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古代豪族・滋野氏(しげのうじ)と四之宮権現の謎

滋野氏(しげのうじ)とは、清和天皇(第五十六代)の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)がその家祖とされるが、「尊卑分脈」には記載されておらず、その真偽は「多分に怪しい」との指摘もある。

清和天皇の第二皇子・貞固親王(さだかたしんのう)や貞秀親王を祖とする説や滋野東人・楢原氏(ならばらうじ/紀氏)系滋野氏説、大伴氏末流説など在り滋野氏(しげのうじ)の出自は定かではない。

古代豪族・紀(き)氏系流・深井氏に、清和天皇の第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)或いは第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が入る形で滋野(しげの)氏は成立している。

滋野氏と婚姻関係を結んだのは貞元親王(さだもとしんのう)ではなく弟の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)であると言う説もあり、「続群書類従」では貞元親王(さだもとしんのう)ではなく貞保親王(さだやすしんのう)としている。

しかし、当の白鳥神社で祀られているのは何故か貞元親王(さだもとしんのう)である。

この点、醍醐天皇(第六十代)から滋野姓を賜った善淵王(よしぶちおう)が禰津西宮(ねずさいぐう)に四之宮権現として祖父を祀っている事からすると、第三皇子の貞元親王(さだもとしんのう)ではなく第四皇子の貞保親王(さだやすしんのう)と言うのが正しいと想われる。

つまり清和天皇の第四皇子に貞保親王(さだやすしんのう)と言う人物がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれていた。

その貞保親王(さだやすしんのう)は琵琶の名手とされていて、宮中で琵琶を弾いていた時にその音の美しさに聞きほれて燕が迷い入り糞をし、その糞が皇子の眼に入って、眼病になった。

為に加沢の温泉に眼病治療に来ていて、深井某の娘を側女として生まれたのが海野氏と伝えられて居る。
この清和天皇の第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)と第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が信州上田の地で錯綜した伝説として定着している。

つまり信州上田地方・東部町禰津(ねず)の地、貞元親王(さだもとしんのう)の陵に把つた神社が山陵宮獄神社と言い、貞元親王(さだもとしんのう)が第三皇子にも拘らず四ノ宮権現とも言っている。

東部東深井深井正、深井信司氏の系図に拠ると、四ノ宮と言うのは貞元親王(さだもとしんのう)が清和天皇の「第四の二皇子と言う意味」としているが、別の「続群書類従」では貞保親王(さだやすしんのう)とあり、それならば四ノ宮権現の意味が判る。

上田市・田町に配当屋と言う物が在ったが、ここは、江戸時代まで琵琶法師その他芸能をもって生活をする人達の管理をする所であり、ここの管理は「深井氏が永くしていた」と言う。

第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)或いは第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が琵琶演奏の名手であり、禰津(ねず)の四ノ宮権現の前には巫女が沢山いた事、下之条の両羽神社にも巫女がいた事などから察するに、貞元親王の末と称する滋野氏なるものは芸能を伝える仕事をもって広域に広まって行った者達かも知れない。

この神域の巫女については、官人接待を目的とした「初期の娼妓」と言う平安期の歴史も存在し、この神域の巫女については、官人接待を目的とした「初期の娼妓」と言う平安期の歴史も存在し、神社=神楽=巫女舞い=芸能=神前娼婦(巫女)の図式が成立していた。

滋野氏流海野氏からは、望月氏・禰津(ねず)氏・ 真田氏らが分かれ、さらに会沢・塔原・田沢・矢野・岩下などの諸氏が分出した。

滋野姓禰津氏族・浦野氏については禰津氏の後裔説、海野氏の後裔説、清和源氏満政流・浦野氏説など諸説がある。

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by mmcjiyodan | 2011-05-27 02:32 | Comments(0)  

相良氏(さがらうじ)

相良氏(さがらうじ)は藤原南家(乙麻呂)の流れを汲み、平将門の乱に活躍した藤原為憲(ふじわらためのり)の後裔にあたる周頼が、平安期に遠江国・相良荘に住んだ事から相良氏を称し、工藤氏・伊東氏らと同族になる。

その相良氏(さがらうじ)は、鎌倉期に肥後国多良木荘の地頭職から勢力を築き、やがて最盛期には肥後国南部を支配した戦国大名である。

平安末期の遠江国・相良荘領主・相良頼景の時代に相良氏(さがらうじ)は伊豆で兵を挙げた源頼朝を無視して協力せず、その後も平家方に徹して頼朝に対して不遜な振る舞いを続けた為、鎌倉幕府が成立すると相良頼景は肥後国・多良木荘に追放された。

