から但馬国・村岡に知行六千七百石の所領を与えられ、江戸期を交代寄合格(こうたいよりあいかく/大名待遇)の旗本として存続した。

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by mmcjiyodan | 2011-03-06 01:19 | Comments(0)  

忌部氏(いんべうじ)

忌部氏(いんべうじ)は、アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とし、神道祭祀に携わる有力部民(臣王氏族)と言われる藤原氏(中臣氏)蘇我氏などに並ぶ古い家柄である。

正直、大王家(おおきみけ/天皇家)を始め、この後に歴史に名を出す藤原氏(中臣氏)や蘇我氏、物部氏賀茂氏など、全ての有力部族は独自の神道祭祀を司る神道家の側面を持って居て、忌部氏(いんべうじ)もそうした氏族のひとつだった。

古文書には「諱部(いんべ)」、「鋳部(いんべ)」、「伊部(いんべ)」とも表記する例もあり、古来より宮廷祭祀に於ける、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わって来た。

祭具製造事業のひとつである玉造りの需要が古墳時代までで以後衰えたのだが、この事が忌部氏のその後の不振に繋がって勢力が衰えた。

忌部氏(いんべし・いみべし)とは、古墳時代から奈良時代にかけての穢れ(ケガレ)を忌みして神事などに奉仕する氏族的職業集団で、当初は中臣氏と勢力を争ったが余り振るわず、中臣氏が祭祀の職を占有するようになって次第に衰退して行った。

しかしその子孫は各地に広がって、阿波国の阿波忌部氏、讃岐国の讃岐忌部氏、紀伊国の紀伊忌部氏、出雲国の玉作氏(たまつくりうじ)、筑紫国の筑紫忌部氏、伊勢国の伊勢忌部氏などが居た。

忌部(いんべ)氏の子孫は後に斎部(いんべ)を名乗り、その一支族が代々織田氏の氏神・剱(つるぎ)神社(織田神社)の神官や織田の庄の地頭を勤めていた。

その剱(つるぎ)神社、別称・織田神社の神官から武門に転進したのが、尾張国や若狭国など各地の守護職を務める斯波氏の守護代家として織田家が在ったのである。

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by mmcjiyodan | 2011-03-05 02:55 | Comments(0)  

徳川吉宗(とくがわよしむね)と「享保の改革」の謎の手足

徳川吉宗は「わらしべ長者」のごとく、紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主から御三家紀州藩徳川家、徳川本家・徳川将軍家と出世を重ねる徳川吉宗に、強運だけが有ったとは到底考えがたい。

紀州藩の妾腹の三男坊・徳川吉宗の生母は何故か謎に満ちた存在で、その出自は「作文」と言われて居る。

ここまで読み進めば、ご存知のように紀伊半島随一の大藩・徳川御三家紀州藩はその支配地領域を、古くからの影人達の里領域を重ねて(雑賀)居るか、近接(伊賀)している。

長期政権化して膿が溜まった徳川幕府を、戦乱を避ける形で浄化する為の陰謀工作を、「影人達が企んだ」とすれば、「見事な成功」と言えるのではないだろうか?

証拠は存在しないが、将軍職就任後の「吉宗の治世の成功」を考えれば、出現すべき将軍が出現したように思えるのである。

吉宗の将軍職就任までの経緯を考えれば、父や二人の兄を始めライバルの尾張藩主など、不可解な連続死に拠って吉宗が浮上してきた事は事実である。

そこに、「彼らの仕事ではないか」と疑う影人達の暗躍の可能性が、ジワリと滲んで来るのである。

それであれば徳川吉宗は、強力な闇の手勢を引き連れて、江戸城に入った事になる。

対外的には、将軍交代時の幕閣の混乱を防ぐ為、吉宗は僅かな軽輩を伴って江戸城に乗り込んで来た。

ここの辺りが目の付け所で、吉宗が身一つで将軍に据えられたのであれば、お飾りにされるのが当然である。

所が、一見無力に見えた吉宗は、幕閣重臣のお飾りには成らなかった。

紀州藩(紀州徳川家)から連れて来た既得権益に縁が無い者を公儀隠密探索方(秘密警察)に活用、幕閣の不正を暴き出し構造改革に成功する図式である。

この吉宗配下の紀州以来の公儀隠密探索方存在説は、推測に拠る状況証拠では有るが、既存勢力で固まった幕閣重臣に対抗する為に、吉宗が何らかの「影の力」を持って臨まなければ「改革など出来ない筈」だからである。

