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マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)

共生村社会の村落に於ける寝宿制度夜這い制度には、村落の人口維持や若者の性欲処理の需要があり、実は一対一の性交ばかりでは無い。

つまり「寝宿」では男女複数参加の乱交も行われたし、「夜這い」にも於いてもターゲットの女性宅に「一緒に行こう」と男共が連れ立って出かけて行く事も多かった。

その制度で為した子が村全体の子である為には、敢えて父親を特定されない為にマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などのマルチ傾向は一般的だった。

実はこの性交に関するマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などのマルチ傾向は、勿論個人差は在るが人類の生い立ち経緯そのものと関わる原始生殖習慣にその起因を見、人類学上では不思議は無い。


何と成れば、今でも本能としては進化過程の名残が残っているのだが、人類の元々の自然な資質を考察すると「群れ社会性の生き物」で、当然ながら本能的には「群れ婚」が基本だった。

つまり群れ内は乱交状態が永く続いた種だから、右脳域(感性)的本性にはマルチ傾向にそう違和感がある訳ではない。

しかし人類の生活形態が、次第に「群れ」から「家族」に変化して行く過程で家族単位の維持が必要になり、左脳域(理性)的にマルチ傾向の本能を否定するように成った。

それでも平安中期頃まで「呼ばい婚(夜這い婚)」が主流で、女性の家に男性が通う形の実質女性側に選択権が在る一妻多夫状態のマルチ婚姻形態だった。

そして、「歌垣(うたがき)」と言う名の野外乱交の場に夫婦で出かけて行って歌を詠み合って刹那の相手を探し、実行する遊びをしていた。

この「歌垣(うたがき)」の性習慣は平安貴族に於ける夫婦揃っての合意の上の遊びで、原資生殖習慣であるマルチ傾向の本能に「自然に対応していた」とも採れるのである。

詳細は、【右脳・左脳とベータ・エンドロフィン美しくなれる興奮の解説】に飛ぶ。
夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶを参照。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

類人猿・ボノボ こそ、争いを回避する知恵の原点】

性文化史関係説一覧リスト】をご利用下さい。

詳しくは・小論【ホモサピエンス(知性人)の「種の保存と遺伝子」】を参照下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2011-06-16 16:56 | Comments(0)  

間部詮房(まなべあきふさ)

間部詮房(まなべあきふさ)は甲府藩主・徳川綱豊(のちの第六代将軍・家宣/いえのぶ)の家臣・西田清貞の子として生まれる。

始め西田詮房(にしだあきふさ)と称し猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、千六百八十四年(貞享元年)に甲府藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)の用人になる。

家系が藤原北家魚名・山蔭流間鍋氏で在った西田詮房(にしだあきふさ)は西田から間鍋に改名し間鍋詮房(まなべあきふさ)を名乗ったが、徳川綱豊の命によって間部氏となる。

先代・五代将軍・綱吉が継嗣に恵まれなかった為、綱豊(つなとよ)が四十三歳の時に将軍世嗣として「家宣(いえのぶ)」と改名し、江戸城西の丸に入った。

徳川綱豊(家宣/いえのぶ)の江戸城西の丸城入に伴ない甲府藩は解体、甲府徳川家の家臣団は幕臣に編入される。

その幕臣に編入された家臣団の中に、後に将軍・家宣の側衆から上野国高崎藩主に出世する間部詮房(まなべあきふさ)や「正徳の治」を断行した儒学者・新井白石の名も見える。

詮房(あきふさ)は側衆になり、千五百石加増を皮切りに累次加増され、千七百六年(宝永三年)には、相模国内で一万石の大名となり、後に加増を重ね高崎藩・五万石を得ている。

大名家に於ける「藩主腹心の部下」を醸成するシステムについては大方二つの形態が在る。

その一つが八代将軍・吉宗に代表する傅役(もりやく)・加納(五郎左衛門)久通の様な存在で、今一つは五代将軍・綱吉に代表する柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の様に夜伽(よとぎ/性的奉仕)衆道(しゅうどう/男色)相手の稚児小姓を務めて腹心の部下に成る方法だが、間部詮房は六代将軍・家宣の四歳年下と言う事で、明らかに後者の「小姓を務めて無二の信頼を得た」と考える方が無理が無い。

新井白石(あらいはくせき)の正徳の治は、六代将軍・家宣(いえのぶ)を後ろ盾に押し進められてが、白石(はくせき)の身分(本丸寄合の無役)が低かった為、一々側用人・間部詮房(まなべあきふさ)を通して将軍への進言が為されている。

絶大な権力を握っていた間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石だったが、六代・家宣(いえのぶ)亡き後七代を継いだ徳川家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が八代将軍に就任すると、吉宗側近のチーム吉宗に取って代わられ両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚する。

間部詮房(まなべあきふさ)は、失脚後も大名としての地位を剥奪される事はなく、領地を高崎から遠方の村上藩(新潟県村上市)に左遷され、新井白石は江戸城中の御用控の部屋と神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、深川一色町(江東区福住)の屋敷に移るが、後に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。

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by mmcjiyodan | 2011-06-02 02:30 | Comments(0)  

徳川家宣(とくがわいえのぶ)

六代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)は甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相/徳川家光の三男)の長男である。

伯父である四代将軍・徳川家綱(第三代征夷大将軍・徳川家光の長男)の偏諱を受けて「綱豊(つなとよ)」と名乗るが、父・綱重の死去を受け十七歳で甲府藩主の家督を継承していた。

四代将軍・徳川家綱に子供が無かった事から、家綱重体の折に五代将軍継承の有力候補になるも三代・家光に血が近い上野館林藩主・綱吉(三代将軍・家光の四男)が五代将軍に推される。

所が、五代将軍になった綱吉にも世嗣恵まれず、挙句に地震や噴火と天変地異に脅かされ寺社に傾倒して「生類哀れみの令」など悪政に到るも信心の効無く、綱吉娘婿・徳川綱教を後継候補にしていた。

その娘婿・徳川綱教が死去した為、綱豊(つなとよ)が四十三歳の時に将軍世嗣として「家宣(いえのぶ)」と改名し、江戸城西の丸に入った。

徳川綱豊(家宣/いえのぶ)の江戸城西の丸城入に伴ない甲府藩は解体、甲府徳川家の家臣団は幕臣に編入される。

その幕臣に編入された家臣団の中に、後に将軍・家宣の側衆から上野国高崎藩主に出世する間部詮房(まなべあきふさ)「正徳の治」を断行した儒学者・新井白石の名も見える。

少し前の時代に遡るが、この五代将軍・徳川綱吉の治世に徳川幕府としては最大の好景気時代・元禄を迎えている。

しかし未曾有の好景気は、後の時代の浪費や不正を育てる温床でもある。

その浪費や不正は、綱吉以後の幕府財政悪化に成って現れ、六代将軍・家宣(いえのぶ)、七代将軍・家継の二代に渡る新井白石の「正徳の治」の失敗を招いている。

何故なら、「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動するから」である。

絶大な権力を握っていた間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石だったが、六代・家宣(いえのぶ)亡き後七代を継いだ徳川家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が八代将軍に就任すると、吉宗側近のチーム吉宗に取って代わられ両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚する。

間部詮房(まなべあきふさ)は、失脚後も大名としての地位を剥奪される事はなく、領地を高崎から遠方の村上藩(新潟県村上市)に左遷され、新井白石は江戸城中の御用控の部屋と神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、後にに幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。

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by mmcjiyodan | 2011-06-01 19:23 | Comments(0)