しかし相良頼景は、千百九十七年(建久八年)、鎌倉に行き許されて将軍・頼朝に謁見、ついで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、御家人の列に加えられて多良木荘の地頭に任命される。

さらに、相良荘に残っていた頼景の長男・長頼も二俣川の合戦(畠山重忠の乱)で手柄をたて人吉荘を与えられた。

相良頼景が領した多良木荘四ヶ村のあとは長頼の子・頼氏が継いで為に多良木荘の地頭・相良氏は上相良氏、人吉荘は長頼三男・頼俊が継承して人吉荘の地頭・相良氏は下相良氏と呼ばれる。

この上相良氏と下相良氏は、南北朝並立の時に多良木の上相良氏は菊池氏に通じて南朝方に属し、人吉の下相良氏は北朝方に付き、対立関係となった。

その後南朝方の弱体化と伴に上相良氏の勢力も弱まって終(つい)に北朝方に降伏、下相良氏の隆盛が際立つように成った。

室町時代の千四百四十八年、下相良氏の相良長続(さがらながつぐ)が上相良氏を滅ぼし、球磨・八代・葦北の肥後三郡の統一に成功する。
戦国時代に入ると相良義滋が現われて戦国大名化を果たし、義滋の後を継いだ相良晴広の時代には有名な分国法・「相良氏法度二十ヵ条」や「晴広式目十一ヵ条」を制定し、また明との貿易にも取り組んで相良氏は最盛期を迎えた。

晴広の子・相良義陽の代に入って、千五百八十一年に南から島津義久(しまずよしひさ)の侵攻を受けて降伏。

しかも同年に当主・義陽が甲斐(宗運)親直(阿蘇氏家老)と戦って戦死する。

相良氏は一時、滅亡の危機に立たされるも、義陽の次男・相良頼房が、家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けて活躍し、九州平定後、豊臣秀吉より人吉二万石の領主として存続を許された。

千六百年の関ヶ原の戦いで、頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返った為、戦後、徳川家康より所領を安堵され、相良氏は人吉藩として存続した。

相良氏(さがらうじ)は、相馬氏島津氏と並び、明治維新まで八百年以上領地替えされる事もなく続いた世界でも稀有な大名(領主)である。

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by mmcjiyodan | 2011-05-20 00:18 | Comments(0)  

阿蘇氏(あそうじ)と甲斐氏(かいうじ)〔一〕

ここで古代ヤマト王権(大和朝廷)成立以前から倭の国々の一つとして国主(くにぬし)を任じていたと想われる阿蘇氏(あそうじ)を取り上げて現在に到る経緯を御紹介する。

阿蘇氏(あそうじ)は、元は宇治姓を名乗る肥後国一の宮・阿蘇神社大宮司家で司祭的豪族として発祥し、後に大和の大王家大国主・朝廷)に従属し領地を献上して県主(あがたぬし)となった。

さらに県制(あがたせい)から国造制(くにのみやっこせい)への転換の中で、阿蘇国造(あそくにのみやっこ)と成った古代豪族である。

阿蘇神社は火山信仰と開発神とが結合したと言われる健磐竜命(たけいわたつのみこと)を祭神とする。

阿蘇氏はこの祭神の後裔と伝えられるが、「古事記」には神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)の皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)は阿蘇君らの祖とあり、祭神は神八井耳命の子とも伝える。

早くから神主であると同時に、阿蘇国造として祭政一致の国主(小君主)に発展、平安時代に宇治姓を名乗り、阿蘇谷を開拓して私営田領主に成長、延喜年間に宇治友成(うじともなり)が阿蘇大宮司となって以来、歴代この職(大宮司)を世襲した。

私営田領主・阿蘇君一族は、肥後だけでなく、讃岐・河内にひろまり、さらに京都に住んだものは阿蘇宿禰(あそすくね/宇治宿禰)姓を称し、後に朝臣(あそみ)姓にもなったらしくこの阿蘇氏の旧姓・宇治姓については、京都・宇治と言う地名とも関連を伺える。