現代に於ける各省庁官僚に対しても、この公儀隠密探索方(秘密警察)構想が有って然るべきで、我輩は国会議員の国政調査権の強化と議員配下の議員国政調査官を議員一人に二人位は国費設置しないと、数千人を抱える省庁の牙城に「国会議員は歯が立たない」と思うが、いかがだろうか?

吉宗は、紀州藩士の内から名も無い軽輩者をばかり二十数名(加納久通・有馬氏倫ら)選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。

この軽輩紀州藩士とされる側役達が吉宗改革の手足として活躍するのだが、余所者が突然やって来て既得権益でガチガチに固まっていた幕府体制を洗い出して改革するには、軽輩者の側役が実は表面に出ない「相応の諜報能力を備えていた」と言う推測が成り立つのである。

この筋書きを描いたのは、並大抵の者ではない。

相応の地位を持ち、闇の力を動かす人物であるのは想像に硬くない。

この物語を最初からお読みの方にはお判りだが、徳川家康が漢方薬に優れていたのは、松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋である事を物語っている。

恐らく家臣の加納家も加茂郷の出であるから、賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。

吉宗の傅役(おもりやく)加納(五郎左衛門)久通は、賀茂流・松平氏(徳川氏)の影人ではないだろうか?

そして恐れ多くも、朝廷からの何らかの働きかけで動いていた可能性がある。

吉宗幼年時の「源六」が育てられた加納氏は、三河国加茂郡加納村出身である。

加納久直の時に徳川氏に仕えて代々紀州藩に属し、孫の加納(五郎左衛門)久通の代に「源六(後の徳川吉宗)」の傅役(おもりやく)と成り、主君「源六(後の徳川吉宗)」の出世に伴って久通も出世をする。

加納(五郎左衛門)久通は、紀州藩主・徳川吉宗の将軍就任に従って江戸城に入り、伊勢国内で領地千石の直参旗本、翌年下総国相馬郡内で千石加増され計二千石となる。

千七百二十六年 (享保十一年)に伊勢国内と上野国内で八千石を与えられ、伊勢八田で合計一万石を領する江戸定府(参勤交代を行なわない)の陣屋大名(城を持たない小大名)に出世する。

加納(五郎左衛門)久通は、千七百四十五年(延享二年)の吉宗隠居の際に若年寄に任じられている。

同じく紀州藩主だった八代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が紀州より連れて来て側御用取次に使った紀州藩士・有馬氏倫(ありまうじのり)は、播磨の名門だった赤松流(あかまつりゅう)の有馬氏末孫だったが、栄進して伊勢国三重郡に千三百石を与えられた。

その後、その有馬氏倫(ありまうじのり)は、下野国芳賀郡に千石、千七百二十六年(享保十一年)伊勢・下野・上総国内に七千七百石を加増され、翌年には領地の朱印状を賜って事実上一万石の大名となり、江戸定府(参勤交代を行なわない)の陣屋大名(城を持たない小大名)に出世し、伊勢西条藩を立藩した。

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by mmcjiyodan | 2011-03-02 01:56 | Comments(0)  

島国日本人気質・謙譲の美徳(けんじょうのびとく)

外国が外から見ると、その日本や日本人の現状に「建前」と乖離(かいり・かけ離れている)している行動の事実が日常的にあるから公式発言は「建前」として、とても信じられないのである。