但し、阿蘇宿禰(あそすくね/宇治宿禰)に付いて、「京都・宇治から肥後・阿蘇に下向した」とされるのは天孫降臨伝説に類する捏造で、時系列的にはそぐわない。

京都・宇治の県(あがた)神社は、古くは大和政権下に於ける宇治県主(うじあがたのぬし)に関係する神社と見られている。

その県(あがた)神社の祭礼「県(あがた)祭り」は暗闇祭りで俗に「種貰い祭」とも言われ、祭礼で行き会った多くの男女が性交に及び、妊娠すれば「神から子種をさずけられた」とした祭りだった。

また、宇治の語源も諸説あるが、因幡の白兎伝説や宇佐岐氏=宇佐神宮関連説などから、兎が群れて通ったケモノ道ならぬ「ウサギ道」に由来する「菟道(うみち)=宇治」の伝承となれば、阿蘇神社大宮司家で司祭的豪族・阿蘇氏の旧姓が宇治で在って不思議がない。

つまり宇佐神宮・宇佐氏にしても阿蘇神社・宇治氏にしても、白兎伝説の宇佐岐氏の分派が司祭的豪族として土着し、県主(あがたぬし)や国造(くにのみやっこ)として勢力を築いたのではないだろうか?

中世になると、阿蘇大宮司家から上島・恵良・坂梨・土田・竹崎・光永などの一族を分出した。

また何度も注釈を付けるが、神官の概念が現代の平和志向とは違い氏族は神官と武士の兼業の為に、阿蘇氏は菊池氏と並んで九州に於ける有力武士団に成長して行く。

阿蘇国造(あそくにのみやっこ)の後裔は、鎌倉時代になると阿蘇神社大宮司兼有力武士・阿蘇氏として一大勢力を築いて行く。

阿蘇氏は、元弘の変では菊池氏と伴に日向国・鞍岡で北条氏一門の規矩高政(きくたかまさ/北条高政)の軍と戦った事を認められる。

後醍醐天皇建武中興では阿蘇郡の本社領、甲佐・健軍・郡浦社の支配権が、本家・領家の支配権を含めて与えられた事から、大宮司の権威は強大となった。

千三百三十六年(建武三年)、後醍醐天皇に足利尊氏が反乱を起し敗れて九州に落ちて来ると、阿蘇惟直(あそこれなお)は菊池武敏(きくちたけまさ)とともに香椎多々良浜(かしいたたらはま/福岡市)で尊氏を討伐を試みる。

足利尊氏を討伐を試みた阿蘇惟直(あそこれなお)と菊池武敏(きくちたけまさ)だったが奮戦及ばず敗れ、惟直(これなお)は肥後へ退く途中に佐賀の小城で討っ手に追われ自刃して果て、弟の阿蘇惟成(あそこれなり)も戦死した。

その後、一族の恵良惟澄(えらこれずみ)が菊池氏とともに南朝方として積極的に活動した為、惟澄(これずみ)の声望が上がった事から、当主・阿蘇惟時(あそこれとき)は惟澄(これずみ)に大宮司職を譲る事となる。

しかし、惟澄(これずみ)の跡は北朝方の長子・惟村(これむら)と南朝方に廻った次子・惟武(これたけ)とがそれぞれ大宮司を称して対立、以後、惟村(これむら)の子孫は益城郡、惟武(これたけ)の子孫は阿蘇郡を支配して、室町期を通じて対立関係にあった。

南北朝合一後、千四百五十一年(宝徳三年)惟武系の惟歳(これとし)は惟村系の惟忠(これただ)の養子となる事で合意がなされるも、千四百八十五年(文明十七年)再び争い、惟歳が敗れて惟忠系が大宮司職を独占した。

この勢力を背景に、阿蘇惟憲(あそこれのり)の子・惟長(これなが)は、弟・惟豊(これとよ)に大宮司職を譲って、自らは衰退していた守護・菊池氏の弱みに付け込んで跡を襲封し、菊池武経(きくちたけつね)となった。

しかし、武経(たけつね)の子・惟前(これさき)は、大宮司職を望んで惟豊(これとよ)を阿蘇・益城郡堅志田城に襲い追放したが、惟豊(これとよ)は阿蘇・益城郡御船城主・甲斐親直(かいちかなお/宗運)を頼って益城郡の兵をもって阿蘇大宮司職を回復した。

阿蘇氏(あそうじ)と甲斐氏(かいうじ)〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-05-17 00:58 | Comments(0)  

菊池氏(きくちうじ)

菊池氏(きくちうじ)は、本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族で、系図上もそうした物が多い。

しかし菊池氏(きくちうじ)の本姓・藤原氏には疑問を持つ研究者も多く居て、藤原氏本姓説の真贋は不明である。

菊池氏(きくちうじ)には、菊池周辺に土着していた勢力・古代鞠智族(こだいくくちぞく)後裔説があり、鞠智(くくち)とは山の麓の谷から平野へ出る口を指すと言われる説で在り、つまり阿蘇氏(あそうじ)と並び古代ヤマト王権(大和朝廷)成立以前から肥後国に存在した部族の可能性もある。

菊池氏(きくちうじ)が中央に名を轟かせたのは、元弘の乱(げんこうのらん)後醍醐天皇に与力して活躍した菊池武重(きくちたけしげ)である。

菊池武重(きくちたけしげ)は、菊池千本槍(きくちせんぼんやり)の武功で戦前の忠孝教育に利用されて有名だった。

鎌倉時代後期、菊池武重(きくちたけしげ)の父・菊池武時は討幕運動に賛同して九州における北条氏勢力である鎮西探題の北条英時を攻めるが、英時に加勢した少弐氏や大友氏により討たれてしまう。

その後も菊池氏一族は後醍醐帝に助力、建武の新政に参加する。

しかし、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政から足利尊氏が離反し、一時後醍醐帝方に京都を追われた尊氏は九州へ逃れた時、少弐貞経の子の少弐頼尚が赤間関へ尊氏を迎えるために赴いたのに対して、後醍醐帝(宮方)勢力であった菊池武敏は大宰府を攻めて少弐貞経を滅ぼす。

その後の千三百三十五年(建武二年)、菊池武時の子・武重が新田義貞陣営に加わり足利勢の足利直義箱根・竹ノ下に対峙、有名な「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の奇功を成功させる。

この菊池千本槍が、後の戦法に大きな影響を残す新型の戦法である。

この菊池氏の後裔として有名なのは菊池流・垂水西郷氏で、明治維新の立役者・西郷隆盛を輩出している。

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by mmcjiyodan | 2011-05-15 19:59 | Comments(0)  

源義光(みなもとのよしみつ/新羅三郎義光)

清和河内源氏・源義光は新羅三郎義光と別名乗りを言い、近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服した事から新羅三郎(しんらさぶろう)と称し河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男である。

新羅三郎義光の母は平直方の女で、同腹の兄には、源氏の棟梁として最も著名な将軍・八幡太郎義家(石清水八幡宮で元服)や加茂二郎義綱(京都の賀茂神社で元服)がいる。

左兵衛尉の時、後三年の役に兄の源義家(八幡太郎)が清原武衡・家衡に兄弟に苦戦していると知るや、朝廷に完奏(願い出て)して東下を乞うたが許されず、千六十七年(寛治元年)に官を辞して陸奥に向かい、兄に助力して奥州(東北)平定に貢献する。

しかし長兄・源義家(八幡太郎)の死去後、源氏の棟梁奪取を企み次兄の源義綱(加茂二郎)を源義忠暗殺事件の冤罪で佐渡に配流、その配流先の佐渡で再び源為義の追討を受け義綱は自害するも真相が発覚し、義光は自らの勢力が強い常陸国に逃亡せざるを得なくなる。

河内源氏・源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家から甲斐源氏(武田氏)、甲斐源氏(若狭武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)や信濃源氏(平賀氏)、信濃源氏(加賀美氏流・小笠原氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。

甲斐源氏は、「新羅三郎」こと源頼光の三男・「源義光」の次男であった武田冠者・源義清は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市、旧勝田市武田)を本拠とし武田冠者を称しており、継子・源清光(みなもとのきよみつ)も武田郷で生まれて居る。

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by mmcjiyodan | 2011-05-13 18:05 | Comments(0)  

佐竹氏(さたけうじ)〔二〕

佐竹氏(さたけうじ)〔一〕】へ戻る。

室町時代になると、佐竹氏は早々と足利氏に呼応した事から守護職に任ぜられたものの、鎌倉公方を主君とした事で足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれる事も少なくなかった。

佐竹氏は室町期の鎌倉府の重鎮として活躍し、第三代鎌倉公方の足利満兼より関東の八つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられ、以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称を以って称された。

しかし、佐竹氏宗家の第十一代当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第十二代当主となると、佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く山入氏はこれに反発し、宗家に反旗を翻すこととなった。