そして、その文化を「独自文化だから理解しろ」と言うのは、日本人の傲慢(ごうまん)である。

基本的に日本人は腹芸や以心伝心が高等と考える人種で、旗色やイエス・ノーを明言せず「様子見曖昧(ようすみあいまい)が徳」と考える文化を持つ人種である。

日本人にとって、「検討します(考えて置きます)」のほとんどは、実質「ノー」の意味である。

従って次に遭った時には「その課題への回答の用意」は無い。

日本には島国日本人気質である「謙譲の美徳(控え目の美)」と言う独特な考え方がある。

辞書を引いて見ると、「謙譲(けんじょう)」とは、「へりくだり譲る事、また、控えめである様。」と書いてあり、つまりは良いも悪いも争いを避ける為に、主張に控え目の奥ゆかしさを出す日本独特の「まぁまぁ体質」である。

そうした感性がまったく無い外国人に「あいつ等、謙譲の美徳(控えめの美)と言うものを知らないのか?」と言った所で、その日本人気質が正しくて相手国人が悪いなどと言っても、他国に通用しない感性(気質)など主張しても一人善がりである。

他国では「良くぞ言った」と褒められる事を、独特な考え方「謙譲の美徳(控え目の美)」が強いから、たまに外交で強い主張をして相手を怒らせると、その主張をした者が「相手に対する配慮が足りない」と悪者にされる。

こんな日本国内意外は何処にも通用しない一人善がりを「最善の態度である」と考えているから相手にして見れば「余り主張しない大人しい奴等」で、他国から一方的に言われっ放しになる。

例えば、日韓両国の間で「日本が慰安婦の強制連行を認めた」と問題に成って居るのは1993年(平成5年)8月に河野洋平官房長官が発表した「慰安婦関係調査結果発表」に関する「河野談話」である。

世界中の何処にも通用しないのだが、日本人は何か事が起こった時に「イェス オア ノー」をはっきり言わずに「曖昧(あいまい)にする事が上等だ」と想っている。

だから言われ無き従軍慰安婦問題で韓国に責められた時、曖昧(あいまい)に「河野談話」で事を収め様として返って「日本が従軍慰安婦を認めた」と攻め立てられる根拠にされた。

本来、外交交渉に於ける日本の態度は、他国同様の「言うべき事はハッキリ言う」とする「国際標準」であるべきだが、日本式の「謙譲の美徳(控え目の美)」を、稚拙にも「そんな文化が無い相手」にまで発揮しようとする。

その根底に流れているのが、単一日本民族の成立過程で起こった三つ巴の多民族の地だった事に拠る対立回避の知恵だったからであるが、それ故に誓約(うけい)文化やそこから派生した氏族社会の稚児小姓(ちごこしょう)風習などで信頼関係の担保を構築する術(すべ)を考案した。

しかしお隣の中国では、対・不対(トェ・プトェ/はい・いいえ)や好・不好(ハオ・プハオ/良い・悪い)、米国ではイエス・オア・ノウが意志疎通の基本であるから、次回遭った時に日本の「検討します(考えて置きます)」の回答を請求する。

正に日本の常識は世界の非常識であるが、それを「相手国が理解している」と勝手に思い込んで日本外交は押し通そうとし、他国の信用を失いし続ける愚を犯している。

にも関わらず、仕舞いには「その位の事が何で判らないのだ」と逆に怒り出すのが日本人の世界的評価で、つまり日本人の国際化は、腹芸や以心伝心の意識を持ち続けている間は期待薄である。

まぁ、何処の民族、何処の国家も独善的ではあるから、互いにそれを言い立てても永久に話は噛み合わない。

もし日本と言う我が国が大人の民族・大人の国家なら、まずは己(おのれ)から改めるべきではないだろうか?

それとも今まで通り「日本の固有文化なのだから何が悪い」と、妖しげな建前を振りかざし続ける民族・国家なのだろうか?

詳しくは【日本人・その気質のルーツ】を参照して下さい。

関連参考文献
金と日本人】に飛ぶ。
家制度恥文化の規制的な行動制約】に飛ぶ。
良い加減・放棄と融合】に飛ぶ。
頑張る(がんばる)】に飛ぶ。
物造り大国・日本】に飛ぶ。
物造り大国・日本の矛盾】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2011-03-01 00:43 | Comments(0)