山入氏が室町幕府と結んで佐竹宗家の常陸守護職を奪い山入の乱(山入一揆)を起こした事、さらには、名目上傘下に在ったものの実際には独立勢力で在った大掾氏や那珂氏(後の江戸氏)の存在などもあった事から、「佐竹氏の勢力基盤は脆弱であった」と言える。

こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れ、佐竹氏第十五代当主で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜(さたけよしきよ)が現れ、山入氏を討ち、漸く常陸北部の制圧に成功する。

しかし相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。

義舜(よしきよ)の曾孫で佐竹氏第十八代当主の佐竹義重(さたけよししげ)は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。

義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。

甲斐武田氏と同盟し(甲佐同盟)、北条氏とは千五百八十四年(天正十二年)に「沼尻の合戦」と呼ばれた沼尻(現在の栃木県栃木市)で対決している。

また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつ在った。

この為、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏(あしな)や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と千五百八十五年(天正十三年)、人取橋(現在の福島県本宮市)で「人取橋の戦い」と呼ばれる対決をした。

「人取橋の戦い」では、佐竹方は三万の大軍を率い、伊達方の十倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。

しかし佐竹義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉小田原の役に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、結城氏の所領の常陸国・土浦城、下館城一帯を除く常陸国の大半五十四万五千八百百石の大名として認められた。

水戸城の江戸重通は小田原の役に参陣しなかった為に所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。

漸く常陸国の大半を領する戦国大名に成った佐竹氏だったが、千六百年(慶長五年)に石田三成率いる豊臣西軍と徳川家康率いる東軍に拠る関ヶ原の戦いが起こると家中での意見がまとまらずに当主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)は旗色を鮮明にせず中立的な態度を取った。

戦後処理は翌千六百一年にはほぼ終了し、千六百二年(慶長七年)の三月には義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。

所が五月になると、義宣は出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)二十万五千八百石(実高は四十万石説有り)に減封の上で国替えを命じられる。

この処置は、関ヶ原の戦いに於いて家康を追撃する密約を「上杉景勝と結んでいた事が発覚した為」と言われている。

また別の見方では、徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏と目された上、合戦に直接参加していない為に軍団が無傷で残っており、脅威で在った事からとも言われている。

この徳川氏に拠る減封の上で国替えの処置で、佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。

しかも当初は、この処遇の際に出羽一国となる予定だったが、徳川家康の側近だった本多正信・正純親子に「半国で良し」と決められてしまった。

後に本多正純が「宇都宮城釣天井事件」で政争に負け失脚した時、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。佐竹氏に取って正純は減封国替えの仇がある相手である為、流罪にあたり「恩情をかける事は無い」と判断しての処置で、正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えた。

出羽国に移封した佐竹氏は、江戸時代を通じて久保田藩(秋田藩)を支配する外様大名として存続し、千八百八十四年(明治十七年)、佐竹氏宗家(旧久保田藩主)当主・佐竹義堯は侯爵に叙任されている。

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三百諸侯(さんびゃくしょこう)・江戸時代の大名家】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2011-05-12 11:04 | Comments(0)  

佐竹氏(さたけうじ)〔一〕

後に水戸徳川家の支配する地と成る、太平洋に面した関東と東北の境の地・常陸国には平安の昔から佐竹氏(さたけうじ)と言う土着勢力が在った。

佐竹氏(さたけうじ)は、清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流にて、武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。

甲斐源氏の一族と同じく源頼義の子で源義家の弟の源義光(新羅三郎)の子孫である義光流源氏の一族だが、佐竹氏の初代当主については、新羅三郎義光の子の源義業とする説と、義業の子の源昌義とする説がある。

源昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗ったことから昌義を初代当主とする説が一般的である。

なお佐竹の家名については、常陸太田市にある佐竹寺で「源昌義が節が一つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称した」と言う話が伝わっている。

佐竹氏は平安時代の後期に、既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し、常陸に強い勢力を持つ大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。

また、中央では伊勢平氏と東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。

伊勢平氏・平清盛と清和源氏・源頼朝が関わった治承・寿永の乱に於いては、佐竹氏は清和源氏の一族にも関わらず平家に与した為に源頼朝によって所領を没収された。

後に頼朝に従って奥州合戦に加わって領主に復帰するが、その際に源家の印である無地の白旗を持参した所、棟梁・頼朝の旗と等しかった事から紛らわしいとの理由で、白旗に月を描い扇を旗の上に付けるよう命じられ、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いる事になる。

鎌倉時代に於いては、奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得した為、佐竹氏は土着土豪として不遇の時代を過ごす事になる。

佐竹氏(さたけうじ)〔二〕】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2011-05-12 11:02 | Comments(0)  

相馬氏(そうまうじ)

桓武平氏良文流・千葉氏の支流にあたる相馬氏(そうまうじ)は、下総国、陸奥国(後の磐城国)を領した一族である。

この相馬氏(そうまうじ)が、領主として七百年以上もの永い間統治する実績を残し、相良氏、島津氏とともに世界史上にも珍しい領主となる。

相馬氏初代の相馬師常(そうまもろつね)は、鎌倉時代初期の武将・千葉常胤の次男で、師常が父・常胤より相馬郡相馬御厨(現在の鎌ケ谷市、柏市、流山市、我孫子市、野田市の一帯)を相続された事に始まる。

相馬御厨(そうまみくりや)は平忠常以来の房総平氏の代々の土地で、上総氏(かずさうじ)の祖である常晴が既に相馬氏を称し、その相馬常晴の子・常澄(父親と折り合いが悪く家督は継がなかった)も相馬六郎と号し、また常澄の子・常清も相馬氏を称していた。

鎌倉初期、上総広常の失脚と共に千葉師常が相馬御厨(そうまみくりや)の地に据え、それに因んで相馬氏を称し、常清の系統は姓を相馬氏から角田氏に改めている。

相馬師常(そうまもろつね)には、平将門(たいらのまさかど/相馬小次郎)の子孫である篠田師国の養子に入り、将門に縁の深い「相馬御厨(そうまみくりや)を継承させた」とする伝承がある。

但し、将門が本拠としていたのはもっと北の豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかなく相馬氏による相馬郡支配の正当化を図る為のこじつけとする見方もある。

相馬師常の子孫は相馬御厨を中心として活動していたが、四代胤村の死後、後を託した後妻の子・師胤(五代)と先妻の子・胤氏とが家督を争った。

相馬師胤(そうまもろたね)は父の譲状を鎌倉幕府に提出したが幕府はこれを認めず、胤氏(たねうじ)を継承者として認めた。

この為、師胤の子・重胤(しげたね/六代)の代に所領として許された陸奥国(磐城)行方郡に入り、胤氏一族は下総に残留して下総相馬氏となる。

この両家はその後も所領争いを繰り返し、後の南北朝の戦いでは奥州側は北朝方、下総側は南朝方であった。

奥州の相馬氏は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州に領地を受けた後、千葉一族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州に於いて数少ない北朝方の一族として活躍したものの、南北朝の争乱が収まるとやや衰退する。

室町時代後期に標葉氏を滅ぼしたものの、それでもなお、戦国時代初期には、行方郡・標葉郡・宇多郡の三郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。

しかし、武勇に秀でた当主が続き、更に独立心が旺盛で、奥州の大名・伊達氏、更に関東の大名・佐竹氏に対しても一歩も退かず、伊達氏とは三十度以上にわたって抗争を続け、たびたび苦杯を舐めさせている。

やがて伊達氏に伊達政宗が現われ、南奥州の諸大名が政宗の軍門に悉く降った時も、相馬氏は敗戦したとはいえ、独立を維持し伊達氏と戦う意地を見せた。

奥州相馬氏と下総相馬氏は、千五百九十年(天正十八年)豊臣秀吉に拠る小田原の役でも敵対関係となり、奥州側は豊臣方について本領を安堵され大名として残ったのに対し、下総側は小禄の旗本として衰退、両相馬が正式に和解したのは十八世紀に入ってからとされている。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いて中立して勝敗を見定めるも、豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣 の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていた為に西軍寄りとみなされる。

為に戦後徳川氏により一旦改易されたが、これを訴訟を起こして凌ぎ切り、再び本領安堵にこぎつけて近世大名として生き抜く事に成功した。

その後も、秋田に転封された佐竹氏とは養子を送り合うなどして補完関係を築き、奥州相馬氏は福島県相馬地方を明治時代にいたるまで、実に七百年以上もの長い間統治し、相良氏(さがらうじ)島津氏とともに世界史上にも珍しい領主として知られる。

相馬氏は下総、陸奥の他にも分家、諸族は日本全土に拡散しており、彦根藩・井伊家に仕えた一族の末裔からは相馬永胤(そうまながたね)を輩出している。

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by mmcjiyodan | 2011-05-11 02:52 | Comments(0)